『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』より

 

 

第一四講 経済学② 価値論

 

一、マルクスの労働価値説と剰余価値学説

マルクスの労働価値説

 いよいよ今回からデューリング経済学の内容に入っていきますが、最初に出くわすのが価値論です。
 デューリングは、マルクスの労働価値説の真理性を否定できないにもかかわらず、その真髄を理解していないところから、さまざまなもうろう観念にとりつかれています。そこでいきなりデューリングの価値論に入って混乱するのを防ぐために、まずマルクスの労働価値説を概観してみることにしましょう。
 労働価値説とは、商品の価値はその商品を生産するのに必要な労働の量によって規定されるという学説です。それはペティにはじまりスミス、リカードによって体系化されます。しかし彼らも、商品には使用価値と価値とがあり、それに応じて商品を生産する労働にも、具体的有用的労働と抽象的人間的労働という「労働の二重性」があることを知らなかったし、また労働力と労働とを区別しえなかったために、その学説は首尾一貫したものにはなりえませんでした。
 この不十分さを克服して、労働価値説を完成したのがマルクスでした。マルクスは、『資本論』第一部の最良の点の一つを「使用価値で表わされるか交換価値で表わされるかに従っての労働の二重性」(全集㉛二七三ページ)に求めています。
 さて、資本主義的生産様式が支配している社会の富は、諸商品として現れます。商品とは、自家消費のためにではなく、交換を前提として、社会的消費のために生産される私的生産物です。
 私的生産物が商品になるためには、二つの性質が必要です。一つは、それが人間の何らかの欲望をみたすものとして使用価値をもっているということです。もう一つは、その商品が他の商品と交換されうるということであり、そのためには特定の価値をもっていなければなりません。その商品にどれだけの価値が含まれているのか、その価値の絶対量を目で見ることはできませんが、他の商品との交換をつうじてあらわれる交換比率によって相対的な価値量を知ることができます。これが交換価値といわれるものであり、交換価値は価値という本質の現象形態です。二つの商品が交換されるためには、二つの商品を比較する前提となる両者に共通なものがなければなりません。その共通なものの量的比率にもとづいて交換価値が定まってくることになります。
 ではすべての商品に共通に含まれるものとはなんでしょうか。すべての商品は、労働によって生産されたという共通点をもっています。すべての商品に共通する労働は種々さまざまな形態の商品をつくる「具体的有用的労働」ではなく、抽象的な人間労働一般、つまり、人間の肉体をつうじて自然に働きかけるという極度に抽象化された労働一般です。それを「抽象的人間的労働」といい、それが商品の価値の実体となるものです。これに対して「具体的有用的労働」は使用価値をつくり出します。これが「労働の二重性」といわれるものです。
 では、商品の価値量はどのようにして特定されるのでしょうか。それは、その商品のなかに含まれる抽象的人間的労働の量、つまり労働時間によって規定されることになります。先にも述べたように、「それは、普通に労働時間を測るときのように、直接に、絶対的に、労働時間数または日数等々で測られたわけではなく、回り道をして、交換を媒介として、相対的に測られ」(五四二ページ)るのです。
 商品のなかに含まれる抽象的人間的労働の量とは、その商品を生産するために社会的(平均的)に必要な労働時間のことを意味しています。したがって商品の価値は、その商品を生産するのに社会的に必要な労働時間によって規定されることになるのです。
 商品の価値を貨幣商品で表示したものが価格です。したがって理論的には価値と価格とは一致します。
 しかし価格は価値を基準としながらも、市場における需要と供給の関係で上下します。需要が供給を上回るときには、商品の市場価格は価値を上回り、供給が需要を上回る場合には、商品の市場価格は価値を下回ります。こうして価値は、価格の変動をつうじて需要と供給の関係を調整する機能を果たしているのです。
 したがって価格は、需要の変動を媒介に常に価値に一致しようとして運動します。価値が価格を規定するのであって、その逆ではないことが、この事実に示されています。
 次に、価値を規定する抽象的人間的労働とは何でしょうか。それはすべての商品に含まれる労働ですから、「平均的に、普通の人間ならだれでも、特殊な発達なしに、その肉体のうちにもっている単純な労働力の支出」(『資本論』①七五ページ/五九ページ)です。
 「熟練した鍛冶屋が一〇個の蹄鉄をつくるのと同じ時間に、未熟な鍛冶屋は五個の蹄鉄をしかつくることができない。しかし、社会は、後者がたまたま未熟だということを価値に変えはしない。社会は、そのときどきの正常な平均的熟練度をもつ労働だけを一般的人間労働と認める」(五四一ページ)。
 したがって、価値実体としての抽象的人間的労働は、平均的熟練度の単純な労働を意味しており、この基準から抽象的人間的労働にも二つの質的相違が生まれます。
 一つは、単純労働と複雑労働の区別です。高等教育を受けた労働力、あるいは熟練度の高い労働力から生まれた労働は、より質の高い複雑労働として、単純労働と同じ労働時間であっても、より高い価値を生産します。
 「より複雑な労働は、単純労働の何乗かされたもの、またはむしろ何倍かされたものとしてのみ通用」(『資本論』①七五ページ/五九ページ)するのです。
 もう一つは、平均労働と強化労働の区別です。価値を規定する労働時間は社会的に必要な労働時間ですが、それは社会的・平均的な労働強度(密度)を基準としてはかられる労働時間を意味しています。この社会的・平均的な強度の労働(平均労働)に対して、強化された過密労働(強化労働)は、同じ労働時間であってもより多くの労働を含み、より多くの価値を生産します。
 「与えられた時間内へのより大量の労働のこの圧縮は、いまや、それがあるがままのものとして、すなわちより大きい労働分量として、計算される。『外延的大きさ』としての労働時間の尺度とならんで、いまや、労働時間の密度の尺度が現われる」(『資本論』③七〇九ページ/四三二ページ)。

