『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』より

 

 

第七講 哲学③ 物質と運動

 

一、宇宙の誕生

物質の階層性

 今日のテーマは、物質と運動です。この問題を考えるに先立ち、物質のありようについての現代の到達点を、池内了著『宇宙進化の構図』(大月書店)によってみておきましょう。
 自然には階層性があります。「自然の階層構造」とは、「最大の構造としての宇宙から、最少のクォークのレベルまで、物質のありようがより『下位』の階層を基本単位として構成されていること、その単位が不連続な系列であるということ」(前掲書一四ページ)を意味しています。
 物質は、ある限られた帯のなかにのみ存在し、「この帯からはずれた領域には、ほとんど物質は存在していない」(同)のです。その帯は、大きく次の三つの系列に分けられます。
 第一の構造系列は、「素粒子・原子核の系列」(同一五ページ)。第二の構造系列は、「原子・分子・高分子・結晶を経て人間・惑星のスケールにいたる系列」(同)。第三の構造系列は、「恒星から星団・銀河そして宇宙への天体の系列」(同)です。
 それぞれの系列は、いずれも安定した物質から成り立っています。安定した物質とは、その状態における物質を構成する基本単位間に働く引力(牽引力)と斥力(反発力)とがつり合っているということです(同一九ページ)。力は大きく四つの力に分けられます。
 では、自然の構造系列の基本単位間に働く引力と斥力とは、どんな力でしょうか。
 第一の構造系列の力は、「核力または強い力」です。これは核子を構成するクォークとクォークとの間に働く力であり、そこでは核力は引力として働くと同時にクォーク同士間の距離が近づきすぎると強い斥力となります。原子核や核子は、この強い力の微妙なバランスのうえに安定した状態を保っています(同二一ページ)。
 第二の構造系列の力は、電磁力です。物質の基本単位となる原子は、プラスの電荷をもつ原子核とマイナスの電荷をもつ電子の間の引力と斥力のバランスのうえに存在しています。地球上のほとんどの物質の状態をささえているのが、この電磁力です(同二二ページ)。
 第三の構造系列の力は、ニュートンの発見した万有引力=重力です。質量をもつ物質の間の引力として、なにものにも遮断されない長距離間に働く力です。強い力も電磁力も、引力と斥力とをあわせ持っていますが、重力は引力だけの力であり、ここに第三構造系列の物質の特徴があります。重力に反発する力は、核力や電磁力から生まれます。斥力を上回る重力が働けば、物質は重力によって押しつぶされてブラックホールとなります(同二五~二六ページ)。
 これらの力のバランスは、基本単位間のある決まった間隔の時にのみ、うまく保たれることになります。力にはもう一つ「弱い力」があります。これは放射性元素のように安定的でない原子核をこわしていく力であり、この力には物質を構成していく力はありません。
 以上の強い力、電磁力、重力、弱い力が物質世界を構成する四つの力です。
 「第一、第二の構造系列の運動法則は、その根底において量子力学によって支配」されています(同二九ページ)。いわばエネルギーが量子化されていて、本質的に曖昧でいいかげんであり、確率でしか物事が決まらない不確定性原理が支配しています。
 第二の構造系列の一部と第三の構造系列の運動法則は、量子力学に包摂されるニュートン力学によって支配されています。
 
