『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第一四講 予備概念 ⑨
     カント批判 ⑸・ヤコービ批判 ⑴

 

一、『判断力批判』の批判(二)

五九節 ── カントの神は最高善を実現しない

 引き続き、カントの『判断力批判』の批判です。五五節で、カントはせっかく芸術や生命体において理念を問題にしながら、思想の怠慢により「究極目的(である理念 ── 高村)が現実に実現されること」(二〇二ページ)を認めず、単にゾレンにとどまっているとの批判を受けました。
 しかしカントの判断力における「直観的悟性の原理」(二〇一ページ)からすると、最高の理念である絶対的理念は神のもとでは実現されることになりそうに思われます。
 「反省的判断力の原理にしたがって考えられる絶対的な理念は、理性によって規定された普遍、すなわち絶対的な究極目的である善が、世界のうちに実現されるということ、しかもそれは、この究極目的そのものを立てるとともに、またそれを実現する力である神という第三のものによって、実現されるということであろう。したがって、絶対的真理である神のうちでは、普遍と個、主観と客観というような対立は揚棄され、独立的でなく真実でないものとされるであろう」(二〇四~二〇五ページ)。
 反省的判断力は普遍と特殊の統一である理念を問題としますから、最高の理念である「絶対的理念」という普遍を考えてみると、それは自らを特殊化して「絶対的な究極目的である善が、世界のうちに実現される」というのが「直観的悟性の原理」、つまり「反省的判断力の原理」からの帰結にならざるをえません。このカントの考えからすると「究極目的」とそれを「実現する力」は少なくとも神には認められなければなりませんから、「絶対的真理である神」は「普遍と個、主観と客観」の対立を揚棄し、最高善を実現する存在であるというところにまで到達するのが論理の必然というものでしょう。
 しかし六〇節でみるようにカントはそのようには議論を展開しないのです。

六〇節 (一) ── カントの最高善は道徳的善にすぎない

 「しかしカントが世界の究極目的としている善は、もともと単にわれわれの善、言いかえれば、われわれの実践理性の道徳律にすぎないから、(善と現実との ── 高村)統一といってもそれは世界の状態および出来事とわれわれの道徳との一致にすぎない」(二〇五ページ)。
 もしカントが、神を最高善の実現者ととらえ、「世界の究極目的としている善」、つまり最高善を正面から議論しているならば、神のみならず国家・社会の善を問題とせざるをえなかったでしょう。
 しかしカントは、神と最高善を正面から論じなかったために、善を「単にわれわれの善」、道徳的な善に矮小化してしまい、絶対的理念も、カントのいう道徳律の実現という狭い枠内にとどめられてしまうことになるのです。
 「しかもカントはこの調和にたいして、その内容が真実でないものとして定立されている対立を再び呼びおこし主張しており、そのためにこの調和は単に主観的なもの、単にあるべきもの、実在性は持たないものとされている。言いかえれば、それは信仰されたものにすぎず、単に主観的な確実性を持つのみで、真理、すなわち理念に固有な客観性を持たないものである」(同)。
 カントの道徳律は第一三講で学んだように「汝の意志の格率がつねに同時に一つの普遍的立法の原理として通用するように行為せよ」というものであり、カントの定言命題と呼ばれています。自分のやろうとしていることをもし万人が実行した場合どうなるかを考え、それで矛盾がないと考えられる命題のみを実行せよ、というものです。
 しかし、この定言命題により、道徳的善が一義的に決まるのかといえばそうではありません。例えば、放置自転車に乗ることは、他人の物を盗む(使用窃盗)のですから、盗むなかれという道徳的善に反する反道徳的行為です。しかしもしそれがコンビニ窃盗をつかまえるためだったとすればどうなるでしょう。そこには、盗むべきではないという義務と、窃盗を見逃せないという義務との間に衝突が起こるのです。
 いわば、定言命題は、そこから生じる道徳的義務に「対立を再び呼びおこ」すのであり、そこから生じる義務は「単に主観的な確実性を持つのみで、真理、すなわち理念に固有な客観性を持たない」のです。
 「こうした矛盾をカントは、理念の実現を……未来へ移すことによって、糊塗しているが、時間というような感性的な条件はかえって矛盾の解決とは反対のものであり、それに対応する悟性的な表象である無限進行は、限りなく繰返される矛盾そのものにほかならない」(同)。
 カントは、義務と義務との衝突という矛盾は、時間が経てばどちらの義務が優先すべきか解決してくれると考えていたようですが、しかし、それでは問題の解決になりません。時間の進行は逆に無限に新たな義務と義務との衝突をも生みだすことにもなります。例えば先の例で、コンビニ窃盗が捕まって事情を聞いてみると、ミルクがなくて死にかけている子どものために牛乳を盗んだとなれば、また新たな義務の衝突が生じることになってしまうのです。
 結局カントの道徳律としての定言命題は、義務が「理念に固有の客観性を持たない」ために、義務と義務との衝突という矛盾から抜け出すことはできないのです。

