『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』より

 

 

第五講 哲学① 思考と存在

 

一、「デューリング氏の約束するもの」

 それでは、序説第二章「デューリング氏の約束するもの」に入っていきましょう。第一講で、『反デューリング論』は論争の書であり、論争をつうじて認識の弁証法的発展を学ぶとお話ししましたが、いよいよその論争の部分に入っていきます。エンゲルスは、まずデューリングがどんな人物なのかを概括的に批判し、そのうえにたってその著作の内容の検討に入ろうとしています。

究極の決定的真理

まずデューリングは、自分の哲学に関して次のように宣言しています。それは「現代ならびに当面」(三七ページ)の哲学の展開にかんして「代表権を主張するもの」(同)であり、「究極の決定的真理」(同)をとらえる「現実哲学」(三八ページ)である。それはどんな「夢想的な、主観主義的に制限された世界観」(三八ページ)とも無縁な「厳密に科学的な」(同)「根底的な科学」(同)であり、「根本的に独自な諸結論と諸見解」(同)に達した「確定された諸真理」(同)だというのです。
 一見すると現実から出発する唯物論の立場にたって科学的に真理を探究しようとするものであり、評価しうるもののようにみえますが、直ちにいくつかの疑問にぶつかります。
 第一に、どんな天才といえども、すべての個人の認識には個人的、歴史的な制限を伴います。したがって、「究極の決定的真理」に到達するためには、「彼の個人的=主観的な制限性の限界」(同)ばかりではなく歴史的な限界をも乗りこえることができなければなりませんが、「こういう奇跡がどのようにして実現されるのか」(同)、彼は何の説明もしていません。
 第二に、もし彼が「究極の決定的真理」をとらえたのであれば、彼の哲学は「現代ならびに当面」の未来を代表するのみならず、永遠の未来を代表するものでなければなりません。というのも究極の真理は、真理であるがゆえに未来永劫、否定されることなく永遠の生命を保ちうるものだからです。
 一方で究極の真理を主張しながら、他方で「当面」の未来のみを代表すると主張するのは、論理の矛盾でしかありません。デューリングの自信も中途半端なものにすぎません。
 第三に、唯物論的な真理とは客観に一致する認識であり、一個人の認識としてではなく人類全体の長い歴史をつうじて、一歩ずつ積み重ねられてきたものです。それは、先人の到達したものを学習し、そのなかの真理を引き継ぎながらもその限界を否定するという、認識の連続性と非連続性の統一として、漸進的に獲得されてきたものです。
 デューリングのいう「根本的に独自な諸結論と諸見解」とは、先人の認識との連続性を否定し、非連続性のみを主張するものであって、どうすれば先人の獲得した真理を学ばずして「究極の決定的真理」をとらえることが可能となるのかを説明してもらいたいものです。
 こうしてみてくると、彼は本当に唯物論と科学の立場にたって真理をとらえようとしているのか早くも大きな疑問を抱かせるものであり、単なる大ボラ吹きではないかを予感させるものとなっています。

