『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第一〇講 予備概念 ⑤
     経験論批判およびカント批判 ⑴

 

一、「第二の態度」としての経験論とカント哲学批判

 「第一の態度」としての古い形而上学は、悟性によって有限な事物のみならず、無限な事物の真理をも認識しうるとする主・客一致の立場にたっていました。精神の力、理性に対する信頼を持ち、世界のすべての事物について真理を認識しうるという態度は積極的に評価しうるものです。
 古い形而上学が用いた悟性とは、「意識の日常の活動」(一三四ページ)にみられる素朴な思惟であり、一つひとつの事物をしっかり区別し、固定したもの、変化しない有限なものとしてとらえる思惟です。日常活動において、悟性的な認識は、有限な事物の真理をとらえるうえで極めて有益であり、広い範囲において妥当性をもっています。
 しかし問題は、運動していることにより限界をもたない無限な事物、豊かな内容によって限界をもたない無限な事物の真理にあります。古い形而上学は、豊かな内容をもつ無限な事物の真理をも有限な認識である悟性によってとらえようとしたために、その制限性を露呈し、抽象的で空虚なとらえ方しかできませんでした。こういう無限な事物は、無限な認識である理性、つまり弁証法によってとらえるしかないのです。
 この古い形而上学への批判のうえに登場したのが、「客観性にたいする思想の第二の態度」であり、ここには、「経験論」と「カント哲学」の二つが含まれています。
 この二つに共通しているのは、豊かな内容をもつ無限な事物の真理は認識しえないとする主・客分離の立場です。この第二の態度は、そもそも認識しえない無限の真理をとらえようとしたために、古い形而上学は空虚な結論に陥ったのであり、もともと人間の認識能力には限りがあり、無限な事物の真理は認識しえないと考えたのです。ヘーゲルは第二の態度を批判し、理性によって無限な事物の真理をも認識しうることを訴えています。以上を前置きとして、本文に入っていくことにしましょう。

 

二、経験論批判

三七節 ── 形而上学の批判のうえに経験論誕生

 「一つには、自分自身でその普遍的諸規定から特殊化と限定へ進みえない悟性の抽象的な諸理論に満足しないで、具体的な内容が要求されるようになったこと、もう一つには、有限な諸規定の領域で、有限な諸規定の方法にしたがって、すべてを証明することができるというような、単なる可能性に満足しないで、確かな拠りどころが要求されるようになったこと、この二つの要求はまず経験論へ導いた」(一五六ページ)。
 以下に議論されるのは、ロック(一六三二~一七〇四)、バークリー(一六八五~一七五三)、ヒューム(一七一一~一七七六)などのイギリス経験論といわれるものであり、現代にまで至るあらゆる経験論を意味するわけではありません。イギリス経験論を代表するロックは、スコラ哲学のいう生得観念(神、実体などの観念は生まれながらにもっている観念だとする)を否定し、心は元来「タブラ・ラサ(白板)」であると考えました。タブラ・ラサの心に、経験によって観念が書き込まれると考え、ロックは神学からの脱皮という積極的役割を果たしました。
 ヘーゲルは古い形而上学に対する二つの批判から経験論が生じたことを明らかにしています。一つには、「具体的な内容が要求されるようになったこと」です。形而上学では、真理を思想においてとらえようとし、例えば「魂は単純である」というような判断形式で真理を示そうとするのですが、そういう「悟性の抽象的な諸理論」では、魂の「具体的な内容」はなんら明らかにされないのです。二つには、この判断形式により「魂は単純である」といわれても、それは真理かもしれないが、真理でないかもしれないという「単なる可能性」にすぎないところから、真理であることを証明する「確かな拠りどころ」が要求されたことです。経験論はこの二つの要求を満足させようとして登場してきたのです。
 「それは真理を思想そのもののうちに求めないで、真理を経験から、すなわち、われわれの内および外に現前しているものから取り出そうとする立場である」(同)。
 形而上学は、真理を思想のうちにとらえようとしたため、抽象的な空虚なものとなったところから、経験論は真理を思想によってではなく、経験から取り出そうとするのです。
 六節で学んだように、「一口に言えば哲学の内容は現実」(六八ページ)であり、「この内容を最初に意識するものがいわゆる経験」(同)です。したがって経験論は、その出発点において正しいといえます。
 経験を「われわれの内および外に現前しているもの」としてとらえることは重要な意義をもっています。経験というものは、われわれの外にある客観的事物を意識のうえに反映したものですが、その反映の仕方に二通りあるのです。一つは、客観的事物をそのまま個物として感性的、直感的に反映するものであり、これがわれわれの「外」にあるものです。もう一つは、反映された客観的事物を意識のうえで変形して、個別のなかにおける普遍性、必然性を認識するのです。これが「内」にあるものとなります。この二つの側面から、経験論は、後にみるように、唯物論にも観念論にもなりうるのです。

