『ものの見方・考え方』より

 

 

座談会
より善く生きるために「哲学ゼミ」で学習を

(『月刊民商』2007年12月号「哲学講座」より転載)

 

出席者
高村是懿
(たかむら・よしあつ) 広島県労働者学習協議会会長
太田義郎(おおた・よしろう)  全商連副会長(司会)
川原光明(かわはら・みつあき) 全商連常任理事

 

太田 『月刊民商』では今年一月号から二年間の予定で、「中小業者のものの見方・考え方」と題して高村先生に「哲学ゼミ」を連載していただいています。
 業者の役員や事務局員、読者の方々から、「久しぶりに哲学らしい講座が始まって勉強になった」「難しい」「このことは何を言っているんだろう」、なかには「何回も読んで非常に深遠なる含蓄の深い言葉が書いてある」、あるいは「日ごろ考えたことのないような国家の起源について知った」等々、さまざまな声が寄せられています。
 最近、古典的なものを学ぶという風潮が少なくなってきているなかで、この高村先生の「哲学ゼミ」でオーソドックスに哲学をするということでの連載が始まりました。
 今日は連載の中間点で、哲学について深めながら、会員・役員・事務局員のみなさんの学習の参考にしていただければと、この座談会を開きました。
 最初、高村先生から、哲学のおもしろさや哲学への関心、「哲学ゼミ」のねらいや特徴について話していただき、川原さんと私からも感想を出して、討論を深めていこうと思います。

哲学のおもしろさ・「哲学ゼミ」のねらい

高村 哲学のおもしろさがどこにあるのかといえば「弁証法を駆使して真理を探究する喜び」といえるのではないかと思います。
 広く哲学といった場合には、世界のすべてのものがその対象になるわけで、大きくいえば自然と社会と人間ということになると思います。自然の場合は自然科学、社会の場合には社会科学、人間論を人間科学というのかどうか知りませんけれども、それぞれの分野の科学があるなかで、科学の到達点をふまえながら、弁証法を使ってさらに、より奥深いところにどう接近するのかという、そういうおもしろさだろうと思います。
 私は今、エンゲルスの『反デューリング論』の講座を広島県労働者学習協議会でやっています。この本は科学的社会主義の百科全書といわれている本ですが、その中でエンゲルスは、十九世紀の自然科学を総括して、「自然は弁証法を検証する」ものであるといっています。実は九月にその合宿をやりまして、「二十世紀の自然科学は弁証法を検証する」という題で話をしました。二十世紀の科学の特徴はアインシュタインの相対性理論と量子論にあるわけで、その二つの新しい科学のなかに、弁証法がどう貫かれ、どう真理に接近したかという、そういう問題のお話をしました。
 ですから、哲学のおもしろさというと、そうやって世界のすべてのものを対象として、奥深い真理を探究することに喜びを見いだすというところにあるのかなと考えております。
 今回の「哲学ゼミ」のテーマは、「中小業者のものの見方・考え方」ということなので、中小業者としていかにより善く生きるかという問題を哲学的に解明したいという気持ちで始めたわけです。
 そういう意味では、人間論という新しいテーマへの挑戦ですので、これまでの科学的社会主義の蓄積された理論的成果をそのままお話しするというのではなくて、私自身の新しい研究の成果もそのなかで生み出していきたいという気持ちで講座をやらせてもらっております。
 最後までには、そういう結論に到達するようにがんばっていきたいと思っています。

川原 私は二つのことを感じています。一つは、今の世の中というのは非常にまじめな人間ほど生きにくいということで、そういう人たち、とりわけ業者運動をやっている人たちがどう生きるのかということ、人間としての生き方に哲学の光をあてて先生が考察されていること。
 私はこの「哲学ゼミ」と、『月刊民商』の昨年六月号の「今こそ組織者としての力を発揮するとき」という先生の論文、それから第二三回事務局員交流会の報告集(西日本会場の高村先生の講演「事務局員として、いかに生きるか」)を読ませていただいて、先生が何を訴えたいのかということを私なりに受けとめたのは、人間のより善い生き方を追求していこうというメッセージをわれわれ業者に与えてくれているということです。
 もう一つは、学ぶことで人間になっていくんだという、まさに学習することで人間として成長する、そのことを印象深く受け止めました。
 また真理を認識していく、それを脳が「快」として受けとめる。それを自己の情報処理機構のなかに取り込むことによって、自己と一体化した確信が生まれてくるという話をされていますが、そういう実践と検証の反復で真理への確信がゆるぎないものになるということが、学習の成果だろうと思うのです。