 

二、カント哲学の総括的批判

 ヘーゲルは、六〇節の途中から「認識の本性にかんする批判哲学の結論」(二〇六ページ)についての総括的な批判を展開しています。

六〇節 (二) ── カントの二元論批判

 「あらゆる二元論的な体系はそうであるが、特にカントの二元論的体系の根本欠陥は、それが独立的なもの、したがって結合されえないものと説いたものを、すぐあとで結合するという不整合のうちにあらわれている」(同)。
 カントは、『純粋理性批判』において、現象と物自体とを区別し、有限なもの、現象は認識しうるものの、無限なもの、真にあるべき姿、「物自体」は認識しえないという「二元論的体系」を主張しました。
 他方でカントは、『実践理性批判』においては、道徳に限定するものではあっても実践にかんする「真にあるべき姿」である「何が行わるべきかを告げる法則」(一九九ページ)は認識しうるとして、一元論に一歩近づき、さらに『判断力批判』においては、芸術と生命体に限定しながらも、「普遍と個、主観と客観」(二〇五ページ)の統一という一元論にたつという「不整合」を示しているのです。
 「このような哲学的思惟には、こうした動揺そのものが二つの規定の各々が不十分であることを証明しているのだ、というような簡単なことさえわからないのであって、その欠陥は二つの思想 ── 実際形式から言えば二つしかない ── を結合する能力が全くない点にあるのである」(二〇六ページ)。
 無限なものと有限なもの、イデア界と現象界、普遍と個別、主観と客観という対立する「二つの規定の各々」はいずれもそれだけでは「不十分」なものです。
 カントが、この対立する二つの規定を結合したり分離したりするという「動揺」をくり返しているという事実そのものが、対立する「二つの規定の各々が不十分」であり、真理は理想と現実の統一、主観と客観の統一などという対立物の統一にあることを証明しているのに、カントはそれに気づいていないのです。
 「一方では悟性は現象しか認識しないことを認めながら、他方では『認識はそれ以上に進むことはできない、そこに人間の知識の自然的な、絶対的な制限がある』と言うことによって、この認識が絶対的なものであることを主張するのは、この上もない不整合である」(二〇六~二〇七ページ)。
 ヘーゲルは、『大論理学』において、「制限と当為」のカテゴリーを論じています。すべての事物は有限な存在であり、限界をもっています。その事物が限界に直面したとき、限界は「制限」となり、制限を突破しようとする衝動が生まれます。それが「当為」とよばれるものです。
 悟性が現象しか認識しえないことを認識することは、悟性がその「制限」に直面することを意味しています。悟性の「制限」を認識しながら「この認識が絶対的なものであることを主張」して、当為を主張しないのは「この上もない不整合」なのです。というのも「われわれが或るものを制限、欠陥として知る場合には、否、感じる場合でさえ、われわれは同時にそれを越えている」(二〇七ページ)からです。われわれが、或る認識に「制限、欠陥」を見いだすことができるのは、われわれがその認識を乗り越え、より高い、より普遍的な、認識にたっている場合だけなのです。
