『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第六講 予備概念 ①
    論理学とは何か

 

一、論理学「予備概念」の主題と構成

 いよいよ今日から「論理学」に入っていきますが、本論に入る前に上巻の約半分を占める大変長い「予備概念」が存在しています。
 まず最初に、この予備概念でヘーゲルがいったい何をいいたいのか、どういう構成になっているのか、その主題と構成をみていくことにしましょう。
 「第一版の序文」において、ヘーゲル論理学は弁証法をつうじて「哲学を革新しようとする」(二〇ページ)ものであることを学びました。
 予備概念は、全体としてヘーゲル哲学はいかなる点において哲学を革新しようとするのか、他の哲学に比べてどのような特徴をもっているのかをテーマとしています。一言でいうとヘーゲル弁証法とは何かを論じているのです。
 大きくみると、予備概念は三つに区別されています。
 第一区分は一九節から二五節までで、論理学とは何か、が主題となっています。ここでは論理学の課題は真理の認識にあり、それは思惟の活動によって実現されることが明らかにされます。一節で哲学は真理を対象とするとしながら、まだ真理とは何かは明らかにされませんでした。ここにきてようやく真理とは何かが正面から論じられることになります。ヘーゲルのいう絶対的真理とは客観に一致する認識というにとどまらず、概念(真の姿または真にあるべき姿)に一致する事実(つまり、理念)までをも意味すること、したがって論理学とは理念という絶対的真理をとらえる哲学であることなどが明らかにされます。
 第二区分は二六節から七八節までで、「客観にたいする思想の態度」という見出しがつけられています。
 テキストでは「客観」と訳されていますが、原語は客観を意味する「オプエクト(Objekt)」ではなく、「オプエクティヴィテート(Objektivität)」ですから、「客観性」と訳すべきものでしょう。客観性とは、ヘーゲルのいう「思惟によって把握された事物の本質」(一六九ページ)であり、客観のなかにある真なるものを意味しています。
 「客観性にたいする思想の態度」とは、客観のうちの真なるものを認めるかどうか、認めるとしてもそれを思想のうちにとらえることができるかどうかに関する諸哲学の態度を意味しています。近代合理主義哲学は、理性にもとづき真理を探究することを課題にしています。ヘーゲルは、近代合理主義の系譜のもとにあって客観のうちの真なるものの存在および認識にかかわる四つの哲学 ── 古い形而上学、経験論、カント哲学、ヤコービの直接知 ── をとりあげ、その批判のうえに、理性により無限の真理を認識しうるとするヘーゲル哲学を構築したのです。
 第三区分は七九節から八三節までで、「論理学のより立入った概念と区分」(二四〇ページ)について述べたものです。
 ここでは第一区分、第二区分の総括のうえに真理認識の唯一の形式である弁証法が、なぜ肯定 ── 否定 ── 肯定と否定の統一という基本形式をもつのかを明らかにすると同時に、論理学の「有論」「本質論」「概念論」という三つの「区分」が弁証法の基本形式にもとづくものであることが明らかにされています。ヘーゲルが弁証法の必然性とその構造についてまとまった形で述べているのは、この箇所と論理学全体を総括した「絶対的理念」の二箇所のみとなっています。

 