マルクスの剰余価値学説

 マルクスは、こういう労働価値説のうえにたって、資本主義的搾取の秘密を解明しました。それを可能にしたのが剰余価値学説です。
 商品の価値はその商品を生産するのに社会的に必要な労働時間によって規定されるという法則を、価値法則といいます。
 マルクスは、資本主義的生産様式のもとで価値法則にもとづいて剰余価値がいかにして生じるかをはじめて明らかにしました。
 その出発点となったのは、労働と労働力との区別です。労働は価値の実体をなすものであって、自らは価値をもちません。労働の価値を論じるのは、「物体の重量ではなく重さそのものの重量」(三八一ページ)を論じようとするほどナンセンスなことなのです。
 労働者が資本家に雇われ、労賃と引き換えに売り渡す商品は、「労働力」という一定の価値と使用価値をもつ商品です。
 労働力という商品の価値は、他の商品と同じように、労働力を生産するのに社会的に必要な労働時間によって規定されます。労働力は、労働者の人格と一体化した生命力の一形態ですから、その価値は、労働者自身の生命力を維持・再生産するために必要な生活諸手段の価値に帰着します。次世代の労働力の生産も労働者とその家族の手に委ねられていますので、労働力の価値には、労働者の家族の生活諸手段の価値も含まれることになります。
 労賃は、労働力という商品の価格ですから、もし労働力が価値どおりに販売されるならば、労賃は労働者とその家族の生活費をまかなうに足りるものでなければなりません。
 次に、労働力という商品の使用価値とは何でしょうか。それは労働力を使って労働させることができるということです。つまり労働力という商品は、その使用価値が「労働する」、言いかえれば「価値を生みだす」という、独特の使用価値をもつ商品なのです。
 したがって労働力という商品は、労働力自身の価値と労働力の使用によって生まれる価値という二つの異なる価値と関わりをもち、後者が前者より大きいところに剰余価値生産の秘密があるのです。つまり資本家は、労働者に支払った労賃以上の価値を労働者に生みださせ、それを剰余価値として搾取するのです。
 例えば、労働力の価値に等しい価値の商品を生産するのに必要な労働時間を六時間とします。資本家は、労働者を六時間働かせてモトをとるにとどまらず、一二時間働かせて、六時間分の剰余価値を自らの利潤にするのです。
 資本家は、価値法則にしたがって価値どおりの価格で労働力を購入し、その労働力を使って剰余価値を生産したのですから、そこには等価交換はあっても、何ら強力による違法な不等価交換がおこなわれたわけではありません。
 しかし等価交換から出発しながら、資本家は剰余生産物を対価の支払いなしに取得しているのですから、実体は「他人の不払労働を絶えず新たに取得する」(『資本論』④一〇〇六ページ/六一三ページ)という不等価交換に転化しているのです。マルクスは、この等価交換から不等価交換への転換を、「商品生産の所有諸法則は資本主義的取得の諸法則に転換する」(同)といっています。
 以上マルクスの労働価値説と剰余価値学説をざっとみてきましたが、これを前提にデューリング経済学を検討してみることにしましょう。

