『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第一講 ヘーゲル『小論理学』とは何か

 

一、はじめに

ヘーゲル弁証法

 今日から四十回(前期二十回、後期二十回)かけて、ヘーゲルの『小論理学』(松村一人訳、岩波文庫上・下)を学んでいくことにします。
 いうまでもなくヘーゲル哲学は、科学的社会主義の哲学、弁証法的唯物論の源泉をなすものです。哲学という学問は、「ものの見方・考え方」の根本をなすものですから、ヘーゲル哲学を学ぶことは、科学的社会主義の世界観の根本を学ぶことにつながるといっていいでしょう。
 ヘーゲル哲学から学ぶべき最大かつ中心的理論は、弁証法、または弁証法的論理学という思惟形式です。
 エンゲルスは、「弁証法とは、自然、人間社会および思考の一般的な運動=発展法則にかんする科学」(『反デューリング論』全集⑳一四七ページ)であるといっています。
 世界に存在するものはすべて運動しています。この運動一般を論理的にとらえる思惟形式が弁証法です。古代ギリシア哲学にはじまった弁証法は、ヘーゲルによってはじめて「包括的で意識的な仕方で叙述」(『資本論』あと書き〔第二版への〕)されました。それが「論理学」です。
 ヘーゲルの論理学には、『大論理学』と『小論理学』とがあります。『小論理学』は、『エンチクロペディー』という哲学体系書の第一部(第二部は「自然哲学」、第三部は「精神哲学」)をなすものです。『エンチクロペディー』は、ヘーゲル哲学体系の完成態であり、また『小論理学』は比較的手に入りやすいので、これをテキストに使うことにしました。

四度目の『小論理学』

 『小論理学』を講義するのは、今回で四度目になります。これまでもそうでしたが、私たちは科学的社会主義の哲学をより豊かにするためにヘーゲルを学ぶのであって、けっして無批判的にヘーゲルを学ぶヘーゲリアンではありません。しかし反面では、ヘーゲルを客観的観念論者だと規定することにも疑問を感じています。
 第一回は一九九四年から一九九五年、第二回は一九九六年から一九九八年、この二回の講義を受けて九九年『ヘーゲル「小論理学」を読む』が出版されます。
 第三回は二〇〇六年から二〇〇七年、これを受けて長年の弁証法探究の集大成として『弁証法とは何か――「小論理学」に学ぶ理想と現実の統一』が出版されました。
 それにもかかわらず今回の講義に至ったのは、科学的社会主義の古典である『資本論』と同様、何度でも学びなおし、新たな発見をする必要があると考えたのが、一つ目の理由です。ヘーゲルは、生涯にわたって十回も哲学史の講義をしています。しかもそれを人類の真理探究の発展過程として位置づけ、二千五百年に及ぶ古今東西の哲学の歴史の総括のうえに自己の哲学を確立しています。いわば人類の知識の総和として誕生したヘーゲル哲学には、「今日でもなお完全に値うちのある無数の宝」(エンゲルス『フォイエルバッハ論』)が埋まっており、それを掘り起こすのが現代に生きる私たちの責任ではないかと思われるからです。その最大の「宝」は、ヘーゲル哲学が「革命の哲学」であることを学びとることにあると考えています。
 二つ目の理由は、ヘーゲル弁証法は「さか立ち」しており、「事物とその発展のほうが、すでに世界よりもまえにどこかに存在していた『』の現実化された模写にすぎない」(全集⑳二三ページ)とする観念論だととらえることへの疑問です。
 『弁証法とは何か』では、こうした疑問をもとに、ヘーゲル哲学の本質を、革命の哲学であることを覚られないための「観念論的装いをもった唯物論」であると規定しました。この規定の正しさを検証するためにも『小論理学』のあれこれの文章を引用するのではなく、全文を逐条的に解釈してみようと考えたのです。
 一九九九年の『読む』も逐条的解釈をしたものですが、そこでは『小論理学』のうち、「序文」「エンチクロペディーへの序論」「予備概念」が省略されていましたし、ヘーゲル哲学の本質についても、「九五%唯物論者」でありその「哲学体系の枠組みが観念論」、という不十分な理解にとどまっていました。「九五%唯物論者」、五%観念論者というとらえ方は機械的、形而上学的理解であり、ヘーゲル哲学の本質を統体としてとらえる表現としては不適切といわざるをえません。
 そこで今日的到達点にたって、ヘーゲル哲学をより深く理解し、ヘーゲル哲学の本質を検証したいとの思いから今回の講義となったものです。
 三つ目の理由は、『読む』は上下二冊、千百ページという大著となったため、もう少しコンパクトなものが欲しいとの要望にこたえて『弁証法とは何か』(四百八十ページ)を出版したのですが、出版後も『読む』はないかとの問い合わせが途切れないのです。
 『読む』には具体的な例が数多く含まれていて、しかも逐条的解釈になっているため、初めてヘーゲルを学ぶ人々にも分かり易い入門書という特徴があります。引き続き『読む』への要望があるということは、ヘーゲルを読みこなす力を身につける「入門書」を手に入れたい気持ちの表れではないかと思われます。
 しかし『読む』は、主として「概念論」の新解釈についての問題提起の書であり、『小論理学』の細部の読み解きについては不十分、不正確なところも多々ありました。
 そこで今回は、入門書としての逐条解釈を保ちながら、より正確に、またヘーゲルの隠された真意をも明らかにしつつ、ヘーゲル哲学を読みこなすポイントを提起していこうとの思いからの出版となりました。