力の分化と力の物質化

 それでは、以上のような物質の階層性はどのようにして誕生したのかを、海部宣男著『宇宙史の中の人間』(講談社文庫)にもよりながらみていくことにしましょう。
 ビックバン宇宙を時間的にさかのぼっていくと、小さく縮んだ超高温、高エネルギーの初期宇宙にたどりつきます。
 そこは「時間・空間・物質(またはエネルギー)という概念が混然一体となっていて区別がつかない時代」(池内前掲書五三~五四ページ)です。
 「そこは、量子的確率が支配する世界、ゆらぎの宇宙」(海部前掲書一七九ページ)であり、高いエネルギーをもつ真空の世界として物質を生みだす力をもっています。
 宇宙膨張のごく初期の頃、膨張にともなう温度低下につれて、真空そのものの状態の変化が起こり、それによって四つの力が分離し、力の分化が物質の多様化を生みだしていくのです。
 宇宙のはじまりから秒後に、最初の相転移として重力が分化しますが、まだ重力の働く場は存在しません。
 続いて秒後に強い力が分化し、その後「宇宙は単調に膨張をつづけ温度が下がってゆく。やがて、温度が度(一京兆度)以下になると電磁力と弱い力の分化が起こる」(池内前掲書六一ページ)。
 こうして宇宙を構成する四つの力が出そろうことになりますと、この四つの力にもとづく多様な物質が形成されることになります。いわゆる「力の物質化」とよばれるものです。
 電磁力、弱い力が分化したばかりの度という高温の状態では、「光のエネルギーが物質のエネルギーを完全に圧倒しており、光からクォーク・反クォークのや核子・反核子のが生まれては消えて」(同六六ページ)いくことをくり返し、安定した物質は存在しません。
 もっと温度が下がってくると、「強い力の物質化」により、核子(陽子、中性子)、電子が誕生します。さらに温度が下がると「核子同士が強い力により核反応を起こして」(同六八~六九ページ)原子核を形成します。このときの原子核は重水素、ヘリウムとわずかなリチウムなどの軽い元素の原子核ができたところで、「冷えていく宇宙は、それ以上核融合反応を進める力を失い」(海部前掲書一九五ページ)ます。
 こうしてその後の宇宙は、「七割の水素プラス三割のヘリウム」(同)を出発点とし、「その後恒星内部でのゆっくりとした核融合反応」(同)により炭素、酸素から鉄にいたるまでの重い元素を蓄積していくことになります。
 「弱い力の物質化」は、ニュートリノとなってあらわれ、現在もニュートリノは海のように宇宙をただよっています。
 次に「電磁力の物質化」です。「核反応が終わった頃の宇宙の温度はなお一〇〇〇万度以上あり、物質(陽子とヘリウムの原子核および電子がバラバラになったプラズマ状態)と光が電磁力をつうじて相互作用しあっている。電子と陽子は電磁力によって結合して原子をつくろうとするが、光のエネルギーが大きいのですぐにこわされて陽子と電子にもどってしまう」(池内前掲書七一ページ)。それが三八万年もたって温度も一万度以下になるとプラズマのなかを「飛び回っていた電子は温度低下のために原子核に電気力でしばりつけられて、プラズマの宇宙は中性原子ガスの宇宙へと大きく変化します。それまでの宇宙は、電子が放つ光に満ち、不透明な宇宙でした。しかしこれ以降は宇宙は透明になったので、この時点を宇宙の『晴れあがり』(クリアー・アップ)と呼びます」(海部前掲書一八六ページ)。こうして電磁力の物質化の時代は終わるのです。
 最後にやっと「重力の物質化」の段階がやってきます。「宇宙の晴れ上がりの一〇万年(現時点では三八万年――高村)という時刻以後、現在の一五〇億年(現時点では一三七億年――高村)にいたる時代は、重力の物質化の時代と言える」(池内前掲書七四ページ)。
 それまでは電磁力の作用による放射の圧力により、重力による天体の形成がさまたげられていたのに対し、「宇宙の晴れ上がり」以降この圧力がなくなり、物質はみずからの重力によって収縮し、巨視的天体をつくるようになったのです。
 こうして、星や銀河、太陽系、地球が誕生することになります。
 カントの星雲説は、この重力の物質化による太陽系の成立の段階を説明するものでした。
 「以上のように宇宙の進化とは、……宇宙のはじまりから現在にいたる膨張過程で、力が分化し、分化した力が自然界の構造系列の基本単位を形成するというかたちで物質化してゆく過程とも表現できる」(同七五ページ)。 
 いわば宇宙のはじまりは、四つの力の分化にはじまり、それらの「力の物質化」として説明されているのです。