高村 これまでの「哲学ゼミ」のなかにも書きましたけれども、本来、哲学というのは客観世界の真理を探究するということと、人間としての生き方の真理を探究するという、その二つの側面をもっていると思います。
 テレビを見ていましたら、日野原重明さんと三國連太郎さんの対談がありまして、日野原さんは「医学というのは哲学を勉強しなきゃいけないんだ。ソクラテスは『大切なのは、たんに生きることではなくて、より善く生きることだ』といっている」という話をされていました。私もそのソクラテスの文章はこれまでに引用したのですが、医学だけではなくて、本来哲学というのはその二つが結びついていなければいけないのです。その後者の方が私がいっている、いわゆる人間論というところにあたるわけです。
 ところがその後の哲学の発展は、人間論としての哲学、人間としてより善く生きることの哲学が置いてきぼりにされてきています。これはやはり資本主義と無関係ではないと思います。資本主義は利潤第一主義ですから、どうやって生産力を発展させ、より多くの利潤を獲得するかということが至上の価値をもってきます。
 それで自然科学の発展がものすごくすすむわけです。そのなかで物質至上主義というか科学万能主義が生まれて、人間がより善く生きるという問題がだんだん軽視されてきている。本来科学というものは人間がより善く生きるための手段であるべきはずなのに、逆に人類を滅亡させることにつながりかねない、そういう人間疎外を生み出しているわけです。
 こういう時代だからこそ、哲学は人間がより善く生きるという問題に正面から応えるものでなければならないと思っています。その課題を一番追求したのは、私はヘーゲルだと思っていますので、ヘーゲル哲学をもふまえながら、それをもっと発展させていきたいという気持ちで、この「哲学ゼミ」を始めたことを申し上げておきます。

太田 ただ、連載のなかで出てくる用語だとか、人の名前とかというのが、これは業者の役員にとってみると聞いたことのない名前なわけですね。特に今の若い方はマルクスもエンゲルスもレーニンも、およそヘーゲルも読む機会がない。しかし民商のやっている税金や金融の問題にしても、ほんとうは哲学的に、弁証法的にものを見ていく訓練がないと、なかなか民商の方針も本質的な理解がむつかしいということをつくづく感じています。

分かりやすく説明できる力量を

川原 たとえば消費税を増税しないと国の財政破たんをまねくとか、あるいは将来にツケを残すんだということで消費税の増税が必要という議論があります。あるいは消費税を増税することによって法人税を下げなさいとい
う議論もあります。
 だから私は、そういういろいろな意見が出てくるなかで、いったい何が消費税の本質か、弁証法的な思考で、その本質をとらえることが必要になってくると思います。その意味で「消費税とはそもそもどういう税金か」は、全商連のパンフレット「日常的な自主計算活動を」が本質を多面的にとらえています。

