『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第九講 予備概念 ④
    古い形而上学批判 ⑵

 

一、古い形而上学批判

三〇節 ── 古い形而上学批判② ── 理性的対象の悟性的考察

 前講に続いて古い形而上学の批判であり、三〇節、三一節では、第二の批判を表象と思想の関係から展開しています。
 「 ⑵ 古い形而上学の対象は、魂、世界、神というような、本来理性に、すなわち、それ自身具体的である普遍者にふさわしい思惟に属する統体(Totalität)であった。しかし古い形而上学は、それらを表象から取りあげ、それらをすでに出来あがった、与えられた主語として基礎におき、そしてそれらに悟性的な諸規定を適用した。したがって古い形而上学は、さまざまの述語が適当であり十分であるかどうかを決定する基準として、ただ表象を持つにすぎなかった」(一四一ページ)。
 二七節で、古い形而上学は「理性的対象の単に悟性的な考察」(一三五ページ)であるとの結論を学びましたが、その理由が本節で解明されています。
 古い形而上学が対象とした魂、世界、神などは、「あれかこれか」といった有限な規定ではとらえることのできない無限で、理性的な対象なのです。理性的対象は特殊を自己のうちに含む普遍、つまり特殊と普遍の統一という対立物の統一(具体的普遍)として、無限なものなのです。
 しかし古い形而上学は、この「理性的対象」を思想によって考察し、対象を「それ自身のうちから規定」(一三九ページ)するのではなく、単なる「表象から取りあげ」ます。ぼんやりとイメージ(表象)された魂、世界、神をそのまま「与えられた主語」、つまりできあがった対象として受け入れ、それに悟性的な「あれかこれか」の述語を結合して無限なものの真理をとらえようとしたのです。
 古い形而上学は、主語である魂、世界、神を単なる「表象」においてとらえたところから、それに結合すべき述語が「適当であり十分であるかどうかを決定する基準」としては、これまた「ただ表象を持つにすぎなかった」のです。つまり本来理性的な思想においてとらえられるべき対象を、表象された主語に表象された悟性的述語を結合してとらえようとしたにすぎなかったのです。

三一節 ── 判断形式の一面性

 「魂や世界や神やにかんしてわれわれが持っている表象」(一四一ページ)には、「個人的なものがまじり、したがって非常にさまざまの意味を持ちうるだけでなく、それらは思惟によってはじめて確かな規定をえなければならないものである」(同)。
 これらの理性的対象は、表象によっては不確かな規定をあたえられるだけであり、「思惟によってはじめて確かな規定」がえられるのです。
 「神は永遠である、等々というような命題は、神という表象ではじまっている。しかしこの場合、神が何であるかはまだ知られていず、それは述語によってはじめて言いあらわされるのである」(同)。
 古い形而上学は、「神は永遠である」「世界は無限である」「魂は単一である」というように「AはBである」という形式で理性的対象をとらえようとします。
 この「AはBである」という命題は、「判断」とよばれています。判断という形式では、Aという主語が何であるかは、Bという「述語によってはじめて言いあらわされ」ます。
 古い形而上学は、神とは何かを論じるにあたって、思惟によって神自身のうちから神の概念を規定するのではなく、神という「表象」にあれこれの述語を結びつけるという判断形式を用いているのです。
 「したがって、内容をひたすら思想の形式において規定する論理の世界においては、これらの思惟規定を、神とか、あるいは、より漠然とした絶対者とかが主語となっている命題の述語とするのは、余計なことであるのみならず、そうした仕方は、思想そのものの本性とは別な基準を思いおこさせるという欠点を持っている」(一四一~一四二ページ)。
 「論理の世界」、つまり哲学の世界において、神とか「より漠然とした絶対者」とは何かを論じようというのであれば、その内容を思惟によって考察してその概念をとらえ、「思想の形式において規定」しなければなりません。
 しかし古い形而上学は、それをすることなく、単なる表象としての神に悟性的述語を結合して神をとらえようとするものであり、こういう判断形式は真理の認識にとって「余計なことである」のみならず、「思想そのものの本性とは別な基準」を持ちこむという「欠点を持っている」のです。
 「とにかく命題という形式、もっと正確に言えば、判断という形式は、具体的なもの ── 真実なものは具体的である ── および思弁的なものを表現するに適しないものであって、判断はその形式によって一面的であり、そのかぎり誤っているものである」(一四二ページ)。
 二八節補遺で、法律で或る行為を窃盗と名づければ、その内容は有限なものとして規定されるから、窃盗に当たるかどうかの判断は裁判官でもできることを学びました。有限な事物の場合には、その内容が有限ですから、判断の形式によっても事物の真理をとらえることはできます。しかし、第八講で学んだように、すべての事物は運動、変化、発展するのであり、そのかぎりではすべての事物は無限なものであって、有限な事物というのは、本来無限な事物を人間の認識において有限なものとしてとらえることにほかなりません。
 ヘーゲルが、判断という形式を「具体的なもの」を表現するには適しないとしているのも、客観的事物という「具体的なもの」はすべて「思弁的なもの」、つまり具体的普遍(普遍と特殊の統一)としてのみ存在しているのであり、「真実なものは具体的である」のに、判断という形式は、その「具体的なもの」の一側面しかとらえないから、「具体的なもの」を表現するには適しないというのです。したがって判断という形式は、対象の真理をとらえるには「一面的であり、そのかぎり誤っている」のです。「具体的なもの」をとらえるには「あらゆる事物の普遍的形式」(一二二ページ)としての推理という形式が求められるのです。詳しくは「概念論」でお話ししますが、推理とは個を普遍と特殊の統一としてとらえる「事物の普遍的形式」です。
 したがって、古い形而上学は、そもそも客観的事物の真理をとらえる命題の形式そのものにおいて誤っているのです。

