『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第一七講 予備概念 ⑫
     「論理学のより立入った概念と区分」⑴

 

一、予備概念のまとめ

第三区分の位置づけと意義

 第六講で学んだように予備概念は大きく三つに区分されており、いよいよ最後の区分である「論理学のより立入った概念」と「区分」に入っていきます。
 この第三区分は、第一区分のヘーゲル哲学とは何か、第二区分の客観性にたいする思想の態度をふまえて、いわば予備概念の結論に相当する部分です。
 では「論理学のより立入った概念」とは何を意味しているのでしょうか。まず論理学とは第一講で学んだように、ロゴスの学、世界の根本原理をとらえた学です。その根本原理が「客観的思想」、客観のうちの真なるものを思想においてとらえたものであり、それが論理学のカテゴリー、「より正確に言えば概念」(六五ページ)なのです。
 「より立入った概念」とは、概念はなぜ「客観的思想」、つまり真の姿・真にあるべき姿という真理を思想のうちにとらえたものとなりうるのかを、「より立入」って検討しようというものです。これまで学んできたように、概念は真理認識の唯一の形式である弁証法によってとらえられます。したがって「より立入った概念」とは、弁証法の基本形式(即自 ── 対自 ── 即対自)をより立入って検討しようというものにほかなりません。
 これに対して論理学の「区分」とは、論理学を構成する三つの部門、有論、本質論、概念論を意味しており、これらの「区分」が弁証法の基本形式に対応するものであることが明らかにされることになります。
 概念をとらえる作業は悟性と理性を使っておこなわれます。精神の働きである意識は、大きく感性、悟性、理性の三つに区分されます。感性とは、思惟の対象となる客観を一つの存在するもの、現存在するもの、個別的なものとして知るのみであり、思惟における最も貧しいものです。これに対して悟性、理性は対象をその概念(真の姿・真にあるべき姿)においてとらえようとする意識です。哲学は「感情や直観や表象」(六二ページ)という思惟の形式を、悟性、理性により「思想という形式」(同)においてとらえ、「概念的認識」(同)にかえるのです。
 そこで「論理学のより立入った概念と区分」においては、悟性と理性を使って「概念的認識」の基本構造、つまり真理探究の武器としての弁証法の基本形式と、その展開としての論理学の三つの部門をみていこうというのです。
 第三区分に立入るに先立って、なぜ第三区分が予備概念の結論部分となるのか、第一区分、第二区分との関係をふり返って整理しておきましょう。

ヘーゲル論理学とは何か(第一区分の小括)

