『ものの見方・考え方』より

 

 

第八・九・一〇講 人間疎外

 

〈第八講〉

不平等の起源

 これまで人間とは何か、という人間の本質を考えてきました。
 そこから得られた結論は、人間の本質は、自由な意識と共同社会性にあり、そこから自由と民主主義を本質的に求める存在であるというものでした。古代社会は、この人間の本質が開花した社会であり「自由、平等、友愛は、定式化されたことは一度もなかったが、氏族の根本原理であった」(エンゲルス『家族、私有財産および国家の起原』全集九二ページ)のです。
 しかし、現代日本を考えてみたとき、この人間の本質からすれば大きな隔たりがあることを否定することはできません。では、いつから、なぜそうなったのでしょうか、それが問題です。
 古代社会は、社会科学的に表現すると「原始共産制社会」といわれています。古代社会では、人間は狩猟や採集による生活をしていました。狩猟や採集の道具も粗末なものですから、そこでは人間が生きていくのがやっとの低い生産力しかなく、氏族が助け合って共同生活をしていました。
 「世帯は、いくつかの家族、しばしば多数の家族の共産主義的世帯である。共同でつくりまた利用する物は、。共有財産である」(同一五九ページ)
 いわば、古代社会では、生産力の低さから、生産物に余剰の生じる余地がないため、すべてを共有財産にするという原始共産制の社会にならざるをえなかったのです。
 しかし人類の歴史は、生産力の発展にかかわる知識を社会的に蓄積し、それとともに道具類も発展させることによって、狩猟、採集から、農耕、牧畜へと移行することになります。それは生産力の高まりをもたらし、自分たちが生きていくのに必要な量以上の生産物が生産されるようになってきます。
 ここに、私有財産が誕生することになるのです。
 一八世紀後半のフランスは、絶対主義的君主制の支配する格差と不平等の社会でした。
 このとき、ディジョンのアカデミーから「人々の間における不平等の起原はなんであるか」というテーマで、懸賞論文が募集されました。この懸賞論文に応募し、落選しながらも後に有名になったのがジャン・ジャック・ルソーの『人間不平等起原論』でした。この著作とその後に著された『社会契約論』により、ルソーはフランス革命の理論的指導者となったのです。
 ルソーは、アカデミーの問いに対し、貧困と不平等の起原は、私有財産制にあることを指摘し、それを否定することによる社会的・経済的平等の実現を訴えたのです。
 「ところが、一人の人間が他の人間の援助を必要とするやいなや、またただひとりのために二人分の貯えをもつことが有効であると気づくやいなや、平等は消え失せ、私有が導入され、労働が必要となった。そして広大な森林は美しい原野と変って、その原野を人々の汗でうるおさなければならなかったし、やがてそこには収穫とともに奴隷制と貧困とが芽ばえ、生長するのが見られるようになった。……人間を文明化し、人類を堕落させたものは、詩人からみれば金と銀とであるが、哲学者からみれば鉄と小麦とである」(『人間不平等起原論』九六~九七ページ)。
 生産力の低い間は、戦争の捕虜は食い扶持を減らすために殺すしかありませんでした。しかし生産力が発展し、一人が一人分以上の生産物を生産するようになったとき、捕虜は殺されるかわりに奴隷として働かされるようになりました。こうして奴隷制が誕生するにいたり、ここに原始共産制の社会は、奴隷制の社会に移行することになるのです。