二、論理学とは何か

一九節 ── 論理学は純粋な理念にかんする学

 一八節で、「哲学の全体がはじめて理念を表現」(八九ページ)し、「哲学の区分もまた理念からのみはじめて理解されうる」(同)ことを学びました。
 これを受ける形で、「論理学は純粋な理念にかんする学、言いかえれば、思惟の抽象的な領域にある理念にかんする学である」(九五ページ)とされています。
 ここにいう理念とは主観と客観との統一、あるいは普遍と特殊(個別)との統一としての絶対的真理を意味しています。論理学が「純粋な理念の学」であることは、「全体を概観した後に、そして全体の概観から導き出された」(同)定義ですから、ここでは、とりあえず結論はそうなりますよ、ということを予告するにとどまっています。
 「論理学は思惟の学、思惟の諸規定と諸法則の学であるということもできる」(同)。
 論理学は、存在するもののうちの真なるものを思惟によってとらえ、諸カテゴリーという「思惟の諸規定」に還元すると同時に、そのカテゴリーを「対立物の統一」という弁証法の「諸法則」においてとらえる哲学なのです。この点において「形式的な思惟」(同)としての形式論理学から区別されます。またヘーゲル哲学においては、カテゴリーは弁証法的に発展する「萌芽からの発展」として展開され、その完結した体系全体が主観と客観の統一としての理念をなすことになります。
 したがって「理念は、形式的な思惟としての思惟ではなく、思惟に固有の諸規定および諸法則の発展する全体としての思惟」(同)であり、「思惟はこのような全体を自ら作り出す」(同)のです。
 このように論理学は、思惟によって事物を抽象化して、「純粋な抽象物を取扱うもの」(同)であり、したがって「純粋な思想をしっかりと捕え、純粋な思想のうちで動く力と熟練とを要する」(九五~九六ページ)のです。
 その意味では、哲学は「最もやさしい学問」(九六ページ)であると同時に「最もむつかしい学問」(同)です。「最もやさしい」というのは、「われわれに最もよくられたもの」(同)を対象にするからであり、「最もむつかしい」というのは、「人々がすでに識っているような識りかたとは全くちがった」(同)識りかたが必要だからです。どのようにちがった識りかたをするのかといえば、具体的なものを「純粋な思想」としてとらえなおすのです。
 論理学にどんな効用があるのかは、それを研究する人の思惟の「訓練」(同)の程度によって決まります。論理学は思惟の働きの「最も自由で最も自立的なもの」(同)ですから、思惟の訓練さえあれば「最も有益なもの」(同)となるのです。

一九節補遺一 ── 論理学の対象は真理

 論理学の対象となるのは真理です。真理の認識にもいろいろな段階があり、これから順次みていくように表面的な真理から深層の真理まで、有限な真理から無限な真理まで、いろんなレベルの真理があります。真理認識の諸段階をかけあがって無限の真理、絶対的真理にまで接近していくには、「精神の労苦を引受ける」(九八ページ)覚悟が必要であり、「怠惰な精神」(同)では目的を達成することはできません。
 ヘーゲルは、理性にたいする無限の信頼から、精神であろうと自然であろうと社会であろうと世界のすべてについて真理を認識しうると考えており、この立場にたって真理の認識から目をそむけようとする三つの態度を批判しています。
 一つは、「あわれな虫けらにも等しい私にどうして真理が認識できよう」(九七ページ)とするものです。ヘーゲルは、「精神の偉大さと力は、それをどれほど大きく考えても、考えすぎるということはない」(一九ページ)との立場から、「このような卑下はくだらぬものである」(九七ページ)と一蹴しています。
 二つには、一方で「成人は虚偽のうちに埋れて硬化している」(同)と考えながら、他方で「青年はどうしなくてもそのままで宗教や道徳の真理を所有している」(同)とする考えです。
 真理の認識に関して成人と青年との間に一線を画するのは形而上学にすぎませんし、成人であろうが青年であろうが、「精神の労苦を引き受けるかぎりにおいて」(九八ページ)個々人の認識は前進するのであり、「青年はどうしなくてもそのままで」真理を所有しているというのは「自惚と妄想」(九七ページ)にほかなりません。
 三つには、「ピラトのキリストにたいする態度にみられるような、真理にたいする上品な無関心」(九八ページ)です。
 先にみたように、ピラトは「真理の認識なぞ存在しないという意味をふくませて、『真理とは何か』と反問」(一七ページ)しました。それは真理は存在せず「すべては空しい」(九八ページ)というに等しいものですが、真理を探究する努力もせず、このように居直るのは「主観的な自惚以外」(同)の何ものでもないのです。
 「上品な無関心」をもたらすもう一つの原因は「怠惰な精神」(同)です。これは「思惟が日常の表象の範囲を越えると、それは邪道におちいる」(同)などといって、真理認識の努力放棄を合理化しようとするものです。
 なるほど真理にたいして無関心であっても「さまざまの技能や知識を身につけたり、有能な官吏となったり」(九九ページ)して、社会生活を続けていくことはできるでしょう。しかしただ生きることと、より善く生きることとは、全く異なるものです。
 ソクラテスは「ただ金銭を、できるだけ多く自分のものにしたいというようなことに気をつかっていて、恥ずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても、思慮と真実には気をつかわず、たましい(いのちそのもの)を、できるだけすぐれたよいものにするように、心を用いることもしないというのは」(プラトン全集①八四ページ)、と述べています。
 真理を認識するために努力することは、理性的存在としての人間にとって、もっとも人間らしい生き方であり、より善く生きる道なのです。
 ヘーゲルも、同様の意味を込めて単に「さまざまの技能や知識を身につけ」ることと、「人がなおその精神を一層高いものにたいしても養い、それに奉仕するために努力するということはまた別なことである」(九九ページ)と語っています。