社会主義的計画

 まず経済的=政治的分野では、彼は「独自な、完全に仕上げられた、未来社会のための社会主義的計画」(三九ページ)をたてており、彼の「哲学とまったく同様に、無過誤の、唯一成聖の計画」(同)だと主張しています。というのも、それは「たんなる見せかけの一時的な所有ないしはまた暴力にもとづく所有にいれかわって、真正の所有がなりたつことができる」(同)計画だからだというのです。
 デューリングという天才の登場により、いまや社会主義的計画はその細部にまでいたる「完全に仕上げられた」真理になったというわけです。
 これは、空想的社会主義者とまったく同じ立場であり、「天才がいま出現し、真理がまさにいま認識された」(二四ページ)と主張するものにほかなりません。
 「社会主義を科学とするには、まずそれを実在的な基盤の上にすえなければならなかった」(二五ページ)のであり、それを果たしたのがマルクスの『資本論』でした。それにもかかわらずデューリングは、『資本論』の登場後に、それを十分検討することもなく再び空想的社会主義に舞い戻ろうとする時代錯誤をおかしているのです。
 資本主義社会から未来社会としての社会主義社会を展望する場合、資本主義的生産様式の矛盾を止揚する限度において、未来社会の輪郭を示しうるというものにすぎません。空想的社会主義者は、未来社会を細部にまでわたって仕上げようとすることによって、ますます空想的にならざるをえないことを証明してくれました。
 「これらの新しい社会体系は、……細部にわたって詳しく仕上げられれば仕上げられるほど、それらは、ますますまったくの空想におちこむほかはなかった」(四七〇ページ)のです。デューリングは、この点でも空想的社会主義者の轍を踏むことになるのではないかと思われます。
 また、彼が「一時的な所有ないしはまた暴力にもとづく所有」(三九ページ)といっているのは、搾取による資本主義的な所有を意味していることにまちがいありません。しかし資本主義的搾取は、後に詳しく検討するように、労働者のもつ労働力という商品を資本家に販売するという商品の等価交換から生じるのであって、それは何ら「暴力にもとづく所有」でもなければ、詐欺による「一時的な所有」でもないのです。デューリングは、労働力という商品の等価交換から、資本主義的搾取という不等価交換が生じる秘密を解明したマルクスの剰余価値学説を全く理解していないのではないかとの疑問を抱かせます。
 さらに暴力的な所有に根拠がないとすれば、それとの対比で用いられている「真正の所有」(同)というものも、単なる空語にすぎないのではないかと推測させるものです。

先人の功績の否定 

 「究極の決定的真理と唯一の厳密な科学性とをもちあわせている人が、自分以外の、迷える非科学的な人類にたいして、かなりな軽蔑をいだくのは、当然である」(四一ページ)。
 「根本的に独自な諸結論と諸見解」(三八ページ)にたつと称するデューリングにとって、先人の功績は、何ら学ぶべき意義ももたず「軽蔑をいだく」だけの存在にすぎません。
 そこから、先人に対し、仮借なき悪罵が投げつけられることになります。
 その一つひとつを紹介する暇はありませんが、これからの論理の展開上、登場してくるヘーゲル、ダーウィン、マルクスへの批判だけはとりあげておきましょう。
 ヘーゲルは、「熱病やみの幻想」(四一ページ)の持ち主であって、「ヘーゲル式隠語」(同)をしゃべり、「おまけに形式上からいっても非科学的な手法」(同)を手段にして「ヘーゲル疫病」(同)をひろめたと批判されています。
 「ヘーゲル式隠語」というところをみると、彼はヘーゲル論理学を理解することもできなかったし、またそれが形式上からいっても非科学的な手法だとすれば、なぜ「ヘーゲル疫病」が広がり、世間を席巻するにいたったのかも理解不能だったのでしょう。
 ダーウィンの進化論は、「人間性に対置された一片の野獣性である」(四二ページ)とされています。ダーウィンが種の進化を突然変異と自然淘汰という二つの要因でとらえ、自然淘汰を不用意に「生存競争」に例えたことをもってこのように批判しているのです。
 マルクスの「著作と業績」(四四ページ)は「本書の領域(社会主義の批判的歴史)にとって永続的な意義をもつもの」(同)ではないとし、『資本論』によることなく、資本主義への批判と社会主義への展望をなしうるかのようなポーズをとっています。果たしてそれが可能なのかどうか、お手並み拝見といきたいものです。
 こうした厚かましい悪罵でさえ「思慮ぶかい、真の意味で控え目な表現法の精粋」(四五ページ)とうそぶくデューリングなる人物は、「真の意味で控え目な表現」をとったとしても、信用できない、ハッタリ屋の人物ではないかと思わせるに十分だといえるでしょう。
 先人の認識を真理探究の立場から批判することは、けっして悪罵を投げつけて全否定することではありません。反駁とは何かについて、もう一度ヘーゲルという「熱病やみの幻想」のいうところを聞いてみましょう。
 「或る哲学が反駁されたと言うと、人々は普通それを抽象的に否定的な意味にのみ理解し、反駁された哲学はもはや全く成立せず、それは片づけられてしまったと考える」(『小論理学』八六節補遺二)。
 しかしそうではなく、反駁とは、「その哲学の制限を踏み越えて、その哲学の特殊の原理を観念的な(ideell)契機へひきさげることを意味するにすぎない」(同)のです。つまり真理に接近するための反駁とは、より高い普遍的な見地にたって、「特殊な原理」の特殊性に注目し、それが普遍的な見地へと発展させられなければならないと批判することにより、認識は特殊な真理からより普遍的な真理に向かって一歩前進することになります。
 デューリングが先人の理論の特殊性をより普遍的見地から批判するのではなく、単なる悪罵にとどまっているのは、そもそも真理探究のための批判ではないことを自ら証明しているにすぎません。

