『弁証法とは何か』より

 

 

第一五講 概念論 ③

 

一、「c 推理」

 第一四講でお話ししたように、ヘーゲルは概念、判断、推理を内容のない単なる思惟形式としてとらえるのではなくて、「概念の諸形式として、現実的なものの生きた精神」(一六二節)であるとして、形式のなかに真理を含むものととらえています。
 このように概念、判断、推理を「現実的なものの生きた精神」としてとらえることは、ヘーゲル哲学の体系全体とも関連しているのです。
 「論理学を純粋な思惟規定の体系と見れば、他の哲学的科学、すなわち自然哲学および精神哲学は、言わば応用論理学である。というのは、論理学はそれらに生命を与える魂をなすからである。この場合それらの関心はただ、自然および精神の諸形態のうちに、論理的諸形式を認識することにあり、自然および精神の諸形態は、純粋な思惟の諸形式の特殊な表現様式にすぎない」(二四節補遺二)。
 つまり、論理学の諸形式としての概念、判断、推理は、一見すると客観から全く切りはなされた純粋な主観的作用から生まれた思惟形式のようにみえます。しかし実際にはそうではなくて、それらは自然や精神の諸形態を反映したもの、しかも「論理的諸形式」として反映したものであるから、逆に概念、判断、推理などの思惟形式は、現実的なものに「生命を与える魂」だというのです。これはきわめて唯物論的な見解だといわねばなりません。これを受けて、推理とは何かを次のように説明しています。
 「推理とは、特殊は普遍と個という二つの項を連結する中間項であるという規定である。こうした推理の形式はあらゆる事物の普遍的形式である。すべての事物は、普遍的なものとして自己を個別的なものと連結する特殊的なものである」(同)。
 つまり、推理とは普・特・個の一体化した概念そのものとして、「あらゆる事物の普遍的形式」なのです。概念には、一般的な意味としての抽象的普遍と真にあるべき姿(イデア)としての具体的普遍とがあり、後者が「現実的なものの生きた精神」としてとらえられました。ヘーゲルは同様に、推理にも二つの意味を与えています。一つは形式論理学における「形式的な悟性推理」(一八二節)であり、もう一つは具体的普遍としての概念が判断における諸モメントの分割から回復し、概念の統一性を回復するという「理性的な推理」(同)です。いうまでもなく後者が「現実的なものの生きた精神」です。
 推理とは、既知のものから未知のものに到達するための思惟形式ですが、ヘーゲルは、悟性的推理には真理はなく、あらゆる事物の普遍的形式である理性的推理のみが真理を含んでいると考えています。
 推理の構成をみますと、総論(一八一、一八二節)、「イ 質的推理」「ロ 反省の推理」「ハ 必然性の推理」の四つに大きく分かれています。
 「質的推理」は悟性的推理であり、「反省の推理」は個、特、普の媒介的関係が定立される理性的推理となり、「必然性の推理」において概念の統一が真に回復される理性的推理となります。
 まず総論では、推理には悟性的推理と理性的推理の二つがあることが明らかにされます。悟性的推理が一般的意味の推理、つまり形式論理学の三段論法の推理であり、理性的推理が弁証法的推理です。
 質的推理、反省の推理、必然性の推理は、それぞれ判断における質的判断、反省の判断、必然性の判断に対応する推理となっています。ここで気がつくのは、判断の場合には、最高の判断として「概念の判断」が存在していたのに対し、推理ではこれに相当する「概念の推理」が存在しないのです。なぜそうなのか。果たしてそれでいいのかは問題になるところです。
 それでは以上を前置きとして、推理の総論に入っていくことにしましょう。  

 

