『弁証法とは何か』より

 

 

第一三講 概念論 ①

 

一、概念論の主題と構成

 今日から、第三部「概念論」に入っていきます。この概念論こそヘーゲル哲学の核心をなす部分であり、ヘーゲル哲学の革命的性格、その変革の立場がここで浮き彫りにされることになります。
 レーニンは「哲学ノート」の「ヘーゲルの著書〈論理学〉の摘要」において、概念論を読み終えた感想として「ヘーゲルのこのもっとも観念的な著作のうちには、観念論がもっともすくなく、唯物論がもっとも多い。"矛盾している"、しかし事実だ!」(レーニン全集㊳二〇三ページ)と書き記しています。
 ヘーゲル哲学のもっとも「観念論的」と思われる概念論のなかに、レーニンは、「唯物論がもっとも多い」ことを見いだしたのです。
 われわれも、この概念論における変革の立場と唯物論を探訪する旅に出かけることにしましょう。

概念論の主題

 概念論を読んだだけでは全体として何を述べているのか、そう簡単には理解できませんし、そもそも概念とは何かについても様々の議論があるところです。というのも、後に述べるように、ヘーゲルは、ことさらに概念論を分かりにくいものとして展開しているからです。
 結論的にいうと、ヘーゲル論理学をまず全体として認識の形式としてとらえることが重要だと思います。ヘーゲルは、「哲学はまず一般的に言って、対象を思惟によって考察することと定義されうる」(二節)と言っていますが、論理学は、「対象を思惟によって考察」することをつうじて真理認識の思惟形式論となっているのです。しかし認識の形式論といっても、単に客観世界がどうあるかを認識するというにとどまらず、客観世界がどうあるべきかをも認識する認識の形式論なのです。
 有論、本質論は、客観世界がどうあるかを問題としています。有論では、事物の表面的な真の姿がとらえられるのに対し、本質論では、事物の奥に隠された真の姿がとらえられます。これに対して概念論では、客観世界がどうあるべきかの形式を問題としており、事物の真にあるべき姿が「概念」の形式においてとらえられることになります。 
 ヘーゲルは「論理学を単なる形式的思惟の学というより一層深い意味において理解することは、宗教、国家、法律、および道徳のためにも必要である」(一九節補遺三)といっています。本当は概念論において国家、社会の真にあるべき姿を論じたかったのでしょうが、注意深くそこを避けているのも興味深いところです。
 『大論理学』では有論と本質論を「客観的論理学」、概念論を「主観的論理学」として位置づけていましたが、ヘーゲルは『小論理学』ではその枠組みを使用していません。というのも、概念論では事物の真にあるべき姿という主観的な、頭のなかにとらえられる概念を問題にしているだけではなくて、主観的概念が現実に転化し理念となるという主観と客観の統一までを論じているので「主観的論理学」と規定するのは狭すぎると考えたからではないでしょうか。
 「エンチクロペディーへの序論」のなかで、「一口に言えば哲学の内容は現実」(六節)であり、「自覚的な理性と存在する理性すなわち現実との調和を作り出すことが、哲学の最高の究極目的」(同)であることが明らかにされました。いわば、哲学の「最高の究極目的」は、「真にあるべき姿」をかかげての「理想と現実の統一」にあり、それを論じるのが概念論全体を貫く主題となっているということができます。