階級とは何か

 このように、生産力の発展による私有財産制の誕生は、社会共同体のなかに、私有財産を持つものと持たないもの、奴隷主と奴隷という、社会的不平等と階級の対立をもたらしたのです。
 奴隷主は、自分の財産で奴隷を買い入れ、奴隷を働かせて奴隷のつくり出した生産物を独り占めにします。
 なぜ奴隷主は奴隷の生産物を独り占めすることができるのかといえば、奴隷を自分の持ち物、つまり物として所有しているからです。奴隷主の所有物から生産された物は奴隷主の所有となるのです。こうして奴隷主と奴隷とは、搾取者と被搾取者という、階級的な対立関係におかれます。
 奴隷のように財貨を生産するのに必要な物的手段のことを、経済学上は「生産手段」とよんでいます。
 生産手段を所有している者が、生産手段を使って生産された物を独り占めにすることを搾取といい、生産手段の所有者は搾取者となります。これに対して、奴隷のように生産手段として、あるいは農奴のように土地という生産手段に結合して、働かされる者は被搾取者(搾取される者)とよばれています。
 生産手段となるのは、奴隷のほかに、土地、道具・機械類、工場などがあります。
 これまでの人類の歴史は、大きく原始共産制社会、奴隷制社会、封建制社会、資本主義社会へと発展してきています。
 原始共産制社会以降の社会は、すべて階級対立を含む階級社会です。
 奴隷制社会では、奴隷主が奴隷という生産手段を所有することにより、奴隷主と奴隷という二大階級に分裂し、封建制社会では、封建領主が土地という生産手段を所有することにより、封建領主と農奴という二大階級に分裂し、資本主義社会では、資本家が機械・工場という生産手段を所有することにより、資本家と労働者という二大階級に分裂することになります。
 つまり、階級とは、私有財産制のもとで、生産手段の私的所有から生まれる搾取者と被搾取者の関係ということができるでしょう。
 搾取者は、生産手段を所有するというだけで、自らは労働することなく生産物を手にし、被搾取者は、いくら頑張って働いても労働の成果をそのまま手にすることはできません。また搾取者は、被搾取者をできるだけ多く働かせようとしたり、生産物のなかからできるだけ自分の取り分を増やそうとしますので、被搾取者と利害は対立せざるをえません。
 いわば搾取者が搾取の度合いを強めれば強めるほど、被搾取者には、労働と生活の苦しみが押しつけられることになるのです。こうした関係が階級対立を生みだすことになります。搾取者と被搾取者とは、一定の社会的生産体制のもとで、和解しがたい利害の対立の関係におかれるのです。
 したがって、階級間の対立・矛盾は、搾取者がいくら力で押さえこもうとしてもなくなることはありません。一定の条件の下では、階級間の対立は矛盾に転化し、その矛盾が激化して階級間のたたかいに発展せざるをえないのです。この対立する階級間のたたかいを階級闘争とよんでいます。
 第七講で、人類の歴史は階級闘争の歴史であると結論的にお話ししましたが、ここでその意味をご理解いただけたのではないでしょうか。
 では、資本主義社会のなかにあって皆さん方中小業者は、どんな階級とよばれるのか、また、資本家と労働者という二大階級との関係はどうなのかについては、また講をあらためてお話ししたいと思います。

