『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』より

 

 

第八講 哲学④ 生命と進化

 

一、生命の誕生

生命の起源に関する自然科学の到達点

 生命がどのように誕生したのかは、今日でも人類に残された最大の謎の一つといっていいでしょう。
 しかし、自然科学の発展のなかで、地球上の生命はタンパク質と核酸(DNA、RNA)の両方がそろって初めて生命を維持していることが解明されるのと同時に、生命誕生の謎も少しずつ解明されてきています。
 小林憲正著「生命の起源の謎にせまる」(『自然の謎と科学のロマン』下、所収、新日本出版社)では、次のように説明されています。
 「一九世紀半ばまでは、高等生物はともかく、微生物は適当な環境で、勝手に誕生する、という自然発生説が広く信じられていました」(前掲書六一ページ)。ですから、エンゲルスも「バクテリアや、菌類の胚や、その他きわめて原始的な生物」(一一一ページ)には自然発生の可能性があると考えています。この問題に決着をつけたのが、一八六一年パスツールの「白鳥の首フラスコ」の実験でした。
 では地球生命は、どのようにして誕生したのか。現段階では次のような「がらくたワールド」からの化学進化のシナリオが考えられています。
 「一酸化炭素・窒素などの単純な分子が原始大気や星間塵中で、宇宙線などの作用により『複雑な有機物』が生じます。これは宇宙の『がらくた』分子ですが、これが地球に届けられ、原始海洋中で徐々に分解することにより、種々の機能性分子を生み出していきます。この過程で、『複雑な有機物』に働いて自分と同じ分子を切り出す分子(自己触媒分子)があれば、その分子はがらくた分子の供給が続く限り増殖していくはずです。がらくた分子の中から、機能を持つ分子が選択的に増殖し始めた『がらくたワールド』には、後のタンパク質や核酸の部品も含まれますので、これらを使ってがらくたワールドは進化し、タンパク質ワールドやRNAワールドに移行し、ついには共通の祖先が誕生したのではないでしょうか」(前掲書七六~七七ページ)。
 また生体を構成する元素は、主成分や微量の金属元素を含め、海水の組成とよく一致していることからしても「生命は、原始海洋中に存在した有機物および金属元素を用いて組み立てられた」(同七四ページ)と考えられています。
 こうした条件を充たすのが、地殻を構成するプレートの境目のあちこちの深海海底に存在する、高温・高圧の「海底熱水噴出孔」です。地球上の生物の共通の祖先(コモノート)は、「海底熱水噴出孔」付近での、「一〇〇度を超す、高温環境を好む『高度好熱菌』と推定されています」(同)。
 いずれにしても、有機物から生命の誕生にいたるには、現代の自然科学をもってしても解明しえない物質の運動形態の深い溝の存在することをうかがわせるものとなっているのです。

「デューリングの生命起源論」批判
 
 デューリングの化学論については、みるべきものがほとんどありません。「無機界にかんする彼の自然哲学の成果」(九八ページ)として彼が提供する唯一の積極的なものは、物質および運動は「創造することも消滅させることもできないものだという、この世間周知の古くさい事実をきわめて不十分な仕方で表現したもの」(同)にとどまっています。いまやデューリングの議論は、化学から生命学へ移っていきますが、その移行は、「幾多の中間項」(一〇〇ページ)を媒介とする連続的かつ漸次的な移行だというのです。
 「圧力と衝突との力学から、感覚と思想との結合まで、幾多の中間項からなる、統一的で唯一の階段がつうじている」(同)。
 これに対するエンゲルスの批判は、次のとおりです。第七講でみたように、自然には階層性があり、階層ごとに異なる法則をもっています。したがって同じ力学ではあっても、天体の力学から物体の力学への移行、同じ物理学であっても分子の物理学から原子の物理学(化学)への移行、同じ化学作用ではあっても「通常の化学作用から、生命とよばれる蛋白の化学作用への移行」(同)は、けっして連続的な漸次的な移行ではなく、決定的な飛躍が存在するというものです。
 「一つの運動形態から別の運動形態への移行は、どれほど漸進的であろうと、あくまでも飛躍であり、決定的な転換である」(同)。
 つまり、「一つの運動形態から別の運動形態への移行」は、連続していると同時に非連続であり、非連続であると同時に連続しているという、連続性と非連続性の統一という弁証法でとらえるしかないのです(二七八ページ参照)。
 しかしデューリングは、矛盾を否定する形而上学の立場から、「通常の化学作用から、生命とよばれる蛋白の化学作用への移行」を単に中間項の媒介による連続性の見地からのみ論じています。もしこの移行が単なる連続性の問題であれば、現代科学はとっくに生命の起源を解き明かし、自らの手で生命体を誕生させていたにちがいありません。

