『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第一五講 予備概念⑩
     ヤコービ批判 ⑵


直接知批判(一)

 前講からヤコービの「直接知」の検討に入りました。ヤコービは哲学的論証という媒介知は「真実なものを真実でないものに変える」と主張し、「神や真実在は直接知によってのみ知られる」と主張しました。
 それに対し、ヘーゲルは、そもそも直接知とは何かを哲学的に検討し、ヤコービを批判していきます。ヘーゲルはまず同一律という形式論理学の見地からヤコービを批判し、次いで直接性と媒介性の統一という弁証法の見地からの批判に移っていきます。

六三節 ── ヤコービのカテゴリーは混乱している

 「一方以上のような反駁を行うと同時に、他方ヤコービは真理は精神に対して存在する、したがって人間を人間とするものは理性のみであり、理性とは神にかんする知である、と主張している。しかし、ヤコービによれば、媒介された知識は有限な内容を越えることができないのであるから、理性は直接知、あるいは信仰である」(二一五ページ)。
 ヤコービもカントと同様に理性と悟性を区別します。媒介知としての悟性は「有限な内容を越えることができない」とされています。なぜなら「媒介された知は総じて或物に就てその原因を挙げる事にあり、更にこの或物は再び有限な結果をもつ等々。従ってかかる認識は全くただ有限者にのみ関係し得るに過ぎない」(『哲学史』下巻の三、六〇ページ、藤田健治訳)からです。これに対して理性は「直接知あるいは信仰」であり、「神にかんする知」です。ヤコービによれば、無限者、無制約者である神は、或るものから演繹して証明することはできないから、直接知としての理性、つまり理性的信仰によってのみとらえることができるというのです。
 ここで、カント、ヤコービ、ヘーゲルの悟性と理性を比較してみましょう。カントは悟性を有限な思惟、理性を無限な思惟としながらも、理性は悟性の有限性を認識しうるのみで、無限の真理は認識しえないという不可知論にたちました。ヤコービは悟性を有限な思惟としながら、無限なものをとらえる理性を思惟としてではなく、直接知、信仰としてとらえました。これらに対しヘーゲルは、悟性の有限性を止揚するものが理性であり、理性的思惟、つまり弁証法によって無限の真理を認識しうるとして、カント、ヤコービをのりこえたのです。
 「この立場において用いられているのは、知、信仰、思惟、直観というようなカテゴリーであるが、それらはわかりきったものとして前提されているために、心理学的な表象や区別にしたがって勝手に用いられていることが多く、それらの本性および概念が何であるかということは ── このことが唯一の問題であるのに ── 探究されていない」(二一五ページ)。
 一般的に形式論理学と弁証法とは対比して論じられることがあります。それはそれで正しいのですが、後に「論理学のより立入った概念」でみるように、弁証法は形式論理学を前提とし、それを包摂するものであって、それを否定するものではありません。形式論理学の基本原理は、「AはAである」という同一律です。この同一律は、Aとは何であるかをまず特定したうえで、Aをその論理の展開のなかで同一の意義をもつAとして使用するのです。
 ヘーゲルは、ヤコービが直接知にかんして使用する「知、信仰、思惟、直観というようなカテゴリー」について、「それらの本性および概念が何であるか」を確定する同一律が「唯一の問題」であるにもかかわらず、ヤコービがそれを探究し、特定することなく使用しているために、論理の混乱を招いていると批判しています。
 「かくしてヤコービは概して知を信仰に対立させているが、他方ではまた信仰を直接知とも言い、それによってすぐにまた信仰が一種の知識であることを認めている。われわれが信じているものは意識のうちにあり、したがってわれわれは少くとも或る程度それを知っているということ、またわれわれが信じているものは、確実なものとして意識のうちにあるのであるから、われわれはそれを知っているということ、このことは経験的事実として見出されることであろう」(同)。
 まず最初に検討されるのは、知と信仰のカテゴリーの関係についてです。ヤコービは「概して知を信仰に対立」するカテゴリーとしてとらえています。しかし他方で信仰を「直接知」とよび、「一種の知識であることを認め」る混乱を生じているのです。実際信仰するためには、「少くとも或る程度それを知っている」ことが必要とされることは「経験的事実として見出される」のであって、そもそも知と信仰を対立するカテゴリーとすることが間違いなのです。
 「次にヤコービは思惟を主として直接知および信仰に、特に直観に対立させている。しかしかれはこの直観を知的(intellektuell)と規定しているのであるから、それは思惟的な直観という意味にほかならない。というのは、神が対象となっている場合、知的という言葉のもとに想像上の表象や形象を理解しようとする者はないからである」(二一五~二一六ページ)。