 第一区分(一九~二五節)は、ヘーゲル論理学とは何か、を主題にしています。
 『エンチクロペディー』は、「論理学」「自然哲学」「精神哲学」の三部から構成されており、全体として「理念の学」(九〇ページ)となっています。そのなかにあって「論理学」は「純粋な理念にかんする学」(九五ページ)として位置づけられています。
 理念とはプラトンのイデアに由来するものですが、ヘーゲルは概念(真の姿・真にあるべき姿)と存在との一致(主観と客観との一致)を理念としてとらえています。
 論理学で扱われるカテゴリーは、まず経験によってとらえられる感性的な「有」という即自的概念から出発し、それを思惟の力によって事物の真の姿という対自的概念に変え、さらにそれを真にあるべき姿という即かつ対自的概念にまで発展させ、概念と存在との一致としての理念にまで至るカテゴリーの発展として論じられるところから、「純粋な理念にかんする学」とよばれているのです。
 すなわち感性的な「有」は、思惟によって事物の真の姿としての本質、法則、類、実体にまで高められます。「思惟によってはじめて対象の真の姿は知られる」(一〇九ページ)のです。本質、法則、類、実体などの普遍性、必然性は、けっして人間の主観の産物ではなく、客観のなかに潜んでいる客観の真の姿です。しかし人間の人間たるゆえんは、客観の真の姿をとらえるにとどまらず自由な精神により自然や社会をつくりかえる力をもっているところにあります。変革するためには、自由な思惟によって事物の真にあるべき姿をとらえそれを変革の目標に定めねばなりません。これは現にある客観を、真にあるべき姿ではないとして否定することであり、経験的事実を超越して、無限な真理をとらえようとするものです。いわば概念としての「真にあるべき姿」は、客観に媒介されつつ客観を揚棄した直接性なのであり、ここに思惟のもつ無限性が示されています。
 この主観的な概念(真にあるべき姿)は、人間の実践を媒介に主観性を揚棄して客観化され、客観を真にあるべき姿に変革して概念と存在の一致、主観と客観の一致を実現して理念となるのです。
この理念のなかから再び「真にあるべき姿」がとらえられ、この作業を反復することにより、理想と現実の統一が実現されていくのです。
 言いかえると、理念とは理想と現実の統一であり、これこそ「哲学の最高の究極目的」(六九ページ)であり、「哲学的な意味」(一二四ページ)の真理なのです。
 これがヘーゲル論理学の主要な内容というべきものであり、整理してみると次のような特徴をもっています。
 一つには、ヘーゲル哲学は、経験から出発して最後に理念に到達するという唯物論の立場にたっているということです。理念から出発して、現実を理念の模写と考える客観的観念論であるとのエンゲルスの批判は適切なものとはいえないでしょう。
 二つには、ヘーゲル哲学は何よりも変革の哲学であり、人間の人間たるゆえんは変革の力にあることを明確にしていることです。マルクスの「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけである。肝腎なのはそれを変えることである」(「フォイエルバッハにかんするテーゼ」)と共通するものということができます。
 三つには、四節でみたようにヘーゲル哲学は単なる変革の哲学ではなく、理想と現実の統一を主張する革命の哲学だということです。変革するといっても、その方向性が問題であり、進歩と発展の方向への変革、つまり革命こそが求められているのです。この点は従来の科学的社会主義の哲学としては必ずしも明確にされなかったところであり、ヘーゲルの偉大な功績の一つとして強調しておかなければなりません。

客観性にたいする思想の態度(第二区分の小括)