 

二、生物の進化

生物の「進化学」

 有機物質から生まれた原始的な生命体は、最初ただ一種のコモノートから、四十億年もの長い歴史をつうじて一千万種ともいわれる多様な種へと進化してきました。生物を進化させる原動力(自然淘汰の力)には、無機的条件(光、温度、土壌、水質、気候など)と生物的条件とがあります。無機的な条件としては「たとえば、北の海に棲むアザラシやセイウチは、毛皮の下に多量の脂肪層を発達させ、全体としてトックリ型の丸っこい体型をして」(上田恵介「共進化の謎を解く」一四三ページ『自然の謎と科学のロマン』下、所収)いること、生物的条件としては「たとえば、昆虫は鳥などの捕食者に見つからないように、樹皮や木の葉にうまく隠れた模様」(同)をもっていることなどをあげることができます。
 おびただしい生物の種が一つの共通種から分岐しながらも、無機的、生物的自然環境に適応しえた種のみが生きながらえて今日にいたっており、現在でも多数の絶滅危惧種にみられるように、たえまなく自然淘汰は続いています。
 ヘーゲルは、生物が無機的、生物的に自然環境に適応する能力を「内的な目的性」(『小論理学』二〇四節)とよんで、人間の意識から生じる「外的目的性」と区別しています。
 内的目的とは、「意図をもって行為する第三者」(一〇一ページ)によって「自然のなかにもちこまれたものではなくて、事柄そのものの必然性のうちにふくまれている目的」(同)ということができます。
 矢原徹一著「進化論から進化学へ」(『自然の謎と科学のロマン』下、所収)では、進化にかんするこれまでの研究から、主として三つの機構が生命体の進化を可能にしたといっています。
 一つは「突然変異(ミューテーション)」(同一〇九ページ)であり、「DNA(一部のウイルスの場合にはRNA〔リボ核酸〕)の配列や量に生じるあらゆる変化」(同)を指します。DNAはその不安定さと大量生産のため、その複製にはかならず間違いが生じるのです。「突然変異はあらゆる進化的変化の供給源」(同)であり、変化するDNAと環境との相互作用の結果が生物を進化させてきたのです。
 二つは、「淘汰(セレクション)」(同)です。淘汰とは、「突然変異の次世代への伝達が、偶然ではなく、何らかの要因で方向づけられる現象」(同)を言います。この「偶然ではなく、何らかの要因で方向づけられる現象」をヘーゲルは、「内的な目的性」とよんでいるのです。このDNAレベルの変化は、「偶然のみによる場合と、それを増加させる何らかの要因が作用した場合の二つに分け」(同一一〇ページ)られ、前者を「中立進化」(同)、後者を「淘汰による進化」(同)といいます。
 三つは「浮動(ドリフト)」(同)であり、「偶然に作用される遺伝的変化」(同)を意味します。「たとえ生存上有利な突然変異であっても、その変異をもつ個体の数が少ない場合には、偶然に失われてしまう確率が高い」(同)のに対し、「逆に、生存上不利な突然変異が、偶然のみによって増加してしまうこともには」(同)あるのです。
 ダーウィンの進化論は、生物の進化をもたらす法則の一つが、「自然淘汰」にあることを明らかにしたものでした。その理論の基本は、次の三つの条件から成っています。
 「①生物の個体間には、何らかの性質において遺伝的な違いがある。②生物の個体間には、生涯を通じて残す子供の数に違いがある。③ある特定の環境の下で、……特定の(遺伝的――高村)性質を持つ個体は、より多くの子孫を残す傾向がある」(同一一四ページ)。
 つまり自然淘汰とは、ある特定の環境の下で、生涯を通じて残す子孫の数が最大となる遺伝的な性質を選出する過程の手順です。ですから自然淘汰の法則は、法則とはいっても何らかの価値観にもとづく主観的法則ではなく、客観的な遺伝子選出手順であり、この「三つの条件があれば、必ず生じるプロセス」(同)です。
 このプロセスをダーウィンは、「生存闘争」による「自然淘汰」とよびました。
 こうしてダーウィンの「進化論」は、今では一仮説ではなく「進化学」という学問のなかに組み込まれたその一構成部分となっているのです。
 こうしたことを予備知識としてテキストをみていくことにしましょう。

