『弁証法とは何か』より

 

 

第七講 本質論 ①

 

一、本質論の主題と構成

 今日から第二部「本質論」に入ります。第四講で、有論、本質論、概念論とは人間の認識の深まりゆく形式をたどったものであるとお話ししました。
 第三講の予備概念の最後のところで、有論とは「直接性における思想」(八三節)であるのに対し、本質論とは「反省と媒介とにおける思想」(同)であることを学びました。いわば、有論は事物の現にある姿を直接的、表面的に、或るものと他のものおよび両者の関係としてみてきたのですが、本質論においては、事物の内部に一歩踏み込んで、事物をその内面における「本質と現象」とか、「原因と結果」とかいうように、二重の観点から、つまり「反省」関係、相互に「媒介」される関係としてとらえることによって、より深い事物の真の姿を認識する形式を議論しようとするものです。
 ヘーゲルは「論理学の(最も難解な)この部分は、主として形而上学および科学一般の諸カテゴリーを含んでいる」(一一四節)といっています。
 序論でみたように、論理学は「経験的な諸科学のうちに見出される普遍的なもの、法則、類、等々」(九節)を自己のうちにとり込み、「同じ思惟形式、法則、および対象を保存するものであるが、しかし同時により進んだ諸カテゴリーをもってこれらのカテゴリーを発展させ変形する」(同)ものとしてとらえられました。
 本質論では、この経験諸科学が見いだした「普遍的なもの、法則、類、等々」という、より深い事物の真の姿の形式を論じます。本質では本質と現象との関係を、法則では二つの本質の間の必然的関係を、類では類と種との関係をというように、普遍的な真の姿は、二つのものの間の相互媒介関係においてとらえることができます。そこで本質論は、「反省と媒介とにおける思想」ということになるのです。
 ヘーゲルは、この本質論で「形而上学」(形式論理学)と同じ「思惟形式、法則および、対象」を使用しながらも、それを弁証法的に変形し発展させて、ヘーゲル論理学の独自性を生みだしています。すなわち、形式論理学の四つの基本法則といわれる、同一律、矛盾律、排中律、充足理由律の四法則をとりあげながらも、それを同一と区別の統一という独自の弁証法的カテゴリーに発展させていますので、注目しておいてください。
 有論と同様に本質論も三つに分かれており、「A 現存在の根拠としての本質」「B 現象」「C 現実性」となっています。本質が肯定、現象が否定、現実性が本質と現象(肯定と否定)の統一です。
 ヘーゲルは、現に存在する有に関連して、定有、現存在、物、現実性と、四つものカテゴリーを使い分けています。「序論」のなかで、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(六節)とした『法の哲学』の序文に関して、次のように述べています。
 「わたしが現実という言葉を使っているとすれば、人々はそれについてとやかく言う前に、わたしがどんな意味にそれを用いているかを考えてみるべきであろう」(同)として、「わたしは論理学を詳細に述べた本のうちで現実という概念をも取扱っており、それを、やはり現存在を持ってはいるところの偶然的なものから区別しているだけでなく、さらに定有、現存在およびその他の諸規定からはっきり区別しているからである」(同)と述べ、とりわけ定有、現存在と現実性との区別に気をつけるようにいっているのです。
 「A 現存在の根拠としての本質」の主題は、全体として本質とは何かを明らかにすることにあります。「現存在」とは、何かに根拠づけられて存在する有を意味しますが、本質とは、現存在するものの根拠となるものであるという意味で、「現存在の根拠としての本質」との見出しがついています。
 「A 本質」のなかは、「a 純粋な反省規定」(肯定)「b 現存在」(否定)「c 物」(肯定と否定の統一)と、さらに三つに分かれています。内にある「本質」が外にあらわれ、「現存在」するにいたった有が「物」としてとらえられているのです。本質と現存在とは相互に媒介される「反省関係」にあり、その反省関係を論じるうえで重要な意味をもつのが、同一と区別の統一という弁証法です。本質論では様々な反省関係にあるカテゴリーが論じられますが、その全体を貫くのが同一と区別の統一という弁証法であり、反省関係にある二つのものは、「本質と現象」に象徴的に示されるように、同一であると同時に区別されてもいるのです。この反省関係を論じたのが「a 純粋な反省規定」です。
 次の「b 現存在」では、本質という根拠に媒介された有が現存在であることが明らかにされ、最後の「c 物」では、現存在するものが具体的な物であることが示されます。この「物」において、はじめて客観世界の具体的個物がとりあげられることになります。
 「B 現象」では、これまで「現存在」としてとらえられてきたものが、実は「現象」であることが示されています。客観世界は現象の世界であり、「無限の媒介」(一三二節)の世界として統一体をなしており、そのうちに「現象の法則」(一三三節)をもっています。この現象の法則は、物質とその運動(「内容と形式」)として展開され、それが「全体と部分」「力とその発現」「内と外」などのカテゴリーとなってあらわれることになります。
 「C 現実性」では、まず、ヘーゲルのいう現実性とは本質と現象との統一としての必然的な現存在であることが明らかにされます。現実性における「可能性と現実性」「偶然性と必然性」などのカテゴリーをつうじて、偶然性を含む単なる現象は必然的な現実性に転化することが明らかにされます。
 次いで、必然性とは何かが考察され、必然的なものは「絶対的な相関」として「実体性の相関」「因果性の相関」「交互作用」として展開されることが示され、最後に「必然の真理は自由であり、実体の真理は概念」(一五八節)であるとして、第三部「概念論」に移行することになります。

