『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』より

 

 

第二〇講 社会主義④
     社会主義とは何か(政治・国家篇)

 

一、社会主義の政治と国家

 いよいよ最終講となりました。今回は、真にあるべき社会主義とは何か、の問題を、政治と国家の視点でみていくことにしましょう。この問題は、二一世紀の社会主義を考えるにあたって、ある意味で社会主義の経済的諸関係よりも重要であるといえるかも知れません。
 一九一七年のロシア革命によるソ連の誕生は、世界中の労働者、被抑圧人民を熱狂させました。新生ソ連はブルジョア民主主義の枠組みを打破り、自由と民主主義の新境地を切りひらくことで、全世界の人民を驚喜させたのです。しかしその後ソ連は大きく変貌して人民抑圧国家に転化し、社会主義とは無縁の存在となりました。そして一九八九年のベルリンの壁の崩壊にはじまったソ連・東欧の崩壊もまた、自由と民主主義を求める人民の奔流のような動きによるものだったのです。
 確かにソ連・東欧の経済政策に問題があったことは事実ですが、それ以上に、政治の問題は、人民にとって切実な課題でした。
 ソ連、東欧における自由と民主主義が、どのような変遷をとげたのか、また何故その変化が生じたのかの解明なくして、二一世紀の社会主義を論じることはできないと思われます。
 こうした問題意識をもって、以下検討していくことにしましょう。

 

二、プロレタリアートの執権

労働者階級の政党

 第四講で、「これまでのすべての歴史は、原始状態を別とすれば、階級闘争の歴史であったこと」(二九四ページ)を学びました。
 では労働者階級が、ブルジョアジーとの階級闘争に勝利するためには何が必要でしょうか。そのためには個々の労働者がその階級的利益の実現をめざして、一つの階級に自らを組織し、かつ団結しなければなりません。
 では、どうすれば、自らを階級に組織することができるのでしょうか。それには労働者階級の独自の政党を組織し、この政党に労働者を結集することで、労働者は階級として組織されるのです。
 マルクスの指導のもとに創立された第一インターナショナルは、一八七一年「労働者階級の政治活動」として、次のような決議をしています。
 「労働者階級が有産階級のこの集合権力に対抗して階級として行動できるのは、有産階級によってつくられたすべての旧来の党から区別され、それに対立する政党に自分自身を組織する場合だけであること、労働者階級をこのように政党に組織することは、社会革命とその終局目標――階級の廃止――との勝利を確保するために不可欠であること」(全集⑰三九五ページ)。
 労働者階級は、その政党を中心として階級闘争を発展させ、ブルジョアジーに打ち勝って政治権力を獲得し、社会主義に向って前進することになります。
 一方では普通選挙権と議会制民主主義が一般的となっており、他方で国家独占資本主義の現代において、階級闘争の中心は政治闘争です。国家と独占資本とは、国家独占資本主義として一体化しているので、経済闘争も政治闘争に結合してくるのです。政治闘争の集中的表現が政党間で争われる選挙闘争です。労働者階級は、選挙をつうじて議会の多数派を形成し、議会と政府を握って政治権力を手にすることになります。
 この資本主義から社会主義・共産主義への過渡期に、科学的社会主義の学説には、「プロレタリアートの執権」というカテゴリーが登場してきます。

