『弁証法とは何か』より

 

 

第三講 予備概念 ②

 

一、「B 客観にたいする思想の第二の態度」

経験論とカント哲学

 「B 客観にたいする思想の第二の態度」では、経験論とカントの批判哲学がとりあげられています。どちらも「古い形而上学」と異なって、絶対的真理はとらえられないという共通の立場に立っているところから、一まとめにして「第二の態度」として批判の対象とされているのです。
 経験論とは、ロック、ヒューム、バークリーの「イギリス経験論」を指しています。
 経験論は、形而上学への批判から生まれたものです。古い形而上学では、例えば、「魂は単純である」(三七節補遺)と規定して、肉体のように複合的なものではないととらえています。これは思想によって無限なものの真理をとらえようとするものです。しかし「抽象的な単純性というようなものは、きわめて貧しい規定であって、そんなものによっては、魂および更に進んでは精神の豊かさは決して把握できない」(同)のです。
 形而上学における悟性的思惟では、「魂」の抽象的な普遍である「単純性」の認識にとどまり、この抽象的普遍がもつ豊かさという「普遍の特殊化まで進むことができない」(同)ので、その不十分さが明らかとなります。そこでこの単純性を克服して具体的な内容を求め、具体的事物のもつ豊かさを認識のうえに反映させようとする経験論が登場することになるのです。
 経験論は、古い形而上学と同じように認識の唯一の源泉は経験にあると考えます。しかし経験を越えるものには真理を認めようとしないという限界をもっているために、国家や社会などの「真にあるべき姿」を問題にすることができないのです。
 次のカント哲学は、ヘーゲル哲学にとって特別に重要な意義をもっています。というのも、ヘーゲル哲学はカント哲学の批判のうえに成立しているからです。カントからフィヒテ、シェリングを経てヘーゲルに至るドイツ古典哲学は、いずれもフランス革命の洗礼を受け、その本質をどう哲学的に総括するかを根本思想にして誕生したものです。
 「この世界史上の偉大なる時期に ── その最も内なる本質が何であるかを概念的に把握することは歴史哲学に於ける課題であろうが ── ただ二つの国民のみが参加した。即ちドイツ国民とフランス国民とがそれであって、……ドイツに於てはこの原理は思想や精神や概念として発現し、フランスに於ては現実そのものの中に勃発したのである」(ヘーゲル『哲学史』下巻の三、五五ページ、藤田健治訳)。
 フランス革命は、「自由、平等、友愛」という理念を高く掲げてたたかわれましたが、結局挫折せざるをえませんでした。ここから「思惟のしたことと言えば、国家と宗教を破壊したにすぎない」(一九節補遺三)とする理性への不信が生まれ、「人々は、思惟はあまりに思いあがっており、思惟にはそれが企てることをなしとげる力はないことを発見したと主張した」(同)のです。ヘーゲルは、その一例としてカントの不可知論をあげています。ヘーゲルは、カントの不可知論を批判し、国家、社会の「真にあるべき姿」は認識においてとらえうるし、必然的に現実に転化しうるという革命的立場を対置したのです。そして自らの哲学を、絶対的真理を実現しうる「絶対的観念論」と位置づけたのです。
 以上を前提として、まず経験論とその批判からみていくことにしましょう。

「経験論」とは何か

 経験論とは「真理を思想そのもののうちに求めないで、真理を経験から、すなわち、われわれの内および外に現前しているものから取り出そうとする立場」(三七節)を意味しています。
 イギリス経験論を代表するロックは、生まれたばかりで何らの経験も経ていない人間は「タブラ・ラサ」(何も書かれていない白板)であるとして、スコラ哲学にいう神とか実体といった「生得観念」を否定するという点では、積極的役割を果たしました。
 「われわれの内および外に現前しているもの」とありますが、経験のうちには、「外」にある客観的事物に媒介された感性的、個別的なものと、「内」にある思惟でとらえられた個別的なものがもつ普遍性、必然性という二つの要素が含まれることを、このように表現しているのです。
 こうした経験論のうちには、「真実なものは現実のうちにあり、かつ知覚されていなければならないという偉大な原理」(三八節)があります。そもそも序論の第六節でお話ししたように、「哲学の内容は現実」(六節)であり、「この内容を最初に意識するものがいわゆる経験」(同)だからです。
 「経験論と同じく、哲学もひたすら存在しているものを認識するものであって(第七節をみよ)、単にあるべきもの、したがって現に存在しないものは哲学の知るところではない」(三八節)。
 ヘーゲルは、経験のなかにある「内」なる側面をとらえて「経験論には自由という重要な原理が含まれているのを認めなければならない」(同)といっています。これは経験によってとらえられる普遍性の認識が、客観的事物に直接的に媒介されたものではなく、思惟の自由な働きにもとづくことを指摘したものです。
 しかしこの「内」なる側面には、観念論への傾斜につながるものが含まれています。こうして経験論者バークリは、「我々が物と称ぶ一切のものの存在はただその知覚されてある事である」(『哲学史』下巻の三、七ページ)とする観念論者となったのです。したがって経験論は、この「内」にとらえられた普遍性を客観に由来するものとするのか、それとも主観に由来するものとするのかにより、唯物論になったり観念論になったりするのです。