 例えば、人間には「苦痛という特権」(同)があります。人間には自分のもっている「個別的な規定性」(同)、つまり自分の現にある姿が「否定的なものと感じられてくること」(同)があり、この「制限」に直面したとき、これでは駄目だと自分自身を苦痛に感じるのです。人間は自分のうちに「個別的なものを越え」(同)る人間としての「普遍」をもち、この人間的普遍性という当為の見地から自己の個別性を制限と感じ、「自分自身を否定」(同)しようとする気持ちが「苦痛」となってあらわれるのです。
 「同じように、認識の制限、欠陥が、制限、欠陥として規定されるのは、普遍的なもの、全体的なもの、完全なものの理念が現にそこにあって、それと比較されるからである。したがって、或るものを有限であるとか制限されているとか呼ぶということがまさに、無限なもの、制限されていないものの現存を証明しているということ、限界にかんする知識は、限界のないものが現に意識のうちにあるからこそ存在しうるのだということ、このことをみないのは、自分が現にしていることに気がつかない者と言わなければならない」(同)。
 ヘーゲルは、或る哲学を反駁するとは「その哲学の特殊の原理を観念的な契機へひきさげることを意味する」(二六五ページ)と述べています。つまりより普遍的な立場から、批判の対象となる認識はその普遍性に包摂される特殊性(一モメント)にすぎないという「制限」を指摘することが反駁なのです。同様に、カントが「悟性は現象しか認識しえない」というのであれば、悟性という特殊性の原理を理性という「普遍的なもの、全体的なもの、完全なもの」と比較し、悟性を理性の一モメントにひきさげるものでなければなりません。つまり悟性の有限性を証明しうるものは、理性の無限性なのです。それをみないカントは「自分が現にしていることに気がつかない」のです。これに対し、ヘーゲルは悟性的認識の制限を指摘すると同時に、その当為として理性的認識への弁証法的発展を主張しているのです。
 「カントの認識論の結論についてもう一つ言いうることは、カントの哲学は諸科学の方法になんらの影響をも与ええなかったということである。カントの哲学は、普通の認識の諸カテゴリーおよび方法を全く批判しないでそのままにしている」(二〇八ページ)。
 結局カントの認識論における二元論とは、理性を悟性から区別したものの「空虚な悟性」(一九八ページ)にとどめたため、「諸科学の方法になんらの影響をも与え」ることができませんでした。「当時の学問の著作」(二〇八ページ)のうちには、カントの哲学的命題から出発するものもありましたが、「論述そのものが進むにつれて、それらの命題が余計な飾り」(同)にすぎないことがわかってくるのです。
 またカント哲学は、形而上学の「諸カテゴリーおよび方法」を何ら批判的に吟味し、その必然性を検討する事もなく「そのまま」使用しました。この点においてもカントの認識論は、これまでの学問に「なんらの影響をも与え」なかったのです。
 これに対しヘーゲルは、理性的認識の立場から、形式論理学の諸カテゴリーをすべて批判的に検討し直し、それを対立物の統一として弁証法的にとらえなおすと同時に、主観と客観の統一の見地から、「概念」「理念」というカント哲学には存在しないカテゴリーにより、哲学を革新する方法を生みだしていったのです。

