『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第一一講 予備概念 ⑥
     カント批判 ⑵

 

『純粋理性批判』の批判(一)

 前講でカント哲学の総括的批判を終わりましたので、今日は『純粋理性批判』の批判的検討に入ります。

四二節 ── カントのカテゴリーはその必然性が証明されていない

 「 ⒜ 理論的能力、認識そのもの。批判哲学によれば、悟性概念の特定の根拠は、思惟における自我の本源的同一性(カントはこれを自己意識の先験的統一と呼んでいる)である」(一六九~一七〇ページ)。
 四〇節で、経験のうちに「思惟の自発性」(一六五ページ)が見いだす普遍性、必然性は、「悟性概念」(同)、つまりカテゴリーとして示されることを学びました。カントは第二講でお話ししたように、カテゴリーとして十二種類をあげ、この十二種類のカテゴリーによって、世界の普遍性、必然性を認識しうると考えたのです。
 これを受けて本節では、カントが「思惟の自発性」からカテゴリーを引き出すに至る論理に関して、ヘーゲルの批判を展開しています。
 まずカントは、多様で無秩序な感覚的表象を普遍性、必然性に統一する「理論的能力」を「自己意識の先験的統一」とよんでいます。ヘーゲルはそれを「思惟における自我の本源的同一性」とよぶべきだといっています。なぜならそれは自己の外にある感性的な多様なものを自己の内で統一し、自己と同一化するという意味で用いられているからだと述べています(詳しくは補遺二)。
 この理論的能力が悟性概念(カテゴリー)を特定する根拠だとカントはいうのです。
 「感覚および直観によって与えられる諸表象は、内容から言っても多様なものであると同時に、形式によってもまたそうである。なぜならこれらの表象は、直観の形式(普遍的なもの)としてそれ自身先天的なものである時間空間という二つの形式のうちにあり、相互外在的であるからである」(一七〇ページ)。
まず感性、直観によって獲得される諸表象は、内容・形式ともに多様であることが確認されています。内容において多様であることの説明は不要だと思いますので、形式面での多様性についてみておくことにしましょう。
 カントは、時間・空間を主観的な「直観の形式」だと考えています。ニュートン(一六四二~一七二七)は絶対時間、絶対空間という考えを前提として絶対運動を論じ、力学的諸法則をうちたてました。絶対時間とは、何物にも影響されずに同じ速さで流れていく時間であり、絶対空間とは何物にも依存せず、つねに同一であり続ける空間です。ニュートンは、絶対時間と絶対空間とは互いに全く無関係、「相互外在的」であると考えました。このニュートン力学の時間・空間論をうち破ったのが、二十世紀前半のアインシュタインの相対性理論です。時空は物質と無関係な不動の枠組みではなく、運動する物質と切りはなせない関係にあることが明らかになり、時空の唯物論的性格もまた疑問の余地がなくなってきました。
 カントの時代には、まだニュートン力学によって、時空は物質と無関係な不動の枠組みと考えられていたところから、カントは、時空を先天的な「直観の形式」という主観的なものと理解し、時間と空間とは「相互外在的」な関係にあると理解したのです。そこで、直観によってえられる表象は、その内容においてのみならず時間・空間という形式においても多様であり、統一性をもたないといっているのです。
 「感覚および直観のこれら多様なものは、自我がこれを自己へ関係させ、一つの意識としての自己のうちで結合することによって(カントはこれを純粋統覚と呼んでいる)、同一性、本源的な結合へもたらされる。この関係づけの特定の様式が純粋悟性概念、すなわちカテゴリーである」(一七〇ページ)。
 感覚と直観によってえられた多様にして無秩序なものは、カントのいう「純粋統覚」によって「一つの意識としての自己のうちで結合」し、普遍性、必然性という「同一性、本源的な結合へもたらされる」のであり、この秩序づけ、結合する「特定の様式が純粋悟性概念、すなわちカテゴリー」だというのです。
 ヘーゲルは、カントが「カテゴリーの発見を非常に安易にやってのけた」(同)と批判しています。というのも「自我、すなわち自己意識の統一」(同)というだけでは「全く抽象的であり無規定」(同)なものにすぎませんので、そこから直ちに「自我の諸規定」(同)である諸カテゴリーが生まれてくるわけではないからです。
 ではカントはどうやってカテゴリーを導き出しているのかというと、これまでの論理学で知られた「判断の諸種類」からなのです。アリストテレスの『形而上学』では「判断の諸種類がすでに経験的に挙げられて」(同)います。判断とは「AはBである」という形式により、主語である対象を述語によって「思惟する」(同)ものです。カントは、この『形而上学』から十二の「判断の諸種類」を引き出し、そこから十二種類の「思惟の諸規定」(同)、つまりカテゴリーを導き出すという「安易」なやり方をしているのです。
 「思惟諸規定はその必然性において示されなければならないということ、すなわちそれらは本質的に導出されなければならないということ、このことを注意したのは、フィヒテ哲学の没することのできない高い功績である」(同)。
 このようにカントは「思惟規定(カテゴリー ── 高村)を即自かつ対自的に考察」(一六七ページ)しなかったという「根本的な欠陥」(同)をもっていました。というのも、カテゴリーは、それ自身「弁証法として特別に考察」(同)し、その「必然性において示されなければならない」(一七〇ページ)にもかかわらず、カントはそれをしていないからです。これに対しフィヒテは、カテゴリーは経験的に寄せ集めるべきものではなく、自我と非我の対立から弁証法的に導出されるべきだと主張し、「没することのできない高い功績」を残しました。
 「もし論理学が証明を与えることを要求せねばならず、また証明の仕方を教えようとするものであるとすれば、論理学はまず第一に自分自身の内容を証明し、その必然性を洞察することができなければならない」(一七一ページ)。
 世界の根本原理を説く論理学においては、論理学の内容が真理である必然性を自ら証明しなければなりません。カントは、思惟には「本源的同一性」があり、この本源的同一性にもとづき、多様なものを結合する「特定の様式」が十二種類のカテゴリーだというのですが、なぜカテゴリーは十二種類であってそれ以外ではないのか、また諸カテゴリー相互の関係についてもなんらその必然性は証明されていません。これに対して、ヘーゲル論理学は諸カテゴリーの必然性と諸カテゴリー相互の必然的な展開を証明してみせるとの意気込みをここで示しているのです。

