『弁証法とは何か』より

 

 

第六講 有論 ②

 

一、「B 量」

量の主題と構成

 第五講でも一言しましたが、『小論理学』を学ぶにあたって、有論、本質論、概念論をつうじて展開される個々のカテゴリーの意味内容を深くとらえることはむろん重要です。それとともに、「論理学のより立入った概念と区分」でとりあげられた真理の三つのモメント、悟性的側面、否定的理性の側面、肯定的理性の側面という三つのモメントをつうじて、最も単純な低いカテゴリーから、より複雑で高度なカテゴリーへと一歩ずつ認識を深め、より高度の真理に接近する思惟形式の弁証法的展開を学ぶこともまた大切です。
 経験諸科学のうえにたつ哲学は、経験諸科学と異なり「与えられたもの、前提されたもの」(九節)をもちません。無前提なところから、最初のカテゴリーは「無規定で単純な直接態」(八六節)としての「有」としてとらえられ、「その真理として」(九八節補遺二)の成、成の弁証法的成果としての定有、「定有の真理は変化」(同)、「変化の成果」(同)としての向自有へと展開し、向自有において、自己のもつ質的規定性を無限に否定する反発と牽引をつうじて「質一般、質の諸モメント全体」(同)が揚棄され、こうして質から量への移行となるのです。
 いわば、「質の弁証法」が質から量への移行をもたらすのであり、前提をもたない哲学は、カテゴリーの弁証法的展開をつうじて、自ら一つずつ前提を生みだしていくのです。
 本講では「揚棄された質」としての「B 量」を論じ、あわせて、質と量の統一としての「C 限度」を考察して、第一部「有論」を終わることになります。
 「質」は、有(純有)、定有、向自有の三つのカテゴリーに分かれており、純有とは無規定の有、定有とは規定された有、向自有とは真無限の定有をそれぞれ意味していました。
 「B 量」も同様に、「a 純量」「b 定量」「c 度」の三つのカテゴリーをもっていますが、「質」の三区分に対応して、純量とは無規定の量、定量とは規定された量、度とは真無限の量をそれぞれ意味しています。
 純量においては、「連続量」と「非連続量」の問題がとりあげられます。純量におけるこの二つの側面は、運動をとらえるうえで欠くことのできないものであり、このどちらか一方しかみないと、運動そのものを理解できません。
 電子、光子などの粒子は、連続量(波動性)と非連続量(粒子性)との対立物の統一としてとらえられます。ここにも弁証法のもつ真理性が示されています。
 定量とは「数」のことです。数には、連続量に対応する「単位」、非連続量に対応する「集合数」があり、数の計算(加・減・乗・除)は、この単位と集合数の組み合わせによって生じることが明らかにされます。
 度は、質における向自有に対応するカテゴリーです。向自有には一者と真無限という二つの側面がありましたが、これに対応して度には一者としての「内包量」と、真無限としての「比」という二つの側面があることが解明されています。
 比(例えば1/2)というものは、比の両項は無限に変化(2/4、3/6、4/8)しても、比の値(0.5)は変わりません。比は量の変化のなかにあって自己同一性という一種の質が貫かれているところから、比は量でありながらも質と量の統一としてとらえることができます。
 こうして、質と量の統一としての比は、「比の真理」である「C 限度」という質と量の統一に移行することになるのです。

