『ものの見方・考え方』より

 

 

第一六講 理念とは何か

 

真理とは何か

 第一五講で、労働者階級の政党の役割は、大多数の被抑圧人民を社会変革の側に結集し、選挙により国会の多数派を形成して人間解放への道をきりひらくことにあることを学びました。そのためには「真にあるべき人民の意志にもとづく政治」を目標にかかげなければなりません。
 では「真にあるべき人民の意志」とはどのようにしてとらえることができるのでしょうか。この問題を考えるにあたっては、そもそも「真理とは何か」の問題が検討されなければなりません。
 真理とは一般に客観に一致する認識を意味しています。客観に一致する認識といっても、そこにはいろいろなレベルがあります。
 まず第一段階の真理は、客観的事物の表面的な姿そのままをとらえる認識です。これを形式的真理とよぶことにしましょう「今日は天気がいいな」とか「このバラはきれいだな」といった認識がそれです。しかし、人間はこんな表面的な真の姿で満足することはできません「人間は単に知りなじんでいること、単なる感覚的現象では満足せず、その奥をさぐり、それが何であるかを知り、それを把握しようとする」( 『小論理学』二一節補遺)のです。
 そこで第二段階の真理である、客観的事物の奥に隠された真の姿、本質、類、法則などをとらえる認識へと前進しようとするのです。これを必然的真理とよぶことにします。
 ここまでは客観的事物がどのようにあるかという意味での真理であり、通常これを客観的事物を意識のうえに反映するという意味で「反映論」とよんでいます。しかし人間は単に客観的事物がどのようにあるかを認識することだけでは満足できません。人間は第一講でお話ししたように自然や社会などの与えられた環境をより良いものにつくりかえるところに人間の人間たるゆえんがあるからです。
 レーニンは、ヘーゲル「論理学」を研究したのなかで「人間の意識は客観』、(『哲学ノート』レーニン全集㊳)的世界を反映するだけでなく、それを創造しもする」(同一八一ページ)といっています。しかし私にいわせると、「創造しもする」というのは、腰の引けた表現であって、客観的世界を創造的に変革するところに人間の本質があるというべきだろうと思います。
 こうして第三段階の真理は、客観的事物はどのようにあるべきかという意味の真理であり、それがこれまで何回かふれてきた事物の「真にあるべき姿」の認識なのです。これを概念的真理とよぶことにします。この場合の「概念」とは「真にあるべき姿」を意味するヘーゲル独自の用語です。
 客観的事物の「真にあるべき姿」の認識は、客観的事物に一致する認識とはいえないのではないか、という疑問があるかもしれません。しかし「真にあるべき姿」は、客観的事物を意識のうえに反映することを前提とし、そのうえにたってその事物の「真にあるべき姿」を認識するのですから、これもまた客観に一致する認識といわなければなりません。

理念とは何か

 ヘーゲルは、この「真にあるべき姿」を「概念」とよんでいますが、一般的には「理念(イデア)」または理想とよぶ方が分かりやすいでしょう。
 第六講で、プラトンのイデア論を完成したのが、アリストテレスであったとお話ししました。プラトンはイデアを事物の真理だととらえ、現実に存在する事物はその似姿にすぎないと考えました。これに対してアリストテレスは、イデアは現実性に必然的に転化するものでなければならないと考えました。このアリストテレスのイデア論を発展させ、理想と現実の統一を唱えたのがヘーゲルです。
 ヘーゲルは、空想と違って理想は客観的事物の「真にあるべき姿」をとらえたものでなければならないし、そうであってこそその理想は現実性に転化する必然性をもつと考えたのです。
 科学的社会主義の入門書として著名な古典に、エンゲルスの『空想から科学へ』があります。
 社会主義とは、資本主義の矛盾を解決した真にあるべき社会を意味しています。そのなかでエンゲルスは、空想的社会主義は「頭のなかから」生みだされたから現実を変革する理論になりえなかったのであり「社会主義を科学にするためには、まずそれを実在的な基盤の上にすえなければならなかった」(全集⑲一九八ページ)とっています。ヘーゲルの「概念」は、この「実在的な基盤の上」に立つ理想なのです。
 では資本主義のもつ矛盾を解決した「真にあるべき姿」としての社会主義はどのようにしてとらえることができたのでしょうか。それは第一二講で論じたように、まず「実在的な基盤」である資本主義の本質が利潤第一主義にあることをとらえ、その本質から、貧富の対立・矛盾が生まれることを解明し、この矛盾の解決として社会主義がとらえられたのです。
 財界三団体の一つ、経済同友会の終身幹事である品川正治さんも「資本主義のシステムも行きつくところまできている。……『新しい社会主義』を考えざるをえなくなる」と語っています。