三七節補遺 ── 経験論は「具体的内容」をとらえようとする

 「経験論は、抽象的な悟性的形而上学が満足させることのできないところの、本節に述べたような具体的な内容および確かな拠りどころの要求から生じたものである」(一五六~一五七ページ)。
 この部分は三七節で学んだところなので解説は省略し、もう少し具体的にみていきましょう。
 「まず内容の具体性について言えば、われわれは、意識の諸対象を、それ自身のうちで規定されているもの、さまざまの規定の統一として知らなければならない」(一五七ページ)。
 三一節で学んだように、「具体的なもの」は対立物の統一として存在しているのに、形而上学は、対立する二つの規定のうちの一方のみを真理として取り上げました。これに対して経験論は、対象である「具体的なもの」を対象に即して対立物の統一としてとらえようとするものです。対象となる客観的事物は、多様な区別のなかに統一を保っており、言いかえると特殊と普遍の統一なのです。
 対象を「それ自身のうちで規定」するとは、二八節補遺で学んだように、思惟により対象の概念をとらえることを意味しています。
 「単に悟性的な思惟は、抽象的な普遍という形式にとどまって、この普遍の特殊化まで進むことができない。例えば古い形而上学は、魂の本質あるいは根本規定が何であるかを思惟によって見出そうとし、魂は単純であると言っている。……ところが、抽象的な単純性というようなものは、きわめて貧しい規定であって、そんなものによっては、魂および更に進んでは精神の豊かさは決して把握できない」(同)。
 古い形而上学は、「魂は単純かそれとも複合か」と二者択一的に問題を提起して、抽象的普遍と特殊を対立させ、「魂は単純である」と規定します。しかし「抽象的な単純性」という規定は、特殊性を排除したものですから、そんな抽象的規定では、魂(精神)の「豊かさは決して把握できない」のです。
 同様に古い形而上学の「合理的な自然学」では、「空間は無限であるとか、自然は飛躍しないとか言われているが、それは、豊かな、生命にみちた自然に向うとき、全く不十分なものである」(同)ことが明らかとなり、「人々は経験的心理学に頼るよりほかはないと考え」(同)たのです。
 私たちの宇宙は現在も無限に膨張し続けていますが、宇宙の始まりをもつという意味では有限です。しかし私たちの宇宙以外にも無数の宇宙があるという意味では無限です。また生命体は、親から子へ同じ種が貫かれるという意味では「飛躍しない」のですが、地上の生命体はたった一種から一千万種の生命体まで発展したという意味では、飛躍の連続でした。時間と空間は有限と無限の統一、生命体は連続性と非連続性の統一としてとらえることによって、はじめてその豊かさの総体をとらえうるのです。