デューリングの宇宙生成論

 デューリングは、カントの星雲説が「引力と熱放射との媒介によって、個々の固体の天体がしだいに形成された」(八五ページ)と主張しているのに対し、「ガス状の散在状態というものは、そういう状態のうちに存在する力学的な系をまえもってもっと明確に特徴づけることができた場合にだけ、まじめな推論の出発点になる」(同)と批判しています。
 「現存する天体はすべて回転する星雲塊から発生した」(八六ページ)とするカントの星雲説は、「自然には時間上の歴史がないという考え」(同)をゆりうごかした「コペルニクス以後に天文学がなしとげた最大の進歩」(同)でした。それは、宇宙に歴史があることを明らかにした画期的な学説ではありましたが、当時の時代の制約により、ビッグバンから地球誕生にいたる宇宙の全歴史を解明するものになりえなかったのは当然のことといわなければなりません。カントの説は「物質が原始星雲よりもまえに他の諸形態の無限の系列を経過したということを排除するものではけっしてなく、むしろそれを前提している」(八七ページ)のです。
 デューリングは、自分はカントの星雲説以前の「世界媒質の状態」(八八ページ)という無運動にまでさかのぼるのだと自慢げに語るのですが、ではそこから出発して、カントの原始星雲に至るまでの過程を説明しうるのかといえば、全くの空文句の積み重ねでしかありません。
 「われわれが世界媒質と名づける、物質と力学的な力との統一は、物質の自己同一的な状態が、すべての数えることのできる発展段階の前提であることを表示するための、いわば論理的かつ実在的な定式なのである」(同)。
 デューリングが宇宙のはじまりを物質と力との統一としてとらえようとしたことは、「力の物質化」の観点からすればそれなりに評価しうるものの、その力を「力学的な力に還元して」(八九ページ)しまったところに問題があり、「そうすることで、自分から、物質と運動との現実の連関を理解できないようにしてしまう」(同)ことになったのです。ニュートン力学の第一法則は、どのような物体も、外部から何の力も受けなければ静止しているものは静止し続け、運動しているものは等速直線運動を続けるというものでした。
 ニュートンは、この法則にしたがって、宇宙は神の「最初の一撃」によって動きはじめ、以後一定の速度で永遠の天体運動をし続けると理解しました。
 同様にデューリングも、世界のはじまりを無運動の「物質と力学的な力の統一」としてとらえるのですから、そこから運動へと移行するには「現実哲学」の自称とは裏腹に、神の「最初の一撃」に頼らざるをえません。結局のところ「外部からの衝撃なしに、すなわち神なしに、われわれはどのようにして絶対的な無運動から運動に到達すべきなのか、それはいまでもまだわれわれにはわからない」(同)ままに放置されてしまいます。

 

二、物質と運動

運動は物質の存在の仕方

 「運動は物質の存在の仕方である。運動のない物質は、かつて、どこにもなかったし、またありえない。宇宙空間における運動、個々の天体上でのより小さい物体の力学的運動、熱としての、または電気や磁気の流れとしての分子振動、化学的な分解と化合、有機的生命――世界のそれぞれの物質原子は、どの瞬間をとってみても、これらの運動形態のどれか一つに、または同時にそのいくつかの形態にある。あらゆる静止、あらゆる平衡は、相対的なものにすぎず、あれこれの特定の運動形態にかんしてのみ意味をもつのである」(九〇ページ)。
 物質世界は大きく分けてミクロの世界とマクロの世界に分けることができます。ミクロの世界とは物質を構成している原子の大きさよりもさらに小さな世界であり、マクロの世界はそれより大きな、常識的な物質観が通用する世界です。エンゲルスの時代には、まだマクロの世界の物質の運動しかとらえることはできませんでしたから、彼はもっぱらマクロの世界のうちの物体の運動についてのみ論じています。しかし、現代ではミクロの世界をとらえる量子論によって、最小のクォークから最大の宇宙までをとらえることが可能になりました。
 量子論によって、物質と運動の関係も、より深く理解されることになりました。佐藤勝彦監修の『「量子論」を楽しむ』(PHP文庫)をもとに、奇妙で常識はずれの量子論をのぞいてみることにしましょう。