三一節補遺 ── 古い形而上学は自由ではない

 「古い形而上学は決して自由で客観的な思惟でなかった。なぜなら、それは客観をして自分自身のうちから自由に規定させず、客観をできあがったものとして前提していたからである。 ── 自由な思惟と言えば、ギリシャ哲学の思惟は自由であったが、スコラ哲学のそれはそうでなかった。というのは、スコラ哲学はその内容を与えられたもの、しかも教会から与えられたものとして取りあげたからである」(一四二ページ)。
 「客観をして自分自身のうちから自由に規定させ」るというのは、いかにもヘーゲルらしい表現ですが、「対象がそれ自身のうちから規定される」(一三九ページ)と同じ意味合いであって、自由な思惟により、客観のなかにおける「客観的思想」、つまり概念(真にあるべき姿)を自由な思惟により取り出すという意味です。
 古い形而上学は、「客観をできあがったものとして前提」し、そのなかから思惟によって「概念」を取り出そうとしなかったから「決して自由で客観的な思惟でなかった」のです。
 「自由な思惟」といえば、ギリシャ哲学は、天と地以外に「何の前提も持っていなかった」(一四二ページ)から自由であったのに対し、スコラ哲学は思惟の対象を教会から与えられていたために自由になりえなかったのです。
 ヘーゲルは、ギリシャ人とちがって、われわれ現代人は、あまりに多くのことを知りすぎ、「それを乗りこえるのがきわめて困難であるような諸表象」(同)をもちすぎているために、自由になりえないといっています。
 「このようにひたすら自己のもとにあることこそ、自由な思惟、自由の天地への発足に必要なものであって、そこではわれわれの上にも下にも何ものもなく、われわれはひとり自己とともに立っているのである」(一四二~一四三ページ)。
 これを読むとき、「聴講者にたいするヘーゲルの挨拶」にあった「理性にたいする信念、自分自身にたいする信頼と信念」(一九ページ)を思い出します。
 この文章と、二三節の「思惟は、その内容から言えば、実在のうちへ沈潜するかぎりにおいてのみ真実」(一一五ページ)とは矛盾すると思われるかもしれません。しかし二八節補遺で学んだように、思惟は、事物そのもののうちに「沈潜」して、「客観的思想」、概念を自由な思惟によって取り出すことにより「ひたすら自己のもとにある」といえるのです。

