『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』より

 

 

第四講 序説③ 弁証法的唯物論

 

形式論理学と弁証法の基本原理

 前講に引き続いて、形式論理学と弁証法の関係を講義します。
 弁証法は運動する事物の一般的な運動法則をとらえる思考形式であり、静止し、固定した事物をとらえる形式論理学をそのうちに包摂するものです。
 しかし、包摂するといっても、形式論理学と弁証法とは思考形式を異にするのですから、弁証法は、形式論理学をそのままの形式で包摂しているわけではありません。形式論理学の基本原理は、「AはAである」という同一律であり、Aと非Aとを「媒介のない対立」(二八ページ)、相互に関わりのない絶対的に区別された対立としてとらえます。これによりAという事物は、どこまでいってもAであり続ける不変の、静止し、固定した存在としてとらえることになります。
 これに対して弁証法の基本原理は、「AはAであって非Aである」という矛盾律です。形式論理学は矛盾律を否定するのに対し、弁証法は矛盾律を肯定します。そこで形式論理学と用語上の区別をする意味を含めて、これを対立物の統一とよんでおり、したがって弁証法の基本原理は対立物の統一ということになります。弁証法では、Aと非Aとは、形式論理学の「媒介のない対立」とは異なり、「媒介された対立」としてとらえるのです。
 この対立物の統一は、胎児から人への移行を「胎児は胎児であって胎児ではない」、脳死の人を「脳死は死であって死ではない」というように、運動している事物をとらえるときには正しい思考形式であるとしても、まだ妊娠後数ヵ月の胎児や、元気に生きている人間の場合には、胎児あるいは人間として固定していますから形式論理学で十分であると思われるかもしれません。
 しかし第一講でお話ししたように、「あらゆる静止、あらゆる平衡は、相対的なもの」(九〇ページ)にすぎませんから、固定し、静止した事物も運動の契機としての弁証法をうちに含んでいるのです。
例えば、数ヵ月の胎児は胎児であって人ではありません。しかし、胎児は母体とでつながり、臍帯をつうじて栄養補給を受けていますが、胎児の血液と母体の血液とは混じり合うことはありません。いわば胎児は母体と同一であると同時に母体から区別されている存在なのです。こういう同一と区別の統一であるからこそ成長した胎児は、出産によって母体から区別されることになります。 
 また元気な人の場合は、確かに生きていて、生きているか死んでいるか分からない脳死の人とは異なります。しかし、体内の細胞をみると、不断に新しい細胞が生まれると同時に古い細胞が死滅することによって、十数ヵ月もすると体内の細胞は全部生まれかわってしまうといわれています。したがって生きている人も、細胞レベルでは生と死の統一であり、だからこそ次第に細胞の死が増加し、やがて個体の死につながっていくのです。
 まとめてみると、一時的、相対的に静止し、固定した事物をとらえるにあたって、形式論理学は、それを運動の契機を含まない同一律としてとらえるのに対し、弁証法は、一歩その事物のなかに踏みこんで、静止のなかにも運動の契機を含む対立物の統一としてとらえます。
 したがって、弁証法は形式論理学を包摂し、形式論理学と同様に静止し、固定した事物をもとらえるといっても、そのとらえ方には自ずから差異があることをみておかなければなりません。同じ静止し、固定した事物をとらえるにしても、弁証法の方が形式論理学よりも、より深く、より真理に接近した認識方法となるのです。