六〇節 (三) ── 経験論との対比におけるカントの二元論批判

 以下は、カントの二元論を経験論と比較しながら批判しているものです。まず経験論には二つあることを指摘し、それとの対比でカントの二元論を検討しています。
 「さらにカント哲学を形而上学を許容する経験論と比較してみよう。素朴な経験論は、あくまで感覚に信頼をおいてはいるが、同時に精神的な現実、感覚を越えた世界を ── その内容がどうであろうと、すなわちそれが思想に起源を持つものであろうと、想像、等々に起源を持つものであろうと ── 承認している。形式から言えば、この内容は、経験的知識の内容が外的知覚のうちに拠りどころを持っているように、精神的なもののうちに拠りどころを持っている。しかし整合をその原理とする反省的な経験論は、最高の究極的内容にかんするこうした二元論に反対し、思惟的な原理と、そのうちに展開される精神的な世界との独立性を否定する。唯物論、自然主義こそ経験論の整合的な体系である」(二〇八~二〇九ページ)。
 経験論には二つあります。一つは「素朴な経験論」です。この経験論は感覚の世界を基本にしていますが、同時に「感覚を超えた世界」の存在も承認するという二元論にたっています。素朴な経験論を形式面からみると、感覚の世界は「外的知覚のうちに拠りどころ」を求めているのに対し、超感覚的世界は外界とは無関係な「精神的なもののうちに拠りどころ」を求めるという二元論となっています。
 これに対し、もう一つの「整合をその原理とする反省的な経験論」、つまり二元論を否定する経験論は「精神的な世界」の独立性を否定し、精神的世界も「外的知覚のうちに拠りどころ」を求めるという唯物論の立場に立つのです。
 「カント哲学は、このような徹底した経験論にはあくまで思惟および自由の原理を対立させているが、しかも先に述べた素朴な経験論に与みして、その普遍的原理からは一歩も出ない」(二〇九ページ)。
 ヘーゲルはカントの二元論をこの二つの経験論と比較しながら次のように批判しています。
 カントは「徹底した経験論」(唯物論)と対立し、「あくまで思惟および自由の原理」にたつ観念論にたちます。では徹底した観念論として一元論的観念論にたつのかと思えばそうではなく、一元論か二元論かの問題では「素朴な経験論に与みして」、二元論の立場にたっているのです。つまり思惟の自由といいながら、理想と現実、超感覚の世界と感覚の世界、主観と客観とを対立させたままという「普遍的原理からは一歩も出ない」のです。
 「カント哲学の二元論の一方の側面は、あくまで知覚と知覚を反省する悟性との世界である。なるほどカントはこの世界を現象の世界と言ってはいるが、それはしかし単なる名称、単に形式的な規定にすぎない。というのは、その源泉、内容、および考察の方法が最初に挙げた経験論のそれと全く同じだからである」(同)。
 カント二元論の「一方の側面」は「悟性との世界」、「現象の世界」です。経験論のいう感覚の世界とカントのいう「現象の世界」とを比較してみると、前者は知識の内容を「外的知覚」のうちに求めるのに対し、カントは「知覚を反省する悟性」に求めるところから、カントの方がより普遍的な立場にたっているようにみえます。
 しかしカントのいう悟性の世界は、客観的事実を認識の「源泉」とし、客観的事実を反映したものを認識の「内容」とし、真理を客観的事実から取り出そうという「方法」のすべてにおいて、素朴な経験論と「全く同じ」なのです。
 「もう一つの側面はこれに反して、自己を把握する思惟の独自性、自由の原理であって、これはカント哲学がそれ以前の普通の形而上学と共有するところであるが、しかし内容は全く空虚にされていて、それに新しいものを盛ることはできないでいる。この思惟は、ここで理性と呼ばれているが、あらゆる規定、あらゆる拠りどころを失っている」(同)。
 カントの二元論のもう一つの側面は、「理性の世界」です。理性は無制約者の能力であり、したがって「自己を把握する思惟の独自性、自由の原理」に立っています。しかしカントの理性は、結局のところ「思惟における自我の本源的同一性」(一七〇ページ)という「抽象的な同一性に還元され」(一九八ページ)、その内容は「全く空虚にされていて、それに新しいものを盛ることはできない」のです。
 「カント哲学が与えた主な効果は、こうした絶対的内面性の意識をめざましたことにあったのである。この絶対的な内面性は、その抽象性のために自己のうちから何ものにも発展することができず、認識にせよ、道徳律にせよ、およそいかなる規定をも生み出すことのできないものではあるが、しかし外面性の性格を持つものを断じて自己のうちに許容しないものである。理性の独立、理性のそれ自身のうちにおける絶対の自主性という原理は、それ以来哲学の普遍的原理となり、また誰しも認める自明なことがらの一つとなっている」(二〇九ページ)。
 しかし、カントの功績は、理性を悟性から区別することにより、「絶対的内面性の意識をめざました」ところにあります。理性と悟性の区別により「理性のそれ自身のうちにおける絶対の自主性という原理」は、「それ以来哲学の普遍的原理」となったのです。「絶対の自主性という原理」とは、「思惟の独自性、自由の原理」と同じ意味です。思惟は経験から出発し、外的世界に媒介されながらも、その媒介を揚棄して外的世界から独立し、自由に羽ばたくことを意味しています。言いかえれば、それは人間を動物から区別する、自然や社会を変革する意識の創造性ということができるでしょう。
 この理性にもとづいて変革の哲学、革命の哲学を確立したのがヘーゲルであり、ヘーゲルはこの点でもカントの功績を止揚して自己の哲学を確立したのです。

