『弁証法とは何か』より

 

 

第一八講 概念論 ⑥

 

一、「C 理念」

 ヘーゲルの「絶対的観念論」(四五節補遺)とは絶対的理想主義であり、「哲学の最高の究極目的」(六節)は、理想と現実の統一を実現することにあるとされています。その意味で、この理想と現実の統一を直接の対象とした「理念」論はヘーゲル哲学の核心部分ということができます。レーニンの「哲学ノート」でも、この部分がノートの中心部分をなしています。 
 概念論は、「A 主観的概念」「B 客観」「C 理念」という構成になっており、概念と客観の統一が理念としてとらえられます。
 ヘーゲルの場合、理念(イデア、イデー)はエネルゲイアとしてのイデアです。ここにいうエネルゲイアとは、一つには、単なる可能性にとどまるデュナミスとの対比において、現実性となる必然性をもったエネルゲイアであることを意味し、もう一つには、目的を達成しないかぎり意味のないキーネーシスとの対比において、イデアをかかげての生き方はそれ自体より善く生きるエネルゲイアとして人間本来の行為であることを意味しています。
 ヘーゲルが自己の哲学を「絶対的イデア主義」「絶対的理想主義」と自称しているのは、イデアをかかげての実践は、必ず実りをもたらすという意味と、それ自体生き甲斐を生みだすより善い生き方だとの思いが込められているように思われます。
 「C 理念」は、総論(二一三~二一五節)と、各論としての「a 生命」「b 認識」「c 絶対的理念」とに分かれています。
 まず総論では、理念とは何かを問題としています。
 理念とは概念と客観との統一であり、ヘーゲルは、そこに絶対的な真理があるととらえています。ここであらためて、ヘーゲルの真理観が議論されることになりますので、唯物論的真理観との関係をみておくことにしましょう。
 なおレーニンは、この総論部分を「弁証法のおそらく最良の叙述である。ちょうどここで、言わば論理学と認識論との一致がすばらしく天才的に示されている」(『哲学ノート』レーニン全集㊳一六二ページ)と理解していることを紹介しておきたいと思います。
 各論の最初、「生命」とは理念の直接態です。ここでは内的目的性をもった有機体が議論されます。いわゆる生物としての生命体のみならず、国家、民族、企業、労働組合、政党などの社会的有機体も念頭において論じていることに注意してください。
 「B 客観」の「目的的関係」と「C 理念」の「生命」との関係を整理しておきましょう。「目的的関係」は生命をも念頭においているのですが、そこでは生命のもつ概念、内的目的性が自己の肉体という客観を支配し、客観において「目的を実現する」という過程を中心にみてきました。いわば、目的的関係とは、概念としての目的が「肉体を自己のものとし、そのうちに自己を直接的に客観化」(二〇八節補遺)する過程をもつ客観であることを明らかにしたのです。これに対し「生命」では、この目的の実現が完了し、主観的な概念が客観に絶対的に一致し、理念となっているのです。「目的的関係」における「主客の潜在的な統一」(二一二節)が、「生命」においては「顕在するものとなっている」(同)のであり、それを前提に、生命体としての運動がとらえられるのです。
 各論の二番目、「認識」では、はじめて主体としての人間が登場します。ヘーゲルは人間の実体を自由な精神と考えており、精神の活動が「広い意味での認識作用」(二二六節)としてとらえられています。いわば理念における「生命」は、「自然哲学」の一カテゴリーであるのに対し、「認識」は「精神哲学」の一カテゴリーなのです。
 人間は動物と違って、概念と客観との絶対的統一を実現する「主体」であり、「認識」において「理念は主体性」(二一五節)であることが明らかにされます。ヘーゲルが、「概念は絶対に具体的なもの」(一六四節)であり、「主体そのもの」(同)といっているのは、この「認識」を念頭においたものだったのです。人間はエネルゲイアとしてのイデア、つまり概念を「認識」し、概念を掲げて実践することによって、人間らしくより善く生きることができるのです。この意味からして「認識」は「理念」のなかでも最も重要な箇所であり、ここで、ヘーゲル哲学全体の主題となる「理想と現実の統一」の問題が正面から論じられることになります。
 「生命」が理念の直接態であるのに対し、「認識」は理念の媒介態です。「認識」のなかは、さらに「イ 認識」「ロ 意志」とに区別されていますが、要するに認識と実践を論じているのです。
 人間は認識にもとづく実践を媒介として、自己のうちにある概念(真にあるべき姿)を現実のものにかえていくのであり、こうして、理想と現実の統一を実現することになります。それはまた人間が真に自由になり、より善く生きることになるのです。
 ひとこと注意しておくと、理想を掲げることは、けっして観念論を意味するものではありません。その理想が観念論的な理想、つまり空想なのか、それとも唯物論的な理想なのかが問われているのであり、ヘーゲルは、主観と客観の相互浸透をつうじて唯物論的な理想(理念)を追求していることを、しっかりつかむ必要があると思います。
 最後の「絶対的理念」は、理念の直接性(生命)と媒介性(認識)の統一としての絶対的真理です。
 ここでは、論理学全体の総括として、有論、本質論、概念論という展開が絶対的真理を認識する形式としての弁証法であることがあらためて確認されます。弁証法的方法といわれるものの諸モメントが明らかにされることにより、哲学は今や出発点に帰り、「有としての理念」(二四四節補遺)である自然に移行してその円運動を終えることになるのです。
 『小論理学』は、こうして二四四節で「絶対的理念」を終わることになりますが、エンチクロペディーでは、この第一部「論理学」に続き、第二部「自然哲学」(二四五~三七六節)、第三部「精神哲学」(三七七~五七七節)となり、精神哲学の最後は「絶対的精神」で終わっています。
 アリストテレスの「エネルゲイアとしてのイデア」に学んで絶対的理想主義を唱えたヘーゲルは、エンチクロペディーの一番最後に、アリストテレス「形而上学」第一二巻七章の、次の文章を引用しています。
 「理性は思惟されるものにふれ、それを思惟することによって、思惟されるものとなり、理性と思惟されるものとは同一のものとなるからである」(樫山欽四郎他訳、四四六ページ河出書房)。
 思惟されるものとは、思惟の対象となる客観を意味しており、理性と客観との統一、つまり、理想と現実の統一というヘーゲルの根本思想は、アリストテレスに由来しているのです。