ヘーゲル哲学は観念論か

 テキストにもどって、ヘーゲル哲学の本質とは何かをみていくことにしましょう。
 ヘーゲルは、世界のすべての事物を「不断の運動、変化、転形、発展のうちにあるもの」(三一ページ)としてとらえ、人類の歴史も、「内的な法則性」(同)をもつ「発展過程」(同)であるとする「画期的な功績」(同)を残しました。
 ヘーゲルは、「その時代の最も広い学識の持ち主」(同)でしたが、それでも個人的、歴史的な認識の制約をまぬがれることはできませんでしたし、何よりも「ヘーゲルは観念論者」(三二ページ)だったとされています。
 思考と存在、主観と客観、精神と物質とは、世界の二大要素をなしています。そのいずれを第一次的、根源的と考えるかによって、哲学は観念論と唯物論の二大陣営に分かれることになります。思考・主観・精神を第一次的なものとする陣営は観念論とよばれ、存在・客観・物質を第一次的なものとする陣営は唯物論とよばれます。自然科学の発展によって、宇宙や地球の歴史が科学的に説明され、また人間が存在する以前にも地球や宇宙は存在していたことが証明され、次第に唯物論が哲学の本流となってきました。
 観念論には、例えば神が世界を創造したというような、宗教的世界観があります。このように客観的な精神を根源的とする観念論は客観的観念論とよばれ、これに対して、「私が知覚するから事物も存在する」という観念論は、主観的観念論とよばれています。これまで客観的観念論を代表する人物は、プラトン、ヘーゲルであり、主観的観念論を代表する人物は、バークリーやカントであるとされてきました。
 では、なぜヘーゲルは客観的観念論者とされているのか、エンゲルスのいうところを聞いてみましょう。
 「彼には、彼の頭のなかの思想は、現実の事物や過程の多かれ少なかれ抽象的な模写とは考えられなかったのであって、逆に、事物とその発展のほうが、すでに世界よりもまえにどこかに存在していた『』の現実化された模写にすぎないと、彼には思えたのであった。こうして、すべてのものが逆立ちさせられ、世界の現実の連関がすっかりあべこべにされてしまった。……ヘーゲルの体系そのものは、一つの巨大な流産であった。――しかしまた、その種の流産の最後のものでもあった」(三二ページ)。
 マルクスも、『資本論』(「あと書き〔第二版への〕」)のなかで、「自分があの偉大な思想家の弟子であることを公然と認める」としながらもヘーゲルについてエンゲルスと同様の見解を次のように表明しています。
 「私の弁証法的方法は、ヘーゲルのそれとは根本的に異なっているばかりでなく、それとは正反対のものである。……弁証法はヘーゲルにあってはさか立ちしている。神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それをひっくり返さなければならない」(『資本論』①二八ページ/二七ページ)。
 しかし、エンゲルスのヘーゲル評価は、晩年の著作『フォイエルバッハ論』(全集㉑二六五ページ以下)で若干変化しているように思われます。
 このなかで、ヘーゲル哲学は観念論だとされながらも、ヘーゲル弁証法における「保守性は相対的であり、その革命的性格は絶対的である」(同二七二ページ)とし、その哲学体系には、「今日でもなお完全に値うちのある無数の宝がある」(同二七四ページ)との積極的評価がなされています。それにとどまらず、自然科学と産業の発展により、「観念論の諸体系も、ますます唯物論的内容でみたされるようになり、……けっきょくヘーゲルの体系は、その方法と内容とにおいて観念論的にさかだちさせられた唯物論にすぎないのである」(同二八一ページ)とまでいっているのです。
 いわば、エンゲルスのヘーゲル評価も、当初の逆立ちした観念論との評価から、晩年には「観念論的にさかだちさせられた唯物論」との評価に微妙に変化しているのであり、ここには、ヘーゲルの再評価の意図が見え隠れしています。
 エンゲルスは、同書において、「なにが根源的なものか、精神かそれとも自然か」(同二七九ページ)という問いに「どう答えたかに応じて、哲学者たちは二つの大きな陣営に分裂した」(同)と述べており、観念論と唯物論とを和解しがたい対立としてとらえています。
 とすれば、「観念論的にさかだちさせられた唯物論」という矛盾した表現をどう理解すればいいのかという疑問がでてきます。エンゲルスは、晩年にいたって、ヘーゲル哲学の本質を典型的な客観的観念論者と割り切って規定することに疑問を抱いていたのではないかとも思われるのです。