 次にヤコービは、思惟というカテゴリーを「直接知および信仰に、特に直観」のカテゴリーに対立させています。一見すると思惟と直観は対立しているようにみえますが、他方でヤコービはこの直観を「知的(インテレクチュエル)」、つまり「思考力のある」と規定しているのですから、それは単なる直観ではなく「思惟的な直観」ということになり、思惟と直観の対立を結局は解消してしまっています。ましてやヤコービが「直接知、直観のうちに啓示され、与えられている」(二一六ページ)という場合の神は、「けっして感覚的な事物」(同)ではなくて「本質的に普遍的な内容」(同)をもつ神を問題としているのであって、そのかぎりでは「思惟する精神の対象」(同)としての神を論じているといわざるをえないのです。
もっともヤコービは、「われわれは、われわれが肉体を持っていることを信じる」(同)というように、「信仰という言葉」(同)を「思惟的な直観」としてではなく「感覚的な事物」(同)への信仰の意味でも使用しています。なるほど「経験的な自我や特殊の人格」(同)を問題にするのであれば、感覚的に「われわれが肉体を持っていることを信じる」ということもできるでしょう。しかしいやしくも「神の人格」(同)を問題とする場合、そこでは「本質的に普遍的な人格」(同)を論じているのですから、それを信じるといってもその信仰とは感覚的なものではなく、思惟的なものを意味しているといわざるをえません。
 「さらに、純粋な直観とは、純粋な思惟と全く同じものにすぎない。直観とか信仰とかいうような言葉はまず、われわれが普通の意識のうちでこれらの言葉と結びつけているような特定の表象を意味する。この場合それらはもちろん思惟とは異ったものであって、この区別はほとんど誰にでもわかっている」(同)。
 直観とか信仰とかいうような言葉が「特定の表象」と結びつき具体的な内容をもつ場合には、直観、信仰と思惟とが区別されることは「誰にでもわかっている」ことです。しかし「純粋な直観」、抽象的な直観は全く内容のない空虚なものですから、同じく内容のない「純粋な思惟」、抽象的思惟と「全く同じもの」として区別しえないのです。
 「しかしヤコービはまた信仰、直観というような言葉により高い意味、すなわち、神の信仰、神の知的直観というような意味を持たせている。これはつまり、直観や信仰と思惟との区別をなくすることを意味する。信仰および直観がこうした高い領域へ移される場合、それがなお思惟とどんな点で区別されるかは、誰も答えることはできないのである」(二一六~二一七ページ)。
 ヤコービはまた信仰、直観に「神の信仰、神の知的直観」という意味をもたせていますが、こういう「高い領域へ移され」た信仰や直観は、その高みに達するには思惟を必要としますから、もはや思惟と区別することができません。こういう「領域」で論じる限り、思惟と直観とを対立するカテゴリーとしてとらえることはできないのであり、思惟と直観とは「空虚になった区別」(二一七ページ)にすぎません。
 さらにヤコービの信仰は、「キリスト教的信仰」(同)と「同じものであるような感さえ与える」(同)ものとなっていますが、キリスト教的信仰とヤコービの哲学的信仰とは区別しなければなりません。
 「キリスト教の信仰は内に教会の権威を含んでいるが、この哲学的立場の信仰は個人的な啓示の権威にすぎない。更にキリスト教の信仰は客観的で豊かな内容を持ち、教義および認識の体系であるが、後者の信仰の内容は全く無規定であって、それはキリスト教的信仰を容れもするが、同様にまた、ダライラマや牡牛や猿などを神とする信仰をもそのうちに含んでいる。そしてこの信仰の内容は、それだけを切りはなしてみれば、神一般、最高の存在というような抽象を出ないものである」(同)。
 「啓示」とは、神が人知では知りえない神秘をあらわし示すことを意味する宗教用語です。キリスト教の信仰は豊かな内容の「教義および認識の体系」であるのに対し、ヤコービの信仰の内容は、神秘をもたらす個人的な権威としての神への信仰という「無規定」なものにすぎません。したがってその信仰は、どんな神でもいい「神一般、最高の存在」への信仰にすぎないのです。彼のいう信仰は「哲学的な意味を持っている」(同)とはいうものの、それは結局のところ「直接知というひからびた抽象物」(同)にすぎず、なんら豊かな内容をもつものではありませんから、「キリスト教的信仰の精神的な豊かさ」(同)と同一視することはできないのです。
 したがって結論的にいうと、直接知の哲学の基本カテゴリーとなる信仰、直接知といわれているものは「生まれつき人間にそなわっている知識」(二一八ページ)とか、「良識とか常識とか呼ばれている」(同)ものと全く同じ内容をもつのみであって、哲学的検討の対象にすると混乱したものにならざるをえないのです。

