『弁証法とは何か』より

 

 

第五講 有論 ①

 

一、有論の主題と構成

有論の主題

 今日からいよいよ、序論と予備概念をふまえて、本論の第一部「有論」に入っていきます。
 ヘーゲルは、カントの十二種類のカテゴリー(第一三講)も参考にしながら、「有論」「本質論」「概念論」という独自のカテゴリー、思惟形式の体系をつくり出しています。
 「序論」で、「哲学は表象を思想やカテゴリーに、より正確に言えば概念に変えるもの」(三節)であることを学んできました。
 ヘーゲルのいう「概念」とは事物の「真の姿」を意味しており、哲学は思惟によって表象されたものを「概念」の形式に変えることによって真理をとらえるのです。
 「概念」にも様々な段階があります。まず最初は事物の表面的な真の姿であり、これをとらえた形式が「有論」です。次に事物の奥に隠された真の姿をとらえた形式が「本質論」です。最後は、事物を越えた事物の真にあるべき姿をとらえた形式が「概念論」となります。有論、本質論、概念論は、全体として認識の深まりゆく思惟の形式論としてとらえることができます。ただし、最後の概念論では、単なる認識の形式論にとどまらず「真にあるべき姿」をかかげての理想と現実の統一までもが論じられることになります。
 こうして、「有は即自的にすぎぬ概念である」(八四節)ということになります。これは「有はまだ展開されていない端初的な真の姿」という意味に理解すればいいでしょう。有論では、事物を表面的にとらえた「或るもの」が質と量の統一としてあること、「或るもの」は有限で可変的であること、これに対して人間(自我)は、真に無限なものであることなどが明らかにされます。
 有論の「或るもの」とは、その内部に例えば本質と現象というような対立をもっているものの、まだその対立が展開されることなく、表面的に一箇のまとまりある存在としてのみとらえられるカテゴリーであり、表面的な真の姿をとらえたものにすぎません。それが「或るもの」と「他のもの」との関係となるのです。両者の関係は、或るものから「他のものへの移行」(同)、つまり或るものが他のものに変化し、移行するものとしてとらえられます。
 もう一つ言っておきたいことは、直接「有論」の主題になっているわけではないのですが、ヘーゲルの弁証法的な論理展開の見事さも学んでほしい、ということです。ヘーゲルは、予備概念の「論理学のより立入った概念と区分」(七九節)で示した弁証法的方法の具体例を、「有論」全体の論理の展開で示しているだけではなくて、例えば、「規定」「媒介」「区別」「統一」などの個々の概念についても、すべて弁証法的にとらえてその本質を明らかにしているのです。「萌芽からの発展」による体系の構築という論理展開にも注目してほしいと思います。

有論の構成

 ヘーゲルは、予備概念の「論理学のより立入った概念と区分」において、論理的なものは悟性的側面、否定的理性の側面、肯定的理性の側面という、三つの側面をもつことを明らかにし、「それらはあらゆる論理的存在の、すなわち、あらゆる概念あるいは真理のモメント」(同)だといっています。
 いわば、真理に到達するためには、事物を、肯定、否定、そして肯定と否定の対立・矛盾を揚棄し自己のうちにそれらをモメントとして含む統一として、弁証法的思惟形式においてとらえなければならないというのです。
 有論、本質論、概念論も、この三つの側面にしたがい、肯定 ── 否定 ── 肯定と否定の統一としてとらえられているのですが、この論理的な構成は、ヘーゲル論理学の最初から最後まで貫かれています。
 ヘーゲルが、「論理的理念のどの領域も、さまざまの規定から成る一つの体系的な全体であり、絶対的なものの一表現である」(八五節補遺)といっているのは、このことを指しているのです。
 有論は「質」「量」「限度」という三つの段階から構成されています。質は肯定、量はその否定、限度は質と量の統一(肯定と否定の統一)という構成になっているのです。
 「有もまたそうであって、それはそのうちに質、量、および限度という三つの段階を含んでいる。質とはまず有と同一の規定性であり、或るものがその質を失えば、或るものは現にそれがあるところのものでなくなる。量はこれに反して有にとって外的な、無関係な規定性である。例えば、家は大きくても小さくてもやはり家であり、赤は淡くても濃くてもやはり赤である。有の第三の段階である限度は、最初の二つの段階の統一、質的な量である。すべての物はそれに固有の限度を持っている」(同)。
 とりあえず、有論の大きな流れをつかんでおいていただければ十分なので、細かい解説は避けたいと思います。
 有論は事物の最初の真にある姿をとらえるものですから、質、量、限度という三つの形式は「直接的な、感覚的な意識」(同)の形式であり、それだけに「思想内容から言えば、実際最も貧しく抽象的な意識」(同)、つまり表面的な認識の形式にすぎません。