「観念論的装いをもった唯物論」

 マルクスやエンゲルスの初期のヘーゲル評価には少なからぬ疑問を感じます。永年ヘーゲル「論理学」の研究に携わってきた一人として、ヘーゲルが現実の事物を「理念(イデー)」の模写にすぎないととらえていたとは、どうしても思えないからです。
 ヘーゲルは、「論理学」のなかで客観的事物の分析をつうじて、「真にあるべき姿」(イデア)をとらえ、この「真にあるべき姿」を目標にかかげた実践により理想と現実の統一をめざすという変革の立場を明らかにしています。これは科学的社会主義の立場と共通するものです。この理想となる「真にあるべき姿」をヘーゲルは「概念」とよんでいます。この「概念」は、プラトンのいう「イデア」(事物そのもの)に類似したカテゴリーですが、けっして「すでに世界よりもまえにどこかに存在していた『』」(三二ページ)ではなく、客観世界の分析をつうじてえられた客観世界の矛盾を止揚するものとしてとらえられた客観世界の反映であり、だからこそ観念論的な空想と異なって、客観世界を変革しうる理想となるのです。
 ヘーゲルを客観的観念論とすることへの疑問はこれだけではありません。
 第一に、ヘーゲルは、その生涯をつうじて十回の「哲学史」の講義をおこなっています。マルクスも、ラサール宛の手紙のなかで「哲学の全史をはじめて理解したヘーゲル」(全集㉙四二八ページ)と述べているほどです。
 いわばヘーゲルは二千五百年の哲学の歴史を総括し、そのなかの積極的な部分をすべて継承し、発展させて「論理学」を完成させたのです。その意味では哲学の歴史の大道である唯物論を歩むものであって、特異な異端の観念論者となるべき理由がないのです。
 第二に、ヘーゲルは、この『哲学史』のなかで客観的観念論者であるプラトンも、主観的観念論者であるバークリー、カントをも、ともに唯物論的見地から批判していることです。
 まずプラトンです。プラトンは、感覚のうちにとらえられた個物の世界は真の世界ではないととらえました。理性によって認識されるイデアの世界こそ真実在の世界であって、個物は、イデアの影、不完全な模像にすぎないと考えました。
 ヘーゲルは、このイデア論を「悪しき観念論の意味における思想ではない」(『哲学史』中巻の一、一八二ページ)としながらも、プラトンのイデアが客観世界の反映としてとらえられていないところに問題があり、したがってプラトンのイデアは現実性に必然的に転化するイデアになっていないと批判しています。
 イギリスの経験論者バークリーは、「我々が物と称ぶ一切のものの存在はただその知覚されてある事である」(同下巻の三、七ページ)と主張しましたが、ヘーゲルは、これを「観念論の最も悪しき形」(同六ページ)と批判しています。
 またカントのカテゴリーの先験性についても、カテゴリーのもつ普遍性、必然性は客観的事実のうちに存在するものであるとの唯物論的批判を加え、カント哲学の唱える理念は、現実に転化しない「主観的観念論」(『小論理学』四五節補遺)にすぎないという総括的批判を加えています。
 このように客観的観念論についても、主観的観念論についても、唯物論的な批判を加えているヘーゲルを客観的観念論者だと規定することはできません。
 第三に、ヘーゲルはかつて反動的プロイセン国家を美化する保守主義者と評価されたこともありましたが、近時の研究では、エンゲルスもいうように革命的進歩主義者とその評価が一八〇度転換してきました。
 ヘーゲルは、「無常の感激をもって語るあの大革命」(全集㉑二七〇ページ)のかかげた自由の精神を生涯にわたってもちつづけ、『法の哲学』をつうじてルソーのめざした人民主権の政治を実現しようとしました。
