『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』より

 

 

第一九講 社会主義③
     社会主義とは何か(経済篇)

 

一、科学的社会主義の社会主義論

 順序が逆になってしまいましたが、第二章「理論的概説」の科学的社会主義の「社会主義論」に入っていくことにします。
 マルクス、エンゲルスの創始した科学的社会主義の学説は、その名称からしても、資本主義の基本矛盾の解明にとどまらず、その矛盾を止揚した社会主義への移行の必然性を示すものです。それからすると、社会主義の全体像について包括的に記述した著作が多数存在するものと思われるかもしれませんが、意外に少ないのです。
 第一講でもお話ししたように、科学的社会主義の主著ともいうべきマルクスの『資本論』では、資本主義の運動法則の解明はなされてはいるものの、肝心の社会主義論は全面的に展開される以前に筆は中断されており、各所に数行程度の社会主義に関する記述が――重要な示唆を含むものではありますが――散見されるにとどまっているのです。
 マルクス、エンゲルスのぼう大な全著作のなかで、もっとも基本的な社会主義論を、しかも包括的に論じたものは、『反デューリング論』又は『空想から科学へ』ということになるでしょう。
 「包括的に」といったのは、第九講の史的唯物論の定式化に学んだように、社会主義社会の土台となる経済的諸関係と、上部構造としての政治、国家の諸関係をあわせて論じているからです。
 本著の四八八ページ以下の社会主義論は、ある意味で『資本論』を補完するものであり、科学的社会主義における社会主義論の白眉ともいうべきものです。
 二〇世紀の様々な社会主義の実験は、本著の社会主義論をふまえながら展開され、栄光と挫折の歴史を刻んだものとなりました。
 いまわたしたちが、二一世紀の真にあるべき社会主義を展望するにあたって、二〇世紀の社会主義の諸実験にも学びながら、あらためて本著の社会主義論という原点に立ち戻って考えることが求められているのではないでしょうか。
 一九、二〇講で「社会主義とは何か」を学んでいくことにします。一九講では社会主義の経済的諸関係、二〇講では政治的諸関係と国家論を学んでいくことにしましょう。

 

二、生産手段の社会化

基本矛盾の解決としての社会主義

 資本主義の本質は、剰余価値の生産をその推進的動機とすること、つまり利潤第一主義にあります。エンゲルスは、「科学的社会主義は、この解決とともに始まり、この解決を中心として成立している」(三八七ページ)とのべています。
 この資本主義の本質は、それ自体は矛盾ではありません。しかし、この本質から第一七講でお話ししたように、「社会的生産と資本主義的取得との矛盾」という基本矛盾が生まれてきます。
 資本主義は、利潤第一主義の本質から、より多くの利潤を求めて、生産力の発展と資本蓄積を競い合い、資本の集中を高めて生産を社会的なものにしていきます。しかし、生産力の発展と資本の蓄積、集中は、あくまで利潤追求のためでしかありませんから、生産は社会的になったにもかかわらず、その生産物は資本家の個人的取得になっていて、生産者である労働者は生産物について何の発言権も持っていないのです。
 では、この利潤第一主義を解決するにはどうすればよいのでしょうか。その解決は、「社会的生産」そのものに含まれる矛盾の解決にあります。
 一七講でお話ししたように、資本主義的生産様式のもとにおける「社会的生産」とは、生産手段が巨大化し、それが何千、何万人の労働者の手によって動かされ、集積された労働力の産物として生産物が誕生するという、生産の「内容」に注目して規定されたものでした。
 しかしその「形式」をみてみると、小経営のときと同様に、巨大化した生産手段が資本家の個人的所有となっているために、あくまで資本家の手によって計画され、準備され、実行された「個人的生産」にとどまっており、その結果生産物も「資本主義的取得」となっているのです。
 いわば、「社会的生産と個人的取得の矛盾」を生みだすものは、より分析的に言えば、「内容上の社会的生産と形式上の個人的生産の矛盾」ということができます。
 したがって、資本主義の基本矛盾を解決するものとしての社会主義とは、この「内容上の社会的生産と形式上の個人的生産の矛盾」の解決でなければなりません。