搾取による人間疎外

 さて、ここまでは「人間疎外」の序論ともいうべきものです。
 「疎外」という用語は、日常的に使われる用語ではありませんが、社会科学では重要な意味をもっています。自分がつくり出したものが、自分に対立するのみならず、自分を否定し、自分の本来の姿、本質を失わせることを意味しています。
 人類の生みだした生産力の発展は、私有財産制と搾取をつくりだし「人間疎外」、つまり人間の本質を失わせる状況を生みだしたのです。
 まず、自由の問題からみてみましょう。搾取は第一に、自由な人格を否定します。奴隷の場合は、人間ではなく物として扱われ、奴隷主の所有物として自由に使用されかつ処分されますので、自由な人格は全く存在しません。これに対し農奴の場合は、封建領主から一定の土地を貸し与えられて自由に生産することはできますが、身分的に領主に隷属し、土地にしばりつけられていて自由に移動することもできません。労働者の場合は、形式上は自由な人格として、資本家と対等な立場で労働契約を結びます。しかしその実態は、一定の労働時間を資本家に売り渡すことにより、その限りで自由な人格の一部を喪失しているのです。労働時間が長くなるにつれ、自由な人格の部分は減少し、家に帰って寝るだけという状況になれば、自由な人格を丸ごと売り渡した奴隷に等しい存在となってしまいます。労働者は、個々の資本家に隷属するわけではありませんが、いずれかの資本家に労働賃金奴隷という力を売らない限り生きていくことができないという意味では、資本家という階級に隷属することができます。
 搾取は、自由な人格を否定するだけではありません。第二に、自由な意志そのものをも否定することになるのです。
 そもそも小経営において、他人の力を借りることなく自分で生産物をつくった場合、その生産物を自分で取得することができるのは一体なぜでしょうか。
 ヘーゲルは、この点でも原点に立ち返って検討を加えています。
 「人格は、どの物件のなかへも自分の意志を置き入れる── このことによってその物件は私のものである── という権利を、自分の実体的な目的としている。……これが人間の、いっさいの物件にたいする絶対的な、自分のものにする権利である(『法の哲学』四四節)。
 私という人格は、自分の自由な意志を生産物のなかに「置き入れる」ことによって、それを自分の意志の支配下におき、自分のものにするのです。生産物は物ですから、自分の意志をもちません。私は私の自由な意志を生産物のなかに置き入れることによって、意志のない生産物を私の意志の入ったものにつくりかえ、私と同化し、私のものにするのです。
 搾取は、私の自由な意志を対象化した生産物をとりあげることにより、私の自由な意志を否定し、私という人間を疎外してしまいます。
 マルクスは、このヘーゲルの考えを継承し、労働によって己れを「活動的、現実的にも二重化し、そうすることによって己れ自身を己れの創り出した世界のうちに観る」(「経済学・哲学手稿」全集「四三七ページ)と述べたうえで、搾取のもつ意味は、自由な意志を否定する人間疎外にあると指摘しています。
 「したがって、疎外された労働は人間から彼の生産の対象をもぎ離すことによって、彼から彼の類生活、彼の現実的な類的対象性をもぎ離」(同四三八ページ)すことになり、「人間が彼の労働の産物、彼の生活活動、彼の類的本質から疎外されていることの一つの直接の帰結は、人間の人間からの疎外である」(同)。

 

〈九講〉

階級対立による共同社会性の喪失

 第八講で、搾取は自由な意志という人間の本質を否定して、人間疎外をもたらすことをお話ししましたが、それだけではありません。搾取から生まれる階級への分裂と対立は、人間のもう一つの本質である共同社会性をも喪失させ、共同体の規範としての民主主義的諸原則を崩壊させてしまいます。
 そこを詳しくみましょう。まず、統治原理としての民主主義は、治者と被治者の同一性というものでした。しかし階級社会においては、搾取者が支配者に、被搾取者が被支配者として階級的に固定されてしまい、被搾取者は統治の対象にとどまり、統治の主体となることはないのです。
 また社会共同体の意志決定方法としての手続き民主主義も空洞化されます。被支配階級は、しばしば統治意志決定に参加すること自体から排除されます。長いたたかいの歴史をつうじて普通選挙制が実施されてからも、選挙のやり方や権力、マスコミ、教育による世論誘導により、もっぱら支配階級の意志が社会共同体の意志として貫かれることになります。
 平等原則についても同様です。支配階級と被支配階級との間には、経済的利害が対立していますので、つねに一方の側に富の蓄積、他方の側に貧困の蓄積という、貧困と格差の不平等社会が生じざるをえないのです。
 社会共同体内部の紛争も話し合いによって解決されるのではなく、しばしば経済的な力によって解決されることになります。裁判という制度が確立してからも、そこには支配階級の意志が権力作用として貫かれることになるのです。