三八節 ── 経験論は対象の普遍性、必然性を認めない

 「経験論の以上述べたような源泉は、一方では、形而上学のそれと同じである。というのは、形而上学においても、その諸定義(前提的な諸定義およびより具体的な内容にかんする諸定義)の保証となっているものは表象、すなわちまず経験に起源する内容だからである」(一五七~一五八ページ)。
 真理の源泉を経験に求めるというところは、形而上学も経験論も同じです。古い形而上学が例えば魂を定義する場合、主語となる魂は表象のうちにとらえられる魂であり、その表象は「経験に起源する」内容だからです。
 「しかし他方では、経験論は形而上学と明白に異っている。個々の知覚はまだ経験ではないから、経験論も知覚、感情、および直観の内容を普遍的な表象、命題、法則、等々の形式へ高めはする。しかし、経験論がそうしたことを行う場合、これらの普遍的規定(例えば力)は、知覚から取られたものという以上の意味および妥当性をそれ自身で持つことは決してなく、現象のうちに示されうる以外の連関は正しくないものと考えられているのである」(一五八ページ)。
 当時の経験論は、真理の源泉を経験に求めるという点では形而上学と同じですが、形而上学が表象に含まれる普遍性、必然性に真理を求めようとするのに対し、経験論は「普遍的規定」、例えば「普遍的な表象、命題、法則、等々」の規定に対して「知覚から取られたものという以上の意味および妥当性」を与えることなく、必然性にかんしても「現象のうちに示されうる以外の連関は正しくないものと考えられている」のです。力学的な力という普遍性を例にとると、石を投げれば落下する力が働くという「知覚から取られたもの」は認めても、万有引力という必然性は認めようとしないのです。
 「経験的認識の確かな拠りどころは、主観の面から言えば、意識が知覚のうちで自分で直接に体験し確信を持っていることにある」(同)。
 経験論は、形而上学には存在しなかった「確かな拠りどころ」を、「客観の面」からは経験に求め、「主観の面」からは自分自身の体験から生まれる確信に求めています。
 「経験論のうちには、真実なものは現実のうちにあり、かつ知覚されていなければならないという偉大な原理がある。この原理はゾレン(Sollen)と対立しているものであって、反省はゾレンを持出して大きな顔をし、彼岸によって目の前の現実を蔑視している」(同)。
 形而上学は、「真なるもの」は思惟によってとらえたゾレンにあるとするのですが、このゾレンは「主観的な悟性のうちにあるにすぎない」(同)から、何ら「確かな拠りどころ」になりえません。これに対して経験論は、「真実なものは現実のうちに」あるとする唯物論的な「偉大な原理」にたっており、七節でみたように「経験的科学」(七二ページ)と同一の立場にたっているのです。
 「主観の面から言っても、経験論には自由という重要な原理が含まれているのを認めなければならない。すなわち経験論によれば、人間が或ることを正しいと認めるためには、それを自分の眼でみなければならず、自分自身がそのうちに現にいることを知っていなければならないのである」(一五八ページ)。
 また経験論によると、「自分の眼」で確かめ、五感で確認したもののみを真理と認めるのですから、真理のうちには、自由な意志をもつ自分自身が「現にいる」という意味で「自由という重要な原理が含まれている」のです。しかし、経験論はこの点を自覚せず、認識を有限なものの認識に限定してしまうのです。
 「経験論の内容は有限なものに限られているから、徹底した経験論は超感覚的なものを全く否定するか、あるいは少なくとも超感覚的なものの認識および規定の可能を否定し、思惟には抽象と形式的普遍性と形式的同一性の能力しか認めない」(一五八~一五九ページ)。
 経験論は、自分が経験しえないものには真理を認めようとしません。そこから徹底した経験論は認識を経験しうる有限なものに限定してしまい、「超感覚的なもの」の存在自体を否定するか、またはその「認識および規定の可能」性も否定することで、魂、世界、神などの真理認識の可能性を否定するのです。
 それだけではなく、「現象のうちに示されうる以外の連関は正しくないものと考えられている」(一五八ページ)ところから、「思惟には抽象と形式的普遍性と形式的同一性の能力しか認めない」ことになるのです。すなわち個別的現象を抽象することからえられる「形式的普遍性」(抽象的普遍性)、あるいは個別と普遍との「形式的同一性」しか認めないのです。そうなれば、諸事物の本質的連関、必然性、法則性の大部分も、経験を超えるものとして否定されることになってしまいます。
 「学的な経験論の根本的な錯覚は次の点にある。それは物質とか力とか、一、多、普遍、無限、等々というような形而上学的なカテゴリーを用い、更にそれらを導きの糸として推理を進め、そしてその場合には推理の諸形式を前提しかつ適用しているにもかかわらず、しかもそれは自分が形而上学を含み形而上学を行っていることを知らず、カテゴリーおよびカテゴリーの結合されたものを全く無批判的無意識的な仕方で用いているのである」(一五九ページ)。
 経験論の根本的な錯覚は「自分で直接に体験し確信を持っていること」(一五八ページ)のみを真理とするといいながら、実際には形而上学によって与えられた「物質とか力とか、一、多、普遍、無限、等々」のカテゴリーを自己の体験にてらして検討することもなく無批判に使用し、かつ諸カテゴリーを「導きの糸」として、経験を越える思惟の活動としての「推理の諸形式」を適用しているところにあるのです。その意味で経験論は形而上学の批判として登場しながら、「形而上学を含み形而上学を行っている」のです。