高村 今の業者の人たちは、自民党の中小業者破壊の政策のなかで、あえぎ苦しんでいるのです。しかも今までは自民党を支持してきたが、しかしこれでいいのだろうかという、そういう社会の矛盾をそのまま自己内の矛盾に抱え込んでいるわけです。
 私は業者運動というのは、やがては日本の政治を変える一翼を担う一つの勢力になりうると思っています。
 ところがいまだに「業者は勉強しないし、学習しても分かりっこない」という人がいますが、それは業者というものを見る観点がまったく間違っていると思います。業者自身が内部に矛盾を持ち、必ず変わるとの視点で、信頼しなければなりません。弁証法を知識として知っていようが知っていまいが、そんなことはどうでもいいのです。そのために大事なことは、業者の人たちが日常的に経験していることを、どう哲学的に掘り下げて業者の方に分かりやすく説明し、世直しの立場に立ってもらうかという、そういう力量が問われているわけです。
 国民が主人公とは何か。それは私にいわせれば、ルソーの言っている人民主権論ということであって、「人民の人民による人民のための政治」です。政治を動かすのは国民自身です。では、放っておいて国民が政治を動かす力をもつに至るかというと、マスコミの世論誘導もあって、それは決してできないのです。だから人民の導き手がいるわけです。
 それでこちらの方向に歩んでいけば、あなた方の悩みは根本的に解決されますよという方向を指し示せば、それは業者の多数を結集しうることになり、国民の多数を結集しうることになります。その力で政治を変えることができるという展望をわれわれは日常的に語っているのだろうと思います。

川原 私は現象としてあらわれている中小業者の声と、なぜそういう声が出てくるのかという根っ子のところへ視点を向けていくことで、世直しのたたかいの方向で団結できると思います。

自己責任論とのたたかい

高村 業者運動というのは当面の要求から出発していくわけです。金融や税金、多重債務の問題などいろいろな要求で、一種の駆け込み寺として民商に相談に来られるわけです。
 そういうなかで、そういう状態がいったい何で生じたのかを明らかにすることによって、それを民商の理念である世直しの事業にどう結びつけていくのかが求められていると思います。
 今の社会のイデオロギー的な対決点は何か。業者というのは一国一城の主です。経営についてすべて責任をあるじおっていて、一人親方でがんばっている方が圧倒的に多いと思うのです。そういう状況をよくふまえたイデオロギー攻撃の特徴が、「自己責任論」だと思います。うまくいかないのは、お前さんのやり方が悪いんだよという攻撃です。
 それに対してわれわれが対置すべきイデオロギーは、そうではなくて「社会的な責任」だということだと思います。
 ついこの間、私も、広島民商の会員さんから、小さい会社をやっているのだけれども、親戚・知人に借りまくって、一家・親族を含めて破産せざるを得ないという相談を受けました。その方も、みなさんにご迷惑をおかけしたといって、自己責任で考えるわけです。
 私は、「しかしあなたは、本当に家族のために、また同業者、関係者に迷惑をかけないために死に物狂いでがんばったのではないのですか」と言いました。「あなたが怠けてこうなったわけではないでしょう。それにもかかわらず、こういう結果になったというのに、それでもあなたは自分の責任だと思いますか」という話をしたのです。
 だから、本来は自己責任でないのに、イデオロギー攻撃の問題として自己責任、自己責任と言われているから、業者がその攻撃に負けているときには、やっぱり自分が悪かった、死んでお詫わびしようということにしかならないわけです。

川原 それは先生ね、私たち業者だけじゃなくて、事務局員にもそういう弱点というか、今、先生が言われたようなことを私は感じるのです。
 つい先日あったことですが、私が所属する周桑民商の会員で七二歳の女性が「どうしても運転資金が三十万円ないとこの月は越せない。銀行へ融資をお願いして断られた」というので民商に相談に来ました。そして事務局でも「難しいのでは」と頭を抱えていました。私は事務局長と話し合い、「民商の長年の要請で、市に無担保無保証人の融資制度をつくらせたのだから利用しよう。それが利用できないなら死ねと言うに同じだ」と意思統一し、一緒にその会員宅を訪問、話を聞き、すぐ銀行へ行って交渉したら「分かりました。申込書をつくってください」と言うから、すぐ申込書をつくって申し込んで、その二週間後にお金がおりたのです。業者が人間として生きていくんだという点でそれをかちとったことは、ものすごく大きかったと思います。

高村 われわれがもっと活用しなければいけないのは、憲法二五条の生存権です。どんなに借金をかかえていようが、どんなに生活が困難になろうが、とにかく人間らしく生きる権利があるんだということをどんな場合でも主張することが大事なのだと思います。

