『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』より

 

 

第九講 哲学⑤ 法と道徳

 

一、科学的社会主義の法と道徳

『法の哲学』と史的唯物論

 前講まででデューリングの自然哲学、「自然の諸原理にかんする学問」(四八ページ)を終えて、今回から「人間にかんする学問」(同)、ヘーゲルのいう「精神哲学」に入っていきます。ここでもデューリングは、ヘーゲルの「精神哲学」のうちの「客観的精神」の構成を剽窃しています。
 ヘーゲルは、晩年『エンチクロペディー』の構成部分である「客観的精神」を『法の哲学』という独立した大著にまとめあげています。これによってヘーゲル哲学は、『エンチクロペディー』と『法の哲学』という二本の柱から成る哲学となっているのです。 
 『法の哲学』では自由を実現する人間の精神活動の産物をとりあげ、第一部「法」、第二部「道徳」、第三部「倫理」という構成になっています。ここから『反デューリング論』第九章から第一一章までの「道徳と法」という主題が導かれてくるのです。したがって法と道徳を検討するうえでは、まず『法の哲学』の内容が問題とされなければなりません。
 法と道徳を考えるうえで、もう一つ重要な理論がマルクス、エンゲルスによる史的唯物論です。エンゲルスのデューリング批判は、主としてこの見地からなされています。エンゲルスは、『フォイエルバッハ論』(全集㉑)のなかで、「われわれがどのようにしてこの(ヘーゲル――高村)哲学から出発し、どのようにしてそれから離れたかについて、手短かにまとめて叙述する」(同二六七ページ)ことをその目的としていると指摘していますが、対象となっているのは、『エンチクロペディー』であり、『法の哲学』についてはほとんど言及されていません。
 これに対し、マルクスは、『経済学批判・序言』(全集⑬)において、経済と法・政治との関係をどうとらえるかの「疑問の解決のために企てた最初の仕事は、ヘーゲルの法哲学の批判的検討」(同六ページ)であったとして、『法の哲学』の批判的検討をつうじて史的唯物論に到達したことを明らかにしています。しかし、その中心的著作である「ヘーゲル国法論批判」では、『法の哲学』第三部「倫理」の一部のみが批判の対象とされるにとどまり、第一部「法」、第二部「道徳」については対象とされていないのです。
 こうしてみてくると、マルクス、エンゲルスにとって『法の哲学』は、科学的社会主義の学説を形成するうえでの出発点とはなったものの、ヘーゲルの法と道徳にかんする見解を批判的に検討し、そのなかの積極的部分を継承発展させる課題は、私たちに残されたままだということができるのではないでしょうか。その意味では、『反デューリング論』における法と道徳にかんするエンゲルスの見解も、個人的・歴史的制約をもつものとしてみておく必要があると思われます。
 いずれにしても、法と道徳を論じるにあたっては、『法の哲学』と史的唯物論の両方の観点からの検討が必要だということになります。

史的唯物論の法と道徳

 まず史的唯物論では法と道徳をどのようにとらえているかをみていくことにしましょう。
 マルクスは、史的唯物論を定式化した『経済学批判・序言』において、社会には構造があることを明らかにしました。経済的諸関係が土台をなし、その上に政治や法、イデオロギーなどの上部構造がそびえ立つというものです。国家はその上部構造の象徴的存在です。土台である経済的諸関係のなかから、搾取する階級と搾取される階級との対立が生まれます。土台は上部構造を規定しますから、資本主義的生産様式のもとにおける国家は、資本家階級のための政治と法をもつ国家です。同様に資本主義社会の支配的イデオロギーは、資本家階級のイデオロギーであり、イデオロギーの一種である道徳も資本家階級の道徳であるということができます。
 このように史的唯物論では、上部構造に属する法と道徳をいずれも資本家階級の法と道徳であるという階級的観点からとらえています。
 史的唯物論は、社会が構造をもち、土台から生まれる階級対立が社会全体をつらぬくという階級的観点をもつことによって、社会をはじめて科学の対象にすることを可能にしました。エンゲルスのいうように、「唯物史観と剰余価値を手段とする資本主義的生産の秘密の暴露」(三六ページ)という「二つの偉大な発見」(同)によって「社会主義は科学になった」(同)のです。
 エンゲルスは、この史的唯物論の階級的観点から、デューリングの法と道徳の批判を展開しています。