 

二、「A 現存在の根拠としての本質」

本質とは何か

 以上を前提として本質論に入っていきますが、一一二節から一一四節までは、本質論の総論にあたる部分であり、それだけに、抽象的議論が続く難解な箇所ですので、腰を落ち着けて学ぶことにしましょう。
 「本質は媒介的に定立された概念としての概念である。その諸規定は本質においては相関的であるにすぎず、まだ端的に自己のうちへ反省したものとして存在していない。したがって概念はまだ向自として存在していない」(一一二節)。
 ヘーゲルは、予備概念の最後に論理学の構成について述べ、有論を「即自的概念にかんする理論」、本質論を「概念の対自有と仮象にかんする理論」、概念論を「即自かつ対自的概念にかんする理論」としてとらえています(八三節)。
 つまり、論理学全体を、概念(事物の真にある姿)の「即自 ── 対自 ── 即対自」としてとらえ、それぞれ有論、本質論、概念論に該当すると考えています。
 「論理学的理念の三つの主要段階の相互関係は、次のように考えられなければならない。すなわち、概念がはじめて真実なもの、もっとはっきり言えば、有および本質の真理であり、有と本質とは、切りはなしてそれだけに固執される場合には、真実でないものである。有は直接的なものにすぎず、本質は媒介されたものにすぎないからである」(同補遺)。
 いわば、事物の表面的な真にある姿をとらえた思惟形式が有論であり、事物の内面に踏み込んで真にある姿をとらえた形式が本質論であり、事物を越えた事物の真にあるべき姿をとらえた形式が概念論だというのです。
 「本質は媒介的に定立された概念としての概念」とは、本質も概念のあらわれとして一つの概念(真の姿)ではあるが、その真の姿は内面的に踏みこんで本質と現象のような反省関係、つまり「媒介的に定立された概念」としてとらえられている、ということを意味しています。
 「まだ端的に自己のうちへ反省したものとして存在していない」とは、まだその概念は媒介・対立関係においてとらえられているのみであって、概念論の「概念」のように対立・媒介を揚棄した統一(「向自」)としてはとらえられていない、という意味です。
 「本質は、自分自身の否定性を通じて自己を自己へ媒介する有であるから、他のものへ関係することによってのみ、自分自身へ関係するのである。もっともこの他者そのものが有的なものとしてではなく、定立され媒介されたものとして存在している」(一一二節)。
 本質論は二つのものの間の反省、媒介関係を論じるものではありますが、一つの定有するもの、或るものの内部における二つのものの関係を論じるのですから、有論の或るものと他のものとの関係のような外面的な関係ではありません。
 つまりその関係は、或るものが表面的な自分自身を否定して内面的な本質に移行し、さらにその内面的な本質が反転し、自己否定をして外面的な現存在となるような関係であり、或るものの内部の運動です。その自己内の運動を「本質は、自分自身の否定性を通じて自己を自己へ媒介する有」とか「他のものへ関係することによってのみ、自分自身へ関係する」とかいっているのです。
 では、このような或るものの内部の相互媒介の関係としてとらえられる本質とは何かといえば、それは「事物の真の姿」(同補遺)であり、真の姿であるがゆえに、可変的な有と異なり事物のうちにおける「不変なもの」(同)、同一性を貫くものなのです。
 ヘーゲルが、「本質とは、自己のうちへはいっていった有」(一一二節)というとき、これを有(或るもの)自身が運動するものととらえる観念論だとみるむきもありますが、ここはむしろ、本質は客観的事物である或るもの自身のなかに存在するものであって、単なる人間の主観の産物ではないという趣旨に理解すべきものでしょう。
 本質を認識するということは、「事物はその直接態のままに放置さるべきではなく、他のものによって媒介あるいは基礎づけられたものとして示されなければならないこと」(同補遺)、「事物の直接的存在は、言わばその背後に本質がかくされている外皮あるいは幕」(同)にすぎないといっていることからも、そのように理解すべきだと思われます。 
 つまり本質を認識するとは、客観的事物から出発し、その事物の奥に隠された本質を探究するという唯物論的な作業が求められることになります。
 「事物の真の姿は直接にあらわれているとおりのものではない」(同)から、表面的な姿である有(或るもの)を否定して、有のなかに反省していくことによって、本質を見いだすことができるのです。
 このように本質は有の真理ですから、時間の経過により表面的な有が様々に形式変化したとしても、そのなかにあって「不変なもの」(同)なのです。
 英語のビー動詞に相当するドイツ語のザインの過去分詞(過ぎ去った有)はゲヴェーゼンです。ヘーゲルは本質(ヴェーゼン)は、「過ぎ去った有」(同)だからドイツ語でヴェーゼンといわれるのだといっています。こういうドイツ語のトリックのような説明はともかくとして、生まれたばかりの事物はその本質がそのままの姿で現れているのに、時代を経るにしたがって様々な現象を身にまとってその本質が見えにくくなる、だから過去にさかのぼって生まれたときの事物を見ればその本質がわかる、したがって本質とは「過ぎ去った有である」との説明は納得のいくものとなっています。
 その意味で、「過ぎ去った有」としての本質は、表面からみえにくくはなっているものの、一貫してその事物のなかを貫いているのであって、「そのために全く否定されているのではなく、揚棄されているにすぎず、したがって同時に保存されてもいる」(同)のです。
 このように、事物の真の姿である本質が認識されるということは、これまで真の姿だと思われてきた有(或るもの)を、真の姿ではないもの、つまり「仮象」(一一二節)に引きさげることを意味しています。
 つまり、本質の認識によって、「有は、直接的なものであるという一面的な規定からすれば、単に否定的なもの、すなわち、仮象(Schein)へひきさげられている。 ── したがって本質は、自分自身のうちでの反照としての有である」(同)。
 反照(シャイネン)も反省(リフレキシオン)も同じく、光の反射のように相手方にあたってはね返ってくる関係を意味しています。定有のうちで、有から本質へ、本質から有へと反照するような「有」の反照なのです。