 

二、時代の精神としてのヘーゲル哲学

ヘーゲルの生きた時代

 ヘーゲル(一七七〇~一八三一)の思想を理解するためには、彼の生きた時代を知らねばなりません。
 ヘーゲルの晩年の主著『法の哲学』の序文で、彼は、「個人にかんしていえば、だれでももともとその時代の息子であるが、哲学もまた、その時代を思想のうちにとらえたものである」(『世界の名著・ヘーゲル』一七一ページ、中央公論社)といっています。
 一七八九年に勃発したフランス革命は、王制廃止と第一共和制、ジャコバン独裁と恐怖政治、テルミドールの反動によるブルジョアジーの権力確立、ナポレオンのクーデターとナポレオン帝政、ナポレオン戦争を経て反動的ウィーン体制の確立、革命の発展・継承を求めた七月革命(一八三〇)へと展開します。
 ヘーゲルは隣国・ドイツでこの革命の起承転結を強い関心をもって見とどけます。当時のドイツは三十八の帝国、王国、公候国、自由市からなるゆるい連邦の前近代国家でした。「自由、平等」(因みに「自由・平等・友愛」がスローガンとなったのは、一八四八年の第二共和制〈二月革命〉から)を旗印に革命が始まったとき、ヘーゲルは熱狂して友人のシェリングやヘルダーリンらとともに「自由の樹」を植え、革命歌を高唱しながら踊りまわったといわれています。またナポレオンがドイツ・イエナを占領し、入城したのを目撃したヘーゲルは、「私は、皇帝、この世界精神が町を通って陣地偵察のために馬を進めるのを見た」と手紙に書いています。「世界精神」とは、時代を代表する精神という意味です。ジャコバン派で革命軍の司令官であったナポレオンの手により、時代の精神である国民の自由がドイツにも実現することに期待を寄せたものでしょう。
 恐怖政治やブルジョア権力の確立を目にしながらも、ヘーゲルは生涯にわたって自由の精神を賛美し続け、挫折したフランス革命の精神を自己の哲学において完成させようとしました。
 『弁証法とは何か』の副題を「『小論理学』に学ぶ理想と現実の統一」としたのも、それがヘーゲル哲学の基本的立場だと理解したからにほかなりません。彼が「哲学もまた、その時代を思想のうちにとらえたもの」というとき、ヘーゲル哲学は革命の哲学であることをそれとなく宣言したものといってもいいでしょう。
 ヨハヒム・リッターが「ヘーゲルの哲学のように、ひたすら革命の哲学であり、フランス革命の問題を中心的な核としている哲学は、他には一つもない」(出口純夫訳『ヘーゲルとフランス革命』一九ページ、理想社)と述べているのは、的確な評価だと思います。
 マルクスは、カント哲学を「フランス革命のドイツ的理論」とよんでいますが、この表現はカントよりもむしろヘーゲルにこそふさわしいというべきでしょう。