「a 純量」 

 「量は、規定性がもはや有そのものと同一なものとしてでなく、揚棄されたものあるいは無関心なものとして定立されている純有である」(九九節)。
 第四講で、量とは「有にとって外的な、無関係な規定性」(八五節補遺)であり、「例えば、家は大きくても小さくてもやはり家であり、赤は淡くても濃くてもやはり赤である」(同)ことを学びました。
 すなわち、量とは、「有」と一体となっている質にとって「外的な、無関係な」もの、言いかえると事物から質を取り去った後に残るもの、質を捨象したものを意味しており、したがって量が規定されても、それは質には影響を及ぼさないのです。
 家という質は一定の大きさという量を伴っていますが、その量が大きく規定されても小さく規定されても、家という質には影響を及ぼさずに、「やはり家」にとどまっています。
 そもそも量とは、このように質に無関係なものですが、この量のうちまだ規定されていない量が、「純量」とよばれています。
 ヘーゲルは、量とは何かに関連して、三つの問題点をとりあげ、その批判をしています。
 まず第一には、量とは「大きさ」であるとする定義への批判です。
 ヘーゲルはこれを批判して「大きさという言葉は、主として一定の量をさすから、量をあらわすには不適当である」(九九節)といっています。一定の量とは規定された量です。そもそも量そのもの、無規定の量とは何かを問題としているのに、それに対して、規定された量としての「大きさ」を持ち出すのは適切でないとの批判です。
 第二には、数学で用いられる、量とは「増減しうるもの」(同)という定義への批判です。
 ヘーゲルは、まずそもそも定義というものは「単に正しい定義」(同補遺)ではなく、「確証された定義」(同)でなければならないといっています。
 「すなわち、その内容が単に目前に見出されたものとして取上げられているような定義ではなく、その内容が自由な思惟のうちに基礎づけられているもの、したがって同時に自分自身のうちに基礎づけられているものとして認識されているような定義でなければならない」(同)。
 定義とは、その対象から特殊性をとりさって「普遍的規定性」(二二九節)においてとらえるものですから、その定義がなぜその事物の普遍性を示すものなのかが、「確証された定義」でなければならないのです。この観点からするとき、「増減するもの」との定義は、「量的規定とは、可変的でありかつ無差別的なもの」(九九節)という量の「単に正しい定義」にとどまり、「確証された定義」とはいえないのです。この定義の欠陥は、「増減するとはまさに大きさの規定を変えることを意味するにすぎない」(同補遺)のであり、大きさという規定された量を前提としているという点では、第一の定義と同様の批判を受けざるをえません。
 以上から、「確証された定義」としては、ヘーゲルのいうように、量とは「揚棄された質」(九八節補遺二)であると定義するしかないということになるのです。
 第三には、「絶対者は純粋な量であるとする立場」(九九節)つまり、絶対的に真なるものは量だとする立場への批判です。
 ヘーゲルは、量は「理念の一段階」(同補遺)であり、重要な論理的カテゴリーとしながらも、それを「絶対的なカテゴリーにまで高め」(同)る数学的立場は、量に「正当な位置」(同)を与えていないと批判しているのです。
 この立場からヘーゲルは、「事物の根本規定は数であると考えた」(一〇四節補遺三)ピュタゴラスを、「哲学の歴史においてイオニア学派とエレア学派との間に立っている」(同)と位置づけました。イオニア派のタレースは、万物の根源は水であるとし、アナクシメネスは空気であるとするなど、彼らは「事物の本質を物質的なもの(ヒュレー)とみる以上に」(同)出ませんでした。いわば、イオニア派は万物の始原を、思想においてではなく、感覚的にしかとらえることができなかったのであり、これに対してピュタゴラスは、万物の始原を「数」という感覚を越えるものとしてとらえようとする点において、一歩前進を示しました。「ピュタゴラスの哲学の原理は、言わば、感覚的なものから、超感覚的なものへの橋をなしているのである」(同)。
 これに対しエレア学派は、始原をはじめて「超感覚的なもの」、つまり思想としての「有」としてとらえました。エレア学派のパルメニデスは、「有のみが有り無は存在しない」(八六節補遺二)とすることによって「はじめて純粋な思想がとらえられ」(同)、「哲学の真のはじめ」(同)となったのです。
 ヘーゲルは、「自然においては、自由な内面性の世界である精神の世界においてよりも、量はより大きな重要さを持っている」(九九節補遺)といっています。精神よりも低いレベルの自然においては、低いカテゴリーの量が「より大きな重要さ」をもち、より高いレベルの精神においてはあまり「大きな重要さ」をもたないというのです。すなわち量というものはそれにふさわしい位置づけで取り扱われなければならないのであって、「対象のあらゆる区別と規定性とを単に量のうちにのみ求めるならば、それは精密で根本的な認識をこの上もなく妨げる偏見の一つ」(同)になると批判しています。