プロレタリアートの執権

 「資本主義社会と共産主義社会とのあいだには、前者から後者への革命的転化の時期がある。この時期に照応してまた政治上の過渡期がある。この時期の国家は、プロレタリアートの革命的執権以外のなにものでもありえない」(「ゴータ綱領批判」全集⑲二八~二九ページ)。
 マルクスのプロレタリアート執権論は、パリ・コミューンの経験を反映してより具体的なものとなります。
 エンゲルスは、「『フランスにおける内乱』の序文」(全集⑰)において執権とは何かの疑問に答え、「パリ・コミューンをみたまえ。あれがプロレタリアートの執権だったのだ」(同五九六ページ)と述べています。
 パリ・コミューンとは、一八七一年パリに樹立された歴史上最初の労働者階級の権力でした。これは「労働者階級が社会的主動性を発揮する能力をもった唯一の階級であることが、……パリの中間階級の大多数――小店主、手工業者、商人――によってさえ、公然と承認された最初の革命」(同三二〇ページ)でした。
 マルクスは、労働者階級が中間階級の導き手となって「真に国民的な政府」(同三二三ページ)を実現したことをもって、「労働の経済的解放をなしとげるための、ついに発見された政治形態」(同三一九ページ)、つまりプロレタリアートの執権だととらえたのです。
 プロレタリアートの執権が、労働者階級を導き手とした、人民の人民による人民のための権力を意味することは、『反デューリング論』の次の文章にも現われています。
 すなわち「プロレタリアートは国家権力を掌握」(同五〇一ページ)することによって、「国家が真に全社会の代表者として現われ」(五〇二ページ)るのです。「真に全社会の代表」とは全人民を代表する人民による人民のための権力を意味しています。またゴータ綱領に示された「自由な人民国家」という文句は、国家が階級支配の機関としてある限り人民は自由ではありえないという意味で問題をもっているものの、プロレタリアート執権の国家は、人民が主人公となり、人民の自由なアソシエーションを意味していることからすれば、「扇動の見地からみて一時的な正当性をもっている」(同)とされているのです。
 結局、プロレタリアート執権とは、労働者階級の政党(科学的社会主義の政党)が導き手となって実現される、人民の人民による人民のための権力という「真に民主主義的な国家権力」(全集⑰五九五ページ)を意味しているのです。

科学的社会主義の国家論

 ここで、科学的社会主義の国家論を整理し、真にあるべき社会主義国家についてみておきましょう。
 第九講でお話ししたように、「国家とは、その全構成員の共同利益を実現する仮象をもちつつ、一方で支配階級の利益を擁護するとともに、他方で被支配階級を抑圧するという本質を持つ、搾取する階級の階級支配の機関」です。階級社会における国家は、階級支配の機関という本質から、被支配階級を抑圧するための強力装置としての警察、軍隊、裁判所、監獄などを不可欠のものとしてもっています。
 しかし、プロレタリアートが国家権力を掌握したときから、「あらゆる階級区別と階級対立を揚棄し、そうすることでまた国家としての国家をも揚棄する」(五〇一ページ)ことになります。
 どういう意味でこれまでの国家を揚棄するのかといえば、階級支配の機関から、「ほんとうに全社会の代表者」(五〇二ページ)となり、国家は、名実ともに全構成員の共同利益を実現する存在となるのです。
 そうなれば、もはや強力装置も必要なくなり、「人にたいする統治に代わって、物の管理と生産過程の指揮とが現われ」(同)、従来の意味の国家は「死滅する」(同)のです。
 エンゲルスは、真にあるべき社会の国家について、「国家というかわりに、どこでも共同社会(Gemeinwesen)ということばをつかうように提議したい」(全集⑲七ページ)といっています。
 国家という名の共同社会の任務は、経済面では生産、交換、分配の管理をおこない、政治面では「社会の全員にたいして、物質的に完全にみちたりて日ましに豊かになってゆく生活というだけでなく、さらに彼らの肉体的および精神的素質が完全に自由に伸ばされ発揮」(五〇五ページ)される政治を実現することにあります。
 人間の本質は、自由な意志と共同社会性にあります(拙著『人間解放の哲学』学習の友社)。ここから自由と民主主義は、人間の本質的欲求となってあらわれます。
 しかし、資本主義社会のもとで、資本家による搾取と階級支配、国家による階級的抑圧のもとで、この人間の本質は疎外されます。社会主義は、この人間疎外からの解放、人間解放を意味しています。生産者たちの自由なアソシエーションという真の共同体のもとで、人間の「肉体的および精神的素質が完全に自由に伸ばされ発揮される」ことになるのです。
 自由と民主主義は、対立物の相互浸透の関係にあり、自由が民主主義を実現し、民主主義が自由を生みだします。
 マルクスは「ほんとうの共同態において諸個人は彼らの連帯のなかで、またこの連帯をとおして同時に彼らの自由を手に入れる」(全集③七〇ページ)といっています。

 