偽装の下の革命の哲学

 フランス革命という時代を思想のうちにとらえようとしたヘーゲル哲学は、けっして観念論的な議論をもてあそび、ひたすら世間から隔絶した書斎の中で思索にふけったのではなく、常に時代に向きあい、時代の動きに現実的関心を寄せ、どう対処すべきかを考えていたのです。
 ヘーゲルが『エンチクロペディー』の哲学体系を完成したのは、ウィーン体制確立後の一八一七年でした。それからわずか四年後に、彼は『エンチクロペディー』の第三部「精神哲学」のうちの「客観的精神」に該当する部分を『法の哲学』という大著に発展させ、世に問うています。自己の哲学体系を完成させたばかりだというのに、なぜその一部分を独立の大著にまとめたのでしょうか。ここには反動的ウィーン体制に抗して、自由の精神を実現する真にあるべき国家・社会の理念を提起したいとの不屈の精神があったのではないかと思われます。
 ヘーゲルにとって、世界は大きく精神と自然に二分されます。精神とは人間の活動の根本をなすものであり、自由な意志をその基本的性格としています。精神は自然に立ち向かい、自然のなかに自己を貫いて、自然を自己と同化します。主観的精神とは人間の精神活動を意味しており、客観的精神とは人間が自由実現のために、自由な意志でつくり出した社会的共同体とその相互の関係を意味しています。『法の哲学』の「法」とは、ドイツ語のレヒト(英語のライト)であり、正しさ、正義を意味しています。ヘーゲルは『法の哲学』をとおして、法、道徳、家族、社会、国家などの社会共同体の正しい姿、真にあるべき姿をとらえようとしました。
 その序文の一部を紹介しておきましょう。ヘーゲルはヨハネ黙示録の「我はむしろ汝が冷からんか、熱からんかを願ふ。かく熱きにもあらず、冷かにもあらず、ただきが故に、我なんぢを我が口より吐き出さん」(三・一五、一六)とのイエスの言葉を引用しつつ、次のように述べています。
 「熱きにもあらず、冷やかにもあらず、それゆえに吐き出されるようなしろものたる、真理にだんだん近づく哲学などでもっては理性は満足しない。……それゆえただ現実との平和が保たれさえすればいいとするような、冷たい絶望でもっても理性は満足しない。認識が得させるものは、もっと熱い、現実との平和である」(前掲書一七三~一七四ページ)。
 現実の変革に何の役にも立たないような真理ではなく、「熱い現実」を生みだす真理こそヘーゲルの求めている哲学なのです。『エンチクロペディー』体系完成の四年後に『法の哲学』を著したのも、真にあるべき社会、国家という「熱い現実」を声高に主張したかったからだといえるでしょう。というのも、ヘーゲルは右の序文に続けて、哲学の仕事は「世界がいかにあるべきかを教えること」(同一七四ページ)にあるとして、有名な「ミネルヴァのふくろうは、たそがれがやってくるとはじめて飛びはじめる」(同)との文章を続けています。ミネルヴァはローマ神話の智恵の女神であり、ふくろうはその使者とされています。「現実の成熟のなかで」(同)、世界の真にあるべき姿を伝える哲学はその出番を迎えており、それが今なのだというわけです。
 もう一つ紹介しておきましょう。ヘーゲルが情熱を傾けて生涯に十回も講義した『哲学史』の結語部分です。
 時代の精神は、時にはその歩みをとめたように見えながらも、常に前進し続けるとしたのに続けて、次のように述べています。
 「それは内的な作業を続け ── あたかもハムレットがその父の亡霊に就て、『でかしたもぐらもち、なものよ』という如く、 ── 遂に自らの中に力がって、今やそれをその太陽その概念から隔てる地殻にうち当り、為めに地殻が崩れるに至るのである」(藤田健治訳『哲学史』下巻の三、二〇二ページ)。
 ハムレットは、地下の亡霊がもぐらのように早く動きまわって、ハムレットと口調をあわせるのをとらえ、「でかしたもぐらもち、健気なものよ」と言うのですが、時代の精神は、一見止まっているように見えても、このもぐらもちのように地下で動きまわり、地殻を打ち破って太陽の光のもとに飛びだそうとしている、とヘーゲルはいうのです。これに続けて、もぐらもちが「内部にあって力をこめて進む時 ── 我々はその音に耳を傾け、これに現実性を与えねばならない」(同二〇八ページ)とヘーゲルは述べており、さらに哲学史を学ぶのは、時代の精神を地下の暗闇から「真昼の光の裡に引き出そうという促し」(同)のためであると、熱く語っています。
 しかし第二講で学ぶように、ヘーゲルは反動的なウィーン体制のもとで、革命の哲学である「論理学」を奴隷の言葉で語り、真意を覚られないようなカムフラージュを施しています。それがヘーゲル哲学を一段と難解なものとする大きな要因となっています。
 財界人の品川正治さんが「新しい社会主義を考えなければならない」と発言したり、『蟹工船』がブームとなったり、テレビ局が「資本主義は限界か」という企画を立てたりしています。ラテンアメリカでも資本主義の限界を感じて「社会主義のルネッサンス」をとなえる動きが広まっています。
 現代は、ヘーゲルの生きた時代と同様の「地殻が崩れるに至る」時代といえるでしょう。「我々はその音に耳を傾け、これに現実性を与え」るために、今こそ偽装の下にある革命の哲学を学ばねばならないのです。