二、「推理」総論

推理は概念と判断の統一

 「推理は概念と判断との統一である。それは、さまざまの判断形式が単純な同一性へ復帰したものとしては概念であり、概念が同時に実在性のうちへ、すなわち概念のさまざまな規定のうちへ定立されているかぎりでは判断である。理性的なものは推理であり、しかもあらゆる理性的なものは推理である」(一八一節)。
 「推理は概念と判断の統一」だとありますが、形式的にいうと判断は、大前提、小前提、結論という三つの判断の結合です。
 「ばらは赤い」(個は特殊である)という「大前提」の判断に、「赤は色である」(特殊は普遍である)という「小前提」の判断が結合し、「よってばらは色を持つ」(個は普遍である)という「結論」の判断が推理されることになります。ヘーゲルはこれを「 個 ── 特 ── 普」という概念のモメントの同一性が定立されたものとしてとらえたのです。
 大前提における「ばら」(個)という「小概念」(一八三節)が、「色」(普遍)という「大概念」(同)と結合して結論となるのですが、その両者を媒介するのが「赤」(特殊)という「中間項」(一八四節)または「媒概念」(同)です。中間項は大前提と小前提に共通するものとして、両者を結合し結論を導き出すものですが、自らは媒介の役割を果たすと結論からは抜け落ちていくのです。
 個、特、普の三つの「判断形式が単純な同一性へ復帰したもの」としては、統一性を回復した「概念」であり、他方概念が、個、特、普という「概念のさまざまな規定のうちへ定立されているかぎりでは判断」であり、その意味で「推理は概念と判断の統一」とされているのです。
 判断のところで、「概念は事物に内在しているものであり、そしてこのことによって事物は現にあるような姿を持っている」(一六六節補遺)ことを学びました。これを個、特、普の関係で表現すると、「概念の普遍性は特殊を通じて自己に外的実在を与え、これによって、また否定的な自己内反省として、自己を個とする」(一八一節)ということになります。「真にあるべき姿」(普遍)が自己を特殊化して、現実性に転化し、個になるという、普 ── 特 ── 個の推理の形式が理性的だというのです。
 その意味で、「あらゆる理性的なものは推理」なのです。推理は概念の区別された「諸モメントを媒介する円運動であり、これによって現実的なものは一つのものとして定立される」(一八一節)ことになります。
 つまり、すべての現実的なものは、特殊性をつうじて個と結合された普遍として存在している理性的なものであり、こういう「あらゆる事物の普遍的形式」(二四節補遺二)をとらえるのが推理である、というのです。 
 ヘーゲルは、判断を偶然的なものとしてではなく、概念の「生動性」にもとづく必然的な「概念から判断への進展」としてとらえましたが、同様に判断から推理への進展も、概念の本性にもとづくものだととらえています。
 「もちろん判断は推理を指示してはいるが、しかしこの進展が行われるのは、単にわれわれの主観的行為によるのではなく、判断自身が自己を推理として定立し、推理のうちで概念の統一へ帰るのである」(一八一節補遺)。
 第一四講で、確然的判断は、媒介する根拠を繋辞として示すことにより、個 ── 特 ── 普の同一性が定立されることにより推理となることを学びました。
 「確然判断においてわれわれは、その性状を通じてその普遍、すなわちその概念に関係する個を持つ。ここでは特殊は個と普遍との間を媒介する中間項としてあらわれるが、このことこそ推理の根本形式なのである」(同)。
 判断における根本形式が「個は普遍である」であったのと同様に、推理における根本形式は、「個 ── 特殊 ── 普遍」であり、推理が発展するにつれ特殊のみならず個、普遍も、中間項としてあらわれるようになり、後述するように「これによって主観性は客観性へ移っていく」(同)のです。詳しくは一九三節でみていくことになります。