三二節 ── 古い形而上学批判③ ── ドグマティズム

 続いて、古い形而上学への第三の批判です。
 「 ⑶ この形而上学はドグマティズム(一面観)となった。なぜなら、それは、有限な思惟諸規定の本性にしたがって、上記の諸命題にみられるような二つの対立した主張のうち、一つが真理で、他は誤謬でなければならない、と考えざるをえなかったからである」(一四三ページ)。
 古い形而上学は、「世界は有限である」とか「世界は無限である」という命題が真理であるとします。もし前者が正しいとすれば後者は誤謬であり、後者が正しければ前者は誤りということになります。しかしヘーゲルにいわせると、どちらも一面的であり、その真理は、世界は有限であると同時に無限であるという対立物の統一にあるから、古い形而上学は、一面的に真理をとらえようとするドグマティズム(一面観)だというのです。

三二節補遺 ── 形而上学と弁証法

 「ドグマティズムに対立するものはまず懐疑論である。古代の懐疑論者は、定説を立てるかぎり、どんな哲学をもドグマティストと呼んでいる。このような広い意味から、懐疑論は、真に思弁的な哲学をもドグマティズムと考えるであろう」(一四三~一四四ページ)。
 ドグマティズムには、広義のもの(古代の懐疑論のいうドグマティズム)と狭義のもの(古い形而上学におけるドグマティズム)とがあります。
 広義のドグマティズムである古代の懐疑論(スケプシス主義)とは、「あらゆる規定されたもの(区別されたもの)を氷解させ、空無のうちにあることを示」(宮本十蔵他訳『哲学史』中の二、二九二ページ)す理論です。つまり「真に思弁的な哲学」をも含め、あらゆる「定説」をドグマティズムとして否定してしまうのです。ヘーゲルは、この懐疑論は「ひたすら否定的なもの」(同二九三ページ)にとどまるものであって、「真理への無能」(同)を示すものと批判しています。
 「しかし狭い意味からすれば、二つの一面的な悟性的規定のうち、他方を排除して一方のみを固執するのがドグマティズムである。それは厳格な『あれかこれか』であり、したがってそれは、例えば、世界は有限であるか無限であるかであって、二つのうちの一つでなければならないと言う」(一四四ページ)。
 狭い意味のドグマティズムは、対立する二つの規定のうち「他方を排除して一方のみを固執する」ことを意味しており、古い形而上学はこの意味のドグマティズムなのです。
 「思弁的な真理はそうでない。それは、このような一面的な規定を持たず、このような一面的な規定によっては汲みつくされないものである。それは統体であるから、ドグマティズムにおいては、分離されたままで確固たる真理と考えられている諸規定を、自己のうちに合一して含んでいる」(同)。
 弁証法の根本理念は、対立する一方は、いずれも一面的であって真理ではなく、その一面性を「全体のうちに揚棄」(同)し、対立物の統一という「統体」としたところにのみ真理があるとするところにあります。なぜなら「実際においては、一面的なものは、それだけで存在しうるような確固たるものではなく、全体のうちに揚棄されたものとして含まれている」(同)からです。運動、変化する客観的事物は、すべて対立物の統一としてのみ存在しているのです。
 「思弁的哲学のイデアリズムは統体性の原理を持ち、抽象的な悟性規定の一面性を包括している。かくしてイデアリズムは次のように言うであろう。魂は単に有限でもなければ単に無限でもなく、魂は本質的に両者のいずれでもあり、したがってまた両者のいずれでもない」(同)。
 イデアリズムとは、根本理念と考えればいいでしょう。弁証法にいう対立物の統一という根本理念は、「Aであると同時に非Aであり、Aでないと同時に非Aでない」というダイナミックな統一なのです。
 「言いかえれば、このような規定は、一つ一つ切りはなされては無価値であって、それらはただ揚棄されたものとしてのみ価値を持つのである」(同)。
 弁証法とは、対立する二つの規定のそれぞれは「一つ一つ切りはなされては無価値」であって、対立を揚棄した統一においてのみ「価値を持つ」と考えます。
 このように抽象化して表現すると、なぜすべての事物は対立物の統一として存在し、また対立物の統一が真理認識の形式なのかと思われるかもしれません。その詳細は「論理学のより立入った概念」(七九~八二節)のなかで示されることになりますが、一例をあげれば、「変化する」ということは、「感覚的な事物には有とともに非有が属すると言うにほかならない」(一四五ページ)のです。つまり「変化する」とは、或るものであって、或るものでないという有と非有の統一なのです
 すべての事物は物質であれ精神であれ、運動、変化、発展しています。運動、変化、発展をとらえようとすると対立物の統一としてとらえるしかないのです。しかしわれわれが事物の真の姿を思惟において認識しようとするときの最初の認識の形式は、事物を静止し、固定し、一つひとつバラバラなものとして認識することにあります。哲学史の真のはじまりも「有のみがあり無は存在しない」とするエレア学派の形而上学に求めることができます。その方が事物の認識としてより直接的であり、よりとらえやすく、したがってこのとらえ方は、常識的なものの見方として、固く定着しているのですが、運動、変化、発展をそのままにとらえることのできない一面的なものにすぎないのです。
 悟性的思惟は、最初の認識の形式として「意識の日常の活動」(一三四ページ)の頑固な「信念」(同)となっています。その意味では「感覚的な事物の場合より、われわれはずっと頑固」(一四五ページ)であり、「対立しあっている規定は、絶対に連関しえないものと考えている」(同)のです。
 ヘーゲルは、「理性の戦いはまさに、悟性によって固定されたものを克服することにある」(同)と述べていますが、本講座の最後にもう一度立ち戻ってこの言葉の意味を噛みしめてみる必要があるでしょう。

