第一八講 予備概念 ⑬
     「論理学のより立入った概念と区分」⑵

 

一、弁証法的側面あるいは否定的理性の側面

 前講に続いて「論理学のより立入った概念」の二つめの側面に入っていきましょう。

八一節 ── 第二の側面は有限なものの自己揚棄

 「 (ロ) 弁証法的モメントは、右に述べたような有限な諸規定の自己揚棄であり、反対の諸規定への移行である」(二四五ページ)。
 第八講で古い形而上学は、魂、世界、神という「理性的対象」を単に悟性的に考察したことを学びました。その際、古い形而上学は、魂、世界、神をその内容からみて「無限なもの」として例示していますが、すべての事物は有限なものであるがゆえに運動、変化、発展することによって「自己の限界」を否定し、「無限なもの」となること、したがって、すべての事物は、「理性的対象」であり、無限なものであることをお話ししました。
 八一節ではあらためて、その点が明らかにされています。
 世界に存在するすべての事物は、精神であろうと物質であろうと自らの限界をもつことによって「悟性的側面」をもっています。しかし有限なものは、有限であるがゆえに、永遠にそのままにとどまることができず、「有限な諸規定」を「自己揚棄」、つまり自ら否定して、そのものから、そのものを否定する別のものへ移行(運動)せざるをえないのです。この「反対の諸規定への移行」という否定的モメントが「弁証法的モメント」とよばれているのです。
 つまり弁証法的モメントとは、運動、変化、発展の契機となる否定であり、これを清算的否定と区別する意味で「弁証法的否定」とよんでいます。
 「 ⑴ 弁証法的なものが、悟性によってそれだけで切りはなされ、そして特に学問として述べられる場合、それは懐疑論となる。懐疑論は弁証法の成果として単なる否定を含んでいるものである」(同)。
 「弁証法的なもの」は、「悟性的なもの」の否定として悟性的なものと切りはなしがたく結びついています。それを切りはなしてしまうと、「弁証法的なもの」は、「単なる否定」として、学問的には懐疑論になってしまうのです。懐疑論は、先に学んだように、全てを疑い、全てを否定する「単なる否定」にとどまるのに対し、弁証法は、否定的モメントをそれだけ切りはなして絶対化するものではありません。
 有限なものは、肯定的な即自態から否定的なものへと移行し、肯定的なものと否定的なものとの対立が顕在化する対自態に移行します。
 この対立する肯定と否定の関係において事物を認識する思惟が、弁証法的思惟とよばれています。
 「 ⑵ 弁証法は普通、明確な概念のうちに、恣意によって、混乱と外見上の矛盾をひきおこす外面的な技術と考えられており、したがって空しいのはこれらの規定ではなくてこの外観であり、これに反して悟性的なものこそ真実なものであると考えられている」(同)。
 弁証法への誤解の一つは、弁証法とは悟性的に規定された「明確な概念」を否定するという「恣意によって」、この明確な概念に「混乱と外見上の矛盾をひきおこす外面的な技術」と思われていることです。つまり弁証法とは悟性によって規定された「明確な概念」を恣意によって否定することにより、論理に混乱をもたらす「外面的な技術」であって、「有限な諸規定の自己揚棄」という有限なものの内面的な運動とは考えられていないのです。彼らは「悟性的なものこそ真実なものであると考え」、空しいのは悟性的規定ではなく、それを否定し「混乱と外見上の矛盾をひきおこす」弁証法にあると考えているのです。