ミクロの世界の運動

 量子とは、「量」が小さな固まりになっているという意味です。「たとえばミクロの物質が持つエネルギーの量(大きさ)は、『エネルギー量子』という小さな固まりの集まりだと考えるのです」(佐藤前掲書三五ページ)。
量子の世界の不思議さは、量子が粒子であると同時に波であるという相反する性格が同居しているところにあります。例えば一個の電子は、一個の粒子であると同時に、その一個の粒子は波のように広がりをもち、あちらにいるのかと思えばこちらにいるというように、ゆらゆら、ふらふらしています。
 いわば、ミクロの物質は、不断に運動・変化しており、一つの粒子が消えたり、あらわれたり、電子、陽電子、光子などが相互に結合したり、分離したり、移行しあったりしているのです。
 したがってそこには、絶対的な静止はもとより相対的な静止というものも存在しませんし、またミクロの物質の運動は一義的にはとらえられないのです。
 これまでのニュートン力学では、「自然現象を示す物理学は決定論でなければならない」(同一四一ページ)というものでした。つまり、性質のわかった力のもとでの物体の運動は、その初期条件(ある時点における物体の位置と速度)を与えることによって一義的に決定されるというものでした。
 これに対し、ミクロの世界は、「ある物質に関する『位置』と『運動量』を測定するとき、両者を同時に一つの値に確定することはできず、避けられない不確かさが残る」(同一六八ページ)という「不確定性原理」(同)が支配しているのです。これは量子を波と考える以上避けられないあいまいさなのです。
 しかも、この波動性は、量子に限らずあらゆる物質のもつ性質であることも明らかになってきました。ただ「私たちの周囲にあるような大きな物質が持つ波は、その波長があまりに短かすぎて、しかも波が収縮しているので、こうした物質には波としての性質が明確に現れてこない」(同一五七ページ)だけの話です。
 いわば、量子論は、物質を一つの固定した状態としてとらえる「あれかこれか」の形式論理学を否定します。それにかわって粒子であると同時に波、粒子でないと同時に波でないという、対立物の統一という弁証法によってのみとらえうることが明らかにされたのです。
 「物質を構成する基本粒子である素粒子が、けっして不変のものではなくて、作られたり消えたり、別の粒子に形を変えたりするというのは、自然の本質的な不確定さ・あいまいさを説く量子論の、まさに真骨頂と言えるものです」(同二三九ページ)。
 量子論を築いたニールス・ボーアは、この物質観を「相補性原理」とよびました。
 電子における粒子と波のように、「相いれないはずの二つの事物が、互いに補い合って一つの事物や世界を形成しているという考え方」(同一八七ページ)をこうよんだのですが、それこそ対立物の統一にほかなりません。
 空間を量子論にもとづいて考える理論を「場の量子論」とよんでいます。
 すべての状態を不確定であると考える量子論は、「何もない」という確定した状態を物理的にありえないとしました。真空も「無」の空間ではなくて、そこではいたるところで粒子と反粒子とが一対となって生成し、一対として消滅していることを繰り返している空間です。この状態を「真空のゆらぎ」(同二三八ページ)とよんでいます。「場の量子論」においては、真空も有と無の統一であり、この「真空のゆらぎ」のなかで、有と無の統一は、有と無の対立に転化し、有である私たちの宇宙が生じたのです。
 宇宙のはじまりは、「真空のゆらぎ」のもつエネルギーによって宇宙のインフレーションが生じ、そのなかから生じた粒子・反粒子の対称性の破れ、つまり粒子・反粒子という対立物は統一から対立へ移行することによって、物質のみからなる私たちの宇宙が生じたことになります。
 こうして、ミクロの物質は、粒子と反粒子の対立物の統一という運動のなかから生まれたのであり、したがって、運動のない物質はないというエンゲルスの指摘の正しさを証明するものとなっています。

マクロの世界の運動

 マクロの物質を形成する根元的な粒子は原子であり、複数の原子の結合体が分子であり、さらに分子の結合体が物体を構成します。分子は、「ブラウン運動」とよばれるランダムな運動をおこなっており、この運動を熱運動といいます。固体、液体、気体という物質の三態は、この熱運動を反映したものです。熱運動が穏やかなときは、分子は互いに結合して固体となり、熱運動が激しくなると分子は結合を振り切り定位置をはなれて液体となります。さらに激しくなると分子は勝手に飛びまわって拡散し気体となります。したがって、分子レベルの運動においても絶対的静止を問題とすることができるのは、分子の熱運動が完全に停止してしまう絶対零度においてのみということになりますが、今日では真の絶対零度に到達することは不可能であることが分かっています。
 多数の分子が結合したものとして生まれる物体の運動には、エンゲルスのいうように、力学的な運動、化学的な運動、生物学的運動さらには社会的な運動が存在します。この段階にいたってようやく一時的、相対的な物体の静止を論じることができます。しかしそれはあくまで一時的、相対的な静止にすぎず、「絶対的な静止、無条件的な平衡というものは存在しない」(九四ページ)のです。