 

二、ヴォルフの「形而上学」批判

三三節 ── ヴォルフの「存在論」批判

 ヴォルフの「形而上学」は、四部門を含み、第一部は「存在論」で、「哲学的思索の抽象的な全く普遍的な範疇」(『哲学史』下巻の二、二二二ページ)、例えば、「存在は一であり、善であるといった場合の存在」(同)「偶有性・実体・原因・結果・現象等々」(同)を扱います。第二部は「合理的心理学または精神学」(同二二三ページ)であり「心の単一性・不滅性・非物質性を取扱」(同)います。第三部は「宇宙論」であり、「偶然は存在せず、自然には飛躍なし」(同)といった世界についての形而上学的諸命題を取り上げています。第四部は「自然神学」であり、「神の存在の証明」(同)を扱います。
 ヘーゲルは、三三節でヴォルフの「存在論」を、三四節で「合理的心理学」を、三五節で「宇宙論」を、三六節で「自然神学」をそれぞれ批判しています。
 まず第一部「存在論」の批判からみていきましょう。
 ヴォルフは「存在の抽象的な諸規定」(一四五ページ)を「経験的かつ偶然的な仕方で枚挙」(同)しています。しかし、このような仕方では「正しさと経験的な完全さ」(同)とが問題となりうるのみであり「これらの諸規定そのものの真理および必然性」(同)は問題になりえません。
 存在論で取り扱われる「有、定有、有限、単純、複合、等々というような概念」(同)が「それ自身真実な概念」(同)かどうかというと、「人々には奇妙に思われる」(同)かもしれません。というのも、一般には「AはBである」という命題または判断についてのみ真理を問題にしうると考えられているからです。この考えによると、「或る概念を或る主語に附加する」(一四六ページ)ことが正しい場合にはその命題は真理であり、主語と述語となる概念との間に矛盾があれば誤謬ということになります。
 「しかし、具体的なものである概念はもちろんのこと、一般にあらゆる規定性でさえ、本質的に、それ自身のうちで異った規定の統一である」(同)。
 これまでにみてきたように、「概念」とは事物の真の姿または真にあるべき姿です。三一節で学んだように、すべての事物(具体的なもの)は、普遍と特殊の統一である具体的普遍です。概念は、この具体的事物の反映としての真の姿・真にあるべき姿ですから、概念もまた具体的普遍なのです。本論で論じられる「有、定有、有限」等々のカテゴリーは、いずれも「存在」にかかわる概念の規定されたもの(概念の規定態)です。ヘーゲルは、概念そのものでさえ具体的普遍として対立物の統一なのだから、概念の諸規定態もまた対立物の統一となるというのです。
 「したがってもし真理が矛盾の欠如にすぎないとすれば、人は概念を取扱う度毎に、まずそれが右に述べたような内的な矛盾を含んではいないかどうかを考察せねばならないであろう」(同)。
 もし一般にいわれるように、判断における「矛盾の欠如」が真理であるとするなら、概念とその諸規定であるカテゴリーにはすべて矛盾が含まれているから、すべてのカテゴリーは誤謬となってしまいます。しかし実際にはその逆であり、真理は対立物の統一にあり、諸カテゴリーもまた「内的な矛盾を含んで」いるのです。