 

二、「A 質」

「A 質」の主題と構成

 以上を前提に、「A 質」の主題に入っていきます。ここでは、すべての固定した事物は質をもつ有限な存在であり、有限であるがゆえに「或るもの」から「他のもの」に移行・変化せざるをえないことが解明されます。
 エンゲルスは、「弁証法とは、自然、人間社会および思考の一般的な運動=発展法則にかんする科学という以上のものではないのである」(全集⑳一四七ページ/『反デューリング論』上二〇一ページ)といっていますが、その一般的運動法則の一端が早くもここで明らかにされているのです。またこのような事物の運動、変化、発展をもたらすのは、事物が有と無との統一として存在しており、その内部に有と無の対立・矛盾を抱えているからであるという、発展法則も解明されています。
 それでは、すべての事物は有限なものであって、無限なものは存在しないのかといえばそうではなく、自我(人間主体)こそ無限に発展する真無限であることが明らかにされます。思惟する人間は無限に発展するからこそ無限の真理をとらえることができるのであり、理性に無限の信頼をおくヘーゲルの立場がここで再確認されています。
 次に「A 質」の構成についてお話しします。質は、「a 有」「b 定有」「c 向自有」となっており、肯定、否定、肯定と否定の統一という「一つの体系的な全体」(八五節補遺)をなしています。さらに「a 有」は純粋な有(肯定)、無(否定)、成(肯定と否定の統一)、「b 定有」は質的な有(肯定)、限界・制限(否定)、定有の変化(肯定と否定の統一)、「c 向自有」は真無限の有(肯定)、反発(否定)、反発と牽引(一と多)(肯定と否定の統一)という構成を経て、質から量への移行が示されています。

「a 有」

 哲学は、諸科学の上にたつ学問です。したがって、生物学は生物を、法学は法律を前提としているのに対し、哲学はこれらの諸科学とちがって前提をもちません。
 「哲学は、他の諸科学のように、その対象を直接に表象によって承認されたものとして前提……するという便宜をもっていない」(一節)。
 そこで、前提をもたない哲学は、何から始めるべきかが問題となってくるのです。
 「純粋な有〔あるということ〕がはじめをなす。なぜなら、それは純粋な思想であるとともに、無規定で単純な直接態であるから」(八六節)です。
 ヘーゲルは、哲学はまず第一に表象ではなく「純粋な思想」をとらえるものでなければならないと同時に、第二に経験諸科学とちがって前提をもたない学だから「無規定」なものから始めなければならないとして、その二つの要件を満足させるものは、「純粋な有」しかないといっているのです。
 まず、なぜ「純粋な有」が「純粋な思想」かといえば、この世の中の客観的事物は、すべて「或るものとして有る」(例えば「机がある」)のであり、「或るもの」から切りはなされた「単に有る」ものは、実際には存在しない抽象的な思惟形式すぎないからです。
 次に、なぜ「無規定」なものから始めなければならないのかといえば、「規定にはすでに一つのものと他のものとが必要であるが、はじめにおいてはわれわれはまだ他のものを持っていないから」(八六節補遺一)です。
 すなわち或るものを規定する(はっきり定める。限界を定める。特徴づける)ためには他のものを持ってきて、或るものを他のものに媒介されたものとしてとらえなければならないから、はじめとなるものは、規定されたもの、媒介されたものであることはできないのです。
 ヘーゲルは、哲学の歴史における「より先の体系とより後の体系との関係は、論理的理念のより先の段階とより後の段階との関係と同じであって、より後のものがより先のものを揚棄されたものとして自己のうちに含むという関係をなしている」(同補遺二)といっています。これは、一般に論理的なものは歴史的なものに対応するといわれるものです。言いかえると、ヘーゲル哲学における「有」に始まり「絶対的理念」に終わる諸カテゴリーは、けっしてヘーゲルの頭のなかから生まれた主観的産物ではなく、人類の二千五百年に及ぶ真理探究の結果として一歩ずつ歴史的に獲得されてきた普遍的なカテゴリー、思惟形式なのです。
 その例として、ヘーゲルは、哲学史の真のはじめはパルメニデス(エレア学派)の「有のみが有り無は存在しない」(同)にあるといっており、ヘーゲル論理学はこれに学んで「有」から始っています。
 哲学の歴史は、実際にはタレースを開祖とするイオニア派に始まるのですが、イオニア派は万物の始原を水や空気などの物質的なものとしたのに対し、エレア派は「有」という「純粋な思想」を始原としたために、「真の哲学史のはじめ」(同)とされているのです。