『法の哲学』の法と道徳

 唯物史観が、社会を構造的にとらえ、かつ階級的視点から上部構造としての法と道徳をとらえるのに対し、ヘーゲルは全く異なる観点から法と道徳の問題にアプローチします。
 ヘーゲルの観点は、人間の本質とは何かという人間論を出発点としており、人間の本質に照らして法と道徳の「真にあるべき姿」を『法の哲学』で論じているのです。
 前提となるのは、第一に人間の本質は自由な意志をもつことにあり、動物とちがい、自由な意志によって自然や社会を変革しうるというものです。
 それと同時に第二の人間の本質として、人間は社会共同体の一員として、社会とともにある社会的存在であること(共同社会性)をあげています。人間とチンパンジーとではDNAで一パーセントも違わないのに、これだけ大きな生活様式の差が生じているのは、人間はチンパンジーと違って社会をもっているためです。人間が社会をつくり、社会が人間をつくるという相互作用のなかで、人間と社会とはともに発展してきました。
 社会共同体には、自由な人間関係・社会関係によって共同体を維持・発展させるために必要な、民主主義的ルールまたは規範が必要となってきます。
 この民主主義的社会規範の二本柱が法と道徳です。法と道徳とは、社会共同体の構成員の「普遍的意志(真にあるべき意志)」を示すものなのです。
 普遍的意志は一般意志ともよばれていますが、このカテゴリーを最初に使用したのは、第二講でお話ししたようにルソーの『社会契約論』でした。ルソーは、一般意志と全体意志(多数意志)とを区別し、一般意志にもとづく統治による治者と被治者の同一性の実現を「人民主権」とよびました。人民主権とは、人民の人民による人民のための政治を意味しています。
 ヘーゲルは、この考えを受けつぎ、「国家の法律は普遍的意志から生じなければならない」(『小論理学』一六三節補遺一)ととらえました。いわば、真にあるべき法とは、人民の真にあるべき政治的意志を規定した社会規範でなければならないというのです。これに対して、道徳とは、人間としての真にあるべき意志(善)を行為の基準としてかかげる社会規範です。
 法と道徳が社会規範だということは、個人がその自由意志によってそれらの規範に違反する行為をすると社会的責任が生じることを意味しています。自由な意志をもつ人間は、自己の意志にもとづく行為の結果に対して責任をとらなければならないのであり、自由には責任が伴うのです。個々人が、自由な意志にもとづいて選択した個々人の特殊的意志は、共同体の普遍的意志にてらして評価され、特殊意志が普遍的意志に抵触するときに、法的責任と道徳的責任(一般には道義的責任といわれている)という社会的責任が生じるのです。
 法と道徳とは、社会的規範としては同一ですが、責任の形態において区別されます。法的責任の場合、法によりその責任を強制されることになります。民事の場合、自己の自由な意志で契約した内容を履行しなければ、法により損害賠償を強制されることになりますし、刑事の場合、自由な意志で法に違反したものは、刑罰を強制されることになります。これに対して道義的責任の場合には、自由な意志で社会的規範を踏みにじったものに対して、社会的批判が加えられ、社会的責任をとらされることになるのです。
 いずれにしてもヘーゲルは、人間の本質を自由な意志と共同社会性に求め、自由を実現する共同社会性から社会規範としての法と道徳を導き出し、自由な意志から法と道徳の責任論を導き出しています。