四二節補遺一 ── カントのカテゴリーは主観的観念論

 「カントの主張は、だから、思惟諸規定はその源泉を自我のうちに持つということであり、したがって自我が普遍性および必然性の規定を与えるということである」(同)。
 カントの主張の特徴は、自我のうちにある「本源的同一性」が、多様な事物に対して「普遍性および必然性の規定を与える」のであり、その普遍性、必然性の「特定の様式」が「思惟諸規定」、つまり諸カテゴリーだというのです。その意味で諸カテゴリーは「その源泉を自己のうちに持つ」ということになります。
 「われわれがまず目前に持っているものをみれば、それは常に多様なものである。カテゴリーは、こうした多様なものがそれに関係する単純態である。感性的なものは互の外にあり、自己の外にあるものであって、これが感性的なものの根本規定である」(同)。
 われわれがまず意識のうちに反映する感性的なものは、自己の外にある客観をそのまま自己のうちに映しとったものですから、意識のうちにとらえられたものではあっても、まだ「自己の外にあるもの」ということができます。それと同時に、例えば感性のとらえる「今」(同)とは過去でも未来でもないもの、「赤」(同)とは青でも黄でもないものという「互の外」(同)にある「もまた」(一〇五ページ)の関係にすぎず、過去、現在、未来や赤、青、黄は相互に何の関係もない「多様なもの」にすぎないのです。
 これに対して「思惟あるいは自我は、互の外にありかつ自己の外にある感性的なものとは全く反対であって、それは本源的に同一なもの、自己同一なもの、全く自己のもとにあるものである」(一七一ページ)。
 このように感性的なものは「互の外にありかつ自己の外にある」ものですが、自我はその「本源的同一性」により、感性的なものを普遍的、必然的なものとして相互に関係づけて自己のうちに取り込み、自己と同一なものに転化するのです。カントはこの多様な感性的なものを自己同一化して「単純態」に還元したものがカテゴリーだというのです。
 「自我とはひたすら自己関係であり、あらゆるものは、この統一のうちに措定されるとき、それに感染し、それに転化される。自我とはしたがって、無関係な多様を焼きつくして統一へ還元するところの、言わばであり火である。これが、カントが普通の統覚と区別して純粋統覚と呼んでいるものである」(一七一~一七二ページ)。
 自我とは「無関係な多様」を統一へ還元する坩堝であり、この思惟の働きをカントは「純粋統覚」とよんでいます。つまり「純粋統覚は多様を自我のものとする働き」(一七二ページ)なのです。
 カントは「無関係な多様を焼きつくして統一へ還元する」のは、もっぱら純粋統覚という主観的作用によるものだといっていますが、そうではありません。坩堝は、多様な素材に含まれる微量な貴金属を純化して取り出すものであり、無から有を生みだすものではありません。同様にもともと客観的事物に含まれている普遍性、必然性が、思惟の坩堝のなかで純化されてカテゴリーとなるにすぎないのです。
 「人間の努力はすべて、世界を認識し、世界を自己のものとし、世界を自己に従えようとして働いているのであって、そのためには世界の実在性は言わばきくだかなければならない。言いかえれば観念化されなければならない。しかし同時に注意しなければならないことは、多様のうちへ絶対的な統一を導入するものは、自己意識というような主観的作用ではないということである。この同一はむしろ絶対者そのもの、真実在そのものである」(同)。
 このヘーゲルのカント批判は、唯物論的見地からカントの「主観的観念論」を批判したものです。確かに世界を認識するためには、世界を搗きくだき「観念化」することが必要なのですが、それは対象となる客観的事物そのもののなかに「絶対者そのもの、真実在そのもの」としての「絶対的な統一」を発見するための作業であって、「多様のうちへ絶対的な統一を導入するものは、自己意識というような主観的作用ではない」のです。ヘーゲルはこの「絶対的な統一」をとらえる意識を「絶対者の仁慈」(同)とよんでいます。