 第二区分(二六~七八節)は、「客観性にたいする思想の態度」と題されていますが、客観における真なるものを認めるのかどうか、認めるとしてそれを認識しうると考えるのかどうかという真理の存在および認識にかんする諸哲学の紹介と、それらへの批判的検討を課題としています。ヘーゲルは客観のうちの真なるものを思想のうちにとらえることを「客観的思想」とよんでおり、「客観性にたいする思想の態度」とは「客観的思想にたいする態度」と置きかえて読むことができます。
 ヘーゲルはこうした検討をつうじて弁証法こそが無限の真理を探究しうる唯一の思惟形式であることを論証していくのです。
 近代哲学の父とよばれるデカルトによって、神から出発する中世のスコラ哲学にとってかわり、人間から出発する合理主義の哲学が始まります。第二区分では、この近代合理主義哲学あるいは非合理主義哲学の代表的ないくつかについて、それらが真理に対してとる態度を明らかにし、それを弁証法的に止揚したものとしてヘーゲル哲学が登場してくる認識の発展過程が論じられています。
 「客観性にたいする思想の第一の態度」とは、形而上学のことです。形而上学というのは「意識の日常の活動」にみられる常識的なものの見方です。形而上学は、対立する「あれかこれか」の一方に真理があるとする「悟性的な思惟」です。
 ヘーゲルは、具体的なものはすべて運動、変化、発展するものとして対立物の統一のうちにあるのであって、対立物の一方という有限なものに真理はないと批判し、形而上学を「理性的対象の単に悟性的な考察」(一三五ページ)と規定しています。弁証法的に考察すべき対象を、単に悟性的に考察している一面性を批判しているのです。
 古い形而上学において特に問題なのは、彼らが、魂、世界、神という「内容から言って無限なもの」(七四ページ)の認識を問題にしていることです。彼らは、こういう無限なものにおける真理を「思想」のうちにとらえうると考え、「客観的思想」を肯定しました。
 そのこと自体は正しい態度ということができますが、古い形而上学はこのような「理性的対象」を一面的な、抽象的思想においてとらえようとしたため、結局真理に達することはできませんでした。
 「客観性にたいする思想の第二の態度」では、イギリスの経験論とカント哲学がとりあげられています。どちらも魂、世界、神など無限なものの真理は認識しえないとする共通点をもっているところから、一まとめにして「第二の態度」とされています。
 「経験論」は形而上学とは異なり、真理を思想のうちに求めようとしないで「経験」に求めようとしました。
 そこには真実なものは現実のうちにあるという「偉大な原理」(一五八ページ)が含まれていましたが、他方で経験のうちにみられる普遍性、必然性が客観的事物の「真の姿」であることを認めようとしませんでした。こうして経験論は「客観的思想」を肯定せず、ましてや内容において経験を超える魂、世界、神などの真理は認識不能とされてしまったのです。
 これに対しカントは、経験論と同様に経験から出発しながら、経験のうちにみられる普遍性、必然性を主観の産物にすぎないと考え、経験論より一歩進んで「客観的思想」を明確に否定しました。人間は先天的に経験のうちにある多様なものを統一に還元する能力(純粋統覚)をもっており、この純粋統覚によって多様なものを自己のうちで結合した普遍性、必然性の「特定の様式」(一七〇ページ)がカテゴリーであると考えました。
 カントは、経験の反映から生じたカテゴリー(悟性概念)は経験された現象にのみ適用されるのであって、超感覚的な「物自体」に適用すると論理破綻が生じると考えました。こうして現象の世界は認識可能であるが物自体の世界、理念(イデア)の世界の認識は不可能であるとの二元論にたったのです。しかしカントが物自体の世界を認識しようとするとアンチノミーにおちいるとしたことは、矛盾に積極的意義を見いだす弁証法に道をひらくことになりました。
 また他方でカントは悟性と理性を区別する功績を残しました。しかしカントは「悟性の対象は有限で制約されたものであり、理性のそれは無限で制約されぬもの」(一七八ページ)と正しくとらえながらも、理性には悟性の有限性を認識しうるのみという消極的役割しか認めませんでした。
 「客観性にたいする思想の第三の態度」とは、ヤコービの直接知のことです。