一九節補遺二 ── 弁証法的論理学は絶対的真理をとらえる唯一の形式

 論理学は、思惟を考察の対象とするものですが、思惟を「非常に低く評価するような考え方もあり、また非常に高く評価するような考え方」(同)もあります。
思惟のなかには「単に主観的なもの、恣意的なもの、偶然的なもの」(同)にすぎないものもあれば、「事柄そのもの(事物そのもの ── 高村)、真なるもの、現実的なもの」(同)をとらえる思惟もあります。
 人間のさまざまな精神活動を考えるにあたっては、感情と、思惟および思惟の産物としての思想とを区別しなければなりません。
 「感情そのものは一般に感性的なものの形式であって、われわれはこれを動物と共通に持」(九九~一〇〇ページ)っており、それは「精神的内容を盛る最も低い形式にすぎない」(一〇〇ページ)のです。
 論理学は、このような思惟の低い形式を問題にするのではなく、思惟の「最高のもの」(九九ページ)を問題にするのであり、それによって「永遠で絶対的なものをとらえる唯一の形式」(一〇〇ページ)となっています。
 思惟の「最高のもの」とは、諸カテゴリーを意味しています。しかし諸カテゴリーとは「単なる形式的思惟の働き」(同)つまり、内容のない単なる思惟の枠組みではなく、形式のみならず内容をももった弁証法的カテゴリーとしてとらえることにより、絶対的真理をとらえる「唯一の形式」となっているのです。
 「思惟の学としての論理学は高い立場をも持っている。なぜなら、(弁証法という ── 高村)思想のみが最高のもの、真なるものを知ることができるからである」(一〇〇~一〇一ページ)。
 弁証法的論理学は、単に自然によって与えられたもの、感覚的なものの真理をとらえるだけではありません。人間の精神活動の自由な産物である「超感覚的な世界」(一〇一ページ)例えば国家、社会、道徳、法などの「真なるもの」をも対象とするのです。
 すべての経験諸科学は、数学をも含めてある程度「抽象物を取扱う」(同)のですが、前提となる客観的事実の制約を受けて「なお感性的なもの」(同)であるのに対し、「思想はこの感覚の最後の名残からさえ去って、自由に自己のうちに安住」(同)し、補遺三でみるように「超感覚的な世界」の真理をも対象とするものです。ここに弁証法的論理学の一元的なより高い立場があります。ヘーゲルは、「論理学がこのような地盤を持っているかぎり、われわれはそれに普通払われている以上の尊敬を払わねばならない」(同)といっています。

