『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』より

 

 

第一二講 哲学⑧ 弁証法の根本法則

 

一、弁証法の根本法則

対立物の統一

 第三講で真理認識の思考形式の最高の到達点が弁証法的唯物論であることを明らかにしました。
 では、レーニンのいうように「対立物の統一」という弁証法の核心がなぜ真理認識の思考形式となるのでしょうか。
 真理を認識するとは、「無関係を排して諸事物の必然性を認識すること」(『小論理学』一一九節補遺一)にあります。必然性のもっとも根本的な形式が対立です。対立関係にある二つのものは、お互いに相手を自己の「固有の他者」とする関係、つまりそうあってそれ以外ではありえないような必然的な関係にあります。対立する二つのものは、どちらもそれ自身だけでは一面的であり、真理ではないところから、その真理は対立する二つのものの統一、つまり対立物の統一にあるのです。
 例えば肯定的なものと否定的なものとは対立関係にあります。肯定的なものは、その固有の他者である否定的なものを排斥することによって肯定的なものとして自立することになります。しかし他面からすると肯定的なものは、否定的なものという「固有の他者」が存在することによってはじめて自分も存在しうるのであって、もともと非自立的存在だということもできます。いわば対立する二つのものは、自立していると同時に非自立であるという矛盾する関係にあって、対立物の統一とはそれ自体矛盾なのです。
 対立物の統一は、対立物の自立の側面からすると、固有の他者を排斥することによって自立しうることになりますので、対立物の相互排斥、または対立物の闘争となってあらわれ、非自立の側面からすると、対立する二つのものはお互いに相手あっての自分であり、相互に固有の他者となる同一の関係といえますので、対立物の相互浸透(相互移行)または対立物の同一となってあらわれます。
 対立物の相互排斥は、矛盾とよばれ、「一般に、世界を動かすものは矛盾である」(同補遺二)といわれています。
 以上により、弁証法の根本法則とは対立物の統一であり、対立物の統一には対立物の相互排斥と対立物の相互浸透の二つの側面があるということができます。
 対立物の相互排斥も対立物の相互浸透も、いずれも対立を解消した真理としての対立物の統一なのです。対立物の相互排斥は、排斥し合うことによる対立物の闘争をつうじて、その対立・矛盾を止揚することによる対立の解消であり、対立物の相互浸透は、対立物が相互に移行しあい、同一となることによる対立の解消です。
 こうして、対立物の統一は、一面的な対立する両極の解消による真理認識の方法となるのです。ヘーゲルは、この趣旨を「思弁的なものあるいは肯定的理性的なものは、対立した二つの規定の統一を、すなわち、対立した二つの規定の解消と移行とのうちに含まれている肯定的なものを把握する」(『小論理学』八二節)と述べています。「思弁的なもの」とは「弁証法的なもの」と理解すればいいでしょう。
 このように、対立物の統一とはそれ自体矛盾する二つの側面をもっているのであり、エンゲルスは、それを次のように述べています。
 すなわち、弁証法とは「両極的対立はすべて、一般に対立する二極相互の交代的変化によって条件づけられていること、これら二極が分離し対立するということは両者がをなし統一されているということにのみなりたつことであって、また逆に両者が統一されていることは両者が分かれていることにのみなりたち、両者が対をなしていることは両者が対立していることにのみなりたつのだということ」(「自然の弁証法」全集⑳三八八ページ)だというのです。
 基本的には、ヘーゲルと同一内容だということができるでしょう。