悟性的推理と理性的推理

 「直接的推理は、概念の諸規定が抽象的なものとして相互に単なる外的関係のうちに立っている推理であり、したがって二つの端項は個と普遍とであるが、両者を結合する中間項としての概念も同じく抽象的な特殊にすぎない。そのために二つの端項は相互的にも、またその中間項に対しても無関係的にそれだけで存立しているものとして定立されている。この推理はしたがって、概念を欠いたものとしての理性的なもの、すなわち形式的な悟性推理である」(一八二節)。
 先にも一言しましたが、一八二節では「形式的な悟性推理」と「理性的な推理」の区別について述べています。
 悟性推理というのは、形式論理学にいう「三段論法」を意味しています。この推理は「 個 ── 特 ── 普」という推理の形式はもっているものの、その三つのモメントが「相互に単なる外的関係」のうちに立っていて具体的普遍としての概念の展開という媒介的関係が存在しないのです。したがってこの推理は、形式は「 個 ── 特 ── 普」という理性的なものではあっても、概念の統一性を欠くもの、「概念を欠いたものとしての理性的なもの」にすぎません。したがって悟性推理において「 個 ── 特 ── 普」の結合は、偶然的なものにすぎず、いつでも分離しうるという関係でしかありません。
 ヘーゲルは、悟性推理は「事物の有限性をのみ表現」(同)しているといっています。というのも、「有限な事物においては、主観性は事物性として、その諸性質すなわちその特殊から分離することができるのみでなく、またその普遍からも分離することができる」(同)からです。
 「これに反して理性的な推理は、主語が媒介を通じて自己を自分自身と結合するということである。かくしてはじめてそれは主語となるのであり、あるいは、かくしてはじめて主語はそれ自身に即して理性推理となるのである」(同)。
 つまり理性推理とは、具体的普遍である概念の諸モメントが分離しつつも概念自身と結合するのであり、概念のうちにおける「内的」結合であり、「それ自身に即し」た推理なのです。
 こうした見地に立って、ヘーゲルは、「理性そのものは推理の能力であり、悟性はこれに反して概念を作る能力である」(一八二節補遺)とする形式論理学の定義を、次のように批判しています。
 「概念を単に悟性規定とみるのも誤っているし、推理を直ちに理性的なものとみるのも誤っていると言わなければならない」(同)。というのも、概念についても推理についても悟性規定と理性規定が考えられるのであって、悟性規定から理性規定へと前進していくことは、形而上学から弁証法へと前進していくことによるより深い真理への接近だというのです。
 「例えば、自由を必然の抽象的な対立とみるのは、自由の単なる悟性概念であるが、これに反して自由の真実な理性的な概念は、必然を揚棄されたものとして内に含んでいる」(同)。

 

三、「推理」各論

「イ 質的推理」

 「最初の推理は、前節に述べたように、定有の推理あるいは質的推理である。 その第一格は個 ── 特 ── 普である。すなわち個としての主語が一つの質を通じて或る普遍的な規定性と連結されているのである」(一八三節)。
 定有の推理とは、例えば「ばらは赤い。赤は色である。ゆえにばらは色を持つものである」というように、「ばら(個)」が「赤い(特殊)」という「質を通じて」、色(普遍)という「普遍的な規定性と連結されている」という推理であり、形式論理学で三段論法といわれるものです。
 「定有の推理は悟性推理にすぎない。というのは、ここでは個と特殊と普遍とが互に全く抽象的に対峙している」(同補遺)という外的関係のうちにあるからです。したがってヘーゲルにいわせると、推理の名に値しない推理ということになります。