「デューリングの無運動」批判

 こうしてみてくると、デューリングが、私たちの宇宙である物質世界のはじまりを、「物質の自己同一的な状態」(八八ページ)という無運動の世界とすることが、どんなに大きな誤りであるかがはっきりします。
 「したがって、物質の無運動の状態ということは、最も空虚で、最も愚劣な観念の一つであり、まったくの『熱病やみの幻想』だということがわかる。こういう考えに到達するためには、この地球上の物体が相対的な力学的平衡状態におかれる場合がありうるということをとらえて、それを絶対的な静止として表象し、ついでそれを全宇宙におしおよぼさなければならない」(九一ページ)。
 ミクロの世界は、不断に運動・変化する物質の世界であり、この量子論の世界が、物質世界全体を支える土台となっています。したがってそのうえにたつマクロの世界の物質もまた運動する物質であって、絶対的に静止し、固定した物質は存在しません。
 エンゲルスが、「運動は物質の存在の仕方である。……運動のない物質が考えられないのは、物質のない運動が考えられないのと同じである」(九〇ページ)ととらえたことの正しさは、ミクロの世界の運動が解明されてきた今日、ますます明らかになっています。
 続いてエンゲルスは、デューリングが世界のはじまりを「物質と力学的な力との統一」(八八ページ)といっているところから、物質の力学的運動について、そのを傾けてデューリングを批判しています。
 物体が他の物体に力を加えて動かす能力(仕事をする能力)をもっていることを、エネルギーをもっているといいます。運動している物体がもつエネルギーは運動エネルギーとよばれているのに対し、高い位置にある物体がもっているエネルギーは位置エネルギーとよばれています。高い位置にある振り子が運動する場合は、位置エネルギーが運動エネルギーに変換するのです。位置エネルギーと運動エネルギーとを合計したものは力学的エネルギーとよばれ、位置エネルギーが下がるとその分だけ運動エネルギーが増加し、その合計の力学的エネルギーは常に一定です。これを力学的エネルギー保存の法則といいます。それでは振り子運動は位置エネルギーと運動エネルギーとの相互移行によって永久運動になるのかといえば、そうではありません。運動エネルギーは空気との摩擦により一部が熱エネルギーに転化しますので、振り子は次第に運動エネルギーを減少させてその振幅を小さくし、最後には最初の位置エネルギーの全部が熱エネルギーに転化し、停止するにいたります。
 エネルギーにはいろいろな種類がありますが、形はかえてもエネルギーの総和が常に一定に保たれることを「エネルギー保存の法則」といい、自然界を支配する重要な基本法則となっています。
 また外力がはたらかない場合、質量と速度の積である運動量がかわらないことを運動量保存の法則といい、トルク(回転力)がはたらかない場合、回転軸からの距離とそれに垂直な速度成分および質量の積である角運動量がかわらないことを角運動量保存の法則といいます。
 こうしたことを前提に、エンゲルスのいうところを聞いてみることにしましょう。
 「運動のない物質が考えられないのは、物質のない運動が考えられないのと同じである。だから、運動は、物質そのものと同じく、創造することも消滅させることもできないものである。このことを、前代の哲学(デカルト)は、世界に存在する運動の量はつねに同一である、というふうに表現している。だから、運動は、生みだすことはできず、ただ伝達することができるだけである。運動がある物体から他の物体に伝達される場合、みずからを伝達し能動的にふるまうかぎりでの運動を、伝達され受動的にふるまうかぎりでの運動の原因と見なすことができる。この能動的な運動をわれわれは力と名づけ、受動的な運動を力の発現と名づける。したがって、力と力の発現とが同じ大きさであることは、火を見るよりも明らかである。なぜなら、この両者でおこなわれるものは、じっさい、同一の運動なのだからである」(九〇~九一ページ)。
 一八四二年にマイアーによって「エネルギー保存の法則」が打ち立てられたことをエンゲルスはすでに学んでいますが、「力ないしはエネルギーの保存の法則」(『自然の弁証法』全集⑳三八八ページ)という言葉を使用したりしていますので、力とエネルギーとの関係がまだ整理されていなかったようです。
 現代物理学では、「力」とは物体を変形させるか物体の運動状態を変化させる作用として理解されており、「エネルギー」とは、物体が仕事をする能力を意味します。
 エンゲルスは、デカルトの運動量保存則を力の保存則とおきかえて論じていますが、ここはむしろエネルギー保存則として理解すべきものでしょう。
 力とその発現が同一のものだとするのは、エンゲルスがヘーゲル論理学に学んだものです。