弁証法の「三つの法則」について
 
 エンゲルスが『反デューリング論』を完成した直後に著したと思われる『自然の弁証法』の「全体的計画の草案」(全集⑳三三九ページ)には、弁証法の「主要法則」(同)が次のようにまとめられています。
 「量と質との転化。――両極的対立物の相互浸透と、極端にまでおしすすめられたときのそれら対立物の相互の転化。――矛盾による発展または否定の否定。――発展の螺旋的形式」(同)。
 またそれより後の一八七九年九月ごろ執筆された「弁証法」(同三七九ページ)は「だいたいにおいて三つの法則に帰着する」(同)として次のように述べています。
 「量から質への転化、またその逆の転化の法則。対立物の相互浸透の法則。否定の否定の法則」(同)。
 エンゲルスは、その根拠として、「第一の法則は『論理学』の第一部、存在論(有論――高村)のなかにあり、第二の法則は彼の『論理学』のとりわけ最も重要な第二部、本質論の全体を占めており、最後に第三の法則は全体系の構築のための根本法則としての役割を演じている」ことをあげ、この三法則はヘーゲル「論理学」から導き出されたものであることを明らかにしています。
 前者と後者は、ほぼ同様の三つの法則となっていますが、微妙な違いもみせています。
 ヘーゲル「論理学」をつらぬく弁証法の根本形式は、対立物の統一ですが、第一部「有論」、第二部「本質論」、第三部「概念論」のそれぞれに特有の対立物の統一があり、それが各部の内部でさらに展開されることになります。
 第一部「有論」全体のテーマは、有と無の統一であり、これが展開されて、或るものにおける肯定性と否定性、或るものと他のもの、或るものにおける否定の否定、質と量などの対立物の統一が論じられています。エンゲルスのいう、「量から質への転化、またその逆の転化の法則」と、「否定の否定の法則」は、この第一部で論じられています。
 第二部「本質論」全体のテーマは、本質と現象の統一です。この展開として同一と区別、対立と矛盾、内容と形式、偶然と必然、可能性と現実性、原因と結果、自由と必然などの弁証法が論じられています。
 第三部「概念論」全体のテーマは特殊と普遍の統一です。この展開として抽象的普遍と具体的普遍、判断と推理、主観と客観、機械論と目的論、分析と総合、理想と現実などの弁証法が論じられます。
 こうした状況のなかで、エンゲルスの指摘する三つの法則を、果たして弁証法の「主要法則」、または根本法則としてとらえうるのかという疑問が生じます。
 まず第一に、エンゲルスの三法則では対立物の統一という弁証法の根本法則が正面からとりあげられておらず、その下位形態である「対立物の相互浸透」や、さらにその下位形態にある量と質の弁証法、否定の否定の法則が論じられ、弁証法の立体的構成を無視してレベルのちがう対立物の統一が並列されていることです。
 第二に、「対立物の相互浸透」は、対立物の相互排斥と一対のカテゴリーであり、対立物の相互排斥(矛盾)という運動の根本原理をのぞいて、対立物の相互浸透だけをとりあげるのは理解できません。
 エンゲルスも「運動そのものが一つの矛盾」(一八六ページ)であり、「こういう矛盾をたえず定立しながら同時に解決してゆくことが、すなわち運動なのである」(同)としていますし、そもそも史的唯物論は、社会発展の原動力を生産力と生産関係の矛盾、その展開としての基本的諸階級間の矛盾としての階級闘争としてとらえるものです。この見地からしても弁証法の基本法則のなかに対立物の相互排斥=矛盾を含めないのは、大いに疑問だと思われます。
 第三に、第一部「有論」の弁証法を代表するものが量と質の弁証法であり、第二部「本質論」の全体を占めるのが、対立物の相互浸透とすることにも疑問があります。
 ヘーゲルは、第一部「有論」の「諸規定は、その実不変なものではなくて、移行するもの」(『小論理学』一一一節補遺)であるのに対し、「本質においてはもはや移行は起らず、ただ関係があるにすぎない」(同)といっています。
 「有論」では、或るものが他のものに移行すれば、或るものは消失してしまいますが、「本質論」では、或るものが他のものに移行しても、「異ったものは消失するのではなく、異った二つのものはあくまで関係している」(同)にとどまるのです。
 ヘーゲルは、第一部では運動、変化、発展の根本を有と無の統一としてとらえ、これを軸にしながら或るものから他のものへの移行、対立物の相互移行を論じています。量から質へ、質から量への移行も、「有論」における対立物の相互移行の一事例にすぎないのです。
 したがって、「有論」を代表する弁証法というのであれば、対立物の相互移行または有と無の統一をあげるべきではないかと思われます。