連続量と非連続量

 続いてヘーゲルは、純量は連続量と非連続量の統一であるといっています。
 「量は、まずその直接的な自己関係、あるいは牽引によって定立された自分自身との相等という点からみれば、連続量であり、そのうちに含まれている一というもう一つの規定からみれば、非連続量である」(一〇〇節)。
 向自有から量への移行に関連して、「一と多」「牽引と反発」というカテゴリーが登場しましたが、それが「純量」において展開し、連続量と非連続量になります。連続量は一または牽引であり、非連続量は多または反発です。量は、連続量と非連続量の統一としてとらえられるのです。
とはいっても、連続量と非連続量は「量の二種類とみるべきではなく」(同)、「量の概念のうちに不可分の統一をなして含まれている二つのモメント」(同補遺)としてみなければなりません。
 重要なことは、量をこの二つのモメントにおいてとらえないと運動そのものをとらえることはできないということです。それを証明しているのが、ゼノンの逆説とカントのアンチノミーです。
 先ほどお話ししたように、エレア学派は、有のみが存在し、無は存在しないとして運動を否定しました。その一員であったゼノンは、運動は矛盾であり「ゆえに運動は存在しない」(八九節)として、次のように述べています。
 「運動するものは或る目標に達せねばならない。このコースが全体である。全体を通過するためには、運動するものは、まず半分を通過しなければならない。今度は、この半分の終局が目標である。しかし空間のこの半分は再び全体であり、それもまた半分をもたねばならない。……そういうようにして無際限に進む。ゼノンは、ここに空間の無限分割性に到達する。即ち空間と時間とは絶対に連続的であるから、いかなる点においても分割は止み得ない。……運動はこの無限の契機の通過であり、それ故に決して終らない。それ故にまた運動するものは、その目標に達し得ないのである」(ヘーゲル『哲学史』上巻三四七ページ)。
 もちろん運動が存在しないというのが事実として誤りであることは明白ですが、このゼノンの提起した問題に論理的にどのように反駁するのかが問われているのです。
 レーニンは、『哲学ノート』のなかで、ゼノンの逆説を反論するには「運動は連続性(時間と空間との)と非連続性(時間と空間との)との統一である。運動は矛盾であり、矛盾したものの統一である」(レーニン全集㊳二二五ページ)ととらえなければならないと述べています。
時間と空間の連続性と非連続性の統一は、事物の運動をとおして現実のものとなり、運動における連続性と非連続性の統一としてあらわれることになります。A点からB点への位置の移動を考える場合、A・B間という空間を連続性としてとらえると、A・B間は区別をもたない一者であり、したがって論理的には無限に分割することが可能な量となります。しかし、連続性としてとらえることは、無限分割が論理的には可能ではあっても現実には区別をもたない、つまり分割されえない一者としてとらえることを意味しています。というのも、もしこれを中間のC点で分割してしまうと、A―C、C―Bという二つの有限な非連続性の量になってしまい、一者(A―B間の連続量)ではなくなってしまうからです。この連続性の見地を貫くとき、A・B間の半分という地点は存在しないことになります。なぜなら単に論理的に分割可能なものにとどまる無限の半分は、依然として論理的に無限だからです。これに対してA・B間を非連続性としてとらえるとき、A・B間の半分という地点は現実に存在することになります。つまりゼノンの誤りは、空間の連続性を主張しつつ、そこに非連続性を持ち込んだことによる誤りなのです。
 レーニンのいうように、運動とは連続性と非連続性の統一という「矛盾」なのであり、いわば、位置の移動は「ここにあって、ここにない」という矛盾なのです。中間点を通過するとき、「ここにある」とみることは、そこに運動の非連続性をみているのであり、「ここにない」とみるとき、そこに運動の連続性をみていることになるのです。
 このように時間、空間を連続性と非連続性の統一としてみることは、けっして観念的な問題ではなく、運動というものを具体的に考えていくうえで欠くことのできないカテゴリーなのです。
 同様にカントの空間・時間、物質のアンチノミーも、連続性と非連続性に関わる問題でした。
 カントの「第一のアンチノミーは、世界は空間的および時間的に限られたものと考えるべきか否か」(四八節補遺)という問題に関するものであり、「第二のアンチノミーにおいては、物質は無限に分割しうるものと考えらるべきか、それともアトムから成るものと考えらるべきか」(同)という問題です。
 カントはこの「アンチノミーのうちに含まれている対立した二つの規定を定立および反定立として対置し、そして両者を証明」(同)することによって、「無限なものを認識しようとすれば矛盾(アンチノミー)におちいる」(同)として、不可知論に陥ってしまったのです。
 空間、時間、物質も、すべて連続量であると同時に非連続量としてとらえなければならないにもかかわらず、カントは両者を切りはなしてとらえ、「一方ではそれらが無限に分割されうることを主張し、他方ではそれらが分割できないものから成っていることを主張するもの」(一〇〇節)でした。
 それは、言いかえると「量を一方では連続的なものとして、他方では非連続的なものとして主張することにほかならない」(同)ものであり、「どちらの見地も同じく一面的」(同)であるがゆえに不可知論の誤りに落ち込んでしまったのです。