 

三、ヘーゲル「論理学」は理想と現実の統一をめざす

ヘーゲル論理学の基本的立場

 論理学は、ドイツ語でローギックといいます。ロゴスの学という意味です。
 ヨハネ福音書の冒頭に「始めにロゴスありき、ロゴスは神とともにあり、ロゴスは神なりき」とあります。ロゴスには、言葉、理性、論理などの意味がありますが、「世界の根本原理としての理法」という意味で、ヘーゲルは自分の哲学を「論理学」とよんだのです。論理学は第一部「有論」、第二部「本質論」、第三部「概念論」という構成になっています。
 哲学とは、自然、社会、人間、つまり世界全体とその相互関係を支配する根本原理をとらえようとするものです。世界は、一方で人間(精神)、他方で自然、社会を一まとめにしたもの、の二つに大きく区分されます。言いかえると思考と存在、主観と客観、精神と物質とに分かれます。そのいずれを第一次的、根源的と考えるかによって、哲学は観念論と唯物論の二大陣営に分かれることになります。思考・主観・精神を第一次的なものとする陣営は観念論とよばれ、存在・客観・物質を第一次的なものとする陣営は唯物論とよばれます。
 では、「論理学」はその構成からみたとき、どちらの陣営に区分されるでしょうか。ヘーゲルは『哲学入門』(武市健人訳、岩波文庫)において、「有論」と「本質論」は客観的論理学であり、「概念論」は主観的論理学だといっています(同一五六ページ)。
 もしヘーゲル哲学が観念論だとすれば、主観的論理学から出発し、客観的論理学へと進んでいかなければなりませんが、実際にはその逆となっています。ヘーゲルが客観的論理学から筆をすすめているのは、存在・客観・物質こそ第一次的、根源的なものであるとし、主観的論理学は第二次的な、客観的論理学を土台としてそのうえにたつものであることを認めたものということができるでしょう。
 しかしヘーゲルは、人間の人間たるゆえんを、動物とちがって自由な意志をもって存在・客観に働きかけ、これを作りかえるところに求めています。これまでの弁証法的唯物論では存在・物質を第一次的とするあまり、「存在は意識を規定する」として、客観的事物を意識に反映する側面のみが一面的に強調されていたように思われます。ヘーゲル論理学を学んだレーニンは、『哲学ノート』(レーニン全集㊳)のなかで、「人間の意識は客観的世界を反映するだけでなく、それを創造しもする」(同一八一ページ)といっています。
 レーニンが「創造しもする」という腰の引けた表現をしているところに、従来の反映論のもつ一面性が示されているように思います。しかし人間の意識は創造するところにこそその真の意義があるのであって、この点を強調したヘーゲルの功績は高く評価されなければなりません。
 ヘーゲルは、論理学の構成にみられるように、主観と客観とを明確に区別し、客観を第一次的、根源的ととらえながらも、人間の主観・精神はそれを自由に変革しうるという点において、客観に対する主観の優位性を主張すると同時に、主観と客観の対立を克服し、主・客同一性を実現する「理想と現実の統一」の立場をとっているのです。
 したがってヘーゲル哲学の基本的立場は、唯物論的な変革の立場ということができるのではないかと思われます。