太田 今、所得が三百万~四百万円ぐらいのところだと、税金と社会保障を合わせた負担が約四三%にまで膨らみ上がってきています。特に課税売り上げが一千万円を超えたところから消費税を納めるようになった、この二年ぐらいの間に、急激に負担が増えてきています。江戸時代末期の五公五民に近いぐらいの状況が出てきています。税金の滞納は自分の責任だと思って、サラ金で借金して税金を払う。結局、多重債務におちいっていくという例があとをたたないのです。そういう点で言うと、この「自己責任論」というのは、今の社会の矛盾の隠れ蓑みのみたいな形になっています。

川原 私は、塾で数学を教えているのですが、たとえば多角形の内角の和を教えるときに、それを三角形に分割して、三角形の内角の和は一八〇度、そういう三角形がいくつかあるかということで、多角形の内角の和の公式を求めていきます。
 以前読んだ数学の本でデカルトの「困難は分割せよ」「まず分析し、しかるのち総合せよ」という一節だけを覚えているのですが、因数分解もそうだなど、いろいろな形で子どもたちとおもしろい話をしながらすすめているのです。

高村 エンゲルスは『反デューリング論』のなかで弁証法を語っているところで、哲学の歴史はギリシャ哲学のように自然全体を大まかにとらえる弁証法的な哲学から、十五世紀に入っての近代科学の高揚とともに、いわゆる要素還元主義という形で形而上学が誕生してきたという説明をしています。
 だから、ある意味で多角形を三角形に分割するというのは、要素還元主義的な要素はあるわけです。しかし、その問題と、本質・現象の問題は私は区別して論じた方がいいと思います。中小業者の苦しみの本質は社会責任論であり、「自己責任論」はその現象にすぎないのです。

太田 いま「哲学ゼミ」では「疎外論」のところまできていますね。

高村 なかなか本論に入らないなと思われるかもしれませんが、やはり十分準備してから最後におさえるべきところをおさえなければいけないと思っています。
 三年ほど前に、『資本論』の講義を一年間やりました。何しろ新書版で十三冊もあるので、とにかく『資本論』第一部だけ勉強して、もう全部おしまいにするという人が多いのですが、第一部を勉強しただけでは資本主義は分からないのです。資本主義をすべて分かろうと思ったら第三部まで勉強しなければなりません。そのすべてを統一的に学ぶためには、『資本論』を弁証法的に読み解く必要があるだろうというので、『「資本論」の弁証法』という本を出しました。これによって全体の一部、二部、三部の流れを統一的に把握しうるものになったと私は思います。
 物事を抽象化し、そのなかの本質をえぐり出し、何と何とをめぐる対立として問題になっているのかを明らかにする。だから弁証法というのは、具体的に新しい真理に接近する武器として使わなければいけないので、たんなる知識として学んでいたのでは何の意味もないのです。
 本質と現象の問題も、一番深く研究したのはヘーゲルだと思います。二〇〇七年九月に『弁証法とは何か』という本を出しました。これはヘーゲル『小論理学』をもとに、マルクスやエンゲルス、レーニンなどの弁証法も読んだうえで総まとめとして出したのですが、ヘーゲルはすごい哲学者で、そのすごさはどこにあるかというと、哲学史を徹底して研究したところにあるのです。彼は生涯で十回、二千五百年におよぶ哲学史の講義をしているのですが、人類の知識の総まとめを学んだうえで自分の哲学を確立した人は、ヘーゲル以外にはいません。

太田 そうですね。あれはインドから中国の哲学から、ずっと出てくるものね。

川原 むつかしいことを分かりやすく話すというのは、これは子どもに教えるときでもそうですが、むつかしいことだと思います。というのは、事の本質を深く理解していなかったら、それができないのではないかと、最近、この年になってようやく感じ始めたのです。