 

二、「分類。先天主義」

デューリングの哲学

 以上で「序説」を終えたことにして、「第一篇 哲学」に入っていくことにします。
 デューリングによると、哲学とは、「世界と人生とについての意識の最高形式の展開」(四七ページ)であり、「いっさいの知識と意欲の諸原理を包括するもの」(同)です。それは単純な諸原理に「還元」(同)され、「いっさいの存在のもろもろの根本形式」(同)を成しています。それ以外には、「自然と人間世界」(同)を対象とする哲学があります。したがって、哲学は「一般的な世界図式論と、自然の諸原理にかんする学問と、最後に人間にかんする学問」(四八ページ)の三つの群に「分類」され、第一の哲学が第二、第三の哲学に適用されるという「一つの内的な論理的秩序がふくまれている」(同)というのです。
 すぐに気がつくことは、彼の哲学体系がヘーゲルの『エンチクロペディー』における「論理学」「自然哲学」「精神哲学」という「分類」をそのまま剽窃したものだということです。「形式上からいっても非科学的な手法」である「ヘーゲル疫病」におかされているのは、ほかならぬデューリング自身だったことがここに判明します。
 「だから、デューリングの順序の『内的な論理的秩序』は、『まったく自然に』われわれをヘーゲルの『エンチュクロペディー』へ連れもどすのである」(四九ページ)。
 しかもご丁寧にも構成順序までヘーゲルに従っているのです。
 「論理学を純粋な思惟規定の体系と見れば、他の哲学的科学、すなわち自然哲学および精神哲学は、言わば応用論理学である。というのは、論理学はそれらに生命を与える魂をなすからである」(『小論理学』二四節補遺二)。
 ヘーゲルを批判しながらヘーゲルを剽窃するような人物は、マルクスについても同様のことをしでかすのではないかと予測させるのに十分な根拠を提供するものであり、後にそれが残念ながら事実であったことを知ることになります。