位置エネルギーと潜熱

 さて、デューリングは、世界のはじまりの無運動状態から運動への橋がみつからないのは、他にも例があるとして、二つの事例を示しています。一つには「静力学的なものから動力学的なものへの橋が見つからない」(九二ページ)例として、位置エネルギーの問題を持ち出し、二つには熱力学の「つまずきの石になっている」(同)例として、「潜熱」の問題を持ち出しています。エンゲルスは、これに対し、この二つの事例は無運動から運動への移行を示すものでも、運動から無運動への移行を示すものでもないとして反論を加えています。
 まずデューリングは、位置エネルギーを静止した無運動ととらえ、それが運動エネルギーに転化することをもって、「静力学的なものから動力学的なもの」への移行ととらえています。エンゲルスは、それを次のように批判しています。
 「重さ一ツェントネルの石が、一〇メートルの高さに引き上げられて宙に吊された結果、自己同一的な状態と静止的な関係とをたもってそこにぶらさがっているときに、この物体の現在の位置はなんら力学的な仕事をあらわすものではないとか、この位置とその物体の以前の位置とのへだたりは、力学的な仕事を尺度とするものではないとかと主張しようというには、赤ん坊の聴衆でも相手にしなければならない。石がひとりでに綱のところまで上がっていったのでないことはだれでも通りすがりの人がデューリング氏に苦もなくわからせてくれるであろうし、またその石をふたたび落下させれば、石は落下のさい、それを一〇メートル引き上げるのに必要だったのと同じだけの力学的な仕事をするということは、どれでもありあわせの力学の手引書が彼に教えてくれるはずである」(九三ページ)。
 エンゲルスは、位置エネルギーという用語こそ使っていませんが、吊り下げられた石の落下による仕事は、無運動から運動への橋ではなく、位置エネルギーから運動エネルギーへの変換であることを正確に理解しています。
 次にデューリングが挙げる「束縛された熱または潜熱」(九五ページ)とは、例えば、水(液体)が水蒸気(気体)に状態変化する場合、一〇〇度(沸点)に達して加熱を続けても、しばらくは水のまま一〇〇度の状態が継続し、それがしばらく続いてやっと水蒸気となる間に加えられる熱エネルギーのことです。一〇〇度に達するまでの熱エネルギーは、水温上昇となってあらわれますが、一〇〇度に達した後の熱エネルギーは、しばらくは何も仕事をしていないようにみえるところから、「潜熱」とよばれています。その逆に水(液体)が氷(固体)に状態変化するとき、冷却によるマイナスの熱エネルギーによって〇度(融点)に達すると、潜熱によって、しばらくはその状態が続いた後にやっと氷になるのです。
 デューリングは、この潜熱は運動を無運動にかえるものだと考えました。
 「そこで問題となるのは次のことである。熱は、それが束縛されているあいだどうなっているのか? 力学的熱論によれば、熱とは、物理学的に活動する最少の物質粒子(分子)がおこなう、温度と集合状態とのいかんによって大きさを異にする振動であって、この振動は事情におうじて他のどういう運動形態にでも転化できるのだが、力学的熱論はこの問題を、消えうせた熱は仕事をした、仕事に転換された、ということで説明する。氷が融けたときには、個々の分子相互のあいだの緊密で強固な連結が失われて、ゆるい隣接関係に転化したのである。沸点で水が気化したときには、個々の分子がたがいにどんな目だった作用もまったく及ぼしあわず、熱の作用であらゆる方向に飛びちってさえゆく状態が生じたのである。……だから、束縛された熱は消えうせたのではなく、たんに転化して分子の張力のかたちをとっただけである」(九六ページ)。
 すべての物質は、その物質に固有の融点、沸点をもっています。固体から液体へ、液体から気体へ状態変化することは、分子間の結合力が固い結合力からゆるい結合力へ、次いでバラバラになることを意味しており、潜熱はこの分子間の結合力(分子間力)を変化させるエネルギーとして働いています。
 潜熱は運動を消滅させた事例となるものではなく、したがって「力学的熱論にとってけっしてつまずきの石などではない」(九七ページ)のです。
 デューリングは、一つには位置エネルギーの問題を「静力学的なものから動力学的なものへの橋」(九八ページ)とみなし、二つには潜熱の問題をもって運動の消滅と考えました。
 彼は吊り上げられた石のように無運動から運動への移行もあれば、潜熱のように運動から無運動への移行もあるのだから、世界の始まりが無運動であり、それが運動に移行するとしてもおかしくはないと弁明しようとしたのでした。
 しかしこれまでに検討したことから、次の事実が明らかになったのでした。
 「われわれがこのデューリングの哲学のなかを深く分けいれば分けいるほど、運動を無運動から説明しようとしたり、まったく静力学的なもの、静止しているものがそれ自体で動力学的なものへ、運動へ移ってゆくことのできるような橋を見つけようとしたりする試みがすべてなりたたないことが、いよいよ明らかになってくる」(同)。