 ヤコービの哲学は、近代合理主義哲学に背をむけた非合理主義の哲学の立場にたつ独特の哲学です。ヤコービは、カントが魂、世界、神を認識しえないとしたのは、媒介知として認識しようとしたところに問題があったのだと批判しました。そのうえで、こうした無制約なものを認識するには媒介知としてではなく、直接知として認識しなければならないと主張したのです。いわば「客観的思想」を肯定しながらもそれは媒介知を排除した直接知によって認識しうるとしたのです。
 これに対するヘーゲルの批判は、すべての認識は直接性と媒介性の統一としてのみ存在するのであり、神の直接知といわれるものも媒介されつつ媒介を揚棄した直接性にすぎないことを明らかにしています。
 こうした第二区分の諸哲学批判のうえにヘーゲル哲学が登場することになるのです。
 ヘーゲルは第二の態度と同じ経験から出発しながら、思惟の本性は、経験から生まれた感性的認識を乗り越えて、普遍性、必然性という「客観的思想」に達し、さらには客観的事物を揚棄する真にあるべき姿にまで達して「客観的思想」を認識しうることを示しました。ヘーゲルは人間の認識能力に限界はないのであって、弁証法を使って具体的なものを認識することにより無限の真理をとらえうると考えました。しかしそのためには、アリストテレスに由来する悟性的なカテゴリーを再検討して弁証法的につくりかえると同時に、無限の真理に到達するには、概念、理念という新たなカテゴリーを創造する必要があると考えました。
 哲学の「最高の究極目的」(六九ページ)は、理想と現実の統一にあり、こういう主観と客観の一致としての真理も、このようなカテゴリーを駆使することによって実現することができるのです。
 こうして「純粋な理念(イデア ── 高村)にかんする学」(九五ページ)としてのヘーゲル論理学は、弁証法を真理探究の形式として使用することによって、絶対的な理念(主観と客観の統一)を実現する「絶対的イデアリスムス」(一七九ページ)、絶対的理念論となります。そこで論理学の対象である「客観的思想」、真理を体現したカテゴリーを「有論」「本質論」「概念論」において論じるに先立って、「あらゆる概念あるいは真理のモメント」(二四〇ページ)である弁証法の三つの側面と論理学の三つの区分を論じるために第三区分「論理学のより立入った概念と区分」の項目をもうけたのです。
 ヘーゲルが「客観的思想」、つまり真理に対する「三つの態度」も含めた「予備概念」にここまで多くのページを割くことに対して、あるいはこれを疑問視する声もあるかもしれません。
 しかし、弁証法によって「哲学を革新しようとする」(二〇ページ)ヘーゲルにとって、定式化されたという意味では前例をもたないヘーゲル弁証法を理解してもらうためには、ここまでの「予備概念」も避けられない過程だったのです。
 まず第一にヘーゲルは「弁証法の一般的な運動諸形態をはじめて包括的で意識的な仕方で叙述」(マルクス『資本論』)することにより哲学の革新を実現しました。その革新性を理解してもらうためには、「最も発展した、最も豊富な、最も具体的な哲学」(八三ページ)が弁証法的論理学であることを近代合理主義哲学の発展過程に即して証明することが必要でした。そのために「三つの態度」の批判的検討が必要となりました。
 第二にヘーゲル哲学が革命の哲学であることを証明するためには、「概念」「理念(イデー)」という新たなカテゴリーを論じなければなりませんでした。それを論じるには「対象と表象との一致」(一二四ページ)というこれまでの真理観をのりこえることもまた必要となりました。哲学的意味の真理とは何かを論じ、それは概念と存在の一致であるとの結論を導き出すために「予備概念」が必要とされたのです。
 第三には、弁証法的論理学の優位性を論証するには、「予備概念」をつうじて、主観と客観の統一、理想と現実の統一、自由と必然の統一、直接性と媒介性の統一、悟性と理性の統一など、さまざまなカテゴリーの弁証法的展開をつうじて、弁証法が真理探究の武器となっていることを具体的に明らかにすることが求められていました。それを証明するためにも長い「予備概念」が必要とされたのです。
 こうしてふり返ってみると、「予備概念」をつうじて私たちは、すでに本論に踏み入るに十分な準備をしてきたことを確認することができます。あとは「弁証法とは何か」という弁証法の基本形式の整理と、その基本形式の展開としての論理学の「区分」を概説することを残すのみとなっているのです。

