『弁証法とは何か』より

 

 

第四講 予備概念 ③

 

一、「批判哲学」(カント哲学)の批判 ②

『実践理性批判』の批判

 前講でカント哲学の批判のうち、『純粋理性批判』の検討を終えたことにし、続いて『実践理性批判』の批判に入っていきます。
 「純粋理性」がカントの認識論であるのに対し、「実践理性」は、いかにより善く生きるかという「生き方論」、つまり「何が行わるべきかを告げる法則」(五三節)を問題にしています。カントは、世界がどうあるべきかを知る「純粋理性」については絶対的真理は認識しえないとしながら、他方人間がどう生きるべきかという「実践理性」については絶対的真理を肯定しているのです。
 では、実践的思惟における絶対的真理とは何かといえば、「普遍的な規定である善」(五四節)であり、これを自己のうちに定立し、この善に矛盾しないように行動するという「抽象的同一性」(同)を求めたのです。ここにいう「善」とは、人間の内面的な真にあるべき意志を意味しています。
 カントの「実践理性」は、当時の道徳哲学への批判として生まれたものです。道徳哲学は、「人間の使命は何かという問題にたいして、人間はその幸福を目標としなければならない」(同補遺)という「幸福主義の学説」(同)でした。カントは、この幸福主義を「あらゆる恣意と気まぐれに門戸を開く」(同)ものとしてしりぞけ、「意志の普遍的な、すべての人に拘束力を持つ規定」(同)である実践理性を対置したのです。カントの実践理性は、幸福追求権という個人として自分らしくより善く生きるという問題にとどまらず、人間として人間らしくより善く生きる生き方を探究したという点において積極的意義をもつものということができます。
 これに対するヘーゲルの批判は、「真にあるべき意志」といってもこの意志の「内容は一体どういうものか」(同)が問題であるというものです。一人ひとりの考える「真にあるべき意志」は必ずしも一致するわけではありませんので、こんな主観的な基準ではなくて、客観的な基準でなければならないというのです。
 「それは、善が世界のうちに存在し外的な客観性を持つこと、言いかえれば、思想が単に主観的でなく、客観であることを要求してはじめて本当に実践的なものである」(五四節)。
 「善」を問題とするのであれば、単に人間がどう生きるべきかという主観的な問題にとどまるのではなく、国家、社会とのかかわりにおいてより善くいきることを考えるべきであるという「外的な客観性」を要求し、世直しこそが人間として客観的により善く生きることであることを明確にすべきでした。にもかかわらず、カントはここでもそこにまで踏みこむことができていないと、ヘーゲルは批判しているのです。
 この客観的な善の探究が、『法の哲学』の「倫理」において実現されることになります(拙著『ヘーゲル「法の哲学」を読む』一粒の麦社参照)。ここでは、ヘーゲルのカント批判のみにとどめておきたいと思います。