 これに対して第二部では、対立する二つのものの間の必然的な関係(これをヘーゲルは、反省とか反照とよんでいます)を論じています。
 したがって「本質論」の「全体を占め」るのは、対立と矛盾という関係であり、いいかえると、対立物の相互浸透と対立物の相互排斥の両者であって、前者のみをあげて後者をあげないことには疑問を感じます。
 第四に、エンゲルスが、第三部「概念論」全体をつらぬくテーマが、対立物の相互排斥による発展であることを明確にしていないのも気になるところです。
 ヘーゲルは、「概念の進展は、もはや移行でもなければ、他者への反照(関係――高村)でもなく、発展である」(同一六一節)と述べています。すなわち、第一部「有論」の弁証法は対立物の相互移行、第二部「本質論」の弁証法は、対立物の「他者への反照」であり、これに対して第三部「概念論」の弁証法は、矛盾の止揚としての発展であるととらえているのです。ヘーゲル哲学の真髄は、理想と現実の統一という変革の立場にあり、これが「概念論」の主題となっています。現実から理想へ、理想から理想の現実化へという発展が主題となっています。それを明確にしえなかったところに「概念」の真の意義を正確に理解しえなかったエンゲルスの限界が示されているのではないかと思われます。
 第五に、ヘーゲルのいう「否定の否定」は、「有論」の「向自有」のカテゴリーで論じられている発展の一形態です。ヘーゲルは、スピノザの「あらゆる限定または規定は同時に否定である」(二一九ページ)との命題にもとづき、或るものの限界を否定(或るものは、「他のものではない」という否定によってその限界を画する)としてとらえ、その限界を否定(これが否定の否定)し、自己同一性を保ちつつ無限に発展する人格(自我)を「向自有」とよんでいます。いわば、「否定の否定」は、有限と無限の弁証法を示すカテゴリーにほかなりません。
 「向自有」は、自己同一性を保ちつつ否定の否定を繰り返すことによって、無限に発展していくすべての事物に適用しうるカテゴリーですが、だからといってこれをもって「全体系の構築のための根本法則」とまで言い切ることには疑問を感じます。
 というのも、なるほど弁証法は、一般的な運動・変化・発展の法則にかんする科学ということができますが、発展だけをとってみても、ヘーゲルは、自己同一性をつらぬく同じ質のもとでの発展と、自己同一性を貫かない異なる質への発展を区別しており、後者こそ発展観の中心をなすものとしてとらえられているからです。すなわち前者が向自有としてとらえられるのに対し、後者は対立物の相互排斥としての矛盾であり、「一般に、世界を動かすものは矛盾である」として、矛盾を止揚した発展を発展観の根本に位置づけているのです。
 エンゲルスも一方では、「われわれが事物をその運動、変化、生命、交互作用において考察するやいなや……われわれはたちまち矛盾におちいる。運動そのものが一つの矛盾である」(一八六ページ)として、矛盾を運動、変化、発展の根本に位置づけています。
 他方でエンゲルスは、否定の否定による発展と矛盾の止揚としての発展を同じ意味に理解していたのではないかと思われます。というのも「全体的計画の草案」においては、「弁証法の主要法則」(同)の一つが「矛盾による発展または否定の否定」として、「矛盾による発展」と「否定の否定」とが同義にとらえられているからです。また『反デューリング論』の準備労作のなかの「否定の否定」(二六四ページ)でも、「弁証法的な否定こそが、あらゆる発展の推進者(形式の面からみて)なのである。――すなわち、対立物への分裂、それらの闘争と解決、そのさい、獲得された経験にもとづいて、最初の出発点が……より高い段階で、ふたたび到達される」(二六五ページ)として、同義であることがより詳しく説明されています。
 エンゲルスは否定の否定と矛盾とを同一視することによって、否定の否定を弁証法の三法則の一つに位置づけたものでしょう。しかし両者は区別されるべきであり、矛盾こそが発展観の根本に位置づけられるべきだと思われます。
 以上の結論として、エンゲルスの三法則を弁証法の根本法則ないし、基本法則として規定することには問題があるといわざるをえません。
 私見では、この三法則も、弁証法の諸法則の重要な一形態というにとどめ、弁証法の根本法則はヘーゲルのいう「対立した二つの規定の統一」(『小論理学』八二節)、つまりレーニンが「弁証法の問題について」(レーニン全集㊳三二七ページ)で指摘しているように「対立物の統一」であるというべきではないかと考えるものです。