 ヘーゲルは、「普通の論理学が取扱っているのは、主として推理のこうした形である」(同)としたうえで、これを「実際生活においても学問においても少しも役に立たない机上の空論」(同)にすぎないと批判しています。
 しかし、三段論法という推理そのものの存在意義がないのかといえばそうではなく、「推理の諸形式は常にわれわれの認識のうちに存在している」(同)のです。重要なことは悟性推理にとどまるのではなく、理性推理に前進することであって、アリストテレスが推理の格を研究したのも理性推理の諸形式を研究したものだったといっています(尚テキスト一六四ページに「(一八九節の注釈を見よ)」とあるのは「一八七節」の誤りです)。
 「この推理は その要素から言って全く偶然的である。中間項は抽象的な特殊であるから、主語の何か一つの規定性にすぎず、他方主語は直接的なものであり、経験的に具体的なものであるから、こうした規定性をいくつも持っており、したがってその他多くの普遍と連結されうる。また個々の特殊にしても、それはそのうちにさまざまな規定性を持っているから、主語は同じ媒概念を通じて多くの異った普遍に関係させられうる」(一八四節)。
 「赤い(特殊)」という中間項は、必ずしも「ばら」に結びつく必要のない「抽象的な特殊」であり、また、ばらの一つの性質(規定性)にすぎず、他方、主語の「ばら」は色だけでなく、香りや花弁の形という「多くの普遍と連結されうる」から、定有の推理における個 ── 特 ── 普の結合は、「その要素から言って全く偶然的」にすぎないのです。
 ということは、「別の媒概念をもってくれば、また別のことが、否反対のことさえ証明される」(同)のであり、「こうした推理が真理にとって価値のないものであることが示されている」(同)のです。
 その例として、ヘーゲルが弁護士の仕事をあげているので紹介しておきましょう。
 「人々は日常の交渉のうちでは悟性的推理の自覚などほとんど持っていないが、しかしそれはそこで常に働いているのである。例えば、民法上の訴訟においては、自分の依頼人に好都合な権限を強調するのが弁護士の仕事である。ところでこうした権限なるものは、論理的にみれば、一つの媒概念にほかならない」(同補遺)。
 土地の所有権をめぐる民事訴訟において、一方の弁護士は「この土地は、親から相続したものだから自分のものだ」と主張し、他方の弁護士は「この土地は時効取得したから自分のものだ」と主張します。媒概念によって、どんな推理でもできるのです。弁護士のことを「三百代言」などと批判するのも、こうした悟性推理の非真理性の表れなのです。
 「 この推理はまた、そのうちにある関係の形式の点でも、同様に偶然的である。推理の概念にしたがえば、区別されたものが、その統一である媒概念によって関係するのが本当の姿である。しかしこの推理においては、二つの端項(いわゆる両前提、すなわち大前提と小前提)と中間項との関係は、むしろ直接的な関係である」(一八五節)。
 定有の推理は、「その要素から言って全く偶然的」というだけではなく、「そのうちにある関係の形式の点でも、同様に偶然的」なのです。というのも、定有の推理においては、個 ── 特 ── 普という区別されたものが、一つの統一された概念の展開として関係づけられているからです。すなわちこの推理によると結論の「ゆえにばらは色を持つ」は推理によって証明されてはいるものの、大前提の「ばらは赤い」、小前提の「赤は色である」は何ら証明されていないのであり、証明されていない「二つの端項」が、単に「赤い」という中間項で結びつけられているにすぎないからです。これを避けようとすれば、「二つの前提の各々もまた同じく推理によって証明されることを要求」(同)することになり、推理は、「無限に繰返される」(同)ことになってしまいます。