有と無の弁証法

 続いてヘーゲルは、有は無であるといっています。
 「ところでこの純粋な有は純粋な抽象、したがって絶対に否定的なものであり、これは同様に直接的にとれば無である」(八七節)。
 ヘーゲルの論理からすれば、「有」といってもただ「単にある」というのみで、何があるのか分からない無規定の有だから、それは「全く無形式でしたがって全く無内容なもの」(八七節)にすぎず、したがって「無」なのだ、というのです。
 いわば、有と無とは、区別されつつ区別されないような「抽象的な区別」(八七節補遺)にすぎません。というのも「区別と言うからには、そこには二つのもの」(同)があって、「区別されたものを自己の下に包括する一つの共通のもの」(同)がなければならないのに、有と無との間にはその共通の土台が存在しないからです。例えば、「リンゴが有る、無い」という場合は、リンゴという「共通の土台」がありますからその区別は具体的となりますが、「単に有る、無い」という場合、「何が有る、無い」か分からないので、区別も抽象的区別にすぎないことになります。
 こうして、有と無とは、有は無に、無は有に不断に移行し、動揺を重ねることになります。これが運動といわれるものであり、事物の運動をとらえるには対立物の統一という、弁証法という思惟形式が必要となってくるのです。有から無への移行は消滅であり、無から有への移行は発生です。発生から消滅までの運動は有と無との統一です。先に予備概念で形而上学をとりあげたときに、感覚的な事物が「変化するもの」(三二節補遺)というとき、「これはすなわち、感覚的な事物には有とともに非有が属すると言うことにほかならない」(同)ことを学んできました。或るものが「変化する」とは、或るもので有って、或るもので無いということですから、これをカテゴリーとして示すと、「有と無との統一」となるのです。
 「有ならびに無の真理は両者の統一であり、この統一が成である」(八八節)。
 有と無の統一としての「成」は、生成、発展、消滅という運動を表しています。有と無とは、成のモメントとして相互に媒介しあい、移行しあうという対立物の統一という弁証法的関係にあることが明らかにされたのです。
 「成」は、運動をあらわすカテゴリーとして「最初の真実な思惟規定」(同補遺)です。
 ヘーゲルは、「ヘラクレイトスが、『すべては流れる』(panta rhei ── 高村)と言うとき、これによって成があらゆる存在の根本規定であることが言いあらわされている」(同)といっています。有限な事物を論じる前に運動そのものを「存在の根本規定」として論じているところにも、ヘーゲルらしさがあらわれています。

 

三、「b 定有」

定有は弁証法の成果の最初の実例

 ヘーゲルは、成から定有への移行を、八二節で述べた弁証法の「真実の成果」(八九節)の「最初の実例」(同)だとしています。すなわち、成における有と無との対立・矛盾が揚棄されて生みだされた肯定的成果の「最初の実例」が定有だというのです。定有とは、静止し固定した有限な事物を意味しています。
 成における有と無との対立・矛盾は、「直接的な対立」(八八節)、つまり媒介されない対立であるため、有から無へ、無から有へと不断の「動揺」(同)をもたらし、「全く休止を知らぬ」(八九節補遺)運動をもたらすのですが、この対立・矛盾が揚棄され、「そのうちで両者(有と無 ── 高村)がモメントであるにすぎないような統一」(八九節)となった有、「自己のうちに動揺を持たぬ統一」(八八節)となった有が定有だというのです。
 すなわち、定有において、有と無の「直接的な対立」は揚棄され、定有という「動揺を持たぬ」有となり、有と無とは定有の二つのモメントとなるという弁証法的な成果が生みだされます。成における有と無の矛盾は揚棄されて、定有の二つのモメントに発展したのです。