三、社会主義国家と自由・民主主義

ソ連の切りひらいた自由と民主主義の新境地

 マルクス、エンゲルスの科学的社会主義を学んだレーニンは、その階級闘争論をロシアの現状に適用して、一九一七年ロシア革命を成功させ、社会主義への道を歩みはじめました。
 革命政府は、「平和についての布告」、「ロシア諸民族の権利」、「勤労し搾取されている人民の権利」などの権利宣言を、革命の直後から次々に発表し、全世界の労働者と被抑圧人民から熱狂的な歓迎を受けました。そこには、これまでのどの資本主義国にもみられない、ブルジョア民主主義の枠組みを大きく越える自由と民主主義の発展があったからです。
 一つには、人類史上はじめて「人間による人間のあらゆる搾取の廃止」が宣言されました。生産手段は国有化され、あらゆる搾取の廃止がめざされたのです。
 二つには、人類史上はじめて社会権が人権として規定され、「生存の自由」が保障されることになりました。労働の権利と休息の権利の保障(八時間労働日の制定、年次有給休暇の制定等)、国の負担による社会保障制度の確立、勤労者に対する医療の無料提供、教育を受ける権利の保障(あらゆる教育の無料制)、男女平等、母子の保護などの規定は、当時の資本主義諸国からすれば、どれをとっても信じられないような画期的な権利であり、二一世紀の日本においてもなお新鮮な輝きを示しています。 
 ソ連の人権宣言は、社会主義の優位性を誰の目にも明らかにするものであり、全世界の資本主義国に激震を与えました。ソ連憲法の翌年にドイツで制定されたワイマール憲法は、その後の資本主義国の憲法のモデルとなったものです。ソ連憲法の水準に近づこうとして、労働の権利や生存権を規定していましたが、資本主義国家の限界からこれらの社会権はあくまで立法の指針のみを示した仮象にとどまりました。
 一九六六年国連総会で採択された「国際人権規約」は、A規約とB規約に分かれており、A規約は社会権、B規約は自由権を規定しています。ソ連憲法の切りひらいた社会権は、いまや何人も否定しえない基本的人権の一つとなったのです。
 三つには、「民族の自由」としての民族自決権の承認です。
 それまでは、資本主義国が植民地・従属国を支配するのは当然の権利だと考えられていました。これに対し、レーニンが打ちたてた民族自決権の承認は、すべての民族が、植民地・従属国の地位から抜け出し、独立した国家をつくることを当然の権利と認めるにとどまらず、ポーランド、フィンランド、バルト三国の独立を承認し、アフガニスタン、ペルシア、中国などに対して、ロシア帝国が略奪した領土を返還したのです。これによって、国際的な民族解放運動は、一挙に高揚することになりました。
 二〇世紀初頭には、実質的独立国は二〇ヶ国しか存在せず、アジア、アフリカ、ラテンアメリカを中心に世界の三分の二の国が、植民地・従属国として民族的抑圧に苦しんでいました。しかし現在その大半が独立国となり、国連加盟の独立国は一九二ヶ国に達しています。
 今では国際人権規約A規約の第一条に、「すべての人民は、自決の権利を有する」と明記され、植民地を領有する事自体が国際法違反の不法行為として批判されるようになったのです。
 四つには、国際紛争の平和的解決の原則という民主的ルールへの道を切りひらいたことです。
 ロシア革命は、第一次大戦のなかから誕生したのですが、レーニンは、革命勝利の翌日「平和についての布告」を発表し、全交戦国に、無併合、無賠償の即時講和による平和の実現を唱えて、世界中の戦争当事国を驚かせました。それまでは戦勝国が敗戦国から領土を奪いとり、賠償金を請求するという帝国主義戦争が国際的常識とされていたのです。この「平和についての布告」において、併合・賠償の帝国主義戦争を違法視する考えが、歴史上はじめて登場することになりました。
 さらにレーニンはロシア革命への干渉戦争の終了後は、平和共存をかかげて多国間の軍縮交渉をリードしました。これが一つの契機となり、一九二八年当時の独立国のほとんど全部が参加して、「不戦条約」が締結されるに至ります。ここでは紛争解決の手段として戦争に訴えることを違法であると規定されました。この条約の最初の批准国がソ連でした。
 この紛争の平和的解決の原則は、国連憲章として定着し、もはや世界のどの国も否定しえない国際法規の大原則となっているのです。
 日本国憲法がこの原則をさらに一歩押しすすめ、非軍事・平和の原則を確立していることはご承知のとおりです。
 以上四つの点について、ソ連が自由と民主主義の発展に貢献した人類史的役割を見てきましたが、二一世紀の今日、最初の搾取の廃止をのぞく三つの原則は、国際法上の確立された原則として承認されており、自由と民主主義の問題における社会主義の体制的優位性を示すものとなっています。ここにも科学的社会主義の学説が、フランス革命の正統な後継者であり、自由と民主主義の全面的な発展を理念としていることが明瞭に示されています。ソ連の果たしたこの偉大な役割を決して忘れてはなりません。
 二一世紀は、こうした自由と民主主義の新境地をふまえて、さらに搾取の廃止をも国際法として確認する展望をはらんだ世紀だということができるのではないでしょうか。