「b 定量」

 「量のうちには、他を排除する限定性が含まれているが、本質的にこのような限定性をもって定立されている量が定量である。すなわち、定量とは限られた量である」(一〇一節)。
 定量とは、規定された量です。規定された量として限界をもっており、その限界において他の定量と区別されています。
 他の定量と区別された限界をもつ量としては、定量は一つのまとまりをもった量となっていますが、そのなかには多くの量が含まれています。
 「これらの定量の各々は、他の定量から区別されたものとしては、一つの統一をなしているが、他方それだけを考えてみれば、一つの多である」(同補遺)。
 例えば三という定量は、二や四という定量から区別された「一つの統一」をなしていますが、そのなかには、一が三つあるという「一つの多」でもあるのです。
 こうして、定量は、「数として規定されているのである」(同)。
 質における純有は、「抽象的で空虚な有」(八六節)であり、規定された定有においてはじめて「実在性」(九一節)を獲得しました。同様に量における純量も、「抽象的で空虚な」量であり、規定された定量においてはじめて「量の定有」(一〇一節補遺)を獲得し、事物のなかに数として具体的に存在するに至ります。
 ということは、純量において存在した連続量と非連続量との区別も、定量としての「数」において具体的区別として定立されることになります。
 「純量においては、区別が連続性と非連続性との区別として、即自的に存在しているにすぎないが、定量においては、これに反して、区別が定立され、量は今や区別されたもの、限界を持つものとしてあらわれている」(同)。
 すなわち、数において連続量は単位として、非連続量は集合数としてそれぞれ規定され、連続量と非連続量という即自的区別は、単位と集合という対自的区別へと展開していきます。いわば定量は、数において「完全な規定性」(一〇二節)に達するのです。
 「定量は、数においてその発展と完全な規定性とに達する。数は、そのエレメントとして一を持ち、非連続性のモメントからすれば集合数を、連続性のモメントからすれば単位を、その質的モメントとして自己のうちに含んでいる」(同)。
 ヘーゲルは、加減乗除の四則計算にべき乗とべき乗根を加えた六則計算について、その必然性を単位と集合数を使って説明しています。
 まず数そのものは、連続性と非連続性との統一、つまり単位と集合数との統一としてあります。したがって数の計算も、この単位と集合数との組み合わせによって決まってくるのです。
 「算法の原理は、諸数を単位と集合数との関係におき、二つの規定の相等性を作り出すことでなければならない」(同)。
 まず第一は、「すでに数であるものを数えあわす」(同)ことです。それは集合数と単位とを区別することなく単なる「数」ととらえ、「数であるものを数えあわす」足し算になります。
 第二に、集合数と単位とを区別したうえで「数え合わす」のが掛け算です。
 第三に、集合数と単位とを区別したうえで両者を「相等」(同)とするのがべき乗(二乗、三乗等)です。例えば、二の三乗は、二×二×二であり、二という集合数が、そのまま単位となっているのです。
 こうして、「この第三の規定において、集合数と単位という、存在する唯一の区別は完全な相等に達するから、算法はこの三つ以上にはありえない」(同)。
 この三つの積極的算法と並んで、「三つの消極的算法」(同)、つまり、引き算、割り算、べき乗根があるので、計六つの算法が必然的なものとしてとらえられることになるのです。