定有は質をもつ有

 定有とは、これまで述べてきた「無規定の有」、つまり「単にある」という「純粋な有」を「否定」して、「或るものとしてある」(「机としてある」)という「規定された有」、有限な有、つまり質をもった有です。
 「定有とは、直接的な、あるいは有的な規定性 ── すなわち質 ── としてあるような規定性を持つ有である。このような自己の規定性のうちで自己のうちへ反省したものとしての定有が、定有するもの、或るものである」(九〇節)。
 定有するものは、「或るもの」です。先にもみたように、「或るもの」を「規定する」ためには、「他のもの」をもってきて、それとの関係において「或るもの」をとらえなければなりません。すなわち、「或るもの」は「他のもの」との間に一線を画し、「或るもの」は「他のものではない」と否定的に規定されることによって、一定の質をもつ有となるのです。その意味で、スピノザが言っているように「あらゆる規定性の基礎は否定である」(九一節補遺)ということができます。
 有は規定されることによって、一定の質をもつに至ります。その質をもった有としての定有が「自己のうちへ反省」、つまり自己自身が何ものであるかに目を向けたとき、一定の質をもった存在としての「定有するもの」または「或るもの」となるのです。
 この「或るもの」に至って、ようやく客観世界に現に存在する一定の質をもった有限な事物が思惟形式に転化されたものとして登場します。
 或るものは、あくまで表象を思惟形式に転化し、抽象化したものですから、特定の具体的個物を指すわけではなく、一定の質をもって存在するものはすべて「或るもの」にあたるのです。これに対して客観世界に存在する具体的個物は、第二部「本質論」で論じられることになります。
 「或るものが現にあるところのものであるのは、その質によってであり、或るものがその質を失うとき、それは現にあるものでなくなる」(九〇節補遺)。
 「或るもの」がその質を失うとき、「或るもの」は「或るもの」でなくなって、それは「他のもの」(「或るもの」から区別された別の「或るもの」)となるのです。例えば、机の質とは、人間が文筆活動などをする作業台です。これに対し、人間が食事をする台はもはや机ではなく、テーブルという「他のもの」になってしまうのです。
 定有は質をもつ有として、有と無のモメントをそのうちにもっています。すなわち「或るもの」が一定の質を「有」していることが「或るもの」の内における「有」のモメントであり、他方、この質により「或るもの」が「他のもの」から区別され「他のものではない」ということが「或るもの」の内における「無」のモメントとなります。ヘーゲルはこの有の側面を「即自有」(九一節)、無の側面、つまり否定性の側面を「向他有」(同)とよんでいます。
 すなわち、「或るもの」の質を規定する側面(机は文筆活動の作業台であるという側面)が、「或るもの」の「即自有」をなし、「或るもの」がその質のもつ有限性により「他のものではない」という否定性の側面(机はテーブルではないという側面)が「向他有」とよばれるのです。
 この「向他有」は、「或るものの幅」(同)をなしています。いわば、「或るもの」は、その両端を「向他有」としてもつことによって「或るもの」としての幅をもつ有限なものとなっているのです。例えば、「或るもの」としての机は、「テーブルでもなければ、ベンチでもない」という二つの「向他有」によって、どこからどこまでが机なのかという、机というものの「幅」が規定されるのです。