六〇節補遺一 ── カントの消極的功績

 「批判哲学は大きな消極的功績を持っている。それは、悟性の諸規定が有限であって、その範囲内を動いている認識が真理に達しないという確信を主張した。しかしこの哲学の一面性は、これらの悟性規定が有限である理由を、それらが単にわれわれの主観的思惟にのみ属し、物自体はそれにとってあくまで絶対の彼岸であるとした点にある」(二一〇ページ)。
 ここではカント哲学の「消極的功績」について語っています。それは悟性規定(カテゴリー)が有限であり、悟性的認識は「真理に達しない」ことを明らかにしたという功績です。
 しかし第一にカントは、カテゴリーが有限である理由を、カテゴリーの内容に求めるのではなく、その主観性に求め、またカテゴリーを有限とすることで物自体を「絶対の彼岸」にとどめおくという点において、「一面性」をまぬがれることができませんでした。
 「しかし実際においては、悟性規定の有限性はその主観性にあるのではなく、それらはそれ自身有限なのであり、それらの有限性はそれら自身に即して指示されねばならない。カントによればこれに反して、われわれが思惟するものが誤っているのは、われわれがそれを思惟するからだ、ということになる」(同)。
 カントのカテゴリーが有限なのは、それが「主観的思惟にのみ属」するからではなくて、カテゴリーそれ自体が古い形而上学と同様に形式論理学の一面性においてとらえられ、弁証法的にとらえられていないところにあるのです。カントの言い方からすると、カテゴリーは主観的にすぎないから物自体を認識しようとすると誤ってしまうということになりますが、それだと「われわれがそれを思惟するから」誤るのだと言わんばかりになってしまいます。
 第二にカントの欠陥は、「それが単に思惟の記述と意識の諸要素の単なる枚挙とを与えているにすぎない点」(同)にあります。
 先にもみたように、カントはアリストテレスの『形而上学』に学び、そこから十二の判断を導き出し、各判断に含まれる十二のカテゴリーを取りだし、それを「枚挙」しました。カントが指摘するカテゴリーの「枚挙は大体において正しくはある」(同)のですが、その「必然性は少しも問題にされていない」(同)ところに問題があります。これに対し、ヘーゲル論理学においては、一つのカテゴリーから次のカテゴリーへと弁証法的な発展を示す「萌芽からの発展」という必然性が示されています。
 こうしてカントの場合、「枚挙」された主観的な十二のカテゴリーを適用する「知識の内容は現象にすぎない」(同)と結論づけられます。
 確かにカントの指摘した十二のカテゴリーに限定する限り、「この結論は確かに正しい」(同)のですが「思惟は現象の段階で終わるのではなく、そのほかになお一層高い領域がある」(同)のであって、その領域にはその領域にふさわしい概念、理念などのカテゴリーが必要となってきます。しかしこうした超感覚的世界をとらえるカテゴリーは、「カント哲学にとってはあくまで到達しがたい彼岸にとどまっている」(同)のです。ヘーゲル哲学はカントのカテゴリーを超える「概念」「理念」などの新しいカテゴリーを生みだした点においてもカント哲学を止揚する哲学となっているのです。