 

二、「理念」総論

理念は絶対的な真理

 二一三節から二一五節までの三節が「理念」の総論となっています。わずか三節にすぎませんが、レーニンが「弁証法のおそらく最良の叙述である」と述べている箇所なので、注意深く読んでいくことにしましょう。
 「理念は即自かつ対自的な真理であり、概念と客観性との絶対的な統一である。その観念的な内容は、概念の諸規定にほかならず、その実在的な内容は、概念が外的な定有という形式のうちで自己に与える表現にすぎない。しかも概念はこうした形態を自己の観念性のうちに閉じこめて自分の力のうちに保ち、かくして自己をそのうちに保っているのである」(二一三節)。
 理念とは、真にあるべき姿としての概念が客観にあらわれでた「概念と客観性との絶対的統一」です。いわば、真にあるべき姿が単なる主観性にとどまらずに外にあらわれでて、現にある客観を真にあるべき姿に変革した、その主観と客観の統一が理念なのです。理念とはエネルゲイアとしてのイデアが現実態となったものです。
 その意味でヘーゲルは、この理念を「即自かつ対自的な真理」、つまり絶対的な真理だというのです。
 「理念は真理である。というのは、真理とは、客観が概念に一致することだからである。真理とは、外的な事物がわたしの表象に対応することではない。それは私という個人が持っている正しい表象にすぎない」(同)。
 唯物論的真理観は、一般に、真理とは認識の問題であり、客観を正しく反映した、客観に一致する認識が真理であると理解されています。これに対しヘーゲルは、客観と認識との一致は「正しい表象」にすぎないのであって、「真理とは、客観が概念に一致すること」だとしています。そうすると、ヘーゲルの真理観と唯物論的真理観とは異なるものなのかと思われるかもしれませんが、結論的には、基本的に一致しているものということができます。
 というのも正確にいうと、唯物論的真理観は認識と客観との一致にあるというべきものであって、そこには二つの意味が込められているからです。一つには、現にある客観をあるがままに認識するという意味での認識と客観との一致です。これがヘーゲルのいう「正しい表象」です。しかし人間の認識は、現にある客観を正しく認識することをつうじて、現にある客観を止揚する「真にあるべき姿」としての客観を認識することができるのであり、二つには、この客観の真にあるべき姿の認識も、認識と客観との一致としてとらえることができます。
 人間は、その意識の創造性によって、現にある有限な客観世界をたえず変革していくのであり、そのときの変革の「目的」となる真理が「真にあるべき姿」の認識なのです。われわれが「真理は必ず勝利する」という場合の真理とは、客観の真にあるべき姿を認識することによる真理を意味しています。かかる意味の真理は、最初は少数の認識として出発しながら、その真理のもつ力によってやがては多数の共通の認識となり、多数の力によって勝利することになるのです。
 ヘーゲルは、また真にあるべき姿の認識にとどまらず、その実現(客観化)をもって真理ととらえ、概念と客観との統一である「理念は真理である」といっています。しかし、真理を認識の問題から客観の問題にまで広げることは、「真理とは何か」の問題を曖昧にすることになると思います。したがって唯物論的真理とは、あくまで認識の問題であるとしながら、認識と客観の一致には「現にある姿の認識」と「真にあるべき姿の認識」の二つの側面があり、ヘーゲルのいう「理念」は、真理そのものではなく、後者の意味における「真理の実現」(真理態)としてとらえればいいのではないかと思います。
 こうした留保をつけながら、引き続きヘーゲルをみていくことにしましょう。
 「真理と言えば、人はまず第一に、或るものがどういう風にあるかを知ることだと思っている。しかしこれは単に意識との関係における真理にすぎず、言いかえれば、形式的な真理、単なる正しさにすぎない。より深い意味における真理は、しかし、客観が概念と同一であることである。例えば真の国家、真の芸術作品と言われる場合、そこで問題になっているのは、こうしたより深い意味の真理である。それらは、それらがあるべきものである場合、すなわち、それらの実在がそれらの概念に一致している場合、真である。こう解するとき、真実でないものは、また悪いものと呼ばれているものと同じものである。悪い人間とは、真実でない人間、すなわち人間の概念あるいは人間の使命に合わないような行為をする人間である」(同補遺)。
 この点は、予備概念(二四節補遺二)でも学んだところです。概念(イデア)は、「概念の判断」で学んだように、或るものの価値を判別する絶対的基準、規範になるのであり、すべての事物は、その概念にてらして価値あるものであるか否かが判断されることになるのです。ここにも「真の国家」が登場していることに注目してください。ヘーゲルは、この「真の国家」をこそ論じたいのです。われわれも、旧ソ連や東欧を、「悪い」社会主義、「真実でない」社会主義だと呼んでいます。それは、これらの諸国が「真にあるべき社会主義」という社会主義の概念に一致しない客観だったからです。ここでヘーゲルは、「真なるもの」と「真理」とを同じ意味で使っていますが、唯物論的真理観からすれば、「真なるもの」とは、「真理の客観化」、「真理態」であって、「真理」そのものとは区別すべきもの、ということになるでしょう。
 「あらゆる現実的なものは、それが真実であるかぎり、理念であり、理念を通じて、また理念によってのみ、その真理を持っているのである。個別的な存在は理念のなんらかの一側面であり、したがってそれが存在するためには、そのほかになお、同じく特別に自分だけで存立しているようにみえる他の諸現実が必要である。それらすべてをあわせたもの、およびそれらの関係のうちでのみ、概念は実現されているのである。個別的なものは単独ではその概念に一致しない。個別的なものの定有のこうした制限性がその有限性とその滅亡をなすのである」(二一三節)。
 引用した冒頭の箇所は、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(六節)との命題をおもい起こさせます。この命題の「理性的なもの」を「理念」と重ね合わせて読むと、よく理解できます。「現実的なもの」は、それが一時的、偶然的なものではなく「真実であるかぎり」、理念をうちに含む「理性的なもの」であり、「理性的なもの」は「理念のなんらかの一側面」を含むことによって「現実的」となるのです。
 反面、個別的な存在は「理念のなんらかの一側面」にすぎませんから、「単独ではその概念に一致しない」のであって、だからこそ有限で一時的なものにすぎないのです。