デューリングのダーウィン批判

 ダーウィンは、自然淘汰を説明するのに、あえて「生存闘争」という用語を使う必然性はなかったにもかかわらず、当時の経済学者マルサスがその人口論で使用した「生存闘争」という概念を使って説明しました。この「生存闘争」は、動物・植物の区別なく行われる闘争です。「この闘争では、どんなにわずかでもなにか生存闘争に有利な個体的特徴をもっている個体が、成熟に達し繁殖する見こみがいちばん多いことは、目に見えて明らかである。したがって、こういう個体的特徴は遺伝する傾向があり、またそれが同一種のいくつかの個体に現われるときには、いったんとられた方向に遺伝が集積される結果、そういう個体的特徴が増進する傾向がある。……こういう仕方で、自然選択〔淘汰〕をつうじ、適者の生存をつうじて、種は変化してゆく」(一〇四ページ)と説明したのです。
 これに対するデューリングの批判は、「意識のない植物や柔和な草食動物のあいだの生存闘争」(一〇五ページ)はおよそ問題になりえないというものです。つまり「精確な意味での生存闘争」(同)は、「野獣界の領域に現われている」(同)と自分で勝手に狭い境界内に押し込んでおいて、「ダーウィン説の全体は、ラマルクからの借りものを除けば、人間性に対置された一片の野獣性である」(一〇三ページ)と批判してみせます。そして問題の自然淘汰の法則そのものについては、「かたくなに自己同一的な沈黙を守」(一〇六ページ)り、「さしあたっては、自然選択はこれまでどおり」(同)だとして受けいれているのです。
 デューリングが、内容に立ちいって批判するのは、せいぜいダーウィン説が「それの説く変化……や差異を無からつくりだ」(同)し、「個々の個体に変異をひきおこした原因を度外視して」(同)いる、という程度のものにすぎません。ダーウィンの功績は、自然淘汰という進化の法則の一つを明らかにしたことにあり、当時の科学水準からして突然変異の原因であるDNAの複製ミスまでとらえきれなかったことはあまりにも当然のことです。だからといって、何らダーウィンの功績が失われるものではありません。デューリングは、自分では生命の進化の法則の解明に何も新たな貢献をなしえないでいながら、ダーウィンの功績に目をつぶり、彼が変化の原因を示していないという単なる言いがかりをつけているにすぎないのです。

 