経験論の批判

 先に一言したように、経験には二つの側面があります。一つは、「個々ばらばらの無限に多様な素材」(三九節)であり、もう一つは「普遍性および必然性という規定」(同)です。
 前者は「表象」されたものであり、後者は表象を思惟によって「思想」に転化したものです(三節、二〇節参照)。いわば経験には、表象と表象の思想への転化という二つの要素が含まれているのです。
 ところが経験論は、経験のなかには思惟による表象の思想への転化が含まれているにもかかわらず、これを認めようとしないのです。第二講でもみたように、「経験は、継起する諸変化あるいは併存する諸対象にかんする知覚」(三九節)を示すのみであって、運動による「必然の連関」を示さないのです。知覚を超える「普遍性および必然性は不当なもの、主観的な偶然、その内容がどうにも変わりうる単なる習慣」(同)としてしかとらえません。経験における普遍性(本質、法則、類など)と運動の必然性の認識は、客観に由来するものではなくて、主観に由来する「不当なもの」として否定してしまうのです。
 それだけではありません。経験論という思惟形式は、知覚される有限な客観的事物はとらえうるとしても、知覚を超える無限な客観の真理はとらええないのです。人間の精神活動の産物である法、道徳、市民社会、国家などは、そのすべてを経験し、知覚することはできない無限な客観であり、国家、社会の真にあるべき姿もまた無限の真理です。したがって経験論という思惟形式は、法、道徳、市民社会、国家などの必然性およびその真にあるべき姿を論じることができず、それらはすべて主観的な偶然に委ねられ、真理を論ずることができないことになってしまいます。
 「ここから生ずる一つの重要な帰結は、こうした経験的な仕方においては、法的規定や倫理的規定や法則や、および宗教の内容さえも偶然的なものと考えられ、それらの客観性および内的真理は棄てられてしまうということである」(同)。
 ですから経験論にたつかぎり、「われわれは与えられたものをそのままに受取らなければならないのであって、それが果してそれ自身理性的であるか、またどの程度理性的であるか、というようなことを問題にする権利はない」(三八節補遺)ことになるのです。
 結局、経験論とは、国家、社会などの真理を問題にしえない「不自由の学説」(同)にほかなりません。

 