六四節 ── ヤコービは表象と存在との直接的結合を主張する

 「この直接知が知っていることは、われわれの表象のうちにある無限なもの、永遠なもの、神が実際存在しているということ ── 意識のうちではこの表象に、直接かつ不可分に、その表象の存在の確実性が結びついているということである」(同)。
 結局「直接知」の知っていることといえば、「われわれの表象のうちにある無限なもの、永遠なもの、神」が実際に存在していること、しかも神の表象が「直接かつ不可分に」その「存在の確実性」に結びついているということにすぎません。いわば表象と存在の一致、主観と客観の一致を論じているのです。
 「直接知のこのような命題を反駁するというようなことは、哲学には思いもよらぬことである。このような命題は哲学そのものの古い命題であり、哲学の一般的な内容の全体を表現しているとさえ言える」(同)。
 哲学は事物の根本原理を取り出そうとするものですから、世界を大きく主観(主体)と客観(客体)に二分してとらえ、その両者の関係をとらえようとします。したがって主・客一致の直接知の命題は、「哲学そのものの古い命題であり、哲学の一般的な内容の全体を表現している」のです。
 ですから直接知の命題を反駁することは、「哲学には思いもよらぬこと」なのです。
 「形式の点から言えば、神の思想には神の存在が、思想が最初に持っている主観性には客観性が、直接かつ不可分に結びついているという命題は特に興味がある。というのは、直接知の哲学は、その抽象性のために、神の思想に神の存在が結びついていると主張するにとどまらず、更に進んで、知覚においてさえ、私の肉体や外的事物の表象にはその存在が同様に不可分に結びついている、というようなことまで主張しているからである」(二一八~二一九ページ)。
 直接知の哲学が、神の表象と神の存在の結合を主張するのみならず、「外的事物」一般には神の「存在が同様に不可分に結びついている」と主張し、主観と客観の「直接かつ不可分」の結合を認めているのは、「特に興味」があります。なぜなら「哲学がめざしているのは、こうした統一を証明すること」(二一九ページ)にありますから、直接知の主張は「哲学にとってとにかく非常に喜ばしいこと」(同)といえます。
 しかし、直接知が問題なのは、主・客の一致というヘーゲル哲学と同一の立場にたちながらも、哲学は主・客の一致を媒介知としてとらえているとして哲学に反対していることにあります。
 「哲学と直接知との相違はただ次の点にある。それは直接知が排他的な態度をとること、言いかえれば、直接知が哲学に反対するということである」(同)。
 哲学は、直接性と媒介性の統一として主・客の一致を主張するのに対し、ヤコービは媒介性を排除した直接性という「排他的な態度」による主・客の一致を主張し、「哲学に反対」しているのです。
 もっともヤコービの直接知のみならず、デカルトの「コギト・エルゴ・スム」の命題も媒介性を排除した主・客の一致のようにみえます。しかしヤコービの直接知とデカルトの命題とは同一には論じえないとして、ヘーゲルはその違いを検討していきます。
 「もっとも、近世哲学の父であるデカルトが、近世哲学の全関心の中心点とも言うべきあの『私は思考する、ゆえに私は存在する』(コギト・エルゴ・スム)という命題を言いあらわしたのも、直接的な形においてであった」(同)。