三八節補遺 ── 経験論は知覚にとどまり思想にまで前進しない

 「経験論は、空虚な抽象のうちをさまようのをやめること、自分自身の手許をみること、目の前の人間および自然をとらえること、現在を楽しむことを説いた。このような主張のうちには明かに、本質的に正しいモメントが含まれている。ここ、現在、此岸は、空虚な彼岸、抽象的な悟性の幻影に取ってかわるだけの値打を持っているし、またこのことによって古い形而上学が持たなかった確かな拠りどころ、すなわち無限の規定がえられるのである」(一五九ページ)。
 経験論が古い形而上学のように「空虚な抽象のうちをさまよう」のではなく、真実は目の前の現実にあるとの主張のうちには、唯物論的な「本質的に正しいモメントが含まれ」ています。というのも「理性の衝動」(同)は「有限な諸規定」に飽きたらず、「無限の規定」を求めていますが、現実のうちには、この「無限の規定」も含まれているからです。
 理性の衝動は「無限の形式の真の現存在ではないけれども潜在的には無限の形式をもっているところの現在、ここ、これをとらえたのである。真実在は現実的であり現存しなければならないから、外にあらわれたものも潜在的には真実在である。したがって理性が求めている無限なものは、感覚的に個別的な姿のうちにその本当の姿を示さないとしても、世界のうちにあるのである」(一五九~一六〇ページ)。
 現実に存在するものは、まだ概念(真にあるべき姿)に一致する存在ではありませんから有限な存在です。しかしその有限な事物は、そのなかにその事物の真にあるべき姿を潜在的に含んでいるのですから「潜在的には真実在」なのです。したがって「理性が求めている無限なもの」は、「感覚的に個別的な姿のうちに」含まれており、経験論はそこに至る道を可能にするものとして「本質的に正しいモメント」を含んでいるのです。
 「もっと立入って経験論を考察してみると、経験論によれば対象を把握する形式は知覚であり、そしてこれが経験論の欠陥をなしている。知覚は本来常に個別的かつ一時的なものであるが、認識はそのようなものに立ちどまらず、知覚された個々のもののうちに普遍的かつ恒久的なものを見出そうとするものであって、これが単なる知覚から経験への進展をなすのである」(一六〇ページ)。
 経験論の欠陥は、対象を「自分で直接に体験」(一五八ページ)することによって生まれる「知覚」という形式にとどまってしまうところにあります。
 というのも「知覚」は「個別的かつ一時的なもの」を認識するにとどまるのに対し、「理性の衝動」は「普遍的かつ恒久的なものを見出そうとする」からです。そこで経験論も「知覚から経験への進展」を問題とせざるをえなくなるのです。
 この知覚から経験への進展を作り出すために、「経験論が主に用いる形式は分析である。……この分解は、合一されている諸要素を分解するだけで、分解という主観の働き以外には、何もつけ加えないと考えられている。しかしこの分析は知覚の直接性から思想への進展である」(一六〇ページ)。
 経験論が経験を作り出すために用いる形式は分析です。経験論によるとこの分析は対象に「何もつけ加えない」と考えられているのですが、実際には、分析は知覚のとらえた個別性を「普遍性の形式」(同)にかえることによって、対象となる「具体的なもの」(同)を思想により「抽象的なものに変えている」(同)のに、それに気づかないでいるだけなのです。
 このような分析は、生命あるものを解体して「殺すことにもなる」(同)のですが、「対象を把握するためには、どうしても行われなければならないもの」(同)であり、大事なことは「分割されたものを合一する」(一六一ページ)ことです。つまり分析と総合の統一によって、はじめて真理に接近しうるのであり、経験論の用いる分析という形式のみでは片手落ちとなります。
 ともあれ経験論が「具体的なものから出発」(同)して分析により「さまざまの区別を確定する」(同)ことは、真理を認識するうえで「非常に重要なこと」(同)です。しかし、この区別されたものは「結局抽象的な諸規定、すなわち思想」(同)ですから、結論的には「事物の真理は思惟によってとらえられるという、古い形而上学の前提と同じ」(同)立場にたつことになってしまうのです。
 以上経験論と古い形而上学の対象を把握する「形式」の異同を検討してきましたが、今度は対象の「内容」を比較検討してみましょう。
 古い形而上学の内容は「魂、神、世界一般」(同)という内容的に無限なものであるのに対し、経験論の内容は「自然の感性的な内容および有限な精神の内容」(一六二ページ)です。古い形而上学は無限な内容を有限な悟性の形式によってとらえようとしたのですが、経験論は有限な内容を有限な形式でとらえようとしたのです。
 次に、ヘーゲルは「一般に外的なものを真実なもの」(同)とするところから、この経験論の原則の徹底は「唯物論と呼んだものを生んだ」(同)として、唯物論の批判をしているので、それをみておきましょう。
 「唯物論にとっては物質そのものが真に客観的なものである。しかし物質とはそれ自身すでに一つの抽象物であって、われわれは物質そのものを知覚することはできない。だからわれわれは、現存する物質は常に規定されたもの、具体的なものであるかぎり、物質というものは存在しないと言うことができる」(同)。
 唯物論とは、世界のうちにおける思考と存在、意識と物質、精神と自然という対立する二つの規定のうち、存在、物質、自然の根源性を主張する理論です。いわば世界のうち、存在、物質、自然が第一次的なものであり、思考、意識、精神は、第一次的な存在である物質、自然によって規定される第二次的なものととらえる立場であり、経験論も徹底すれば唯物論になります。
 ヘーゲルは「唯物論にとっては物質そのものが真に客観的なもの」とされているが、物質とは「一つの抽象物」であって「存在しない」としたうえで、「にもかかわらず唯物論は、物質というような抽象物があらゆる感性的なものの基礎」(同)であると主張しているから唯物論は正しくない、と批判しています。
 しかし、世界を二分してとらえることは、世界を抽象化することを前提にしていますので、「物質」が一つの「抽象物」であるのは当然のことです。ヘーゲル自身も、世界を「精神と自然」に二分してとらえていますが、これも同様の抽象化にほかなりません。
 またヘーゲルは動物という「普遍的なものとしての類」(一一七ページ)は「現存しない」(同)けど「特定の動物」(同)の「本質」(同)をなしていると述べています。同様に物質という普遍は「存在」しないものではあっても個々の物質の本質をなすものであり、この点からしても、ヘーゲルの唯物論批判は納得できません。
 したがってヘーゲルの唯物論批判は、ヘーゲルの理論体系からしてもいかにも粗雑な議論で、全く説得力を欠くものであり、当時危険思想とされていた無神論者との批判を免れるための隠れとして持ち出したものではないかと思わせるものとなっています。
 「さて経験論にとっては、このような感性的なものは与えられたものであり、また何時までもそうであるから、経験論は不自由の学説である。なぜなら自由とはまさに、私が私にとって絶対の他者であるようなものを持たず、私自身であるところの内容に依存することにあるからである」(一六二ページ)。
 結局経験論は、「一般に外的なものを真実なもの」とみなし、「与えられたものをそのままに受取」(一六二~一六三ページ)る立場にたつのであり、「それが果してそれ自身理性的であるか、またどの程度理性的であるか、というようなことを問題」(一六三ページ)にすることがないのです。
 それは、対象とする事物がどんなに一時的・偶然的なものであっても、「与えられたもの」として「そのままに受取」る「不自由の学説」にほかなりません。与えられた前提という「絶対の他者」をもたず、私が何物にも拘束されない私自身の自由な精神のもとにあるとき、私は自由であるといえます。したがって形而上学は「自由の学説」であったのに対し、「絶対の他者」をもつ経験論は「不自由の学説」にすぎないのです。