運動とは矛盾の定立と解決

 デューリングは、「矛盾すなわち背理であり、したがってそれは現実の世界には起こりえない」(一八五ページ)としています。
 これに対してエンゲルスは、「われわれが事物を静止した、生命のないものとして、個々別々に、相並び相前後するものとして考察するあいだは、たしかに、それらの事物においてどんな矛盾にもぶつからない。……しかし、われわれが事物をその運動、変化、生命、交互作用において考察するやいなや、事情はまったく違ったものになる。その場合には、われわれはたちまち矛盾におちいる」(一八六ページ)としています。さらに「こういう矛盾をたえず定立しながら同時に解決してゆくことが、すなわち運動なのである」(同)として、単純な運動から、より高度の運動形態までを検討しています。
 まず単純な力学的な位置の運動は、「ここにあって、ここにない」という有と無の統一としてとらえられ、次に生命は、「同一であって同一でない」という同一と区別の統一として、また、人間の認識能力は「限界があって限界がない」という有限と無限の統一としてとらえられます。
 微分学は、極限値において曲線を「曲線であって直線である」という曲線と直線の同一としてとらえるものであり、リーマン幾何学(球面幾何学)では、赤道上のA点とB点から真北に向かって平行にとびたった飛行機は、北極点で衝突するのであり、平行線は「平行であって平行でない」のです。
 最近の量子論によると、一三七億年前に私たちの宇宙は無のゆらぎから誕生したとされていますが、無のゆらぎとは、有と無との統一です。
 また「自然の対称性」が指摘されています。ミクロの物質は、すべて粒子と反粒子という対立物の統一として存在し、これが「自然の対称性」とよばれています。物質と反物質の対称性の破れから生じた物質のみから成る私たちの宇宙にも、対称性の名残りが反映しており、そこから私たちの物質世界の「対称性」も生じているとされています。
 強い力や電磁力における引力と斥力の統一、マイナス電荷の電子とプラス電荷の原子核の統一、分子間の結合力と反発力などにもその対称性が示され、「自然は弁証法の検証となるもの」(三〇ページ)であることがますます明らかになっています。
 ワトソンとクリックによるDNAの二重らせん構造は、二本の塩基の鎖が向かい合った対立物の統一という関係において結合していることを明らかにしたものです。ワトソンは、なぜこの二重構造を思いついたのかと質問されたのに対し、「そんなことは誰にでもわかることさ、なぜなら自然界で重要なものはみんなになっているから」と答えたそうです。
 彼が弁証法を心得ていたかどうかは知りませんが、自然は対立物の統一であるとする「自然の対称性」の知識が、この大発見につながったのです。

 

二、量と質の弁証法

デューリングの『資本論』批判(一)

 デューリングは、矛盾を「背理」だとして否定することにより、弁証法そのものを否定します。
 その見地から『資本論』において「マルクスが適用した弁証法的方法」(一九一ページ)を、二つの例をあげながら批判しています。
 その一つは、量と質の弁証法に関するものです。
 「たとえば、量が質に転化するという、したがって前貸金は、ある限界に達すると、たんにこの量的な増加だけによって資本になるという、ヘーゲルの混乱したもうろう観念を拠りどころとしているのは、なんと滑稽に見えるではないか」(一九三ページ)。
 問題となっているのは「貨幣の資本への転化」の箇所です。
 マルクスは、資本とは、流通のなかで自己増殖する貨幣であることを明らかにしたうえで、それでは資本になりうる貨幣額には量的最低限度は存在しないのかと自問し、次のように答えています。
 「どんな任意の貨幣額または価値額でも資本に転化できるのではなく、この転化には、むしろ貨幣または交換価値の一定の最小限が個々の貨幣所有者または商品所有者の手にあることが、前提されているのである」(同)。
 つまり、資本家が価値を増殖するためには、剰余価値を生みだすための労働力と、生産に必要な労働手段と原材料を事前に購入するだけの貨幣額を用意しておかなければなりません。
 一人の労働者が八時間を自分のための必要労働とし、残りの四時間を資本家のための剰余労働として計一二時間労働するとした場合、資本家一人が働かずして労働者なみの生活をするには、「二人の労働者に原料と労働手段と労賃を供給するのに足るだけの価値額を、すでにもちあわせていなければならない」(一九四ページ)し、それ以上の生活をしたければ、もっと多くの労働者と原材料とを用意しなければなりません。
 こういう指摘をしたうえで、マルクスは、「ここでも、自然科学におけると同様に、たんなる量的な変化がある一点で質的な区別に転化するという、ヘーゲルがその『論理学』で発見した法則の正しいことが確証されるのである」(同)として、貨幣の資本への転化は量から質への転化の一事例になるといっているのです。
 つまり、マルクスは、貨幣額は、「一定しているある最小限の量にそれが達したときにはじめて、資本に転化することができるという事実――この事実は、ヘーゲルの法則が正しいということの一つの証明である」(一九四~一九五ページ)といっているのに、デューリングはそれを故意に歪曲し、量から質への転化という「ヘーゲルの法則」(一九五ページ)を適用することによって、前貸金は「ある限界に達すると……資本になる」(一九三ページ)とマルクスが述べているかのように、まったく逆に画き出しているのです。
 そのうえで、「ヘーゲルの混乱したもうろう観念を拠りどころとしているのは、なんと滑稽に見えるではないか」と批判してみせるのですから、厚かましいにも程があるといわなければなりません。