 「実際また弁証法が、ああも考えられこうも考えられるというような、理由をこととする思惟の主観的な動揺にすぎないことも多い。こうした理窟は全く内容を欠いていて、ただこうした理窟を作りだす一種の炯眼(けいがん)によってその弱点がおおいかくされているにすぎない」(同)。
 もう一つの誤解は、弁証法とは「ああも考えられこうも考えられる」という無定見な「主観的な動揺」にすぎないのに、何かそこには深遠な思想が含まれているような「一種の炯眼」によってその弱点を覆い隠しているというものです。
 「その真の姿においては、弁証法はむしろあらゆる悟性的規定、事物、および有限なもの自身の本性である。反省(Reflexion)もさしあたり孤立的な規定の超出であり関係づけであって、孤立した規定はそれによって関係のうちに定立されはする。しかしその他の点では、孤立的な規定はやはりそのままで妥当するものとされている。弁証法はこれに反して内在的な超出であって、そのうちで有限で一面的な悟性的規定はその真の姿において、すなわちその否定として示されるのである」(二四五~二四六ページ)。
 しかし弁証法的モメントの真の姿は、こうした議論に混乱を持ち込むテクニックというものでも「主観的な動揺」でもなく、「有限なもの自身の本性」をとらえたものであり、だからこそ真理認識の唯一の形式なのです。ここに「あらゆる悟性的な規定、事物」とあることに注意してください。思惟(精神)であろうと、事物(物質)であろうと、「あらゆる悟性的規定」は、有限なものの本性として自己を否定するところにその真の姿があり、それを意識のうえにとらえたものが、弁証法的モメントなのです。
 第二部の「本質論」で議論される「反省」(二四五ページ)も、表面的な現象を否定して、本質に移行するという弁証法的モメントをもっています。しかし「反省」においては現象から本質に移行しても、それによって現象は本質との「関係のうちに定立されはする」(二四六ページ)のですが、現象がなくなるわけではありません。現象という「孤立的な規定はやはりそのままで妥当する」(同)のです。この「反省」と異なり、弁証法においては、有限なものは自らを揚棄し、否定することによって、もはやそのものであり続けることはできなくなるのです。
 「すべて有限なものは自分自身を揚棄するものである。したがって弁証法的なものは学的進展を内から動かす魂であり、それによってのみ内在的な連関と必然性とが学問の内容にはいり、またそのうちにのみ有限なものからの外面的でない真の超出が含まれている原理である」(同)。
 すべて有限なものは、有限であるがゆえに「自分自身を揚棄する」のです。
 ヘーゲル論理学は、最も単純で直接的なカテゴリーである「有」から出発し、カテゴリーの有限性によって「自分自身を揚棄する」ことをくり返すことによって諸カテゴリーは萌芽からの発展をとげ、統体性をもつ体系として構築されることになります。したがって「弁証法的なもの」はヘーゲル哲学の「進展を内から動かす魂」であり、それによって諸カテゴリーの「内在的な連関と必然性」が哲学のうちに確立されることになるのです。
 ヘーゲル哲学におけるカテゴリーの移行については無理な論理のこじつけがあるとの見方がありますが、そうではなくてカテゴリーの移行において弁証法的発展の論理が貫かれており、「もまた」の結合ではないところに、ヘーゲル哲学の体系的優位性があります。また諸カテゴリーの弁証法的発展のうちにこそ、有限なものからの「真の超出」による無限の真理への接近という原理が含まれているのです。