理念は主体

 「絶対者は普遍的なそして一つの理念である。この一つの理念は、本源的に分化するものとして、規定された諸理念の体系へと特殊化するが、しかしこれらの規定された諸理念は、それらの真理である一つの理念へ帰っていくものにほかならない」(二一三節)。
 絶対者、つまり絶対的に真なるものは、「一つの理念」(同)です。理念は、概念と客観、主観と客観という対立物の統一として真理なのです。いわば理念は、あらゆる対立物の統一を包摂するものとして「諸理念の体系へと特殊化」し、各論で「生命」「認識」が論じられ、最後は「それらの真理である一つの理念」、つまり絶対的理念へと帰っていくのです。
 「理念が最初は一つの普遍的な実体にすぎないが、その発展した真の姿においては主体として、かくして精神として存在するのは、この本源的分化によるのである」(同)。
 こうして理念は各論として、「最初は一つの普遍的実体」としての「生命」を、次いで「その発展した真の姿」である人間の「精神」としての「認識」を論じ、「認識」では、主体としての人間の精神活動により、主観と客観の統一が実現されることになります。そして最後の「絶対的理念」において再び主観と客観は統一され、「それらの真理である一つの理念へ帰っていく」のです。
 各論のなかで、ヘーゲルが特に問題としたいのは、人間が国家や社会のイデアを探究する「精神」の活動なのであり、それをおこなうのが「発展した真の姿」としての「主体」なのです。こうして「認識」では、主体としての認識と実践が論じられることになります。
 したがって理念は、「単なる論理的形式」(同)や「抽象的なものにすぎない」(同)ものではなく、現実を変革する具体的なものであり、まさにエネルゲイアとしてのイデアなのです。
 「理念は、自分自身を規定して実在となる自由な概念であるから、理念はそれ自身本質的に具体的である。理念の原理である概念を、その真実の姿において、すなわち自己への否定的な復帰および主体性と解せず、抽象的な統一と解するとき、そのときはじめて理念は形式的な抽象物となるのである」(同)。
 「理念の原理である概念」は、「自分自身を規定して実在となる」主体として具体的なものであって、けっしてイデアの世界にとどまり続ける抽象的なものではないのです。
 「哲学の名に値するすべてのものは、悟性が別々のものとのみ考えているものの絶対的統一の意識を根柢に持っていた」(同補遺)。
 哲学とは弁証法なのです。悟性が別々のものと考えていた、物質と精神、客観と主観、存在と当為、事実と価値とは、弁証法的な「絶対的統一」、つまり対立物の統一という形式においてとらえなければ真理ではないのであり、それをもたらすのが人間の精神活動です。そうした主体のもとでの「絶対的統一」が理念なのです。
 ヘーゲルは、人間の精神活動によって存在と当為、事実と価値を一元論に統一し、理想と現実の統一を実現することをもって「哲学の最高の究極目的」(六節)ととらえています。それは他面では、イデア(概念)を掲げてその実現をめざす活動がキーネーシスではなくエネルゲイアであること、つまりより善く生きる人間本来の生き方であることを訴えているのです。
 「これまで考察してきた諸段階、すなわち有と本質、および概念と客観性は、そうした区別の相においてあるとき、不変なもの、自主的なものではなく、弁証法的なものであり、それらの真理はただ理念のモメントであるということにあるのである」(同)。
 こうして、これまで「論理学」で論じられてきたすべてのカテゴリーは、理念という絶対的真理に包摂され、その一モメントに落とされてしまうことになります。