概念論の構成

 概念論は、総論(一六〇~一六二節)、「A 主観的概念」「B 客観」「C 理念」の四つに大きく分かれています。
 総論では、概念とは「真にあるべき姿」であることが議論されます。それを受けた各論が、主観的概念、客観、理念の三つに分かれ、これまでと同様、「主観的概念」と「客観」との統一が「理念」としてとらえられています。
 「主観的概念」は、さらに「a 概念そのもの」「b 判断」「c 推理」に分かれ、ここで形式論理学の批判が行われると同時に、概念、判断、推理も概念の諸形式として、独自の意義を与えられることになります。
 次の「客観」では、哲学の任務は「主観と客観との対立を克服することにある」(一九四節補遺一)との立場から、主観と客観との交互作用をつうじて、主観的概念は客観へ移行するという関係が論じられます。
 「客観」は、「a 機械的関係」「b 化学的関係」「c 目的的関係」の三つに分かれ、目的的関係において、「主客の統一」(二一〇節)が定立されることが明らかにされます。
 最後の「理念」は、「概念と客観性との絶対的な統一」(二一三節)です。ここにいたって、真にあるべき姿は、客観性を獲得し、ここに「理想と現実の統一」という真理が実現されることになります。
 「理念」も「a 生命」「b 認識」「c 絶対的理念」の三つに分かれ、最後の「絶対的理念」つまり「絶対的真理」に到達するためには、弁証法的論理学以外にありえないことが明らかにされるのです。
 以上を前置きとして、さっそく本論に入っていきましょう。

 

二、「概念論」総論

概念論はなぜ分かりにくいのか

 これまでにもお話ししてきたように「概念」とは何よりも、具体的普遍であり、事物の「真にあるべき姿」(イデア)です。イデアは「理念」と訳されるのが一般的ですが、ヘーゲルは理念を「概念と客観性との絶対的な統一」(二一三節)、つまり主観としてのイデア(概念)が客観化したものとしてとらえているところから、それと区別する意味で「概念」というカテゴリーを用いています。しかし、ときには、理念をイデアの意味で使うこともあります。例えば「哲学はただ理念をのみ取扱うものであるが、しかもこの理念は、単にゾレンにとどまって現実的ではないほど無力なものではない」(六節)という場合の理念はイデア(概念)の意味で用いられています。このような使い分けに注意する必要があります。
 したがって本来なら、第一に、概念論はこの「真にあるべき姿」としてのイデア界を論ずるものであり、この点において客観世界の真の姿を論じた有論、本質論から区別されるイデア論であること、第二に、「真にあるべき姿」としてのイデアは、客観世界の必然性、法則性の認識から生まれ、客観世界を否定するものとして生成するという「概念の生成論」が、まず概念論の冒頭で語られなければなりません。
 しかし、ヘーゲルはこの二つのテーマのいずれについても正面から議論することなく、概念論は、すでに生成された概念を前提とし、その概念がどう展開していくのかを論じるという構成になっているために非常に分かりにくいものとなっているのです。
 まず第一の概念とはイデアであるという点については、一三二節で「現象の世界」を「イデア界」に対立するものとしてとらえ、一四二節補遺で真の現実とは、エネルゲイアとしてのイデアが現実になったものであることを指摘しています。しかし肝心の本質論から概念論への移行にあたっては、「必然性の真理は自由であり、実体の真理は概念」(一五八節)であるとか、「概念が有および本質の真理である」(一五九節)とかいうのみであって、概念がイデアであることを正面から論じていないのです。
 第二の概念の生成論、つまり概念は客観に媒介されつつ客観世界の否定として生成するという生成論は、もっぱら「序論」や「予備概念」において展開されるにとどまっています。
 すなわち、哲学は経験から出発しながら、理念に到達する過程を、直接性と媒介性の統一としてとらえ、次のように述べています。
 「例えば神にかんする知識は、一般に超感覚的なものにかんする知識はそうであるが、本質的に感覚や直観を越えた高揚を含んでいる。 ── したがってそれは感覚や直観のような最初のものへの否定的な態度を含んでおり、このかぎりにおいて媒介性を含んでいる。……にもかかわらず、神にかんする知識はあくまで意識の経験的側面にたいして独立的である。否、それは本質的にそうした否定と高揚を通じて自己にその独立を与えるのである」(一二節)。
 ここでの「神」や「一般に超感覚的なもの」は、そのまま「概念」におきかえて読むことができるでしょう。
 同様の趣旨は、カントの不可知論批判の箇所にもあります。
 「思惟が感性的なものを越えて高まるということ、有限なものを越えて無限なものへまで進むということ、……これらはすべて思惟そのものであり、このような移行がすなわち思惟にほかならないのである」(五〇節)。「経験的な世界を思惟するとは、本質的に、その経験的形式を改めて、それを一つの普遍的なものに変えることを意味する。思惟は同時にかの基礎に否定的な働きをし、知覚された素材は、普遍によって規定される場合、最初の経験的形態にとどまってはいない。殻が除かれ否定されて、知覚されたものの中味が明かにされるのである」(同)。
 ここにいう「一つの普遍的なもの」も、概念に読み替えると理解しやすいでしょう。
 このように「序論」や「予備概念」で、それとなく概念の生成について述べながら、本論である概念論では、「一六三節補遺二」で一言ふれるのみであり、しかも後にみるようにそこでは誤解を生みだしかねない表現をしています。
 こうした二つの点からして、概念論はヘーゲル哲学の核心部分でありながら最も理解し難いものとなっており、日本の唯物論者のなかでも、これまで概念=イデアととらえる見解は存在せず、概念=有機体ととらえる議論がまかりとおってきました。しかし、こうした理解では、概念論の変革の立場と革命的精神をとらえることはできません。
 ヘーゲルは、自分の哲学を「絶対的観念論(アプゾリューター・イデアリスムス)」、つまり「絶対的イデア主義」と呼んでいることも、概念をイデアとしてとらえてはじめて理解しうるのです。
 ここにも、ヘーゲルが保身のために、自己の変革の立場と革命的精神を覆い隠そうとしたことが示されているのではないかと推測するものです。
 こうして、概念論ではイデア生成論は省略され、イデアが現実性に必然的に転化する側面からのみ論じられることになるのです。
 以上を前提として概念論総論に入っていくことにしましょう。