六〇節補遺二 ── カテゴリーの必然性は証明されねばならない

 カントは、十二のカテゴリーを「大体において正しく」指摘したものの、なぜ十二のカテゴリーなのか、また諸カテゴリー相互の関連性をその必然性において的に示すことはできませんでした。
 この欠陥を克服して、カテゴリーを演繹して展開しようとしたのがフィヒテでした。フィヒテは自由な「自我を哲学的発展の出発点とし、そしてカテゴリーを自我の活動の成果として示そう」(二一一ページ)としました。彼はフランス革命の影響を受け、自らの哲学を自由の体系として位置づけ、その原理として行動する自我の概念を定立したのです。この自我に対立するカテゴリーとして非我のカテゴリーを定立し、自我と非我の対立をつうじてその統一を論じました。そこから主観と客観の対立と統一という弁証法的なカテゴリーへの展開がなされたことを、ヘーゲルはカテゴリーを演繹するものとして積極的に評価したのですが、同時に次のような批判を加えています。
 「しかしフィヒテにおいては、自我は本当に自由な、自発的な活動としてあらわれてはいない。というのは、自我は最初外部からの衝撃によって動かされ、次にこの衝撃に反作用し、この反作用によってはじめて自分自身を意識するにいたるとみられているからである」(同)。
 この「外部からの衝撃」とは、「自我とは別なものという抽象物」(同)であって、「非我一般という規定以外には、いかなる規定も持たないもの」(同)です。自我は非我との関係をつうじて「はじめて自分自身を意識するにいたる」というのですから、もし非我による衝撃がなくなれば「自我そのものもなくなる」(同)ことになるので、自我は「本当に自由な、自発的な活動」とはいえません。
 しかもフィヒテのいう自我は、つねに非我という有限なものによって制限されるところから、「有限なもののみが認識でき、無限なものは思惟を越えたもの」(同)とされ、フィヒテのカテゴリーもカントのカテゴリーと同様に無限なものは認識しえないという点において異なるところがないのです。
 これに対し、自我は何ものによっても制約されぬ無制約者であり、無限に真理を追求する無限者だというのがヘーゲルの立脚点です。
 ヘーゲル哲学は、フィヒテに学びつつフィヒテの自我からの出発のもつ制限を克服し、自我をさらに抽象化した自由な思想としての「有」から出発することになるのです。

 

三、「第三の態度」としてのヤコービ哲学批判(一)

ヤコービの「直接知」とは何か

 「客観にたいする思想の第三の態度」としてのヤコービの直接知は、「思想の第二の態度」への批判のうえに登場しました。
 「思想の第二の態度」である経験論、カント哲学は無限者である神を認識しえないと考えました。
 ヤコービは、そこに哲学的論証の限界をみたのです。つまり論証するとは間接知、媒介知を求めるものであって、どんな対象についてもそれを論証しようと思えばその根拠となる一層高い対象を想定しなければなりません。もし神の存在を証明しようとすれば、神よりも高い根拠をもってこなければならないことになりますが、そんな根拠は存在しません。経験論やカントが神の存在を証明しえなかったのは間接知に問題があったとして、ヤコービは神の存在を媒介によることなく信仰による直接知としてとらえねばならないと主張したのです。
 もっともヤコービのいう信仰とは、盲目的な権威信仰ではなく、「理性的信仰」であり、主体自身の最も内奥の要求にもとづく信仰を意味しています。こうしてヤコービは、無限者である神は間接知によっては認識しえないのであり、理性的信仰という直接知によってのみ認識しうると考えたのです。
 ヘーゲルのヤコービ批判は、一つはヤコービの直接知にかんするカテゴリーが悟性的規定性をもたず曖昧であるというものであり、もう一つはすべての認識は直接性と媒介性の統一としてのみ存在しうるというものです。神の存在の問題はさておき、弁証法的論理の展開を学ぶという見地から、以下に詳しくみていくことにしましょう。