最高のヴェーゼン

 ヘーゲルは、第一節で「哲学はまず宗教と共通の対象をもってはいる。両者ともに真理を対象としており、しかも、神が真理であり、神のみが真理であるという最高の意味における真理を対象としている」と述べ、『小論理学』でもしばしば神が登場してきます。
 唯物論者にとって神は論じる必要のないものですが、ヘーゲルの宗教観の一端を知るうえで、ここで本質に関連して神の問題をみていくことにしましょう。
 「最高のWesenがあると人々が言い、それによって神を意味する場合、このような言い方については、二つのことを注意しなければならない」(一一二節補遺)。
 「神は最高の本質として存在する」という言い方について、ヘーゲルは三つの観点から批判しています。
 一つは、「存在する」という言葉は「有限なものを指示する言葉」(同)であって、「それ以外に、またそれと並んで、なお他のものも存在しているような或るものである。しかし神は絶対に無限なものであるから、それ以外にまたそれと並んで他の存在もまたあるというようなものではない」(同)というのです。
 二つは、「神を単に最高の本質と呼ぶのもまた不十分である」(同)。というのも、最高というのは、同質のものが他にいくつもあり、それとの相対的比較にすぎないからです。
 神は他の存在するものと比較しうる存在ではなく、「単に一つの本質でもなければ最高の本質でさえもなく、本質そのもの」(同)なのです。
 三つは、神を本質そのものと「のみ」みる考えへの批判です。神は本質ではあるが現実世界に現象することなく、天という彼岸にあるとの考えであって、この考えでは「一般に有限なものが正当に取扱われていない」(同)と批判しています。ヘーゲルは、天なる父としての神、地なる子としてのキリスト、天地一体の精霊という三位一体をキリスト教の絶対的理念と考えていますので、神は天にのみあるとする考えをこのような形で批判しているのです。
 「神を最高の彼岸的存在とのみ見る人々は、目前にあるこの世界をそのままで確固とした積極的なものと考えているわけであって、本質とはまさにあらゆる直接的なものの揚棄であることを忘れているのである」(同)。
 いやしくも神が本質というのであれば、現実世界に存在する客観的事物(有)を揚棄したものが本質であり、その本質によって媒介されたものが客観世界だという媒介関係において神をとらえねばならない、というのです。
 したがって、「神の真の認識は、事物が直接的存在においては真理を持たないことを知ることからはじまる」(同)、つまり客観的事物は神という本質に媒介されてはじめて真なるものとなる、と理解すべきなのです。
 ヘーゲルにとって神は絶対者であり、世界の根底にあって世界に運動と秩序を与えるものなのです。
 もちろんこの点をとらえてヘーゲルを観念論者だと批判することもできるでしょう。しかし、ヘーゲルが説明したかったのは、客観世界は偶然的なものを寄せ集めた無秩序な存在ではなく、秩序だった合法則的連関をもつ統一体であり、だからこそ人間はその真理を認識しうるとの立場です。エンゲルスのいう「世界の現実の統一性はそれの物質性にある」(全集⑳四三ページ/『反デューリング論』上六六ページ)と同趣旨に理解すべきものでしょう。
 しかしまだ自然科学の未発展な一九世紀初頭において、宇宙、地球、生物等の相互連関と合法則的発展およびその発生原因を科学的に解明することができなかったところから、ヘーゲルは、絶対者、絶対理念、神などを持ち出し、これをもって合法則的に運動、変化、発展する世界の根本原因として説明しようとしたのです。
 ヘーゲルが、「ヌース(宇宙の理性 ── 高村)あるいは精神(これはヌースのより深い規定である)が世界の原因である」(八節)と述べていたのも、同様に理解すべきです。
このように、本質とは有の否定性としての有の真理なのですが、最初にみたように「媒介的に定立された概念」(一一二節)として「反省の立場」(同補遺)にあるものですから、有から本質へ、本質から有へと「反省」されることになり、本質を有から切りはなし、それだけで固定してとらえることは許されません。
 「人々はしばしば本質というカテゴリーを抽象的に使用し、事物を考察する場合、事物の本質を事物の現象の特定の内容に無関係なもの、それだけで存立するものとして固定する。……ただこの場合看過してならないのは、本質および内的なものは、現象することによってのみ、そうしたものであるという実を示すということである」(同)。
 本質は、外にあらわれ現象することによって本質であり、外にあらわれない本質というものは存在しないのです。「人間において大切なことはその本質であって、その行為や行状ではない」(同)と言うことがありますが、これは、本質と有とを切りはなすものの見方であって正しくありません。その行為や行状は「かれの内面の顕示としてのみみなければならない」(同)のです。