量と質の弁証法

 続いて、量と質の弁証法は、けっして「混乱したもうろう観念」などではなく、「自然からでも人間社会からでも、この種の事実をなお幾百となくあげることができる」(一九六ページ)客観世界の法則であることを、エンゲルスは実証していきます。
 まずエンゲルスは、『資本論』第一部第四篇「相対的剰余価値の生産」は、全体として「協業、分業とマニュファクチュア、機械と大工業の分野で、量的変化がそこで論じられている事物の質を変化させ、また同様に質的変化がそれらの事物の量を変化させる無数の事例」(同)を論じていると指摘しています。
 そして、量から質への移行の例として、多数の労働者が一カ所に集まって作業する協業をあげています。協業により「彼らの個別的な力の合計とは根本的に異なった、一つの『新しい高次の力』が生まれる」(同)からです。県労学協では、この例にならって、会議という集団の論議から生まれる「新しい高次の力」を「会議力」とよんでいます。
 逆に、質から量への移行の例としては、道具から機械への質的転換が生産力という量の飛躍を生み出すことをあげることができるでしょう。質の変化が量の飛躍をもたらすのです。
 続いて、炭素化合物の同族列のなかから、一塩基脂肪酸列(Cn H2n O2)(一九七ページ)が取り上げられ、n が一、二、三、四となるにつけ、蟻酸、醋酸、プロピオン酸、酪酸と「質的に異なった諸物質の全系列」(一九八ページ)が生じることが明らかにされ、次のように結論されます。
 「化学では、ほとんどいたるところで、すでに種々の窒素酸化物や、燐あるいは硫黄の種々の酸素酸においてさえ、『量が質に転化する』のを見ることができ、このヘーゲルの混乱したもうろう観念といわれるものが、事物や過程のなかにいわば肉体をそなえたものとして見いだされることがわかる」(一九八~一九九ページ)。

 

三、否定の否定

デューリングの『資本論』批判(二)