四二節補遺二 ── 「自己意識の先験的統一」批判

 カントのいう「自己意識の先験的統一」(同)とは何を意味しているのでしょうか。
 まず「自己意識の統一」とは、多様なものを自我のうちで統一へ還元することを意味しています。ヘーゲルのいう「自我の本源的同一性」(一七〇ページ)です。
 問題は「先験的」の意味ですが、ヘーゲルは「超越的」という言葉との対比でそれを論じています。
 「超越的なものとは、一般に悟性によって規定されたものを越えるもの」(一七二ページ)を意味しています。それは言いかえると、一見無関係な対立する二つのものを対立物の統一としてとらえることで悟性を越えるのです。例えば直線と曲線とは悟性的にみれば全く異なるものです。しかし微分においては、曲線も曲線上の接点においては接線という直線としてとらえられ、「悟性が全く異ったものと考えている二つの規定(直線と曲線)が、はっきり同一なものとして定立」(一七三ページ)されることになります。これが「超越的なもの」なのです。
 「有限な素材によって規定されている普通の意識とはちがって、自己同一でかつ自己のうちで無限であるところの自己意識もまた、このような超越的なものである」(同)。
 カントのいう「自己意識」は、「有限な素材によって規定」される有限な意識と異なり、悟性を越える超越的なものとされています。すなわち「自己意識」は悟性の多様性を揚棄して統一に還元する「自己同一」性、つまり多と一という対立するものを同一としてとらえる「超越的なもの」だというのです。
 人間の意識に、多と一とを同一としてとらえる「超越的」能力があることは間違いありません。しかしカントは、この「超越的」自己意識を、それは「単に主観的なものであって、自体的に存在する対象そのものには属さない」(同)という独自の、しかも間違った意味を付与し、これを「先験的」とよんだのです。
 ですから、ヘーゲルは、この「自己意識の先験的統一」は、「思惟における自我の本源的同一性」(一七〇ページ)と言いかえるべきだと主張しています。つまり、多様な客観的事物を統一に還元する普遍性、必然性は、もともと客観的事物のうちに含まれているのであって、思惟はそれを認識するにすぎません。したがってカントのように多様性を統一に還元する能力を単に主観的な「自己意識の先験的統一」とよぶのは正しくないのであって、「思惟における自我の本源的同一性」が多様な客観的事物のなかにある多と一の同一性(普遍性、必然性)をとらえると理解すべきなのです。