概念とは何か

 「概念は向自的に存在する実体的な力として、自由なものである。そして概念はまた体系的な全体であって、概念のうちではその諸モメントの各々は、概念がそうであるような全体をなしており、概念との不可分の統一として定立されている。したがって概念は、自己同一のうちにありながら、即自かつ対自的に規定されているものである」(一六〇節)。
 概念は、客観世界の必然性をのり越え、主観のうちにとらえられたイデア(事物の真にあるべき姿)として、客観世界から自立した「自由なもの」です。「向自的に存在する」というのは、客観世界から自立して存在するという意味です。「実体的な力」というのは、実体が偶有を生みだす「絶対の力」(一五一節)であるのと同様に、イデアである概念は、絶対的に現実性となる力をもっていることを意味しています。
 いわば、概念をエネルゲイアとしてのイデアとしてとらえたものであり、それによって概念というカテゴリーがキーネーシスに対するエネルゲイアとして、より善く生きることにもつながるカテゴリーであることを明らかにしたのです。
 概念は、自らは普遍でありながらも自己を特殊化して個別(現実性)となる具体的普遍です。したがって普遍・特殊・個別のモメントを自己のうちに含んでいます。それをヘーゲルは、「概念はまた体系的な全体」であって「自己同一のうちにありながら」、こうした区別を自己のうちにもち「即自かつ対自的に規定されている」といっているのです。
 「概念の立場は一般に絶対的観念論の立場であり、哲学は概念的認識である。というのは、哲学はその他の意識が存在するものとみ、またそのままで独立的なものと考えているものが、単に観念的なモメントにすぎないことを知っているからである」(一六〇節補遺)。
 予備概念(四五節補遺)でもみたように、ヘーゲルは自分の哲学を「絶対的観念論」の立場だと自称しています。絶対的観念論とは理想と現実の統一の立場であって、客観世界という「独立的なものと考えているもの」は有限なものにすぎず、「観念的な」(理念的な)理想によって真にあるべき姿につくりかえられるべきモメントでしかないのです。
 つまり、「哲学はただ理念をのみ取扱うものであるが、しかもこの理念は、単にゾレンにとどまって現実的ではないほど無力なものではない」(六節)のです。
 「悟性的論理学においては、概念は思惟の単なる形式、あるいは一般的な表象と考えられている。概念は生命のない、空虚な、抽象的なものだという、感情や心情の側からしばしばなされる主張は、概念にかんするこうした低い理解にのみあたるのである」(一六〇節補遺)。
 悟性的論理学とは、形式論理学のことです。そこでは、概念を「思惟の単なる形式」「生命のない、空虚な、抽象的」普遍だとされているが、それは「低い理解」にすぎない、というのです。
 ヘーゲルも、「概念」が事物の共通性、普遍を抽象した観念的形式であるという側面をもっていることは否定しません。しかしこういう「抽象的普遍」は、死んだ普遍性にすぎないのであって、真の概念とは、事物の「真にあるべき姿」をとらえた「具体的普遍」でなければならない、というのです。
 「実際においては事情はまさに逆であって、概念はむしろあらゆる生命の原理であり、したがって同時に絶対に具体的なものである」(同)。
 ヘーゲルのいう概念とは、死んだ抽象ではなく「あらゆる生命の原理」、つまりあらゆる現実性を生みだす具体的普遍です。
 「真にあるべき姿」は、客観世界から導き出されるものであり、「有および本質を、したがってこれら二つの領域の富全体を、観念的な統一において自己のうちに含んでいる」(同)から、単なる抽象的普遍ではなく、「絶対に具体的なもの」なのです。つまり、事物の「真にあるべき姿」は、すべての事物について存在するものですから、客観世界の「領域の富全体」を自己のうちに含んでいるのです。したがって「あらゆる豊かな内容」(同)を、「自己のうちから解放」(同)して、無数の「真にあるべき姿」を客観世界に実現する「無限の、創造的な形式」(同)なのです。
 このように概念をとらえることは、「誤解と混乱の種を作る」(同)ことになるのではないか、との疑問に答える形で、ヘーゲルは次のようにいっています。
 「形式論理学で言う概念と思弁的論理学で言う概念との距りがどんなに大きかろうと、もっとよく吟味してみれば、概念という言葉のより深い意味は、一見そうみえるほど、一般の用語に縁のないものではないのである」(同)。 
 その例として、ヘーゲルは「財産にかんする諸法律を財産という概念から導き出す」(同)という場合をあげ、「概念から導き出す」というからには、概念が無内容な「空虚な形式」(同)ではないことを認めたものだといっています。形式論理学の概念も、事物に共通する普遍として、事物の「本来の姿」をもとらえることができるのですから、ヘーゲルのいう「真にあるべき姿」に近似した意味をもっているといえます。