三、適応と遺伝

ダーウィンとヘッケル

 種の進化は、単純なもの、下等なものから、複雑なもの、高級なものへと進化し、進化の一つの到達点として、高度な意識作用としての脳をもつ人類を生みだしてきました。そこには一定の必然的な進化の方向があり、けっして偶然のみで説明することはできません。
 ダーウィンの自然淘汰には、「適者生存」という言葉にもみられるように、与えられた環境に適応する生物のみが存続しうるかのような、受動的、偶然的に進化の方向がきまるとの含みがまだ残されていました。
 エンゲルスは、そこにダーウィン学説上のあいまいさを感じ、「ダーウィンの学説が、必然性と偶然性との内的連関についてのヘーゲルの叙述を実地に証明したものであることを示すこと」(全集⑳六〇七ページ)を今後の課題として指摘しています。そしてダーウィン説の限界を克服するものとして、ヘッケルの「適応と遺伝」に注目しています。
 「最近では、とくにヘッケルによって自然選択の観念が拡大され、種の変化は適応と遺伝との交互作用の結果として把握されるようになっており、そのさい、適応はこの過程において変化をもたらす側面、遺伝はその保存する側面である、と説明されている」(一〇七ページ)。
 ある特定の種における個体は、種という普遍を特殊化したものとしての多様性をもっています。突然変異は、その種における個体の多様性の範囲を超える偶然的な差異です。いわば種を保存する遺伝の例外としての個体の誕生です。このような突然変異は、DNAの複製機構の故障としてランダムに生じるものですから、種の進化につながる突然変異もあれば、そうでないものもあります。ヘッケルは、個体の突然変異のなかから、種は環境に適応するために必要かつ有益な突然変異を、種として主体的に選択するものと考えました。彼はそこに進化の必然性を見いだし、それを「適応」という概念でよんだのです。いわゆる、ヘーゲルのいう「内的な目的性」です。つまり、ヘッケルは個体の偶然的な突然変異を種が主体的に選択して自己のうちに取り込み、種が自ら環境に適応する進化を必然的なものにすると考えました。
 このヘッケルの「適応と遺伝」概念によって、種の進化は必然と偶然の統一としてとらえられることになり、ダーウィン学説の不十分さが克服されることになったのです。

デューリングのヘッケル批判

 デューリングは、次のようにヘッケルを批判しています。
 「自然によってあたえられあるいは奪われる生活条件にほんとうに適応するには、観念によって規定される衝動と活動が前提される」(同)。「ある植物が生長してゆくさいに光を最も多く受けるような道をとるとすれば、刺激のこういう結果は、物理学的な力や化学的な能因の組合せにすぎないのであって、こういう場合に、比喩的にではなく、ほんとうの意味で適応を語ろうとする者があれば、かならず概念のなかに心霊論的混乱をもちこむことにならざるをえない」(一〇八ページ)。
 デューリングは、「適応」というからには、「観念によって規定される衝動と活動」、つまり意識による作用が求められるのであり、植物に「適応」を求めるものは、「心霊論的混乱」をもたらすものだ、というわけです。
 では、彼は植物の無意識的な「適応」を認めないのかといえばそうではありません。別の箇所では「自然はまた意志をももっている。なぜなら、衝動にともなう付随事、すなわち、それが栄養、生殖、等々の実在的な自然的諸条件をついでにみたす……もっぱら間接に意欲された」(一〇二ページ)意志をもっていると述べているばかりか、「手段と目的との関係は、けっして意識的な意図を前提するものではない」(一〇八ページ)とまでいっています。
 そこでエンゲルスは、「彼がやっきになって攻撃している、意識的な意図をもたず、観念によって媒介されない適応は、そういう無意識的な目的活動でなくてなんであろうか?」(同)と批判しているのです。
 エンゲルスは、種の主体的、必然的選択としての適応の例として、「雨ガエルや葉を食う昆虫が緑色をしており、砂漠の動物が砂黄色をしており、極地の陸生動物がおもに雪白色をしている」(同)ことをあげ、「これらの動物がそういう色のおかげで自分の生活環境に合目的に適応していること」(一〇九ページ)は否定できないと語っています。

 

四、生命の系統樹

生物の共通の祖先

 つづいて、デューリングは「全生物界は一個の原始生物から系統を引いており、いわばある唯一の生物の子孫だ、とダーウィンは主張している」(同)と指摘し、これを批判して、原始生物には複数の系統があったと主張しています。
 ダーウィンの『種の起源』の末尾は、次の文言でしめくくられています。
 「生命はそのあまたの力とともに、最初わずかのものあるいはただ一個のものに、吹きこまれたとするこの見かた、そして、この惑星が確固たる重力法則に従って回転するあいだに、かくも単純な発端からきわめて美しくきわめて驚嘆すべき無限の形態が生じ、いまも生じつつあるというこの見かたのなかには、壮大なものがある」(八杉竜一訳、岩波文庫)。
 ダーウィンは、生物の共通の祖先を「最初わずかのものあるいはただ一個のもの」としているのであって、デューリングのいうように「一個の原始生物」ときめつけている訳ではありません。
 それはともかく、当時の認識からすれば、ダーウィンの主張するようにまだこの問題に結論を出しうる段階ではなかったのであり、それをデューリングはもちまえの「あれかこれか」の形式論理学で、科学的な根拠もなく、複数系統説を主張したところにその誤りがありました。
 ですから、発生学と古生物学の発展も含めて、進化の道筋は今後の研究により「非常に大きな修正をこうむるだろうことは、疑いをいれない」(一一三ページ)とするエンゲルスの態度こそが正しい科学的な態度といわなければなりません。