太田 本質的な理解をしていないと、そのことを分かりやすくは話ができないということではないでしょうか。

情勢をどうみるか

高村 さっき国民への導き手ということを言いましたけれども、われわれはやっぱり国民の導き手にならなければいけないのです。どんなに高尚なことを言い、理屈をこねても、国民の導き手にならなかったら何の意味もないわけです。そのための分かりやすさであり、そのための学習であり、そのための哲学なのだろうと思います。
 私も哲学をずっとやってきて、特にヘーゲルを深く学びだして三十年ぐらい、それで本当に哲学的な思考がきたえられてきたかなという感じがするのです。
 今の日本は新自由主義型国家独占資本主義になって、急激に貧困と格差の問題が深刻になってきています。
 フリーターとか、若年労働者がネットカフェ難民やワーキングプアになっているのは、これも社会的な責任の問題なのです。業者だけでなくてすべての今の日本国民の苦しみの大元は、新自由主義型国家独占資本主義にあるし、それをすすめてきたのが小泉「構造改革」です。
 そういう資本主義そのものの現段階の特徴を深くつかまないと、新自由主義路線に反対するエネルギーの大きさを見誤るということになると思います。
 今、ラテンアメリカで起きている現象は、新自由主義路線のもたらした貧困と格差に対して、その矛盾を乗り越える運動が国民のなかから出てきたというところにあるわけで、それが今、やや遅れて私たち日本に出ているのだろうと思います。向こうはもっと露骨な形でやりましたから、それだけに国民の怒りも広がったのですけれども、日本の場合もその直前にまできているのではないでしょうか。
 民商でも議案書で最初に情勢分析を書いているでしょう。情勢を議論するということは、「情勢が厳しい」ということを学ぶことではありません。今の新自由主義型国家独占資本主義のもとで、自民党政治と国民との矛盾がどれだけ激しくなっていて、国民の側に政治革新のエネルギーがどれだけ蓄積されてきているか、それがどう潜在的なものから顕在的なものに変化しようとしているかという、そこのところを見ることが情勢論なのです。
 だから七月の参議院選挙の結果についても、政治を動かすのは国民ですから国民がどういう審判を下したのかという国民の目線の観点から総括することが大事だと思います。国民が下した審判は、一つの方向だけで全面的なものではありません。その方向とは何かというと自公政治ノーという方向での判断を示したわけです。言い換えればそれは民主党イエスという判断ではないという意味で、一面的なものだということになるわけですが、大事なことはやはりそれは政治革新の方向を向いた、しかし一定のかぎられた判断であった。
 その一定のかぎられた判断というのはどこからきたかというと、今のマスコミがあおる二大政党の枠内でしか選択できなかった。政治を動かす力はどこにあるのか、それは国民のなかにある。ものの見方・考え方というか、情勢をどうみるかについても、哲学がなかったら正しくみることはできないということを言いたいわけです。

太田 なるほどね。それはそうですね。

世直しの事業

高村 この二年ぐらいずっと考えてきて少し明らかになってきたことは、生きがい論をX軸、よりよく生きる問題をY軸にした、その統一の方向、ベクトルですね、それが世直しの事業なのだろうと思います。
 個人の生きがい論の問題と、人間としてのより善く生きる問題とは重なるところもありますが、区別されるべき問題だと思います。より善く生きる問題は、自由とは何かの問題です。形式的自由を探究することは、それは言い換えれば幸福追求権。憲法でもそれを保障しているわけで、そのことは大事なので、幸福追求権の否定は絶対に間違いです。ということは幸福追求権の上に必然的自由の問題や概念的自由の問題が積み重ねられなければならないのに、第七講では、幸福追求権は必然的自由(普遍的自由)、概念的自由に向かって移行しなければならないという書き方をしています。これに対し、生きがい論というのはそれが自己肯定感をもたらせば何にでも求めることができるわけで、それはパチンコでもギャンブルでも囲碁・将棋でも何でもいいわけです。そういう意味では生きがい論の問題の基礎には、自分のやりたいことをやるという形式的自由の問題があります。しかしそのやりたいものも、最も個人的なものから、より人間的な普遍的なものへという発展の方向があるので、そのより人間的な方向に発展をしたものが世直しの事業ということになるわけです。
 より善く生きる問題というのは、より人間らしく生きるという問題ですから、それは言い換えるとより自由になるという問題です。より自由になるというのは、やはり形式的自由から普遍的・必然的自由を経て概念的自由に至るという方向です。より善い生きがいの問題とより善く生きる問題の二つを統一したものが、世直しの事業なのです。だから世直しの事業というのは最高のより善く生きることであると同時に、たんに個人的な満足を得る生きがいではなくて、より人間らしく生きる生きがいにもつながっているというとらえ方が必要ではないかと最近では考えています。