法と道徳の二面性

 以上みてきたように、同じ法と道徳を論じていても、マルクスとヘーゲルの観点は全く異なるものです。では、どちらの観点が正しいのかと問われれば、どちらも正しいと答えざるをえません。マルクスは、資本主義社会における「現にある」法と道徳を、ヘーゲルは資本主義社会における「真にあるべき」法と道徳を論じているのであり、次元を異にしているところから、どちらも正しいといわざるをえないのです。
 したがって、『法の哲学』の全体を検討の対象にしえなかったマルクス、エンゲルスにかわって、現代に生きる私たちに、科学的社会主義の見地からこの両者を統一することが求められています。
 この問題を考えるにあたっては、国家の起源と国家の本質との関連と区別を考えていかなければなりません。
 人類最初の社会共同体である原始共産制社会には、構成員の共同の利益を処理するための独自の組織は存在していましたが、それは構成員全員が交替しながら担っていました。
 ところが生産力の発展による私有財産制の誕生によって階級社会に移行すると、この共同の利益を処理する独自の組織は、搾取する階級によって独占的に支配されるようになってきます。これが国家の誕生です。搾取し、支配する階級は、次第に国家の機構のなかに共同の利益処理機構とともに、階級支配の機構を加え、拡大し、ついには国家の本質を階級支配の機関に転化してしまいます。階級対立が激しくなるにつれ、国家は階級支配としての本質を強化し、共同の利益処理の機構と機能は次第に名目だけのものになりますが、支配階級は少数者による多数者の支配を維持するために、共同の利益実現というこの看板をおろすことはできません。
 こうして、「国家とは、その全構成員の共同利益を実現する仮象をもちつつ、一方で支配階級の利益を擁護するとともに、他方で被支配階級を抑圧するという本質を持つ、搾取する階級の階級支配の機関である」(拙著『人間解放の哲学』九三ページ、学習の友社)ということになります。
 この国家のもつ二面性は、法と道徳にも反映されることになります。法と道徳は、一面では、人民の普遍的意志の実現という仮象をもちつつ、他面で階級支配を本質とする社会規範(上部構造)という本質をもつという二面性を具備しています。
 法でいうならば、現在の日本国憲法は、戦前の日本軍国主義への批判から生まれた普遍的意志を表しています。その基本原理は国民主権、非軍事平和の原則、基本的人権の尊重などとなっています。しかしそれはあくまで仮象にすぎず、その本質は財界主権、海外で戦争する国家づくり、国民の人間らしく生きる権利の否定となっています。
 同様に、道徳についても、その普遍的意志は、憲法の基本原理を受けて制定された旧教育基本法第一条「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家および社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」という教育の目的に示されています。
 しかしそれが仮象にすぎなかったことは、安倍内閣のもとで成立した新教育基本法に示されています。そこでは、旧法に存在した「日本国憲法に則り」の文章が消えうせ、かわって「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という国家主義的な教育の目標がかかげられ、愛国心の道徳教育がおしつけられようとしているのです。