存在の根本形式と思考の根本形式

 こうして「一般的な世界図式論」とは、ヘーゲル論理学のことだということを知ることができました。
 デューリングは、それを「いっさいの存在のもろもろの根本形式」だといっています。彼の「現実哲学」の立場からすると、「純粋に観念的な領域は論理的図式と数学的形象とに限られる」(四八ページ)のであって、それ以外の根本形式は「ほかならぬ外界から取りだし、みちびきだすよりほかはない」(同)ことになります。
 しかしそうなれば、エンゲルスも批判するように「全関係はあべこべ」(同)になり、「原理が自然と人間の歴史とに適用されるのではなくて、これらのものから原理が抽象される」(同)のであり、「原理は研究の出発点ではなくて、それの最終の結論」(同)ということにならざるをえません。
 ではこの点で、ヘーゲルとデューリングとを同列において批判できるのかといえば、そうではありません。
 そもそもなぜヘーゲルの『エンチクロペディー』は、「論理学」から出発して、それを「自然哲学」「精神哲学」に適用しようとしたのでしょうか。
 ヘーゲルが「論理学」をつうじて明らかにしようとしたのは、けっして「存在の根本形式」ではなく、「思惟の一つの独自の様式」(『小論理学』二節)、つまり、「思考方法」(二六ページ)、思考(思惟)の根本形式です。ヘーゲルは私たちが真理を認識するために、どのような思考の形式、枠組み、カテゴリーが必要となるのかを問題としているのです。ヘーゲルは、量と質、本質と現象、原因と結果などのカテゴリーをつうじて、真理認識の思考形式は形式論理学ではなくて弁証法であることを明らかにしました。そして「論理学」で明らかにした弁証法的カテゴリーを適用し、自然と人間の精神という「存在の根本形式」をとらえようとして「自然哲学」と「精神哲学」を著したのです。だからこそ、ヘーゲルの『エンチクロペディー』の「論理学」(いわゆる『小論理学』)は、デューリングの「世界図式論」とは異なり、今なお読みつがれる不朽の古典的名著となりました。
 これに対してデューリングは、ヘーゲルを剽窃しながらも、生半可な理解のために「論理学」を「思考の根本形式」ではなく、「存在の根本形式」を問題にした著作だと勘違いしてしまったのです。
 ですから、そこで問題にされているのは、次講でお話しする時間と空間であるとか、物質と運動とかいった「存在の根本形式」にかかわる問題となっています。そうなると、エンゲルスが指摘するように、「全関係はあべこべ」になってしまいます。
 では、なぜデューリングはこんな「あべこべ」の関係におちいったのでしょうか。その解明のためには、「意識と自然、思考と存在、思考法則と自然法則」(四九ページ)との関係を考察しなければなりません。思考と存在とは基本的に同一となりうる関係にあります。というのも人間の脳の産物である思考は、存在を反映したものですから、「その他の自然の連関と矛盾しないで照応するのは、あたりまえ」(五〇ページ)なのです。先に、真理とは客観に一致する認識だとお話ししましたが、人間の認識は、客観世界を反映して客観の真の姿をとらえることによって、真理を認識するという機能をもっています。
 しかし、客観的事物のより深い真理を認識するためには、経験をつうじて自己のうちに獲得された「表象」を、思考の働きによってどんどん抽象化し、思想やカテゴリーに転化していかなければなりません。
 「一般的に言って、哲学は表象を思想やカテゴリーに、より正確に言えば概念に変えるものだと言うことができる」(『小論理学』三節)。
 こうして表象から思想やカテゴリー、概念へと思考の作用によって具体的事物を抽象化し、抽象に抽象を重ねていくと、抽象化が進むにつれて客観的事物の反映であることが見失われ、あたかもこれらの思想やカテゴリーが客観的事物の反映ではなくて、「人間と自然から切りはな」(五〇ページ)された思考の独自の産物であるかのような錯覚におちいることになります。
 そうなると、あたかも思想や概念こそが存在の根本形式であり、すべての客観的事物はこの思想や概念の反映であるかのような逆立ちした意識が生まれてくるのです。
 エンゲルスは、これを「イデオロギー」(五一ページ)とか「先天主義」(四七ページ)とよんでいます。
 「イデオロギー的方法、普通に先天主義的方法ともよばれている方法」(一四七ページ)とは、「ある対象の諸特性を、対象そのものから認識するのではなく、その対象の概念から論証によってみちびきだすもの」(同)です。
 デューリングは、ヘーゲルの「論理学」を存在の根本形式と誤解したところから、それを剽窃した「一般的な世界図式論」において、この先天主義の誤りをおかすことになってしまったのです。
 こうして、彼は「意識と知識の根本諸形相のもつ至上の妥当性や、真理たることの無条件の主張利権を、人間の、という形容詞を冠することで排除」(五〇ページ)してはならないとして、彼の「究極の決定的真理」はどこか「他の天体」(五一ページ)にまで通用しうるというたわごとを口にしています。
 もし、唯物論の見地にたって「存在の根本形式」を論じようというのであれば、「そのためにわれわれが必要とするものは、哲学などではなくて、世界とこの世界に起こっている事柄とにかんする実証的な知識」(同)であり、そのための「実証的な科学」(同)です。したがってデューリングの「一般的な世界図式論」は、「恋の骨おり損にすぎないものになってしまう」(同)ことを予感させるものとなっています。