理念は弁証法

 「理念は、これをさまざまの仕方で理解することができる。それは理性であり(これが理性の本当の哲学的意味である)、さらに主観即客観であり、観念的なものと実在的なもの、有限なものと無限なもの、魂と肉体との統一であり、その現実性をそれ自身において持っている可能性であり、その本性が現存するものとしてのみ理解されうるものである、等々。なぜなら、理念のうちには悟性の相関のすべてが、無限の自己復帰と自己同一とにおいてではあるが、含まれているからである」(二一四節)。
 理念はあらゆる個々の事物の真理態であり、真理態は対立物の統一という弁証法的形式においてのみ存在する、といっています。「悟性の相関のすべて」とあるのは、本質論で述べた「本質的な相関」(一三五節以下)、「絶対的な相関」(一五〇節以下)を含む、あらゆる対立と矛盾の相関を意味しています。その相関が「自己同一」という対立物の統一となり、真理態になったものが理念なのです。
 論理学は「単に主観的であるにすぎないような主観的なもの、単に無限でなければならないような無限なもの、等々はなんらの真理をも持たず、自己に矛盾し、その反対のものへ移っていくことを示し、そしてこのことによってこの移行と、二つの端項を揚棄されたもの、仮象、モメントとして含んでいる統一とこそ、それらの真理であることを明かにするのである」(二一四節)。
 ヘーゲル論理学は、対立物の統一にこそ真理があるとする弁証法的論理学です。言いかえると、弁証法的にすべての事物を対立物の統一としてとらえることによってのみ、真理を認識することができるということです。
 「理念はそれ自身弁証法であって、自己同一なものを多様なものから、主観的なものを客観的なものから、魂を肉体から不断に分離区別し、ただこの限りにおいてのみ永遠の創造、永遠の生動、永遠の精神なのである。したがって理念は、それ自身抽象的悟性への移行、あるいはむしろ転化でありながら、同時に永遠に理性である。理念は弁証法であって、こうした悟性的なもの、区別されたものにその本性とその独立性の誤った仮象とを自覚させ、そしてそれを統一へ復帰させるのである」(同)。
 理念の「発展した真の姿」(二一三節)である人間「主体」の精神活動は、「それ自身弁証法」であり、「永遠の創造、永遠の生動、永遠の精神」として、無限に真理を探究し、無限に真理を実現し続けるのです。人間は統一のなかに対立を見いだし、対立するものを「統一へ復帰」させることを反覆することによって、真理を探求、実現し続けるのです。
 「理念をとらえるさまざまの仕方は、多かれ少かれ形式的である。それらは規定された概念のどれか一つの段階を示すにすぎないからである。ただ概念そのものだけが自由で真の普遍である。したがって理念においては、概念の規定態は同時に概念そのものにほかならない」(二一四節)。
 理念は主観と客観、観念的なものと実在的なものなど、様々な形態における対立物の統一なのですが、そのすべてを貫き、そのすべての対立の統一のなかを自由に動き回っているのが概念です。「概念の規定態」とは、対象となる事物の「概念を意識」し、「対象を、その概念によって定立されている規定態」としてとらえることを意味しています。すべての客観的事物における対立物の統一は、「概念の規定態」としてとらえなければ真理に到達することはできないのです。