 こうした社会変革の立場にたつヘーゲルにとって、現実から出発し、現実の分析をつうじて「真にあるべき姿」という理想をとらえるという唯物論的見地は、あまりにも当然のことでした。「一口に言えば哲学の内容は現実である」(『小論理学』六節)、この言葉に、ヘーゲルのよって立つ足場がはっきりと示されています。
 「論理学」もこの立場から、事物の表面的な真の姿をとらえる「有論」、事物のより深い真の姿をとらえる「本質論」という現実の認識をふまえて、事物の真にあるべき姿をとらえる「概念論」が論じられる構成になっているのです。
 第四に、マルクスは、『資本論』のなかで、ヘーゲルの発見した弁証法の諸法則を「ひっくり返」すことなく、そのままの形で駆使し、資本主義の運動法則を解明しています。これは弁証法の個々の諸法則は唯物論的であることを肯定したに等しいということができます。
 マルクス、エンゲルスがヘーゲル弁証法を「さか立ち」していると理解したのは、ヘーゲルのいう「概念」の真意をとらえ切れなかったことに由来するものといえるのではないでしょうか。マルクス、エンゲルスも概念論を除けば、ヘーゲル弁証法は、唯物論的であり、唯物論者が現実を分析し、未来を展望するうえで、有効かつ適切な思考形式であると理解し、自らもその弁証法を積極的に活用したということができるでしょう。
 以上の理由によって、エンゲルスのいうような頭のなかでとらえられた「」から出発し、その「理念」の模写として現実をとらえるという批判をヘーゲルに加えることはできないと思います。
 ではヘーゲルには、「神秘的な外皮」(マルクス)、観念論的な装いがないのかといえば、そうではありません。逆に観念論的な装いに充ちあふれているといってもいいくらいであり、それは特に「概念」というカテゴリーに関連して生じています。ですからエンゲルスも、ヘーゲルの「さかだち」した弁証法を「概念弁証法」(全集㉑二九八ページ)とよんでいるのです。
 ヘーゲル哲学にとって「概念」は最も重要なカテゴリーであり、ヘーゲルの革命的精神を象徴的に表現するカテゴリーでした。当時のプロイセン国家は、すでに反動化しつつあり、民主的な大学教授を追放する動きも顕著になるなかで、ヘーゲルはプロイセン国家の官僚養成機関であるベルリン大学の哲学教授の地位にありました。彼は自分の良心に忠実でありながらも、その地位を守るためには検閲を考慮して奴隷の言葉で語るしかなかったのです。そこから、「概念」の真の意義が読み解かれないように幾重もの擬装をほどこしたのであり、その結果「概念」は神秘的な装いをもつにいたったのです。そのため、ヘーゲルの「概念」にかけた真意は、誰も読みとることはできず、ヘーゲルは誰も真意を理解してくれなかったといって失意のうちに世を去ります。
 彼の死後、マルクス、エンゲルスも含め、長い間「概念」の真の意義は理解されず、ようやくレーニンにいたって、その近似解がえられることになります。レーニンは「哲学ノート」(レーニン全集㊳)において、ヘーゲル論理学を研究し、「人間の活動は、外的現実性を変化し、……この現実性から仮象、外面性および空無性という特質を取りさり、この現実性を即自かつ対自的に有るもの(=客観的に真なるもの)にする」(同一八七ページ)と述べています。いわば、「真にあるべき姿」としての「概念」をかかげての実践は、現実を、仮象、空無性から「真なるもの」に変革するのだと理解したのです。
 こうしてレーニンは、「論理学」を学んだ最後に、「ヘーゲルのこのもっとも観念論的な著作のうちには、観念論がもっともすくなく、唯物論がもっとも多い。"矛盾している"、しかし事実だ!」(同二〇三ページ)と感慨を込めてヘーゲル哲学の再評価をおこなっています。
 こうしたことから拙著『弁証法とは何か』では、レーニンの再評価をも考慮にいれつつ、ヘーゲル哲学の本質を「観念論的装いをもった唯物論」と規定しましたので、興味のある方は御一読いただければと思います。