『判断力批判』の批判

 『判断力批判』では、いかに行動すべきかという「理念論」が問題とされています。
 カントは『判断力批判』において、「理念(イデア)」とは何かという「理念の思想」(五五節)を問題とし、それは具体的普遍であると述べていることを、まずヘーゲルは評価しています。
 具体的普遍とは、抽象的普遍との対比でヘーゲルが用いる用語であり、自らを特殊化する普遍という意味です。
 第一講でお話ししたように、ヘーゲルは理想と現実の統一を唱えた哲学者です。現実に転化する必然性をもった理想を明らかにすることこそ哲学の究極目的であり、そういう理想を具体的普遍としてとらえたのです。
 ヘーゲルのカント批判は、二つの点でおこなわれています。
 第一に、カントが、具体的普遍の例としてあげているのは、「芸術」(同)と「生命」(同)のみにすぎないという問題です。芸術美においては美の理念が芸術に特殊化されますし、生命体においては種としての内的目的性という理念が生命体の活動として特殊化されるところから、例としてあげたものでしょう。
 ヘーゲルは、本来理念というのは、国家、社会の「真にあるべき姿」を現実化した「外的な客観性」(五四節)であるべきなのに、カントはそれを芸術美や生命体に矮小化しており、国家や社会における理想と現実の統一という哲学の究極目的に結びつけていないことが許せないのです。
 「ところがカントは、このような最高の理念を考察するにあたって、思想の怠慢とも呼ぶべきもののために、ゾレンというようなあまりにも安易な逃道を求め、究極目的が現実に実現されることをみとめず、あくまで概念と実在との分離を主張している」(五五節)。
 理念を問題とするのであれば、哲学的には概念と実在の統一、より一般的には理想と現実の統一にこそ真理があることを明確に打ち出すべきなのに、カントはこのような統一こそ「本当の関係、否、真理そのものであるということを洞察してはいない」(五六節)のです。
 ヘーゲルは第二に、カントのかかげる「絶対的理念」の内容を問題としています。
 「反省的判断力の原理にしたがって考えられる絶対的な理念は、理性によって規定された普遍、すなわち絶対的な究極目的である善が、世界のうちに実現されるということ」(五九節)にあります。
 カントが理念としてかかげる善は、「実践的理性」でみたように「人間として真にあるべき意志」という道徳的、主観的な意志にすぎません。したがってカントが世界の究極目的としている善は、「単にわれわれの善、言いかえれば、われわれの実践理性の道徳律にすぎない」(六〇節)のです。そこにおける普遍と特殊といっても、「それは世界の状態および出来事とわれわれの道徳との一致にすぎない」(同)のであって、「真理、すなわち理念に固有な客観性を持たない」(同)ことになります。
 つまり絶対的理念をいうのであれば、国家、社会の絶対的な理想が現実に必然的に転化するという「真理」をも問題にしなければならないのに、カントの絶対的理念は、せいぜいカント的道徳律の実現を意味するにすぎないのです。

カント批判のまとめ

 以上、ヘーゲルはカントの三つの批判哲学を個別に検討したうえで、「認識の本性にかんする批判哲学の結論」(六〇節)についての全体的批判を展開しています。
 一つには、カントの二元論の批判です。カントは有限な現象は認識しうるものの、無限なもの、真にあるべき姿、物自体は認識しえないとの二元論に立っています。
 これに対しヘーゲルは、「一方では悟性は現象しか認識しないことを認めながら」(同)、他方でこの限られた認識が「絶対的なものであることを主張するのは、この上もない不整合」(同)だと批判します。
 なぜなら、「われわれが或るものを制限、欠陥として知る場合には、否、感じる場合でさえ、われわれは同時にそれを越えている」(同)からです。現象しか認識できないことを知れば、さらにそれ以上に無限なもの、真にあるべき姿を知りたいと思うことにより、認識はさらに進んでいかざるをえないのです。
 「限界にかんする知識は、限界のないものが現に意識のうちにあるからこそ存在しうるのだということ、このことをみないのは、自分が現にしていることに気がつかない者と言わなければならない」(同)。
 人間の認識は、実践を媒介として現象の認識から本質の認識へ、本質の認識から概念の認識へと無限に発展し、絶対的真理に接近していくのであり、ヘーゲルはその見地からカントの二元論を批判しているのです。
 二つには、「カントの哲学は諸科学の方法になんらの影響をも与ええなかったということである」(同)。
 ヘーゲルは、その理由について「カントの哲学は、普通の認識の諸カテゴリーおよび方法を全く批判しないでそのままにしている」(同)ことをあげています。つまり、形式論理学のカテゴリーをそのまま使用して、それを弁証法的に発展させていないというのです。それもさることながら、むしろ先にもみたように絶対的理念を論じながら、それを理想と現実の統一としてとらえられなかったところに、影響力のなさをみることができるのではないでしょうか。
 結局カントは、『純粋理性批判』において理性と悟性の区別をいいながら、理性によって国家や社会の「真にあるべき姿」をとらえうることを認めず、不可知論におちいってしまいました。『実践理性批判』においては、「善」という理念をかかげながら、それを道徳的「善」にとどめてしまいました。『判断力批判』においては、具体的普遍としての理念をとらえながら、それを芸術や生命体の問題にとどめ、国家、社会における理想と現実の統一までを主張することはできませんでした。
 カントは、フランス革命の自由の精神に共感を覚えながらも、人間の理性を信頼することができず、国家、社会の「真にあるべき姿」を回避して通ることになったのです。ヘーゲルは「聴講者にたいするヘーゲルの挨拶」で、こうしたカントの態度を「真理の認識の放棄」「理性にたいする絶望」を示すものだと厳しく批判しています。
 その意味でカントの理念(イデア)は、あくまでも主観的なものにとどまる「主観的理想主義」、または「主観的観念論」にとどまったのです。
 これに対して、今日でもヘーゲルがなお高い評価を受け、後世に大きな影響力をもっているのは、フランス革命から生まれた自由の精神を高くかかげ、理想と現実の統一を唱えて時代と切り結ぼうとした変革の立場、「絶対的理想主義」を提起したことにあると思われます。