ヘーゲルの哲学体系を貫く弁証法

 『エンチクロペディー』の構成は、先にも一言したように、「論理学」「自然哲学」「精神哲学」となっています。
 論理学は、自然、精神という対象を思惟(思考)によって考察し、それを思惟形式としてのカテゴリーや概念にまで高めて、自然と精神の根本原理をとらえようとしたものです。この根本原理としての論理学を自然と精神に適用したものが、自然哲学、精神哲学です。
 その全体を貫くものが「対立物の統一」を基本とする弁証法であり、哲学体系は全体として弁証法的に構成されています。
 論理学は「有論」「本質論」「概念論」、自然哲学は「力学」「物理学」「生物学」、精神哲学は「主観的精神」「客観的精神」「絶対的精神」というようにそれぞれ弁証法的な三分法が貫かれています。それだけではありません。例えば有論はさらに質、量、限度に三分され、質はさらに有、定有、向自有にと、どこまでいっても三分法となっています。
 ヘーゲルが三分法にこだわっているのは、すべての事物には相対立する両面があり、その一面のみをとりあげるところに真理はないと考えているからです。この三分法は、肯定 ── 否定 ── 肯定と否定の統一というように、一面性の否定による統体性を示しているのです。
 ヘーゲルは、三分法について即自 ── 対自 ── 即自かつ対自(即対自)という表現方法を使っています。テキストの上巻九〇ページ以下にその「訳者註」が出ています。即自、対自、即対自とは、物質の問題としては「対立の未分化の状態、対立の発展した段階、対立の同一、統一によって対立が解決された状態」(九〇ページ、以下 を省略)、精神の問題としては「対立したものを自覚しない段階、対立を自覚した段階、そしてこの対立の同一を認識して対立を解決した段階」(九一ページ)と理解すればいいでしょう。
 つまり三分法とは、対立物の統一であり、この三分法をいく層にも積み重ねることによってヘーゲルの哲学体系は構築されているのです。これは第二講で学ぶように「萌芽からの発展」といわれる発展形式なのです。

論理学は主・客同一性の哲学

 ヘーゲル論理学は、存在論と認識論の両者を含み、存在を論じているのかと思えば認識を論じ、認識を論じているのかと思えば存在を論じているというように、両者を混同しているところにヘーゲルの観念論があるとの見解があります。
 「存在論(オントロジー)」とは、アリストテレスの「第一哲学」に端を発しています。彼はそこで「存在としての存在」を主題とし、存在の根本原理を存在と非存在、実体、形相と質料、可能性と現実性、同一と区別、全体と部分などのカテゴリーにおいて認識しようと考えました。その意味では「存在論」といっても存在そのものを問題とするのではなく、その根本原理を思惟の形式においてとらえようとするものであって、存在の根本原理をどのように認識するのかという認識論にほかならないのです。
 ヘーゲルの客観的論理学は、この「存在論」を対象としたものですから、あくまで認識論を論じたものとして理解すべきでしょう。
 レーニンは、ヘーゲル論理学を学ぶなかで、「論理学、弁証法および認識論」(『哲学ノート』二八八ページ)の三つは、「同一のものである」(同)と述べています。この言葉をどう理解すべきかの議論がありますが、「ヘーゲル論理学は弁証法という真理認識の方法により真理をとらえた認識論であるから、論理学、弁証法、認識論の三つは同一のものである」として理解すべきではないかと考えるものです。
 もっともヘーゲルの場合、主・客同一性の哲学、理想と現実の統一の哲学ですから、単なる認識論にとどまるものではなく、実践論をも含んでいるところにその特徴があります。いわば客観 ── 主観 ── 主観と客観の統一(同一)という観点が貫かれているのです。先ほど、「有論」「本質論」は客観的論理学であり、「概念論」は主観的論理学と紹介しましたが、より正確には、概念論には、主観的論理学とあわせて、主・客同一の論理学が含まれているのです。
 有論では客観世界の表面的な真の姿が論じられ、本質論では有論を止揚して、事物を本質と現象のように内面と外面に二重化してとらえる対象の内面的な真の姿が論じられます。概念論では、まず人間はどのようにして客観世界の真理を認識するのかという認識の形式(概念、判断、推理)が論じられます。続いて客観世界の真にあるべき姿という当為(まさにあるべきこと)の真理とその実現という認識論と実践論の統一が論じられ、理想と現実の統一により締めくくられることになります。