八一節補遺一 ── 弁証法はあらゆる運動の原理

 「弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である。また弁証法はあらゆる真の学的認識の魂である。……有限なものは単に外部から制限されているのではなく、自分自身の本性によって自己を揚棄し、自分自身によって反対のものへ移っていくのである。……一般に有限なものは自分自身のうちで自己と矛盾し、それによって自己を揚棄するのである」(二四六~二四七ページ)。
 弁証法は「現実の世界のあらゆる運動」「あらゆる活動の原理」です。
 このあらゆる運動を運動としてとらえるのが弁証法的論理学であり、したがって弁証法は真理認識の唯一の形式、つまり「真の学的認識の魂」なのです。
 精神も物質もすべて有限なものであり、有限なものであるがゆえに「自分自身の本性」によって自分自身を否定し、「反対のものへ移っていく」、つまり運動、変化、発展せざるをえません。
 ではどうして有限なものは運動、変化、発展するのかといえば、「自分自身のうちで自己と矛盾」し、自己のうちに自己を否定する他のものをもっているために、その矛盾によって「自己を揚棄する」のです。例えば人間という生命体は、「生命そのものがそのうちに死の萌芽を担っている」(二四七ページ)という生と死の矛盾を自己のうちにもっているから、その矛盾によって自己を揚棄し、死に至るのです。
 「弁証法は更に詭弁(Sophistik)と混同されてはならない。詭弁の本質は、個人のそのときどきの利益および特殊の状態に都合のいいように、一面的で抽象的な規定をそれだけ切りはなして主張することにある」(同)。
 弁証法は、その否定的モメントによって「混乱と外見上の矛盾」をひきおこすという外観をもつことからすると「詭弁」と似たところがあります。しかし同じように「混乱と外見上の矛盾」をひきおこすものではあっても、弁証法的な否定は、有限なものの「内在的な超出」としての特定の否定であるのに対し、詭弁の否定は、自己に「都合のいい」勝手な否定をそれだけ切りはなして主張するものであり、両者を混同してはなりません。
 例えば私には幸福追求権があるとか「主観的な自由」(同)があるとかの理由で、他人の財産を否定して盗みをするのは詭弁にすぎません。 
 「弁証法はこのような行いとは本質的に異っている。なぜなら弁証法の目的は事物を即自かつ対自的に考察し、一面的な悟性規定の有限性を明かにすることにあるからである」(同)。
 弁証法の目的は、詭弁のように勝手な理屈付けで相手の主張を否定し、自己の主張を合理化しようとする弁論術にあるのではなく、「即自かつ対自的」(絶対的)な真理の探究にあるのであり、真理探究の観点から「一面的な悟性規定の有限性を明かにする」ものにすぎません。
 すなわち、「一面的な悟性規定」は単に即自にすぎず、それは有限なものの本性により対自に移行し、さらには即自と対自の対立・矛盾を揚棄した「即自かつ対自的」として考察することで事物の真理をとらえるのが、「弁証法の目的」となっているのです。
 弁証法は哲学史上長い歴史をもっています。まずソクラテス(前四七〇~三九九)は、「エイロネイア」(同)、つまりソクラテスの産婆術という弁証法の「主観的な形態」(同)を生みだしました。「かれはその会話において常に、問題になっている事柄をもっとよく教えてほしいようなふりをし、そしてその事柄について色々な質問をあびせることによって、相手をかれが最初正しいと思っていたものとは反対のものへ導いた」(二四八ページ)のです。対話をつうじて相手の主張のもつ有限性を明らかにし、それを次々と否定することをつうじて、真理に接近しようとしたのです。