生産手段の社会化とは何か

 その解決をもたらすものが、「生産手段の社会化」です。生産手段の社会化により、巨大化した生産手段のもとでの生産は、形式、内容ともに「社会的生産」となり、その結果生産物も「社会的取得」として実現されることになります。ここに「社会的生産と社会的取得」の社会主義が誕生することになるのです。
 一言注意しておくと、ここで問題となっているのは、あくまで巨大化した、何千、何万の労働者を必要とする生産手段を社会化することであって、小農民の農耕、都市の手工業者などの個人的生産にかかわる生産手段までの社会化を問題としているのではない、ということです。したがって生産手段の社会化は、直ちに農業的生産手段である土地のすべてを社会化したり、すべての工業的生産手段の社会化を意味するものではありません。
 では、本題に戻って、「社会的生産と社会的取得」を実現するための、「生産手段の社会化」とは何を意味するのでしょうか。
 まず第一に、生産手段の社会化の形態の問題です。そもそも生産手段を社会化すべき理由には、二つのものがあると思われます。
 一つには、エンゲルスが主張しているように、生産手段が巨大化し、生産も社会的になっているために、それを社会化すべきという場合です。
 もう一つは、生産手段の巨大化もさることながら、その生産手段が公共サービスとしての性格をもっているために社会化すべきだという場合です。金融、通信、交通運輸、教育、福祉、医療、年金、防災、救急などの分野における生産手段がそれに該当します。
 エンゲルスは、生産手段の社会化について「国家的所有に転化する」(五〇一ページ)といったり、「社会がいっさいの生産手段を掌握する」(五〇二ページ)といったりしています。ここには、生産手段の社会化のこの二つの側面があらわれているように思われます。
 生産手段の社会化には、国有化、協同組合化、その他の集団化など、様々の形態が考えられますが、公共サービスの生産手段の場合は、高い公共性をもち統一した理念のもとに所有、管理、運営されなければならないので、社会化の形態として「国有化」がもっともふさわしいということができます。
 しかし、物質的財貨の生産にかかわる生産手段の場合は、その社会化の形態よりも、以下に述べるように社会化の内容が問題になってくるのであって、その形態は条件に応じて多様なものとなりうるでしょう。
 第二に、生産手段の社会化では、誰が生産手段を所有するのかという所有の形式よりも、労働者が生産の主役として、自由な意志で結合する労働になることへの転換という内容が問題となるのです。
 マルクスは『資本論』において、資本主義的生産様式では、「資本のもとへの労働の実質的包摂が現われ」(前掲書③八七四ページ/五三三ページ)、資本家は機械をつうじて「自分の労働者にたいする自分の専制支配」(同七三三ページ/四四七ページ)を確立するといっています。こういう機械による労働者の専制支配を打破し、労働者が生産の主役となるところに、生産手段の社会化の意義があるのです。
 未来社会は「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つのアソシエーション」(『共産党宣言』全集④四九六ページ)とか「共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体」(『資本論』①一三三ページ/九二ページ)と規定されています。
 英語で「共同する」又は「結合する」に相当する言葉としてコンバイン(combine)とアソシエイト(asociate)とがあります。マルクスは、生産手段の下で「共同する」労働を二つに区別し、資本の指揮のもとに強制的に結合されている労働を「コンバインドな労働」とよび、これに対し社会化された生産手段のもとにおける自由に結合した労働を「アソシエイティッドな労働」とよびました。
 マルクスの使用する「アソシエーション」は、ルソーの『社会契約論』に由来しています。ルソーは、そのなかで真にあるべき国家を社会契約にもとづく人民主権国家と考え、それを「結合(アソシエーション)の一形式」ととらえたのです。
 「『各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて守り保護するような、の一形式を見出すこと。そうしてそれによって各人が、すべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること。』これこそ根本的な問題であり、社会契約がそれに解決を与える」(桑原武夫訳『社会契約論』二九ページ、岩波文庫)。
 マルクスは、ヘーゲル『法の哲学』を批判するにあたって、ルソーの『社会契約論』を研究し、詳細な抜き書きノートを作成しています(「クロイツナハ・ノート」『新メガ』第四部門第二巻)。
 その研究をつうじて、ルソーの人民主権国家が、各構成員の自由で平等な、支配・従属関係にはないアソシエーションであることを理解し、このアソシエーションをもって未来社会の真にあるべき姿としてとらえたのです。
 その頃マルクスの執筆した「ユダヤ人問題によせて」(全集①)のなかで人民主権国家とは何かに関する『社会契約論』の文章を引用しつつ、これを「正しい」(同四〇六ページ)として、次のように述べています。
 「現実の個別的人間が、抽象的公民を自分のうちにとりもどし、個別的人間のままでありながら、その経験的な生活において、その個人的な労働において、その個人的な関係において、類的存在となったときにはじめて、つまり人間が自分の『固有の力』を社会的な力として認識し組織し、したがって社会的な力をもはや政治的な力の形で自分から切りはなさないときにはじめて、そのときにはじめて、人間的解放は完成されたことになるのである」(同四〇七ページ)。
 マルクスのとらえるアソシエーションとは、個人と国家・社会とが一体不可分となり、治者と被治者の同一性の実現される人民主権国家であり、それが人間解放の社会だというのです。