六一節 ── ヤコービは思惟そのものを有限と考える

 「批判哲学においては、思惟は主観的なものであり、思惟の究極の、克服しがたい規定は抽象的普遍性、形式的同一性であると考えられており、思惟は、それ自身のうちで具体的な普遍としての真理に対立させられている。そして理性と呼ばれているこの最高の思惟においては、カテゴリーは問題にされていない」(二一二ページ)。
 これまでみてきたように、カントは思惟の最高の段階である理性を「自我の本源的同一性」という「抽象的普遍性、形式的同一性」と考えています。すなわち理性は普遍性ではあっても、自らを特殊化しえない抽象的普遍として、「具体的普遍としての真理に対立」しているのです。つまり理性は、無限の真理を認識することはできないという、不可知論の立場にたっています。この「自我の本源的同一性」の「特定の様式」(一七〇ページ)がカテゴリーであり、カテゴリーは経験にしか適用できず、理性的対象に対しては適用しえないと考えました。
 「これと正反対の立場は、思惟を単に特殊なものの活動と解し、このようにして批判哲学と同じく、思惟は真理をとらえることができないと説く立場である」(二一二ページ)。
 これに対しヤコービは、カントと「正反対の立場」にたっています。すなわちヤコービも同様に「思惟は真理をとらえることができない」と考えるのですが、カントが思惟の抽象的普遍性にもとづくカテゴリーの有限性をその理由としたのに対し、ヤコービはカテゴリーという思惟形式に問題があるのではなく、そもそも思惟そのものが普遍性に到達しえない特殊的かつ有限なものであるとの立場から、「思惟は真理をとらえることができない」と主張するのです。