 続いてのデューリングの『資本論』における弁証法批判は、「ヘーゲルの否定の否定が、過去の胎内から未来を分娩させる産婆役を勤め」(二〇一ページ)ているというものです。彼は、「ヘーゲルの言う第一の否定とは、堕罪という教理問題書の概念」(二〇二ページ)だとしたうえで、マルクスは、「宗教の分野から借りてきたこういうばからしい類推の上に」(同)、社会主義・共産主義社会における所有を「個人的であると同時に社会的でもある所有というもうろう世界に安んじてとどま」(同)っていると批判しています。
 マルクスは、『資本論』第一部の総まとめとしての「資本主義蓄積の歴史的傾向」において、生産物の所有に焦点をあててみるとき、資本主義的所有を第一の否定とし、社会主義的所有を否定の否定として、より発展した所有となることを明らかにしたものです。
 すなわち、資本主義以前の小経営では、生産者が生産物を取得するという「労働と所有との結合」がなされていました。しかし資本主義的生産に移行することにより、生産者である労働者は生産物を所有することができないという「労働と所有との分離」が生じるのであり、これが私的所有の「最初の否定」となります。
 それを受けて、マルクスは社会主義社会における「労働と所有との結合」を次のように、私的所有の否定の否定として説明しています。
 「資本主義的生産様式および取得様式は、したがって資本主義的な私的所有は、自己労働に基礎をおく個人的な私的所有の第一の否定である。資本主義的生産の否定は、資本主義的生産そのものによって、自然過程のもつ必然性をもって生みだされる。それは否定の否定である」(二〇八ページ)。
 「この否定は、個人的所有を再興するが、しかし、資本主義時代の成果を基礎として、すなわち、自由な労働者の協業と、土地および労働そのものによって生産された生産手段にたいする彼らの共同所有とを基礎として再興するのである」(二〇三ページ)。
 つまり生産物の所有は、「労働と所有の結合」を否定した「労働と所有の分離」を経て、否定の否定としてより高い段階での「労働と所有の結合」という旧来の形態に復帰したのです。
 さて問題は、ここに「個人的であると同時に社会的でもある所有というもうろう世界」が果たして存在しているでしょうか。
 エンゲルスは、「この文章は、社会的所有にはいるのは土地その他の生産手段であり、個人的所有にはいるのは生産物すなわち消費対象」(二〇三~二〇四ページ)であり、そこには明瞭な区別が存在しているうえ、マルクスは誤解がないように、次のように補足説明していることを紹介しています。
 「この結合体の総生産物は一つの社会的生産物である。この生産物の一部分はふたたび生産手段として役だつ。それはひきつづき社会的なもののままである。しかし、もう一つの部分は、結合体の成員によって生活手段として消費される。したがって、それは彼らのあいだに分配されなければならない」(二〇四ページ)。
 こうしてみてくると、『資本論』の第一部の批判と同様に、この第二部の批判も、「またしてもデューリング氏の自由な創造物と構想物」(同)であり、「マルクスの思想を故意に」(二〇六ページ)歪曲したうえでの批判、批判のための批判といわざるをえないのです。
 では、マルクスは、この過程をなぜ否定の否定とよんだのでしょうか。
 「そうすることでこの過程が歴史的に必然的なものであることを証明しようとしているのではない。その反対である。彼は、この過程が実際に一部はすでに起こっており、一部はこれから起こらざるをえないということを歴史的に証明したあとで、それにつけくわえて、この過程を、一定の弁証法的法則にしたがっておこなわれる過程とよんでいるのである」(二〇八ページ)。
 したがって「ヘーゲルの否定の否定が、過去の胎内から未来を分娩させる産婆役を勤め」(二〇一ページ)ているとするデューリングの批判は、またしても彼の自由な創造物であり、先天主義的におかされたデューリングならではの批判にすぎないのです。
 最後に、否定の否定と矛盾の解決とを区別すべきだとした場合に、資本主義から社会主義への発展を否定の否定としてとらえるべきなのか、それとも矛盾の解決としてとらえるべきなのかという問題があります。
 確かに生産力の発展を基準とし、その自己同一性をつらぬく発展としてみれば、否定の否定としてとらえることもできるでしょう。しかしエンゲルスは、『反デューリング論』の第二篇「経済学」では、後にみるように、小経営――資本主義――社会主義への発展を、「個人的生産と個人的取得」の無矛盾――「社会的生産と資本主義的取得」の矛盾――矛盾の解決としての「社会的生産と社会的取得」としてとらえています。資本主義から社会主義への発展は、資本主義的諸矛盾を解決したものが社会主義であるととらえるべきであり、やはり矛盾の解決を基本にするべきではないかと考えるものです。