 いわば、マルクスは、未来社会としてのアソシエーションを、ルソーのいう人民の人民による人民のための、人民主権の社会と考えたのであり、ここにもルソーを科学的社会主義の源泉としてとらえる根拠があるように思います。マルクスにとって生産手段の社会化とは、誰が生産手段を所有、管理、運営するのかという人と物との関係というよりも、人と人との間の自由な関係であることを強調したかったのだと思われます。
 第三に、したがって物質的財貨の生産にかかわる生産手段の社会化の形態は、国有化、協同組合化、共同化などその集団化の形態がどのようなものであろうとも、そこでは生産者が生産、交換、分配の主役となり、生産者たちの自由なアソシエーションが実現されなければなりません。
 この点に関し、国有化のもつ一つの問題点が歴史的に明らかになりつつあります。
 例えばソ連では、ソ連共産党の一党支配体制のもとで、党官僚が国家機関および国有企業を一手に掌握して支配することになりました。そのため、生産手段は国有化されたものの、自由な生産者たちのアソシエーションは実現されることなく、国有化がかえって官僚主義・専制主義を生みだす一つの要因に転化してしまったのです。
 このソ連型の国有化による官僚支配に反対し、マルクスの「自由で平等な生産者のアソシエーション」(全集⑯一九四ページ)を手がかりに、「自由な生産者のアソシエーション」をスローガンとして、独自の社会主義への道を歩もうとしたのが旧ユーゴスラヴィアでした。マルクスのアソシエーションに最初に注目し、これを官僚支配に反対するスローガンとして明確に打ちだした功績は高く評価されるべきものです。ユーゴスラヴィアは、スターリンの言いなりにならなかったところから、一九四八年コミンフォルムから破門され、「自主管理社会主義」の路線を確立していきます。チトーと並ぶユーゴの社会主義建設の理論的指導者であったカルデリは、ソ連の生産手段の国有化には、次のような問題があることを指摘しています。
 生産手段の国有化が「個々の労働者または労働集団と切り離して、それ自体で社会的資本」(『自主管理社会主義と非同盟』五八ページ、大月書店)としてとらえられることになると、労働者の生みだした剰余生産物は、「すべて『他人のもの』すなわち『社会のもの』」(同)となってしまい、「労働者を、労働力の価格を国家が決める国家の賃労働者に押し下げてしまう」(同五八~五九ページ)というのです。これでは資本主義社会における資本家が国家にとってかわるだけになってしまいます。
 こうしてユーゴでは、ソ連における生産手段の国有化は党官僚による人民の支配という官僚的経済システムを生み出したとしてこれを否定し、「自由な生産者のアソシエーション」(同四ページ)を実現するには、徹底した労働者による自主管理が必要だとして、企業を生産者たちの自主的管理に委ねるという形態で、生産手段の社会化を実現しようとしたのです。
 ここには、生産手段の国有化のもたらす一つの負の側面に対するアンチテーゼがみられます。この点からも、ユーゴの「自主管理社会主義」は、生産手段の社会化とは何かを考えるうえで、もっと研究されるべき内容を含んでいるものと思われます。
 第四に、「生産手段の社会化」とは、生産の無政府性を排して、生産・交換・分配を組織し、「人間をとりまく生活諸条件の全範囲が、いまや人間の支配と統制に服する」(五〇六ページ)ことを意味しています。
 いわば、これまで人間に対立してきた経済的諸法則が、人間自身の自由自在の統制に服することになるのです。エンゲルスは、「人間は、自分自身の社会的結合の主人となるからこそ、またそうなることによって、いまやはじめて自然の意識的な、本当の主人となる」(同)と述べ、これを「必然の国から自由の国への人類の飛躍である」(同)と呼びました。
 人間が経済をコントロールすることは、直ちに中央集権的な計画経済を意味するものではありません。なるほど生産・交換・分配を組織するうえで、国家による計画経済は欠かすことはできませんが、同時に市場経済には、市場経済独特の法則がありますので、その法則を生かしながら、計画経済でコントロールしていく必要があるのです。
 すなわち、市場には、市場価格の変動をつうじて需要と供給を調節し、生産物を社会的に適正に配分する機能があります。したがって、この法則性を生かしながら、国民が必要としているものを必要なだけ生産する中央の生産計画が樹立されなければなりません。また、市場はその競争原理をつうじて高くて品質の悪いものは淘汰しますので、技術革新と生産性向上の機能ももっています。反面、市場での競争の強制法則は、資本の集中と弱肉強食、貧富の格差拡大をもたらします。
 こうした市場の持つ弊害をとり除きながら、市場原理をいかしていくところに、計画経済の意義があるのです。
 レーニンは、死亡する直前、これまでの中央集権的計画経済をあらため、「新経済政策(ネップ)」を採用し、計画経済と市場経済の統一を実現しようとしました。これは今日の中国やベトナムの社会主義市場経済のさきがけともいえるものでした。しかしレーニンの死後、スターリンによってネップは放棄され、再び中央集権的計画経済に逆戻りしてしまったのです。
 もうひとつ重要なことは、社会生活を営むうえで本来市場原理になじまない分野があります。先に指摘した国有化の対象とすべきもののうち、教育、医療、福祉などは、人間の尊厳にかかわる問題であって、そもそも競争原理になじまないから、国有化されるべきなのです。ところが、「新自由主義」のもとで、これらの分野まで利潤第一主義の対象にされてきています。因みにマイケル・ムーア監督の「シッコ」は、アメリカの医療における利潤第一主義を痛烈に告発して話題となりました。
 社会主義のもとで、これらの分野が市場原理の対象外とされ、国家的管理のもとにおかれるのは当然のことと言わなければなりません。