概念は発展する

 「概念の進展は、もはや移行でもなければ、他者への反照でもなく、発展である。なぜなら、概念においては、区別されているものが、そのまま同時に相互および全体と同一なものとして定立されており、規定性は全体的な概念の自由な存在としてあるからである」(一六一節)。
 有の進展は、或るものから他のものへの「移行」、本質の進展は「他者への反照」だったのに対し、概念の進展は「発展」です。なぜなら、概念の進展は自己同一性を保ったうえでの区別として、概念から「区別されているもの」も、また概念という「全体と同一なものとして定立」されているからです。概念は、概念としての同一性を保ちつつ、自ら変化し、自らの区別を作り出すという形態で「発展」していきます。つまり、真にあるべき姿としての概念は、自らを客観化して現にある姿に「発展」させ、「自己を自分自身の展開として示す」(一六一補遺)のです。
 「規定性は全体的な概念の自由な存在としてある」というのは、概念の進展としての発展は、自由な概念の規定されたものであることを意味しています。
 第一二講で、この箇所は有論における対立物の相互移行、本質論における対立物の相互浸透、同一、概念論における対立物の闘争、つまり矛盾とその解決を述べたものだとお話ししました。
 では、概念論において、発展をもたらす対立・矛盾はどのようにとらえられているのでしょうか。それはある事物のうちにおける「現にあるもの」と「真にあるべきもの」の対立なのです。「真にあるべきもの」は、「現にある」事物のなかに潜在しているものです。人間は客観的事物の科学的考察をつうじて、「現にある」客観的事物に潜在している「真にあるべきもの」を、概念としてとらえて顕在化させ、その概念にもとづいて客観的事物を「真にあるべきもの」に変革し、現にあるものを真にあるべきものに発展させるのです。
 「発展は、すでに潜在していたものを顕在させるにすぎない。自然においては、概念の段階に相当するものは、有機的生命である。かくして例えば、植物は胚から発展する。胚はそのうちにすでに植物全体を含んでいる。といっても、それは観念的に含んでいるのであって、したがってその発展は、植物の諸部分である根や茎や葉などが、非常に小さい形でではあるが実在的に、胚のうちに存在している、という風に解されてはならない」(同補遺)。
 発展は、「すでに潜在していたものを顕在させるにすぎない」のです。つまり「観念的に含んでいる」ものを、現実の姿に顕在化させるのであって、「箱詰め」になっているものが大きくなるということではないのです。
 ここに、有機的生命がとりあげられていることから、「概念とは有機的生命である」と解したうえで、ヘーゲルのいう発展とは、展開にすぎないと批判する立場もあるようですが、ヘーゲルが有機的生命の例をあげたのは、現にあるものから真にあるべきものへの発展の一例を示したにすぎません。自然、社会、精神という世界全体の「あらゆる生命の原理」(一六〇節補遺)としての概念は、「真にあるべき姿」として現にあるものを真にあるべきものに発展させるのです。
 「真にあるべき姿」としての概念は、その発展「過程において自分自身のもとにとどまり、過程は内容上なんらの新しいものをも定立せず」(一六一節補遺)、「真にあるべき姿」を顕在化させるという、「ただ形式上の変化をひき起すにすぎない」(同)のです。