三重の推理への進展

 「しかしこの欠陥は、推理の規定が進むにつれて、おのずから除去されなければならない」(一八六節)。
 定有の推理第一格「 個 ── 特 ── 普」の欠陥は、「個は普遍である(ばらは色を持つ)」という結論は証明されたものの、「二つの前提『個 ── 特』および『特 ── 普』はまだ媒介されていず」(一八九節)、証明されていないというところにありました。
 「個」(ばらは赤い)、「特」(赤は色である)という大前提、小前提が証明されておらず、「普」(ばらは色を持つ)のみしか証明されていないところに欠陥があるのです。
 そこで、この欠陥を除去するためには、証明ずみの「個は普遍である」を大前提とし、「個」を中間項としてとして含む「個は特殊である」を小前提として、「普遍は特殊である」との結論を導き出す「普 ── 個 ── 特」の第二格へと展開される必要があるのです。第二格は、第一格の欠陥を克服するものとして、「第一格の真理」(一八六節)をあらわしているのです。
 続いて、第二格によって証明ずみとなった「普遍は特殊である」を大前提とし、中間項として普遍を含む「個は普遍である」を小前提とし、「特殊は個である」との結論を導き出す「特 ── 普 ── 個」の第三格へと展開されることになります。
 こうして、第一格から第三格までの推理の三つの格をつうじて、個、特、普のいずれもが、大前提、小前提、結論に位置づけられ、二つの端項を媒介するものとして定立されてきました。
 「推理の格は非常に根本的な意義を持っているのであって、その意義は、推理のモメントの各々が、概念の規定として、それ自身全体的なものおよび媒介する根拠となるという必然性にもとづいているのである」(一八七節)。
 推理の三つの格は、個、特、普という概念の「モメントの各々」が、概念という「全体的なもの」と不可分一体であり、相互に媒介し、媒介されるという必然性の関係にあることを示しています。言いかえれば、推理をつうじて、あらためて概念とは何か、概念とそのモメントとはどのような関係にあるのかが明らかにされるのです。
 「推理の三つの格の客観的な意味は、あらゆる理性的なものが三重の推理として示されるということ、すなわち、その各項はいずれも端項の位置を占めるとともに、また媒介する中間項の位置をも占めるということである」(同補遺)。
 ヘーゲルの哲学体系『エンチクロペディー』における論理学、自然哲学、精神哲学は、この「三重の推理」を示すものとなっているのです。
 まず、「論理学 ── 自然哲学 ── 精神哲学」の推理は、「精神は、自然に媒介されているかぎりにおいてのみ、精神である」(同補遺)こと、つまり、自然の発展のなかで生命が誕生し、自然に媒介されて人間の精神が存在しているという唯物論が証明されています。
 これに対し、「自然哲学 ── 精神哲学 ── 論理学」の推理では、「自然のうちに論理的理念を認識し、かくして自然をその本質にまで高めるのは、精神である」(同)ことが示されています。つまり人間の精神は自然のうちに自然の真にあるべき姿を認識するという唯物論的推理なのです。
 「精神哲学 ── 論理学 ── 自然哲学」の推理は、論理学がとらえる「理念は精神および自然の絶対的な実体であり、普遍的なもの、すべてを貫いているもの」(同)であることを示しているのです。つまり真にあるべき姿が自然を変革し、自然を貫いているという理想と現実の統一の立場です。
これまで、ヘーゲル哲学の体系が「論理学 ── 自然哲学 ── 精神哲学」として構成されているところから、ヘーゲル哲学は、「永遠の昔から ── どこにかはわからないが ── 存在しているばかりでなく、また現存する全世界の本来の生きた魂でもある」(全集㉑二九七ページ/『フォイエルバッハ論』七〇ページ)とされる、「絶対的概念」(同)の「自己運動」(同)であり、さかだちした観念論だととらえられてきました。
 しかしヘーゲルが、自己の哲学体系を三重の推理として説明していることは、「自然および歴史のなかに現われる弁証法的発展」(同)を「概念の自己運動のつまらぬ模写にすぎない」(同)ととらえることの一面性を批判するものとなっています。この点は重要な点ですので、第二〇講のまとめで、もう一度検討してみたいと思います。
 いずれにしても、このような三重の推理をつうじて、現実から理想へ理想から現実への相互移行が反覆されることにより、ヘーゲル哲学の究極目的である「真にあるべき姿」をかかげての理想と現実の統一が実現し、ヘーゲルの「絶対的理想主義(アプゾリューター・イデアリスムス)」が完成するに至るのです。
 こうして三重の推理は「概念の媒介的統一」(一八九節)を示すものとして、「個と普遍との発展した統一」(同)、つまり「同時に普遍として規定されている個」(同)を中間項とする次の「反省の推理」(同)に進展することになります。
 最後にヘーゲルは、推理の第四格として「量的推理あるいは数学的推理」(一八八節)にも一言しています。これは、「もし二つのものが第三のものに等しければ、二つのものは相等しい」(同)という推理であり、いわゆる数学の公理とされる推理です。
 しかしヘーゲルは、この数学的公理は個、特、普という「概念によって規定された区別」(同補遺)と無関係な「全く没形式の推理」(同)として、三重の推理とは質的に異なる推理にすぎないとしています。