本質における同一と区別

 以上みてきたように、本質と有とは自己内の反省、媒介関係にありますが、この反省、媒介関係をつうじて「同一と区別」というカテゴリーが必要となってきます。
 というのも、本質は有のなかにあって不変なものですから、本質は自己同一を貫くもの、つまり同一性です。しかしこの本質はいつまでも有のうちにとどまっているのではなく、必ず外にあらわれでてきます。本質が外にあらわれでたものが現象です。「本質は現象しなければならない」(一三一節)のです。しかし現象は単なる現象にすぎないものであって、そこには本質的現象もあれば、非本質的現象もあります。いわば、本質のあらわれではあっても現象には現象としての多様な区別があるのです。その意味では現象は、本質と同一でもあれば、本質から区別されたものでもあるということになります。そこで本質論において、同一と区別が議論されることになるのです。
 「本質における自己関係は、同一性、自己内反省という形式である。これは有の直接性に代ってあらわれたものであって、両者はいずれも自己関係という抽象である」(一一三節)。
 本質は、有の自己のうちへの「反省」という関係ですから、自己自身のうちにおける関係、「自己関係」であり、その「自己内反省」をつうじて、本質は有の真理、有の真の姿として有のなかで「同一性」を貫くのです。つまり表面的な現象は様々に変化しても、有のなかの本質は「不変なもの」としての「自己同一性」を貫くのです。
 これに対して、本質をとらえようとしない「感性の無思想」は、表面的な現象にすぎないものまでをも全く変化しない自己同一性としてとらえるのです。これが予備概念でみた「古い形而上学」のあれか、これかという「悟性的な思惟」(二八節補遺)です。
 「制限され有限なもののすべてを有るものとみる感性の無思想は、それを自己と同一なもの、自己のうちで自己と矛盾しないものと解する悟性の固執へ移っていくのである」(一一三節)。
 いわば「悟性的な思惟」は、移りゆく諸現象を不変の本質と同一視して、自己同一性を貫く固定したものととらえるのです。
 「これは有の直接性に代ってあらわれたもの」(同)とありますが、「有論」における或るものは、その内に反省・媒介関係を含まない直接的存在として相対的な自己同一性を保っていますが、「本質論」における本質は、「自己内反省」という関係のなかで同一性を保っているところが「有」と異なるのです。
 「この同一性は、有から由来するものであるから、最初はただ有の特性にのみまとわれてあらわれ、外的なものと関係するように有と関係するにすぎない。有がこのように、本質から切りはなされて理解されるとき、有は非本質的なものと呼ばれる」(一一四節)。
 有のなかの同一性として本質がとらえられますと、これまでの有は「単なる仮象」(一一二節補遺)にすぎないもの、つまり「非本質的なもの」としてとらえられることになります。先に「あらゆる事物は一つの本質を持つと言われるならば、それは、事物の真の姿は直接にあらわれているとおりのものではないことを意味する」(同)ことを学びましたが、いわば「事物の真の姿」が本質であるのに対し、事物の「直接にあらわれているとおりのもの」が「非本質的なもの」となるのです。
「したがって本質は、非本質的なものを自分自身の反照として自己のうちに持っている。しかし反照あるいは媒介の作用には区別の作用が含まれており、区別されたものは、……同一性との区別のうちで、それ自身同一性の形式を持つようになるから、自己へ関係する直接性あるいは有として存在する」(一一四節)。