或るものと他のものの弁証法

 重要なことは、「或るもの」は規定されたものとして、その規定による限界をもった有限な存在だということです。
 言いかえれば、「向他有」という「或るもの」の無の側面によって、「或るもの」は「他のものではない」という否定的規定性をもつのであり、それによって、有限な「或るもの」と「他のもの」との「限界、制限」(九二節)を画することになるのです。
 「定有においては規定性は有と一体をなしており、この規定性が同時に否定として定立される場合、それが限界、制限である。したがって他在は定有の外にあって定有と無関係なものではなく、定有そのもののモメントである。或るものはその質によって第一に有限であり、第二に可変的であって、或るものの有には有限性と可変性とが属する」(同)。
 ここは、或るものの「有限性と可変性」の根拠を示す非常に重要なところです。「或るもの」と「他のもの」とは、その限界において接していると同時に、限界において区別されているのであり、その意味で「他在は定有の外にあって定有に無関係なものではなく、定有そのもののモメント」となっているのです。
 こうして、或るものと他のものとは限界において同一になり限界において区別されるという、同一と区別の統一という限界の弁証法が明らかにされます。
 「限界はそのうちに矛盾を含み、したがって弁証法的であることがわかる。限界は一方では定有の実在性をなし、他方ではその否定性である。しかし更に、或るものの否定性としての限界は、抽象的な無一般ではなく、存在している無、言いかえれば、われわれが他のものと呼んでいるものである」(同補遺)。
 この「可変性」に関して、『小論理学』では限界と制限とを同じ意味で用いていますが、『大論理学』では限界と制限を区別し、「制限と当為」というカテゴリーが登場します。或るものが、その限界を越えて他のものに移行しようとして限界に直面したとき、或るものにとって限界は「制限」となり、その制限を突破しようとする働きが「当為」(ゾレン、まさにかくあるべし)とよばれるのです。
 マルクスの『資本論』では、この「制限と当為」がしばしば登場してきます。資本は剰余価値の生産をその規定的目的とし、より多くの剰余価値の獲得を「当為」として、資本のもつ様々な「制限」を打ち破って発展すると同時に、他方で資本主義の矛盾を深めていくという論理が、『資本論』全体を貫いています。
 ではなぜ有限なものは、限界を越えて変化し、他のものに移行するのでしょうか。それは、「或るもの」は、その限界においてすでに「他のもの」となっているという矛盾をもっているからです。
 「有限なものは、或るものとして他のものに無関係に対峙しているのではなく、即自的に自分自身の他者であり、したがって変化するものである」(同)。
 いわば、「或るもの」は、その限界においてすでに「他のもの」の「萌芽を担っている」(同)という矛盾を抱えているため、その矛盾を揚棄するものとして変化し、「他のもの」に移行せざるをえません。「有限とは終わりを持つもの」(二八節補遺)なのです。
 或るものは、その限界の弁証法と「制限と当為」の弁証法によって、他のものと連関すると同時に他のものに移行せざるをえないのであり、この「或るものと他のものの弁証法」によって、客観的事物の連関と運動の普遍性がともに明らかにされることになります。エンゲルスは、「弁証法というものは、事物とその概念上の模写とを、本質的にそれらの連関、連鎖、運動、生成と消滅においてとらえるものである」(全集⑳二二ページ/『反デューリング論』上七三ページ)といっています。弁証法が連関と発展に関する一般的運動法則を明らかにしたといわれるゆえんは、すでにこの「或るものと他のものの弁証法」のなかにみられるのです。
 「われわれは更に、有限なもの(定有はそうしたものである)はすべて変化をまぬかれないことを知ってはいるが、しかしこの定有の可変性は、表象には、その実現が定有そのものにもとづいていない単なる可能性と思われている。実際はしかし、変化するということは、定有の概念のうちに含まれているのであって、変化は定有が即自的にそうであるものの顕示にすぎない。生あるものは死ぬ。しかもそれは、生あるものが生あるものとして自分自身のうちに死の萌芽を担っているからにほかならない」(九二節補遺)。
 こうして、或るものは他のものになり、その他のものはさらに別な他のものになり、変化は限りなく続いて、有限なものは無限なものに移行することになります。