ヘーゲルの真理観

 ヘーゲルは、哲学の目ざすものは真理であるといっています。それに関して、いくつか議論すべき問題があります。
 第一に弁証法的唯物論では、真理とは客観に一致する認識であるとしています。しかしヘーゲルはそれを当然のこととして肯定しながらも、それは単なる「正しさ」であって真理ではないと考えます。なぜなら存在する客観的事物には、一時的、偶然的な存在もあれば、恒久的、必然的な存在もあり、一時的、偶然的なものをそのまま表面的に認識したとしても、それは真理の名に値しないというのです。ヘーゲルは客観的事物の真の姿または真にあるべき姿を認識することこそ真理の認識であると考えています。この点は、理想とは何かを考えるうえで重要なヒントを与えてくれるものです。
 第二にヘーゲルは、自然にも精神にもすべて真理が存在すると考えています。最近モノ言わぬ自然については真理は存在しても、人間のかかわる道徳や倫理、ひいては社会や国家などについては、「価値観の多様性」が認められるだけで真理は存在しないとの考えが横行しています。これらが問題になると、「価値観の相違」「見解の相違」を理由に、それ以上議論して真理を明らかにしようとする努力を回避しようとする傾向があります。そのこと自体支配階級の支配的イデオロギーというべきものです。
 ヘーゲルの時代にも、フランス革命が「自由・平等」という理想をかかげてたたかわれながら、その目的を達成したはずのジャコバン独裁のもとでギロチンによる恐怖政治がまかり通ったところから、国家、社会のあるべき姿に真理は存在しないとする議論が大きな影響力をもっていたようです。
 ヘーゲルは、「序文」「序論」「予備概念」の全体をとおして、人間の認識には限界があることを理由に国家、社会の真理は存在しないとか、存在するとしても認識しえないとするあらゆる議論と徹底的にたたかっています。
 人間の精神活動の産物である道徳、倫理、国家や社会について、人間はそれがどのようにあるのかの真理(真の姿)を認識しうるのみならず、どのようにあるべきかという当為の真理(真にあるべき姿)をも認識しうるのであって、この世界に人間がその真理を認識しえないものはなにひとつ存在しない、というのがヘーゲルの結論です。この見地にたって『法の哲学』が著されていることは、すでにお話ししたとおりです。
 真にあるべき国家を、人民の人民による人民のための国家、人民主権国家であるととらえたのは、ルソーの『社会契約論』でした。この真にあるべき未来社会論は、ヘーゲル『法の哲学』を経て、マルクスの「社会主義論」に発展させられています。最近の『新メガ』の研究で、マルクスの未来社会としての「アソシエーション(共同社会)」は、ルソーの『社会契約論』からの引用であることが判明しています。真にあるべき国家という国家の真理の探究がルソー ── ヘーゲル ── マルクスと継承・発展させられ、科学的社会主義の社会主義論「人民が主人公」の理論として、いま結実しているのです(拙著『ヘーゲル「法の哲学」を読む』参照)。
 ヘーゲルの人間の理性に対する無限の信頼と世界のすべてについての真理認識を肯定する姿勢を、私たちはしっかり学ばなければならないと思います。
 第三に、ヘーゲルは、一面性はいまだ真理ではなく、真理は統体性にあると考えています。ここから「対立物の統一」という弁証法を真理認識の方法だととらえているのです。
 エンゲルスは、「形而上学」を、「あれかこれか」とする二者択一の考えとして理解しています。
 「彼にとっては、ある物は存在するか存在しないかのどちらかである。同様に、物はそれ自体であると同時に他のものであることはできない。積極的なものと消極的なものとは、絶対的に排除しあう」(全集⑳二一ページ)。
 この考えは、「きわめて広い領域で正当性をもって」(同)いるけれども、ある限界から先では、「解決できない矛盾に迷いこんでしまう」(同)と批判しています。
 ヘーゲルにいわせると、エンゲルスのいう「形而上学」は一面的であるがゆえに真理ではなく、真理は「あれと同時にこれ」という対立物の統一という統体にあるのです。
 議論に際して、相手の誤りを指摘する際に、「それは一面的である」との批判は極めて有効なものであることを知っておくべきでしょう。
 マルクスは、『資本論』に関し、「僕の著書の長所は、それが一つの芸術的な全体をなしているということなのだ」(全集㉛一一一ページ)といっていますが、これも真理は統体であるとするヘーゲルの真理観に学んだものであるといえるでしょう。
 第四に、ヘーゲルは絶対的真理という意味で「絶対者」という言葉を使うことがあります。
 例えば、「絶対者の学は必然的に体系でなければならない」(八四ページ)という場合の「絶対者」がそれです。
 もともと絶対者とは、他のなにものをも必要としない無制約的なもの(神の別名)の意味で用いられていたのですが、ヘーゲルは、絶対的真理には、それに付加すべきなにものも存在しないところから、それを「絶対者」のうちに含めているのです。
 そこから、「絶対者は有である」(二六三ページ)、「絶対者は本質である」(㊦九ページ)、「絶対者は概念である」(同一二二ページ)というような表現がとられることになります。
 いわば論理学は、「絶対者の学」なのです。論理学は、主観と客観の一面性を止揚した主・客の同一性を定立する対立物の統一の学であるがゆえに、絶対的真理の学ということになるのです。