 デカルトの「コギト・エルゴ・スム」の命題は、思考する「私」という主体(主観)と「存在」という客体(客観)の直接的結合を示しています。「ゆえに私は存在する」という表現からすると、「推理」(同)という媒介された結合のように思えるかもしれませんが、ここには大前提と結論を結びつける「媒概念」(同)は存在しないので、デカルトの命題は推理ではありませんし、デカルト自身もこの命題は「存在を思惟から推理によって演繹するのではない」(二二〇ページ)と明言しています。
 もし、この命題が推理であるとすれば「すべて思考するものは存在する」(同)が大前提となり、「私は思考する」が小前提(媒概念)となって「ゆえに私は存在する」という結論が導き出されることになります。ところがデカルトの命題は、すべてを疑っても否定できない「絶対に最初のもの」(二二一ページ)が「私は存在する」という命題であり、「すべて思考するものは存在する」との命題は、「私は思考する」との「命題からはじめて導き出されるもの」(二二〇ページ)にすぎません。したがってこの点からしても推理ではないのです。
 ではデカルトの「コギト・エルゴ・スム」が主・客の直接的結合を示す命題として正しいというのであれば、ヤコービが哲学に反対して主・客の媒介的一致に反対していることも正しいといえるのでしょうか。そうではありません。デカルトの場合は、この原点から出発して近代合理主義哲学に道をひらいたのに対し、ヤコービは近代合理主義哲学の全成果を否定しているからです。
 「デカルトは、考えるものとしての私と存在との不可分の命題について、この連関は意識の単純な直観のうちに含まれかつ呈示されていて、それは絶対に最初のものであり、原理であり、最も確実なかつ最も明白なことがらである、したがってこのことを認めないほどに甚しい懐疑論は考えることもできない、と言っているが、このようなデカルトの言葉はきわめて力強く明確であって、それと比較すればヤコービその他がこの直接の結合について述べている現代的な諸命題は、余計な繰返しとしか思えないくらいである」(二二〇~二二一ページ)。
 デカルト(一五九六~一六五〇)は、「近世哲学の父」とよばれ、合理主義哲学に道を開いた人物です。彼は、教会公認の教義を前提としてそれを合理化するスコラ哲学を批判し、すべてを疑うところから出発しました。その結果どんなに疑ったとしても「疑う私の存在」だけは絶対的に疑いえないという自覚から「コギト・エルゴ・スム」を第一の真理として、思考する理性をもとに演繹的に真理を組み立てていく合理主義哲学を確立していったのです。
 いわば「考えるものとしての私と存在との不可分」は、「絶対に最初のものであり、原理」として、そこを出発点に「レース・コーギタンス(思惟するもの、思惟実体)」を認め、ついでこの思惟実体から区別される「レース・エクステンサ(延長を持つもの、延長実体、物体的実体)」を認めることにより、世界を精神(主観)と物質(客観)の二つに区分する二元論として構成し、近代合理主義哲学の土台を築いたのです。
 この土台のうえに「思考と存在はどういう関係にあるのか」という哲学の根本問題が論じられ、唯物論と観念論の対立が生じることになります。
 このデカルトの「力強く明確」な言葉に比較すると、ヤコービの「存在と表象との結合」は「余計な繰返しとしか思えない」のです。