理念は過程

 「理念は本質的に過程である。なぜなら、理念の同一性は、それが絶対の否定性であり、したがって弁証法的であるかぎりにおいてのみ、概念の絶対かつ自由な同一性であるからである。理念は、単一性である普遍性としての概念がまず自己を規定して客観性、すなわち普遍性の反対物となり、次に、概念を実体として持っているこの外面性が、それに内在する弁証法を通じて、主観性へ復帰するという経過である」(二一五節)。
 理念はそれ自身弁証法であり、「永遠の創造」(二一四節)として、「本質的に過程」つまり、真なるもの、真理態に向かって無限に発展し、変革していく過程なのです。理念は主観性から客観性へ、客観性から主観性へとたえず対立物の相互移行をくり返す過程なのです。そのたえざる「絶対の否定」のなかで、「概念の絶対かつ自由な同一性」が貫かれているのです。
 「理念は過程であるから、絶対者を有限と無限、思惟と存在、等々の統一として言いあらわすのは、しばしば注意したように、誤である。というのは、統一という言葉は、静止した抽象的な同一を表現するからである。また理念は主体性であるから、この点から言っても、右の表現は誤である」(同)。
 真理を認識しようとすれば、「対立物の統一」としか表現しえないのですが、ここには主体的な概念の無限の運動の観点が欠けているから、誤解を招くというのです。
 「なぜなら右の統一は、真の統一の未発展な姿、実体的なものを表現するからである。そこでは無限なものは有限なものと、主観的なものは客観的なものと、思惟は存在と、単に中和されたものとしてあらわれている。ところが理念の否定的統一においては、無限なものは有限なものを、思惟は存在を、主観性は客観性を、包括しているのである」(同)。
 理念における「対立物の統一」は、対立する二つのものが合体したような「単に中和されたもの」ではなく、主体(主観性、無限なもの、思惟)の主導による無限に発展する対立物の統一と闘争なのです。
 「理念の統一は主観性であり、思惟であり、無限である。この点から言って、それは、包括的な主観性、思惟、無限が一面的な主観性、一面的な思惟、一面的な無限 ── これらは前者の分化、特殊化によって生じたものである ── から区別されなければならないと同じく、実体としての理念から区別されなければならないものである」(同)。
 概念における「対立物の統一」は、主体としての概念に貫かれた主観性、思惟、無限が、対立物の闘争をつうじて一面的なものから包括的なものとなった統一であり、これが「真の統一」だというのです。
 「理念は、過程として、その発展において三つの段階を通過する。理念の最初の形態は生命、すなわち直接性の形態のうちにある理念である。第二の形態は媒介あるいは差別の形態であって、これが認識としての理念である。そしてこれは、理論的理念および実践的理念という二つの形態をとってあらわれる。認識の過程は、その結果として、区別によって豊富にされた統一を回復するが、これが理念の第三の形態、すなわち絶対的理念である。そしてこの論理的過程の最後の段階である絶対的理念は、最後の段階であると同時に真の始源であり、ひたすら自分自身によって存在するものである」(同補遺)。
 ここは説明を要しないでしょう。論理学の「最後の段階」の絶対的理念は、また「同時に」、「自然哲学」や「精神哲学」の「真の始源」となるのです。絶対的理念は、ヘーゲルにとっていわば自然哲学や精神哲学に移行するうえでは必要となるカテゴリーではあるものの、われわれにとっては、人間の主体的精神活動としての「認識」こそ論理学の結論ともいうべきものであり、ヘーゲルはこの見地に立って、国家・社会の真にあるべき姿を『法の哲学』で論じることになります。

 

三、「理念」各論

「a 生命」

 「直接的な理念は生命である。ここでは概念は魂として肉体のうちに実現されている。魂は第一に肉体という外面的なものの、直接に自己へ関係している普遍性であるが、第二にはまた肉体の特殊化でもあって、そのために肉体は概念規定が肉体に即して表現する以外のいかなる区別をも表現していない。最後にそれは無限の否定性として個である。すなわちそれは、独立の存在という仮象から主観性へ復帰させられた肉体の諸部分の弁証法であり、したがってあらゆる部分は、相互に一時的な手段であると同時に、一時的な目的でもある」(二一六節)。
 第一七講で、「B 客観」の「目的的関係」には、外的目的と内的目的とがあるとお話ししました。目的的関係における内的目的も生命体を念頭においています。内的目的における生命体は、主として目的と手段の関係においてとらえられ、生命体の肉体部分が魂部分としての目的の手段となることをみてきました。これに対し、理念における生命体は、魂と肉体の統一した主体としての生命を考察しようというのです。
 生命体とは、内的目的としての概念を魂としてもっている「概念と客観性との絶対的な統一」(二一三節)である「直接的な理念」なのです。「直接的な理念」というのは、理念における概念(魂)と客観性(肉体)との結びつきが直接的なものにすぎないという意味です。
 魂は、第一に、肉体を「包括する」形で肉体と結びついている普遍性であり、第二に、生命における主体性として、肉体をその生命体の「概念規定」つまり、その生命の真にあるべき姿に即して、特殊化していきます。
 第三に、生命は、無限に自己否定することにより自己発展する「無限の否定性としての個」です。個は、最後には個の真理態である「否定的な向自有する統一」(二一六節)、つまり類となります。生命は最終的には、二二一節で述べるように、個としては否定されながら、類として生きながらえること(「向自有する統一」)により、「自分自身とのみ連結する」(二一六節)のです。
 「このように、生命は本質的に生命あるものであり、またその直接性にしたがって、生命ある個体である。有限性はここでは、理念が直接的であるために、魂と肉体とが分離しうるという規定を持っている。そしてこの分離の可能が、生命あるものの可死性をなしているのである」(同)。
 生命は、魂と肉体とをもった「生命ある個体」としてのみ存在します。生命体においては、まだ理念(「概念と客観性との絶対的な統一」)が、「直接的」なものにとどまり、魂(概念)と肉体(客観性)とが分離しうるような統一でしかないため、分離したとき、その生命体はもはや理念ではなくなり、死んでしまうのです。
 このように、生命は、「まだ概念と実在とが本当に合致していない」(同補遺)という欠陥をもっています。
 「生命の概念は魂であるが、この概念はその実在性として肉体を持っている。魂は、言わば、その肉体性という型のうちへ注ぎこまれているのであって、したがってせいぜい感じるものにすぎず、まだ自由な向自有ではない」(同補遺)。
 つまり生命体は、そのうちに魂という概念をもってはいても、その概念は、せいぜいその肉体のうちにおいて働くのみであって、その肉体の外に飛びだし、客観的世界に作用するほど「自由な向自有ではない」のです。この点に動物と人間のちがいがあります。「自由な向自有」となった魂が、人間の「精神」にほかなりません。
 そこで生命の過程は、この「直接態を克服することにある」(同)のです。
 ヘーゲルは、この生命が直接態を克服する三つの過程に、「生命あるものの主体的統一のうちにあって単一の過程をなして」(二一七節)おり、「三つの過程を経過するところの自己を自己と連結する」(同)推理であるといっています。