「c 度」

 本講の最初に、純量は純有に、定量は定有に、度は向自有に対応するとお話ししました。
 「度」は、分かりにくい項目となっています。というのも、向自有に対応して、向自有と同様に全く異なる二つの内容をもっているからです。
 一つは、向自有の「自分自身への関係としての直接性」、つまり一者であるという側面に対応する「度」として、「内包量」という問題がとりあげられています。
もう一つは、向自有のもつ真無限という側面に対応する「度」として、「比」がとりあげられています。
『大論理学』では、「内包量」は「度」ではなく「定量」の項目でとりあげられていますので、ヘーゲルとしても、どこに位置づけるべきか苦慮した結果、『小論理学』の結論に落ち着いたものでしょう。

内包量と外延量

 それでは、まず「内包量」からみていきましょう。
 「限界は定量そのものの全体と同一である。それは、自己のうちに多を含むものとしては、外延量であるが、自己のうちで単純なものとしては、内包量、すなわち度である」(一〇三節)。
 定量のところで、定量とは規定された量として「限定性」(一〇一節)をもった量であることを学びました。しかし、もう少し深く考えてみると、その限界には二通りあり、一つはそのなかに含まれる「多」の量による限界であり、もう一つはその定量自身のもつ、一つの(無差別の)まとまった大きさとしてもつ限界であり、前者が「外延量」、後者が「内包量」または「度」とよばれるのです。
 外延量は、「自己のうちに多を含むもの」として、「量のなかの量」とでもいうべきものであり、いくらでも増減でき、足したり引いたりすることができます。例えば二メートルという外延量と三メートルという外延量は、合計して五メートルの外延量とすることができます。
 これに対して、内包量は、「自己のうちで単純なもの」として一つのまとまりをもっている「量のなかの質」とでもいうべきものであり、異なる質を足したり引いたりすることはできません。水温三度の水と一二度の水を合わせても、一五度の水ができるわけではありません。
 内包量をあらわすには、温度、湿度、密度、強度のように「度」が用いられますので、ヘーゲルは、「内包量すなわち度」としているのです。
 マルクスは『資本論』のなかで、搾取強化の二つの方法を区別しています。一つは「労働日の延長」であり、これを「労働の外延的大きさ」の増大と指摘し、もう一つの「労働の強化」を「内包的大きさ」の増大とよんでいます。労働の強化は、労働の「密度」という「度」の増大として、内包量なのです。
 「標準労働日を基礎として、われわれがすでに以前に出会った一現象が発展し、決定的に重要なものとなる ── すなわち労働の強化がそれである。……いまや、われわれは、外延的大きさから内包的大きさまたは大きさの程度への転換を考察しなければならない(前掲書③七〇七ページ/四三一ページ)。
 いわば、定量それ自体にも量的なものと質的なものがあり、定量の量とでもいうべきものが外延量、定量の質とでもいうべきものが内包量ということになるでしょう。 
 マルクスの労働の例をとってみても、すべての労働は一定の外延的大きさ(労働時間)と同時に一定の内包的大きさ(労働強度)をもっているのであって、要は、量をみるとき、外延量、内包量の両者をともにみておく必要があるのです。
 「度において定量の概念が定立されている。それはそれ自身としては無差別的で単純な大きさであるが、しかしそれを定量とするところの限定性を、全く自己の外部にある他の諸量のうちに持っている。向自有的な無差別的な限界が絶対的な外面性であるというこの矛盾のうちに、量の無限進行が定立されている」(一〇四節)。
 度の中に、定量というものが「不断に自己を越え出」(同)て無限進行する必然性が示されている、というのです。すなわち定量とは、度にみられるように他者と無関係に自立した存在であるようにみえながらも、実際には、「自己の外部にある他の諸量」によってその大きさを規定されるという矛盾をもった存在です。いわば、直接態でありながら媒介態であるため、外部からの媒介によって不断に「自己を越え出るということが量の概念そのもののうちに含まれている」(同補遺一)という必然性が明らかになるのです。
 しかし、量の無限進行は、「実際は有限のうちに立ちどまっている悪しき無限の表現にすぎ」(同補遺二)ません。したがって真無限の量に移行しなければならないとして、「度」の二つ目の内容である「真無限の度」、つまり「比」の問題に入っていきます。