 

二、「論理学のより立入った概念」

七九節 ── 論理的なものの三つの側面

 「論理的なものは形式上三つの側面を持っている。 (イ) 抽象的側面あるいは悟性的側面、 (ロ) 弁証法的側面あるいは否定的理性の側面、 (ハ) 思弁的側面あるいは肯定的理性の側面がそれである」(二四〇ページ)。
 「論理」とは、「論理学」の論理であり、「論理的なもの」とは、ロゴス、つまり世界の根本的原理をなすものを意味しており、言いかえるとすべての事物、すべての精神の本性である「弁証法的なもの」を指しています。
 四八節でアンチノミー(対立・矛盾)は「あらゆる種類のあらゆる対象のうちに」(一八六ページ)見いだされるのであり、対象を「論理的なものの弁証法的モメント」(同)において認識することは、「哲学的考察の本質に属するもの」(同)であることを学びました。
 この「哲学的考察の本質に属する」弁証法的モメントとは、悟性的側面、否定的理性の側面、肯定的理性の側面という三つのモメントから成っていることが、まず明らかにされています。
 カントは悟性と理性をはじめて区別しながらも、理論理性を経験認識の有限性を洞察するだけの消極的な能力にとどめ、無限の真理を認識しえないものに低めてしまいました。
 ヤコービもカントと同様に悟性を有限なもの、理性を無限なものととらえましたが、理性を思惟による媒介知としてではなく、直接知としてとらえるところにその限界がありました。
 これに対してヘーゲルは、カントの悟性と理性の区別を生かしつつ、理性とは思惟による「無限なものに関する積極的な能力」であり、その理性のもつ無限の能力を発揮させるものが弁証法の形式であると考えたのです。
 すなわち「思惟と言うとき、われわれは有限な、単に悟性的な思惟と無限な、理性的な思惟とを区別しなければならない」(一三七ページ)のであり、悟性から出発して理性に前進するための思惟形式が「論理的なものの三つの側面」となるのです。
 「これら三つの側面は、論理学の三つの部分をなすのではない。それらはあらゆる論理的存在の、すなわち、あらゆる概念あるいは真理のモメントである。われわれはそれらをすべて、第一のモメントである悟性的なもののもとにおき、かくしてそれらを別々に分離しておくこともできる。しかしその場合、それらは真の姿において考察されないのである」(二四〇ページ)。
 この三つの側面は「論理学の三つの部分」をなすのではないというところに注目してください。「部分と全体」というカテゴリーは、第三部「概念論」で学ぶ「機械的関係」( 一八六ページ)を表すカテゴリーです。いわば部分を寄せ集めたものが全体であって、部分は「外的な関係」(同)において結合し、全体となるにすぎません。これに対して「モメントと統体」というカテゴリーは「目的的関係」(同一九六ページ)を表すカテゴリーです。モメントは統体のもとにあり、統体のもつ目的と「有機的な関係」において結合しているのであって、統体をはなれては存在しえない契機、要素なのです。
 弁証法の三つの側面は、「概念あるいは真理」という統体の三つのモメントであり、概念、真理をとらえるには欠くことのできない有機的な関係にあるモメントです。以下に展開されるすべてのカテゴリーは、この三つの側面を含んでいます。例えば、有論は「A 質」「B 量」「C 限度」として構成され、さらに「A 質」をみてみると「a 有」「b 定有」「c 向自有」、「B 量」は「a 純量」「b 定量」「c 度」の、それぞれ三つの側面から構成されています。これがヘーゲルの「三分法」といわれるものですが、この「三分法」こそ、「論理的なもの」の三つの側面をあらわすものにほかなりません。後に学ぶように、三分法は、即自 ── 対自 ── 即対自、または肯定 ── 否定 ── 肯定と否定の統一(否定の否定)という構成となっており、第一、第二のモメントはいずれもそれだけでは真理ではなく、第一、第二の対立するモメントを統一した第三のモメントが真理態となっています。
 こういう関係にあるので、この三つの側面を「別々に分離」してとらえると、「それらは真の姿において考察されない」ことになるのです。 
 なおここでヘーゲルが「悟性的側面」を第一のモメントとしていることに注目してください。七八節でも学んだように哲学は「あらゆる前提および先入見を棄て」(二三九ページ)、すべてを疑い「純粋に思惟しようという決心」(同)から出発しなければなりません。そのためには、対象とするものがいったい何であるのかをまず規定しなければなりません。規定するとは制限することであり、有限なものとしてとらえることを意味しています。それがいわゆる「悟性的側面」であり、哲学的思惟は、まず悟性的側面からしか出発しえないのです。この悟性的側面の基本原理が「AはAである」という同一律です。
 言いかえれば、弁証法は形式論理学という悟性的側面を当然の前提とし、内包しているのであって、けっして形式論理学を否定するものではないことをよく理解しておかなければなりません。同一律をふまえない弁証法は存在しないのです。
 ここにヘーゲルが論理的なものの「第一のモメント」に悟性的なものを置いた意味があります。しかしヘーゲルの偉大なところは、まず悟性的なものから出発しなければならないが、そこにとどまっていたのでは対象の「真の姿・真にあるべき姿」をとらえることはできないとしているところにあります。
 「ここで論理的なものの規定について述べられていること、および論理学の区分は、この序論全体がそうであるように先廻り的、記述的であるにすぎない」(二四〇ページ)。
 「序論全体」とあるのは、「エンチクロペディーへの序論」と『小論理学』の「予備概念」の両者を含むものと考えたらいいでしょう。
 この「序論全体」およびそのまとめに相当する「論理学のより立入った概念と区分」は、『小論理学』の本論における諸カテゴリーの構成と論理学の有論、本質論、概念論の「区分」の意義を「先廻り的」に記述したものであり、弁証法の基本形式とその展開ともいうべきものとなっているのです。