普遍的意志実現の法と道徳のために

 ヘーゲルは、『法の哲学』のなかで資本主義社会(市民社会)を「欲求の体系」とよんでいます。イギリスの古典経済学を学んだヘーゲルは、資本主義のもたらす貧富の対立に厳しい批判の目を注いでおり、マルクスの『資本論』にも大きな影響を与えています。
 「市民社会はこうした対立的諸関係とその縺れ合いにおいて、放埒な享楽と悲惨な貧困との光景を示すとともに、このいずれにも共通の肉体的かつ倫理的な頽廃の光景を示す」(『法の哲学』一八五節)。
 つまり市民社会とは、「欲望のかたまり」のぶつかり合う特殊的意志の支配する社会であって、そこでは普遍的意志はかかげられながらも、特殊性と普遍性とが「それぞれ独自の現存在」(同一八四節)をもつ、理念の分裂した社会だと批判しています。
 そのうえにたって、個人の特殊的意志(自由な意志)が人民の普遍的意志と一致するような人民主権の国家こそ、真にあるべき国家だとしているのです。
 私たちもこの観点に学んで、現代日本における法と道徳の階級性、特殊的意志を批判し、日本国憲法にもとづく法と道徳、普遍的意志を対置してたたうべきではないでしょうか。
 自民党政治のもとでの憲法の空洞化、政治家と大企業の政治的、社会的モラルハザードは、社会的な道義的危機を生みだす根本原因となっているのです。そうした意味でも、私たちの側から人民の普遍的意志を体現した道徳論を積極的に展開する必要があると思われます。日本共産党第二一回大会決議が、「民主的な社会の形成者にふさわしい市民道徳」として、「真実と正義を愛する心」「勤労の重要な意義を身につけ、勤労する人を尊敬する」など十項目の提案をしていることは、この見地からして積極的に評価されるべきものです。
 ちょっと長くなりましたが、こうしたことを前置きとして、テキストに入っていくことにしましょう。

 

二、人間認識の至上性

デューリングの「究極の決定的真理」

 デューリングは、自分の展開する道徳論は「究極の決定的真理」(一二九ページ)をとらえたものであり、それを「持続的に疑うことそれ自体が、すでに病的な衰弱状態」(一三〇ページ)を示すものだといっています。
 道徳における究極的真理を「否認する立場は、風習やおきてが地理上および歴史上多様であることを拠りどころとする」(同)ものであるが、「こういうむしばむような懐疑」(同)は、「人間が意識的な道徳性に到達する能力をもつことそれ自体に向けられている」(同)からだというのです。
 いうならば、人間の認識能力は至上性をもつものであるから、単に特殊的真理を認識しうるのみならず、特殊的真理を止揚した普遍的真理、究極的真理にも到達しうるのであり、自分はこの能力を有しているから道徳の究極的真理に到達しえたのだというのです。
 したがって「いまわれわれが当面するのは、そもそも人間認識の産物が至上の妥当性や真理たることの無条件の主張権をもつことができるか」(一三一ページ)という問題となってくるのです。