四二節補遺三 ── カテゴリーは対象そのものの真の内容

 カテゴリーが「直接の感覚のうちには含まれていない」(一七三ページ)こと、それが思惟の産物であることは正しいのですが、「このことから、カテゴリーは主観的なものにすぎず、対象そのものの規定ではないという結論は決して生じない。ところがカントの解釈によればそうなのである」(一七四ページ)。
 例えば、白くて甘いという多様なものを砂糖という統一においてとらえたり、雨の後には川が増水するという「時間的に継起する二つの個々の出来事」(一七三ページ)を原因と結果というカテゴリーとしてとらえたりするのは、「思惟そのものに属する」(一七四ページ)ことです。しかしだからといって、多と一の統一や原因と結果などが思惟の対象となる客観的事物に含まれないという結論にはなりません。
 「しかもカントによれば、自我(認識主観)は思惟によって認識の形式を与えるとともに、感覚によって素材をも与えるのであるから、かれの哲学は主観的観念論である」(同)。
 カントは、カテゴリーという「認識の形式」が主観的なものというにとどまらず、時間・空間もまた「直観の形式」として主観的なものとすることにより「感覚によって素材をも与える」(直観の形式が素材の現実性を与える)ことになるから、「かれの哲学は主観的観念論」ということになるのです。
 「しかしこの主観的観念論の内容については、実際軽率に判断をくだすことはできない。対象の統一を主観のうちにおけば、対象は実在性を失ってしまうであろうと、人々はまず考えるかもしれない。しかし、単に対象が存在を持つということによっては、対象もわれわれも何らうるところはないであろう。重要なのは内容である。内容が真実であるかどうかということである」(同)。
 主観的観念論に立てば、すべての事物は主観的なものであって「対象は実在性を失ってしまう」として、唯物論的見地から批判する向きもあるかもしれないが、そうではないというのです。すべての事物は客観的「存在を持つ」といってみても、六節でみたように、その存在が一時的・偶然的な存在なのか、それとも永続的・必然的な存在、つまり真の姿、真にあるべき姿としての存在なのかが問題であって、「重要なのは内容」なのです。一時的・偶然的存在は、「ときがくればやがて存在しなくなる」(同)ので、その内容からしてそもそも存在の名に値しないのです。
 「あるいはまた、主観的観念論によって人はあまりに自惚れる惧れがあると言う人があるかもしれない。しかし、そう言う人の世界なるものが、もし感覚的直観の集りにすぎないとすれば、そんな世界を誇る理由はその人にもないわけである」(同)。
 主観的観念論がすべてを主観に帰すると考えることは、主観を過大に評価し、「人はあまりに自惚れ」ているという批判を生みだすかもしれません。しかしそういう人が、主観のもつ悟性や理性の意義を正当に評価せず、世界を単に「感覚的直観の集りにすぎない」ととらえているのだとしたら、あまりにも意識の働きを軽視するものであって、そんな世界観を「誇る理由」はどこにもないのです。
 「したがって重要なことは、右に述べたような主観性と客観性との区別では決してなく、重要なのは内容であり、そして内容は主観的であると同時に客観的なものである。犯罪でさえ、単なる現存在という意味では客観的である。しかしそれは刑罰において明かになるように、それ自身空無な現存在にすぎない」(同)。
 問題は「存在するもの」が主観的か客観的かにあるのではなく、「存在するもの」の内容が真の姿、真にあるべき姿であるかどうかにあり、もしそれが真の姿であれば、その内容を主観においてとらえたという意味では主観的なものであると同時に、普遍的、必然的という意味では客観的なものなのです。犯罪は「単なる現存在」という意味では客観的とはいえても、内容においては客観的でない「空無な現存在」にすぎないのです。

四三節 ── カントの不可知論

 「カントによれば、一方単なる知覚が客観性、経験へまで高められるのはカテゴリーによってであるが、他方これらの概念は、主観的意識にのみ属する統一体であるから、与えられた素材によって制約され、それだけでは空虚であって、経験にしか適用できないものである」(一七五ページ)。
 カントは、感覚的なものを普遍性、必然性という「客観性」(一六九ページの第二の意味)にまで高めるのがカテゴリーであるとしつつ、他方でカテゴリーは経験によって間接的に与えられた普遍性、必然性であるから「与えられた素材によって制約され」、「経験にしか適用できない」というのです。ここから経験を越える「物自体」や絶対的なものについては、カテゴリーによって認識しえないという不可知論が導き出されることになります。
 「更にまたカントによれば、経験のもう一つの構成要素である感情および直観の諸規定も、同様に主観的なものにすぎない」(一七五ページ)。
 先にみたように、感情および直観をとらえる時間・空間という「直観の形式」(一七〇ページ)もまた、カントは「主観的なもの」ととらえることによって「経験にしか適用できない」と考えているのです。