有限と無限の弁証法

 こういう限りなく続いていく変化を、ヘーゲルは悪無限とよんで、真無限から区別しています。
 悪無限(九四節補遺)とは、果てしない無限進行を意味します。「この果しない進行は、有限なものが含んでいる矛盾、すなわち有限なものは或るものであるとともに、またその他者であるという矛盾を言いあらわすにとどまる」(九四節)。例えば剰余価値の生産は量を追求するものであるが故に、資本にとって悪無限となるのです。
 しかしこんな悪無限は、有限なものから逃げだそうとしながら、相変わらず有限なものにとどまっている退屈な無限進行にすぎないのであって真の無限ではない、とヘーゲルはいいます。
 「真の無限は、他者のうちにあって自分自身のもとにあることにあり、あるいは、これを過程として言いあらわせば、他者のうちで自分自身へくることにある」(同補遺)。
 ここでもヘーゲルは、弁証法的に問題を取り扱っています。悪無限は、有限と無限とを動かしがたい対立においてとらえ、無限を有限の彼岸にあるものとしてとらえようとしたために、結局有限のうちに立ち止まらざるをえなかったのです。これに対し、真無限とは、無限を有限と無限の統一としてとらえ、有限のなかに無限があるとするものです。
 ヘーゲルの悪無限批判には、ヘーゲルらしい見事な論理の展開がみられます。
 「有限と無限との対立を克服しがたいものとする二元論は、次のような簡単なことをみのがしているのである。すなわち、このようにすれば、無限は二つのもののうちの一つにすぎなくなり、したがって無限なものは一つの特殊なものとされ、それに対して有限なものがもう一つの特殊をなしている、ということである。一つの特殊なものにすぎないような無限、有限とならんで存在し、したがって有限なものにその制限、限界を持っているような無限は、本物でない。それは無限ではなくて、有限にすぎない」(九五節)。
 「真の無限は、他者のうちにあって自分自身のもとにある」といわれてもちょっとイメージしにくいかもしれませんが、有限な人間が、その人間にとっての他者である労働や学習をつうじてその認識を無限に発展させるとか、他者との関係をつうじて無限に人格を陶冶し発展させるとかを考えればいいでしょう。
 真無限を有限と無限の統一としてとらえる「表現には正しいところもあるが」(同)、「一面的であり誤っている」(同)とヘーゲルはいっています。
 というのも「丁度、加里が酸と結合するとその性質のうちの或るものを失うように」(同)、有限と無限とが同一だということになると、有限なものも無限なものも、ともに変化してしまうのではないかと思われるからです。
 これに対してヘーゲルは、「真に無限なものは、単に一面的な酸のような態度をとるのではなく、それは自己を保持する。……無限者は肯定的なものであり、有限者だけが揚棄されるものなのである」(同)と批判しています。
 つまり真無限は、有限と無限の統一といっても、有限者のなかにあって無限を貫き、それによって有限者の有限性が揚棄されるのであって、有限と無限とを合わせて中和させるのではないというのです。
 いわば、真無限とは、有限な自我が自己否定をくり返す「否定の否定」(同)によって無限に発展していくものであり、この真無限の定有が「向自有」とよばれているものです。
 こうして、「定有」から「向自有」へとカテゴリーは発展していくことになります。

 