一九節補遺三 ── 論理学は国家・社会のためにも必要

 「論理学を単なる形式的思惟の学というより一層深い意味において理解することは、宗教、国家、法律、および道徳のためにも必要である」(同)。
 補遺二で、思惟は「最高のもの」であり、「永遠で絶対的なものをとらえる唯一の形式」であることを学びました。したがって「思惟の学」としての論理学における諸カテゴリーは、単なる「形式的思惟の働き」をとらえるものではなくて、事物の概念(真の姿・真にあるべき姿)をとらえるものです。
 その意味では、人間の精神活動が生み出した「宗教、国家、法律および道徳」(一〇一ページ)の真にあるべき姿をとらえるうえでも論理学は必要なのです。資本主義社会においては、事実を対象とする自然科学には真理はあるが、社会科学や人文科学は価値観の世界だから、そこには「価値観の多様性」が認められるのみで真理は存在しないという、二元論のイデオロギーが横行しています。ヘーゲルは、これに真っ向から反対し、国家、社会にも「真にあるべき姿」という真理が存在するという正しい一元論的世界観に立ち、この観点から国家・社会を「真にあるべき姿」に変革するという革命の哲学を打ちたてて科学的社会主義の世界観の土台を形づくったのです。
 多くの哲学者が、思想によって宗教や政体(政治体制)を攻撃しました。ヘーゲルの念頭にあったのは、何よりもルソーの思想によってフランス革命が勃発したことがあったでしょう。というのも『歴史哲学』のなかで、フランス革命を「太陽が蒼空に位し、星辰がこれを巡って運行するようになって以来幾久しいが、人間が頭の上に、すなわち思想の上に立ち、思想に基づいて現実界を築き上げるようになろうとは、全くわれわれの夢想だにしないところであった」(前掲書下巻三一一ページ、岩波書店)ととらえているからです。
 フランス革命をつうじて絶対主義国家は崩壊し、ロベスピエールは宗教を廃止して「最高存在」の崇拝にとってかえようとしました。
 「このように思惟は現実の世界のうちで有力となり、恐るべき力をふるったのである。そこで人々は、……真理を認識しないで、思惟のしたことと言えば、国家と宗教を破壊したにすぎない、と言うのである」(一〇二ページ)。
 しかし、哲学は、古い国家と宗教を破壊するという後ろ向きの仕事をするのではなく、「真にあるべき姿」をかかげて、真理に立脚した国家・社会あるいは宗教を新しく建設する役割をも果たしうることを「弁明」しなければならなくなったのです。
 「そこで思惟を、それが作り出した諸結果にかんして弁明することが必要となった。近代において哲学の関心の大部分を占めているのは、思惟の本性の研究と思惟の弁明とである」(同)。

 