六五節 ── ヤコービは媒介性を排除した直接性を主張する

 「この立場は、媒介された知識が、それだけでは真理をつくすことができないということを示すのでは満足しない。この立場の特徴は、媒介を排除した直接知がそれだけで真理を内容として持つとするところにあるのである。 ── こうした排他的な態度をみるだけで、この立場が形而上学的な悟性のあれかこれかの立場へ、したがって外面的な媒介の関係の立場へあともどりしていることが明かである」(二二一ページ)。
 ヘーゲルは、主・客の一致を、人間の認識と実践を媒介にした直接性と媒介性の統一として実現されると考えています。まず私たちは、客観と対峙し、対象となる客観がどのようなものとして存在しているのかを主観のうちに反映します。対象の分析・総合という主観と客観の相互作用を媒介に、私たちは対象の「真の姿」(概念)を認識するに至ります。事物の真の姿は、現象に媒介されながら媒介を揚棄した直接性としての本質、法則、類、実体としてとらえられることになります。しかし人間の認識は対象の本質をとらえて終わりとするわけではありません。さらに主観と客観との交互作用を重ねることにより、対象となる客観の本質、法則、類、実体をも揚棄した直接性としての「真にあるべき姿」(概念)を主観のうちにとらえます。さらにこの主観的、直接的な「真にあるべき姿」を実践を媒介に客観化することによって揚棄し、真にあるべき姿の主・客同一という真理を実現するのです。
 つまり、概念としての「真の姿」「真にあるべき姿」はいずれも対象に媒介されつつ媒介を揚棄した直接性としてとらえられるのであり、つまり直接性と媒介性の統一です。したがって真理は直接性と媒介性の統一にのみあるのです。
 しかし直接知の特徴は、「媒介された知識が、それだけでは真理をつくすことができない」というだけでは満足できなくて「媒介を排除した直接知がそれだけで真理を内容として持つ」とするところにあります。
 その意味において直接知は、直接性か媒介性かという「形而上学的な悟性のあれかこれか」の立場へ「あともどりしている」のであり、直接性と媒介性の統一という弁証法を知らないのです。
 「問題は本来直接性と媒介性の対立という論理的問題にある。しかしこの立場は事柄の本性すなわち概念を考察することを拒む。なぜなら、こうした考察をすれば、それは媒介となり、認識とさえなるからである。この問題の真の考察、すなわちその論理の考察は、論理学そのもののうちにその場所を見出さなければならない。論理学の第二部、本質論の全体は、直接性と媒介性との本質的な相互定立的な統一を取扱うものである」(二二一~二二二ページ)。
 「真の姿」「真にあるべき姿」(概念)を論じることは、直接性と媒介性の統一という「論理的問題」です。「真の姿」および「真にあるべき姿」の問題は「事柄の本性」である「概念を考察する」ことであるにもかかわらず、直接知はそれを「考察することを拒」みます。概念とは何かの問題に答えようとすれば「それは媒介となり、認識とさえ」なり、直接知を否定することになるからです。
 直接性と媒介性の統一としての「概念」は、とりわけ論理学の第二部「本質論」、第三部「概念論」で論じられることになります。第二部における概念とは、事物の「真の姿」としての本質です。第三部における概念とは、事物の「真にあるべき姿」としての概念です。いずれも媒介を揚棄した直接性、つまり直接性と媒介性の統一としてとらえられるのです。
 しかしヘーゲルは、なぜか概念の考察は第二部「本質論」のみであるかのように記述しています。第三部「概念論」を持ち出せばヘーゲル哲学の革命性が鮮明になるところから、それを回避しようとしたものとも思われるところです。