 プラトンは「弁証法の創始者」(二四七ページ)とよばれています。彼のもとで「はじめて弁証法が自由な学問的な形」(同)をとってあらわれ、「弁証法を用いてあらゆる固定した悟性規定の有限性」(二四八ページ)が明らかにされました。 
 例えば『パルメニデス』において「一から多を導き出しながら、しかも多が一として自己を規定せざるをえないことを示して」(同)います。一とはイデアを示し、多とは現象界を示しています。現象界はイデアにその真理を求め、またイデア界は現象界にあらわれる限りにおいてイデア界なのです。
 「近世では弁証法を復活し、それにふさわしい地位を新しく与えたのは、特にカント」(同)でした。
 彼は「理性のアンチノミー」(同)において、「どんな悟性規定でも、それをその真の姿において考察しさえすれば、直接にその反対物に転化することを示」(同)しました。
 「われわれの周囲にあるすべてのものは弁証法の実例とみることができる。われわれは、あらゆる有限なものは確固としたもの、究極のものではなくて、変化し消滅するものであることを知っている。これがすなわち有限なものの弁証法であって、潜在的に自分自身の他者である有限なものは、この弁証法によって実際またその直接の存在を超出させられ、そしてその反対のものへ転化する」(二四八~二四九ページ)。
 あらゆる有限なものが「変化し消滅する」のは、「普遍的な抵抗しがたい力」(二四九ページ)であり、それが「有限なものの弁証法」なのです。仏教の根本姿勢としての「諸行無常」もこの「有限なものの弁証法」を語ったものということができるでしょう。ヘーゲルは、世界における多様にして有限な事物の存在を「神の慈悲」(二四三ページ)とよびましたが、これに対しこの有限なものが反対のものへ変化する抵抗しがたい力を「神の威力」(二四九ページ)とよんでいます。
 このような「有限なものの弁証法」は、「自然および精神の世界のあらゆる特殊の領域および形態のうちにも見出される」(同)として、ヘーゲルはいくつかの例を紹介しています。
 まず自然の世界の例です。「天体の運動」(同)は「今ここにある」(同)と同時に「他の場所にもある」(同)、言いかえると「ここにあって、ここにない」という有と無の統一です。「自然の諸元素もまた弁証法的」(同)とありますが、化合と分解の相互移行の関係を述べたものでしょうか。「気象学的過程」(同)も、高気圧と低気圧との相互媒介の運動です。
 次に精神の世界の例として、客観的精神ともいうべき法律や道徳における「最も厳格な法は最も甚しい不法である」(二五〇ページ)とか「過ぎたるは及ばざるがごとし」(同)などの格言に対立物の相互移行の弁証法が示されていることを挙げています。さらに主観的精神である「感覚や感情」(同)でさえ、「苦しみのきわみと喜びのきわみとが移行しあう」(同)とか「喜びにあふれる心は涙にそのはけ口を見出」(同)すという弁証法をもっています。
 要するに、自然(物質)であれ精神であれ、世界のすべてのものは「神の威力」としての「有限なものの弁証法」から逃れることはできないのです。
 こうしてみると、エンゲルスが『反デューリング論』で述べた「自然は弁証法の検証となるもの」(全集⑳二二ページ)との言は、より正確には「世界のすべてのものは弁証法の検証となるもの」と言いかえられるべきものでしょう。