生命の三つの過程

 「 第一の過程は、生命あるものの内部で行われる過程である。そこで生命あるものは自分自身のうちで分裂し、その肉体性を客観、すなわち無機的自然とする。相対的に外的なものとしてのこの肉体性は、それ自身、区別や対立を持つ諸モメントにわかれ、それらは互に他のために自己を犠牲とし、自己のために他を同化し、自分自身を生産しながら自己を保持する。しかし諸分肢のこうした活動は、その主体の単一の活動にすぎず、諸分肢の諸産物は主体の単一の活動へ帰っていくから、これら諸産物のうちで生産されるものは、主体にほかならない。言いかえれば、主体はただ自己をのみ再生産するのである」(二一八節)。
 第一の過程は、生命体の内部で行われるその生命体の維持、再生産により、その有限性を克服しようとする過程です。つまり、生命体は自己のうちに、社会的有機体の場合にはその目的を実現するための諸機関、生物学的生命体の場合には諸器官や諸肢体という「区別や対立」を生みだし、これらの相互作用によって「主体はただ自己のみを再生産する」のです。
 ヘーゲルは、内部の過程は、「感受性、興奮性、および再生産という三つの形式を持っている」(同補遺)といっています。感受性とは「肉体に偏在する魂」(同)ともいうべきものであり、意志決定とその伝達機構、いわゆる神経です。興奮性とは「自分自身のうちで分裂するもの」(同)、つまり諸器官、諸肢体であり、再生産は生物の呼吸、消化、循環器官によって現われることになります。
 「 しかし概念の本源的自己分割は、自由なものとして、独立な統体としての客観的なものを自己のうちから解放するにいたる。そして生物の自己への否定的関係は、直接的な個体性として、生物に対立している無機的自然の前提をなしている。この生命あるものの否定は、同時に生命あるもの自身の概念の一モメントであるから、同時に具体的普遍でもあるところの生命あるものにおいては、それは欠陥として存在する」(二一九節)。
 第二の過程は、第一の過程である生命の再生産を行うために、生命体は、無機的自然を生命体に対立している「前提」ととらえ、それを取りこみ、同化と異化という「自己への否定的関係」を実現しなければなりません。こういう無機的自然を「前提」とし、それに依存せざるをえないところに、生命体の有限性があるのです。
 「客観が本来空無なものとして揚棄される弁証法は、自分自身を確信している生物の活動であって、この過程においてそれは無機的自然にたいして自分自身を保存し、発展し、自己を客観化するのである」(同)。
 生命体は、自己に対立する無機的自然を自己のうちに取り込み、「自己を客観化」します。生命体はその意味で無機的自然を支配し、無機的自然は生命体に従属し、その「力に抵抗することができない」(同補遺)のです。なぜそのような支配・従属の関係が生じるのかといえば、生命体は顕在的概念であるのに対し、無機的自然は潜在的概念にすぎないからです。
 「したがって生命あるものは、その他者のうちで自分自身とのみ合一する。肉体から魂が離れ去ると、客観性の自然力が活動しはじめる。この力は有機的な肉体のうちで自己の過程を開始しようと絶えず待ちかまえているのであって、生命はそれにたいする不断の戦いである」(同補遺)。
 生命体は、同化によって客観を支配しているようにみえながら、肉体という客観は、生命に対立し、生命体のうちで反乱を起こそうと、「絶えず待ちかまえている」のであり、「生命はそれにたいする不断の戦い」を強いられることになります。
 エンゲルスは、このヘーゲルの見解を参考にしたのか、生命を次のように定義しています。
 「生命とは蛋白体の存在の仕方であって、その本質的な契機はその周囲の外的自然との不断の物質代謝にあり、この物質代謝が終わればそうした存在の仕方も終わり、蛋白の分解をもたらす」(全集⑳六〇三ページ)。