六六節 ── 知識・技術の直接知は媒介知の結果

 私たちは「ありふれた経験の一つ」(二二二ページ)として直接知と思われるものを味わうことがありますから、直接知の立場が理解できないわけではありません。
 「それは、最も複雑な、この上なく多くの媒介を経た考察の結果であるということがよくわかっているような真理でも、それをよく知っている人にはそれが直接的に意識のうちにあらわれるということである。例えば数学者でも、その他或る学問に通じている人は誰でも、それに達するには非常に複雑な分析が必要であるような解答を直接に持合わせており、また教養ある人々はみな、多くの思索とながい人生経験とからのみ生じた沢山の普遍的見地や原則を直接その知識のうちに持っている」(同)。
 私たちが専門的知識や深い技術を身につけるためには、たくさんの本を読んだり、経験を積んだりの「多くの媒介」を経ることが必要となります。しかしいったん高度の知識や技術を身につけてしまうと、それまでの媒介の過程は意識のうえでは揚棄され、消滅してしまい、高度の知識や技術が「直接的に意識のうちにあらわれる」ように思えるのです。
 「われわれがあらゆる知識や芸術や技術において達する熟達とは、この場合について言えば、まさにこうした知識や活動を直接に意識のうちに持つこと、否、外的な活動や手足のうちにさえ持つことにほかならない」(同)。 
 熟達、熟練とは、このように媒介を揚棄した直接性なのです。この媒介を揚棄した直接性が直観とよばれるものであり、正しい直観が獲得されるためには、無数の媒介性がその下敷きとなっていなければけっして実現されないのです。技術の場合には、対象となるものを完成させるのに必要な手足の動きが、永年の蓄積により一切のムダが省かれ、直接的に表現されるのです。
 「これらすべての場合において、知識の直接性はその媒介を排除しないばかりか、直接知は媒介知の所産であり結果であるという風に、両者は結合されているのである」(二二二~二二三ページ)。
 いわば直接知は、媒介知を排除するどころか、媒介知の「所産であり結果」として媒介知を揚棄した直接知となっているのです。
 「直接的な存在がその媒介と結合されているということも同様にすぐわかることである。種子や両親は、生み出される子供、等々にたいしては直接的な、始源的な存在である。しかし種子や両親は現存するものとしては直接的にあるが、同時にそれらもまた生みだされたものである。そして子供、等々は、その存在が媒介されたものではあるが、それらはあるのであるから、直接的なものである。私がベルリンにいるということ、すなわち私のこの直接的な現存は、ここへ旅行してきたこと、等々によって媒介されているのである」(二二三ページ)。
 ヘーゲルは『大論理学』で「天上であれ、自然の中であれ、精神の中であれ、或いは他の如何なる所であれ、この直接性とともに媒介を含まないようなものは何一つとして存在しない」(前掲書上巻の一、五八ページ、岩波書店)といっています。自然であれ精神であれ、あらゆるものは、直接性と媒介性の統一なのです。
 親子の関係でみると、子にとって親は直接的存在ですが、子は親に媒介された存在です。しかし親もまた親の親から「生み出され」媒介されたものとして存在していますし、子も小さいときは親の養育なくして存在しえない媒介された存在ですが、親離れして独り立ちするようになれば直接的な存在となるのです。