六二節 ── ヤコービは哲学的論証を有限なものと批判する

 「この立場によれば、思惟は特殊なものの活動であるから、その産物および内容としてただカテゴリーを持っているにすぎない。悟性が固持しているような諸カテゴリーは、制限された規定であり、制約されたもの、依存的なもの、媒介されたものの形式である。したがってカテゴリーにのみかぎられた思惟は、無限なもの、真実なものではなく、またそれは無限なものに移っていくこともできない(これは神の存在の証明を反駁するものである)」(二一二~二一三ページ)。
 この直接知の立場からすると、思惟そのものが「特殊なものの活動」として有限なものですから、この思惟の産物としてのカテゴリーも「制限された規定であり、制約されたもの」にすぎません。思惟は、このカテゴリーを媒介に思惟するものですから「無限なもの、真実なもの」という普遍をとらえることはできない、というものです。したがって無限なものである神の存在を証明することもできないことになります。
 「これらの思惟規定はまた概念とも呼ばれている。そのかぎり対象を概念的に把握するとは、それを制約され媒介されたものの形式においてとらえることを意味し、したがって、対象が真実なもの、無限なもの、無制約なものである場合には、それを制約され媒介されたものに変え、かくして真実なものを思惟によってとらえるのではなく、むしろ真実なものを真実でないものに変えることを意味する」(二一三ページ)。
 ヤコービは哲学的論証とは、或るものを「概念的に把握」(ベグライフェン)することであり、それを言いかえると或るものをそれに最も近い原因から導き出すことにあると考えました。つまり或るものという直接的存在を「制約され媒介されたものの形式においてとらえることを意味」すると考えたのです。したがって対象を「概念的に把握」することは、「対象が真実なもの、無限なもの、無制約なものである場合には、それを制約され媒介されたものに変え」、「むしろ真実なものを真実でないものに変える」ことになると主張したのです。 
 「こうした簡単な議論が、神や真実在は直接知によってのみ知られることを主張する立場によって呈出される唯一の反駁である」(同)。
 結局直接知の立場は、カテゴリーを媒介とする思惟は「真実なものを真実でないものに変える」から、「神や真実在」は思惟によってではなく、「直接知によってのみ知られる」と主張するのです。
 これまで人々は「思惟によってはじめて真理に到達する」(同)と考えていたのに対し、ヤコービはこの合理主義的哲学に反対し「思惟は有限化のみをこととする活動である」(同)として非合理主義の哲学を主張しました。
 ヤコービは、『スピノザの学説についてモーゼス・メンデルスゾーンへの手紙』において世に出ました。それは間接知を否定し、直接知の立場を明らかにするものであり「理性の敵」「哲学の軽侮者」としてドイツ哲学界の憤懣(ふんまん)をまきおこしました。
 それは、次の三つの主要命題に還元されるものでした。「 ⑴ スピノザ主義は宿命論であり無神論である、⑵ 哲学的論証の道はすべて宿命論および無神論へ導く、⑶ もしこれにおちいるまいと思えば、われわれは論証の限界を認め、あらゆる人知のエレメントが信仰であることを承認せねばならない」(シュヴェーグラー著『西洋哲学史』下巻一八五ページ、岩波文庫)。
 つまりAによりBを証明するという、媒介知としての「哲学的論証」の道は、どこまで行っても神の存在証明には達することができないのであって、ここに媒介知の限界がある、したがって神の存在を証明するには、媒介を排除した直接知としての信仰によるほかはない、というものです。 
 「それによれば、認識とは有限なものの認識、すなわち、制約されたものから制約されたものへと系列をなして進む思惟の進行にすぎない。……したがって説明とか概念的把握とかは、或るものを他のものによって媒介されたものとして示すことを意味し、そこではあらゆる内容が特殊的であり、依存的であり、有限である。そして無限なもの、真実在、神は、認識がそこから一歩も出ないような機械的連関の外にあるものである」(二一四ページ)。
 哲学的論証としての「概念的把握」は、「制約されたものから制約されたものへ」という機械的な鎖の系列を進行するのみとなります。したがって「無限なもの、真実在、神」は、こうした「機械的連関の外」におかれ、哲学的論証は、無神論にいきつくことになる、とヤコービは批判したのです。
 思惟の有限性を主張する点において、カントとヤコービとは異なるところはありません。では、カントとヤコービの違いがどこにあるのかといえば、「カント哲学がカテゴリーの有限である理由を、主として主観性という形式的な性質のうちに見出しているに反して、ヤコービはカテゴリーの本性を問題にし、カテゴリーそのものの有限であることを認識していることにある」(同)。
 カントは、カテゴリーの特定の根拠を「自我の本源的同一性」(一七〇ページ)に求め、したがってカテゴリーは「主観性という形式的な性質」のうちにあるから有限であるとしたのに対して、ヤコービは、思惟そのものが有限であるからカテゴリーもまた有限だと考えたのです。
 「ヤコービが特に念頭においていたのは、自然にかんする諸科学が自然の諸力や諸法則の認識において収めたかがやかしい成果であった。……この地盤における最後の成果として生じたものは、外的な有限物の不定な集合として普遍、すなわち物質であった。そしてヤコービは正当にも、単に媒介から媒介へ進んで行くという方法をもってしては、これ以外の結果はえられないことを洞察したのである」(二一四ページ)。
 ヤコービは、自然における特殊から普遍への系列をたどることによって自然科学が目覚ましい成果を収めたことを知り、最後は「物質」という普遍にたどり着くことを学びました。しかし、この最後の成果としての「物質」もまた有限なものであり、無限なもの、神には決して到達しえないとして、カテゴリーの有限性と、直接知による神の認識を主張するに至ったのです。
 媒介のみによる認識には限界があるとするヤコービの主張は「正当」なものということができます。しかしだからといって媒介知を否定した直接知が正しいのかといえば、そうではありません。思惟が媒介による認識の限界を越えて前進するには、媒介知の排除ではなく、媒介性を揚棄した直接性、つまり直接性と媒介性の統一が必要となるのです。
 ヤコービは直接性と媒介性の統一という弁証法を知らなかったために、媒介知と同様の一面性をもつ直接知の一面的立場にとどまったのです。