ソ連の誤りの原因は何か

 「最初に社会主義への道に踏みだしたソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録されました。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ」(日本共産党綱領)のです。
 こうして「革命の出発点においては、社会主義をめざすという目標が掲げられたが、指導部が誤った道を進んだ結果、社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会として、その解体を迎えた」(同)。
 問題はなぜ指導部が「誤った道を進」むことになったのかにあります。
 間違った実践を生みだす原因は、間違った理論にあります。理論が真理をとらえていれば、間違った実践が生じても、それを理論の力で是正することができます。しかし理論が間違っていれば、そこから生まれる間違った実践は是正されることなく、そのまま存続することになります。
 ソ連・東欧が解体に至った誤った理論の鍵となるものが、過渡期の権力としての「プロレタリアートの執権」だったのです。

レーニンによる「執権論」の歪曲

 ソ連が自由と民主主義の抑圧者に転化するきっかけとなったのは、レーニンによるプロレタリアート執権論の歪曲でした。
 レーニンは、ロシア革命が「ソビエト」という特殊な形態をとったことを一般化し、それをプロレタリアート執権の具体的形態だとみなしたのです。ソビエトというのは、工場におけるストライキ委員会から発展したものです。生産単位や兵営ごとのソビエトから選出された代議員が、市・村ソビエトを構成し、その代表がピラミッド型に地方ソビエト、ついで全ロシア・ソビエトを構成するというものですから、通常の普通選挙にもとづく議会とは全く異なるものでした。ソ連はこういうソビエト型の社会主義という意味で、「ソビエト社会主義共和国連邦」という国名にされたのです。
 このように、ソビエトは議会制民主主義とは異なる制度ですから、プロレタリアート執権=ソビエトとしてとらえることは、議会制民主主義を否定することにもつながります。レーニンもついには、「ソビエト執権かそれともブルジョア議会」かというところまで行ってしまうのです。
 さらにこの歪曲は、レーニンの指導するコミンテルンでは、人民主権を否定するところまで到達します。
 「この段階では、およそ『人民の総意』という擬制は、プロレタリアートにとって直接に有害である。議会的な権力分立は、プロレタリアートには不必要で、有害である。プロレタリア執権の形態はソビエト共和制である」(「コミンテルン資料集」①二二四ページ、大月書房)。
 ここにいう「人民の総意」とは、ルソーのいう「一般意志」(ヴォロンテ・ジェネラル)のことであり、人民主権のキーワードとなるカテゴリーです。
 こうして、ついに執権論の歪曲は、人民主権、人民の人民による人民のための政治を、「プロレタリアにとって直接に有害」であるとして、民主主義を否定する概念に転化してしまいました。
 プロレタリアート執権=ソビエトという構図は、ソビエトのなかでソ連共産党が多数をしめるようになると、容易にソビエト=共産党と置きかえられることになり、共産党の一党支配と人民抑圧につながっていくことになるのです。