 

二、「C 客観にたいする思想の第三の態度」

ヤコービの「直接知」

 「C 客観にたいする思想の第三の態度」はヤコービの直接知です。
 「客観にたいする思想の第二の態度」が、無限な客観や真にあるべき姿についてはその絶対的真理は認識しえないという立場であるのに対し、「第三の態度」は、それへの批判として登場し、確かにカテゴリーという思惟形式を使用することによっては無限なものの絶対的真理は認識しえないかもしれないが、カテゴリーを使用することなく、また悟性や理性のたすけも借りることなく、直接知、信仰という思惟形式によってその絶対的真理、あるいは事物の真にあるべき姿はとらえうるのだとする立場です。
 ヤコービは、思惟は「特殊なものの活動」(六一節)であり、その産物としてのカテゴリーは有限なものにすぎないから、カテゴリーを使って思惟することによっては、無限なもの、真にあるべき姿をとらえることはできないだけではなく、誤ってとらえることになってしまうとして、これらのものをとらえるには、思惟によってではなく、「直接知あるいは信仰」によらなければならないとするのです。
 「悟性が固持しているような諸カテゴリーは、制限された規定であり、制約されたもの、依存的なもの、媒介されたものの形式である。したがってカテゴリーにのみかぎられた思惟は、無限なもの、真実なものではなく、またそれは無限なものに移って行くこともできない(これは神の存在の証明を反駁するものである)。これらの思惟規定はまた概念とも呼ばれている。そのかぎり対象を概念的に把握するとは、それを制約され媒介されたものの形式においてとらえることを意味し、したがって、対象が真実なもの、無限なもの、無制約なものである場合には、それを制約され媒介されたものに変え、かくして真実なものを思惟によってとらえるのではなく、むしろ真実なものを真実でないものに変えることを意味する」(六二節)。
 このようにヤコービは「真実なもの、無限なもの」の絶対的真理、真にあるべき姿は、カテゴリーによってではなく直接知という思惟形式によってのみとらえうるとするのです。
 他方でヤコービは、直接知によってとらえられた絶対的真理としての理念は、これまた直接的に、つまり無媒介に主観から客観(存在)へと転化、移行するといっています。
 「直接知の立場の主要な関心事をなしているものは、六四節に述べた、主観的理念から存在への移りゆきであって、直接知の立場は、この移りゆきが本質的に本源的な、無媒介的な連関であると主張している」(六九節)。
 いわば、ヤコービは全体として理念と存在の統一(理想と現実の統一)を問題としているのですが、存在から理念(イデア)への移行も、理念から存在への移行も、いずれも無媒介的に直接におこなわれるととらえたのです。