概念の諸形式は「現実的なものの生きた精神」

 「概念論は 主観的あるいは形式的概念の理論、 直接態へ規定されたものとして概念、あるいは客観性の理論、 理念、主観=客観、概念と客観性との統一、絶対的真理の理論にわかれる」(一六二節)。
 ここは、概念論の構成を述べたもので、説明を要しないと思います。重要なことは、「主観的あるいは形式的概念」においては概念、判断、推理など形式論理学が扱う思惟形式を取り扱うけれども、それを「生命のない、無活動な容器」(同)として扱うわけではない、と断っていることにあります。
 「実際はこれに反して、それは概念の諸形式として、現実的なものの生きた精神であり、現実的なもののうち、これらの形式の力で、すなわちこれらの形式を通じ、またそのうちで、真理であるもののみが真理なのである」(同)。  
 概念、判断、推理は無内容な形式ではなく、これらの形式が客観的事物を反映した「概念の諸形式」として「真理であるかどうか」が問われる「現実的なものの生きた精神」だというのです。このあたりが形式論理学と異なるヘーゲルの独自性を示すものであり、詳しくは、それぞれの箇所で学ぶことにしましょう。
 最後に、予備概念の最後、八三節で、有論を「即自的概念にかんする理論」、本質論を「概念の対自有と仮象にかんする理論」、概念論を「即自かつ対自的概念にかんする理論」と説明したことの理由が、ここにきて明らかにされています。
 有論、本質論は、「限定された概念、即自的な概念」(一六二節)にすぎない。なぜなら「第一に、各々の規定がそのうちへ移行し、そのうちで反照し、かくして相関的なものとして存在する他のものは特殊として規定されていないし、第二に、各々の規定がそのうちで統一へ帰る第三のものは個あるいは主体として規定されていないし、第三に、各々の規定は普遍ではないから、対立規定におけるその同一、すなわちその自由が定立されていないからである」(同)。
 有論では、移行、本質論では反照(反省)、相関が論じられましたが、それはいずれも同一と区別の関係として論じられました。ヘーゲルは、同一と区別の関係のもっとも普遍的な形態が、普遍と特殊の関係であり、同一と区別の統一の最も普遍的な形態は、普遍と特殊の統一としての個(主体)だとして、とらえています。この主体を扱うのが概念論であるのに対し、主体の登場しない有論、本質論を、「限定された概念」にすぎないといっているのです。概念論では主体として、「生命」一般と人間主体の精神活動である「認識」が扱われます。
 以上で概念論の総論を終えたことにし、各論に入っていくことにしましょう。