三九節 ── 経験論は観念論にも不可知論にも至る

 先にもみたように、経験には、「われわれの内および外」という二つの側面があります。
 「一つは、個々ばらばらの無限に多様な素材であり、もう一つは、形式、すなわち普遍性および必然性という規定である」(一六三ページ)。
 もし後者を、本来客観的事物に含まれているものを経験がとらえたにすぎないと考えれば、経験論は唯物論につながりますが、それは客観的事物に含まれるものではなく、主観の産物だと考えれば、経験論は観念論につながります。経験論者バークリーは、「我々が物と称ぶ一切のものの存在はただその知覚されてある事である」(『哲学史』下巻の三、七ページ)ととらえ、物とは「感覚の組合せ」にすぎないという観念論におちいりました。
 これに対して同じく経験論者であるヒュームは、「経験は、継起する諸変化あるいは並存する諸対象にかんする知覚を示しはするが、しかし必然の連関を示さない」(一六三ページ)として「普遍性および必然性は不当なもの、主観的な偶然」(同)にすぎないと考えました。これが「ヒュームの懐疑論」といわれるものです。
 ヒュームの懐疑論と古代ギリシャの懐疑論は区別しなければなりません。後者は、三二節補遺でみたように、すべての定説をドグマティズムとして否定するものですが、これに対し「ヒュームの懐疑論は、経験的なもの、感情、直観が真理であるということを根本におき、そこから、普遍的な規定や法則が感覚的知覚によって証明されないという理由によって」(一六四ページ)不可知論に陥ったのです。
 といってもヒュームは、普遍性、必然性の認識それ自身を否定したのではなく、それが経験に由来することを証明しえないといったにとどまります。
 「ここから生ずる一つの重要な帰結は、こうした経験的な仕方においては、法的規定や倫理的規定や法則や、および宗教の内容さえも偶然的なものと考えられ、それらの客観性および内的真理は棄てられてしまうということである」(一六三ページ)。
 ヘーゲルのいう人倫(法、道徳、市民社会、国家)や宗教は、無限な精神の活動の産物である客観的精神として、それ自体経験を越える無限な存在です。経験論は無限な客観の必然性、法則性は認識しえないとして、認めようとせず、国家、社会の未来の真理、真にあるべき姿の探究を捨てさってしまうのです。

 