弁証法は証明用具ではない

 ここでエンゲルスは、弁証法を「たんなる証明用具」としかみないデューリングを批判して、そもそも弁証法とは何かの問題を検討しています。
 「たとえば形式論理学や初等数学にしても、狭い考え方からすれば、たんなる証明用具と考えることができるが、デューリング氏が弁証法を同じようにたんなる証明用具と見なしていること自体、弁証法の本性にたいする認識をまったく欠いたものである。形式論理学そのものも、なによりもまず、新しい成果を見いだすため、既知のものから未知のものへと前進するための方法であるのだが、弁証法もまた同じであり、ただはるかに高い意味でそうなのである。そのうえ、弁証法は、形式論理学の狭い視野を突破するものなので、一つのいっそう包括的な世界観の萌芽をふくんでいる」(二〇九ページ)。
 マルクスは、『資本論』「あと書き〔第二版への〕」のなかで『資本論』で用いた方法は弁証法であると述べています。自著のなかで、そこに用いた「方法」について叙述するのはあまり例のないことです。それだけマルクスにとって、資本主義的生産様式の運動法則を「研究」するうえでも、また『資本論』を有機的一体性をもった体系として「叙述」するうえでも、弁証法が「既知のものから未知のものへと前進するための方法」として有効・適切に機能しえたとの思いが強かったのでしょう。
 つまり、マルクスは、弁証法を駆使して、資本主義的生産様式の本質、根本矛盾、運動法則を解明し、また弁証法を使って資本主義的生産様式の没落の必然性を「萌芽からの発展」として『資本論』で体系的に叙述してみせたのです。
 だからこそ、マルクスは、「たとえどんな欠陥があろうとも、僕の著書の長所は、それが一つの芸術的な全体をなしているということなのだ」(全集㉛一一一ページ)と述べたうえで、それが「弁証法的に編成」(同)された著作の特徴だと語っているのです。二〇〇六年九月に『「資本論」の弁証法』(一粒の麦社)と題して出版したのも、このマルクスの弁証法にかける思いを、『資本論』の読解のために生かしたかったからにほかなりません。
 エンゲルスの結論は次のとおりです。
 「弁証法とは、自然、人間社会および思考の一般的な運動=発展法則にかんする科学という以上のものではないのである」(二一八ページ)。
 一言付加するならば、「弁証法とは、対立物の統一を根本法則とすることにより、自然、人間社会および思考における、相対的な静止をも含めた一般的な運動=発展法則にかんする科学である」ということができるのではないでしょうか。