八一節補遺二 ── 弁証法は単なる懐疑論ではない

 「われわれは懐疑論を単に疑を説く学説と考えてはならない。それはむしろ、その学説の内容、すなわちあらゆる有限なものの空しさを、絶対に確信しているのである。単に疑っているにすぎない者は、まだかれの疑が解かれうるという希望を……持っている。これに反して本来の懐疑論は、悟性が確実だとする一切のものにたいする完全な絶望であり、そこから生じる境地は、何事にも心を動かされぬ自己安住である」(二五〇ページ)。
 「本来の懐疑論」を、ヘーゲルは「古代の気高い懐疑論」(二五一ページ)とよんでいます。彼らは「あらゆる有限なものの空しさを、絶対に確信」し、常識に安住せず、哲学の定説や常識の思い込みを打ちくだき、それと正反対の主張を対置したからです。
 この古代の懐疑論と、経験的なもののみが真理であって、超感覚的なもの(本質、法則、類、実体などの普遍的、必然的なもの)の「真理および確実性を否定」(同)するヒュームの懐疑論とを「混同してはならない」(同)のです。
 今日でもなお懐疑論は、「あらゆる積極的な知識の抵抗しがたい敵」(同)であり、「哲学の抵抗しがたい敵」(同)だと考えられていますが、懐疑論をおそれるのは「抽象的な悟性の有限な思惟」(同)にすぎません。
 「これに反して哲学は、懐疑的なものを一つのモメントとして、すなわち弁証法的なものとして、そのうちに含んでいるのである。しかし哲学は、懐疑論とはちがって、弁証法の単に消極的な成果に立ちどまってはいない。懐疑論はあくまでこの成果を単なる否定、すなわち抽象的な否定と考えるものであって、それはこのことによってこの成果を誤解している」(同)。
 古代の懐疑論が「有限なものの空しさ」を確信していることは評価しうるのですが、しかし彼ら
は「単なる否定」という消極的なものにとどまっています。これに対して弁証法的論理学は、この否定的なものを弁証法の「一つのモメント」としてとらえ、積極的な成果へとつなげていくのです。
 「弁証法がその成果として否定的なものを持つ場合、この否定的なものはまさに成果であるから、それは同時に肯定的なものでもある。というのは、この否定的なものは、それを成果として生み出したものを揚棄されたものとしてそのうちに含んでおり、それなしには存在しないからである。しかしこのことは論理的なものの第三の形式の、すなわち思弁的なものあるいは肯定的理性的なものの根本規定である」(同)。
 弁証法的モメントとしての否定的なものは、「有限なものの弁証法」の成果としての否定的なものであり、運動、変化、発展という積極的なものにつながる「肯定的なものでもある」のです。つまり弁証法的否定は、運動、変化、発展の契機として「肯定的なもの」といえるのです。というのも、この否定的なものは、肯定的なもの(有限なもの)の否定として、肯定的なものを「揚棄されたものとしてそのうちに含んでおり、それなしには存在しない」からです。
 つまり弁証法的否定は、あらゆる運動、変化、発展の契機としての否定という意味で「肯定的なもの」であり、こうして弁証法的モメントは第三の側面である「肯定的理性的なものの根本規定」となるのです。