ヤコービ批判

 ヘーゲルは、ヤコービが「理念と存在との統一」(七〇節)を求めているのは「正しい」(同)としながらも、それを無媒介的な統一ととらえる思惟形式を批判しています。
 というのも、すべての事物は、直接性と媒介性の統一としてのみ存在しているからです。
 ヘーゲルは、『大論理学』「有論」の冒頭に「天上であれ、自然の中であれ、精神の中であれ、或いは他の如何なる所であれ、この直接性とともに媒介を含まないようなものは何一つとして存在しない」(上巻の一、五八ページ、岩波書店)といっています。すべての事物は自然であろうが精神であろうが、直接性と媒介性の統一として存在しているのであり、媒介性のない直接性も直接性のない媒介性も「何一つとして存在しない」というのです。
 ヘーゲルは、ヤコービの特徴が、カテゴリーによる「媒介を排除した直接知がそれだけで真理を内容として持つとするところにある」(六五節)ことを明確にしたうえで、「問題は本来直接性と媒介性の対立という論理的問題にある」(同)として、次のように述べています。
 まず第一に、ここで直接知とか信仰とかいわれているものは、感覚的にとらえられる「良識とか常識とか呼ばれているものと全く同じもの」(六三節)ですが、真実なもの、無限なもの、イデア(概念)は「けっして感覚的な事物ではなく、それは本質的に普遍的な内容であり、思惟する精神の対象にほかならない」(同)のですから、直観や信仰でとらえるといっても、実際には思惟や思惟形式であるカテゴリーを媒介してとらえられているのです。
 すなわち、「神や法や道徳やにかんする直接知」(六七節)についていえば、直接知とされる内容が意識にもたらされるためには「必ず教育、育成が必要」(同)なのであって、その意味では、それらはあくまで「育成、教育、教養などと呼ばれている媒介に制約されている」(同)のに、それに気づかないだけなのです。
 したがって複雑な構造と内容をもつ国家や社会については、直接知は何も語ることができないのであり、国家や社会の「真にあるべき姿」も問題にできないことになってしまいます。
 一見何の媒介もなしに直接的に意識のうえにあらわれるようにみえる高度な認識も、実際には「最も複雑な、この上なく多くの媒介を経た考察の結果」(六六節)、媒介が揚棄されその痕跡をとどめていないようにみえるだけのことなのです。「例えば数学者でも、その他或る学問に通じている人は誰でも、それに達するには非常に複雑な分析が必要であるような解答を直接に持合せ」(同)ているようにみえるにすぎません。
 結局直接知の場合は、媒介を排除することによって「形而上学的な悟性のあれかこれかの立場へ、したがって外面的な媒介の関係の立場へあともどりしている」(六五節)だけなのです。「外面的な媒介の関係」というのは、認識主体と対象とが内的な必然性をぬきに外的に結合しているという意味でしょう。
 第二に、直接知の哲学は、われわれが理念(イデア)を表象する(思い浮かべる)ということは、理念が実際に存在していることを証明するものだとしながら、「主観的理念から存在への移りゆき」(六九節)は、「本質的に本源的な、無媒介な連関」(同)だといっています。
 これに対して、理念が神の存在に結びついていると主張することは、「無媒介的な連関」どころか、理念がなにものの力も借りることなく自らの力で自己展開して必然的に現実に移行するという「真の媒介であって、外的なものとの、また外的なものによっての媒介ではなく、自己そのもののうちで自己を完結する媒介」(同)であり、ヘーゲルはこの点からしても直接知の立場は誤っていると批判しています。
 第三に、この立場は、思惟を排除することによって「内容の本性ではなく意識の事実を真理の規準とするから、主観的な知識や、私の意識のうちにはかくかくの内容が見出されるという確信が、真理と言われるものの基礎となっている」(七一節)のです。
 この立場からすると、私の意識のうちに直接に見いだされるものが真理だということになりますから、それがすべての人の意識のうちに見いだされるまでに高められると、いっそうその真理性が高まることになります。これが「一般の一致」(同)といわれるもので、真理であるか否かは多数決で決められることになってしまいます。これでは、真理は単に主観的なものになってしまいます。
 したがって「直接知を真理の規準とすることから第二に出てくる帰結は、あらゆる迷信や偶像崇拝が真理とされ、どんなに不法で不道徳な意志の内容でも是認されるということ」(七二節)です。
 真理の基準が直接知という主観性に求められる以上、「いわゆる媒介知、すなわち論証や推理」(同)を必要としなくなるため、こうしたことが可能となるのです。

直接性と媒介性の統一

 ヘーゲルの批判は、すべてのものは直接性と媒介性の統一としてのみ存在しうるのであり、「直接知、すなわち、他のものとも、また自己自身のうちで自己とも、媒介されていない知があるということは、事実として誤っている」(七五節)と結論づけています。
 言いかえれば、こうした批判のうえにこれから展開されるヘーゲル論理学は、直接性と媒介性の統一として示されるということです。すなわち、大きくとらえると有論、本質論という客観的事実に媒介されながら、その媒介を揚棄した直接性として、「有および本質の真理」(八三節補遺)としての概念論が展開されることになります。また「真にあるべき姿」としての概念は実践を媒介にその直接性を揚棄し、現実に必然的に転化して理念となるのです。
 「単なる直接性のうちを進んでいくのでもなければ、単なる媒介のうちを進んで行くのでもないような認識の事実を示せば、この論理学そのものおよび哲学全体がその実例である」(同)。
 こうしてヘーゲル論理学は、絶対的真理は認識しえないとする一切の哲学の批判のうえに、人間の理性への無限の信頼と真理への絶対的確信の哲学として打ち立てられることになるのです。