六七節 ── 本能、生得観念も媒介知

 「神や法や道徳やにかんする直接知について言えば ── 本能、生得観念、常識、自然的理性、等々、その他どういう形を与えられようと、それらはすべて直接知に属するのであるが ── こうした直接知のうちに含まれているものが意識にもたらされるためには、必ず教育、育成が必要であるということは経験の示す普遍的な事実である(プラトンの想起についても同じことが言えるし、キリスト教の洗礼にしても、それはではあるが、更にキリスト教的に教育される義務を含んでいる)」(二二三ページ)。
 「本能、生得観念、常識、自然的理性」など、いくつもの「神や法や道徳」にかんする直接知を思わせるカテゴリーが存在しています。しかしこれらのカテゴリーが「意識にもたらされるためには、必ず教育、育成が必要」なのであって、その媒介の過程が揚棄され、消え去って、あたかも生まれながらの「本能、生得観念」等にみえるだけのことなのです。
 プラトンは、霊魂不滅説にたち、イデアは自己の不滅の霊魂を想起することによって認識しうるというイデア想起説をとなえました。人が生まれながらに事物の真にあるべき姿・イデアを認識しうる根拠を不滅の霊魂の想起ととらえたのですが、実際には私たちがイデアを認識しうるのも直接知としてではなく、現にある事物が何であるかについて「教育、育成」を受けた結果、その事物の真にあるべき姿、つまりイデアも認識しうるのです。
 キリスト教の洗礼も、キリストの存在を直接知したものとして受ける「聖礼」という一つの儀式なのですが、洗礼の後に「キリスト教的に教育される義務」を伴うことにより、実際には媒介知であることを認めているのです。
 「すなわち、宗教や道徳がどんなに信仰であり、直接知であるにしても、それらはあくまで、育成、教育、教養などと呼ばれている媒介に制約されているのである」(同)。
 宗教や道徳上のどんな直接知とされているものも、他の直接知と同様、「育成、教育、教養」などに媒介された媒介知にすぎないのです。
 「生得観念の主張および反駁にも、ここに述べたと同じような排他的な規定の対立がみられる。すなわち、前者は或る種の普遍的な観念が魂と本質的に直接結合されていると言い、後者はこの結合が外的な仕方で行われ、与えられた対象および表象によって媒介されると説くのである」(二二四ページ)。
 生得観念を肯定するデカルトやライプニッツにしても、これを否定するロックにしても、どちらも直接性と媒介性との統一の立場ではなく、どちらか一方のみを主張する一面性にとらわれています。前者は、「或る種の普遍的な観念」は客観世界に媒介されることなく、生まれながらに直接的に魂のうちにあるものととらえ、「或る種の」認識が客観世界の反映であることを否定しました。これに対しロックの経験論は、生まれたばかりの人間は「タブラ・ラサ(白板)」であり、意識はすべて客観世界の反映であると考え、意識の直接性(創造性)を否定しました。前者は直接性のみを主張し、後者は媒介性のみを主張するというようにどちらも「排他的な規定」の一方のみを主張するにとどまっているのです。
 「生得観念の反対者は、もし生得観念があるとすれば、すべての人がそうした観念を持っているはずである、例えば生得観念の一つにかぞえられている矛盾律を意識のうちに持ち、それを知っているはずである、ところが経験によればそうしたものを持たない人間がある、と言ってこれを反駁した。しかしこの反駁は誤解であると言わなければならない。というのは、それが生得のものであるからといって、それがすでに観念、表象、知られているものという形式を持たなければならないという理由はないからである」(同)。
 生得観念の反対者であるロックは、生得観念があるとすればすべての人がそうした観念をもっているはずなのに、実際にはそうなっていないから生得観念は存在しないと言っています。しかしヘーゲルはそれは間違いだというのです。というのも、「生得観念」といわれるものも、単に「生得のもの」の意味であって、「それがすでに観念、表象」のような形式で、本人が自覚しうる「形式」をもっているとは限らないからです。ですから「生得観念」の一つとして、例えば「矛盾律(AはAであると同時に非Aであることはできない)」をすべての人が意識のうちにもっているわけではないとしても、「矛盾律」という「表象」をもたないだけであって、「表象」の形式をもつにまで至らない「矛盾律」が生得的に意識のうちにあることまで直ちに否定することはできないのです。
 「しかしこの反駁は直接知にたいしては全く適切である。なぜなら、それは直接的な諸知識が意識のうちにあるとはっきり主張しているからである。 ── もし直接知の立場が、特に宗教的信仰にたいしてはキリスト教的あるいは宗教的教育が必要であることを認めるとすれば、信仰について語る場合このことを再び無視しようとするのは勝手な振舞いと言わなければならない。あるいはまた教育の必要を認めるということは、まさに媒介を本質的なものとみることにほかならないということを知らないのは、無思想と言わなければならない」(同)。
 これに対し、直接知への反駁として、すべての人が直接知を持っているとはかぎらないから、直接知は認められないとするのは、有効な反駁となります。というのも、直接知は「直接的な諸知識」がすべての人の意識のうちにあると「はっきり主張している」のですから、それを本人が自覚しないことはありえないからです。一人でも神を「直接的な諸知識」としてもたない人がいれば、ヤコービの直接知は否定されることになってしまいます。
 もし神の直接知の立場が宗教的信仰にかんし、「キリスト教的あるいは宗教的教育」の必要性を認めているのだとしたら、直接知といいながら「媒介を本質的なもの」と考えているものにほかならないのであり、それを認めながら信仰を直接知とするのは「勝手な振舞い」といわなければなりません。