 

三、資本主義的諸矛盾の解決としての社会主義

搾取と階級の廃止

 エンゲルスは、「社会的生産と資本主義的取得」の基本矛盾が、さらに三つの小矛盾として展開されることを明らかにしました。
 生産手段の社会化により、資本主義の基本矛盾を解決して「社会的生産と社会的取得」を実現することは、資本主義的小矛盾をも解決することになりますので、以下それを見ていくことにしましょう。
 第一は、「生産手段の社会化」によるプロレタリアートとブルジョアジーとの対立の解消です。
 「諸階級または諸身分への社会の区分は、なにを、どのようにして生産するか、そして生産されたものをどのようにして交換するかによってきまるという命題である」(四八三ページ)。
 資本主義的生産様式では、生産手段を資本家が所有することによって、労働者の生産した剰余価値を一人占めにするところから、ブルジョアジーとプロレタリアートとの対立する階級が産出されてきます。
 これに対し、生産手段が社会化されることにより、生産物も社会的所有となる社会主義社会においては、もはやブルジョアジーは存在しなくなります。これにより、搾取と階級のない社会を建設する土台がつくられることになります。
 しかし、そのことは直ちに搾取と階級が消滅することを意味するものではありません。ソ連では、生産手段の国有化により、生産物もいったんすべて国家が取得するものとされ、労働者は国家公務員として一定の賃金をもらうという中央集権的国家経済の様式をとりました。国有企業の管理部門は、党官僚によって独占され、ここにテクノクラートとよばれる新しい支配階級が登場することになったのです。テクノクラートは、特権的生活を享受する反面、労働者の生産した剰余生産物の大半を、遅れた農業国から重化学工業国に脱皮するための設備投資にふり向け、国民のくらしを守ることは二の次としました。特にアメリカとの軍事対決の立場から、巨大な軍産複合体制が築かれ、軍事費が全予算の四分の一を占める無駄づかいがおこなわれたのです。
 こうしてソ連経済のもとでは、生産力の一定の発展にもかかわらず、生活必需品の不足が常態化し、国民の豊かな生活を実現することはできませんでした。
 こういうソ連型の中央集権的経済に反対したのが、ユーゴスラヴィアの「自主管理社会主義」でした。
 ソ連でその社会主義の実態を学んだカルデリは、次のようにいっています。
 「国家的、集団的または協同組合的所有といった古典的な経済的・法的所有範疇で表現される社会的所有の諸形態は、……それ自体ではまだ社会的資本からの労働者の疎外のあらゆる形態の終焉を意味するものでもなく、また労働者階級と基礎的勤労者層一般を社会の一部分が操作するあらゆる条件と可能性を自動的に廃止するものでもない」(前掲書二〇ページ、大月書店)。
 こうして、自主管理社会主義では労働者が労働者評議会をつうじて企業の主役になると同時に、生産物は企業が取得し、市場を通じて交換されるという土台がつくられました。経済・社会計画も、こうした企業から出発し、地域共同体、共和国、連邦へと下から上へつみあげられていくことになったのです。