三四節、同補遺 ── ヴォルフの「合理的心理学」批判

 「第二部は、魂、 ── すなわち物としての精神 ── の形而上学的本性を取扱う合理的心理学あるいは心霊学であった。それは、複合、時間、質的変化、量的増減などが支配している領域において、魂の不滅をさがし求めたのである」(同)。
 ヴォルフが自己の心理学を「合理的心理学」とよんだのは、これまでの「経験的心理学」との違いを示そうとしたものでした。すなわち「魂の諸現象を経験的に考察」(同)するのではなくて、「魂の形而上学的本性」(同)、「魂の内的本性」(同)を思惟によってとらえようとしたのであり、その点では経験的心理学よりも高い立場に立っています。
 「合理的心理学は精神を思惟によって認識し、更に思惟されたものを証明することを課題としているかぎり、前者(経験的心理学 ── 高村)より高い立場に立っている」(一四七ページ)。
 しかし、彼は魂を「直接に現存しているもの、われわれが感覚的に表象するもの」(同)という意味での「物としての精神」としてとらえるという制約をもっていました。魂は物ではあっても不滅であることを証明しようとして、「魂の座はどこにあるか」(同)、それは空間にあるとか、「魂は単純か複合的か」(同)、それは単純なものであるなどと論じたのです。
 「しかし精神を思惟しようとすれば、その特殊性を回避することは許されないことである。精神は、スコラ哲学者が神を絶対の活動と呼んでいるような意味で、活動である。しかし、活動である以上、それは発現するものである」(一四七~一四八ページ)。
 魂(精神)は、何よりも活動するものとして内から外へと「発現するもの」ですから、ヴォルフのように固定し静止した、「形而上学的本性」をもつものとしてとらえることはできないのです。
 「したがってわれわれは、精神の無過程な内面をその外面から切りはなした古い形而上学のように、精神を無過程の存在と考えてはならない。われわれは、精神をその具体的な現実性において、その活動において、しかもその発現がその内面によって規定されているものとして認識しなければならない」(一四八ページ)。
 経験的心理学は、精神の外面的諸現象のみを考察したのに対して、ヴォルフは精神の本質を内面的に考察しようとしました。これに対し、ヘーゲルはどちらも一面的であると同時にどちらも精神を「無過程の存在」としてとらえるものであり、精神の真理は内面の精神が外面に「発現」して精神の諸現象になるという、内面と外面、本質と現象の統一にある「活動」としてとらえなければならないというのです。