世界の体系的な認識

 ヘーゲルは、『エンチクロペディー』において、自然と人間、社会、国家という世界全体を体系的にとらえようとしました。「自然哲学」の内容をなしているのは、力学、物理学、生物学という自然科学の全体です。「精神哲学」の内容をなしているのは、主観的精神としての人間学、客観的精神としての法、道徳、市民社会、国家、そして絶対的精神としての芸術、宗教、哲学であり、自然以外の客観世界の全体を対象としています。
 この「自然哲学」「精神哲学」において世界のすべてがとらえられているところから、エンゲルスは、「ヘーゲルの体系」は「自然的・歴史的・精神的世界の全体が一つの過程として、すなわち、不断の運動、変化、転形、発展のうちにあるものとして示され、またこの運動や発展の内的な連関を明らかにする試みがなされた」(三一ページ)と評価しているのです。
 しかし、エンゲルスは、ヘーゲルの哲学体系は「一つの不治の内的矛盾に悩んでいた」(三二ページ)といっています。
「この体系は、一方では、人類の歴史を一つの発展過程と見る歴史観を根本的前提」(同)としながら、「他方では、この体系は、みずからまさにそういう絶対的真理の総和であると主張」(同)し、「知識上完結に達」(同)したとしていたからです。
 デューリングもヘーゲルにならって、世界の体系的な認識を披露しました。ただし、彼にはヘーゲル弁証法の見地は存在しないので、文字どおり「究極の決定的真理」の完結した体系として提示したのです。
 そこでエンゲルスは、人類は、そもそも客観世界のすべてをあますところなく普遍的連関において体系的に認識しうるのか、という問題の検討に入ります。
 「自然過程の総体が一つの体系的な連関をなしているという洞察にうながされて、科学は、そういう体系的な連関を、個別的にも全体としても、いたるところで証明しようとつとめる」(五一~五二ページ)。
 エンゲルス以後今日に至るまでの自然科学の発展は、地上の諸物質はもとより、地球、太陽系を含む私たちの宇宙全体の体系的な連関を認識するようになってきました。ビッグバンに始まる一三七億年という宇宙の歴史、また四六億年の地球の歴史のなかで、空気と海洋と大陸とがどのように形成され、海中で発生した生命体がどのようにして単細胞から多細胞へ、植物から動物へ、動物も魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類へと発展してきたのかという体系的な連関もまた明らかになってきました。
 「しかし、そういう連関を適切に、あますところなく科学的に叙述するということ、われわれの住む世界体系の正確な思想上の模写をつくりあげるということは、われわれにとっても、またいついかなる時代にとっても、不可能なことである。かりに人類の発展のある時点で、自然的な、また精神的および歴史的な世界連関の、そういう終局的に完結した体系ができあがるとしたら、人間の認識界はそれによって完結したことになり、社会がこの体系に合致させられたその瞬間から、将来の歴史的進展は断ちきられることになるであろう。――だが、そういうことは不合理であり、まったくの背理であろう」(五二ページ)。
 かつては、地球上の生命体は、他の天体から飛来したものではないかとの考えもありました。いまではその仮説は否定されていますが、いまだに有機物から生命体への移行の架け橋はみつかっていません。人類の認識は究極の体系的真理に向かって無限に前進しながらも、けっして極め尽くされ「終局的に完結した体系」に到達することはないという矛盾のなかにおかれているのです。
 「しかし、この矛盾は、世界と人間という二つの要因の本性のうちにある矛盾だというだけではない。それはまた、いっさいの知的進歩の主要なであって、日々に、たえまなく、人類の無限の進歩的発展をつうじて解決されてゆくのである」(同)。
 真理は認識されつつ認識されないという矛盾こそが、「いっさいの知的進歩の主要な槓杆」となるものであり、この矛盾を矛盾として感じることこそ、真理を探究するうえで欠かすことのできない資質であり、すべての科学者、研究者の持ち合わせている資質なのです。
 ところがこともあろうにデューリングは、すべての人間のもつ認識の個人的、歴史的制約にも気がつかないばかりか、厚かましくも「全知」(五三ページ)を宣言することによって、「科学全体の未来を板仕切りで締めきってしま」(同)うと同時に、自ら真理探究の資格がないことを公言し、自身の世界体系について自己破産の申告をしているのです。