 「このように、向自有的な規定性を持ちながらも、自分自身に外的であるということが定量の質をなしている。定量はこの外在性のうちで自分自身であり、自分自身に関係している。定量のうちには、外在性すなわち量的なものと、向自有すなわち質的なものとが合一されている。 ── それ自身に即してかく定立された定量が比である。こうした規定性は、直接的な定量すなわち比の値であるとともに、また媒介すなわち或る定量の他の定量への関係である」(一〇五節)。
 まず「比」がなぜ真無限かというと、先にも一言したように自己同一性を保ちながら、無限に発展していくからです。例えば、一対二という比を考えた場合、二対四であったり三対六であったり、その両辺の数値が無限に進化しても、一対二という比の自己同一性は保たれたままだからです。
 ヘーゲル自身が、定量には、量と質とでもいうべきものがあり、量が外延量、質が内包量だと明確にいっているわけではありませんが、ここに、それらしきことをいっています。「定量のうちには、外在性すなわち量的なものと、向自有すなわち質的なものとが合一されている」というのがそれです。ここにいう定量のうちの「向自有」とは内包量にほかなりませんから、内包量は、定量の「質的なもの」としてとらえられているのです。エンゲルスも「数には質的区別がみちみちている」(全集⑳五六四ページ)といっています。
 こうして、定量のうちに量的なものと質的なものとを見いだしたヘーゲルは、比の値において質的同一性を保ちつつ、比の両辺において量的に無限な変化をもたらす「真無限の定量」として、「比」を導き出すに至ったのです。
 「比の両項はまだ直接的な定量であって、質的規定と量的規定とはまだ互に外的である。しかし、量的なものがそれ自身外在性のうちにありながらも自己関係であるという、あるいは、向自有と規定性への無関心とが合一されているという、それらの真理からすれば、比は限度である」(一〇六節)。
 比においては、比の値は比の値、両辺の数は両辺の数と、それぞれ相互に無関心な「まだ互いに外的」な関係にあります。いわば、比においては質と量とが「互に外的」関係におかれているので、両者は内的関係、つまり相互に影響し合う緊密な関係という「真理」に移行しなければならないのであり、その真理が「限度」だとして、「量」から「限度」に移行するのです。
 もともと、質と量とは対立する概念であり、質を揚棄したものが量でした。しかし、「度」において、量でありながら、量のうちに内包量、および比の値という質的なものが回復してきているのです。
 「量は、これまでみてきたような諸モメントを通過する弁証法的運動によって、質への復帰であることを証示した」(同補遺)。
 もともと量とは「揚棄した質」であり、「量とは変化にもかかわらずあくまで同一であるような可変的なものである」(同)ことを意味していました。しかし量の一形態としての「度」において、度は、量でありながら自己のうちに質を回復させるという矛盾を生みだしてしまったのです。
 この矛盾が、「量の弁証法」(同)をなし、量の弁証法により、量は量と質の「真理および統一であるもの、すなわち限度」(同)に移行するのです。
 「質の弁証法」によって質から量への移行がみられたのと同様に、ここでは「量の弁証法」によって量から「限度」へと移行することになるのです。

 