 本質と非本質的なものとの間には反省関係が存在します。本質の反省としての非本質的なものとは、後に「現存在」あるいは「現象」とよばれるものであり、現象には多様な区別が存在しています。
 すなわち、本質の「反照あるいは媒介の作用には区別の作用が含まれており」(同)、内にある本質が現象することにより、本質と同一の現象となったり、本質と区別される現象としてあらわれたりすることになるのです。
 「本質および内的なものは、現象することによってのみ、そうしたものであるという実を示すということである」(一一二節補遺)。
 内的な本質が表面的に現われでるということは、無規定な本質が規定されることを意味しており、その規定のされ方によって、様々な「区別」が生じるのです。本質というものは、或るもののもつ多様性が反省したものとして「有およびその諸規定を揚棄」(一一五節補遺)した単純なものです。しかし「直接的な無規定」(八六節補遺一)としての「純有」と異なり、本質は或るものとしての「規定を揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる無規定なもの」(同)です。したがって事物の本質は、「事物の現象の特定の内容に無関係なもの」(一一二節補遺)なのですが、その本質が規定され、特定の内容をもつ現象となることによって、その現象のうちに、本質との同一性と本質からの区別が生じるのです。
 「本質の発展のうちには、反省的形式においてではあるが、有の発展におけると同じ諸規定があらわれてくる。したがって、有と無との代りに今や肯定的なものと否定的なものとがあらわれ、前者はまず同一性として対立なき有に対応し、後者は区別として展開される」(一一四節)。
 こうして、本質論では全体として同一と区別の統一が論じられ、同一のなかに区別があり、区別のなかに同一があるという弁証法が展開されることになります。
 「論理学の(最も難解な)この部分は、主として形而上学および科学一般の諸カテゴリーを含んでいる。これらは反省的悟性の産物であって、この悟性は区別された二つのものを独立的なものとみると同時に、またその相関性を定立し、しかもこの独立性と相関性とを並列的あるいは継起的に『また』によって結合するにすぎず、これら二つの思想を総合し、概念に統一することはしないのである」(同)。
 ヘーゲルは、ここで形式論理学と同じ同一律、差異法則、矛盾律、排中律などを論じながら、同一は同一、区別は区別としてとらえるのではなく、形式論理学の内容を越える「同一と区別の統一」を論じているため、「論理学の(最も難解な)この部分」といっているのです。
 本質論では、「同一と区別」「本質と現象」「内容と形式」「可能性と現実性」「偶然性と必然性」「原因と結果」など、形式論理学でも取り上げられる、対立する二つの諸カテゴリーが論じられることになります。
 しかし、形式論理学では予備概念の「形而上学」で学んだように、こうした対立する二つのカテゴリーの区別が絶対化され、媒介のない対立においてとらえられているのに対し、ヘーゲル哲学で対立物の統一という形式としてとらえているところにその真理性があります。
 その意味で、弁証法的論理学は事物の運動一般を対立物の統一の形式においてとらえるものであり、運動の特殊な一形態である静止し、固定した事物をとらえる形式論理学をそのうちに含むものになっているのです。
 「思弁的な論理学は単なる悟性の論理学を含んでいるから、前者から後者を作り出すのは、わけのないことである。それには前者から弁証法的なものと理性的なものとを取り去りさえすればいい」(八二節)。