 「 第一の過程においては自己のうちで主体および概念として振舞う生きた個体は、第二の過程によってその外的な客観性を自己に同化し、かくして実在的な規定態を自己のうちへ定立する。かくして個体は今や即自的に類、すなわち実体的普遍である。類の特殊化は、主体と、同じ類に属する他の一つの主体との関係であり、ここに存在する本源的分割は、かく相互的に規定された個体への類の関係、性別である」(二二〇節)。
 生命体にとって、類とは生命の真理態であり、類の特殊化したものが個となります。ヘーゲルは、個が無機的自然を自己のうちに同化することは、生命という主観的概念が客観性を獲得、つまり主観と客観の統一として生命の理念になるものととらえ、「かくして個体は今や即自的に類、すなわち具体的普遍である」といっています。
 動物の場合、類は性別を超えた普遍性です。類の特殊化である個において、はじめて性別があらわれます。
 生物の分類は類・種・個の関係で行われます。人類、人種、個人という関係です。しかし類は個の真理態ですから、単に生物的生命体のみならず社会的生命体の場合にも同様に、類と種の関係をみることができます。例えば労働組合の場合だと、「要求での一致、資本からの独立、政党からの独立」という三要件をもつ労働組合が労働組合の類となり、個々の労働組合は、資本に従属した労働組合であっても「類の特殊化」として労働組合と規定されることになるのです。
 マルクスも、国家体制を論ずるなかで、「民主制は体制の類である。君主制は一つの種、しかも不良種である」(「ヘーゲル国法論批判」全集①二六三ページ)といっていますが、これも同様の観点から、類と種をみたものということができます。
 「類の過程は類を向自有へもたらす。この過程の産物は、生命がまだ直接的な理念であるから、二つの面にわかれる。すなわち、一方では、最初直接的なものとして前提されていた生きた個体一般が、今や媒介されたもの、生み出されたものとしてあらわれるが、しかし他方では、その最初の直接態のために普遍にたいして否定的態度をとる生きた個別者は、支配力としての普遍のうちで滅亡する」(二二一節)。
 個から類へいたる「類の過程」は、「生命の頂点」(同補遺)を示すものであり、「有限者の真理」(九五節)である「向自有」としての生命となる過程なのです。
 類に対して、「直接的な理念」としての「生きた個体」は、一方で実体としての類から「生み出された偶有」となり、また他方で実体的普遍としての類にたいして「否定的態度をとる」ものとして、類という「支配力としての普遍のうちで滅亡」することになります。
 「生あるものは死ぬ。なぜなら、それは即自的には普遍者であり類でありながら、直接態においてはただ個としてのみ現存するという矛盾だからである」(二二一節補遺)。
 こうして、生命の三つの過程をつうじて、「生きた個体」は自己を理念の直接態から揚棄し、次の認識(精神)に移行するのです。
 「生命の理念はしかしこれをもって、単に或る一つの(特殊な)直接的な『このもの』から自己を解放したのではなく、上述の最初の直接態一般から自己を解放したのである。このことによってそれはその真実態へ、自分自身へ到達し、自分自身へ向っている自由な類として現存在するようになる。単に直接的であるにすぎない個別的生命の死がすなわち精神の出現である」(二二二節)。
 ヘーゲルの言わんとしているのは、「生きた個体」が類のなかへ揚棄されることによって、生命は、生命という理念の「直接態一般から自己を解放」し、生命の「真実態」としての人間そのもの、自由な精神をもつ人間に移行するということです。こうして理念は「自分自身へ到達」することになります。
ヘーゲル哲学は、「自然哲学」の最後を「生命」としてとらえ、生命の最後の産物が人間の精神であるとして、「自然哲学」から「精神哲学」に移行するという構成になっているのです。