三、カント批判 ── カント哲学の総括的批判

カント哲学の意義

 カント(一七二四~一八〇四)もフランス革命の影響を強く受けた一人であり、ヘーゲルは「カント哲学の真実なる点は、自由を容認せる事にある」(『哲学史』下巻の三、七二ページ)と述べ、マルクスもまたカント哲学を「フランス革命のドイツ的理論」(全集①九三ページ)とよびました。彼は、従来の形而上学、とりわけライプニッツ=ヴォルフ学派の形而上学を独断論だと批判しつつ、他方で経験論では科学や道徳の普遍性、必然性を基礎づけられないと批判し、人間の主観性をもとにこれまでの哲学を全面的に建て直そうとしました。
 カントの哲学体系は、人間は果たして絶対的真理を認識しうる能力をもっているのかという認識論を問題とした『純粋理性批判』を中心としつつ、いかに生きるべきかの道徳論を問題とした『実践理性批判』、理想と現実の関係という理念論を論じた『判断力批判』の三部から成っており、いずれにも「批判」の言葉が含まれているところから、「批判哲学」と呼ばれています。『純粋理性批判』のなかでカントは、「現象の世界」と「物自体の世界」とを区別し、前者の真理は認識しうるが後者のそれは認識しえないとの二元論を展開しました。
 ヘーゲルは、カント哲学に学びつつ、これを批判的に乗り越えるものとして自己の哲学を確立しました。したがってヘーゲルのカント哲学批判は、予備概念の中核をなし、「批判哲学」全三部にわたって詳細な批判をくり広げています。一言でいうと、人間の認識能力に限界はなく、絶対的真理はとらえうるとの立場から、カントの二元論と不可知論を批判し、カント哲学を主・客分離の「主観的観念論」(一七九ページ)と規定すると同時に、自己の哲学を主客一致の「絶対的イデアリスムス」(同)と規定し、対比してみせたのです。
 ヘーゲルのカント批判は、総括的批判(四〇~四一節)、『純粋理性批判』の批判(四二~五二節)、『実践理性批判』の批判(五三~五四節)、『判断力批判』の批判(五五~六〇節)、結論(六〇節)という五つの部分から構成されており、この構成の量的比較からしても、批判の中心が『純粋理性批判』という認識論にあることが分かります。
 以下、順を追ってみていくことにしましょう。

四〇節 ── カントは普遍性、必然性を主観の産物とする

 四〇節と四一節の「総括的批判」では、形而上学で取り上げられた思惟諸規定(カテゴリー)それ自体を再検討し、カントはこれらの思惟規定によって果たして真理を認識しうるのかどうかという問題を提起したことを指摘し、そのうえでカント批判を展開しています。
 「批判哲学は、経験論とともに、経験を認識の唯一の地盤と考えるが、しかしそれを真理とはみないで、現象の認識にすぎないと考える」(一六四ページ)。
 三七節で学んだように、経験論は「真理を思想そのもののうちに」(一五六ページ)ではなく、「経験から」(同)取り出そうとする立場であり、ヘーゲルから、与えられた経験を無批判的に肯定する「不自由の学説」(一六二ページ)との批判を浴びるところとなりました。
 カントも同様に経験から出発しながらも、経験にもとづく認識を絶対化せず、「それを真理とはみないで、現象の認識にすぎない」と考えたのです。
 「批判哲学はまず、経験の分析のうちに見出されるところの、感性的素材とその普遍的な諸関係という二つの要素の区別から出発する」(一六四ページ)。
 経験のなかに二つの要素がある(三九節)という点は、カントも経験論者ヒュームも全く同じです。
 しかしヒュームは、「感性的素材」が経験のうちに含まれることは間違いないが、「普遍的な諸関係」は経験のうちに含まれるのか、それとも主観の産物なのかはっきりしないと考えました。
 これに対してカントは、前者についてはヒュームと同様に考えましたが、後者についてはこれを明確に主観的なものと考えたのです。
 「批判哲学によれば、この要素(普遍性および必然性 ── 高村)は経験そのものからは生じないから、それは思惟の自発性に属する。言いかえれば先天的である。 ── 思惟規定すなわち悟性概念が経験認識の客観性を構成する。それらは常に関係であるから、したがってそれらによって先天的な綜合判断(言いかえれば、対立したものの本源的な関係)が作られる」(一六五ページ)。
 経験をつうじて獲得される普遍性、必然性の認識は、経験的事実のなかに含まれるのではなく、思惟が先天的(アプリオリ)にもっている主観的認識能力の産物だと考えたのです。つまり人間は、その主観のうちに感覚によって与えられた多様で無秩序、無関係な存在を「思惟規定すなわち悟性概念(カテゴリーのこと ── 高村)」に統一し、秩序づけ関係づける能力を先天的にもっているというのです。カントは、思惟の基本単位を判断ととらえており、十二の判断に対応するものとして十二のカテゴリーを見いだしています。
 この先天的な思惟規定(カテゴリー)によって、多様で無秩序な経験的感覚は一定の普遍的、必然的「関係」のもとにおかれることになります。つまり対象としての主語と、述語としてのカテゴリーが結合することによって、対象とカテゴリーという「対立したものの本源的な関係」がつくられ、「先天的な綜合判断」となるというのです。
 普遍性、必然性を、客観のなかにではなく、主観のなかに求めようとするカントの発想は、「コペルニクス的転換」とよばれています。
 しかし、それはカントのとらえ方が正しいというのではありません。あくまで普遍性、必然性は客観のなかにあるのであって、ヘーゲルはその唯物論的見地を貫いています。
 「ヒュームの懐疑論は、認識のうちには普遍性および必然性という規定が見出されるという事実を否定するものではない。そしてそれはまたカントの哲学においても、前提された事実以外のものではない」(同)。
 カントもヒュームも「認識のうちには普遍性および必然性という規定」が見いだされることは肯定します。ヒュームはこの普遍性、必然性が経験に由来しているか否かは知りえないというのに対し、カントはそれを「思惟の自発性に属する」(同)ととらえているところに、両者の違いがあるのです。