スターリンとその後継者による決定的誤りへの転化

 レーニンは、晩年この執権論のもつ一面性に気づき、統一戦線戦術や、多数者革命論に転化しようとしますが病に倒れて実現されないままに終わります。
 レーニンの後継者となったスターリンは、レーニンによる執権論の歪曲を、決定的な誤りにまで転化させていきます。それが一九三六年のいわゆる「スターリン憲法」でした。
 そこでは、ソ連共産党を「すべての社会的ならびに国家的組織の指導的中核」と規定し、憲法により共産党の一党支配体制を確立してしまったのです。
 科学的社会主義の政党・共産党が、真理探究の武器である科学的社会主義の学説に導かれ、その理論的先見性と不屈性を発揮することをつうじて人民の導き手として人民のなかで信頼と支持を獲得する問題と、その指導的役割を憲法によって規定する問題とは、全く別箇の問題です。前者の場合、共産党が人民の導き手として誤りをおかせば、人民からの厳しい批判を受けることによって誤りは是正されることになりますが、後者の場合、いくら誤りをおかしてもその指導的地位は不変であり、誤りは是正されることなく存続するばかりか、誤りを批判する人民の声は憲法違反であるとして国家権力によって押しつぶされてしまうことになるからです。こうしてソ連の官僚主義・専制主義と、いっさいの批判を抑圧する人民抑圧体制が生まれたのです。これが人民を主人公とする社会主義とは無縁の社会であったことはいうまでもありません。
 たとえスターリン憲法によりソ連共産党の「指導的中核」性が規定されていたとしても、もし直接・無記名の普通選挙制と議会制民主主義が実施されていたならば、その選挙をつうじて、国民の国家権力に対する批判も表面化し、罷免を求めることも可能となったでしょう。しかし、「ソビエト」という体制のもとでは、党指導部はソビエト内における事実上の信任投票として選出され、国民の批判は表面化しにくくされてしまいました。
 そこからソビエト=共産党となると、共産党の一党支配体制が無批判的に固定化され、その誤りも国民的批判によって是正される機会のないままに長期に固定化していくことになりました。いわば執権論の誤りは、ソビエト型という特殊な国家体制のもとで増幅され、固定化されてしまったのです。
 旧ユーゴスラビアの崩壊もこの一党支配体制に起因していました。旧ユーゴ社会主義は、一方で「自主管理社会主義」を掲げ、「自由な生産者のアソシエーション」をめざしながらも、他方でスターリン憲法を踏襲し、一党支配体制を確立していました。
 党官僚が新しい特権階級となるなかで、各企業は労働者の自主管理に委ねられているとはいいつつも、管理部門は共産党の一党支配体制となっていたのではないでしょうか。チトーの三羽烏の一人とされながら、除名され、投獄された副大統領ジラスは、「新しい階級」(時事通信社)において一党支配体制を批判し、党官僚を現代の特権階級として告発しています。これらの矛盾のなかで、一九八九年以降の東欧民主化の流れを受けて、九二年一月、旧ユーゴは崩壊するに至ります。
 では、人民が主人公の社会主義を建設するうえで、人民の導き手としての科学的社会主義の政党の存在が不要になるのかといえば、そうではありません。
 多数の支持を獲得しながら一歩ずつ社会主義を建設していく多数者革命の道程は、大企業に握られたマスコミによる世論誘導と反共攻撃を打破って、人民のための政治の方向に圧倒的多数の人民を導いていく複雑な過程を辿ります。かつてヘーゲルは、人民は「定型のない塊り」であり、「世論のなかでは、真理と限りない誤謬とがきわめて直接に結合している」(『法の哲学』三一七節注解)といいました。マスコミの操作によって真理と誤謬の間を揺れ動く人民を、人民が主人公の社会主義建設に向って足並みを揃えて前進させるには、人民の導き手としての科学的社会主義の政党は不可欠の存在なのです。
 しかしそれは他の政党の存在を否定することでも、その指導的地位を法によって強制することでもありません。複数政党制と言論の自由が保障されるもとで、科学的社会主義の政党は、その理論的な先見性と不屈性という事実の重みによって、人民の導き手として人民を束ねる役割を果たしていくことが期待されているのです。
 同時に、こうした状況のもとで、科学的社会主義の政党が人民のなかで大きな影響をもつに至ることも当然ありうることですから、人民が主人公として官僚主義の抬頭を防ぐための政治的対策が必要となります。エンゲルスは、パリ・コミューンを「真に民主主義的な国家権力」(全集⑰五九五ページ)とするために、二つの確実な手段を用いたとして、次のように述べています。
 「第一に、行政、司法、教育上のいっさいの地位に、関係者の普通選挙によって人員を配置し、しかもその関係者がこれをいつでも解任できることにした。また第二に、その高いと低いとにかかわらず、あらゆる職務にたいしてほかの労働者なみの賃金しか支払わなかった。……これによって、地位争いや出世主義をしめだすかんぬきがしっかりとかけられた」(同)。
 第一の点は、現時点に立ってみると、議会制民主主義を肯定し、ソビエト型社会主義を否定したものということができます。ソビエトでは仮に国家の指導者が反人民的政策をとったとしても、これを人民の手によって罷免することはできないからです。日本国憲法一五条一項には「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」とされています。これはエンゲルスの指摘と重なるものですが、実際には罷免権は何ら立法により具体化されていないところに、ブルジョア憲法としての制約が示されています。
 いずれにしてもこうした手段によって、本当に人民の利益に奉仕する姿勢をつらぬく者のみが、権力の座につくべきであり、そうしてこそ官僚主義の台頭を抑えることができるのです。
 社会主義をめざしているキューバは、ソ連の対外経済・軍事援助の総額の半分を受けるほどソ連へ依存していました。そのため、ソ連の崩壊によってキューバ経済は未曾有の困窮におちいり、パパ・ブッシュは、「カストロ政権の存命はあとわずか」とうそぶきました。
 それにもかかわらず、キューバが崩壊しなかったのは、共産党の一党支配のもとにあっても、党指導部は労働者なみの給料しか受取らず、国民と同じ水準の生活をしていたことがあげられています(宮本信生著『カストロ』中公新書)。そのため民主化の流れのなかで、一九九三年憲法を改正して直接・無記名投票の普通選挙を実施しても、カストロ政権は圧倒的支持を獲得して、これまでの体制を維持することができました。ソ連や東欧の党官僚が「共産貴族(ノーメンクラトゥーラ)」と呼ばれ、普通選挙を実施すると一挙に人民の支持を失ったのとは大きな違いをみせたのです。