 

三、「客観にたいする思想の態度」のまとめ

哲学の課題は真理の認識

 近世の哲学は、中世のスコラ哲学から脱皮し、人間の理性を基準にして真理をとらえようとする合理主義として出発しました。
 第一講でも絶対的真理について一言しましたが、ここでもう少し詳しく説明をしておきましょう。
 哲学の課題は真理を認識することにありますが、その場合の真理とは、客観世界に存在する有限な事物をそのあるがままの姿で認識することにとどまるものではありません。それはヘーゲルにいわせると「対象と表象との一致」を示す単なる「正しさ」(二四節補遺二)にすぎないのであって、まだ真理ではないのです。ではヘーゲルのいう絶対的真理とは何かといえば、概念(真にあるべき姿)に客観が一致することです。
 人間はその「無限な思惟」(二八節補遺)の働きにより、有限な事物を無限な事物につくりかえることができます。人間の活動の産物である国家や市民社会(経済社会)などは、有限な客観(自然)のなかから「無限な思惟」によってつくり出された、経験を越える無限な客観です。しかし、こうして生まれた無限な客観もまた有限なものにすぎず、国家や社会の「真にあるべき姿」にてらしてみると、真理に達しているということはできません。したがって、すべての客観は有限なものであり、概念に一致する実在となることによって真理となるのですが、概念(真にあるべき姿)もそれ自体発展していくのであって、絶対的となった概念に一致する実在が絶対的真理とよばれることになるのです。これが「理想と現実の統一」といわれるものです。しかし人間は、絶対的真理に無限に接近することはできますが、けっしてそこに到達することはできません。その意味で、絶対的真理は、人間にとって彼岸の目標なのです。
 こういう見地を明確にしたうえで、ヘーゲルは近世哲学における絶対的真理に接近する思惟形式、つまり「客観に対する思想の態度」を三つに分けて批判し、その批判を揚棄したものとして近代合理主義を土台とするヘーゲル弁証法という思惟形式の真理が登場したことを明らかにしているのです。

絶対的真理に対する三つの態度への批判

 絶対的真理に対する第一の態度は、「古い形而上学」です。彼らは経験から出発しながらも、経験を越える真にあるべき姿を認識しうるとする正しい態度に立っています。しかし無限なもの、連関し運動する事物、真にあるべき姿は、対立物の統一としてのみとらえうるものであるにもかかわらず、「古い形而上学」は、「あれかこれか」という悟性の形式でとらえようとしたために絶対的真理に到達できなかったのです。事物の運動と連関、真にあるべき姿を有限な悟性の形式でとらえようとしたところにその限界があり、ヘーゲルは、古い形而上学を「理性的対象の単に悟性的考察」(二七節)と批判しています。
 第二の態度は、無限の客観、真にあるべき姿について真理は認識しえないとする立場です。
 そのうちイギリス経験論は、真理は経験のうちにのみ存在するのであって、経験を越える無限なものの真理は認識しえない、という立場です。
 これに対してカントの批判哲学は、実践理性や判断力については絶対的真理も一部認められるとしながら、もっとも重要な「理論理性」としてのカテゴリーという思惟形式は、現象は認識しうるものの、「物自体」という絶対的真理は認識しえないという不可知論にたってしまったのです。
 第三の態度は、無限な客観、真にあるべき姿はカテゴリーによる媒介を排除した直接知という思惟形式としてのみとらえうるとするヤコービの立場であり、直接性と媒介性の統一としてとらえない制限をもっています。
 これらの批判のうえに、ヘーゲルが登場するのです。ヘーゲルの態度は次のように要約できるでしょう。
 第一に、ヘーゲルも経験から出発しますが、経験の範囲内である有限な客観のみならず、経験を越える無限な客観(国家、社会など)についても真理は認識しうること。また有限な客観の運動、連関の真理も認識しうること。
 第二に、人間の認識は有限、無限の客観の枠内にとどまるものではなく、客観のなかに潜在的に存在する、客観の真にあるべき姿としての概念にまで到達しうること。
 第三に、概念の認識こそ客観の最高の真理であること。
 第四に、無限の客観、あるいは概念は直接性と媒介性の統一においてのみとらえられること。また有限な客観の連関と運動も形式論理学ではなく、対立物の統一としてのみとらえうること。言いかえると真理の認識は、すべて対立物の統一という思惟形式、カテゴリーに立ってはじめてとらえうること。
 以上により、ヘーゲル論理学は、対立物の統一という弁証法の思惟形式に立ち、認識の「萌芽からの発展」という認識論として構成されることになるのです。