 

二、思弁的側面あるいは肯定的理性の側面

八二節 ── 第三の側面は思弁的側面あるいは肯定的理性の側面

 「 (ハ) 思弁的なものあるいは肯定的理性的なものは、対立した二つの規定の統一を、すなわち、対立した二つの規定の解消と移行とのうちに含まれている肯定的なものを把握する」(二五二ページ)。
 第三の側面である「思弁的なものあるいは肯定的理性的なもの」は、第一の側面である悟性的側面と、それを否定する第二の側面である弁証法的側面との「対立した二つの規定の統一」です。対立した二つの規定は、相互に媒介し合うことにより、「二つの規定の解消と移行」が生まれ、その「解消と移行とのうちに含まれている」対立物の統一という肯定的なものが、第三の側面としての「思弁的側面あるいは肯定的理性の側面」とよばれるものです。
 ここに対立物の統一が、二つの規定の「解消と移行」とされていることに注目してください。対立する二つの規定が、相互に「移行」し合うことによる統一は、対立物の相互浸透、対立物の相互移行、対立物の同一などとよばれています。これに対して、対立する二つの規定が相互に排斥しあうことは、対立物の相互排斥、対立物の闘争、矛盾などとよばれています。対立物の相互排斥により対立が「解消」することを「矛盾の解決」、「矛盾の止揚」、「矛盾の揚棄」などとよんでいます。止揚、揚棄とはドイツ語の「アウフヘーベン」の訳であり、否定しつつ保存するという意味です(二九五ページ参照)。
 どちらの場合も、対立する二つの規定を対立したままに放置せず、媒介のうちにとらえることで「肯定的なものを把握」するのです。
 悟性的側面が即自、悟性的側面と弁証法的側面との対立が対自を意味するのに対し、思弁的側面は即自かつ対自(即対自)を意味しています。
 「 ⑴ 弁証法は肯定的な成果を持つ。なぜなら、弁証法は特定の内容を持っているからである。言いかえれば、弁証法の真の成果は空虚な、抽象的な無ではなくて、特定の規定の否定であり、この規定は、成果が直接的な無ではなくて、成果であるというまさにその理由によって、成果のうちに含まれているからである」(同)。
 弁証法は、対立物の統一という「肯定的な成果を持つ」ことにおいて、懐疑論とは異なります。悟性的側面は肯定的なものであり、弁証法的側面は、悟性的側面を否定する否定的なものです。第三の側面は、この肯定的なものと否定的なものとを統一した肯定的なものなのです。
 言いかえれば、「弁証法の真の成果は空虚な、抽象的な無ではなくて」、肯定と否定との対立という「特定の規定の否定」であり、対立物の統一という「特定の内容を持っている」具体的なものです。特定の内容とは、対立物の相互浸透、または対立物の相互排斥という運動を意味しています。運動一般は、大きく「変化」と「発展」に区分することができます。対立物の相互浸透による運動は、主として或るものから他のものに移行する質的変化、つまり「変化」という運動であり、対立物の相互排斥による運動は、質的変化であってもより複雑、より高度のものに変化する「発展」の運動です。発展には異なる質への発展(矛盾の解決としての発展)と、同じ質のもとでの発展(否定の否定としての発展)とがあります。
 以上により、弁証法の基本形式は、肯定 ── 否定 ── 肯定と否定の統一(または否定の否定)としてとらえられ、要約すれば対立物の統一にあるということができます。
 「 ⑵ したがってこの理性的なものは、思想であり抽象的ではあるけれども、単純な、形式的な統一ではなくて、異った規定の統一であるから、同時に具体的なものである。それゆえに哲学は単なる抽象あるいは形式的な思想には全くかんしないものであって、それが取扱うのは、ひたすら具体的な思想である」(同)。
 「単純な、形式的な統一ではなくて、異った規定の統一」とあることに注目してください。七〇節で理念と存在との統一に関連して、「異った規定の統一とは、単に純粋に直接的な統一、すなわち全く無規定で空虚な統一ではなく、異った規定の一方が他方によって媒介され、他方によって真実態を持つような統一であり、言いかえれば、異った規定の各々が他方によってのみ真実態と媒介されるような統一」(二二七ページ)であることを学びました。
 つまり弁証法にいう「対立物の統一」とは、対立する二つのものが同一となって区別が消滅してしまうという「単純な、形式的な統一」ではなくて、対立する二つのものの区別をうちに含み、二つのものが相互に媒介しあうような統一です。すべての事物は運動、変化、発展する「具体的なもの」として、このような対立物の媒介的統一のうちにあるのです。
 ヘーゲルが、弁証法の第三の側面を「思弁的側面あるいは肯定的理性の側面」とよんでいる理由を考えてみましょう。
 ヘーゲルにとって理性は、悟性に対立する概念であり、悟性が一面性・有限性・固定性を意味するのに対し、理性は統体性・無限性・運動性を意味しています。弁証法の第三の側面は、対立物の統一として「具体的なもの」をその運動においてとらえます。運動するものは固定したものと異なって、自らの限界をもたないから無限なのです。したがって第三の側面は、対立物の統一として統体性であり、運動するものとして無限性であり、統体性、無限性、運動性はいずれも「抽象的な無」ではなくて肯定的なものですから、「肯定的理性の側面」とよばれているのです。
 また「思弁的なもの」とは、本節の「補遺」でみるように諸対立を「揚棄されたものとして自己のうちに含んでいるものであり、まさにそれゆえに具体的で全体的なもの」(二五四ページ)です。いわば対立物の統一としての「具体的で全体的なもの」を意味しています。
 結局第三の側面は、対立物の統一として「思弁的なものあるいは肯定的理性的なもの」となるのです。
 「 ⑶ 思弁的な論理学は単なる悟性の論理学を含んでいるから、前者から後者を作り出すのは、わけのないことである。それには前者から弁証法的なものと理性的なものとを取去りさえすればいい。すると思弁的な論理学は、普通の論理学と同じもの、すなわち、有限であるにもかかわらず無限なものと考えられているさまざまな思惟規定を寄せ集めて記録したものになってしまう」(二五二ページ)。
 弁証法的論理学と形式論理学との関係は、前者が後者を包摂するという関係です。弁証法は、第一の側面としての悟性的側面から出発するのであり、この「悟性の論理学」が形式論理学にほかならないからです。
 したがって弁証法的論理学から形式論理学を作り出すためには、前者から第二の側面としての「弁証法的なもの」と第三の側面としての「理性的なもの」とを取り去るだけでいいのです。形式論理学は、有限な「さまざまな思惟規定を寄せ集めて記録したもの」にすぎません。