弁証法的唯物論と史的唯物論の誕生

 テキストに戻ります。ヘーゲル弁証法からマルクス、エンゲルスの弁証法的唯物論への発展をもたらした要因として、その当時自然においても社会においても注目すべき変化が生じたことがありました。
 まず自然科学についていうと、一八世紀の自然観はニュートン力学に代表される機械論的、形而上学的唯物論でした。ところが一九世紀になると、形而上学的唯物論を打ち破る発見が相次ぎます。それがエネルギー転化の法則、細胞の発見、ダーウィンの進化論という三大発見です。
 エネルギー転化の法則のきっかけとなったのは、熱力学の確立でした。当時、熱とは謎に包まれた存在であり、熱素という「神秘的な物質」(二三八ページ)として説明されていました。それが、マイアー、ジュールによって、熱とは力学的エネルギーが熱エネルギーに転化したものであり、熱はエネルギーの一種であることがはじめて解明されたのです。
 このエネルギー転化の法則の証明により、「これまではいわゆる力として、説明のつかぬ謎の存在であった自然における無数の作用原因 ――力学的な力、熱、輻射線(光と放射熱)、電気、磁気、化学的な結合力と分離力――のすべては、いまや同じ一つのエネルギーつまり運動の、特殊な形態ないしは存在の仕方であることが立証された」(全集⑳五〇七ページ)。
 次の細胞の発見によって、すべての生物は「どんな多細胞生物にとっても本質的には同等である或る法則にしたがっておこなわれている一過程に解消」(全集⑳五〇八ページ)されることになりました。
 しかし、細胞の発見だけでは、まだ生物の多様さの由来そのものを説明することはできませんでした。それを可能にしたのが、ダーウィンの進化論です。これによって、「小数の簡単なものから出発して、今日われわれが眼前に見るようなより多様な、より複雑なものへとすすみ、ついには人間にまで到達する生物の進化の系列は、大綱においてはすでに立証され」(同)ることになりました。
 これらの発見は、形式論理学における「動かすことのできない固定した境界線」(同五二〇ページ)は、自然界には存在しないことを証明し、形而上学的唯物論から弁証法的唯物論へと前進する土台をつくったのです。
 他方社会においては、全ヨーロッパをゆるがしたフランス革命の影響を受けて、「歴史観に決定的な転換をもたらした歴史的諸事実」(三三~三四ページ)が登場してきました。それは「プロレタリアートとブルジョアジーとの階級闘争」(三四ページ)が歴史を発展させるという事実です。
 「一八三一年にはリヨンに最初の労働者蜂起が起こった。一八三八年から一八四二年にかけて、最初の国民的な労働運動であったイギリスのチャーティストの運動が、その頂点に達した」(同)。
 レーニンは、このチャーティスト運動の意義について、「最初の広範な、真に大衆的な、政治的にはっきりした形をとったプロレタリア的革命運動」(レーニン全集㉙三〇七ページ)と述べています。
 これまでの「古い観念論的な歴史観は、物質的利害にもとづく階級闘争を、総じて物質的利害というものを、認めなかった。この歴史観では、生産も、あらゆる経済関係も、『文化史』の従属的要素として、まったくつけたりに出てくるだけ」(三四ページ)であり、それを見直すべき歴史的事実がつきつけられたのです。
 こうして「〔歴史でも、自然でも〕、近代唯物論は本質的に弁証法的」(三三ページ)なものにならざるをえなかったのであり、ここにマルクス、エンゲルスの弁証法的唯物論と史的唯物論が誕生するにいたります。