川原 私の理解は、個人的により善く生きるというのは、個人の尊厳、これが根底にあるということから、さらに人間としてより善く生きる形へ発展するんだと思います。だから世直しということを理念にかかげて生きるということは、最も普遍的、最高のより善い生き方なんだと思います。

高村 第七講の「人間の尊厳」というところで、「こうして個人は、個人的特殊性から人間的普遍性へ前進していくことにより、『個人の尊厳』は『人間の尊厳』へと発展していくのです」と書きました。個人の尊厳を土台にしながら、人間の尊厳をそれにつけ加えていくんだなというとらえ方が必要だと思っています。

太田 ここのところは、なぜ役員をやっているのかということに対する一つの解答だと思うのです。民商の役員、あるいは事務局をやっていて、じゃあどんな利益があるのというふうに世間的にはいわれるわけです。
 だけどそこにあるのはやっぱり人間の自由であり、世直しのことなんですよね。そうすると、より善く人間として生きる、この社会を世直しをし、自分自身がそういうなかで個人の尊厳をかけて社会を変えていくためにたたかっていくんだという、言ってみれば役員の、なぜ役員をやっているのかという本質論がここで展開されていると思って、ここは読んだのです。

高村 自由論を一番発展したものとして理解しているのはヘーゲルだと思います。人間の本質は自由と民主主義の欲求にあるととらえることは、マルクスも同様であり、だから人間解放の社会というのは最高の民主主義を実現することによって最高の自由を実現する、それが人間解放の社会であり、社会主義・共産主義の社会だという、大きく言えばそういう構成だと思います。つまり人間の本質は自由と民主主義を内的に欲求することにある。それが階級社会と国家によって人間の本質が損なわれ、人間疎外が生じるし、その疎外からの回復をしようとするのが社会主義・共産主義社会だということです。このとらえ方の大枠はヘーゲルが生み出しているのです。ヘーゲルは、搾取こそ人間の自由を疎外する根本だというとらえ方をしています。
 つまりヘーゲルがいっているのは、理想と現実の統一、それこそがわれわれがやるべきこと。現実の社会を見ることを通じて、その社会の真にあるべき姿は何かを提起する、それがいわゆる理想と言われるものであって、そういう真にあるべき姿をかかげることによって、それが必然的に現実性に転化することになると、いっています。

太田 今の先生の話は、職人技でものをつくり出していく、いわばその職人の自由と、自分の魂を込めてつくった製作物に対する、そこに二重の自分の人格が入り込むということをすごく感じました。

スピリチュアルとのたたかい

高村 そういう意味で、学習することを通じて、この世の中を真にあるべき世の中に変えていく、そういう運動に参加することによって人間はより自由になるんだというところにつながる言葉だと思います。
 科学的社会主義の学説を、完成した固定したものとして見ないということが大事だと思います。私に言わせれば、まだまだ大きな柱が欠けているのです。例えばレーニンの「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」という論文があるでしょう。科学的社会主義というものを経済学、哲学、社会主義の三つの構成部分で、これでおしまいなんだというとらえ方になっています。そうしたら、その中に人間論の入ってくる余地がない、あるいは自由と民主主義の入ってくる余地はないじゃないですか。
 科学的社会主義というのは「全一的な世界観」であり、世界のすべての問題を視野に入れて、そこにおける真理を探究する理論だと思います。経済学は土台ですから当然必要なのですが、それに加えて政治学、法学(一緒にして国家学といってもいいと思いますが)など上部構造に関する学問もいるわけで、それは人民主権論だとか自由・民主主義論にもつながるのです。だけどそれもまたあくまでも社会の構造の問題であって、自然と社会とともに、もう一つ人間論というのが大きな柱にならないといけない。人間としてどう生きるかという問題が、本来、哲学の重要な部門であったと思うのです。
 特にこのような生きにくい世の中だからこそ、いかにより善く生きるかという問題を、もっともっと語って、その哲学的な魅力で人を組織するということが大事なのです。あなた自身どう生きるんですか、たった一回しかない人生をどう悔いなく生きるか、どう生きれば悔いなく生きることができますかという問題を突きつけてせまったときに、本当に組織者としての役割を果たしうるのではないでしょうか。そういう意味でも生きがい論の問題、より善く生きる問題というのは、もっともっと学ばなければいけないと思います。