ソ連の大国主義的干渉による人民民主主義の否定

 スターリンとその後継者の誤りは、執権=ソ連共産党論にあるだけではありません。彼らは、「ソビエト型」の「社会主義」を東ヨーロッパの社会主義を目指した諸国に押しつけ、それに抵抗する場合は、武力で弾圧するという大国主義的干渉をくり返し、自主的・民主的な本来の社会主義への歩みをすべて押しつぶしてしまったのです。
 東ヨーロッパでは、ナチスドイツの侵略に抵抗するパルチザン闘争が、人民戦線(反ファシズム統一戦線)として展開され、戦後人民戦線が権力を握って「人民民主主義共和国」という、ソ連型ではない自主的・民主的な社会主義への道を歩みはじめます。旧ユーゴスラビア、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニアなどがそれです。いずれも人民主権、普通選挙、議会制民主主義、民主共和制などを共通の課題として自主的・民主的な社会主義を建設しようとしたのです。
 旧ユーゴスラビアでは、ドイツの侵略に反対するパルチザン戦争のなかで、次々に解放区を広げ、そこに「人民解放委員会」を樹立して解放区の行政を担いました。戦後それを土台に「ユーゴスラビア連邦人民共和国」への道を歩みはじめます。
 ところが、一九四八年旧ユーゴのコミンフォルムからの破門を機に、東欧諸国にソ連による「粛清の嵐」が吹き荒れます。人民民主主義への道を歩もうとする諸国の指導者は、「チトー主義者」のレッテルを貼られ、根こそぎ逮捕・処刑されてしまい、それに代わってソ連いいなりの指導者が押しつけられたのです。
 「ここに、コミンフォルムは戦後の数年間に共産主義運動の中で提起されていた『社会主義への道』の可能な変種についての仮説に終止符を打った。反ファシズム闘争の勝利後に現れている新しい社会、『人民民主主義』と名付けられた新しい社会への移行の独自の形態の性格についての、先の仮説に附随したあらゆる討論にも終止符が打たれたのである」(定形衛著『非同盟外交とユーゴスラヴィアの終焉』三六ページ、風行社)。
 こうして人民民主主義への道は完全に閉ざされてしまいます。その重い蓋をこじあけるきっかけとなったのが、一九五三年のスターリン死去と五六年のスターリン批判でした。
 五三年に早くもソ連の占領下にあった東ドイツで反政府運動がはじまりますが、ソ連軍に弾圧されます。
 それまで平和勢力とみられていたソ連への評価を一挙に覆したのが、五六年のハンガリー事件でした。ハンガリーでは、旧ユーゴ破門以後、ソ連型の一党支配と重工業偏重の政治・経済路線への不満が爆発し、民族的自由、複数政党制、生活向上を求める抵抗運動が起こります。ソ連軍による武力弾圧のなかにあって人民の支持をうけて誕生したナジ政権は、複数政党制、自由選挙、ソ連軍の撤退などの方針を打ち出しますが、ソ連軍は直ちにナジ政権を崩壊させ、ナジは処刑されてしまいます。
 ソ連軍の戦車がハンガリー人民を押しつぶし、合法政権を打ち倒したこの事件は、全世界の人民に衝撃を与えると同時に、平和愛好勢力とされてきたソ連のイメージを一変させることになったのです。
 六八年のチェコ五ヶ国軍隊侵入事件は、さらにひどい覇権主義を示すものでした。この年改革派のドプチェクが第一書記に就任し、「人間の顔をした社会主義」、つまり自由と民主主義の社会主義をめざそうとします。世にいう、「プラハの春」です。これに対し、ソ連軍は、ワルシャワ条約加盟の五ヶ国の軍隊を率いて、チェコに侵入。ドプチェクを逮捕して、この流れを潰してしまいました。ソ連の軍事介入に反対していたルーマニアには、ワルシャワ条約加盟国であったにもかかわらず、何の相談もないまま、全員一致を規定したワルシャワ条約加盟国の決議による侵入と偽るデタラメぶりでした。
 さらには、一九七九年ポーランド民主化への干渉、アフガニスタン侵略など、ソ連の覇権主義は、とどまるところを知りませんでした。
 ソ連の自由と民主主義抑圧体制は、自国の人民のみならず、他国に軍事侵略してその自由と民主主義を抑圧するまでに至ったものであり、社会主義とは全く無縁の国家に転落してしまったのです。