三五節、同補遺 ── ヴォルフの「宇宙論」批判

 第三部「宇宙論」の取り扱う問題は、「まず世界であって、その偶然性と必然性、永遠性と時間的および空間的有限性、世界の諸変化における形式的な諸法則であり、さらに人間の自由、および悪の起源である」(同)。
 彼はここでも「世界を支配しているのは偶然であるか、それとも必然であるかとか、世界は永遠であるか、それとも創られたものであるか」(一四八~一四九ページ)というように、「あれかこれか」の二者択一的に問題を提起しています。この問題提起自体がドグマティズムだといわなければなりません。
 「そのために宇宙論は、世界の諸現象を把握するというその目的を達成することができなかった。一例をとれば、宇宙論は、自由と必然とをあくまで異ったものと考え、これらを、自然の諸作用は必然に従うが、精神は自由であるという風に自然と精神の上に適用している」(一四九ページ)。
 ヘーゲルは、自由と必然の問題で重要な功績を残しました。「ヘーゲルは、自由と必然性の関係をはじめて正しく述べた人である。彼にとっては、自由とは必然性の洞察である」(全集⑳一一八ページ)と、エンゲルスは述べています。
 「しかし、抽象的に対立しあうものとしての自由と必然とは有限なものにすぎず、有限な領域にしか通用しない。自己のうちに必然を含んでいない自由も、自由のない必然も、ともに抽象的な規定であり、したがって真実でない規定である」(一四九~一五〇ページ)。
 「自己のうちに必然を含んでいない自由も、自由のない必然も」ともに「真実でない規定」であり、真理は、自由と必然の統一にあるのです。詳しくは「本質論」で論じられます。
 「善悪という対立についても、自由と必然との対立の場合と同じことが言える」(一五〇ページ)のであって、善と悪とを「絶対的」に対立するものとしてとらえることは正しくありません。ここにいう「善」とは、人間としての真にあるべき姿を意味しています。
 「このような考え方は、悪をあくまで肯定的なものとみる点で誤っている。悪は否定的なものであって、独立の存在を持たず、ただそうなろうとするものにすぎない」(同)。
 善と悪とを絶対的な対立においてとらえる考えは、悪を善と相並ぶ肯定的なものとしてとらえるものです。しかし悪は、人間の真にあるべき姿としての善を否定するという消極的なものにすぎません。したがって「独立の存在を持たず」、真にあるべき姿としての善に従属した、善の「絶対的な仮象にすぎない」(同)のです。

三六節 ── ヴォルフの「合理的神学」批判

 この第四部「合理的神学」のテーマは「神の概念あるいは可能性、神の存在の証明、および神の諸性質」(一五〇~一五一ページ)です。神の存在を否定する唯物論者の目からすると、このような問題を議論すること自体無意味だということになります。しかしここではヘーゲル論理学に沿って弁証法的論理の展開を学ぶという見地にたってみていくことにしましょう。まず「神の概念」において主としてヴォルフが問題としているのは、二八節でみたように、「神という言葉によって表象するものに、一体どんな述語が適合するか、それとも適合しないか」(一五一ページ)というものです。
 神という無限な対象を、一面的な一つの述語によって規定することは本来できないことなのに、あえてそれを試みるのが形而上学ですから、結局ここからえられる結論は、神とは「無規定な本質」(同)であるとか、神とは「純粋な実在性」(同)であるというような、「生命のない」(同)「空虚な抽象物」(同)にとどまり、真理をとらえることはできません。
 また、彼は神の存在を証明しようとしていますが、証明するとは、「神以外のもの」(同)を根拠とし、それに媒介されて神の存在を証明しようとするものにほかなりません。「神以外のもの」とは、有限な「現存する世界」(同)にほかなりませんから、この証明方法は「有限なものから無限なものへ移っていくという難点を持って」(同)おり、「順序が逆」(同)になっているのです。
 そのため有限な「現存する世界から、神を解放すること」(同)ができず、「神を世界の直接の実体と規定する(汎神論)」(同)か、それとも神をあくまで「主観に対立する客観」(同)とするよりほかなかったのです。
 「合理的神学」においては、神を「純粋な実在性」として規定します。つまり、神は実在するのみでそれ以外の何ものでもないと規定するので、神のさまざまな属性は「消失してしまって」(同)います。しかし他方で、合理的神学は、「有限な世界をあくまで真実な存在として表象しており、神をそれに対峙するものとして表象して」(一五二ページ)います。
 後者の立場からすると「神と有限な世界とのさまざまな関係の表象が生じてくる」(同)ことになります。つまり有限な世界は「神の属性として規定される」(同)ことになり、神の属性は「有限な性質のもの」(同)としてとらえられることになってしまいます。しかし本来の神は無限なものですから、その属性も本来無限なものでなくてはなりません。
 このような神の属性に関する有限と無限の矛盾は、「悟性的に神を考察する立場では、これらの諸性質を限りなく量的に増大して、よりすぐれた意味へまで高める」(同)ことによって解決しようとする「いいかげんの解決しかできない」(同)のです。しかし、「そのようなことをすれば、属性は実際上抹殺されて、ただ名だけが残される」(同)ことになり、何ら矛盾の解決とはなりません。