 

三、抽象的側面あるいは悟性的側面

八〇節 ── 第一の側面は抽象的側面あるいは悟性的側面

 「 (イ) 悟性(Verstand)としての思惟は固定した規定性と、この規定性の他の規定性にたいする区別とに立ちどまっており、このような制限された抽象的なものがそれだけで成立し存在すると考えている」(二四〇~二四一ページ)。
 まず第一の側面は「抽象的側面あるいは悟性的側面」です。
 悟性的思惟とは、対象とは何であるかをとらえるのに、「固定した規定性」をもってすることを意味しています。或るものを規定するとは、或るものを他のものから区別することですから、「他の規定性にたいする区別」を定立すると同時に、その区別を絶対化してその区別のうちに「立ちどま」っているのです。
 世界は大きく物質と精神に二分することができます。まず「運動は物質の存在の仕方である。運動のない物質は、かつて、どこにもなかったし、またありえない」(エンゲルス『反デューリング論』全集⑳六一ページ)のです。他方精神は、「スコラ哲学者が神を絶対の活動と呼んでいるような意味で、活動」(一四七ページ)であり、「発現するもの」(一四八ページ)です。したがって物質同様「運動は精神の存在の仕方」といえます。結局物質にしろ精神にしろ、世界に存在するすべての「具体的なもの」は、運動、変化、発展する無制約で、無限なものといわなければなりません。ところが悟性はその運動するものを「固定した規定性」としてとらえることによって、無制約なものを「制限された」ものに、「具体的なもの」を「具体的でないもの」、つまり「抽象的なもの」へと変えてしまうのです。
 このように悟性的思惟は、具体的で無制約なものを「制限された抽象的なもの」に変化させながら、それに気づくこともなく「制限された抽象的なものがそれだけで成立し存在すると考えている」のです。運動する具体的なものは、対立物の統一として存在していますが、悟性的思惟はそれに気づくことなく、対立そのものを自覚しない「即自的」(九一ページ)思惟にとどまっています。 