四、「c 向自有」

向自有は真無限の有

 ヘーゲルのいう「向自有」というカテゴリーには、二つの側面があります。一つは人間(自我)が無限に発展する姿をとらえた、真無限としての有という側面です。第一講でお話ししたように、ヘーゲルは自然界に存在するものはすべて有限であるのに対し、精神、つまり人間およびその活動の産物としての国家や社会などは、限界をもたない無限なものだと考えています。
 「質は本質的にただ有限なもののカテゴリーであり、それゆえにまた精神の世界ではなくて自然のうちにのみ、その本来の場所を持っている」(九〇節補遺)。
もう一つは一者という側面です。つまり自我は自己否定をくり返しつつ無限に発展しながらも自己同一性を貫くことをヘーゲルは一者ととらえ、一者が自己否定をくり返すことを一者の反発と牽引としてとらえています。
 まず真無限としての有の側面からみていくことにしましょう。
「向自有において観念性(イデアリテート)という規定がはいってくる。定有は、まずその有あるいは肯定の方面からのみとらえられた場合、実在性(レアリテート)を持っているから(九一節)、したがって有限性もまた最初は実在性の規定のうちにある。しかし有限者の真理はむしろその観念性にあるのである。有限なものと並存させられ、それ自身二つの有限なもののうちの一つにすぎない悟性の無限もまた、同様に真実でないものであり、考えられただけのものである。有限者の観念性は哲学の主要命題であり、したがってあらゆる真の哲学は観念論である」(九五節)。
 ここにいう「イデアリテート」は、「観念性」ではなく「理念性」と訳されるべきものでしょう。エンゲルスも『フォイエルバッハ論』のなかで「観念論」が「理想的な(イデアール)目標を追求する」(全集㉑二八六ページ)という意味でも使用されると述べています。
 第三講で、ヘーゲルが自分の哲学を「絶対的観念論」だと自称しているのは、「絶対的理想主義」の意味だとお話ししました。ヘーゲルが「有限者の観念性は哲学の主要命題」といっているのは、ヘーゲル哲学の課題が客観世界という有限者のなかに理念(イデア、真にあるべき姿)という無限者、つまり真無限の探究にあることを表明したものということができます。したがって、この向自有の展開したものが、概念論における概念だということができます。
 「有限者の真理はむしろその観念性にある」という箇所も、有限者の真にあるべき姿はその理念性、イデア性、つまり概念であるととらえれば理解できるでしょう。
 「向自有」というカテゴリーは、有限者である定有がその「真にあるべき姿」に向かって無限に発展していき、真無限の定有として「完成された質」(九六節補遺)となるという意味で、「向自有において観念性という規定がはいってくる」のです。
 「向自有は完成された質であり、そのようなものとして有および定有を観念的モメントとして自己のうちに含んでいる。向自有は、有としては単純な自己関係であるが、定有としては規定されている。しかしこの規定性はもはや、他のものから区別されている或るものにみられたような有限な規定性ではなく、区別を揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる無限な規定性である」(同)。
 向自有は「完成された質」、つまり或るものが無限にそのイデア(理念)に向かって自己発展するものです。
 それが「有および定有を観念的モメント」としているというのは、向自有は有、定有の発展した姿だということを意味しています。向自有は、「無限な規定性」として、「定有」であると同時に「有」なのです。定有は、「規定された有」であり、向自有も同様に規定されています。しかし定有のように、他のものによって規定された有限な規定性ではなく、自分で自分を規定し不断に高めていく限界をもたない無限な規定性なのです。その意味では、規定されない直接的な「有」ということもできるのです。

向自有は自我

 「向自有の最も手近な例は自我である。われわれは、定有するものとして、自分がまず他の定有するものから区別され、そしてそれに関係していることを知っている。しかしわれわれは更に、定有のこの拡がりが、言わば尖らされて向自有という単純な形式となることを知っている。我と言うとき、それは無限であると同時に否定的な自己関係の表現である」(同)。
 向自有の最も手近な例は、「自我」だといっています。自我とは「思惟するものとして現存する主体」(二〇節)、つまり思惟する主体としての人間それ自身といっていいでしょう。人間が自己否定をくり返すことをつうじて「真にあるべき姿」に向かって無限に認識を発展させ、あるいは人格を陶冶し、発展していくことをイメージしているのです。「定有のこの拡がりが、言わば尖らされて向自有という単純な形式となる」というのは、面白い表現です。定有の場合には、その両端にもつ向他有という「否定性」によって、定有の「幅」(九一節)という広がりをもち、その「幅」の限界を越えるとき「他のもの」に移行するのですが、向自有の場合には、これまでの自分自身を否定していくことをつみ重ねて、「真にあるべき姿」に向かって次第に認識を発展させ、あるいは人格を高め、上へ上へと無限に尖らされていくのです。ですから、ヘーゲルは「それは無限であると同時に否定的な自己関係の表現である」といっているのです。
 「人間は自己を我として知ることによって動物から、したがって、また自然一般から区別される、と言うことができる。自然の事物は自由な向自有に達せず、定有に限局されたものとして常に、『他のものへ向っている有』にすぎないのである」(同)。
 ヘーゲルは『法の哲学』のなかで、この人間としてより善く生きようとする道を探究し、主観的により善く生きる道は「道徳」であり、客観的により善く生きる道は「倫理」にあることを明らかにしました。ヘーゲルのいう「倫理」とは、「社会共同体の真にあるべき姿と諸個人の自由により善く生きることとが結びつき、真にあるべき社会共同体のなかで、より善く生きる自由の理念」(拙著『ヘーゲル「法の哲学」を読む』二二〇ページ、一粒の麦社)です。いわば、国家、社会の真にあるべき姿とそこにおいてより善く生きる姿を「倫理」で論じているのです。
 この「論理学」における「向自有」のカテゴリーを、「精神哲学」の分野において具体化したのが、『法の哲学』だということができるでしょう。この向自有のもつ「観念性」に関し、ヘーゲルが自然と精神の関係を論じているのも、興味深いものがあります。
 「自然と精神との相違は、両者がそれぞれの根本規定である実在性および観念性に還元されるところにある、と人々が考えたのは一応正しい。しかし自然は……精神のうちではじめてその目標および真理に到達するのである。同時に精神もまた自然の単なる彼岸ではなく、それは自然を揚棄されたものとして自己のうちに含むかぎりにおいてのみ本当に存在し、本当に精神なのである」(同)。
 ここにもヘーゲルの弁証法が表明されています。すなわち精神活動の目標は、自然を変革してその「真理に到達」させることにあることが明らかにされているのです。同時に、精神活動の産物である国家、社会も自然の法則性を学び、そこから自然の「真にあるべき姿」を導き出して、「自然を揚棄されたものとして自己のうちに含む」のです。ここに自然と精神、客観と主観とを、対立物の相互浸透ととらえる根本思想をみることができます。