 

二、「デューリングの価値論」批判

富とは何か

 人間は衣食住をまかなうために物質的財貨を生産し、消費しなくてはなりません。人間の生活上の有用性、つまり使用価値をもつ財貨が富といわれるものです。富は自然に存在するものを狩猟、採集することに始まり、農耕、牧畜、さらには紡織、金属加工、製陶などへと道具の発展とともに、その形態も変化しますが、あらゆる形態の富の生産は、人間が自然に働きかけることによる労働の産物という共通点をもっています。富が交換により流通していくようになると、商品の形態をとるようになります。商品の交換は物々交換に始まりますが、社会的な無数の商品交換の過程をつうじて、すべての商品の価値を示す特別の一商品、「一般的等価物」としての貨幣商品(金・銀)が誕生するに至り、貨幣こそが富であるとする重金主義が生まれてきます。
 富とは何かをめぐって資本主義的生産様式の理論的研究が始まり、重金主義、重商主義、重農主義から労働価値説へと引き継がれていくのです。
 これに対しデューリングは、富の所有を「人間と物とを支配する経済力」(三五八ページ)だと定義しています。しかし富とは物質的財貨であり、富をもつことは物にたいする支配を意味するにすぎないのであって、直接に人間を支配するものではありません。奴隷主が奴隷という人間を支配するには「奴隷の購買代金やその生活手段および労働手段にたいする支配を媒介としてはじめて」(同)可能となるのです。
 人間にたいする支配は「ほとんどもっぱら、物にたいする支配にもとづく、それを媒介としての人間にたいする支配」(同)という間接的支配にすぎないのに、なぜデューリングが直接的な支配としてとらえるのかといえば、「富を経済の分野から道徳の分野に引っぱりこむため」(三五九ページ)にほかなりません。
 第一三講で述べたように、彼は生産と分配を切りはなし、分配の問題を強力に依拠する道徳の分野に追いやってしまいましたが、ここでも同様の議論をしようというのです。
 「物にたいする支配としての富――生産的富はよい側面である。人間にたいする支配としての富――これまでの分配的富はわるい側面である」(同)。
 「資本主義的生産様式はしごくよいもの」(同)だが、「資本主義的分配様式はろくでもないもので、廃止されなければならない」(同)、これがデューリングの引き出す結論なのです。
 
価値とは何か

 デューリングも、マルクスの労働価値説を肯定せざるをえないのですが、それをひねくり回し、ねじまげ、その本質をすっかり見失ってしまうのです。
 彼はまず価値とは「物を調達する為の努力が遭遇する障害」(三六一ページ)「抵抗」(同)であり、「われわれ自身の力」(同)を投入する程度が、「価値一般の存在と、それのある特定の大きさ」(同)を決定するといっています。
 このひねくれた表現は、この「障害」「抵抗」を媒介として、理念上の価値である「生産価値」(三六二ページ)から、暴力によって変造された「分配価値」(同)に到達するためなのです。
 彼は価値論を論じるにあたって、価値の実体は何かをまず論じるのではなくて、生産物の価値はどのような価値から構成されているのかを論じようとしています。
 第一三講でお話ししたように、労働過程において、資本は生産手段と労働力とに区別されましたが、その区別を価値増殖過程の立場からみると不変資本と可変資本に区別されます。生産手段はその価値が生産物にそのまま移転するところから不変資本、労働力は労働力の価値を上回る価値を生みだすところから可変資本とよばれています。こうして生産物の価値は、不変資本(c)と可変資本(v)と剰余価値(m)から構成されることになります。
 デューリングは、生産物の価値を「生産価値」(c+v)と「分配価値」(m)としてとらえ、「分配価値」は「資本家が彼の独占の力、彼の手にした剣の力でもぎとった貢税または価格付加分」(三六九ページ)であり、資本家の「一種の高級な労賃」(同)だというのです。
 そのうえ彼は、「商品価値は労賃によって規定される」(同)、つまり労賃が高くなると物価があがるという俗論まで主張しています。
 エンゲルスは、「価値は労賃によって規定される、と説き、それと同時に、資本家の利潤もやはり一種の高級な労賃」(同)と言いふらしているのは、「現存の資本主義的社会制度の最も俗悪なおべっかつかい」(同)と厳しく批判しています。
 資本家の手にする利潤が、生産手段を提供したことに対する高級な労賃だという俗論の誤りは、労働者が働かなくても資本家は利潤を手にしうるのかと一言問い返すだけで明らかです。労働者がいっせいにストライキをすれば、資本家はその日から一円の利潤も手にすることはできないのです。またデューリングの利潤強奪論も形式上は資本家と労働者間の合意にもとづく労働契約から剰余価値が発生している現実の前に、所詮は独りよがりの空論でしかないものです。