二、「批判哲学」(カント哲学)の批判 ①

カントとフランス革命

 カント(一七二四~一八〇四年)は、一七八九年のフランス革命の勃発から、ジャコバン独裁、テルミドールの反動、ナポレオンの帝政(一八〇四年)までほとんどその全過程を見とどけています。
 フランス革命は自由の精神を掲げてたたかわれました。
 「カント哲学の真実なる点は自由を容認せる事にある。既にルソーが自由の中に絶対者をば掲げていたが、カントもまた同一の原理を掲げた、ただ然しむしろ理論的な側面からである」(『哲学史』下巻の三、七二ページ)。
マルクスも、カント哲学を「フランス革命のドイツ的理論」(全集①九三ページ)といっています。
 しかし、カントは、理性による絶対的真理の認識を否定し、結局不可知論へと向かうことになりました。
 カントの哲学体系は、人間は果たして絶対的真理を認識しうるのかという認識能力(認識論)を問題とした『純粋理性批判』を中心としつつ、人間はいかに生きるべきかを問題とした『実践理性批判』、理想と現実の関係を論じた『判断力批判』の三部から成っています。ヘーゲルの批判はこの三部の全体にわたって展開されていますが、とりわけ、カント哲学は現象の世界と、「絶対的なもの」「物自体」の世界とを区別し、前者は認識しうるものの後者は認識しえないという二元論の立場にとどまったと批判しています。そうして、カント哲学の二元論を否定し、絶対的真理の認識を肯定するヘーゲル哲学が成立したのです。ヘーゲルは、カント哲学を一言で総括するならば、「主観的観念論」(四五節補遺)であり、これに対して自分の哲学を「絶対的観念論」(同)と表現しています。これからその意味するところをじっくりみていくことにしましょう。
 重要なことは、ヘーゲルが自己の「絶対的観念論」も含めて、哲学の歴史を否定の否定の積み重ねによる人類の真理認識の弁証法的発展としてとらえているところにあります。「序論」に述べているその箇所を、もう一度紹介しておきましょう。
 「哲学の歴史が示すことは、異った姿をとってあらわれるさまざまの哲学体系は、発展段階を異にする一つの哲学にすぎないということであり、それぞれの体系の基礎にある特殊な原理は、同じ一つの全体の枝にすぎないということである。時代から言って最後の哲学は、それに先行するあらゆる哲学の成果であり、したがってあらゆる哲学の原理を含んでいなければならない。それゆえにそれは、それが哲学であるかぎり、最も発展した、最も豊富な、最も具体的な哲学である」(一三節)。
 ヘーゲルは、カント哲学の批判のうえにたったヘーゲル弁証法こそ「時代から言って最後の哲学」であり、「それに先行するあらゆる哲学の成果」として、「最も発展した、最も豊富な、最も具体的な」最高の真理をとらえうる思惟形式だといいたいのです。

「批判哲学」の批判序論

 ヘーゲルのカント批判は、序論(四〇~四一節)、『純粋理性批判』の批判(四二~五二節)、『実践理性批判』の批判(五三~五四節)、『判断力批判』の批判(五五~六〇節)、結論(六〇節)という五つに分かれる構成をとっています。この構成を量的に比較するだけでも、批判の中心がカントの認識論である『純粋理性批判』にあることが分かります。まず序論からみていきましょう。
 「批判哲学は、経験論とともに、経験を認識の唯一の地盤と考えるが、しかしそれを真理とはみないで、現象の認識にすぎないと考える」(四〇節)。
 カントは、経験という「認識の唯一の地盤」をつうじてとらえうるものは、現象の真理にとどまると考えたのです。
 カントの認識論は、まず経験からくる認識のなかには「感性的素材」(同)と「普遍性および必然性」(同)という二つの要素が含まれているという正しい指摘をしています。
 経験論も、経験にはこの二つの要素が含まれていることを認めながら、「普遍性および必然性は不当なもの、主観的な偶然、その内容がどうにも変りうる単なる習慣」(三九節)にすぎないととらえたことは、先にお話ししました。これに対してカントは、感性的認識は、多様な存在である客観的事物が認識のなかにそのまま反映したものであるのに対し、普遍性、必然性の認識は、客観的事物そのものがもっているものではなくて、人間が先天的にもっている主観的な認識能力、思惟形式から生まれるものだととらえました。これがカントの「コペルニクス的転回」といわれるものであり、ここにカントの認識論の最大の特徴があります。
 「批判哲学によれば、この要素(普遍性および必然性 ── 高村)は経験そのものからは生じないから、それは思惟の自発性に属する。言いかえれば先天的である。 ── 思惟規定すなわち悟性概念が経験認識の客観性を構成する」(四〇節)。
 もちろんこの観念論的な見解は正しくありません。普遍性、必然性も当然客観的事物そのものに含まれているのであり、後に述べますが、ヘーゲルもそのように唯物論的にとらえています。それはさておいて先に進むことにしましょう。
 この人間のもつ先天的な「思惟規定」、思惟形式は、カントによってカテゴリーとよばれます。
 カントは、この「悟性概念の価値」(四一節)を問題にし、それが「どの程度真理の認識へ導きうるか」(同補遺一)を検討するという重要な問題提起をしています。
 しかし、せっかく重要な問題提起をしながら、「思惟規定を即自かつ対自的に考察せず、それらを主観的か客観的かという見地のもとにのみ考察するという根本的な欠陥」(同補遺二)を伴っていたのです。
 一般には客観とは、「われわれの外部に存在」(同)するものの意味で用いられますが、カントは、独自の意味合いをもたせています。すなわち、カントは、主観である思惟そのものを、さらに主観的なものと客観的なものの二つにわけ、そのうえで、「単に感覚されたものを主観的」(同)とよび、「思想的なもの(普遍的かつ必然的なもの)を客観的」(同)とよびました。
 これは、感覚によってではなく、思想によってこそ真理を認識しうるとする見地であって「全く正しい」(同)のですが、「カントの言う思惟の客観性」は、「やはりわれわれの思想にすぎず、物自体とは越えることのできない深淵によって区別されている」(同)にとどまるという限界をもっています。その意味では、「カントの言う思惟の客観性は、結局また主観的なものにすぎない」(同)ことになってしまうのです。つまりカントのカテゴリーは、あくまで人間が先天的にもつ認識能力としての限界により、現象は認識しうるものの、「物自体」という絶対的真理は認識しえないとしている点において、「思惟の客観性」も無限な真理をとらええないとする限界をもっているのです。
 こうした総括的批判のうえに、ヘーゲルはカント哲学の具体的批判に入っていきます。