八〇節補遺 ── 認識は悟性的思惟から出発する

 「人々は思惟、あるいは特に概念的思惟と言うとき、しばしば悟性の働きをのみ念頭においている。もちろん、思惟は最初は悟性的思惟であるが、しかし、思惟はそこに立ちどまってはいないし、概念は単なる悟性的規定ではない」(二四一ページ)。
 「概念的思惟」とは、対象の「真の姿・真にあるべき姿」をとらえようとする思惟を意味しています。私たちが対象の「真の姿・真にあるべき姿」をとらえようとするとき、それはまず「悟性の働き」を念頭におきます。なぜかというと、悟性は対象を認識する端緒的な即自的思惟だからです。思惟は、無制約で無限な対象を制限された一面的なものとして認識することでしか出発しえないのであり、いきなり無制約、無限なもののすべてを認識する即かつ対自的な思惟に到達することはできません。したがって感性的認識から出発した思惟は、次のステップとして、とりあえず悟性的思惟へ移行することしかできないのです。
 しかし人間は、悟性のみならず理性をもつ存在であり、思惟は、この悟性的思惟に立ちどまることなく、理性的思惟へと前進していくことになります。対象の「真の姿・真にあるべき姿」つまり「概念は単なる悟性的規定ではない」のです。
 「悟性の働きは一般に、その内容に普遍性の形式を与えることにある。しかも悟性が作り出した普遍は、抽象的な普遍であり、そのようなものとしてあくまで特殊に対立し、そのためにまたそれ自身特殊なものとして規定されている。悟性はその対象にたいして分離的、抽象的に振舞うから、あくまで具体的なものに関係しそこに立ちどまっている直接的な知覚や感情とは、正反対のものである」(同)。
 悟性の働きは規定することにあります。例えば「人間とは言語をもつ動物である」という規定を考えてみますと、人間を規定することは、「人間」という「特殊」に対して「動物」という「普遍性の形式」を与えることになります。この「悟性が作り出した」動物という普遍はすべての動物に共通する性質をとりだした抽象的な普遍であり、「動物」という具体的な特殊が存在するわけではありません。その意味でこの抽象的普遍は「あくまで特殊に対立」し、特殊に対立することによって「それ自身特殊なものとして規定され」、真の普遍ではないのです。これに対し、「私」という「具体的なもの」は、人類という普遍であると同時に個人という特殊であるという意味で普遍と特殊の統一としての具体的普遍、真の普遍なのです。
 このように悟性は、具体的なものである具体的普遍から特殊を分離し、抽象的普遍にかえてしまうので、「対象にたいして分離的、抽象的に振舞う」ことになります。
 これに対して「直接的な知覚や感情」は、対象となる具体的なものに密着、結合し、そこに立ち止まっていますから、その具体的なものの輪郭を大きくとらえることができます。したがって知覚や感情は悟性とは「正反対のもの」なのです。
 「人々はよく、思惟は頑固で一面的であり、思惟を徹底させると有害で危険な結論に導くと言って非難するが、これは今述べたような、悟性と感覚や感情との対立にもとづいているのである。こうした非難が正しいかぎり、われわれはまずそれにたいして、この非難は悟性的な思惟にあたるだけで、思惟一般にはあたらず、特に理性的な思惟にはあたらないと答えなければならない」(同)。
 このように感覚や感情は、具体的なものに結びついているので、大きく誤った結論に達することはありませんが、悟性は、具体的なものから「分離的」となるため、感覚や感情からいわせると「思惟を徹底させると有害で危険な結論に導く」との批判を受けることになります。この批判は、一見すると「思惟一般」に向けられた批判のようにみえますが、実際には悟性的思惟のもつ「分離的、抽象的」側面を批判したものであって、後に説明する「理性的思惟」には当てはまらないのです。
 「しかし更に注意すべきことは、われわれは、まず第一に、単なる悟性的思惟にもその権利と功績を認めなければならないということである。けだし理論の領域においても実践の領域においても、悟性がなければ確固とした規定はえられないのである。まず認識について言えば、認識は現存するさまざまな対象を特定の区別において把握することからはじまる」(同)。
 ここからが重要なのですが、このように限界があるにしても、「理論の領域においても実践の領域においても」悟性的思惟は「その権利と功績」をもつものであることを正当に評価しなければなりません。
 まず「理論の領域」からいうと悟性には一面性という限界があるにしても、私たちが対象を認識するということは、その対象を「特定の区別において把握するところからはじまる」のですから、まず悟性によって「確固とした規定」を獲得しなければならないのです。
 「かくして例えば自然を考察する場合、われわれはさまざまな元素や力や類などを区別し、それらを別々に固定する。この場合思惟は悟性として働いているのであって、悟性の原理は同一性、単なる自己関係である。認識が或る規定から他の規定へ進んでいくのも、最初はこのような同一性によるのである」(二四一~二四二ページ)。