社会主義的計画経済と市場経済の統一

 第二は、「個々の工場内における生産の組織化と全体としての社会における生産の無政府状態との対立」という矛盾の解決です。
 エンゲルスは、生産手段の社会化によって生産の無政府状態が解消され、「計画的、意識的な組織」(五〇五ページ)が現れれば、もはや「商品生産は排除され」(同)、商品交換のための市場も不要となる、またそうなれば、労働者は「商品としての地位から解放」(三八一ページ)され、「労働はどんな価値ももつことができない」(同)ことになると考えていました。
 しかし、これまでの歴史的経験では、社会主義になっても商品生産と市場経済は簡単にはなくせないということが一つの教訓となったのです。
 世界で最初に社会主義への道を歩みはじめたソ連では、エンゲルスの考えをうけつぎ、生産手段を国有化すると同時に中央集権的計画経済(指令経済)システムを採用しました。指令経済をおこなう中央機関として国家計画委員会(ゴスプラン)が設立され、資源・原材料の流れを計画的に決定する中央機関として国家供給委員会(ゴススナブ)が設立されました。すべての計画は、これらの機関からの指令として発せられました。しかしこの指令経済を実施してみると、様々の問題が生じてきました。
 そこでは、「何をどれだけ」というもっぱら数量による目標が定められたところから「量的生産第一主義」となり、例えば次のような状況が生じてきました。ある冶金工場で水力発電用に、新しい、より改善された発電機を開発したところ、従来のものより三百トン軽く、六千キロワット強力になりました。しかし工場の総生産高目標は、トン数で定められていたために、強力で軽いその発電機は、以前の性能の悪い発電機よりも安くなって、工場は損をしたというのです。さらに総生産高指標を追求していくと、目標達成のために膨大な資材を工場がかかえ込むことになり、また資源のムダ使いで目標の数量を達成しようとする非効率的生産が行われることになったのです(聴涛弘著『二一世紀と社会主義』二一一ページ以下、新日本出版社)。
 また、この欠陥をなくそうとして、「総生産高」という量的指標に加え、質を考慮した指標や原価をさげるための指標等と、さまざまの指標がつけ加わり、最後には数えきれないほどの指標になってしまい、企業はがんじがらめになって身動きがとれなくなってしまった、というのです(同二一五ページ)。
 結局、品質のいいものを、効率よく生産し、かつ「何をどれだけ」生産するかという計画を定めるにあたっては、市場原理を考慮せざるをえないということが、歴史的教訓として明らかになったのです。
 したがって、重要なことは、市場原理を生かしながら、市場の暴走をコントロールしつつ、生産・交換・分配を社会的に支配するという、社会主義計画経済と市場経済の統一が求められているということです。この点でも経済学は「本質上一つの歴史的科学」(二九八ページ)であることが証明されたのです。それを実現するうえで、決定的役割を持つのが労働組合です。人民が主人公となる社会主義社会では、治者と被治者の同一性が実現されなければなりません。そのためには、国家と人民との間を日常的に媒介する中間団体としての労働組合の役割が決定的に重要となってきます。
 個々の労働組合は、生産の現場において、労働者=生産者=消費者の要求を把握し、これを積みあげて、ナショナル・センターの経済要求にまとめ、それを国家に対する経済的要求として提出します。社会主義国家はこれをもとに生産・交換・分配計画を確立し、その計画が労働組合が主体となる各企業のもとで実施され、生産物は、社会的控除分を除いて企業が取得し、市場で販売されます。市場での競争をつうじて商品は淘汰され、それがまた労働組合をつうじて掌握され、次年度の計画に反映されることになります。
 要するに、労働組合を媒介に下から上へ、上から下へという循環型の経済活動をつうじて計画経済と市場経済の統一が実現されるのではないでしょうか。
 中央集権型経済システムを歩んだソ連が、経済的にも行き詰まり、またソ連と同様の道を歩んだ中国、ベトナムが社会主義市場経済をめざしているところにも、計画経済と市場経済の統一にこそ真理があることが示されています。