『純粋理性批判』の批判

 カントが『純粋理性批判』において取り上げているのは、人間の「理論的能力、認識そのもの」(四二節)の限界の問題です。
 まずカントは、客観的事物の普遍性および必然性を認識するのは、人間が先天的にもつカテゴリーという思惟形式によって、多様なものを「一つの意識として自己のうちで結合する」(同)のであり、その働きを「純粋統覚」にもとづく「自己意識の先験的統一」(同)とよんでいます。そしてこの先験的統一をもたらすカテゴリーを「純粋悟性概念」(同)とよんでいます。こうしたカテゴリーとして、量(統体性、数多性、単一性)、質(実在性、否定性、制限性)、関係(実体性、因果性、相互作用)、様相(可能性、現実性、必然性)の計十二種類のカテゴリーを見いだしました。
 これに対してヘーゲルは、まず「たとえカテゴリー(例えば統一、原因と結果、等々)が思惟そのものに属するにしても、このことから、カテゴリーは主観的なものにすぎず、対象そのものの規定ではないという結論は決して生じない」(同補遺三)といって、カテゴリーという思惟形式の先験性それ自体を否定しています。
 思惟するということは、確かに世界の実在性をつきくだき、「観念化」(同補遺一)することなのですが、「多様のうちへ絶対的な統一を導入するものは、自己意識というような主観的作用ではな」く、「この同一はむしろ絶対者そのもの、真実在そのものである」(同)といっています。
 つまり、普遍性、必然性という多様性のうちの同一は、主観の働きの産物ではなく、客観的事物のうちに存在する「真実在」を主観が認識するにすぎない、との唯物論的批判を加えているのです。もっともヘーゲルは、「この同一はむしろ絶対者そのもの」であり、「言わば絶対者の仁慈」(同)であるという観念論的言い方もしていますが、この絶対者は「客観的事物の絶対的真理」の意味に理解すればいいでしょう。