国家論の歴史

 搾取によって階級に分裂し、階級社会に突入するということは、人間の本質を奪い、人間疎外をもたらすうえで、それ以上の意味をもっています。
 それが国家の誕生です。国家が人類史上どの段階でなぜ発生したのか、その「真にあるべき姿」が何なのかは、長い間謎とされてきました。この謎に満ちた存在の解明は、古今東西の哲学者にとっても、最高の哲学の対象とされたのです。
 古代ギリシアの哲学者プラトンの『国家』は、そのイデア論にもとづいて「真にあるべき国家」を探求しており、すでに私有財産制の批判がみられるなど、今日においても学ぶべき多くのものが含まれています。第六講で紹介した「洞窟の比喩」も、ここに含まれているものです。
 近代の啓蒙思想家たちは、絶対的君主制の支配する封建国家を批判し「真にあるべき国家」を、当時台頭してきた自然法思想にもとづいて根拠づけようとしました。それが社会契約説といわれるものです。
 社会契約説は、単に「真にあるべき国家」とは何かを問題とするにとどまらず、国家の起原をも合理的に説明しようとするものでした。
 そのうちもっとも有名なのがルソーの『社会契約論』であり「有史以来人間の精神にもっとも大きな影響を与えた本」として『聖書』『資本論』とともに挙げられるほどの古典的名著となっています。
 その詳細を述べる暇はありませんが、要は自然状態における人間一人ひとりはバラバラな存在であったものいとまが、各自の自由と平等を守るために社会契約を結び国家をつくったというものです。自我の確立していない原始状態の人間を、契約の主体としてとらえること自体フィクションであり、また人間と社会とは最初から切りはなしがたく結びついていたのですから、バラバラな人間が契約によって国家・社会をつくったということもまたフィクションにすぎません。
 しかし、この社会契約説をもって国家の起原とすることが、未だに大学の授業でもまかり通っているのです。それも、科学的な国家の起原論から目をそむけさせようとのねらいからにほかなりません。
 しかしルソーの『社会契約論』は、自由と平等を生まれながらの権利であり「真にあるべき国家」は自由と、平等を実現するものでなければならないと主張することによって、フランス革命の理論的起動力になるという積極的な役割を果たしました。
 このプラトンとルソーに触発されて、ヘーゲルは国家の「真にあるべき姿」を論ずる『法の哲学』を発表します。こうした国家論の歴史のうえに、エンゲルスの『家族、私有財産および国家の起原』(全集㉑)が登場し、ここに初めて科学的な国家の起原と本質をとらえる理論が誕生することになるのです。

国家の起原

 原始共産制の氏族社会は「まだ国家というものを知らない一つの社会」(同九八ページ)でした。
 氏族社会にも、社会共同体が共同体として処理しなければならない、共同の利益につながる事務がありました。例えば、外敵から共同体を防御したり、共同体内部の紛争を解決したり、生産に必要な治山治水の事業などです。そのために共同の事務を処理する独自の組織が必要となってきます。氏族社会でもその点は同様なのですが、治者と被治者の同一性のもとにあっては、適宜必要に応じて共同体の構成員全員が交替してその共同の事務を負担していたのであり、特定の人々がその組織を独占することはありませんでした「兵士も憲兵も警察官もなく、貴族も国王も総督も知事も裁判官もなく、監獄もなく、訴訟もなく、それでいて万事がきちんとはこ」(同九八ページ)んでいたのです。
 しかし、この氏族社会のなかで階級分裂が進んでくると、搾取階級は社会共同体の支配階級となり、その共同の事務を独占するにいたります。支配階級は、共同の利益を処理する独自の組織を階級的に独占することにより、ここに国家を誕生させ、これらの組織を国家機関として固定化します。
 そして共同の利益の実現をかかげながらも、階級間の対立が次第に顕著になるなかで、国家は搾取階級の被搾取階級に対する支配を維持強化するためのものに変化し、発展していくのです。