 

四、「論理学のより立ち入った概念と区別」

ヘーゲル弁証法の構成

 そこで予備概念の最後に、「論理学のより立ち入った概念と区分」と称する弁証法の形式にかかわる項目がおかれています。これは「論理学」全体をつうじて、有限な悟性の認識から運動と連関を含む無限な理性への認識の前進はどのような道筋をたどるのか、その形式はいかなる構成と区分をもつのかを、「論理学のより立ち入った概念と区分」で「先廻り的」(七九節)に記述しておこうというのです。
 「論理的なものは形式上三つの側面を持っている。 抽象的側面あるいは悟性的側面、 弁証法的側面あるいは否定的理性の側面、 思弁的側面あるいは肯定的理性の側面がそれである」(同)。
この三つの側面はバラバラに三つの部分として存在するのではなく、 の悟性的側面と の否定的理性の側面が対立する関係にあり、 の肯定的理性の側面が、その対立物を統一するという構成になっているのです。その意味では、「それらはあらゆる論理的存在の、すなわち、あらゆる概念あるいは真理のモメント」(同)として、これから展開する「論理学」の諸カテゴリー全体を貫く弁証法の三つの側面ということになるのです。

悟性的側面

 「 悟性としての思惟は固定した規定性と、この規定性の他の規定性にたいする区別とに立ちどまっており、このような制限された抽象的なものがそれだけで成立し存在すると考えている」(八〇節)。
 この悟性的思惟の働きとは、或るものを多様な個別(特殊)の形態から「普遍性の形式」(同補遺)に還元し、抽象的普遍としてとらえることによって、他の普遍的なものから区別する働きです。
 悟性的側面とは、ヘーゲルのいう「古い形而上学」、つまり、形式論理学の立場にたって、「あれか、これか」の区別を絶対的なものと考え、そのうちの一つを選択するという思惟形式です。
 この形式は、事物を固定し静止した有限なものとしてとらえる、「AはAである」とする「同一性」(同補遺)の原理です。事物の認識は「現存するさまざまな対象を特定の区別において把握することからはじまる」(同)のであり、その意味では、「単なる悟性的思惟にもその権利と功績をみとめなければならない」(同)のです。
 というのも、「理論の領域においても実践の領域においても、悟性がなければ確固とした規定はえられない」(同)からです。或るものを或るものとしての同一性を保ち続ける存在として認識することは、「一般に教養の本質的なモメント」(同)であり、「教養ある人は漠然としたものや曖昧なものに満足せず、対象をその確固とした性格において把握する」(同)のです。
 例えば法解釈学においては、「物を盗んだのか、盗んでいないのか」という明確な区別が求められるのであり、盗んだか盗んでいないか分からないというのでは困るのです。
 しかし、この悟性的側面は、運動、変化、発展するものをとらえようとすると、その限界を露呈することになり、次の「否定的理性の側面」に移行せざるをえなくなります。