三六節補遺 ── 神を理性ではなく悟性によって考察

 「古い形而上学のこの部門の目的は、理性が自分だけでどこまで神を認識することができるかを確かめることにあった」(一五二ページ)。
 こうした目的のために、ヴォルフは、従来の信仰により神を認識するという神学に対して、自己の神学を「合理的神学」と名づけたのです。
 彼の目的とするところは、誠に正しいものなのですが、「神学がそうした性格を持つためには、それは概念的思惟にまで進まなければならない」(一五三ページ)のであって、「本質上同時に宗教哲学」(同)、つまり宗教のなかに哲学的真理を見いださねばなりません。
 しかし実際に彼が行ったことは、「神を理性によってではなく、悟性によって考察する」(同)にとどまったのです。
 ヘーゲルは、それを「神の概念」と「神の存在証明」の二点について証明してみせていますが、まず神の概念についてみていくことにしましょう。
 「それは神にかんする表象を思惟によって規定しようとしたが、その結果生じた神の概念は、否定性を含まぬ肯定性あるいは実在性というような、抽象的な概念にすぎず、したがって神は最も実在的な存在と定義された」(同)。
 つまりヴォルフの合理的な神学では、神とは純粋な肯定性であり否定性を含まない存在だから、最も「純粋な実在性」(一五一ページ)だとしました。これに対するヘーゲルの批判は、次のような形而上学に対する弁証法的批判の典型となっています。
 「しかしこの最も実在的な存在は、否定性が排除されているために、それが本来あるべきもの、悟性がそうだと思っているものとは正反対のものである。それは最も豊かな、絶対に充実したものではなくて、抽象的に理解されているために、最も貧しいもの、全く空虚なものである。心情は正当にも具体的な内容を要求する。しかし具体的な内容というものは、そのうちに規定性すなわち否定を含むことによってのみ存在するのである」(一五三ページ)。
 神の概念を確定するということは、神とは何かを「規定する」ことを意味しています。後に「定有」のところで学ぶように、スピノザは「あらゆる規定は否定である」(二八二ページ)といっています。「規定する」ということは、或るものを他のものではないとして否定することであり、したがって規定には、他のものでは「ない」という否定性が含まれているのです。
 しかし、ヴォルフは、神とは純粋な肯定性であるとして、神の概念から否定性を排除してしまうために、神は、具体的な内容をもつものとして規定されることなく、抽象的な「最も貧しいもの、全く空虚なもの」となってしまうのです。なぜなら三一節で学んだように、「具体的なもの」(一四二ページ)は「思弁的なもの」(同)、つまり対立物の統一だからです。
 「神の概念が、最も実在的な存在というような抽象的な概念としてのみ把握されるとき、神はわれわれにとって単なる彼岸となり、それ以上の認識は不可能となってしまう。というのは、規定されたものがない場合には、いかなる認識もまた不可能だからである。純粋な光は純粋な闇である」(一五三~一五四ページ)。
 神の概念が否定性を含まないということは、規定されたものではないことになり、したがって認識もまた不可能であるといわざるをえません。それはちょうど、闇あっての光、光あっての闇ですから「純粋な光は純粋な闇」といわざるをえないのと同様に、神の純粋な肯定性は純粋な否定性となり、それ以上のいかなる認識も不可能となるのです。
 次に神の存在証明についてみてみましょう。
 先にも述べたように、「悟性が行う証明は、或る規定の他の規定への依存からなっているということである」(一五四ページ)。