認識とは何か

 この問題に答えるにあたって、エンゲルスはまず「人間の思考とはなにか」(同)、言いかえると認識とは何かという問題の検討から始めます。
 人類(ヒト)は、七百万年前にサルから分岐し、労働と言語をつうじて急速に脳の容量を拡大してきました。そのなかで自然、社会、人間に対する認識を深め、その本質や法則を理解し、また本質や法則も、より普遍的な法則へと発展させてきました。ニュートン力学から相対性理論へ、古典力学から量子力学へ、天動説から地動説へ、永遠の宇宙論からビッグバン宇宙論へという具合に発展してきたのです。
 では、人類はどうやって人類としての認識を発展させることができたのでしょうか。それは、口頭または文書によって先人の獲得した認識が後世代の人類に継承・蓄積され、後の世代は、より大量の認識を蓄積することによって先人の認識の限界を打ち破り、表面的な真理からより深い真理へ、特殊的真理からより普遍的な真理へと一歩ずつその認識を前進させてきました。確かに人間の認識能力そのものは、脳の容量と機能からしても無限に発展しうるものということはできますが、特定の時代の個人の認識能力は、その時代における先人の獲得した認識の範囲に大きく制約されているのです。人類の歴史上に名を残した偉大な人々は、個人的には先人の獲得した認識の限界をのりこえ、新たな真理を付加するという意味で、その時代の個人的認識の枠組みを越えるものではあっても、その時代の観測、実験機器等の制約からも生じる時代の制約をまぬがれることはできません。
 レーニンは人類の認識の発展の問題を、「人間の観念は、この真理を一度に、全部、無条件に、絶対的に、表現することができるのか、それともただ近似的、相対的に表現できるだけなのか」(レーニン全集⑭「唯物論と経験批判論」一四一ページ)の問題としてとらえなおし、それは絶対的真理と相対的真理の弁証法的統一の問題であると回答しました。
 客観的真理とは客観をあますところなく完全に反映した真理であり、それが絶対的真理といわれるものです。したがって、「客観的な、すなわち人間および人類から独立した真理をみとめることは、なんらかの仕方で絶対的真理をみとめること」(同一五四ページ)ですが、それはエンゲルスのいうように「人類の生命の無限の持続をつうじて」(一三三ページ)のみ実現しうるのであって、それぞれの時代の真理は、一定の限界内でのみ正しく、限界外では正しくない、真理と誤謬の統一としての真理なのです。
 人類は相対的「真理の粒」(前掲書一五六ページ)を積み重ねていくことにより、無限に絶対的真理に接近することができます。「われわれの知識が客観的・絶対的真理に近づく限度は、歴史的に条件付けられている。しかし、この真理の存在は無条件的であり、われわれがそれに近づきつつあることは無条件的である」(同書一五八ページ)として、「弁証法的唯物論にとっては相対的真理と絶対的真理のあいだにこえがたい境界は存在しない」(同一五七~一五八ページ)ことを明らかにしたのです。
 したがってエンゲルスのいうように、「思考の至上性は、きわめて非至上的に思考する人間たちの系列をつうじて実現され、また真理たることの無条件の主張権をもつ認識は、相対的誤謬の系列をつうじて実現される」(一三三ページ)のです。
 いわば個々人の認識の非至上性と人類の認識の至上性との矛盾は、「無限の進行をつうじてはじめて、われわれにとってはすくなくとも実際上終りのない人間世代の継起をつうじてはじめて、解決できる矛盾」(同)なのです。
 真理の問題も同様です。真理とは客観に一致する認識を意味しています。ヘーゲルは、その「論理学」を第一部「有論」、第二部「本質論」、第三部「概念論」として構成しています。「論理学」とは、真理認識の思惟形式、つまり弁証法です。「有論」では事物の表面的真理を認識する弁証法を、「本質論」では事物の奥に隠されたより深い真理を認識する弁証法を、「概念論」では客観的事物を越える事物の真にあるべき姿を認識する弁証法を論じています。
 そのうえでヘーゲルは、正しさと真理とを区別しています。
 「正しさと真理は普通同じ意味にとられており、したがってある内容が正しいにすぎない場合に、それが真理であると言われることがよくある。正しさとは、一般にわれわれの表象とその内容との形式的な一致をさすにすぎず、その内容がどんなものであるかは問題でない。これに反して、真理(真実態)とは、対象の自分自身との、すなわちその概念との一致である」(『小論理学』一七二節補遺)。
 この基準からすると、事物の表面的姿をとらえる有論の真理は「正しさ」にとどまり、事物の真の姿をとらえる本質論、事物の真にあるべき姿をとらえる概念論のみが「真理」を問題とするということになりそうです。
 しかし私たちの立場からすれば、いずれも客観に一致する認識としての真理であり、より低い真理からより高い真理への進展とみればよいと思われます。
 真理には大きく三つの段階があることを指摘したうえで、ヘーゲルは、この三段階の真理のいずれもが、理論から実践へ、実践から理論へと反覆することをつうじて無限に発展していくものとしてとらえています。
 したがって人間の認識は、個人としても人類としても、常に真理と誤謬の統一としてのみ存在しうるのであり、この矛盾が人間の認識を相対的真理から絶対的真理へと無限に前進させる契機となるものです。しかしこの矛盾はどこまでいっても解決されない矛盾であり、人類の認識は無限に前進し続けながらも、究極の絶対的真理に到達して、そこで前進をストップするということはありえないのです。
 エンゲルスは、「もし、いつか人類が永遠の真理ばかりを」(一三三ページ)取り扱うようになるとすれば、有限な人類の認識が無限の絶対的真理に到達したことになり、それは例えば「数えつくされた無数というあの大評判の奇跡がなしとげられた点に、ゆきついたことになる」(同)として、これを否定しています。
 したがって、人類史からすればまだごく初期的段階に誕生したにすぎないデューリングという一個人が、「真正の、変わることのない、究極の決定的真理」(一三九ページ)を主張することは、「とりもなおさず自分の無知と愚かさかげんを証明するだけ」(同)ということになるのです。