弁証法的側面あるいは否定的理性の側面

 このように悟性的思惟は、或るものを或るものという固定したものとしてとらえる認識ですが、或るものは有限な事物であるがゆえに、自分自身の本性によって運動、変化し、他のものに移行せざるをえません。つまり或るものは、他のものに移行することによって或るものであることを否定されることになります。この否定によって運動をとらえる思惟形式が「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」といわれるものです。
 「 弁証法的モメントは、右に述べたような有限な諸規定の自己揚棄であり、反対の諸規定への移行である」(八一節)。
 弁証法とは、「有限なものは単に外部から制限されているのではなく、自分自身の本性によって自己を揚棄し、自分自身によって反対のものへ移っていく」(同補遺一)ものとしてとらえる認識です。それは一見すると、悟性的思惟、常識的思惟を否定し、「恣意によって、混乱と外見上の矛盾をひきおこす外面的な技術」(八一節)であるかのようにみえますが、そうではなく、「現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理」(同補遺一)をとらえる思惟形式であり、「あらゆる真の学的認識の魂」(同)、すなわち運動するものを運動するものとしてとらえる真理認識の形式なのです。
 「われわれの周囲にあるすべてのものは弁証法の実例とみることができる。われわれは、あらゆる有限なものは確固としたもの、究極のものではなくて、変化し消滅するものであることを知っている。これがすなわち有限なものの弁証法であって、潜在的に自分自身の他者である有限なものは、この弁証法によって実際またその直接の存在を超出させられ、そしてその反対のものへ転化する」(同)。
 この弁証法と似て非なるものとして、懐疑論と詭弁があります。懐疑論というのは、「悟性が確実だとする一切のものにたいする完全な絶望」(八一節補遺二)であり、すべてを否定するのみで、どんな積極的なものも生みださないのです。これに対して弁証法的な否定は、このあとに述べるように、肯定的なものをその成果として生みだすような否定なのです。
 「弁証法がその成果として否定的なものを持つ場合、この否定的なものはまさに成果であるから、それは同時に肯定的なものでもある」(同)。
 また詭弁は、「個人のそのときどきの利益および特殊の状態に都合のいいように、一面的で抽象的な規定をそれだけ切りはなして主張すること」(八一節補遺一)にあります。例えば、私には生存権があるのだから他人のものを盗んでもいい、というような場合です。すなわち詭弁における否定は、恣意的な否定にすぎません。これに対し弁証法は、悟性的側面を自己に都合のいいように恣意的に否定するのではなく、肯定的な成果を生むための「特定の規定の否定」(八二節)であるところに、詭弁とのちがいがあるのです。
 エンゲルスは、この「特定の規定の否定」について「どういう種類の事物についても、そこから発展が生まれてくるような、それ独特の否定の仕方」(全集⑳一四七ページ/『反デューリング論』上二〇二ページ)であると説明しています。