三、思惟とは何か

二〇節 ── 思惟は普遍性をとらえる能力

 前節で、思惟は「永遠で絶対的なものをとらえる唯一の形式」であることを学びましたが、二〇節から二三節まで、四点にわたって思惟とは何かを考察しています。
 まず第一点は、思惟とは「精神的諸作用あるいは諸能力の一つ」(同)であり、普遍性をとらえる能力だということです。
 客観世界に存在するものは、すべて個別として存在しています。しかし個別のなかには普遍が存在しています。例えば一人の人間は、特殊な一個人であると同時に人類という普遍性をもっています。すべての具体的な事物は「普遍と特殊」または「普遍と個別」の統一という具体的普遍なのです。個別(特殊)のなかの普遍性は、思惟によってはじめてとらえることができます。
 したがって「思惟の産物」(同)は「一般に普遍的なものであり抽象的なもの」(同)となります。普遍的なものは、具体的なものから特殊的なものを取り除いたものですから、「抽象的なもの」となるのです。したがって、「思惟によって生み出されたものは、まさに普遍者」(同)なのです。
 自我とは思惟する主体です。人間は言語を使って思惟します。言語は事物の普遍性を示すものであり、例えば「りんご」という普通名詞は、りんご一般という普遍性を表現しています。個物を表現するには「このりんご」といわなければなりません。したがって言語を使って思惟するということは、一般に「普遍的なものであり抽象的なもの」をとらえることになるのです。
 このような思惟の産物が、三節でも学んだように、「感覚と表象と思想」(一〇三ページ)なのです。
 では「感覚的なものと思想との区別」(同)、さらには表象と思想との区別はどのようにとらえられるのでしょうか。
 エンゲルスのいうように「世界の現実の統一性はそれの物質性にある」(全集⑳四三ページ)のであり、世界の物質は相互にさまざまな形態で連関しながら運動しています。
 感覚は、客観的個物をそれだけとして存在する「個別性」(一〇三ページ)においてとらえます。したがってそれと連関するものも「互の外にあるような連関」(同)として、換言すればあれこれの個別の「並存および継起」(同)としてとらえられることになります。例えば「このりんごはあの樹になっていた」というように、りんごと一本の樹とを並置するとらえ方です。
 これに対して表象作用は、「このような感覚的素材」(同)を「私のうちにあって私のものという規定のうちに定立されており、更に普遍性、自己関係、単純性という規定のうちに定立」(一〇四ページ)するところにその特徴があります。表象は感覚のとらえたものを自己のうちで記憶し、感覚的にとらえられた個物に「普遍性という形式」(同)を与えてイメージとして定着させます。例えば、「りんごはあれこれの樹ではなく、りんごの樹になる」と表象するのです。
 表象は、感覚のもつ個別性を普遍性の形式に変えるものの、連関するものを「互の外にあるような連関」としてとらえる点では、依然としてその内容は「個々別々になっている」(同)にすぎません。
 「この点で表象は悟性と一致する。悟性が表象と異るところは、それが普遍と特殊、原因と結果、等々のような関係を定立し、それによって表象の個別的な諸規定の間に必然的な関係を定立する点にあるにすぎない」(一〇五ページ)。
 悟性とは理性に対立する思想をあらわすカテゴリーであり、区別し、固定する能力を指しています。悟性は連関するものを原因と結果という「必然的な関係」としてとらえますが、表象はりんごの樹とりんごとが外的に結合していることしかみようとしません。
 したがって「表象はその無規定な空間のうちで、それらを単なる『もまた』によって結合するだけで並列させておくのである」(同)。「もまた」の結合が外面性を象徴するものであることは、第五講で指摘しておきました。 
 思惟する主体である自我は、こういう感覚や表象に満足することはできません。さらに思惟を前に進めることによって、表象を思想に変えます。思惟は表象についてより普遍的・抽象的内容を与えると同時に、外的連関を内的連関に発展させ、連関の必然性をとらえることにより、思想に変えるのです。りんごの樹の花の雌花と雄花が結合して受粉することにより、りんごの実となることを明らかにするのが、表象を思想に変えることになります。
 「一般的に言って、哲学の仕事は表象を思想に変えることにほかならないと言えるからである。もちろん、哲学は、単なる思想を更に概念に変えはするけれども」(同)。
 りんごが実る必然性、法則性を知るのみならず、害虫にも強くもっと実が大きくて、甘みの増すりんごを作るにはどうしたらいいかを考えることが、「単なる思想を更に概念に変え」ることになるのです。
 「思想および普遍的なものは、それ自身であるとともにまたその他者であり、それは他者におおいかぶさって、何ものもそれをのがれることはできないのである」(同)。
 自我は思惟する主体であり、言語という普遍性を使って対象を思惟するのですから、私が思惟することは「普遍的なもの」である言語が、対象に「おおいかぶさって、何ものもそれをのがれることはできない」のです。
 例えば、私が、「私」「ここ」「今」というとき、私としては、「高村としての私」「労学協であるここ」「二〇〇八年一〇月一日の今」を表現しようとしているのに、それを私の言葉で表現すると「誰でもいい私」「どこでもいいここ」「いつでもいい今」という普遍性を意味してしまうのです。つまり言語のもつ普遍性がすべてのものに「おおいかぶさって」いるのです。
 「『私』はこのかぎりにおいて全く抽象的な普遍性の現存在であり、抽象的に自由なものである。だから『私』は主体としての思惟であり、そして同時に『私』は私のあらゆる感覚、表象、状態、等々のうちに存在するから、思想はいたるところに現存し、カテゴリーとしてこれら諸規定のすべてを貫いているのである」(一〇六ページ)。
 「主体としての思惟」である「私」は、あらゆるもののうえに「おおいかぶさり」、「すべてを貫いている」のです。したがって思惟の産物は普遍的なものにならざるをえないのであり、私の「思惟」は「カテゴリーとしてこれら諸規定のすべてを貫いている」のです。