科学と真理

 エンゲルスは、認識の対象によっては「永遠の真理」もありうるのではないかと自問し、生命を除く自然科学、生命科学、社会科学の三つの部門に分けて検討しています。第一の部門は「精密科学ともよばれてきた」(一三四ページ)のであり、「ある種の結論は永遠の真理であり、究極の決定的真理である」(同)ということもできるが、第二の部門では「究極の決定的真理のまわりに、いろいろな仮説のうっそうとした茂みをたえず新しく植えこんでゆくことをやむなくされ」(一三五ページ)、第三の部門になると「永遠の真理の状態はさらにかんばしくなくなる」(一三六ページ)と答えています。
 その理由として、自然科学では、対象となる自然は「規則的に繰りかえされる諸過程の系列である」(同)のに対し、社会科学の対象は「諸状態が繰りかえされるのは例外であって通則ではない」(同)からとされています。
 注意しなければならないのは、真理にかんする三つの部門の区別はあくまで相対的なものでしかないということです。第一部門から第三部門への流れは、単純な物質の運動形態からより複雑な物質の運動形態への移行ということができます。第一部門の物質の運動においては、「二×二は四であり、三角形の内角の和は二直角に等しく、パリはフランスにあり、人間は食物をとらなければ飢え死にする」(一三四ページ)というような、ヘーゲルのいう「正しさ」が問題になるような領域があります。これを「永遠の真理」といっても間違いではありませんが、それによって何ら「真理の粒」が新たにつけ加わるわけではありません。エンゲルスの指摘する区分は、物質の運動形態が複雑になればなるほど人間の認識も真理に接近することが困難となり、簡単な物質の運動形態に比べて、複雑な物質の運動形態の場合は、真理の認識が相対的に遅くなることを意味するにすぎないように思われます。
 確かに自然は反覆するのに対し、社会科学の対象となる分野は一回限りの運動となります。しかしそれは、自然科学においては、主として因果法則が問題となるのに対し、社会科学においては主として発展法則が問題となるという、単に法則の形態が異なるだけのことであって、社会科学において真理が存在しないということではありません。
 エンゲルスは、史的唯物論と剰余価値学説によって「社会主義は科学になった」(三六ページ)と述べています。マルクスは『資本論』において、これらの武器を駆使し社会科学としての経済学において、一回限りの資本主義的生産様式を貫徹する鉄の法則を解明したのです。