四三節補遺 ── カテゴリーは空虚ではなく内容をもつ

 カントが、カテゴリーは「それ自身として空虚である」(一七五ページ)としていることに対して、ヘーゲルはカテゴリーはけっして空虚ではないと反論しています。
 「カテゴリーはそれ自身としては空虚であるという主張は、必ずしも正しくない。というのは、カテゴリーは、規定されているという点で、内容を持っているからである」(同)。
 カテゴリーは、確かに感性的な内容、時空のうちに特定される内容という意味での内容をもつものではありませんが、カテゴリーとして規定されるという意味では、一定の規定された内容をもっているのです。
 例えば内容豊富な本というとき、それは「個々の事件や場面などを沢山盛っているから」(同)ではなく、「思想や普遍的な結論などを多く含」(同)んでいることを意味しています。
 「普通の意識でさえ、内容には感覚的素材以上のものが必要であることをはっきり認めているのである。この以上とはすなわち思想であり、ここではまずカテゴリーである」(同)。
 カテゴリーが、カテゴリーとして規定された内容をもつという場合、その内容とは「思想」にほかならないのであり、その思想が真理をとらえたものであるかどうかが問題なのです。例えばヘーゲル論理学は「有」というカテゴリーから始まっていますが、「有」は「無」とともに「成」という運動一般のモメントという正しい「思想」を含んでいるのです。
 もっとも、「カテゴリーはそれだけでは空虚であるという主張にも正しい意味」(一七六ページ)があります。というのも、論理学のカテゴリーは、そこに立ちどまることなく、「自然および精神という実在的な領域へまで進んで」(同)いき、そこにおいてはじめて自己を「実在的」なものとして展開することになるからです。こうして論理学は、「自己を規定し展開」(同)して「自然哲学」および「精神哲学」となるのです。

四四節 ── カントの物自体は空虚な抽象物

 「だからカントによれば、カテゴリーは、知覚のうちには与えられていないような絶対的なものの規定であることはできず、したがって悟性すなわちカテゴリーによる認識は、物自体を認識する能力を持たない」(同)。
 カントは、カテゴリーを「経験にしか適用できない」(一七五ページ)と考えたので、経験(知覚)のうちに与えられる現象はカテゴリーによって認識しうるが、「知覚のうちには与えられていないような絶対的なもの」、したがって物自体はカテゴリーによって認識することはできないと考えました。
 有限なカテゴリーによって認識しうるのは、せいぜい「現象の認識」(一六四ページ)にすぎないのであって、経験を超える「絶対的なもの」「物自体」を認識することはできない、というのです。
 このカントの独自の用語である「物自体」は、カント哲学の「つまずきの石」といわれ、カントの不可知論につながることになります。
 ヘーゲルは、客観世界を現象の世界と物自体の世界とに越えることのできない壁で仕切ってしまうカントの二元論自体が問題であると考えていますが、それと同時にカントが認識しうるのは現象の世界のみであるとして、認識能力に限界を設けようとすることをも批判しています。
 しかしここでは、そもそも「物自体」とは何かと問い返し、その無意味さを明らかにしています。
 「或る対象から、それにかんするあらゆる意識、あらゆる感情規定、およびあらゆる特定の思想を捨象してしまえば、これがすなわち物自体という言葉(しかもカントは物という言葉のもとに精神や神をも理解している)の言いあらわすものである」(一七六ページ)。
 カントによれば、「物自体」とは、「知覚のうちには与えられていない」ものですから、意識、感情、思想のどれをもってしてもとらえきれない対象ということになります。したがって「全き抽象物、全く空虚なもの」(同)であって、こんな「蒸溜の」(同)は単なる「思惟の産物」(同)としての「ありもしないもの」ですから、「ありもしないもの」を認識しえないのは当たり前のことにすぎません。
 「それは全くの抽象へまで進んだ思惟の産物であり、自己自らの空虚な同一性を対象とする空虚な自我の産物である。この抽象的な同一性が対象として受取る否定的規定もまた、カントのカテゴリーの一つとして挙げられていて、それは右に述べた空虚な同一性と同様によく知られているものである」(一七七ページ)。
 ここにいう自己自らの「空虚な同一性」とか「抽象的な同一性」とは、「思惟における自我の本源的同一性」(一七〇ページ)を意味しています。カントの物自体は「全き抽象物、全く空虚なもの」です。なぜこんな空虚なものがカント哲学において生み出されたのかといえば、彼のいう理論的能力、認識能力が「自我の本源的同一性」、つまり多様なものを統一に還元する能力であるという「空虚な同一性」から出発しているからなのです。空虚な物自体は、「空虚な同一性」の能力をもつ「空虚な自我」の当然の「産物」なのです。
 「この抽象的な同一性が対象として受取る否定的規定」とは、カントのいう「理性」のことです。後にみるようにカントは無制約者としての理性に消極的役割しか認めなかったところから、ヘーゲルはそれを「否定的規定」としてとらえたのです。カントには悟性と理性とを区別した功績があるにもかかわらず、理性には無限の真理を認識しうる能力がないとしたことから、ヘーゲルの厳しい批判を受けることになります。
 こうして次の四五節でこの理性が考察の対象とされます。