二〇節補遺 ── ヘーゲル論理学と形式論理学

 このように、思惟が「主観の働きの一つ」(一〇六ページ)として普遍をとらえるということになると、思惟を対象とする論理学は思惟の普遍的、必然的、法則的なものをとらえるものでなければなりません。これが通常の論理学の内容をなすものです。
 単なる主観的活動としての思惟を「研究をする場合、思惟の具体的な諸規定は規則や法則であって、それらにかんする知識は経験を通じてえられる。こうした見地からする思惟法則の研究が、これまで普通に論理学の内容をなしていたものである」(一〇七ページ)。
 この「思惟法則」をとらえたものが「形式論理学」(一〇八ページ)といわれるものであり、アリストテレスの『形而上学』によって創始されました。アリストテレスは、思惟の諸法則であるカテゴリーを、個別のなかの普遍性と必然性をとらえる「精神的な紐」(一〇七ページ)と考えました。ヘーゲルの論理学(弁証法的論理学)は形式論理学が取り扱うカテゴリーをすべて包含するだけではなく、ヘーゲル独自のカテゴリーをもつと同時に、これまでのカテゴリーを弁証法的につくりかえたものとなっています。
 形式論理学によって「頭脳の整理をすることができ」(一〇八ページ)ますし、これを「精神を訓練する手段として用いる」(同)こともできるところから、「この意味で論理学は道具的論理学と呼ばれ」(同)てきました。これはこれとして論理的に思惟するうえで必要かつ有益なのですが、この形式論理学を弁証法的につくりかえた弁証法的論理学は、より普遍的な論理学として「最も有益なもの」(同)です。
 「なぜなら、このすぐれたものは実体的なものであって、それ自身のために確固として立っており、まさにそれゆえに特殊な諸目的を支えているものであり、それらを助けて目標に到達させるものであるからである」(同)。
 「実体」とは、さまざまな事物、現象の基体となる確固たるものです。ヘーゲル論理学は、実体的なものとして「確固として立」ち、「特殊な諸目的」としての形式論理学を支え、助ける論理学なのです。
 ヘーゲルは聖書の「まず神の国を求めよ、すれば他のものもまたらに加えられるであろう」(マタイ伝六・三三)を引用し、弁証法的論理学を「神の国」に擬制し、形式論理学はそれに含まれる「他のもの」にすぎないととらえています。
 (形式論理学の ── 高村)特殊な諸目的は、絶対的なもの(である弁証法的論理学 ── 高村)に到達することによってのみ、達成されるのである」(一〇九ページ)。

二一節 ── 思惟は対象の真の姿をとらえる

 思惟とは何かの第二点は、思惟のとらえる普遍性のなかに、事物そのもの、事物の真の姿があるということです。
 「思惟を対象と関係して働くもの、すなわち或るものにかんする思惟(反省 ── 高村)と考えるとき、思惟活動の産物である普遍的なものは、心髄(事物そのもの ── 高村)という価値、すなわち本質的なもの、内面的なもの、真なるものを含んでいる」(同)。
 ここではドイツ語の翻訳に関して二つの点を指摘しておきたいと思います。一つは「或るものに関する思惟」の「思惟」は、二二節の「思惟」と二三節の「対象の本性は思惟のうちに」の「思惟」とともに「ナーハデンケン(Nachdenken)」の訳であり、ここでは「反省」と訳しておきたいと思います。ナーハデンケンはヘーゲルの独自の用語であり、文字どおりの意味では「追思惟」と訳されますが、ヘーゲルは、「思想そのものを内容とし、それを意識へもたらす反省的思惟」(六三ページ)として用いています。ここでは思惟が、或るものを普遍と特殊の統一として二重化してとらえることを「或るものにかんする反省」と述べているのです。
 また「心髄」および一九節補遺二の「事柄そのもの」というのは、いずれもドイツ語の「ザッヘ(Sache)」の訳です。ザッヘは一般的には事柄、事物、物などと訳されており、「心髄」という訳にも訳者の苦労がみられますが、ここではどちらも「事物そのもの」と訳しておきたいと思います。
 事物を反省のうちにとらえた普遍的なものには、「事物そのもの」、つまり事物の「本質的なもの、内面的なもの、真なるもの」が含まれています。
 五節で「事物や出来事、さらに感情や直観や意見や表象やの真理を知るには思惟(ナーハデンケン ── 高村)が必要である」(六七ページ)ことを学びました。追思惟をつうじて事物を二重化してとらえて個別性から普遍性へと認識を前進させ、事物の表面の姿から事物そのものの認識へと前進していくのです。表面的な認識からは天動説が生まれましたが、天動説では説明しえないさまざまな現象を包括的に説明するために、事物そのものの認識としての地動説が思惟をつうじて生まれてきたのです。
 「対象や状態や出来事などにおける真なるもの、すなわち、内面的なもの、本質的なもの、一切がそれにかかっている心髄(事物そのもの ── 高村)は、意識のうちに直接にあらわれているものでもなく、最初の外観や思いつきが示すものがすでにそうした本質ではない」(一〇九ページ)。
 事物そのものの姿、つまり事物の真の姿・真にあるべき姿は、「意識のうちに直接にあらわれているもの」ではなく、思惟によってはじめてとらえられるのです。
 「対象の真の性質を知るためには、われわれはまず対象について思惟(反省 ── 高村)しなければならず、思惟(反省 ── 高村)によってはじめて対象の真の姿は知られるのである」(同)。

