第一九講 第一部「有論」①

 

一、「有論」総論

 いよいよ今回から論理学の本論、第一部「有論」に入っていきます。八四、八五節は有論の「総論」に相当する箇所であり、八六節以下が各論として「A 質」「B 量」「C 限度」となります。本来なら「有論」の主題と構成について最初に概括的に紹介すべきところですが、八五節補遺がその役割を担っていますのでいきなり「総論」から学んでいくことにしましょう。
 なおヘーゲルは、抽象的なものから具体的なものへ、低次のものから高次のものへと萌芽から発展していくカテゴリーの進展をカテゴリー自身の運動であるかのように記述していますが、第一講でみたように認識の発展として理解すべきものですので、一言注意しておきます。

八四節 ── 有は即自的な概念

 「有は即自的にすぎぬ概念である。その諸規定は有的であって、それらが区別されている場合には互に他のものであり、それらの本性のより進んだあらわれ(弁証的形式)は他のものへの移行である」(二五九ページ)。
 哲学は前提をもちません。前提をもたない哲学がなぜ「有」から始めるのかについては八六節で述べられていますので、そこまでお預けにしておきます。
 「有」とは事物の真の姿を直接的、表面的にとらえた認識であり、したがって「即自的にすぎぬ概念」つまり、未発展、未展開の真の姿ということになります。
 有の「諸規定」とは、有論の目次に示される「A 質」「B 量」「C 限度」などのカテゴリーを意味しており、これらは後にみるように、有論の最初のカテゴリーである「a 有」、つまり純有を規定した有の規定態です。
 有の規定態は、「有的」つまり「存在するもの」「あるところのもの」としてあらわれ、ある「質」をもった存在「定有」となります。「定有するもの」は「或るもの」であり、この「或るもの」から「区別されている」ものが「他のもの」です。つまり有論では或るものと他のものとの関係が論じられることになります。
 或るものは有の最初の規定態として有限なものですから、八一節で学んだように「有限なもの自身の本性」(二四五ページ)として、「弁証法的」(テキストの「弁証的」は弁証法的の間違い)に発展して「他のものへの移行」となるのです。
 「この進展は、即自的に存在する概念の不断の開示したがってその不断の展開であり、と同時に、有が自己のうちへはいって行くこと、すなわち有が自分自身のうちへ深まって行くことである」(二五九ページ)。
 有の規定態が一つの抽象的なカテゴリーから次のより具体的なカテゴリーへと進展していくにしたがって、未発展、未展開だった有の真の姿が一歩ずつ開示され、明らかになっていきます。それは「即自的に存在する概念の不断の開示」であり、つまり真の姿に向かっての認識の進展です。それを別の側面からみると、有の規定態の進展は有の内部に次第に分け入ってゆき、「自分自身のうちへ深まって行く」ことを意味しています。例えば後に詳しく学ぶように、「或るもの」の内に分け入っていくことにより「或るもの」の有限性と可変性という或るものの真の姿が明らかになっていくのです。
 「有の領域における概念の開示は、一方では有の全体を展開するとともに、他方ではこれによって有の直接性言いかえれば有そのものの形式を揚棄する」(同)。
 有論における質、量、限度という「有の全体」の展開は、「即自的にすぎぬ概念」が、「開示」、展開することを意味しており、その結果有論は自己の限界を越えて「有そのものの形式を揚棄」し、本質論へと移行するのです。ここは有論全体の論理の展開を先取りして概括的に紹介したものです。