四一節 ── カントはカテゴリーを主観・客観の見地からのみ検討

 「批判哲学はまず、形而上学において(のみならず、諸科学および常識的な考察においても)用いられている悟性概念の価値を検討している。しかしこの批判は、これら思惟諸規定の内容および思惟諸規定相互の特定の関係そのものに向けられるのではなく、それらを主観性と客観性との対立という面から考察する」(同)。
 カント哲学は経験論と異なり、形而上学において用いられているカテゴリーの価値を検討しているのですが、その検討の仕方はカテゴリーの「内容」やカテゴリー「相互の特定の関係」を問題にするのではなくて、もっぱらそのカテゴリーは主観的か客観的かという見地から検討しているのです。ヘーゲルは、カントがカテゴリーの価値を批判的に検討していることを評価しながらも、カテゴリーが「どの程度真理の認識へ導きうるか」(一六六ページ)の問題をもっぱら「主観性と客観性との対立」という見地から考察していることを問題にしているのです。
 「主観性と客観性という対立は、ここで理解されているような意味では、経験の内部での二つの要素の区別にかんするものである(前節をみよ)。すなわち客観性とは、ここでは普遍性および必然性の面、すなわち思惟規定そのもの、いわゆる先天的なものの面を意味する」(一六五~一六六ページ)。
 カントのいう主観性、客観性は、経験にかかわる独特の用語です。四〇節に「悟性概念が経験認識の客観性を構成する」(一六五ページ)とあるように、客観性とは経験の内部での「普遍性および必然性」を意味し、主観性とは特殊性および偶然性、つまり「感性的素材」の面を意味しています。
 「ところが批判哲学はこの対立の意味をもっと拡げて、主観性のうちに経験全体、すなわち上述の二つの要素を二つながら含ませ、反対の側には物自体しか残さないというようなことを行っている」(一六六ページ)。
 補遺二でみるように、客観性を普遍性、必然性の意味で使用することは正しいといえるのですが、カントの場合、それとは異なる意味でも、主観と客観の言葉を使用しているのです。すなわち、主観性には普遍性と特殊性という「経験全体」を含め、客観性として「物自体」を対置しているのです。言いかえると、カントは主観性と客観性という用語を、普遍性と特殊性という意味で使用するのみならず、現象の世界は主観性の世界であり、物自体の世界は客観性の世界である、という意味にも用いているのです。
 このように区別したうえで、思惟は、普遍性、必然性をとらえるという意味では「客観性を持つにもかかわらず」(同)、物自体は認識しえないという意味では「やはり主観的活動にすぎない」(同)ものとします。
 そこから、カント哲学の「体系づけも心理学的記述の基礎にもとづいて」(同)、主観的な「純粋理性」「実践理性」「判断力」の批判という体系となっているのです。
 「先天的なものの、言いかえれば思惟の、より具体的な諸形式は次のように体系づけられている」(同)として、以下に「 ⒜ 理論的能力、認識そのもの」(「純粋理性」一六九ページ)。「 ⒝ 実践的理性」(一九九ページ)、「 ⒞ 反省的判断力」(二〇一ページ)が紹介されることになります。

四一節補遺一 ── カテゴリーの吟味は内容の真理性の観点から

 「批判哲学が古い形而上学の思惟規定を検討にかけたということは、確かに非常に重要な進歩であった」(一六六ページ)。
 カントは、古い形而上学や経験論が「何の疑念も抱かずに」(同)、「無雑作に、先在的なもの」(同)として使用していた「思惟の諸形式がどの程度真理の認識へ導きうるか」(同)を検討するという重要な進歩をもたらしました。
 しかし、これは「認識する以前に認識能力を吟味」(同)しようというものであり、「水泳を覚えてから水にはいろう」(一六七ページ)とするのと同様の誤りといわなければなりません。
 泳ぎながら泳ぎを身につけるのと同様に、認識能力も、認識しながら「自分で自分を吟味し、自分自身に即して自分の限界を規定し自分の欠陥を指示」(同)し、それを克服することによって認識能力を高めていくしかないのであり、最初から認識能力を吟味してそれに一定の限界を設けることは、人間の認識能力の無限の発展を否定するものでしかありません。
 このように人間の認識能力を無限に発展させ、無限に絶対的真理へと接近させる思惟形式が弁証法であり、「弁証法は外から思惟諸規定にもたらされるのではなく、思惟規定そのものに内在しているものとみなければならない」(同)のです。一一節で学んだように「思惟は、自分自身でおちいった矛盾の解決を自分自身でなしとげ」(七九ページ)、無限に発展していくのであり、「思惟の本性そのものが弁証法」(同)なのです。その意味で弁証法は「思惟諸規定そのものに内在している」のです。
 結局カント哲学が問題にした第一の点は、「どの程度まで認識しうるかという能力を、思惟自身が吟味せねばばならない」(一六七ページ)というものであり、形而上学や経験論が無批判的にとりあげたカテゴリーの価値の吟味を提起したところにあります。しかし問題提起自体は正しいとしても、その吟味はカントのいうような主観的か客観的かという面からではなく、諸カテゴリーの内容の真理性の検討という「もっと先へ進」(同)まねばならないのであり、ヘーゲルはそれを試みているのです。