「ロ 反省の推理」 

 反省の推理は、概念の統一性の展開として、 個 ── 特 ── 普が関係づけられている推理であり、「悟性推理の根本形式の欠陥を訂正する」(一九〇節)ものです。したがって反省推理は悟性推理ではなく理性推理であり、その真理性が問題となってきます。そこでこの反省の推理には、一般的な意味での推理、つまり演繹、帰納、類推が登場してきます。
 「 中間項が単に主語の抽象的な特殊的規定性であるだけでなく、同時にすべての個別的な具体的主語である場合、したがってまた抽象的な規定性はこの主語の多くの規定性の一つにすぎない場合、この中間項は全称推理を与える」(一九〇節)。
 全称推理とは、「すべての人は死すべきものである、カイウスは人である、ゆえにカイウスは死すべきものである」(同)というものです。
 この全称推理は、普遍から個を推理する普 ── 特 ── 個の推理であり、演繹推理とよばれています。演繹推理において大前提となるのは「すべての個別的な具体的主語」であり、小前提となるのは、主語の「規定性の一つ」です。つまり「すべての人」が大前提、人間の一人・カイウスが小前提です。大前提がもし正しければ、小前提は大前提に含まれていますので演繹推理の結論は正しいことになります。問題なのは、大前提が正しければ結論も正しいのですが、大前提が正しくなければ結論も間違ってしまうということです。
 その意味では、演繹推理は、最初から結論となるものを大前提のなかに含んでおり、「大前提は、結論であるはずのものをそれ自身前提して」(同)いるという制約をもっています。
 この制約をのりこえ、「すべての人間」という演繹推理の大前提を証明しようとするのが、帰納推理なのです。
 「したがって全称推理は 帰納に依存している。帰納の媒介項はa、b、c、d、等々、個別的なものの全体である。しかし直接的な経験的個別性は、普遍性とは別なものであり、したがってけっして完全でありえない」(同)。
 帰納推理とは、個 ── 特 ── 普の推理です。例えば、「カイウスは死んだ。a、b、c、dも死んだ。よって人間は死すべきものである」とする推理です。いわば帰納推理は、演繹推理とは逆に経験した個を積み重ねることによって「すべてのもの」、つまり普遍を推理するのです。しかしすべての個を経験し尽くすことはできませんから、帰納推理は自から「不完全なもの」(同補遺)にならざるをえません。つまり、カイウス以外にa、b、c、dの人間が死んだからといって、それ以外の人間が死ぬとは限らないのです。「経験的個別性は、普遍性とは別なもの」であるにもかかわらず、それを同一であるかのように前提するところに論理の飛躍があり、誤った推理をすることにもなるのです。
 エンゲルスのいうように「帰納推理は本質的に蓋然的推理」(『自然の弁証法』全集⑳五三五ページ)にすぎないのであり、「帰納推理もまた誤りうることではいわゆる演繹推理と同様」(同)なのです。
 こうして、普遍から個を推理する演繹も、個から普遍を推理する帰納も、それだけでは一面的なものにすぎず、両者が補足しあって、新たな真理を認識しうる方法となるのです。「帰納と演繹とは、総合と分析と同じくらい必然的に一つの対をなすものである」(同五三六ページ)。
 しかし両者を統一した推理を重ねたとしても、それだけで両者の推理のもつ欠陥が完全に克服されるわけではありません。帰納や演繹を越え、それを補う推理が類推です。
 「帰納は 類推に依存している。類推の媒介項は個別的なものであるが、しかしそれは本質的な普遍性、類、あるいは本質的な規定性という意味を持っている」(一九〇節)。
 帰納推理では、すべての「個を余すところなく汲みつくすことはできない」(同補遺)にもかかわらず、汲みつくしたかのようにとらえる不完全性をもっていますので、「帰納のこうした欠陥が類推へ導」(同)き、これにより帰納推理の制限を克服しようとするのです。
 類推とは、「本質的な普遍性、類、あるいは本質的な規定性」(一九〇節)において共通している二つの個について、その類的同一性を推理する方法です。
 「類推においては、一定の類に属する事物が一定の性質を持つということから、同じ類に属する他の事物もまた同じ性質を持つことが推理される」(同補遺)。
 類推も、個 ── 特 ── 普の推理です。推理の格においては帰納推理と同一ですが、類推における「特」は、類的特徴を示す性質であるという点において、a、b、c、dなどの個別を寄せ集めた帰納推理の「特」とは異なるのです。
 ではどうすれば類推という推理をすることができるのでしょうか。それが論理の飛躍をもたらす直観とかひらめきとかいわれるものです。類推とは、類的同一性を推理するものですから、類推を実現するには同じ類に属する種々の事物を経験し、その経験的事物の情報の蓄積をつうじて、量から質への転化が生じ、脳内において新たなシナプスが生じて直観、ひらめきが生じるのです。この同種の情報の蓄積なくして類推の生じることはありません。
 科学的な新たな発見の多くは、この類推にもとづいています。ヘーゲルは、「類推が経験科学において非常に重んじられているのは当然であり、またこの方法によって非常に重要な成果が達成されている」(同)として、類推を「理性の本能」(同)とよんでいます。
 しかし類推は、直観、ひらめきによる推理であるだけに、真理をとらえることもあれば、そうでないこともあります。類推を媒介する類的性質(条件)が数多く重なれば重なるほど、より真理をとらえうる類推となりますが、それでも、結論が常に正しいわけではありません。
 ヘーゲルは、十分な条件を考慮しない「空虚な外面的な類推」は「無意味な遊戯」(同)にすぎないと批判しています。
 このように帰納、類推は、いずれも論理の飛躍をともなうという欠陥をもっています。しかし、この欠陥となる論理の飛躍こそが、新たな理論の発見を生みだすものとなっているのです。推理というものは、既知のものを土台としながら、未知のものについて推理をして、仮説を立てるのです。仮説というのは、これまでの既知のものの延長線上にあるものではなく、ある種の論理の飛躍を含んでいます。その飛躍こそが新たな理論的発見を生みだすのであり、反省の推理は、このような論理的飛躍を含んでいるからこそ、理性推理となることができるのです。もちろんその論理的飛躍が誤った仮説を生みだしうることもいうまでもありません。