国家の本質

 「社会は、内外からの攻撃にたいしてその共同の利益を守るために、自分のために一つの機関をつくりだす。この機関が国家権力である。この機関は、発生するやいなや、社会にたいして自立するようになる。しかも、一定の階級の機関となり、この階級の支配権を直接に行使するようになればなるほど、いよいよそうなる」(全集三〇七㉑ページ)。
 国家は誕生したときには、社会共同体の共同の利益を実現するものとして登場し、社会共同体と一体のものとして存在していました。しかし、階級間の対立・矛盾が激化するにつれ、国家における共同の利益の実現は単なる飾り物にすぎなくなり、階級支配のための機関をその本質とするようになります。そして支配階級の「支配権を直接に行使するようになればなるほど、社会共同体から自立し、かつ社会共同体のうえに君臨する存在とな」るのです。
 「外見上社会のうえに立ってこの衝突を緩和し、それを『秩序』の枠内に引きとめておく権力が必要になった。そして、社会から生まれながら社会のうえに立ち、社会にたいしてみずからをますます疎外していくこの権力が、国家である」(同一六九ページ)。
 国家は、これまでと同様、社会共同体の共同の利益を守る存在であるかのような装いをもち、階級間の「衝突を緩和し、それを『秩序』の枠内に引きとめておく権力」であるかのような外見をしめすのですが、その本質は「社会にたいして自らをますます疎外してい」き、支配階級が、その階級的支配を維持・強化するための機関となるのです。
 その意味で国家は「けっしてそとから社会に押しつけられた権力ではな」(同)く「一定の発展段階における社会の産物」(同)であって、その社会が「和解できない対立物に分裂したことの告白なのです」(同)。
 このように国家の本質がとらえられてくると、国家の機関に新たな一つの機能が加わってきます。それが被支配階級を抑圧するための警察、軍隊、裁判所、監獄などの「公的強力」(同)です。しかも階級対立が激しくなるにつれ、国家機関のなかでこの公的強力はますます強化されてくるのであり、他方で共同の利益── 教育、医療、福祉、年金など── はますます名目だけのものに削減されていくのです。
 陸上自衛隊が政府の政策を批判する国民への監視活動を行っていたことは、自衛隊が国民に刃を向けた「公的強力」であることを示す一事例でした。
 支配階級は単に経済的に支配するのみならず「国家を用具として政治的にも支配する階級となり、こうして被抑圧階級を抑圧し搾取するための新しい手段を手にいれる」(同一七〇~一七一ページ)のです。
 したがって、奴隷制国家の本質は「奴隷所有者の国家」(同一七一ページ)、封建国家の本質は「農奴的農民と隷農を抑圧するための貴族の機関」(同)、資本主義国家の本質は「資本が賃労働を搾取するための道具」(同)ということになるのです。
 これに対して現代の資本主義国家は、普通選挙制のうえに立つ民主共和制の国家だから「資本が賃労働を搾取するための道具」と規定することはできないのではないか、との疑問が生じるかもしれません。
 エンゲルスは、この疑問を想定していたかのように、次のように述べています。
 「民主的共和制のもとでは、富はその権力を間接に、しかしそれだけにいっそう確実に行使する。一方では、これは直接に官吏を買収するというかたちでなされる。……他方では、これは政府と取引所の同盟というかたちでなされる」(同)。
 ここにいう「取引所」とは、資本家たちの集まる証券取引所のことであり、現代日本でいえば、さしずめ「経団連」(日本経済団体連合会)に相当するものです。
 このような本質をもつ国家が登場することにより、社会共同体には、これまでの経済的諸関係に従属していた「政治」が、相対的に自立して独自の政治的諸関係を生みだすことになります。
 支配階級は、経済的諸関係において被支配階級を「搾取」すると同時に、政治的諸関係において被支配階級を「収奪し、抑圧する」のです。ですから、一言で「搾取と収奪」とワンセットで使われることも少なくありません。
 こうして、搾取による経済的人間疎外に加えて、国家権力による自由と民主主義を抑圧する政治的人間疎外が生じるのです。

 