 

三、「A 主観的概念」

主観的概念とは何か

 概念論は先に見たように、「A 主観的概念」「B 客観」「C 理念」として構成され、主観的概念と客観との統一が理念としてとらえられるという、これまでと同様の構成になっています。
 主観的概念というのは、「概念そのもの」です。いわば抽象的普遍としての概念としての側面と同時に、具体的普遍としての概念(イデア)の側面をも論じています。主観的なイデアが実践を媒介として客観世界にあらわれでることによって、理念(「概念と客観性との絶対的な統一」二一三節)となり、ここに、理想と現実の統一が実現されることになります。
 主観的概念においては、形式論理学でとりあげられる概念および概念の展開としての判断、推理などの思惟形式もとりあげられています。形式論理学ではこれらの思惟形式は「生命のない、無活動な容器」(一六二節)にすぎないものであって、それ自体が真理であるかどうかには関わりのないものとみられています。
 しかしヘーゲルは、これらのカテゴリーも、すべて概念とは「真にあるべき姿」であるという内容をもっていることを前提にして、これらの思惟形式をも真理であるかどうかの考察の対象にしているところに、ヘーゲル概念論の独自性があるのです。

「a 概念そのもの」

 「概念そのものは、次の三つのモメントを含んでいる。 普遍 ── これは、その規定態のうちにありながらも自分自身との自由な相等性である。 特殊 ── これは、そのうちで普遍が曇りのなく自分自身に等しい姿を保っている規定態である。 個 ── これは、普遍および特殊の規定態の自己反省である。そしてこうした自己との否定的統一は、即自かつ対自的に規定されたものであるとともに、同時に自己同一なものあるいは普遍的なものである」(一六三節)。
 概念そのものは、そのうちに普遍、特殊、個という三つのモメントをもっている具体的普遍です。具体的普遍としての概念は、規定されて特殊、個という「規定態」となります。しかし、これらの規定態のなかにあっても概念が貫かれていますので、普遍は「自分自身との自由な相等性」をもっています。
 次に特殊は、概念の規定態ですが、そのうちで普遍である概念は「曇りのなく自分自身に等しい姿を保っている」のです。
 最後の個は、普遍と特殊の統一として規定された「自己反省」、現実的なものです。この普遍と特殊をモメントとして含む個は、概念の「即自かつ対自的に規定されたもの」として概念の自己同一性を保っています。
 要約すると、概念は、自ら特殊化して、個別となりながらも、そのすべての規定態のなかに「真にあるべき姿」が貫かれているのです。
 先ほどの胚の例でいうと、小麦の胚という概念は自らを、根、茎、葉として特殊化した個となりながらも、それぞれの個のなかにあって小麦という主体を貫き、小麦としての自己同一性を保っているのです。
 それをヘーゲルは、概念は「自ら特殊化するものであり、他者のうちにありながらも、曇りない姿で自分自身のもとにとどまっているものである」(同補遺一)といっています。
 こういう「真の包括的な意味における普遍」(同)つまり具体的普遍と、「単に共通なもの」(同)としての抽象的普遍とを「混同しないことが大切」(同)なのです。
 「個は現実的なものと同じものであるが、ただ個は概念から出現したものであるから、自己との否定的同一としての普遍的なものとして定立されている。現実的なものは即自的にのみ、すなわち直接的にのみ、本質と現存在との統一であるにすぎないから、それは産出することもできるものにすぎない。しかし概念の個別性は、絶対的に産出するものであり、しかも原因のように、他のものを産出するという仮象を持たず、自分自身を産出するものである」(一六三節)。
 概念の特殊化としての個は、客観的事物ではありますが、本質と現存在との統一としての現実的なものとは異なるものです。どこが異なるのかといえば、現実的なものは、単なる抽象的な可能性をも含むものですから、外面に顕在化することもありうる、つまり「産出することもできるもの」にすぎません。これに対し、概念は、「あらゆる豊かな内容」(一六〇節補遺)を「自己のうちから解放する、無限の、創造的な形式」(同)として、絶対的に自らを特殊化し、個を「絶対的に産出するもの」であり、個に特殊化されない概念は存在しないのです。