二一節補遺 ── ナーハデンケン(反省)は事物を二重化してとらえる

 ヘーゲルは、普遍と特殊(個別)のカテゴリーをつかって、特殊に対し普遍が「真なるもの」(一一一ページ)であること、および特殊は普遍に従属する存在でしかないことを説明しています。
 子どもへの躾とは、例えば「他人の物を盗ってはいけません」というように普遍的な社会的ルールを教え、「子供はこうした普遍的なものに特殊なものを従わせることを要求されている」(一一〇ページ)のです。こうしてコンビニでの万引きという盗みの特殊な形態は、盗んではならないという普遍的なものに従わさせられるのです。
 また、例えば「メタボを解消しよう」という生活上の「目的は、普遍的なもの、指導的なもの」(同)であって、私たちはこの普遍に従って「間食をやめる」という特殊な手段を採用するのです。道徳においても、人間として「正義をおこなえ」という普遍的道徳律に、私たちの特殊的行為も従わされるのです。
 同様に稲妻や植物の発芽などの自然現象においても、私たちは現象する特殊をつうじて、事物の内面にある真の姿を普遍性としてとらえようとします。
 「人間は単に知りなじんでいること、単なる感覚的現象では満足せず、その奥をさぐり、それが何であるかを知り、それを把握しようとする。そこで人は思惟し、現象そのものとは異ったもの、単に外面的なものでなく内面的なものとしての原因を知ろうとする。かくして現象は二重にされ、内と外、力と発現、原因と結果に分裂させられる」(同)。
 真なるものをとらえるには、事物を二重化してとらえることが必要になるということです。これがヘーゲルのいうナーハデンケン(反省)なのです。その二重化は、「内と外、力と発現」などとしてとらえられますが、これをさらに抽象化して表現すれば、普遍と特殊、または普遍と個別への二重化ということができます。
 「内的なもの、力などはここでもまた普遍的なもの、永続的なものであって、個々の電光や個々の植物ではなく、すべてのもののうちであくまで同一なものである」
(同)。
 この真の姿としての普遍性は、そのままの姿で現象のなかにあるのではなく、あくまで私たちの思惟の力によってとらえられるのです。
 「感性的なものは個別的、一時的のものであって、そのうちにある永続的なものは思惟によって知られるのである。自然はわれわれに無数の個別的な形態や現象を示すが、われわれはこの多様のうちへ統一をもたらそうとする要求を持っている。そこでわれわれは多様なものを比較し、すべての個に通じる普遍的なものを認識しようとつとめる」(一一〇~一一一ページ)。
 人類は二十世紀の量子論という「すべての個に通じる普遍的なもの」によって私たちの宇宙の統一性を科学的に証明しました。しかしそれ以前から哲学者は世界の統一性と、その統一性を生みだしている「普遍的なものの支配を信じ」(一一一ページ)、真なるものを探究し続けてきたのです。
 「さまざまの法則、例えば、天体運行の法則についても同じことが言える。われわれはもろもろの星を今日はここにみ、明日はかしこにみる。この無秩序は精神にふさわしくないものであり、精神はこうしたものを信じない。なぜなら、精神は秩序にたいする信仰、単純な、不変な、普遍的な規定にたいする信念を持っているからである」(同)。
 この真理は必ず存在するという信念こそが、「宇宙のとざされた本質」(一九ページ)を白日のもとにさらす科学の発展を生みだしてきたのです。
 「以上すべての例からわかるように、反省は常に不動なもの、恒久的なもの、自己のうちで規定されているもの、特殊を支配しているものを求めている。こうした普遍的なものは、感覚をもってとらえることのできないものであり、しかもそれは真なるもの、本質的なものという価値を持っている」(一一一ページ)。