「生産価値論」批判

 デューリングは、「商品価値は労賃によって規定されるという命題」(同)を、労賃は「生産価値をあらわす」(同)という意味でも用いていたようです。
 そうなると理論的に新たな問題が生じてきます。
 「ある労働者がどれだけの仕事をするかということと、彼にどれだけの費用がかかるかということとが別の事柄であるのは、ある機械がどれだけの仕事をするかということと、その機械にどれだけの費用がかかるかということとが別の事柄であるのと、まったく同様である」(三六九~三七〇ページ)。
 それだけではありません。もし労賃=生産物の価値ということになれば、資本家はせっかく労働力を購入して生産をしても、一円の利潤も手にすることができないだけでなく、不変資本の価値を回収することもできなくなり、資本主義的生産をする意味がなくなってしまうのです。
 資本家が生産をするのは、生産手段と労働力を購入して生産をした場合、それらを購入するのに支払った価値以上の価値をもつ労働生産物を手にしうるからであり、それが、労働者の生みだした剰余価値にほかならないのです。
 「労働者階級は、労賃のかたちで資本家階級から支払を受けるよりも大きな価値量を、労働生産物のかたちで資本家階級に引き渡すのである。この場合には、資本利潤は……マルクスによって発見されたこの剰余価値のたんなる構成部分として説明されるのである」(三七二~三七三ページ)。
 エンゲルスは、生計維持に必要な価値量以上の価値の生産の意義一般を次のようにまとめています。
 「動物的野蛮の段階をこえての人間社会の全発展は、家族の労働がこの家族の生計の維持に必要であるよりも多くの生産物をつくりだしたその日から……始まる。……この剰余で社会的生産・予備元本が形成され、また増大してゆくことは、およそいっそうの社会的、政治的、知的な発展がおこなわれるための基礎であったし、いまでもそうである。これまでの歴史では、この元本はなんらかの特権階級の所有となっていた。そして、この所有とともに、政治的支配と精神的指導権もまたこの階級の手に帰した。きたるべき社会変革は、この社会的生産・予備元本、すなわち原料、生産用具、生活手段の総量の処分権をその特権階級から取り上げ、それらを共有財産として全社会に引き渡すことによって、はじめてそれを現実に社会的な元本にするであろう」(三七〇~三七一ページ)。
 デューリングの生産価値論は、資本主義的搾取を不能にするばかりではなく、搾取を廃止して、「それらを共有財産として全社会に引き渡す」ことにより、すべての人々が豊かな生活を営む未来社会の展望をも不可能にするものにほかなりません。

 