分子時計

 その後の研究により、現在では約一千万種ともいわれる多様な生物も、「元をたどれば四〇億年前に登場したたった一種の生物に由来」(宗川吉汪「生命とは何だろう」八三ページ『自然の謎と科学のロマン』下、所収)すると考えられています。
 こうした研究の出発点となったのが、一九五三年、ワトソンとクリックという若き科学者によるDNAの二重らせん構造の発見でした。その後の生命科学の発展により、「DNAの配列の違いが、種が分かれて以後に経過した時間にほぼ比例して増加するという、『分子時計』と命名された現象も見つかりました」(矢原前掲書一二〇ページ)。これによって、人類が類人猿から分岐したのが約七百万年前であることも分かりました。
 この「分子時計」とともに、統計的方法による系統推定法も生まれてきました。「このような統計的方法の進歩と、DNA配列を決める技術の進歩があいまって、分子系統学という研究分野は、非常に強力な検証力を持つ科学として、生命科学の中に確固とした地位を築きました。生物界全体の系統樹〔『生命の樹』と呼ばれています〕を確立するための研究は、世界中の研究者の協力によって、日進月歩の速さで進められています。……『生命の樹』の全貌は、あと一〇年もすれば、かなり正確にわかってくるでしょう」(同一三一ページ)。
 生命の系統樹の研究は、まさにエンゲルスの指摘どおりとなったのです。

 

五、生命の定義

生化学的統一性の原理

 植物と動物とは、姿・形を大きく異にしますが、それを共に生物として認識するのは、両者に共通の要素がいくつかあるからです。
 一つは、両者ともに成長して、子孫を残します。
 二つには、「あらゆる生物体は、細胞、つまり強度に拡大しなければ目に見えない、内部に一つの細胞核をもつ小蛋白塊からなりたって」(一一七ページ)います。
 三つには、細胞核のなかには、二本一組の染色体が存在し、そのなかに遺伝子であるDNAが折りたたまれてつまっています。植物も動物も共通の祖先の同一遺伝子から分化した遺伝子をもち、同じ遺伝法則にしたがっています。
 四つには、細胞内の物質代謝は、植物も動物も同じ反応を基礎にしています。
 「すべての生物が同じ化学的成分を含み、同じ生化学反応を基盤としていることを、生化学者は生命の生化学的統一性の原理とよんでいます」(宗川前掲書八三ページ)。
 生物の成長は細胞分裂をつうじておこなわれます。分裂の際、細胞のなかにある二本一組の染色体は、一本ずつに分かれ、植物では細胞のまん中に仕切りができ、動物ではまん中にくびれができて、新しい二個の細胞はもとの細胞と同じ染色体をもつことになります。新しい二つの細胞のなかでDNAはそれぞれ複製されて、再び二本一組の染色体をもつにいたり、以下同様の体細胞分裂をくり返えすことによって、細胞の数をふやし、成長していくことになります。人間の場合、一個の受精卵から最終的には六〇兆個の細胞になります。
 「アメーバから人間にいたるまで、また最少の単細胞のチリモ類から最も高度の進化をとげた植物にいたるまでの、すべての細胞生物体において、細胞の増殖の仕方は共通である。すなわち、それは分裂によってなされる」(一一七~一一八ページ)。
 それなのにデューリングは、「発生」という「語のかわりに『合成』と言うべきである」(一一四ページ)というのです。植物にしろ、動物にしろ、生化学的統一性の原理からして、すべての生物は細胞分裂により発生するのであって、「断じて合成などではない!」(一一八ページ)のです。こんなことをいうデューリングには、発生とは雌雄異体の動物の性的結合によるものしか念頭にないのでしょう。