否定の否定とらせん型の発展

 先に、ヘーゲルのいう「否定」と「否定の否定」について説明しましたが、ここでエンゲルスの説明をきいてみることにしましょう。エンゲルスもヘーゲルと同じくスピノザを引用しつつ否定の否定を説明しているのですが、ヘーゲルとは異なった理解をしているように思われます。
 「弁証法における否定とは、たんに、いな、と言うことでも、ある物を、存在しない、と言明することでも、その物を勝手な仕方で破壊することでもない。すでにスピノザが、……あらゆる限定または規定は同時に否定である、と言っている。さらにこの場合の否定の仕方は、第一には過程の一般的性質によって、第二にはそれの特殊的性質によって、規定されている。ただ否定するだけでなく、その否定をふたたび揚棄しなければならないのである。だから、第一の否定は、第二の否定がなお可能であるような、あるいは可能となるような仕方で、処理されなければならない。……どういう種類の事物についても、そこから発展が生まれてくるような、それ独特の否定の仕方があるのであって、このことはまたどういう種類の観念や概念にもあてはまる」(二一九ページ)。
 スピノザの「あらゆる限定または規定は同時に否定である」との命題は、「或るもの」は「他のものではない」という否定によって、「他のもの」から区別されると同時に「或るもの」として規定されることを意味しています。
 ヘーゲルは、スピノザの命題を正確に理解したうえで、第一の否定は或るものの限界を画するとし、第二の否定、つまり否定の否定は、或るものが自己の限界を否定することにより「より完成された質」(『小論理学』九六節補遺)に発展するものとしてとらえられ、これによって自己同一性をつらぬくもとでの発展という形式がとらえられています。
 これに対し、エンゲルスの場合は、スピノザの命題を引用しながらも、「第一の否定は、第二の否定がなお可能であるような」否定であるとか、「そこから発展が生まれてくるような、それ独特の否定の仕方」という説明にとどまっています。その結果第一の否定と第二の否定との間には本質的な区別は存在せず、両者ともに発展の契機としての否定としてのみとらえられています。そのため否定の否定は、「発展の螺旋的形式」(『自然の弁証法』全集⑳三三九ページ)としてのみとらえられ、自己同一性のもとでの発展としての位置づけがなされていないのです。
 このエンゲルスの「発展の螺旋的形式」はレーニンにも引きつがれ、『哲学ノート』(レーニン全集㊴)のなかで、「人間の認識は直線ではなく、……一系列の円へ、螺旋へ無限に近づいていく曲線である」(同三三〇ページ)といっています。
 ですから、エンゲルスが、本著のなかで否定の否定として例示するものは、すべてA――非A――という旧形態に復帰し、かつより高度なものとしての復帰を意味しています。そこには、自己同一性をつらぬく発展もあれば、質を異にする発展もあり、こうして否定の否定による発展は、矛盾による発展と同一視されるに至ったのです。
 例えば、大麦の粒や観賞植物や微・積分の例は、自己同一性をつらぬき「完成化が高まってゆく」(二一一ページ)例といえるでしょう。
 これに対して、資本主義から社会主義への発展、地層の発展、土地所有の発展、唯物論と観念論、ルソーの平等論などの例は、矛盾による発展の例といえるのではないかと思われます。
 このようにヘーゲルとエンゲルスとでは、否定の否定の意義が異なるということは、直ちにエンゲルスが間違っていることを意味するわけではありません。
 というのもエンゲルスが事物の発展を「螺旋的形式」としてとらえたことには大きな意義があるからです。
 ではなぜすべての事物はらせん型に発展するのでしょうか。
 自己同一性をつらぬく発展、つまり否定の否定は、自分自身は自分として不変でありながら、「より完成された質」に発展するものですから、らせん型発展であることはいうまでもありません。問題は矛盾の止揚としての発展がなぜらせん型をとるのかにあります。ドイツ語のアウフヘーベン(止揚)は、保存しつつ廃棄することを意味しています(『小論理学』九六節補遺)。したがって止揚を二回繰り返せば、そこに保存された積極的なものは、より高い段階での旧形態に復活することになるのです。
 まとめてみると、ヘーゲルとエンゲルスの発展観は、次のように整理しうるのではないでしょうか。
 「発展には自己同一性をつらぬく同一の質のもとでの発展と、矛盾の止揚としての発展がある。前者は否定の否定である。これに対して矛盾の止揚としての発展は、自己同一性をつらぬかない質を異にする発展である。この両者を包括する発展は、らせん型の発展としてとらえることができる」。
 最後にルソーの平等論における否定の否定を紹介しておきましょう。科学的社会主義の立場からルソーを評価するうえで、重要な指摘がなされていると思うからです。
 ルソーは、「自然な野蛮状態では、人間は平等であった」(二一五ページ)ととらえます。しかし私有財産の誕生により不平等が生まれ、「文明のどの新しい進歩も、同時に不平等の新しい進歩である」(二一六ページ)とされます。そこで、人々は社会契約により、再び平等を実現するのです。
 「こうして、不平等はふたたび平等に転化する。だがそれは、言語を知らない原人の古い自然のままの平等ではなく、社会契約にもとづくより高度の平等である。抑圧者は抑圧される。それは否定の否定である。だから、ルソーのこの書物には、すでにマルクスの『資本論』がたどっているものと瓜二つの思想の歩みがあるだけでなく、個々の点でも、マルクスが用いているのと同じ弁証法的な論法が多数見いだされるのである」(二一七ページ)。
 二〇〇四年九月に『科学的社会主義の源泉としてのルソー』(一粒の麦社)を出版するに至った一つの契機は、エンゲルスのこの文章にありました。
 「国民が主人公」をキーワードとする日本共産党の新綱領にふれるとき、また南米の「社会主義のルネッサンス」の運動をみるとき、ルソーを科学的社会主義の源泉と考えざるをえないのではないかと考えるものです。マルクスが未来社会をルソーの人民主権国家、「アソシエーション」としてとらえていることは、いっそうこの考えを補強するものとなっています。
 以上でデューリングの現実哲学はおしまいです。それはヘーゲルの言葉を借りれば、「ドイツのえせ啓蒙思想の最も貧弱なうわずみ」(二二四ページ)にすぎないものでした。