三、「デューリングの複雑労働」批判

単純労働と複雑労働

 デューリングは、様々な価値論の間をよろめきながら、あいかわらず持って回った言いまわしで、より不正確に規定された労働価値説に立ちもどっていきます。「経済的な物の自然的原価、したがってまたそれの絶対的価値の尺度となることのできるのは、支出された労働時間だけである」(三七五ページ)というのです。そうであれば、いままでの生産価値、分配価値の議論はなんだったのかということになります。
 しかしデューリングは、労働価値説を認めざるをえなくなっても、まだマルクスを批判しようとしています。それが「複雑労働」の問題です。
 マルクスは、先にもみたように価値を生みだす労働は、抽象的人間的労働であるとしながらも、そこには、単純労働と複雑労働の区別があるとしています。「より複雑な労働は、ただ累乗された、またはむしろ数倍された単純労働と見なされ」(三七六ページ)、同一労働時間内に単純労働より、より多くの価値を生産するのです。なおテキストでは、複雑労働が「複合労働」と訳されていますが、複合労働というと単純労働の「よせ集め」という感じがするので、『資本論』の訳である複雑労働を使用することにします。
 デューリングは、この複雑労働を否定し、あらゆる労働時間は「完全に等しい価値を持っている」(三七五ページ)と主張します。なぜなら「熟練した仕事では、個々人の個別的な労働時間に、さらに他の人々の個別的労働時間が、たとえば使用された道具のかたちで、……あずかっている」(同)からだというのです。
 さらにマルクスが「この方向に徹底できなかった」(三七六ページ)のは、「荷車引きの労働時間と建築技師の労働時間」(同)とが同等の価値をもつことを認めたくないという「有識階級の伝統的な考え方に妨げられたため」(同)だと批判しています。
 「自然的原価」だの「絶対的価値」だののたわ言は別にして、彼のいいたいことは、荷車引きと建築技師の労働時間は、「完全に等しい価値」をもっているというものです。
 マルクスが問題としているのは、価値を生みだす人間労働にも質的差が存在するということであって、複雑労働は、単純労働よりも同じ労働時間内により多くの価値を生産するというものでした。
 ところがデューリングはそれを勘違いして、複雑労働と単純労働の違いは労賃の違いであると誤解し、荷車引きの労賃と建築技師の労賃に差を設けるのは、職業で人を差別する「有識階級の伝統的な考え方」だと批判しているのです。
 ここには、まず第一に労働と労働力とを明確に区別しえないデューリングの弱点が顕著にあらわれています。
 デューリングは、労働の生みだす価値と労働力の価値とを混同し、「労働時間は、したがってまた労働そのものも、一つの価値をもっている」(三八〇ページ)と述べています。しかし、「労働はどんな価値ももつことはできない」(三八一ページ)のであって、労働の価値を論じるのは「物体の重量ではなく重さそのものの重量」(同)を論じるのに等しいのです。彼は荷車引きの労働の価値=荷車引きの労働力の価値=荷車引きの労賃という間違った論理の展開のうえにマルクスの批判をしているにすぎません。
 第二に、デューリングは、『資本論』そのものを正確に学んでいません。マルクスは『資本論』のなかで、デューリングの誤解を予想したかのように、「読者にご注意ねがいたいのは、ここでは、たとえば一労働日にたいして労働者が受け取る賃金や価値ではなく、彼の労働日が対象化されている商品価値が問題になっているのだということである」(三八〇ページ)として、「自分から用心のために釘をさしている」(同)のです。
 このように単純労働と複雑労働の区別は、商品の価値を規定する抽象的人間的労働にかんする区別であって、直接労賃に関わりのない問題です。しかし、労賃を規定する労働力の価値を考えたとき、複雑労働を生みだす労働力と単純労働を生みだす労働力とが等しい価値をもつのかといえば、そうではありません。というのも複雑労働を生みだす労働力には、その養成費、修業費が関わってくるからです。
 「一般的人間的な本性を、それが特定の労働部門における技能と熟練とに到達し、発達した独特な労働力になるように変化させるためには、特定の養成または教育が必要であり、それにはまたそれで、大なり小なりの額の商品等価物が費用としてかかる。労働力の性格がより複雑なものであるかないかの程度に応じて、その養成費も異なってくる。したがって、この修業費は、普通の労働力についてはほんのわずかでしかないとはいえ、労働力の生産のために支出される価値の枠のなかにはいっていく」(『資本論』②二九四ページ/一八六ページ)。
 高卒と学卒の初任給の違いには、合理的理由があるのです。
 要は、商品の価値を規定する単純労働と複雑労働との区別を、労働力の価値表現である労賃の差に直結し、両者を混同して考えていることが問題なのです。
 それだけではありません。デューリングも複雑労働には、「個々人の個別的な労働時間に、さらに他の人々の個別的労働時間が……あずかっている」(三七五ページ)とか、「外見上彼自身の労働時間だけが支出されているように見えるもののなかに、他の人々の労働時間がどれだけ隠されているか」(三七六ページ)などといっています。
 ということは、複雑労働のなかには、その労働者自身の単純労働に加えて、他の労働者の単純労働もそこに加わっているということになります。そうするとマルクスがいうように、「より複雑な労働は、ただ累乗された、またはむしろ数倍された単純労働」が含まれることになり、結局は、一定時間の複雑労働は、同じ時間の単純労働よりも、より多くの商品価値を生産することにならざるをえません。マルクスを批判するポーズをとりながら、マルクスの結論をそのまま承認するというデューリング流批判がここにもあらわれています。