 ここにいう「反省」とは、事物を二重化してとらえようとする思惟の働きを意味しています。この反省によってはじめて「感覚をもってとらえることのできない」普遍的なもの、真なるもの、本質的なものがとらえられているのであり、ヘーゲルが「聴講者にたいする挨拶」のなかで「真理の勇気、精神の力にたいする信頼こそ哲学的研究の第一の条件」(一九ページ)と言った意味をあらためて味わうことができます。思惟は「永遠で絶対的なものをとらえる唯一の形式」(一〇〇ページ)なのです。 
 「普遍的なものをこのように規定するとき、このような普遍的なものは、或る他のものに対立しており、そしてこの他のものは、媒介されたもの、内面的なもの、普遍的なものに対峙しているところの、単に直接的なもの、外面的なもの、個別的なものである」(一一二ページ)。
 事物を二重化してとらえることは、対立物の統一としてとらえることです。媒介性と直接性、内面性と外面性、普遍性と特殊性(個別性)などがそれであり、こうした対立物のうち前者を、広義の普遍性ということができます。
 普遍と特殊(個別)との関係は一回限りの関係ではありません。例えば生物の分類には、界 ── 門 ── 綱 ── 目 ── 科 ── 属 ── 種という基準が使われていますが、下から上に向かって特殊から普遍へとさかのぼることになります。例えばライオンは、動物界 ── 脊柱動物門 ── 哺乳類動物綱 ── 食肉目 ── ネコ科 ── ヒョウ属の一種ということになります。この特殊から普遍への階段を最後まで昇りつめ、これ以上普遍化(抽象化)しえない概念が最高類概念としてのカテゴリーであり、これが真なるものとなります。ライオンは動物界のさらに上位の普遍性である生物というカテゴリーに属するのです。
 「このような普遍的なものは、普遍的なものとして現存在してはいない。われわれは類そのものを知覚することはできず、天体運行の諸法則は天に書かれているのではない」(同)。
 私たちは、私たちが個人であると同時に人類という「類」の一員であることを知っています。しかし個人から切りはなされた「人類」という普遍は「普遍的なものとして現存在してはいない」のであり、思想のうちではじめてとらえられるのです。「個は生滅するものであり、類こそ個のうちにあって恒久的なもの、すべての個のうちに復帰するものであるが、これはただ思惟にたいしてのみ存在するものである」(一一一ページ)。「類」は、思惟にたいしてのみ存在しているのですが、けっして主観の産物ではなく客観的存在です。
 「したがって普遍的なものはみたり聞いたりすることのできないものであり、ただ精神にたいしてのみ存在する」(一一二ページ)ものではあっても、だからといって頭の中から勝手に生みだしたものではなく、事物の真の姿という客観的存在、しかも存在のなかの存在なのです。これに対してカントは、普遍的なものは単に主観的なものであると考えたところから、後にみるようにヘーゲルから厳しく批判されるところとなります。
 「宗教は、一切を自己のうちに包括する普遍者、一切を生み出す絶対者へわれわれを導くが、このような絶対者は感覚にたいしては存在せず、ただ精神と思想にたいしてのみ存在するのである」(同)。
 絶対者である神は、感覚によってはとらえられず思想によってのみとらえうるというのです。これに対してヤコービは、神は思想によってではなく直観によってのみとらえうるとすることにより、ヘーゲルの批判を受けることになります。