社会科学、人文科学の真理性と唯物論的一元論

 とりわけ重要なことは、社会科学、人文科学に真理を認めるか否かは、現代日本におけるイデオロギー闘争の重要な課題になっているということです。
 というのも、利潤第一主義の資本主義では、生産力の発展と利潤につながる自然科学のみを科学ととらえ、人間に関わる社会科学や人文科学は価値観の世界であって、そこには多様な価値観は存在しても真理は存在しないとのイデオロギーがふりまかれているからです。ブルジョアジーは、それを「自然科学の没価値性」と社会科学、人文科学における「価値観の多様性」とよんでいます。自然科学は、意識のない、目的のない、価値のない物質を対象とするから科学になりうるし、そこには真理も存在するのに対し、社会科学などは、意識をもち、目的をもち、価値観をもつ人間を対象とするから、科学にはなりえないし、真理も存在しないとして、社会科学などの非科学性と非真理性を主張するのです。
 しかし、科学的社会主義が果たした役割は、こういうイデオロギー攻撃を打ち破り、史的唯物論や『資本論』を武器にして、社会や人間を科学の対象にし、そこに真理を見いだしうることをあきらかにしたところにありました。
 『資本論』全三部が誕生してすでに百十年以上が経過していますが、そこで解明された利潤第一主義という資本の本質、富と貧困の対立、金あまりによるギャンブル資本主義の予測などは、現代においてますます生命力を発揮し、その真理性を証明しています。『資本論』は資本主義的生産様式の運動法則の永遠の真理をとらえたものであるからこそ、時代を超えて輝き続けているのです。
 現代に生きる私たちも、科学的社会主義の学説を創造的に発展させ、社会科学の分野である経済や法はもとより、道徳、倫理、生きがい論などの人文科学に関しても、不断に真理を探究し続けることが求められているのです。したがって社会科学や人文科学の真理性を否定する資本主義的イデオロギーとのたたかいは、現代の階級闘争の重要な課題の一つとなっています。
 この問題に関連するもう一つの重要な問題が、現代社会を圧倒的に支配している物質至上主義、自然科学至上主義の論理にたつ唯物論的二元論とのたたかいです。二元論は人間の生き方に直接かかわる、価値、道徳、倫理の問題を、厳密な意味の知識の対象にはなりえないとします。「事実と価値」「存在と当為」とを切りはなし、道徳観、倫理観ぬきに核兵器をはじめとする残虐兵器を開発し、地球環境を破壊して省みないのです。
 ですから重要なことは、人間にとって価値ある生き方とは何か、より善く生きるとは何かの問題を正面にかかげ、その生き方の真理を明らかにして「事実と価値」「存在と当為」とを統一する唯物論的一元論の立場にたつことです。
 自然科学による生産力の発展と豊かな物質世界も、人間がより善く生きることと結びついてはじめて意義をもつものといわなければなりません。世界が「どうあるか」の問題と世界が「どうあるべきか」の問題とは、切りはなしてとらえることはできないのです。

生きがい論の真理

 もう一つ問題なのは、いま新自由主義路線のもとで、資本の側から、生きがい論という価値観を問題とせざるをえない状況が生まれていることです。
 というのも雇用と賃金の破壊のもとで、加重労働、低賃金、成果主義賃金、雇用の不安定化などにより、労働者は、たえざる緊張感を強いられるところから、労働者は生きがいと労働意欲を喪失し、労働現場の内外でうつ病などの精神疾患が大量に発生し、社会現象となっているからです。
 このような心の病に対して、資本の側からのイデオロギー攻撃として、心のケアと称するスピリチュアル・ブームがつくり出されています。要は、自己責任論と霊魂不滅説の結合という非科学的立場にたち、現世の苦しみや困難は、前世の自分が自分で選んだ道であり、また魂が成長していくための修行の場である、これを魂がそのままうけいれることによって、癒され、生きがいとなるというものです。こうした観念論的生きがい論の代表的なものが江原啓之のスピリチュアルであり、財界ご推薦の飯田史彦「生きがい論」シリーズ(PHP研究所)です。
 こうした資本の側からの観念論的生きがい論に対しては、私たちの側から心の病は自己責任ではなく社会的責任、政治の責任であることを明確にすると同時に、社会変革を生きがいとする唯物論的生きがい論を対置していかなければならないと思います。
 彼らは一方では、より善く生きる問題を非科学として否定しながら、他方で一億総下流化の押しつけで生きがいを奪いつつ、ニセの観念論的生きがい論を押しつけて、現在の心の病の危機をのりきろうとしています。それに対して私たちは、政府・財界の法と道徳論およびニセの生きがい論を批判し、人類の普遍的意志を体現する民主的憲法と民主的道徳の確立をめざすと同時に、こうした法、道徳のうえに、唯物論的生きがい論を積極的に打ち出していくことが求められています。生きがい論にも真理は存在することを主張していかなければなりません。