八二節補遺 ── 理性的なものは思弁的なもの

 「内容から言えば、理性的なものは哲学のみの所有物ではなく、それは、教養および精神的発展の程度を問わず、あらゆる人間にたいして存在しており、この意味で昔から人間が理性的存在と呼ばれてきたのは正しい。人が理性的なものを最初に知る一般的な仕方は、経験的には、これをあらかじめ定立されている先入見として知るという仕方であり、そして理性的なものの性格は、すでに述べたように(第四五節)、無制約でありしたがって自己の規定性を自分自身のうちに含んでいるということである」(二五二~二五三ページ)。
 理性はあらゆる人間に存在し、したがって人間は「理性的存在」(二五三ページ)です。人間は自分が理性をもつ存在であることをどうやって知るに至るのかといえば、自我の目覚めにより自分自身をナーハデンケンするとき「あらかじめ定立されている先入見として知る」のです。
 「理性的なものの性格」とは、自己のもつ特殊性の制約をうち破り、普遍的なものによってのみ自己を規定する能力を「自分自身のうちに含んでいる」こと、ということができます。
 理性をこのようにとらえるとき、人間が神を無制約な、自己規定的存在として知ることは、「最も理性的なものを知」(二五三ページ)ることになります。また国民が祖国と法律を「自分の個人的な意志を従属させなければならない無制約で普遍的なもの」(同)と理解することは、祖国と法律を理性的なものとしてとらえることを意味しています。 
 これに対しヘーゲルのいう「思弁的なもの」(同)とは、「思惟された理性的なもの」(同)、「肯定的に理性的なもの」(同)です。
 思弁または投機を意味する「シュペクラチオーン」というドイツ語は、二つの意味をもっています。
 「一つには、直接に現存するものが越えられなければならないということであり、もう一つには、このようなSpekulationの内容をなしているものは、最初は主観的なものにすぎないが、しかし何時までも主観的なものであってはならず、実現され客観的なものとならなければならないということである」(二五三~二五四ページ)。
 六節で「哲学はただ理念をのみ取扱うものであるが、しかもこの理念は、単にゾレンにとどまって現実的でないほど無力なものではない」(七一ページ)ことを学びましたが、「理念(イデー)という言葉」(二五四ページ)は、「もう一つ」の意味における「思弁」的なものということができます。
 「思弁的なものは、その本当の意味からすれば、一時的にも究極的にも単に主観的なものではなく、悟性がそこに立ちどまっているような諸対立を、したがってまた主観と客観との対立をも、揚棄されたものとして自己のうちに含んでいるものであり、まさにそれゆえに具体的で全体的なものである」(同)。
 シュペクラチオーンの第一の意味と第二の意味とをふまえつつ、ヘーゲルは主観と客観の対立をも含む悟性的諸対立をのり越え、その対立を揚棄した統一というところに「思弁的なもの」の「本当の意味」があると考え、その意味で弁証法の第三のモメントを「思弁的側面」とよんでいるのです。
 したがって思弁的なものは、対立物の統一という「具体的で全体的なもの」として、肯定的理性的なものなのです。
 「したがってまた思弁的な内容は一面的な命題によっては言いあらわすことができない。例えばわれわれが、絶対者は主観的なものと客観的なものとの統一であると言えば、それは正しいにはちがいないが、やはり一面的である。というのは、実際において主観的なものと客観的なものとは、単に同一ではなく、それらはまた区別されているのに、この命題においては統一のみが言いあらわされ、統一にアクセントがおかれているからである」(同)。
 思弁的なものは、対立を揚棄しながらも「自己のうちに含んでいる」のですから、「対立物の統一」といっても「単に同一ではなく」、内に区別を含んだ統一です。したがって対立物の「統一」という表現は「統一のみが言いあらわされる」という「一面的な命題」になっている点で問題を残していることに注意しなければなりません。
 またシュペクラチオーンという言葉には、「神秘的」(同)なものという意味があります。「神秘的」とは、「秘密にみち理解しがたいもの」(二五五ページ)という意味で用いられていますが、悟性的思惟からすると、思弁的な「対立物の統一」は、神秘にみえるのでしょう。というのも「悟性の原理は抽象的同一」(同)にあり、「悟性が分離と対立のうちにおいてのみ真実であると考えている諸規定」(同)を、理性はその「具体的な統一」(同)においてとらえるからです。悟性にとっては神秘的にみえる「思弁的なもの」も、理性にとっては、けっして神秘的でもなければ、「理解することができない」(同)ものでもありません。なぜなら「理性的なものの本質は、対立したものを観念的なモメントとして自己のうちに含むことにある」(同)からです。
 「すべて理性的なものは同時に神秘的なものと呼ぶことができるが、しかしこのことはただ、理性的なものは悟性を越えているということを意味するにすぎず、決して思惟がそれに到達し理解することができないという意味ではない」(同)。
 理性は「悟性を越えている」というかぎりにおいてのみ、悟性にとって神秘的であるにすぎません。

 