カントの「物自体」

 カントの認識論上の真の問題はその先にあります。
 「カントによれば、一方単なる知覚が客観性、経験へまで高められるのはカテゴリーによってであるが、他方これらの概念は、主観的意識にのみ属する統一体であるから、与えられた素材によって制約され、それだけでは空虚であって、経験にしか適用できないものである」(四三節)。
 つまり、カントによれば多様な個別が経験をつうじて知覚され、その多様な知覚を先天的にもっているカテゴリーで統一しようというのですから、カテゴリーは経験しうる客観的事物という「与えられた素材によって制約され」、経験を越える客観的事物には適用できないことになってしまうのです。
 「だからカントによれば、カテゴリーは、知覚のうちには与えられていないような絶対的なものの規定であることはできず、したがって悟性すなわちカテゴリーによる認識は、物自体を認識する能力を持たない」(四四節)。
 カントによれば、このカテゴリーは経験をつうじて得られる認識にしか適用することができないのですから、せいぜい得られるのは「現象の認識にすぎない」(四〇節)のであって、経験を越える「絶対的なもの」「物自体」を認識することはできないというのです。これがカントの二元論といわれるものです。このように人間の認識能力には限界があるとするところから、カントは「不可知論」者だといわれているのであり、ここにヘーゲルの批判は集中するのですが、その前にヘーゲルはいくつかの問題を検討しています。
 まず最初は「物自体」の問題です。「物自体」というのはカントの独特の用語であり、カント哲学の「つまづきの石」とも呼ばれるものです。カントによれば、「物自体」は「知覚のうちには与えられていないような絶対的なもの」(四四節)であり、経験にしか適用できないカテゴリーをもってしては認識しえないものを意味しています。
 これに対してヘーゲルは、カントの「物自体」というのは、客観的事物のなかから、それがもっている諸性質を取り除いた「全く空虚なもの」(同)であり、こんなありもしない「空虚な自我の産物」(同)を認識しえないのは当然のことだと批判しています。
 エンゲルスは、カントの不可知論という「哲学的妄想」にたいする「最も適切な反駁は、実践、すなわち、実験と産業とである」(全集㉑二八〇ページ/『フォイエルバッハ論』三五ページ)とし、不可知論は「科学的には退歩であり、実践的には、唯物論をかげではうけいれて世間のまえでは否認する、はにかみやのやり方にすぎない」(同二八一ページ/同三六ページ)と批判しています。
 続いてヘーゲルは、カントが認識能力には限界があるとする根拠について批判を加えています。
 「カントによれば、経験的知識が制約されたものであることを洞察するものは、制約されていないものの能力である理性である。……カントはこのような無制約者を理性の絶対的真理(理念)と考えるから、経験的認識は真実でないもの、現象と考えざるをえない」(四五節)。
 カントは、「悟性」と「理性」とを明確に区別するという功績を残しました。「悟性の対象は有限で制約されたもの」(同補遺)であるのに対し、「理性のそれは無限で制約されぬもの」(同)であるという区別です。
 では、このように区別したうえで、理性は絶対的真理を認識しうるというのかといえばそうではなく、理性は「無限で制約されぬもの」という一歩高い立場から、「悟性の認識の有限性を主張し、その内容を現象と呼」(同)ぶという「消極的な成果に立ちどまって」(同)いるのです。これでは、悟性と理性とを区別する意味はあまりないことになってしまいます。
 「このように理性を単に悟性の有限性および制約性を越えるものとのみ考えると、そのために理性そのものも実際は有限で制約されたものにひきさげられてしまう。というのは、真に無限なものは有限なものの単なる彼岸ではなくて、有限なものを揚棄されたものとして自己のうちに含むものであるからである」(同)。
 こうしてヘーゲルは、カントが絶対的真理を理念(イデア)として理解しながらも、それを人間の到達しえない単なる主観的なものにすぎないととらえたことから、カント哲学を「主観的観念論」(同補遺)つまり「主観的理想主義」とよんで批判し、それに対置して、絶対的真理を認識しうるとした自己の哲学を「絶対的観念論(アプゾリューター・イデアリスムス)」(同)つまり「絶対的理想主義」とよんだのです。ヘーゲルの絶対的理想主義とは、客観をつうじて主観のうちにとらえられたイデア(概念)は必然的に客観に移行し、理想と現実の統一を実現するという理想主義なのです。
 結局カントは、理性が絶対的真理をとらえることを否定することによって、理性への不信頼を示すにとどまったのです。
 ヘーゲルは、このカントの不可知論について「昔から最も恥ずべく無価値なこととされていたところの真理の認識の放棄は、われわれの時代によって精神の最高の勝利にまで高めあげられている」(聴講者にたいするヘーゲルの挨拶)と厳しく批判しています。