〈一〇講〉

社会には構造がある

 第九講で、国家の成立により政治が経済から自立してくること、国家の本質は支配階級の階級支配の機関にあることを学んできました。
 社会共同体のなかには政治、経済だけでなく、法律、文化、イデオロギーなど様々の(ものの見方・考え方)ものが存在しています。これらのものが渾然一体となって社会共同体を成しているのですが、では全体としてみるとき、これらの要素・部分がどのように関連しあって社会共同体の全体像をつくり出しているのかを考えてみ
ることにしましょう。
 社会共同体は豆腐ではなくて、家のようなものです。豆腐はその内部に構造をもちませんが、家は土台、柱、壁、屋根という構造をもっています。構造をもっているからこそ、社会共同体もそれを構成する諸要素・諸部分とその相互の関係を科学的に考察することができるのです。
 これまでの人類の歴史には、原始共産制社会、奴隷制社会、封建制社会、資本主義社会という発展の歴史があることを学んできました。こういう社会の分類は、これまでにみてきたように、共有財産制か私有財産制か、私有財産制の場合主な生産手段は何であるか(奴隷か、土地か、機械・工場か)その社会の階級は何であるか(奴隷主と奴隷、封建領主と農奴、資本家と労働者)などを基準に、社会全体の特徴をとらえたものでした。
 一言でいえば、経済的諸関係、つまり生産・交換・分配という社会的生産とそれをめぐる人と人との関係が、社会全体を特徴づけるものとなっているのです。
 これに対して、かつては政治が社会を動かす原動力であり、経済も政治によってきまると考える考え方が支配的でした。皆さんも日本史の授業で、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代などという時代区分を学ばれたでしょう。これはいずれも、その時代の政治の中心がどこにあったのか、という政治を基準とする時代区分でした。
 しかし、このように政治を中心に歴史をとらえようとすると、どうしても歴史を、政治的個人を中心にえがかざるをえなくなってしまいます。したがって、日本の歴史を世界の歴史とも連動させ、人類全体の大きなうねりとしてとらえることができなくなります。また、人類の歴史は連続しつつも、ときどき飛躍による非連続が生じるという連続性と非連続性の統一なのですが、政治中心のとらえ方では、その非連続性は主張しえても連続性をみることができず、また、非連続性を生みだす飛躍が生じる根本原因を説明することもできません。
 こうして現在では、経済的諸関係を中心に人類の歴史を時代区分するとらえ方が一般的なものとなっているのです。こういう歴史観を確立したのが、マルクス、エンゲルスによって打ちたてられた「史的唯物論」といわれるものです。この史的唯物論によって、個々の国の歴史ではなく、人類史全体をマクロ的かつトータル的視野に入れてとらえることが可能となりました。

史的唯物論

 それでは、マルクスの「経済学批判・序言」(全集⑬)にもとづいて、その内容を詳しくみていくことにしましょう。
 「人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係に、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係にはいる。これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する」(同六ページ)。
 ちょっと難しいかもしれませんが、人間は社会的な生産物の生産・交換・分配、つまり社会的生産をつうじて、人間と人間との社会的関係(生産諸関係)にはいり、社会的生産と生産諸関係の全体が「社会の経済的構造を形成する」というのです。生産諸関係とは、階級社会においては搾取階級と被搾取階級という階級間の関係を意味しています。
 「これが実在的土台であり、その上に一つの法律的および政治的上部構造がそびえ立ち、そしてそれに一定の社会的諸意識形態が対応する」(同)。
 いわば「社会の経済的構造、経済的諸関係が社会の「実在的土台」となって社会全体を支え、そのうえにこの土台に「対応する」国家が存在するのです。現代の国家には、行政機関(政府)、立法機関(国会)と司法機関(裁判所)とが存在します。行政機関は法を執行する政治をおこない、立法機関は法律を制定し、司法機関
は法律を守らせる「法の番人」です。経済的諸関係が社会の「土台」であったのに対し、政治的、法律的諸関係は、この土台によって規定される「上部構造」です。こうして、国家は土台の生産諸関係を反映した階級支配の機関となるのです。
 文化やイデオロギーなど「一定の社会的諸意識形態」もまた同様に土台によって規定されます。教育、マスコミ、出版などは、けっして社会に対して中立な存在ではありません。階級社会を支配するのは、支配階級のイデオロギーなのです。
 「物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである」(同)。
 ここには、物質が世界の根源だとする唯物論の観点が生かされています。社会も大きく分けると、物質と精神に二分することができます。物質に相当するのが経済的諸関係であり、精神に相当するのが、人間の精神活動の産物としての政治的、法律的、イデオロギー的諸関係です。経済的諸関係こそが根源的、第一次的なもの、つまり社会の土台であって、政治的、法律的、イデオロギー的諸関係は、土台である経済的諸関係によって規定されるのです。
 唯物論一般が「存在が意識を規定する」ととらえるのに対応して、史的唯物論では人間の「社会的存在が彼らの意識を規定する」ととらえるのです。
 第九講で、資本主義国家は「資本が賃労働を搾取するための道具」だということを学びました。資本における経済的諸関係は、資本家が生産手段としての機械・工場を所有して、労働者を搾取するという関係です。
 この土台によって政治的、法律的、イデオロギー的諸関係が規定されるため、資本主義国家の政治、法律、イデオロギーは「資本が賃労働を搾取するための道具」となってしまうのです。
 このように、唯物論を人間の歴史に適用した歴史観は「史的唯物論」または「唯物史観」とよばれています。この唯物史観によって国家、社会全体の構造と相互の関連をとらえ、はじめて社会を科学の対象とすることが可能になったのです。