三、論理学の「区分」

八三節 ── 論理学の三つの部門

 「論理学は三つの部門にわかれる。
 一、有論
 二、本質論
 三、概念論および理念論
 すなわち、思想にかんする理論としてみれば
 一、直接性における思想、あるいは即自的概念にかんする理論
 二、反省と媒介とにおける思想、あるいは概念の対自有と仮象にかんする理論
 三、自己自らへ復帰し全く自己のもとにある思想、あるいは即自かつ対自的概念にかんする理論」
(二五六~二五七ページ)。
 八三節は、「論理学のより立入った概念と区分」の「区分」にあたる箇所であり、弁証法の三つの側面に対応して論理学には三つの「区分」があることが先回り的に述べられています。
 これまでに何度も学んできたように、論理学は「有論」「本質論」「概念論」の三つの部門にわかれています。三節で「哲学は表象を思想やカテゴリーに、より正確に言えば概念に変えるもの」(六五ページ)であることを学びました。論理学の三つの区分は、思想および概念(真の姿・真にあるべき姿)からみた区分なのです。
 まず「思想にかんする理論」としてみると、三つの区分は、直接性と媒介性の関係としてとらえることができます。まず有論は事物を直接性においてとらえた思想「直接性における思想」であり、本質論は事物を媒介性においてとらえた思想「反省と媒介とにおける思想」であり、概念論は直接性と媒介性の統一においてとらえた「自己自らへ復帰し全く自己のもとにある思想」です。直接性も媒介性もそれだけでは真理ではないのであり、真理は直接性と媒介性の統一にあります。この意味で概念論は有論と本質論の統一なのです。真の媒介は、六九、七四節で学んだように、自己媒介の自己関係にあります。それがヘーゲルのいう「概念論」における概念(真にあるべき姿)であり、それは「自己自らへ復帰し全く自己のもとにある思想」なのです。
 次に概念の見地からみると、三つの区分は概念の自己展開としてみることができます。まず「有論」は、まだ事物の未発展な、表面的な真の姿、「即自的概念にかんする理論」であり、「本質論」は内面的な事物の真の姿である「概念の対自有」と外面的な「仮象」との関係にかんする理論であり、「概念論」は事物の真にあるべき姿という「即自かつ対自的概念にかんする理論」なのです。

八三節補遺 ── 真理は概念にある

 こうした三区分は、「真に学問的な考察を後に予想するもの」(二五七ページ)であり、こうした区分の正しさは論理学をすべて学び終えてはじめて証明されることになります。
 ヘーゲルは、この三区分の「相互関係」(同)について、「概念がはじめて真実なもの、もっとはっきり言えば、有および本質の真理であり、有と本質とは、切りはなしてそれだけに固執される場合には、真実でないものである」(同)といっています。哲学の最高の究極目的は理想と現実の統一にあり、それを論じるのが概念論ですから、「概念がはじめて真実なもの」となります。
 では概念から始めればいいではないかと思われるかもしれませんが、有論、本質論の理解のうえにたって、はじめて概念が「真実なもの」であることが分かることになりますので、この論理の弁証法的な発展過程が必要なのです。
 「真理は、それが真理であるからこそ、自己が真理であることを確証しなければならないのであって、この確証は、論理学の範囲内では、概念が自己自身によって自己を自己と媒介し、このことによって自己が真に直接的なものであることを示すことにある、と」(同)。
 「有は直接的なもの」(同)であり、「本質は媒介されたもの」(同)です。直接性も媒介性もそれだけでは真理ではなく、真理は直接性と媒介性の統一としての「概念」にあるのです。
 概念(真にあるべき姿)は、自己媒介する自己関係にあることにより、現実に必然的に転化して理念という真理に達するのであり、それによって「自己が真に直接的なもの」、つまり現実を生みだす直接的、絶対的根拠となる真理であることを示すのです。
 「本節に述べた論理的理念の三つの段階の関係を具体的かつ実在的な姿で示せば、それは次のようになる。すなわち、われわれが神によって創られた世界(自然および有限な精神)は、神から区別されるとき真実でないということを同時に承認するかぎりにおいてのみ、われわれは真理である神をその真の姿において、言いかえれば精神として認識するのである」(二五七~二五八ページ)。
 有論、本質論、概念論という「理念の三つの段階の関係」を考えてみると、有論、本質論という「客観的論理学」は、「主観的論理学」としての概念から切りはなされては真実ではないのであり、概念によって生命を与えられる理想の現実化たる客観としてのみ真理となります。概念は、客観世界を真にあるべき姿に変え、生命を与えるものとして、「真に直接的な」真理なのです。
 予備概念の最後に概念と表現すべきところをあえて神と表現しているのも、ヘーゲル哲学の革命性への隠れ蓑としての役割をもっているといっていいでしょう。