思弁的側面あるいは肯定的理性の側面

 こうして弁証法は、悟性的側面と否定的理性の側面との対立を揚棄した対立物の統一により、肯定的なものを生みだすのです。
 「 思弁的なものあるいは肯定的理性的なものは、対立した二つの規定の統一を、すなわち、対立した二つの規定の解消と移行とのうちに含まれている肯定的なものを把握する」(八二節)。
 懐疑論は、悟性的側面を全否定するものであり、詭弁は悟性的側面を恣意的な方向に否定するものですから、どちらも有限なもののむなしさを指摘する役割は果たしえても、それ以上に肯定的なものを生みだすことはできません。これに対し弁証法的な否定は、「そこから発展が生まれてくるような」特定の内容と特定の方向をもって悟性的側面を否定することにより、事物が運動し発展するという肯定的な成果を生みだすことにつながるのです。
 「弁証法は肯定的な成果を持つ。なぜなら、弁証法は特定の内容を持っているからである。言いかえれば、弁証法の真の成果は空虚な、抽象的な無ではなくて、特定の規定の否定」(同)です。
 この悟性的側面の弁証法的否定をつうじて生まれる肯定的な成果が、「理性的なもの」(同)とよばれるものです。この理性的なものは、悟性的側面のもつ肯定性と、それを否定する弁証法的側面との統一という「対立した二つの規定の統一」、対立物の統一としての肯定的なものであり、それがこれから「論理学」のなかで具体的に展開されるように、事物の運動、発展として有限なものから無限なものへの移行を生みだすのです。この場合の対立物の統一とは、「対立した二つの規定の解消と移行とのうちに含まれている肯定的なものを把握する」ことを意味しています。
 「この理性的なものは、思想であり抽象的ではあるけれども、単純な、形式的な統一ではなくて、異った規定の統一であるから、同時に具体的なものである」(同)。
 理性的なものである対立物の統一は、対立する二つに規定が完全に融合し、解消されて一つの肯定的なものに生まれかわるという「単純な、形式的な統一」ではなくて、肯定的なもののなかに対立を「揚棄されたものとして」(八二節補遺)、つまり「対立したものを観念的なモメントとして」(同)自己のうちに含んでいるという「具体的で全体的な」(同)統一なのです。
 悟性的側面とそれを否定する側面を対立したものとしてとらえ、「あれはあれ、これはこれ」として認識するのが形式論理学です。いわば形式論理学は、事物を固定し、静止したものとしてとらえる思惟形式です。
 しかし「運動は物質の存在の仕方」(全集⑳六一ページ/『反デューリング論』上八八ページ)です。したがってすべての物質は運動するのであって、固定、静止している事物は物質の普遍的な運動の特殊な一形態にすぎません。
 こうした物質の運動一般をとらえようとするのが弁証法という思惟形式です。運動をとらえようとすると、これからみていくように「あれかこれか」ではなく、「あれもこれも」という対立物の統一としてとらえざるをえません。ですから、弁証法は形式論理学を包摂することによって、唯一の真理認識の思惟形式となるのです。
 「思弁的な論理学(弁証法的論理学 ── 高村)は単なる悟性の論理学(形式論理学 ── 高村)を含んでいるから、前者から後者を作り出すのは、わけのないことである。それには前者から弁証法的なものと理性的なものとを取去りさえすればいい」(八二節)。
 理性的なものは、有限な悟性的思惟とそれを否定する弁証法的思惟との対立を揚棄したものです。有限な或るものを否定した他のものもやはり有限なものですから、理性的なものは、有限な悟性的思惟とそれを否定する有限な弁証法的な思惟との対立を止揚した「無制約者あるいは無限者」(四五節)なのです。
 ヘーゲルは、「理性的なものの性格」(八二節補遺)は、「無制約であり、したがって自己の規定性を自分自身のうちに含んでいるということ」(同)だといっています。「自己の規定性を自分自身のうちに含む」とは、有限な或るものは、「他のものではないもの」として、他のものによって自己を限界づけられ、他のものによって規定されるのに対し、無限なもの、運動し連関するものは他のものによって規定されず、自分で自分を規定するがゆえに限界をもたず、無制約なのです。
ヘーゲルが『法の哲学』の序文で「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という場合の「理性的なもの」も、この無制約者、無限者としての「理想」の意味で用いられたものであり、悟性的思惟と区別された理性的思惟も同様の意味をあらわすものです。
 ヘーゲルは、「思惟された理性的なもの」(八二節補遺)を「思弁的なもの」(同)といい、自己の哲学を「思弁哲学」とよんでいます。弁証法的展開をつうじて無限に真理に接近する思惟形式の体系という意味で、こうよんだのでしょう。
 結局、論理的なもののもつ形式上の「三つの側面」とは、事物の運動、変化、発展と同時に、有限なものから無限なものへと前進していく人間の認識過程を分析的にとりあげた思惟形式ということができます。

論理学の構成

 この弁証法の三つの側面を簡単に表す言葉が、先にもみた「即自 ── 対自 ── 即自かつ対自」であり、あるいは、「正 ── 反 ── 合」といわれるものです。
 ヘーゲルは、「論理学」を、この「即自 ── 対自 ── 即自かつ対自」という発展形態において構成し、「有論 ── 本質論 ── 概念および理念論」(八三節)としています。
 有論は直接性、本質論は媒介性、概念および理念論は直接性と媒介性の統一としてとらえられています。この過程は、認識の深まりゆく形式としてつかむことができます。
 「概念がはじめて真実なもの、もっとはっきり言えば、有および本質の真理であり、有と本質とは、切りはなしてそれだけに固執される場合には、真実でないものである。有は直接的なものにすぎず、本質は媒介されたものにすぎないからである」(八三節補遺)。
 つまり、有論から本質論へ、本質論から概念論へと次第により深い真理認識の形式へと前進し、最後の概念・理念論で、絶対的理念(絶対的真理)の形式に到達することになります。論理学は全体として真理を認識しようという思惟の形式、カテゴリー論として読むべきものなのです。