 

三、「a 純粋な反省規定」

「イ 同一性」

 さて、以上本質論の総論として「本質とは何か」を学んできましたが、いよいよここから本質論における「A 本質」の各論に入ります。
「A 本質」の各論は「a 純粋な反省規定」「b 現存在」「c 物」の三つから成っていますが、まず「a純粋な反省規定」からみていくことになります。
 このなかは更に三つに分かれ、「イ 同一性」「ロ 区別」「ハ 根拠」となっています。これまでと同様、肯定 ── 否定 ── 肯定と否定の統一という構成であり、肯定としての同一性が否定としての区別となり、肯定と否定の統一としての根拠において同一と区別の統一が実現することになります。
 つまり「a 純粋な反省規定」の全体をとおして、本質とは同一と区別の統一としての根拠であることが明らかにされるのです。
 「同一性」から入っていきます。
 「本質は自己のうちで反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自己との同一性である」(一一五節)。
或るものの反省としてとらえられた本質は、或るものを貫く「自己との同一性」です。様々に変化する或るもののうちにあって本質は不変の同一性を貫くのです。
 「この同一性は、人々がこれに固執して区別を捨象するかぎり、形式的あるいは悟性的同一性である。あるいはむしろ、抽象とはこうした形式的同一性の定立であり、自己内で具体的なものをこうした単純性の形式に変えることである。これは二つの仕方で行われうる。その一つは、具体的なものに見出される多様なものの一部を(いわゆる分析によって)捨象し、そのうちの一つだけを取り出す仕方であり、もう一つは、さまざまな規定性の差別を捨象して、それらを一つの規定性へ集約してしまう仕方である」(一一五節)。
 ヘーゲルは、同一性には抽象的同一性と具体的同一性とがあるといっています。抽象的同一性または「形式的同一性」とは、「区別を捨象」した同一性であり、この抽象的同一性が形式論理学の同一律「AはAである」となる同一性なのです。
 「形式的同一性の定立」には二つの方法があります。その一つは、「人間とは脳である」というように、具体的な人間という多様なもののなかから、分析によってその一部である脳を取り出し、脳と人間との同一性を定立するというものです。もう一つは、「人間と鯨とは哺乳類として同一である」というように、その「規定性の差別を捨象」して、哺乳類という「一つの規定性に集約」して同一性を定立するものです。