向自有は一者

 続いて、向自有の一者としての側面の検討に入ります。このように、自我は自己否定をくり返す真無限の有なのですが、それは定有とは異なり他のものによって規定されるのではなく、自分自身で自己を否定的に規定する、他のものに規定されない「一者」であることを意味しています。
 「向自有は、自分自身への関係としては直接性であり、否定的なものの自分自身への関係としては向自有するもの、すなわち一者である。一者は自分自身のうちに区別を含まないもの、したがって他者を自己から排除するものである」(九六節)。
 ヘーゲルは、自我がこれまでの自己を次々と否定し、新たな自己をさまざまに生みだすことを「一者の反発」(九七節)といっており、一者が「多を定立するもの」(同補遺)であるとしています。しかし、自我が反発によって生みだしたものも自己自身にほかなりません。
 「一は自己を自分自身から反発して、多を定立するものにほかならない。しかし多の各々は、それ自身一である」(同)。
 自我は自己を否定して反発し、多くの自己を生みだしますが、その多くの自己も自己自身(一者)であることにより、「それと反対のもの、牽引に転化する」(同)、つまり多は一に転化することになるのです。いうなれば、いくつもの自己否定をつうじて自我は無限の変化をとげつつも、そのなかで自己同一性を貫くのです。
 こうして、一は多(反発)を定立し多は一(牽引)であるという弁証法的な関係が確認されることになります。
 「アトム論」も同様に一が反発して多となるととらえています。しかし反発した多をまとめて「一緒にするものは牽引ではなくて偶然」(九八節)だとする点において、ヘーゲルはアトム論を「無思想なもの」(同)と批判しています。
 これに対しカントは、「物質を斥力と引力との統一」(同補遺一)としてとらえました。ヘーゲルは、斥力と引力の統一として物質をとらえたのは「カントの功績」(同)としながらも、「斥力と引力とを無造作に現存するものとして要請し、それらを論理的に導き出していない欠陥を持っている」(同)と批判しています。
 一者である向自有が反発を生みだし、反発が牽引を生みだすのに、その関係をみないで「斥力と引力とを無造作に」最初から並列的に「現存するもの」としてとらえているのが論理的でないと批判しているのです。

質から量への移行

 質の最後に位置する向自有は、質として規定された有でありながら、その規定性を無限に否定し続けることによってその質的規定性を揚棄する思惟形式です。自己の規定性を反発と牽引により無限に否定し続ける向自有は、もはや自己の質的規定性を揚棄してしまって規定性を持たないといってもいい形式となっています。
 いわば、向自有はその自己否定性により、向自有の「質的規定性は、これによって揚棄された規定性としての規定性へ移ったのである」(九八節)。
 質を揚棄したものが量にほかなりませんから、こうして向自有は、「量としての有に移った」(同)のです。
 ヘーゲルは、このように、「質の弁証法」(同補遺二)が、「質から量への移りゆき」(同)をもたらすと同時に、量が「どこから由来」(同)するかを明らかにし、それによって質と量とが「相互にどんな関係を持つか」(同)という必然性を明らかにしたのだ、といっています。
 一節で、「思惟的な考察というものは、その内容の必然性を示し、その対象の諸規定のみならずその対象の存在をも証明しようとする要求をそのうちに含んでいるものである」と述べていますが、質の弁証法をつうじて、ここに量という「対象の存在をも証明」するに至ったのです。