「ハ 必然性の推理」

 反省の推理は、理性推理として真理をそのうちに含む推理でした。しかし、そこから推理される結論は、演繹、帰納、類推のどれをとっても一定の制約をともなっており、どんなに蓋然性が高かろうと一つの仮説にすぎません。
 これに対して、必然性の推理は、類と種の関係という必然的関係を土台にした推理であり、それゆえに真理性が担保される理性推理です。反面その真理性が担保される分、新しい真理を発見する可能性は少ない推理ということができます。
 「 まず定言的推理においては、特殊が媒介規定であって、この特殊は特定の類あるいは種という意味を持っている」(一九一節)。
 例えば、「両生類は脊椎動物である。カエルは両生類である。よってカエルは脊椎動物である」という推理であり、類から種を必然的なものとして推理するのです。
 「 仮言的推理においては、個が媒介規定であって、この個は直接的な存在、媒介するものでもあれば、媒介されるものでもあるという意味を持っている。 選言的推理においては、媒介の働きをする普遍が、またその特殊化の総体、個々の特殊、排他的な個として定立されている。したがって選言推理の諸規定のうちには、形式をのみ異にして同一の普遍が存在している」(同)。
 仮言的推理は、「もし両生類ならばそれは脊椎動物である。カエルは両生類である。よってカエルは脊椎動物である」というもの。選言的推理は、「両生類はイモリかカエルかサンショウウオかである。これはイモリでもサンショウウオでもない。よってこれはカエルだ」というものです。
 以上三つの必然性の推理をみてきましたが、いずれも、類から種を、普遍から個を推理するものであり、普 ── 特 ── 個の形式をもっている演繹推理の一形態ということができます。
 ただし、演繹推理では大前提が証明された事実ではなかったのに対し、必然性の推理では証明された普遍としての類であり、したがって結論も真理であるところが異なるのです。

概念の推理

 ヘーゲルが、「概念の判断」に対応する「概念の推理」について論及していないのは気になるところです。
 「概念の判断」の最後に位置する確然的判断のところで、「この家は、土台がしっかりしているから、よい家である」との例が示されました。「土台がしっかりしている」というのは、「空虚な繋辞の充実」(一八〇節)であり、この充実した繋辞が両端項を統一するものであるから、確然的判断はもはや「推理」だというのです。
 つまり「家というもの(家の概念)は土台がしっかりしていなければならない、この家の土台はしっかりしている、よってこの家はよい家である」というのは、概念(真にあるべき姿)と事物の一致を推理しているのであり、「概念の推理」ということになるのではないでしょうか。
 概念の判断に対応して、概念の推理が認められてしかるべきだと思われます。それは必然性の推理以上に最高の真理性をとらえる理性推理ということができます。ちょうど、概念の判断が「はじめて判断と呼ばれ」(一七八節)るように、概念の推理こそ、推理の名に値する最高の推理となるのです。
 旧ソ連や東欧の崩壊により、社会主義崩壊論の大合唱が行われました。ここではまさに、旧ソ連や東欧は真にあるべき社会主義国だったのかという、概念の推理が求められていたのです。
 社会主義の概念は、国民が主人公であるということにあります。しかし、旧ソ連や東欧の実態は国民が主人公になっていない、よって旧ソ連や東欧は社会主義の概念に一致しない偽りの社会主義国家にすぎないという結論が導き出されることになります。
 真にあるべき姿としての概念を明確にするということは、変革の目標と方向性を示すものでした。また概念の判断は、ある対象をその真にあるべき姿にてらして、善い、真実である、正しいなどの判断を示すものでした。これに対し、概念の推理はある対象をその真にあるべき姿にてらして、対象がいかなるものであるかを推理するものです。
 こうした概念の推理の意義を考えるとき、ヘーゲルがなぜ概念の推理を論じなかったのかは、疑問でなりません。