四五節 ── 理性とは無制約な能力

 「ところでカントによれば、経験的知識が制約されたものであることを洞察するものは、制約されていないものの能力である理性である。ここでカントが理性の対象と呼んでいる無制約者あるいは無限者とは、自己同一なもの、言いかえれば、上述の(四二節)思惟における自我の根源的同一性にほかならない」(一七七ページ)。
カントは、理性とは「制約されていないものの能力」であり、この理性によって「経験的知識が制約されたものであることを洞察する」と考えています。
 ではこの無制約な能力である理性の対象となる「無制約者あるいは無限者」とは何かといえば、物自体なのです。すべての多様な事物はこの物自体に還元され、統一されることになりますので、物自体は「思惟における自我の根源的同一性」の産物にほかならないのです。
 「そしてカントが理性と呼んでいるのは、この純粋な同一性を対象あるいは目的とする抽象的な自我あるいは思惟である(前節の注釈参照)。このような全く無規定の同一性には、経験的認識はあてはまらない。経験的認識は常に規定された内容にかんするものだからである」(同)。
 ここにいう「純粋な同一性」とは物自体のことです。カントのいう理性とは、この物自体を「対象」とし、認識の「目的」とする「抽象的な自我」にすぎません。この抽象的な自我は「無規定の同一性」としての物自体を求めるのみですから、「経験的認識はあてはまらない」のです。なぜなら経験的認識は「常に規定された内容」をもっているため、「無規定の同一性」を求める理性の対象にならないからです。
 「カントはこのような無制約者を理性の絶対的真理(理念)と考えるから、経験的認識は真実でないもの、現象と考えざるをえない」(同)。
 カントは、このように「無規定の同一性」であり、無制約者である物自体を絶対的真理であり、理念であると考えています。理性は、この絶対的真理である物自体を認識しようとします。しかし認識するにはカテゴリーを使って認識するしかありませんが、「カテゴリーによる認識は、物自体を認識する能力を持たない」(一七六ページ)ため、結局理性は物自体を求めつつも認識しえないというジレンマに立たされています。反面からするとカテゴリーによって認識しうるのは「経験的認識」のみであり、しかもそれは「真実でないもの」、現象にすぎないというのです。