六七節補遺 ── イデア想起説の真の意味

 「プラトン哲学においては、われわれはイデアを想起すると言われているが、それは、イデアが潜在的に人間のうちにあるもので、(ソフィストたちが主張したように)人間にゆかりのないものとして外から人間にやってくるものではない、という意味である。認識をこのように想起と考えるからといって、人間のうちに潜在的にあるものの発展が排除されているのではない」(二二五ページ)。
 プラトンのイデア想起説の真の意味は、「イデアが潜在的に人間のうちに」あり、「外から人間にやってくるものではない」という意味であって、生まれながらに完成されたイデアが直接的に存在しているという意味ではありません。その人のうちにある潜在的なイデアが発展し、顕在化して完成されたイデアとなるという意味なのです。
 「そしてこの発展はすなわち媒介にほかならない。デカルトやスコットランド学派の生得観念も同様であって、それらも最初はただ潜在的なもの、素質として人間のうちにあるものと考えられなければならない」(同)。
 したがって潜在的なイデアの発展は、「媒介にほかならない」のです。デカルトのいう生得観念も同様に、すくなくとも潜在的に私たちの精神のうちに内在し、永遠不変なものや公理的なものをあらわす観念としてとらえられているのであって、「最初はただ潜在的なもの、素質として人間のうちにあるもの」を意味しているのです。 

六八節 ── 神の信仰も媒介知

 六六、六七節をつうじて、私たちの経験のうちにみられる知識や技術の直接知と思われるもの、神や道徳にかんする本能、生得観念などの直接知と思われるものは、いずれも実際には媒介知の結果であり、媒介知の揚棄としての直接知であることをみてきました。
 「それのみならず、経験にしたがって、このような直接知をそれ自身とって考えてみても、それが神および神的なものにかんする知であるかぎり、このような意識は、感性的なもの、有限なもの、自然的な心情の直接の欲求や傾向を越えた高まりとして一般に述べられているものである。すなわち、この高まりは、神および神的なものの信仰へ移っていき、そしてこのような信仰に終わるような高まりであって、したがってこの信仰は直接知であり直接的確信であるにしても、やはり上述の媒介過程を前提および条件として持っているのである」(二二五~二二六ページ)。
 ヤコービが問題とする神および神的なものにかんする直接知それ自身をとってみても、その直接知は、単に神の存在を知るというものではなく、神を無制約な、無限なものとして知ることを意味していますから、「感性的なもの、有限なもの」を越えた「高まり」としての知なのです。この高まりは、神を無限者として知るのみならず、神を信仰するにまで至る高まりですから、直接知としての信仰は、「感性的なもの、有限なもの」から信仰にまで至る「媒介過程を前提および条件として持っている」のです。
 「有限な存在から出発するいわゆる神の存在の証明は、普通述べられているような形では、完全にかつ正しく表現されてはいないけれども、こうした上昇を言いあらわしているのであって、それはけっして作為的な反省の作り出したものではなく、精神そのものの必然的な媒介である」(二二六ページ)。
 古い形而上学は、「有限な存在から出発」して、神の存在を証明しようとしました(三六節参照)。この証明方法には、神を「神以外のものによって媒介された」(一五一ページ)ものとしてとらえるという限界があります。しかし、この神の存在証明は、「有限な存在」に媒介されながら、無限な神に至るという「上昇」を表現しています。その意味ではけっして作為的な証明ではなく、「精神そのものの必然的な媒介」による上昇、高まりとして神の存在を証明しようとするものであって、直接性と媒介性の統一という正しい問題意識をもっているのです。