生産と消費、富と貧困の対立の解決

 第三は、「生産と消費の矛盾、その暴力的解決としての恐慌」の解決です。
 資本主義的生産様式のもとで、生産力は飛躍的に発展しますが、産業予備軍の存在が重しとなって、労働者の賃金は価値以下に抑えられ、消費力は生産力に見合った発展をとげることはできません。フーリエのいう「過剰が困窮と欠乏の源泉となる」(四九六ページ)のです。
 しかし、生産手段の社会化により搾取がなくなり、生産者=消費者が主役となれば、生産力の発展に見合った分配が実施され、消費力も発展し、社会から貧困をなくすことができるようになります。生産と消費、富と貧困の対立・矛盾は、社会主義的な計画経済と市場経済の統一のもとにおいてのみ、基本的に解決されることになるのです。
 この矛盾の解決により、資本主義の「固有の病」であった恐慌も消滅することになります。一九二九年の世界大恐慌は、資本主義諸国全体をまき込む空前の規模に達しました。そのなかにあって、ソ連は計画経済の優位性を発揮して、この影響を受けずにすんだのです。現在のようなIT革命のもとにあっては、情報の集中的管理による計画経済の優位性は更に増大しているといえるでしょう。
 計画経済と市場経済の統一をつうじて実現されるべきものは、社会と人民が必要としているものを必要なだけ生産し、それを労働に応じて適正に分配することにあります。
 しかし、これまでの社会主義の実験をみても、まだ人類史的にこうした目標が達成され、人民の等しく豊かな生活を実現する真にあるべき社会主義が誕生したということはできません。
 「新自由主義の実験場」といわれた中南米で、貧富の対立が極限にまで達したことを反映し、新自由主義反対、貧困撲滅をかかげて、一連の民主主義革命が生じました。民主主義革命が発展するなかで、ベネズエラ、エクアドル、ボリビアなどで社会主義革命に前進しようとする動きが表面化し、いまや中南米は「二一世紀の社会主義の実験場」といわれるようになってきました。
 これらの諸国では、ソ連や東欧は社会主義国ではなかったとして、社会主義の本来の姿を復興させる「社会主義のルネッサンス」を唱えています。
 これらの「二一世紀の社会主義」の実験が、貧困と格差の問題を解決し、真にあるべき社会主義の建設につながっていくのかどうか、注目しておく必要があるでしょう。

 

四、真にあるべき社会主義

 こうしてみてくると、エンゲルスが資本主義の基本矛盾を「社会的生産と資本主義的取得」と規定したことは、真にあるべき社会主義を展望するうえで、巨大な意義をもっているということができます。
 もちろん二〇世紀の社会主義の実験という今日的到達点に立ってふり返ってみるとき、百三十年も前のエンゲルスの社会主義論の記述にいくつか補正すべきものがあるのは、当然のことと言っていいでしょう。しかし、資本主義的生産様式の基本矛盾をしっかり押さえているために、真にあるべき社会主義の理念もまた明らかにされていて、現在でも尚それに学ぶべき多くのものが含まれているのです。
 新自由主義のもとで全世界的に貧富の矛盾が極限にまで拡大している今日、二〇世紀の社会主義の実験をふまえて、二一世紀がこれまでの誤った社会主義のイメージから脱却し、真にあるべき社会主義に向って世界的規模で前進していく世紀となることは間違いないものと思われます。
 それだけに、『反デューリング論』の示す真にあるべき社会主義像は、もっと研究に値する課題だろうと考える次第です。