誤りの根源は執権=ソビエト=共産党論

 以上概観してきたように、ソ連が自由と民主主義の抑圧者に転化した誤りの根源は、執権=ソビエトにありました。それがさらにスターリン憲法のもとでソビエト=共産党論に拡大され、二重の誤りが結合し、執権=ソビエト=共産党の図式が完成したのです。
 ソ連共産党が「すべての社会的ならびに国家的組織の指導的中核」として位置づけられ、共産党の一党支配のもとで「国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進」(日本共産党綱領)むと同時に、対外的には、ソビエト型「社会主義」の押しつけによる「他民族への侵略と抑圧という覇権主義」(同)を歩むことになったのです。
 ソ連や東欧は、こうした間違った理論と実践の破産によって崩壊することになり、「社会主義とは、自由と民主主義を否定する政治体制」であるかのような、大きな負の遺産を残すことになりました。
 しかし、ソ連や東欧は、そもそも社会主義ではなかったのであり、これらの諸国を社会主義であることを前提とする批判くらい的外れの誹謗と中傷とはありません。もともと社会主義・共産主義の思想は、ブルジョア民主主義革命の産物としてのブルジョア的自由、ブルジョア的平等のもつ制限を乗り越え、搾取を廃止することによる「ほんとうの自由およびほんとうの平等」(全集①五二四ページ)を要求して登場した理論であり、「自由、平等、友愛」をスローガンに掲げてたたかったフランス革命の真の後継思想にほかならないからです。
 プロレタリアートの執権論も、人民の人民による人民のための政治を実現するためには、オピニオン・リーダーとしての労働者階級の政党の存在が不可欠であり、労働者階級の政党が導き手となってはじめて人民主権の政治を実現しうることを強調したものに過ぎません。
 その執権論の今日的表現が、日本共産党綱領にいう「国民が主人公」ということになるでしょう。ところがスターリンは、それを「共産党が主人公」であると勘違いしてしまったために、「社会主義」の負の遺産を生みだすことになってしまったのです。

 