純粋数学は観念の所産か

 デューリングは、自己の哲学を「現実哲学」と称し、「この体系においては、夢想的な、主観主義的に制限された世界観に走ろうとするどんな気まぐれも排除するような仕方で、現実が思考される」(三八ページ)としています。
 これを額面どおりに受け取るわけにはいかないことは、これまでの考察から明らかですが、それはともかくとして、彼は、純粋数学はこの「現実哲学」の例外であり、悟性「自身の自由な創造物」(五三ページ)であって、「特殊な経験と世界の実在的内容とから独立した妥当性」(同)をもつ観念の所産であるとしています。
 純粋数学というのが何を意味しているのか必ずしも明瞭ではありませんが、数と四則計算、図形とユークリッド幾何学のことかと思われます。エンゲルスは、これに対して、数や図形も客観世界の反映から生まれた認識であるとの唯物論的批判を加えています。
 ちなみにヘーゲル「論理学」の「有論」では、客観的事物の表面的な真の姿をとらえる思考形式が論じられています。そこではすべての事物は質と量の統一として論じられます。「質」とは、或るものを或るものとして規定するものであり、「量」とは、或るものを意識のうえで抽象化し、質を捨象したものとしてとらえられます。この量の規定されたものが数です。数には、連続量としての単位と非連続量としての集合数とがあり、この単位と集合数の関係から四則計算が生まれることを明らかにしています。連続性と非連続性というカテゴリーも無限に発展する「向自有」から導き出されたカテゴリーです。
 この向自有の「無限」のカテゴリーも、無限に発展する有限な「人間そのもの」から唯物論的に導き出されました。人間は、不断に自己否定を重ねて発展していくということからすると、昨日の自分と今日の自分は異なるという意味で非連続性であり、そうではあっても自分は自分であり自己同一性を貫くという意味で連続性です。その意味で「人間そのもの」は有限な存在でありながら無限に発展する、連続性と非連続性の統一なのです。
 このようにヘーゲルは、数や四則計算、有限と無限をけっして観念の所産ではなく、客観的事物の反映としてとらえる唯物論的認識論にたっており、エンゲルスもまたその立場を継承しています。
 「数や図形の概念は、現実の世界以外のどこかからとってきたものではない」(同)。「純粋数学が対象としているのは、現実の世界の空間諸形式と量的諸関係であり、したがってきわめて実在的な素材なのである」(五四ページ)。
 しかし数や図形は、現実世界のなかにおける事物を思考により抽象化してとらえたものであって、数や図形がそのままの姿で客観的事物として存在しているわけではありません。抽象化された数や図形は、思考によって何段階もの抽象化を重ねていくことにより、「ひろがりをもたない点、厚さも幅もない線」(同)「定数や変数」(同)、最後は「虚量に、到達する」(同)ことになります。こうして数や図形は、あたかも客観世界の反映ではなく、観念の所産であるかのような幻想が生じてくるのです。
 虚数というのは、二乗したものがマイナスとなる数のことであり、物体の測定値としては存在しえない「悟性自身の自由な創造物」(同)であるかのようにみえます。しかし、ミクロの世界の粒子と波動の関係を示す波動関数は、実数ではなく虚数を含む複素数として示されます(町田茂『時間と空間の誕生』九七ページ、大月書店)。その意味では、虚数もまた客観的事物の反映であり、だからこそミクロの世界に波動関数を適用することができるのです。 
 「思考のあらゆる分野で起こることであるが、現実の世界から抽象された諸法則が一定の発展段階に達すると、それは現実の世界から分離されて、なにか自立的なものとして、そとからやってきた法則、世界がのっとらなければならない法則として、現実の世界に対置されるようになる」(五五ページ)。
 しかし虚数に示されるように、どんなに抽象化されようともそれは客観世界を反映し、客観に一致する認識という真理であるからこそ、客観世界に適用し、実用性をもつ数学的諸法則となることができるのです。
 デューリングの純粋数学のとらえ方が問題なのは、それを悟性の「自由な創造物」とするのみならず、「世界図式論」ではそれを純粋な観念の所産だとしながら、他方で彼の「自然哲学」では数学的諸要素としての「数、量、時間、空間、幾何学的運動」(五七ページ)などが「まったく経験的なもの」(同)だと、矛盾した主張を展開していることにも示されています。
 「それでは、いったいどちらを信じたらよいのか?」(五八ページ)、果たしてデューリングは、統一的な体系を論じる資格があるのか、この点でも疑問を抱かせるものとなっています。