具体的普遍とは何か

 概念は抽象的普遍ではなく、具体的普遍であるといっても、なかなかイメージしにくいかもしれません。
 そこでヘーゲルは、具体的普遍の例として「人間そのもの」(一六三節補遺一)をあげています。第一部「有論」の「向自有」のところで、「向自有の最も手近な例は自我である」(九六節補遺)ことを学びました。自我は自己同一でありながら無限に発展するものとして、向自有するものです。この向自有するものとしての自我を一個の自由な人格としてとらえたのが、具体的普遍としての「人間そのもの」です。自由な人格をもつ「人間そのもの」は、「自ら特殊化するものであり、他者のうちにありながらも、曇りない姿で自分自身のもとにとどまっているもの」(一六三節補遺一)として、具体的普遍なのです。
 この具体的普遍としての「人間そのもの」は、「キリスト教によってはじめて完全に承認されるようになった思想」(同)であり、「キリスト教徒のみが人間そのものの無限性と普遍性とを認めている」(同)と述べています。
 こうして、概念論の各論で「認識」という人間の精神活動が議論されることになります。
 さらに、ヘーゲルは具体的普遍と抽象的普遍の例として、ルソーの『社会契約論』をあげています。
 「上に述べた単なる共通性と真の普遍性との相違は、ルソーの有名な社会契約のうちに見事に言いあらわされている。ルソーは、国家の法律は普遍的意志(ヴォロンテ・ジェネラル)から生じなければならないが、といって決して万人の意志(ヴォロンテ・ドゥ・トゥ)である必要はない、と言っている」(同)。
 ルソーのいう普遍的意志とは、具体的普遍としての意志、つまり人民の「真にあるべき」意志であるのに対し、万人の意志とは、単に万人に共通な抽象的普遍意志、多数の意志にすぎません。ヘーゲルは、ルソーのいう「普遍的意志とはすなわち意志の概念であり、もろもろの法律はこの概念にもとづいている意志の特殊規定である」(同)といっています。ルソーは、この「真にあるべき」意志による統治という「人民主権論」を唱えて、フランス革命を理論的に指導する役割を果たしました。

概念の発生

 「一六三節補遺二」は、ヘーゲルが概念の発生論、生成論を展開している唯一の箇所です。
 悟性的論理学(形式論理学)では、まずさまざまの事物があって「その後に主観的活動が行われ、そしてこの主観的活動がそれらに共通なものを抽象し総括する働きによって概念を作る」(同補遺二)と考えていますが、ヘーゲルはそれは誤りだと批判しています。
 ヘーゲルにいわせると、「概念は真に最初のものであり、さまざまの事物は、それらに内在し、それらのうちで自己を啓示する概念の活動によって、現にそれらがあるような姿を持っている」(同)のであって、その宗教的な表現が「神は世界を無から創造した」(同)といわれるものだというのです。
 この箇所をみると、ここにヘーゲルの観念論的本質があらわれているといいたくなります。しかしここでヘーゲルがいいたかったことは、「思想が、もっとはっきり言えば、概念が、無限の形式、すなわち自由な、創造的な活動であって、自己を実現するのに、自己の外に存在する材料を必要としない」(同)というものです。「真にあるべき姿」としての概念は、「客観世界のなかから思想」によってとらえられたものではありますが、このとらえられた概念はすべての事物を概念にもとづいて「真にあるべき姿」に変革する「無限の形式」であるという意味で「真に最初のもの」といっているのです。いわば、概念は具体的普遍として現実性に必然的に転化することを、「真に最初のもの」と表現し直したにすぎません。
 もし概念が客観世界から導き出されたものではなく「真に最初のもの」であるとすれば、ヘーゲル「論理学」は有論、本質論を経て概念論を展開する必要はないのであって、「はじめに概念ありき」として概念論から始めればいいのです。有論、本質論という「客観的論理学」を経て、「主観的論理学」としての概念論を論じているのは、概念が客観世界に媒介され、客観世界のなかから発生してきたからにほかなりません。「必然の真理は自由であり、客観の真理は概念」(一五八節)という命題もそのことを意味するものにほかなりませんでした。
 ヘーゲルが、本来概念論の総論で語られるべき概念の生成論を各論において、しかも本文においてではなく「補遺二」として語り、さらにそこでの記述は論理学の構成と矛盾するような記述となっているところにも、ヘーゲルが概念の生成論を正面から論じることを回避したかった姿勢をみることができるように思います。