川原 最近、感じるのは、霊というのですかね、スピリチュアル(spiritual)ですね。それがさかんにテレビで取り上げられたり、若い人たちがそれに参加しているというのです。
 そういうことに対して私自身、非常に危機感をもっていて、この生きにくい世の中でどうやって自ら生きていかなければいけないのかということに対して、模索している一つのあらわれかなと感じているのです。

高村 その点は、やっぱり階級闘争の一つのテーマだと思います。つまり独占資本の側、経団連の側でも、より善く生きる問題を彼らなりに打ち出しているわけです。より善く生きる問題をみんなが模索しているから、彼らの側ではそれに対してスピリチュアルだ、心のもち方でいくらでも解決できるんだという観念論的方向で出そうとしているのです。これに対して私たちの側から、唯物論的「生き方論」を提起する必要があるのです。

太田 先ほどの先生の話は、これから民商の役員や事務局にとって重要な指摘だと思います。

高村 私自身、人間論の問題は探究し始めたばかりだと言いましたが、これは実践を通じて理論化していくしかないのです。いろいろな方たちと交流しながら、どう発展させたらいいのかを模索するしかないので、これは観念論的に私の頭のなかから答えが生み出されるということではないのです。いずれにしても観念論的生きがい論、スピリチュアルとのたたかいが重要ですね。
 そういう点では民商さんが、中小業者の生き方・事務局員の生き方という問題を提起していること自体、大いに意義のあることで、この哲学講座は時宜にかなった適切な問題提起だと思います。

私たちの運動は駅伝

川原 私も学習を最重要課題に、私自身の問題としていきたい。それともう一つは、自らの仕事と業者運動とを、より高い次元でどう統一し、高めていくのかという点で、私自身、もっと探究していきたいと思います。

太田 哲学というと、ちょっとむつかしそうだという感じがするけれども、やっぱり先生が言われるように人間論ですね。一人ひとりがまじめに商売をやって生きていくなかで、どんなより善い生き方があるのか、世の中をどう変えていくのかという点では、非常に重要な連載だと思います。

高村 私は若いときに、弁護士の仕事と科学的社会主義の学習とを二足の草鞋のようにずっとはいていたのです。わらじ最初は二つの問題をこっちはこっちとぜんぜん別の関係のない問題だというふうに思っていた。けれども、だんだん科学的社会主義の理論を学ぶなかで、それは合法則的に生きる道を指し示す理論ですから家業の問題と学習の問題とが、次第に統一されてきました。
 私自身の経験からしても、そうやって学習するなかで家業である弁護士の仕事もスムーズにやっていけるようになったというふうに、いろいろな意味で無駄なところに力を入れないで、合法則的に変幻自在に、流されながらそのなかで抵抗していくというか、そういうのが無理なく、無駄なくできるようになってきたという感じがしますね。
 最近、あちこちでよく話しているのですが、私たちの運動は駅伝であってマラソンではないのです。マラソンは自分でゴールに駆け込むのだけれども、駅伝は次の人にバトンタッチする。そうやってバトンタッチを積み重ねていくなかで、最後の人がゴールに駆け込む運動なんです。

川原 駅伝だというのはいい例えですね、分かりやすいです。

太田 そうですね。今日はどうもありがとうございました。