生命の定義

 デューリングは、「狭義かつ厳密な意味での本来の生命」(一一八~一一九ページ)とは、「本来の形態分化」である(一一八ページ)とか「内部の一点からの特殊な脈管による物質循環の媒介」(同)であるとか、「一つの胚図式にもとづいて始まる」(同)とか、述べています。
 まず生命が、「形態分化」から始まるのだとすれば、単細胞生物から成る「原生生物界の全体を死んだものと宣言しなければならなくなるし」(一一九ページ)、循環器官という「特殊な脈管」(同)を基準にすることになれば、「腔腸動物の上綱全体」(同)が「生物の仲間から排除」(同)されることになってしまいます。ましてや「内部の一点から」の循環器官が生物の本質的特徴ということになれば、心臓をもたない類、ヒトデ類、甲殻類などと、植物のいっさいが生物でないことになってしまいます。また「胚図式」をもつということになれば、単細胞生物は含まれないことになります。
 結局「生命一般についてデューリング氏がわれわれに語ることのできるのは」(一二三ページ)、すべての生物は、細胞という「一つの単純な型」(一二〇ページ)をもち、「物質代謝」(一二三ページ)するというだけのものであり、その程度のことは、「この三〇年来、生理化学者や化学的生理学者が数えられないほどたびたび言ってきたこと」(同)にすぎません。そのうえ、化学反応にみられるように「物質代謝そのものは、生命がなくても起こる」(同)のです。
 では生命とは何か。
 「生命とは蛋白体の存在の仕方である。そして、この存在の仕方は、本質的には、蛋白体の化学成分が不断に自己更新をおこなうことにある」(一二四ページ)。
 しかもその自己更新は、同化と異化の統一という弁証法的運動をつうじておこなわれます。「これらの生命現象の本質はいったいなんにあるのか? なによりもまず、蛋白体がその環境から他の適当な物質を自己のうちに吸収して同化し、他方、この蛋白体の別の老廃した部分が分解して排泄される、という点にある」(一二五ページ)。
 生命体は、この自己更新によって、生命体としての自己同一性を保ちつつ変化していくという同一と区別の統一として存在します。「だから、生命、すなわち蛋白体の存在の仕方は、なによりもまず、蛋白体が各瞬間にそれ自身でありながら同時に他のものであるという」(一二六ページ)ような「蛋白体の存在の仕方」なのです。
 しかし、エンゲルスは、生命をこのように定義しながらも、この定義は「きわめて不十分なもの」(同)であり、「生命とはなんであるかを真にあますところなく知るためには、最も低級なものから最も高級なものまで、生命のあらゆる現象形態を調べつくさなければならないであろう」(一二六~一二七ページ)といっています。
 その後の生命科学の発展によって、生命体は自己更新するのみならず、子孫をつうじて自己複製すること、生命を営む自己更新はタンパク質をつうじて実現され、生命を紡ぐ自己複製は核酸をつうじて実現されることが明らかになってきました。
 「現在の地球生命は、タンパク質と核酸の両方を用いて生命を維持しています。この仕組みのことをセントラルドグマと呼びます。つまり、核酸(DNA・RNA)は生体情報を保持する唯一の分子であり、タンパク質をつくるのにあたっては、核酸の情報が必要です。しかし、核酸をつくったり、核酸の情報でタンパク質を作ったりするにあたっては、酵素というタンパク質触媒が必要です。つまり、両方がそろわなければ地球生命は成り立たないことになります」(小林前掲書六六ページ)。
 こうした今日的到達点にしたがえば、生命の定義は次のようになるのではないでしょうか。
 「生命とは、タンパク質と核酸との相互作用により、不断の自己更新と自己複製とをおこなう物質代謝の仕方である」。
 門外漢としての全くの独断的な定義にすぎませんが、問題提起として議論のきっかけになれば幸いだと思うものです。