四五節補遺 ── カントの理念は単なるゾレン

 「カントによってはじめて悟性と理性とがはっきり区別された。カントによれば、悟性の対象は有限で制約されたものであり、理性のそれは無限で制約されぬものである。ところで、単に経験にのみ依存する悟性の認識の有限性を主張し、その内容を現象と呼んだということは、カント哲学の非常に重要な成果ではあるけれども、しかしわれわれはこのような消極的な成果に立ち止まっていてはならないし、また理性の無制約性を、区別を排除する抽象的な同一にのみ還元するというようなことをしてはならない」(一七八ページ)。
 カントが悟性と理性とを区別し、理性を「無限で制約されぬもの」としてとらえたことは、「カント哲学の非常に重要な成果」ということができます。しかし理性の無制約性をどこに求めたかというと多様なものを統一に還元する「自我の本源的同一性」という、「区別を排除」し区別を含まない同一性に求めたのであり、そこが問題だとヘーゲルはいうのです。理性の無制約性は区別をうちに含む同一性という対立物の統一に求められねばならないからです。
 「このように理性を単に悟性の有限性および制約性を越えるものとのみ考えると、そのために理性そのものも実際は有限で制約されたものにひきさげられてしまう。というのは、真に無限なものは有限なものの単なる彼岸ではなくて、有限なものを揚棄されたものとして自己のうちに含むものであるからである」(同)。
 カントのように「理性を単に悟性の有限性および制約性を越え」るものとしてとらえることになれば、無限であるべき理性は、有限なものによって限界づけられることにより「有限で制約されたもの」にひきさげられてしまうことになります。そうではなくて、理性を真に無限なものとしてとらえるためには、理性は「有限なものを揚棄されたものとして自己のうちに含む」有限と無限の統一としてとらえなければならないのです。
 弁証法による理性的認識は、悟性のとらえる肯定性に対して否定性を対置し、肯定と否定という対立物の統一として、悟性の一面的肯定性を止揚します。これが悟性のもつ「有限なものを揚棄されたものとして自己のうちに含む」、真に無限なものなのです。
 「理念(Idee)についても同じことが言える。カントは理念を抽象的な悟性規定や単なる感覚的表象(こうしたものも日常生活では普通すでにIdeeと呼ばれている)と区別して、それが理性に固有のものであることを明らかにしたかぎりでは、理念の名誉を回復したのであるが、しかしここでもかれはやはり、消極的なものと単なるゾレンに立ちどまっているのである」(同)。
 カントは、プラトンのイデア論にしたがって「理念(Idee)」をとりあげ、これを理性に固有のものとしたかぎりでは、理念の無限性をとらえようとしたものとして「理念の名誉を回復した」のですが、しかし、ここでも理性と同様に、理念を現実の彼岸という「消極的なもの」にすると同時に「単なるゾレン」としての理想にとどめ、現実に必然的に転化するものとしてとらえることはできなかったのです。
 ヘーゲルは、「直接的意識の諸対象を単なる現象とみる考え方」(同)は、「カントの哲学の非常に重要な成果の一つ」(同)だとしています。というのも「単なる現象」とみることは、現象を越える普遍的な「他のもの(他者)」が存在し、その他者が根拠となってそのものを現象させることを意味しているからです。
 「しかしこの場合更に問題なのは、この他者がどう規定されるかということである。カントの哲学によれば、われわれが知るところの事物は、ただわれわれに対する現象にすぎず、物自体は、われわれにとってあくまで到達することのできない彼岸である。われわれの意識内容をなすものを、単にわれわれのもの、単にわれわれによって措定されたものと見るこの主観的観念論にたいして、素朴な意識が不満を抱いたのは当然である」(一七九ページ)。
 問題は、この現象の根拠となる他者とは何なのかです。カントの考えの論理的帰結からするならば、他者とは物自体または理念だというべきなのでしょうが、物自体は認識しえない「彼岸」にあって、現象とは越えることのできない壁でへだてられており、理念もまた現実の彼岸にあると考えられているのですから、物自体または理念は現象の根拠になることはできません。そうなると、せっかく理念(イデア)を論じながらも、そのイデアは「単にわれわれのもの」という主観的なものにとどまり現実に対して何の影響をも与えないことになってしまいます。したがってカント哲学は「主観的観念論」、より正確には「主観的理念論」だとヘーゲルは批判しているのです。
 ヘーゲルがカントの「主観的イデアリスムス」を批判する場合、二つの意味があるように思われます。一つはカントがカテゴリーを主観的なものととらえている点をとらえての批判であり、この場合「主観的イデアリスムス」は「主観的観念論」と訳されるべきでしょう。もう一つは、カントのいう理念が彼岸にあって現実性に転化しない点をとらえての批判であり、この場合「主観的イデアリスムス」は「主観的理念論」と訳されるべきでしょう。
 「真の関係は実際こうである。すなわち、われわれが直接に知る事物は、単にわれわれに対してのみならず、それ自身単なる現象にすぎない。そしてその存在根拠を自分自身のうちに持たず、普遍的な神的理念のうちに持つということは、有限な事物自身の規定なのである」(同)。
 われわれが経験により知覚する有限な事物は、われわれが現象だとみるから現象なのではなくて、客観世界それ自身のなかにあってその存在根拠を普遍的な理念のうちにもち、理念のあらわれであるから現象なのです。ヘーゲルは、自然科学の未発達な一九世紀において、いち早く客観世界の統一性と運動をもたらす根本原因があるはずだと考えると同時に人間の精神の創造性を高く評価し、八節で学んだように、広狭二つの意味で「ヌースあるいは精神が世界の原因である」(七四ページ)ととらえました。カントが四四節で「精神」をも物自体ととらえて彼岸に放置したのに対して、ヘーゲルは広い意味で精神を「世界の原因」と考え、それを「普遍的な神的理念」とよんだのです。もちろん現代において「ヌースあるいは精神」を私たちの宇宙、世界の原因だと考えることの誤りは明白ですが、それでもヘーゲルが世界の根本原因としてとらえようとした功績を否定することはできません。また狭い意味の精神の創造性については、今日においても無条件に正しいものとなっています。
 ヘーゲルが「哲学はただ理念をのみ取扱うものであるが、しかもこの理念は、単にゾレンにとどまって現実的ではないほど無力なものではない」(七一ページ)といっているのは、カントの主観的理念論を批判したものだったのです。
 ヘーゲルは、自分の哲学を「絶対的観念論」(一七九ページ)、つまり「絶対的イデアリスムス(絶対的理念論)」とよんでいます。「イデアリスムスとは後世、のみに実在性を与え、事物は個々別々に現われる通りでは真実体ではないと主張する哲学を名付けた」(『哲学史』下巻の一、一八五ページ)のです。
 この「絶対的理念論」について、ヘーゲルは、「あらゆる宗教的意識の根柢をなしているもの」(同)であり、「一口に言えば現存する世界を、神によって創造され支配されているものとみる」(同)ことであるといっています。実際には客観世界の統一性をもたらす根本原理があるはずだという意味で「絶対的理念」といいながら、これを神による世界の創造だと主張しているところにも、革命の哲学の隠れ蓑として神を利用しているのをみることができるでしょう。
 またヘーゲルのいう「理念(Idee)」も、けっして神の別名ではなく、きわめて唯物論的なものであることのみを指摘しておきましょう。詳しくは、第三部「概念論」で学ぶことになります。