二、「C 限度」

度量の結節点

 「限度とは質的な定量である。それはまず直接的なものとしては、定有あるいは質がそれに結びつけられているような定量である」(一〇七節)。
 第一部有論の最後は、「質と量との統一」(同補遺)としての「限度」です。『大論理学』では限度(Das Mass)を「度量」と訳しています。すべての事物は、質と量との統一、つまり一定の規定された量(定量)をもった一定の質をもつ定有として存在していますので、「限度においてその完全な規定性に達する(同)ことになります。
 いわゆる「物には限度がある」といわれるものであり、量的、質的な変化がこの限度の範囲内にあるかぎり定有はその質を保つことになりますが、量的または質的変化がその限度を越えると、定有はもはやその質を維持することができず、或るものは、他のものに移行することになります。
 「限度において質と量とが直接的な統一のうちにのみあるかぎり、それらの相違は同じく直接的な仕方であらわれる。このかぎりにおいて特殊的定量は一方単なる定量であり、したがって限度(これはこのかぎりにおいて尺度である)を廃棄することなしに定有は増減されうる。しかし他方定量の変化は、また質の変化でもある」(一〇八節)。
 限度のうちにおける量と質とは、最初は「それぞれ独立性をも持って」(同補遺)おり、或るもののなかでの量的変化は、或るものの質に影響を与えることはなく、或るものの質的変化は、或るものの量に影響を与えません。いわば、量とは質でないものであり、質とは量でないものですから、限度のうちの量と質との区別は、対立したままにとどまっているのです。
 しかし、或るもののうちにおける量と質との無関係な変化には限界があって、その限界を越えると、量の変化が質の変化をもたらし、質の変化が量の変化をもたらすという、量と質との対立物の同一が定立されます。例えば、水に熱量を加えていくと、水は液体から気体の水蒸気へと質的に変化をするのです。この対立物の同一の定立される点を、「度量の結節点」とよんでいます。ヘーゲルは、この量と質の弁証法について、「一見何でもなくみえる量の変化は、質的なものを捕える言わば狡智である」(同)と面白い表現をしています。
 エンゲルスは、「自然の弁証法」のなかで弁証法の三法則の一つとして、「量から質への転化、またその逆の転化の法則」(全集⑳三七九ページ/古典選書『自然の弁証法〈抄〉』四三ページ)を指摘しています。
 『資本論』のなかで、貨幣が資本に転化するためには、「一定の最小限の貨幣または交換価値が、個々の貨幣所有者または商品所有者の手にあることが前提とされる」(前掲書②五三六ページ/三二六ページ)としたうえで、マルクスは、「ここでも、自然科学の場合と同様に、ヘーゲルが彼の『論理学』のなかで発見した法則、すなわち、単なる量的な変化がある一定の点で質的な区別に転化するという法則の正しさが、実証される」(同五三七ページ/三二七ページ)と述べています。
 これとは逆に、道具から機械へという労働手段の質的な変化が、生産力という量の飛躍的発展をもたらすという、質から量への移行も述べられています。こうして生産力の飛躍をもたらす機械制大工業が、「独自の資本主義的生産様式」(同③八七五ページ/五三三ページ )となっているのです。
 「限度のうちに存在している量が、一定の限度を越えると、それに対応している質もまたこれによって否定される。といっても、質一般が否定されるのではなく、この特定の質が否定されるにすぎないのであるから、その場所はすぐにまた他の質によって占められる」(一〇九節補遺)。
 こうして量の変化は質の変化を、この質の変化はさらに量の変化を、この量の変化は再び質の変化をということを無限にくり返します。いわば限度から限度の否定(限度のないもの)へ、限度の否定から新たな限度へと、「限度の否定および回復」(一〇九節)をくり返すのです。

限度から本質へ

 「限度は自己を揚棄して限度のないものとなる。しかし、限度のないものは限度の否定ではあるけれども、それ自身やはり質と量との統一であるから、限度のないもののうちで限度は同時にただ自分自身に出あうのである」(一一〇節)。
 ここからは、限度から本質への移行が説明されていますので、その弁証法的な論理の展開をみておきましょう。
 或るものは、量と質の統一としての限度をもっています。
 量は質を揚棄したものであり、したがって量と質とは対立する関係にある二つのものです。しかし、有論の最後に位置する「限度」においては、この対立する量と質とが、相互に移行しあう相互媒介の関係が生まれています。こういう相互媒介の関係は、すでに本質論で論じるべき課題であり、その意味で、「限度は即自的にはすでに本質であった」(一一一節補遺)ということができるのです。こうして、「限度」を媒介として有論から本質論へと移行していくことになります。
 有論とちがって本質論では、対立する二つのものの相互媒介の関係をつうじて事物の内面に踏み込んだ事物の真の姿をとらえる形式が問題とされます。 
 有論では或るものが他のものに「移行」することが論じられたのに対し、「本質においてはもはや移行は起らず、ただ関係があるにすぎない」(同)のです。つまり本質論では、もっぱら「本質と現象」「原因と結果」といった或るものの内部における二つのものの「関係」が論じられています。そこでヘーゲルは、本質論を「反省と媒介とにおける思想、あるいは概念の対自有と仮象にかんする理論」(八三節)といっています。有論では、表面的な「或るもの」とは何かがとらえられたのに対し、本質論では、「或るもの」のうちに分け入って、対立する二つのモメントとその間の関係を問題とする、より深い認識の形式へと前進していきます。
 こうして、「限度の弁証法」が有論から本質論への移行をもたらすのであり、「本質がそれらの弁証法の成果」(一一一節補遺)となるのです。