「b 認識」総論

 生命から認識への移行は、自然哲学の領域から精神哲学の領域への移行を意味するものであり、ここにおいてはじめて人間の精神活動が論議されることになります。
 ヘーゲルが「哲学の最高の究極目的」とする理想と現実の統一は、この人間の精神活動を対象とする「認識」の課題となります。
 「エネルゲイアとしてのイデア論」の核心部分が、この「b 認識」にあたります。いわば、人間の精神の働きによる理論と実践の統一、主観と客観の統一をつうじて、理念(イデア)が実現され、現実のものとなっていく無限に発展する過程が考察されているのです。その意味からして、この「認識」は、ヘーゲル哲学の要をなす部分だということができるでしょう。
 では認識の総論部分(二二三~二二五節)に入っていきましょう。
 「理念がその現存在のエレメントとして普遍性を持つかぎり、言いかえれば、客観性そのものが概念として存在し、理念が自分自身を対象として持つかぎり、理念は向自的に自由に存在している」(二二三節)。
 「客観性そのものが概念として存在」というのは、「自我」のことです。「有論」の向自有のところで、「向自有のもっとも手近な例は自我である」(九六節補遺)ことを学びました。自我は無限にその認識を発展させる「観念性」(同)、つまり理念性なのです。「観念性の概念は実在性の真理」(同)であり、自我は認識を無限に発展させて「実在性の真理」である概念に到達するのです。したがって理念としての自我は、「自分自身を対象として持」ち、「向自的に自由に存在している」のです。
 「かく普遍性へ規定されている理念の主観性は、それ自身の内部での純粋な区別であり、自己をこの同一な普遍性のうちに保っている観想である」(二二三節)。
「かく普遍性へ規定されている理念の主観性」というのは、自我における精神、つまり「広い意味での認識作用」(二二六節)のことです。自我は、精神と肉体の統一としてありますが、そのうちの精神が「理念の主観性」とよばれているのです。
 また「観想(観照)」というのは、ギリシア語の「テオーリア」であり、「真実在の観照」というように真実在(イデア)をとらえる用語として使われます。自我の精神、認識作用は、真理をとらえうる主観性なのです。
 「しかしそれは特定の区別としては、より進んだ自己分割であって、統体としての自己を自己から突きはなし、まず自己を外的な宇宙として前提する。すなわち、ここには二つの本源的分割があるのであって、それらは潜在的には同一であるが、まだ同一なものとしては定立されてはいないのである」(二二三節)。
 「特定の区別」とは、自我の認識作用における区別のことです。認識という作用は、主観と客観の対立を前提したうえで、対立の同一を実現しようとする作用であり、これによって認識を客観に一致させ、真理を認識するのです。この認識作用における主観と客観の対立を、ヘーゲルは、「二つの本源的分割」とよんでおり、認識作用を開始するという時点においては、この主客の対立は「潜在的には同一であるが、まだ同一なものとしては定立されてはいない」のです。
 「潜在的にあるいは生命としては同一であるところのこの二つの理念の関係は、したがって相対的な関係であって、このことがこの領域における有限性の規定をなしている。この関係は反省関係である。というのは、それ自身のうちでの理念の区別化は、第一の自己分割にすぎず、前提作用はまだ定立の作用として存在していないからであり、したがって主観的理念にとっては、客観的理念は目前に見出される直接的な世界であるからである。別な言葉で言えば、生命としての理念は個別的存在という現象のうちにあるからである」(二二四節)。
 主観的理念と客観的理念、つまり主観と客観との間の関係は「自己分割」された対立物という「反省関係」におかれているのです。広い意味の認識作用は、主観と客観との反省関係として前進していきます。反省関係というのは、客観から主観へ、主観から客観へという相互移行が無限にくり返されることです。客観から主観への移行が狭義の「イ 認識」の問題であり、主観から客観への移行が「ロ 意志」(実践)の問題です。この認識と意志とがあいまって主客の同一性が定立されることになるのですが、それはまだ先の話です。したがって、主観的理念にとって、「客観的理念は目前に見出される直接的な世界」、つまり「個別的存在という現象のうちにある」にすぎません。
 「同時に、この自己分割が理念自身の内での純粋な区別であるかぎり(前節)、理念は顕在的に自己であるとともにその他者であり、したがって客観的世界と自己との潜在的な同一性の確実性でもある」(同)。
 もともと理念は、主客の統一としてあったものですから、自我のもとでの主観的理念と客観的理念とへの自己分割は、いずれ主観的理念は客観的理念としての客観的世界と一体化させようという「潜在的な同一性の確実性」を示しているということでもあります。
 「理性は、この同一性を顕現しその確実性を真理にまで高めうるという絶対的な信念をもって、また理性にとって潜在的に空無である対立を実際に空無なものとして定立しようとする衝動をもって、世界にあらわれてくる」(同)。
 同一性の顕現というのは、一方では主観が客観と同一となるという「認識」の問題であり、他方では客観が主観と同一となるという「意志」の問題であり、理性はこの二重の同一性を実現しようとする衝動を持っているのです。こうして、主観的理念は、客観世界との間で同一性を顕現することにより、「潜在的に空無」なものでしかない両者の対立を、「実際に空無なものとして定立しようという衝動をもって、世界にあらわれてくる」のです。これがエネルゲイアとしてのイデアにほかなりません。「真にあるべき姿」としての概念(イデア)をかかげての無限の運動は、理想と現実の統一をめざすものであり、この運動はキーネーシスではなくエネルゲイアであって、それ自体意義のある、価値ある人間本来の生き方であることを意味しているのです。