「社会主義は科学になった」

 マルクス、エンゲルスは、ヘーゲル弁証法を武器としながら、科学的社会主義の学説を確立し、自然と社会を「科学の目」でとらえる武器を人類に提供しました。
 まず自然については、エンゲルスの『自然の弁証法』と『反デューリング論』をつうじて、「自然は弁証法の検証となるもの」(三〇ページ)であることが明らかにされました。
 ヘーゲルもその「自然哲学」において「古くからのニュートン=リンネ学派の自然科学全体を百科全書的に総括しよう」(全集⑳五五六ページ)としましたが、当時の自然科学の限界によって、自然界の諸現象の普遍的な連関を説明することはできませんでした。
 ヘーゲルの「自然哲学は、まだ知られていない現実の連関を観念的な空想的な連関でおきかえ、欠けている諸事実を考えだした像でおぎない、現実のすき間をただの想像でみたすことによってしか、この任務を果たすことができなかった」(全集㉑三〇〇ページ)。
 この現実の普遍的連関が先にみた三大発見によって明らかにされることにより、「世界の現実の統一性はそれの物質性にある」(六三ページ)ことを証明したのがエンゲルスです。
 このエンゲルスの功績は、その後、物質の最小単位についての探究、宇宙の生成、発展論、生物学における「生命の樹」の探究、量子力学における有と無の統一、などにも生かされていくことになります。 
 社会における弁証法的唯物論は、一つは史的唯物論として、もう一つは、資本主義的生産様式の運動法則の解明として結実することになりました。
 史的唯物論は、社会には構造があることを明らかにすると同時に、経済社会から生まれる階級間の対立・闘争が社会発展の原動力となることを解明し、社会の科学的探求を可能にしました。
 「これまでのすべての歴史は階級闘争の歴史であったこと、これらのあいたたかう社会階級は、いつでも、その時代の生産および交易の関係、一言でいえば経済関係の産物であること、したがって、社会のそのときどきの経済構造が実在的な土台をなしており、それぞれの歴史的時期における法的および政治的諸制度、ならびに宗教的、哲学的その他の考え方からなる上部構造全体は、終局的にはこの土台によって説明すべきものだということ、これであった」(三四~三五ページ)。
 引用文の冒頭の箇所は、その後『空想から科学へ』のなかで「これまでのすべての歴史は、原始状態を別にすれば、階級闘争の歴史であったこと」(二九四ページ)に改められました。原始状態の原始共産制社会においては、私有財産は存在せず、いまだ階級対立はもとより、階級も存在しなかったからです。
 資本主義的生産様式の運動法則を解明し、その生成、発展、消滅の必然性を明らかにする作業は、マルクスの『資本論』をつうじて行われました。マルクスは、資本主義の分析ならびに『資本論』の叙述の双方において、弁証法を駆使してその論理を展開しました(拙著『「資本論」の弁証法』一粒の麦社参照)。
 そして、「剰余価値の発見」(三五ページ)により、資本主義的搾取の秘密を解明し、資本の本質は剰余価値への「人狼的渇望」にあることに始まり、最後には「資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである」(『資本論』⑨四二六ページ/二六〇ページ)として資本主義のもつ歴史的制約性を明らかにしました。
 「この二つの偉大な発見、すなわち唯物史観と、剰余価値を手段とする資本主義的生産の秘密の暴露とは、われわれがマルクスに負うものである。これらの発見によって、社会主義は科学になった。いまさしあたって必要なことは、この科学をそのあらゆる細目と連関とにわたってさらに仕上げてゆくことである」(三六ページ)。
 弁証法的唯物論と史的唯物論、それに剰余価値学説と階級的観点を真理探究の武器として、科学的社会主義の学説は、真理に無限に接近していくことができる学説となったのです。レーニンは、科学的社会主義の学説は「正しいので全能である」(レーニン全集⑲三ページ)といっています。これは科学的社会主義の学説そのものが相対的真理をとらえているという意味であると同時に、右に述べた真理探究の武器をもって現実に立ち向かうことによって、無限に真理に接近しうる理論となっているという意味に理解すべきものでしょう。
 科学的社会主義の学説は、相対的真理ではありますが、けっしてそれ以上前進しえない絶対的真理ではありません。その意味ではマルクス、エンゲルスは天才といえどもその認識には、個人的、歴史的制約を伴っているのです。「マルクス主義」を「科学的社会主義」という呼称にかえたのも、このような制約を踏まえたものということができます。
 こうしたことも含めて、「あらゆる細目と連関とにわたってさらに仕上げてゆくこと」が私たちに残された課題となっているのです。