カントの「アンチノミー」批判

 さらにカントは、カテゴリーによってこの絶対者、物自体を認識しようとしたらどうなるかについて筆をすすめ、そのとき認識は矛盾をきたし破綻せざるをえないというのです。
 「認識するとは、或る対象をその特定の内容にしたがって知ることにほかならない」(四六節)のですが、特定の内容を知ろうと思えば、「それはカテゴリー以外にはない」(同)ことになります。しかしカテゴリーは、有限なものにしか適用しえないのですから、「理性がカテゴリーをそのために用いようとすると、それは高踏的(超越的)とな」(同)り、矛盾をきたさざるをえないというのです。
 これが有名なカントの「アンチノミー」(二律背反・矛盾)といわれるものです。
 ヘーゲル哲学にとって、「矛盾」という思惟形式はきわめて重要な意義をもつカテゴリーであり、「理性的なもののうちに措定される矛盾が本質的であり必然的であるという思想は、近代の哲学の最も重要な、最も根本的な進歩の一つとみられなければならない」(四八節)とされています。
 しかし、カントは、せっかく矛盾を問題としながら「世界の本質は矛盾というような欠点を持っているものであってはならず、矛盾はただ思惟する理性、精神の本質に属するにすぎない」(同)という平凡な結論を引き出すにとどまったのです。
 カントは、これまで古い形而上学が「宇宙論」の対象としてきた問題にかんして、四つのアンチノミーを提起しています。
 「第一のアンチノミーは、世界は空間的および時間的に限られたものと考えるべきか否か」(四八節補遺)、第二のアンチノミーは、「物質は無限に分割しうるものと考えらるべきか、それともアトムから成るものと考えらるべきか」(同)、「第三のアンチノミーは、世界においてはすべてが因果の連鎖によって制約されているとみるべきか、それとも自由な存在」(同)かという自由と必然にかんするもの、「第四のアンチノミーは、全体としての世界は原因をもつかどうか」というものです。第四のアンチノミーは、世界には、絶対に必然的な存在者でありかつ世界の究極の原因である神が存在するのかどうかという問題です。
 そして、カントは、この四つの問題のいずれについても、「定立および反定立」(同)、つまり肯定および否定の命題がともに成立しうることを証明しました。そのうえにたって、カントは「無限なものを認識しようとすれば矛盾(アンチノミー)におちいるということは、思惟そのものの本性」(同)であるとして、カテゴリーによって無限なものは認識しえないという「不可知論」の立場にたったのです。
近世の哲学は、悟性的認識から出発しました。悟性的認識は有限な事物を有限な事物として、他のものから区別してとらえる同一性の原理(同一律)をその基本原理としています。同一性の原理というのは、「AはAである」という立場であり、形式論理学はこの基本原理に立っています。したがって同一性の原理は、矛盾という思惟形式を非真理として否定しています。形而上学も経験論もこの立場に立っています。
 これに対しカントは、アンチノミーをつうじて、矛盾の存在を認識論上重要な意義をもつものとしてとらえるという功績を残しながらも、そこにはいくつかの制約を伴っていたのです。
 ヘーゲルの批判の第一は、カントが「矛盾は対象そのもののうちにあるのではなくて、認識する理性のうちにあるにすぎない」(同)としている点に向けられています。矛盾は客観的事物そのもののなかに普遍的に存在しているから、「思惟形式という認識の理性」のうちにも存在するのです。
 第二の批判は、矛盾の普遍性の見地からの批判です。
 ヘーゲルは、「アンチノミーの指摘は、それが悟性的形而上学の硬直したドグマティズム(一面観)を除き、思惟の弁証法的運動に注意を向けさせた限りでは、哲学的認識の非常に重要な促進であった」(四八節補遺)として積極的に評価しています。
 しかし、カントがアンチノミーとして指摘しているのは、「古い形而上学の宇宙論に限られており、しかも宇宙論の反駁にあたっては、カテゴリーの図式にもとづいて四つのアンチノミーを取出しているにすぎ」(同)ません。矛盾はすべての事物に普遍的に存在していて、事物の自己運動の原動力となるものであり、矛盾という思惟形式なしに物質の運動をとらえることはできません。物質と運動とは不可分の関係にあり、運動のない物質は存在しません。したがって矛盾は「あらゆる種類のあらゆる対象のうちに、あらゆる表象、概念、および理念のうちに見出されるということである。このことを知り、そして対象をこうした特性において認識することは、哲学的考察の本質に属するものであって、この特性こそ、後に論理的なものの弁証法的モメントとして述べられるものをなしているのである」(四八節)。
 第三に、この点がもっとも重要なのですが、カントは、矛盾のもつ積極的意義を評価せず、矛盾をつうじて不可知論に陥ってしまったことです。
 「注意すべきことは、カントが物の自体は認識できないという単に消極的な結論に立ちどまって、アンチノミーの真実で積極的な意味へまではつき進まなかったということである。ところでアンチノミーの真実で積極的な意味は、あらゆる現実的なものは対立した規定を自分のうちに含んでおり、したがって、或る対象を認識、もっとはっきり言えば、概念的に把握するとは、対象を対立した規定の具体的統一として意識することを意味する、ということにある」(四八節補遺)。
 いわば、すべての事物は、自己のうちに矛盾を含むことによって運動し、発展していくことになるのです。矛盾する二つの側面の相互作用(対立物の闘争)をつうじて、その矛盾が解消されることを、矛盾の「止揚」とか「揚棄」とよびます。揚棄されることによって生じた新たな統一のなかに、この二つの側面はモメントとして含まれることになるのです。
 こうしてカントのアンチノミー批判をつうじて、矛盾の概念を本質的要素とするヘーゲルの弁証法的論理学が確立され、ヘーゲル論理学は、最初から最後まで対立物の統一という弁証法を軸にして展開されることになるのです。