概念は具体的

 「概念は絶対に具体的なものである。なぜなら、個がそうであるような、即自かつ対自的に規定されたものとしての自分自身との否定的統一が、それ自身概念の自分自身との関係、すなわち普遍性をなしているからである。概念の諸モメントはこのかぎりにおいて不可分のものである」(一六四節)。
 概念は普遍、特殊、個のモメントが不可分の一体となった具体的普遍です。これを具体的普遍というのは、一方で「真にあるべき姿」という普遍が自らを特殊化して、現実性としての個となるからであり、他方では「人間そのもの」(一六三節補遺一)が自己同一性(普遍性)を保ちながら、自らを特殊化するからです。いずれの場合も概念の普遍性が、特殊と個という区別の契機をもっているかぎりで「絶対に具体的なもの」なのです。
 「A 主観的概念」「B 客観」では、前者の意味の具体的普遍が議論され、「C 理念」では、後者の意味の具体的普遍が議論されます。
 一般に「具体的」というと、「人間とか、家とか、動物のようなもの」(同)を表象するかもしれませんが、ヘーゲルにいわせると、これらの表現は「概念からただ普遍性の契機をのみ取り上げ」(同)たものであって、「特殊と個は捨象している」から何ら「具体的なもの」ではなく、単なる抽象的な表象にすぎないというのです。

概念から判断へ

 「個のモメントがはじめて概念の諸モメントを区別として定立する。なぜなら、個は概念の否定的な自己内反省であり、したがって最初の否定としてまず概念の自由な区別であるからである」(一六五節)。
 概念が「否定的な自己内反省」、つまり概念の自分自身の反発・展開によって概念の規定態となり、概念の特殊性として定立された区別が、個です。
 「言いかえれば、区別されたものは第一に、相互に概念の諸モメントの規定性を持つにすぎないが、第二には、一つのモメントが他のモメントと同じであるという同一性も同じく定立されている。かく概念の特殊性が定立されたものが判断である」(同)。
 すなわち概念の三つのモメントは、ほんらい不可分一体であったものが、概念が規定されることによってバラバラに区別されてくると同時に、区別された「一つのモメントが他のモメントと同じであるという同一性」も定立される(例えば「個は特殊である」として個と特殊との同一性が定立される)ことになります。
 このように、概念がその規定態として、普遍、特殊、個別に区別されると同時に、「個別は、普遍である」「普遍は特殊である」「個別は特殊である」というように、概念の二つのモメントを「である」という繋辞で同一として定立する形式が、判断なのです。先に、二つの概念を組み合わせたものが判断だとお話ししましたが、より正確には、概念の一つのモメントと他のモメントとを等しいものとして結びつける思惟形式が判断であるということです。
 ヘーゲルは、概念の区別というのは普遍、特殊、個別という概念の規定態としての区別しか存在しないのであり、上位概念、「下位概念と同位概念」「反対概念と矛盾概念」「肯定的概念と否定的概念」といった区別は、「有および本質の領域に属する」(同)区別にすぎないものであって、「概念の規定性そのものとは少しも関係のない」(同)、「思想の諸形態を偶然的に拾いあげる」(同)ものでしかない、と批判しています。
 したがって、「概念の真の区別」(同)は普遍、特殊、個別のみであり、これも概念の不可分のモメントが「外的反省によってひきはなされているかぎり」(同)において生じる区別だとしています。判断という思惟形式のみが、概念の不可分の三つのモメントを概念の規定性として区別するのです。というのも、「判断するとは概念を規定すること」(同)にほかならないからです。