抽象的同一性と具体的同一性

 「同一性を、命題の主語としての絶対者と結合すると、絶対者は自己同一なものであるという命題がえられる。 ── この命題はきわめて真実ではあるが、しかしそれがその真理において言われているかどうかは疑問であり、したがってそれは、少なくとも表現において不完全である。なぜなら、ここで意味されているのが抽象的な悟性的な同一性、すなわち本質のその他の諸規定と対立しているような同一性であるか、それとも自己内で具体的な同一性であるか、はっきりしないからである」(同)。
 「絶対者」、つまり絶対的な真理は自己同一なものであるという命題は、その同一性が「抽象的な悟性的同一性」(同)の意味で用いられるのであれば真実ではなく、「具体的な同一性」(同)を意味する場合のみ真理なのです。後者の場合、「それはまず根拠であり、より高い真理においては概念である」(同)とヘーゲルはいっていますが、それは「根拠」「概念」のところでお話しすることにしましょう。
 「思惟にたいして同一性が持っている意義について言えば、何よりも大切なことは、有およびその諸規定を揚棄されたものとして内に含んでいる本当の同一性と、抽象的な、単に形式的な同一性とを混同しないことである」(同補遺)。
 つまり、本当の同一性とは区別をうちに含む具体的同一性であるのに対し、抽象的・形式的な同一性とは区別をうちに含まない同一性なのです。
 ヘーゲルが本質において論じようとする同一性が「本当の同一性」、つまり具体的同一性であることはいうまでもありません。これに対し、形式論理学で扱う同一性は、抽象的・形式的同一性にすぎません。
 抽象的・形式的同一性のことを、形式論理学では「同一の法則」あるいは「同一律」とよんでおり、形式論理学の基礎をなすもっとも重要な法則としてとらえています。同一律とは、ひとつづきの思考のなかでは、一つの概念の示す内容は一定でなければならないとするものであり、いわば常識的なものの見方です。
 「同一の法則は、すべてのものは自己と同一である、AはAである、と言われており、否定的には、AはAであると同時に非Aであることはできない、と言われている。 ── この法則は真の思惟法則ではなく、抽象的悟性の法則にすぎない」(同)。
 なぜ抽象的悟性の法則なのかというと、悟性とは有限な事物を認識する思惟だからです。有限な事物は、その限界によって「或るもの」として規定されていますので、悟性的認識は、或るものを或るものとしての限界をもち、静止し固定したもの、他のものと関連しないものとしてしか認識しないのです。しかし、エンゲルスのいうように「運動は物質の存在の仕方」(全集⑳六一ページ/「『反デューリング論』上八八ページ)であって、運動しない物質はありません。形式論理学は、運動する物質の一つの特殊な形式をとらえるものでしかないのです。
 「例えば、私が或る行為を窃盗と名づけるとすれば、その行為の根本的な内容はこれによって規定されているのであって、裁判官にはこうした知識で十分である」(二八節補遺)。
 形式論理学にいう「同一律」およびその裏返しとしての「矛盾律」(AはAであると同時に非Aであることはできない)は、その限りでは常識的な思惟法則、思惟形式なのですが、この思惟法則は無限なもの、あるいは事物の運動や連関をとらえられないために、「真の思惟法則」ではないとヘーゲルは批判しているのです。
 というのも、この同一律を貫くときは「遊星は遊星である、磁気は磁気である、精神は精神である、等々」(一一五節)という同義反復の「馬鹿らしい」(同)命題にしかならないのであって、命題というものは、例えば「人間は動物である」というように、主語と述語とが区別されながら、その区別されたものを同一なものとしてとらえるという、同一と区別の統一としてとらえてはじめて意味をもつからだといっています。なかなか鋭い指摘だと思います。
 「同一性はまず、われわれが先に有として持っていたものと同じものであるが、しかしそれは直接的な規定性の揚棄によって生成したものであるから、観念性としての有である」(同補遺)。
 この場合の「観念性」も「向自有」の観念性と同じように、「理念性」と訳されるべきものでしょう。すなわち、本質における同一性とは、直接的な存在としての有から出発しながら有の規定性を揚棄して、その背後にある有の真の姿(有のイデア)を、有と同一なものとして認識するところにありますので、「観念性としての有」なのです。つまり、有をその理念性においてとらえ、有を揚棄した有と同一なものが本質にほかならないのです。
 「同一性の本当の意味を正しく理解することは、非常に重要である。そのためにはまず第一に、それを単に抽象的な同一性として、すなわち、区別を排除した同一性として解さないことが必要である。これが、あらゆるつまらない哲学と本当に哲学の名に値する哲学とが分れる点である。本当の意味における同一性は、直接的に存在するものの観念性として、宗教的意識にたいしても、その他すべての思惟および意識にたいしても、高い意義を持つカテゴリーである」(同)。
 つまり、「本当の意味における同一性」とは、現存する事物を揚棄した真実在としてのイデア(理念)との同一性を意味する「高い意義を持つカテゴリー」なのであって、抽象的、形式的同一性と理解してはならないというのです。