四、まとめにかえて

本講座を終えるにあたって

 科学的社会主義の「百科辞典的な概観」をもつ『反デューリング論』を読みこなすだけでも難事業なのに、現代の到達点にたってこれを学ぼうとするのは無謀ともいえる試みだったかもしれません。
 若いときに最初に本著に取り組んだとき、真っ先に感じたことは、ヘーゲル論理学を手の内にしておかないと『反デューリング論』は理解しえないという思いでした。それだけに一通りヘーゲルを学んだうえでもう一度本著に立ちもどることが、ある意味で個人的宿題となっていました。それが本講座となった一つの要因です。
 もう一つの要因は、新自由主義のもとで公然と資本主義の限界が論じられ、あらためて真にあるべき社会主義とは何かが求められている二一世紀において、『反デューリング論』も現代と切り結んで学ばなければならないと考えたことにあります。
 しかし、百科辞典的な本著を現代の到達点にたって学ぶことになると、ソ連・東欧の崩壊のみならず、二〇世紀の自然科学の巨大な前進も避けて通ることはできません。前者についてはこれまでにある程度の蓄積があるとしても、後者については基礎的素養すら十分でないのに、それを弁証法的に総括するなど「無謀」といわれても仕方のないものでした。しかも十分な準備時間が与えられているわけではないため、本講座をスタートさせて走りながら学ぶことになり、その苦労は予想をはるかに超えるものでした。またソ連・東欧を含めて、二〇世紀に社会主義をめざした諸国もさまざまな試行錯誤をくり返しており、とうてい十把一からげには総括しえないことも思い知らされました。もしインターネットによって読みたい本が自由に手に入らなかったら到底不可能だったかもしれませんが、現代では学ぼうとする意欲さえあれば、客観的にはそれが可能な状況となっています。
 こうして受講生の皆さんに支えられ、大変な難産の末、やっと本書を生みだすことができました。いずれにしても「序」に述べたように「分に過ぎた課題への挑戦」だったことは否定のしようがありません。
 どこまで成功したかはともかくとして、ヘーゲル論理学をふまえて、現代の到達点にたって『反デューリング論』を学ぼうとした意図だけは理解していただければと思う次第です。またこの姿勢をつらぬいたことによって様々な理論問題について、新たな問題提起をすることができたように思います。科学的社会主義の理論をより豊かなものにするうえで少しでも役に立てれば、これにすぐる喜びはありません。

二一世紀と社会主義

 歴史は着実に進歩しています。「ソ連覇権主義という歴史的な巨悪の崩壊は、大局的な視野で見れば、世界の革命運動の健全な発展への新しい可能性を開く意義をもった」(日本共産党綱領)との指摘が現実のものとなりつつあります。
 それがベネズエラ、エクアドル、ブラジル、ボリビアなどにおける「社会主義のルネッサンス」とよばれる運動です。これらの諸国では、いずれも普通選挙によってアメリカの押しつける「新自由主義路線」に反対する大統領が誕生しました。そして経済民主主義を追及する民主主義革命を推し進めるなかで、主権者である国民の参加のもとに貧困を解決し、自由と民主主義を全面的に開花させる社会主義への道を探究しつつあります。それはソビエト型「社会主義」を否定し、社会主義の偽りの衣をぬぎすて、本来の真にあるべき社会主義を「再生」させるという意味で、「社会主義のルネッサンス」とよばれています。
 エンゲルスは、真にあるべき社会主義を次のようにえがき出しています。
 「これまで歴史を支配してきた客観的な、外的な諸力は、人間自身の統制に服する。このときからはじめて、人間は、十分に意識して自分の歴史を自分でつくるようになる。このときからはじめて、人間が作用させる社会的諸原因は、だいたいにおいて人間が望んだとおりの結果をもたらすようになり、また時とともにますますそうなってゆく。これは必然の国から自由の国への人類の飛躍である」(五〇六ページ)。
 人類が「自由の国」へ飛躍するまでには、まだ時間がかかるかもしれません。しかし二一世紀が二〇世紀に被せられた社会主義の偽りの衣を脱ぎすて、社会主義の本来の輝きをとり戻しつつ、真にあるべき社会主義に向って前進していく世紀となることは間違いないところでしょう。
 そのためにも、科学的社会主義の学説と運動には一層の磨きがかけられなければなりません。ヘーゲルは『哲学史』の最後を次の文章でしめくくっています。
 時代の精神が「内部にあって力をこめて進む時――我々はその音に耳を傾け、これに現実性を与えねばならない」(藤田健治訳、前掲書下巻の三、二〇八ページ、岩波書店)と。