四一節補遺二 ── カントの「客観性」批判

 「カントの思惟諸規定の吟味は、思惟規定を即自かつ対自的に考察せず、それらを主観的か客観的かという見地のもとにのみ考察するという根本的な欠陥を持っている。客観的とは、日常の用語ではわれわれの外部に存在し、感覚を通して外からわれわれに到達するものという意味である。ところでカントは、思惟諸規定(例えば、原因と結果)が今言ったような意味での客観性を持つことを否定し、それらはわれわれの思惟そのもの、言いかえれば思惟の自発性に属すると考えた」(一六七~一六八ページ)。
 カントは、一方で事物の普遍性、必然性をとらえるカテゴリーを自分では「客観的」とよびながら、他方でカテゴリーを「思惟の自発性に属する」、つまり「日常の用語」の主観的なものと考えました。
 カントが思惟規定を「思惟の自発性に属する」日常用語の「主観的」なものと考えながら、他方で思惟のとらえた普遍的で必然的な思惟規定を「客観的」と呼んだために「人々はカントに言語を混乱させるという非難」(一六八ページ)を加えました。しかしヘーゲルはこの非難は「全く不当」(同)だといいます。
 「実際においては、感覚的に知覚されるものは、本来非独立的で二次的なものであり、思想はこれに反して本当に独立的で一次的なものである。カントはこの意味で思想的なもの(普遍的かつ必然的なもの)を客観的と呼んでいるのであって、これは全く正しいのである」(同)。
 ヘーゲルは、思想は「独立的で一次的」であるのに対し、感覚は「非独立的で二次的」であるから、カントが「思想的なもの(普遍的かつ必然的なもの)」を一次的なものとして「客観的と呼んでいる」のは正しい、といっています。例えば「芸術作品の評価は客観的でなければならず主観的であってはならない」(同)と表現することがありますが、この場合の「客観的」とは、評価が「一時的な特殊な感情や気分」(一六九ページ)によってではなく「芸術の本質にもとづく普遍的な見地」(同)にたつものでなければならないという意味で用いられているのです。
 問題はそこにあるのではなく、「カントの言う思惟の客観性(普遍性、必然性 ── 高村)は、結局また主観的なものにすぎない」(同)ところにあるのです。
 「というのは、カントによれば、思想は普遍的かつ必然的な規定ではあるけれども、やはりわれわれの思想にすぎず、物自体とは越えることのできない深淵によって区別されているからである」(同)。
 カントは普遍的、必然的規定を感覚的なものとの関係では一次的な「客観的」なものとしながら、物自体との関係では、普遍的、必然的規定は「われわれの思想」にすぎず、物自体とは「深淵によって区別」されている二次的なものにすぎないというのですから、「結局また主観的なものにすぎない」ことになるのです。
 「思想の真の客観性とは、思想が単にわれわれの思想であるだけでなく、同時に物および対象的なもの一般の自体であることを意味する」(同)。
 「思想の真の客観性」とは、それが単に一次的な「われわれの思想」というにとどまらず、「物および対象的なもの一般の自体」、つまり単なる思想ではなく客観のうちの真なるものをとらえた思想でなければなりません。カントのように物自体という真なるものをとらえられない思想は、真に客観的な思想ということはできません。  
 「これまで述べたところによれば、客観性という言葉は三つの意味を持っている。第一には、単に主観的なもの、考えられたもの、夢想されたもの、等々と区別された外的存在の意味、第二にはカントが確立したような意味、すなわち感覚に固有な偶然性、特殊性、主観性などと区別された普遍的で必然的なものという意味、そして第三には、最後に述べたような、われわれが考えたものにすぎないものとも異り、したがってまた物自身あるいは物自体とも異っているところの、思惟によって把握された事物の本質という意味である」(同)。
 「客観的思想」の「客観的」が第三の意味であることはいうまでもありません。