四六節 ── カントは無制約者にカテゴリーは使用しえないという

 「しかし、この同一性あるいは空虚な物自体を認識しようとする要求が起ってくる。ところで認識するとは、或る対象をその特定の内容にしたがって知ることにほかならない。……前節に述べたような理性に、無限者あるいは物自体を特定の内容にしたがって規定する手段があるとすれば、それはカテゴリー以外にはない。そして理性がカテゴリーをそのために用いようとすると、それは高踏的(超越的)となるのである」(一八〇ページ)。
 理性は無制約的な認識能力ですから、理性は「無限者あるいは物自体」を認識したいとの要求をもつようになります。しかし認識の手段となるものはカテゴリーのみであり、そのカテゴリーは「経験にしか適用できない」(一七五ページ)というものでした。したがって理性がカテゴリーを使用して、無限者を認識しようとするとカテゴリーの適用範囲を越えて「高踏的(超越的)」にならざるをえず、理論的に破綻を来すことになるというのです。
 ヘーゲルは、カントの理性批判の「第一の面」(一八〇ページ)は、カテゴリーを「主観的なものにすぎない」(同)ととらえたことにあるのに対して、「第二の面」(同)である「無制約者へのカテゴリーの適用」(一八一ページ)の問題は「第一の面より重要である」(一八〇ページ)と指摘しています。というのも第一の面だけをみると「カントの批判は平凡な主観的観念論」(同)にすぎないのに対し、第二の面からするとカテゴリーの「適用が考察される」(同)ところから、「カテゴリーの内容の少くともいくつかの規定が問題」(同)にならざるをえないからです。
 カントは古い形而上学がとりあげた魂、世界、神という「無制約者へのカテゴリーの適用」を問題にし、それをつうじて形而上学の批判をしています。
 ヘーゲルは、カントの無制約者にかんする古い形而上学批判を「特に興味がある」(一八一ページ)としています。というのもカントのこの批判は「矛盾(アンチノミー)」(一八六ページ)をもたらし、ヘーゲル弁証法への地ならしとなる役割を果たしたからです。そこで四七節から五二節まで形而上学がとりあげた魂、世界、精神の批判が展開されることになります。