カントにおける「概念と存在の合一」の否定

 対象を概念的に把握するためには、「対象を対立した規定の具体的統一として意識すること」が必要であり、そこにアンチノミーの積極的意義があることを学びましたが、それは対象の絶対的真理としての「理念」は、概念と存在との合一という「理性の理想(Ideal)」(四九節)であることを意味しています。
 その「合一には二つの道あるいは形式が可能」(五〇節)となります。一つは、存在から概念へと移行する道であり、もう一つは概念から存在へ移行する道ですが、カントは、そのいずれをも否定することにより、絶対的真理への道を閉ざしてしまったのです。
 カントは、まず存在から概念への移行の道は「推理」(同)にもとづくものにすぎず、「経験的な表象によっては基礎づけられていない」(同)というのです。
 これに対するヘーゲルの批判は、「思惟が感性的なものを越えて高まるということ、有限なものを越えて無限なものへまで進むということ、感性的なものの系列を断ち切って超感性的なものへまで飛躍するということ」(同)は、思惟するもののもつ力であり、「こうした移行を行ってはならないと言うのは、思惟してはならないと言うのと同じである」(同)というものです。
 またもう一つの道である概念から存在への移行の道に関しては、神の概念から神の存在を証明する「神の存在証明」が槍玉にあげられています。
 アンセルムスは、神は無限者であり、神の「概念」は、「あらゆる実在の総括」(四九節)を前提としているから、その質の一つとして「存在」も帰属するとして、「神の存在証明」をしました。いわば、アンセルムスは神における「概念」と「存在」の合一を主張したのです。
 これに対しカントは、有名な「百ターレルの例」(五一節)をあげて、概念と存在との区別を主張し、アンセルムスの批判をしました。
 「百ターレルは単に可能的な百ターレルであろうと現実の百ターレルであろうと、概念から言えば同じく百ターレルであるが、しかしこのことは私の財産状態にたいしては根本的な相違を持っている」(同)として、百ターレルの「概念」と、百ターレルの「存在」とは根本的に相違するのであって、神の「概念」から、神の「存在」を導きだすことはできない、と批判しているのです。
 ヘーゲルは、「そんなことは哲学者にもわかりきったこと」(同)であり、ここで問題となっているのは、神という無限なものの概念(真にあるべき姿)なのであって、百ターレルという有限なものについて「概念」を持ち出すのは、「言葉のでたらめ」(同)にすぎないと批判し、次のようにいっています。
 「その現存在がその概念と異なっているということが、しかもただこのことのみが、実際あらゆる有限なものの本質なのである」(同)。
 現に存在するものがその概念(真にあるべき姿)に一致しないことが、「あらゆる有限なものの本質」なのであり、百ターレルという有限なものと神という無限なものとを同列において、百ターレルの概念とその存在との関係を論じようとするのは、とんでもない勘違いだというのです。
 ヘーゲルは、「神の概念を構成する」(同)のは、「神においては概念が存在をそのうちに含んでいる」(同)という概念と存在との統一であり、このような神と百ターレルとは「全く別種」(同)の対象であって、同一には論じえないと批判し、次のようにいっています。
 「その現存在がその概念と異なっているということが、しかもただこのことのみが、実際あらゆる有限なものの本質なのである」(同)。
 現に存在するものがその概念(真にあるべき姿)に一致しないことが、「あらゆる有限なものの本質」なのであり、存在が概念に一致して真にあるべき姿になったとき、そのものは無限なもの、真実在となるといっています。
 カントは、神という「最高の理念を考察するにあたって、思想の怠慢とも呼ぶべきもののために、ゾレンというようなあまりにも安易な逃道を求め、究極目的が現実に実現されることを認めず、あくまで概念と実在との分離を主張している」(五五節)が、それは、理想と現実の統一を否定するものだ、とヘーゲルは批判しているのです。
 このカント批判をつうじて、ヘーゲルは、その概念論を完成していくことになります。