社会発展の原動力

 しかし、ここまでは、まだその時代の社会を全体としてどうみたらいいのかを明らかにするにとどまり、社会がどうして発展するのか、つまり社会が飛躍する根拠を説明するものにはなっていません。では、社会発展の原動力はどう理解すべきでしょうか。
 「社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはそれの法律的表現にすぎないものである所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏に一変する。そのときに社会革命の時期が始まる。」(同)
 社会の土台が、経済的諸関係にあるということは、社会発展の原動力も経済的諸関係にあることを意味しています。マルクスは、それを「生産力と生産関係の矛盾」としてとらえました。
 ある社会の生産力はそれに見合う生産諸関係を求めます。例えばイギリスにおける封建制社会から資本主義へと発展するきっかけとなったのは、羊毛マニュファクチュアの繁栄による生産力の発展でした。耕地を牧羊場に転化するためには、農民を土地に縛りつける封建的な生産関係が「桎梏」(手かし足かせ)となりました。そこで資本家はエンクロージャー(囲い込み)により、農民を土地から暴力的に追い出し、無理やり賃労働者に変えました。こうして羊毛産業資本家と労働者という資本主義的生産関係をつくり出したのです。新しく生まれた資本主義的生産関係のもとで生産力は爆発的に発展しました。しかし今では資本主義はできあがってしまい、生産力の発展はストップしつつあります。またもや生産力と生産関係の矛盾があらわれたのです。ここから余ったマネーは投機に向かい、カジノ資本主義が登場することになります。
 このように生産力は流動的に発展するのに対し、生産をめぐる生産関係は階級関係として相対的に固定していますので、生産力が発展して一定の段階に到達すると、これまでの生産関係が生産力の発展にとって「桎梏」となってきます。これが「生産力と生産関係の矛盾」のあらわれです。
 そのとき階級闘争が激化して、これまでの生産関係をうち破ろうとする社会革命が始まります。
 「経済的基礎の変化とともに、巨大な上部構造全体が、あるいは徐々に、あるいは急激にくつがえる」(全集⑬六〜七ページ)。矛盾の解決として、発展した生産力に見合う新たな生産関係が生まれてくるのであり、これが社会の飛躍をもたらす「社会革命なのです」(同六ページ)。

二重の人間疎外

 こうして、人間は階級社会に突入することにより、搾取による経済的人間疎外、つまり土台における人間疎外に加えて、国家による政治的人間疎外、つまり上部構造における人間疎外という、二重の人間疎外を蒙ることになります。
 国家は、その「公的権力」によって被搾取階級の反抗を抑圧すると同時に、政治と法律を使って搾取強化の手助けをし、被抑圧階級を収奪します。
 したがって、社会全体にあらわれる諸現象を考察する場合には、経済的諸関係における搾取階級と被搾取階級の対立・闘争の関係を、社会全体を貫く関係としてとらえなければなりません。
 これを「階級的観点」といいます。社会の運動と自然の運動とは、本質的に異なったものです。というのも自然の運動は意識のない物質の交互作用として生じているのに対して、社会の運動は、行為する全ての人々が一定の意志をもって運動しているからです。そこから歴史の原動力を一人の英雄の政治的意志に求める観念論的な歴史観も生まれてきたのです。
 ところが、階級的観点に立つことによって、社会における無数の交錯する人間の意志を、大きく搾取階級と被搾取階級の対立する二つの意志に分け、その二大階級の対立・闘争が、社会の一瞬の動きとしてではなく持続的運動として、社会の偶然的、恣意的な動きとしてではなく、必然的、法則的運動としてとらえられるようになりました。
 いわば、階級的観点に立つことにより、社会のさまざまな現象を貫く本質を「科学の目」でとらえることが、できるようになったのです。
 第七講で、人類の歴史は階級闘争の歴史であるとお話ししましたが、これもこのような階級的観点に立つ史的唯物論によって獲得された真理の一つなのです。