真理がわれらを自由にする

 国立国会図書館法に「真理がわれらを自由にする」という言葉があります。なかなかいい言葉ですね。人類の知的遺産である数多くの図書をつうじて真理を認識することにより、人間は自由になるという意味でしょう。
 この言葉にもみられるように、真理と自由とは切っても切れない関係にあるのです。
 第一講、第四講で人間の本質の一つは、自由な意志をもつことにあり、その場合の自由には形式的自由、必然的自由(普遍的自由)、概念的自由の三段階があること、最後の概念的自由が、最も高い自由、真の自由であることを学びました。
 じつは、この三段階の自由は、真理の三つの段階、つまり表面的な事物のあるがままの姿の認識(形式的真理、内面的な事物の真の姿の認識(必然的真理 )、事物の真にあるべき姿(概念的真理)の認識にそれぞれ対応しているのです。
 そこのところをもう少し詳しくみてみることにしましょう。
 第一講で、第一段階の形式的自由とは「客観的事物がどのようにあるのかとは無関係に意志決定する自由」であり「単なる恣意にすぎない」ということを学びました。もう少し正確に表現すると「客観的事物の内面的な真の姿がどのようにあるのかとは無関係に、事物の表面的な姿にもとづいて意志決定する自由」ということができるでしょう。
 ですから、ただの石ころと違って表面的に光り輝くものであれば、ガラスでもダイヤモンドでも区別することなく価値あるものとみなしてしまうのです。
 自民党の国会議員は、さかんに地元代表を強調し、地元に道路や空港、橋などを建設することを約束します。彼らは独占資本の利益擁護という本質を地元代表という仮象で覆い隠し、有権者がこの表面的な姿にだまされて票を投じるのを期待するわけです。
 ですから、この形式的真理は、一見自由なように見えても、実際にはその内面の真の姿を見誤る不自由でしかありません。
 第二段階の必然的自由は、客観的事物の内面にある必然的なもの、本質、類、法則という真の姿を認識したうえで、意志決定する自由です。
 必然性を認識することにより、本当の意味で客観的事物の真理(必然的真理)を認識することができますし、人間はその必然性にそって意志決定することにより、人間に対立する客観的事物と折り合ってある程度自由に生きていくことができます。
 例えば、資本主義社会の本質は競争による格差社会にあることを認識し、自分は負け組だからこの程度の生活でもやむをえないかとあきらめるのも、その一つのあらわれです。
 ですから、ヘーゲルは「必然は冷酷」(『小論理学』一五八節補遺) であり「諦めることによってのみ救われる」(同)といっています。
 しかし、人間は与えられた環境のなかで諦めるだけの存在ではありません。現にある客観的事物をあるがままに肯定するのではなく、それを「真にあるべき姿」に変革しようとするのです。
 ここに、第三段階の概念的自由が登場することになります。概念的自由とは、まず客観的事物の必然性を認識し、そのうえにたってその必然性のもつ制限を克服する「真にあるべき姿」という概念的真理を認識して意志決定をする自由です。
 こういう概念的真理「真にあるべき姿」という理念をとらえることによって、人間は客観的事物を自在に支配し、真に自由になることができるのです。

必然から自由へ

 「真理がわれらを自由にする」という言葉の意味もこれではっきりしたのではないでしょうか。第三段階の「真にあるべき姿」をとらえる概念的真理が、その真理にもとづく意志決定をする第三段階の概念的自由、真の自由をもたらすのです。
 ヘーゲルは「もちろん必然そのものはまだ自由ではない。しかし自由は必然を前提し、それを揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる」(同)といっています。
 「必然そのもの」つまり有限な客観世界を揚棄しないかぎり、人間は冷酷な必然に支配され続けるのであって、けっして真に自由にはなれないのです。
 ヘーゲルのいう自由と必然の関係を、資本主義から社会主義への移行の論理として示したのが先にも紹介したエンゲルスの『空想から科学へ』です。
 真理と自由との関係を学んだうえで読み返すとまた趣を異にしますので、もう一度紹介しておきましょう。
 「これまでは、人間自身の社会的行為の諸法則が、人間を支配する外的な自然法則として、人間に対立してきたが、これからは、人間が十分な専門知識をもってこれらの法則を応用し、したがって支配するようになる。……これまで歴史を支配してきた客観的な、外来の諸力は、人間自身の統制に服する。このときからはじめて、人間は、十分に意識して自分の歴史を自分でつくるようになる。……これは、必然の国から自由の国への人類の飛躍である」(全集⑲二二三~二二四ページ)。
 第一講で、人間の本質の一つは、自由な意志にあると指摘しました。人間はその自由な意志にもとづいて概念的真理としての理念を掲げることによってはじめて人間らしく生きることができるのであり、客観世界に埋没しているかぎり、必然の諸力によって支配されている存在にすぎないのです。理念を掲げて「必然から自由へ」移行するところに、人間の人間たるゆえんがあるのです。