 十五世紀後半に始まる自然科学の発展は、自然をその個々の部分に分解したり、自然過程や自然対象を一定の部類に分けることによってもたらされました。それは「さまざまな元素や力や類などを区別」するという悟性的思惟の功績なのです。
 悟性の原理は、「AはAである」という「同一性」、同一律にあり、AはいつまでもAにとどまるという単なる「自己関係」なのです。或るものから他のものへの移行は、Aという同一性からBという同一性に移行するとされるのであって、悟性的思惟のもとではAとBとは非連続的な区別にとどまり、連続性と非連続性の統一とはみなされないのです。
 ヘーゲルは、悟性の原理の例として、幾何学と法律学をあげています。幾何学では異なる図形における量的同一性が問題となり、法律学では条文の規定と対象となる事実との同一性が検討されるのです。
 「理論の領域におけると同じように、実践の領域においても悟性は欠くことのできないものである。……何か偉大なことをしようとする者は、ゲーテが言っているように、自己を限定することを知らなければならない。これに反して、何でもなしたがる者は、実は何も欲しないのであり、また何もなしとげない」(二四二ページ)。
 次に「実践の領域」においても、何かをなしとげようと思えば、「自己を限定する」悟性的実践が必要となります。専門家になるということは、実践の分野における悟性化、有限化にほかなりません。逆にいえば専門外の分野では一般常識すら欠く専門バカになりかねないのです。
 悟性的実践とは、その分野での進歩であると同時に他の分野での後退です。エンゲルスは、『自然の弁証法』において「生物進化におけるどんな進歩もすべて同時に退歩でもある。進歩は一方向的な進化を固定化し、それ以外のたくさんの方向への進化の可能性を排除してしまうからである。これがしかし根本法則なのである」(全集⑳六〇八~六〇九ページ)と述べています。
 「なお悟性は一般に教養の本質的なモメントである。教養ある人は漠然としたものや曖昧なものに満足せず、対象をその確固とした性格において把握するが、教養のないものはこれに反して不確かで動揺している」(二四三ページ)。 
 悟性は、「教養の本質的なモメント」です。というのも教養ある人は、自分が何を話したいのか、話題を「その確固とした性格において把握」し、悟性的に特定するのに対し、教養のない人は「何が問題になっているか」(同)が漠然としていて曖昧であり、何を論じたいのかが特定していないために、「当の問題をしっかり注視させるのに非常に骨のおれることが多い」(同)からです。
 ヘーゲルは世界には無数に区別された有限な事物が存在しているという意味で、悟性を「神の慈悲」(同)だといっています。なぜなら「神の慈悲という言葉は、神が有限な事物を存在させ存立させることを意味するから」(同)です。
 多様な事物も有限であるからこそ、変化のない世界ではなく、たえず変化のうちにある豊かな世界となるという意味で「神の慈悲」なのです。
 「悟性は対象的な世界のあらゆる領域に属し、そして或る対象が完全であるためには、そのうちに悟性の原理が行われていることが本質的に必要である」(同)。
 悟性による区別は、事物の有限性による多様性と豊かさを承認するものですから、「或る対象が完全である」ためには、「そのうちに悟性の原理が行われていることが本質的に必要」であり、それは「特に芸術、宗教、および哲学について言える」(二四四ページ)のです。「例えば芸術においては、概念上さまざまである美の諸形式が、実際その区別において固守され表現されるという点に、悟性があらわれている」(同)からであり、哲学においても「あらゆる個々の思想を明確に把握し、曖昧と不明確のうちにすてておかないことが必要」(同)だからです。
 「さらに人々はよく、悟性は行きすぎてはならないと言うが、これは、悟性的なものは最後のものではなくて、有限なものであり、それを極端にまでおしつめると反対物に転化するという正しい思想を含んでいる。抽象的なもののうちを転々とするのは若い者のすることであって、人生の経験を積んだ人は、抽象的なあれでなければこれというような態度にはかかりあわず、具体的なものを堅持する」(二四四~二四五ページ)。
 悟性的なものは有限なものですから、「行きすぎ」てはなりません。そこには有限なものがその限界を越えると「反対物に転化」してしまうという「正しい思想」が含まれています。詳しくは第一部「有論」で論じられる「限界の弁証法」といわれるものです。しかしこの考えが「理性的な思惟」に妥当しないことは先に学んだとおりです。
 抽象的な悟性的なものを転々とし、「あれでなければこれというような態度」をとるのは経験が少なく認識能力の未発達な若い者のすることであり、年の功をもつ大人は「あれもこれも」という「具体的なものを堅持する」のです。