未来社会の分配論

 デューリングが、これまであらゆる労働時間は「完全に等しい価値」をもっていると主張してきたのは、実は「彼自身の未来の経済コミューンへの、平等と正義とのきよらかな天空への、ほんとうの命がけの飛躍」(三七九ページ)をするための準備行為にほかならなかったのです。
 彼の理論によると「なるほど経済コミューンにおいても、経済的な物の価値の尺度となることのできるのは、支出された労働時間だけであるが、しかし、そのさい、各人の労働時間ははじめから完全に等しいものと見なすべきであろうし、あらゆる労働時間は、例外なく、原理上、完全に等しい価値をもっている」(同)のであり、したがって分配も完全に平等でなければならない、というのです。
 ここで問題になっているのは、未来社会の分配をどうするかという問題です。
 第一三講の唯物史観で学んだように、生産物の分配は、「なにを、どのようにして生産するか、そして生産されたものをどのようにして交換するかによってきまる」(四八三ページ)のです。
 未来社会において、社会が生産手段を掌握し、生産が真に社会的生産となるということは、生産物もすべて社会のものとなり、生産物の交換・分配も市場に委ねるのではなくて、社会が自らの手でおこなうことを意味しています。
 そこでは、「直接の社会的生産と直接の分配とがおこなわれているので、商品交換、したがってまた生産物の商品への転化(すくなくとも共同体の内部での)、それとともにまた生産物の価値への転化は、いっさい起こりえない」(五四四ページ)ことになります。
 では、価値に転化されない生産物の社会的分配はどのようにおこなわれるのでしょうか。マルクスは「ゴータ綱領批判」(全集⑲)のなかで、「いまようやく資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会」(同一九ページ)は「母胎たる旧社会の母斑をまだおびている」(同二〇ページ)のであり、労働におうじて分配される、といっています。
 つまり「個々の生産者は、彼が社会にあたえたのと正確に同じだけのものを――控除をしたうえで――返してもらう」(同)のです。それはまだブルジョア的な「不平等な権利」(同)であり、「それは労働者の不平等な個人的天分と、したがってまた不平等な給付能力を、生まれながらの特権として暗黙のうちに承認している」(同)のです。
 こういうブルジョア的制限は、「共産主義社会のより高度の段階」(同二一ページ)でようやく克服され、「各人にはその必要におうじて」(同)分配されることになります。
 したがって、デューリングのように未来社会の分配論を、一律に平等な分配とすることは、資本主義から社会主義への連続的な発展を無視した「急進的な平等社会主義」(三七九ページ)といわなければなりません。「生まれたばかりの共産主義社会」においては、複雑労働と単純労働という労働の区別におうじて分配されることになりますから、もし荷車引きと建築技師という職業的区別がそのまま残るのであれば、分配もその区別にしたがっておこなわれ、その結果労賃にもその差が生じることになるのです。
 またデューリングの未来社会が一律平等分配論を主張していることはさておくとしても、彼が未来社会において労働時間が価値をもつといっていることは、さらに問題だといわなければなりません。
 というのも、商品の価値が問題になるのは、生産の無政府性と市場における商品交換を前提とした市場経済の社会のみだからです。
 こういう社会においては、その商品にどれだけの労働時間が含まれているかを知りうるのはその商品の生産者のみであり、他の商品生産者には知りえないところから、商品交換における交換比率(交換価値)という迂回路を経て交換・分配することが必要となるのです。
 これに対して、社会が生産手段を掌握し、生産物もすべて社会が管理し、分配する社会においては、どの商品にどれだけの労働時間が含まれているかを、社会は直接に把握し、知ることができます。
 「したがって、右のような前提のもとでは、社会は生産物にどんな価値も付与しない。社会は、一〇〇平方メートルの布の生産に、たとえば一〇〇〇労働時間を要したという簡単な事実を、この布は一〇〇〇労働時間の価値をもつなどという、的はずれの、無意味な仕方で表現することはないであろう」(五四五ページ)。
 生産と分配を直接社会が支配している場合には、各商品に含まれている労働時間を社会が直接把握しうるため、価値という迂回路を通る必要は全く存在しないのです。
 もっともこのエンゲルスの見解は、計画経済と市場経済の統一した社会主義の場合には異なってくるでしょう。 この場合市場をつうじて商品交換がおこなわれるので、価値もそのまま存続することになります。しかし市場経済の存続の問題と、労働力までもが商品として市場での取引にまかされることになるのかどうかの問題とは、また別個の問題といわなければなりません。計画経済のもとで、労働者が社会の手により、社会的分業におうじて配置されることになれば、もはや労働力は商品にはなりえませんが、労働者に職業選択の自由が保障され、労働市場をつうじて自由に取引されることになれば、労働力も商品として存続することになります。
 要するに、社会主義市場経済という体制が、労働者をも市場取引に委ねるのかどうか、労働市場というものを存続させるのかどうかによって、結論は異なってくるということになるでしょう。