 となれば、「神の存在が神以外の諸規定に依存しなければならない」(同)といった「誤った結論」(同)に導かれることになります。「というのは、神はまさにあらゆるものの根拠でなければならず、したがって他のものに依存してはならないから」(同)です。
 こういう疑問から「現代の或る人々は、神の存在は証明できないものであって、それは直接的に認識されなければならない」(同)といっています。これがヤコービの直接知といわれるものです。
 しかしそれはもはや神の存在証明を放棄するに等しいものといわなければなりません。では「悟性が行う証明」に対して「理性の行う証明」とは、どのようなものでしょうか。
 「理性の証明も同じくその出発点として神以外のものを持ってはいるが、しかしそれはその進行中に、出発点である神以外のものを、直接的で有的なものとして放置せず、媒介され措定されたものとして示すから、このことによって同時に神が媒介を揚棄されたものとして自己のうちに含むもの、真に直接的なもの、本源的なもの、自己自らに依存するものであることが、明かにされるのである」(一五四~一五五ページ)。
 理性の証明も、出発点としては「合理的神学」と同じ有限な客観的世界をもっています。自然の精緻さを学ぶなかで、神のみがこの精緻な自然を創造しうるとして、有限な世界に媒介されて神の存在を認識することになります。しかしこのように神の存在を認識することは、同時にこの有限な世界は、神によって「媒介され措定されたものとして示す」ことにより、出発点を無媒介的前提として放置しないのです。このように神は、有限な世界に媒介されつつ「媒介を揚棄」した「真に直接的なもの」であり、反面「真に直接的なもの、本源的なもの」であるがゆえに、有限な客観世界の絶対的な根拠となりうるのです。
 「そこでは神は帰結でありながらも、同時にわれわれの出発点をなしていたものの絶対的な根拠である。したがって両者の位置はまさに逆となって、はじめ帰結としてあらわれているものは根拠として示され、最初根拠としてあらわれたものは帰結へひきさげられるのである」(一五五ページ)。
 いわば客観世界が根拠となり、帰結としての神の存在が証明され、次に神が根拠として客観世界がその帰結となるのです。このような原因が結果となり、結果が原因となる交互作用こそが「理性の証明の進み方」(同)なのです。
 古い形而上学の「一般的な方法をふりかえってみれば、その根本的な特徴は、理性的な対象を悟性の抽象的で有限な規定によってとらえ、抽象的な同一性を原理とすることにあったのである」(同)。
 以上ヴォルフの形而上学、「存在論」「合理的心理学」「宇宙論」「合理的神学」を検討してきましたが、それを要約するならば、「理性的対象の単に悟性的な考察」(一三五ページ)ということになります。
 古い形而上学にも「思想のみが存在の本質であることを意識していた」(一五五ページ)という「すぐれた点」(同)がありました。この点は後に検討する経験論や直接知の哲学にはみられない「すぐれた点」です。しかし残念ながら古い形而上学は弁証法を知らなかったために「具体的な同一性」(同)、つまり対立物の統一に達することができず、「抽象的な同一性」(同)にとどまってしまったのです。「抽象的な同一性」とは「AはAである」という形式論理学の同一律を意味しています。
 これに対しヘーゲル哲学は、存在の本質を思想においてとらえるのみならず悟性の抽象的同一性から、理性の「具体的な同一性」へと前進していったのです。
 すなわち「思弁的な哲学においては、悟性は確かに一つのモメントをなしてはいるが、しかしそれはあくまで一つのモメントにすぎず、それに立ちどまるということはない」(同)のであり、悟性の一面性を脱出して、対立物の統一にまで至るのです。プラトンも、アリストテレスもこの理性の立場にたっていたとヘーゲルは考えています。