八五節 ── 諸カテゴリーは絶対者の諸定義

 「有そのもの、および以下に述べられる有の諸規定、のみならず一般に論理的諸規定全般は、絶対者の諸定義、神の形而上学的諸定義とみることができる」(同)。
 「一般に論理的諸規定全般」、つまり論理学のすべてのカテゴリーが「絶対者の諸定義」であるとは何を意味しているでしょうか。
 一四節で論理学は「絶対者の学」(八四ページ)、つまり絶対的真理をとらえた哲学であることを学びました。その真理性は七九節から八九節で学んだように、対立物の統一という「統体としてのみ存在する」(同)ところにあります。論理学のすべてのカテゴリーは、即自 ── 対自 ── 即かつ対自(即対自)、あるいは肯定 ── 否定 ── 肯定と否定の統一という三分法から構成される「統体」として存在するという意味で、「絶対的真理を諸定義の形式において表現したもの」ということができるのです。
 では諸カテゴリーが「神の形而上学的諸定義」とは何を意味するのでしょうか。これはヘーゲルの隠れ蓑のような気もしますが、絶対者=神であり、予備概念の「客観にたいする思想の第一の態度」で学んだように、形而上学は客観的事物のうちの真なるものを「思想」においてとらえようとしたところから、「神の形而上学的諸定義」とは「絶対的真理を表象のうちにではなく、思想のうちにとらえたものが諸カテゴリーである」という意味でしょう。
 「しかし厳密に言えば、どの領域においても、最初の単純な規定と、差別から単純な自己関係へ復帰したものとしての第三の規定とのみがそうである。というのは、神を形而上学的に定義するとは、神の本性を思想そのものにおいて表現することを意味するのに、論理学は、思想という形式のうちにあるかぎりあらゆる思想を包括するからである。これに反して第二の規定は、差別のうちにある領域であるから、有限なものの定義である」(二五九~二六〇ページ)。
 論理学は有論、本質論、概念論をはじめとし、「どの領域においても」三分法がとられ、即自 ── 対自 ── 即かつ対自という形式がとられています。「最初の単純な規定」とは、未発展の即自態のことであり、「第二の規定」とは、対立の顕在化した対自態を意味し、「差別から単純な自己関係へ復帰したもの」とは、即かつ対自態を意味しています。
 厳密にいえば、絶対者=神の定義とみることができるのは即自態と即かつ対自態のみということができます。なぜなら絶対者=神とは「統体性」ですから、「最初の単純な規定」としての即自態と、第三の「差別から単純な自己関係へ復帰した」即かつ対自態のみが絶対者=神の諸定義とよぶにふさわしいのです。これに対し第二の規定は「差別のうちにある」「有限なものの定義」ですから、絶対者=神の定義にはふさわしくありません。
 しかし論理学は「思想という形式のうちにあるかぎりあらゆる思想を包括する」ものですから、第一、第三の規定のみならず、「第二の規定」も含まざるをえないのです。
 「しかし、定義の形式が用いられると、表象の前に一つの基体が思い浮べられることになる。実際、神を思想の形式および意義において表現すべき絶対者という言葉さえ、その諸述語、すなわち思想における明確で真実な表現と関係させてみるとき、ただ考えられただけの思想、それ自身としては無規定な基体にすぎない」(二六〇ページ)。
 論理的諸規定(カテゴリー)を「絶対者の諸定義」としてみるということは、例えば「絶対者は有である」「絶対者は本質である」「絶対者は概念である」という命題の形式においてとらえることを意味しています。
 三一節で学んだように、命題においては主語が何であるかは述語によって示されることになります。「絶対者は有である」という定義において、絶対者は、「有」という述語によって示されることになりますが、ここでは「有」とは何であるかがまだ全く思想そのものとして示されていない「考えられただけの思想」にすぎませんから、絶対者の定義は内容をもたない「それ自身としては無規定な基体」が表象され思い浮べられるにとどまり、まだ「思想における明確で真実な表現」になっていません。
 なるほど諸カテゴリーは、三分法にもとづく対立物の統一という統体をとらえたものとして「絶対者の諸定義」とよぶことができるのですが、それだけでは何らカテゴリーに含まれる「思想」が説明されたことにはならないのです。
 したがって「絶対者は有である」との定義は、有とは何かというその思想内容の説明による展開を必要としているのです。
 「ここで問題となる唯一の事柄である思想は、述語のうちにのみ含まれているのであるから、命題という形式は、右に述べた主語と同じく、全く余計なものである(第三一節、および後出の判断にかんする諸節参照)」(同)。
 問題は述語のうちに含まれる思想を解明するのが論理学の果たすべき役割ですから、三一節で学んだように、述語の意味を思想的に明らかにしない判断という形式は「思弁的なものを表現するに適しない」(一四二ページ)のであって、「全く余計なもの」にすぎません。
 それにもかかわらず論理学の諸カテゴリーを判断形式にある「絶対者の諸定義」とよんでいるのは、すべてのカテゴリーが対立物の統一としての統体性であることを強調したかったからにほかなりません。

八五節補遺 ── 「有論」の主題と構成

 「論理的理念のどの領域も、さまざまの規定から成る一つの体系的な全体(Totalität)であり、絶対的なものの一表現である。有もまたそうであって、それはそのうちに質、量、および限度という三つの段階を含んでいる」(二六〇ページ)。
 ここのトータリテートは「統体」と訳すべきであって「全体」は誤訳です。また八五節でアプゾルーテン(absoluten)を「絶対者」と訳した以上、「絶対的なもの」も「絶対者」と訳さなければいけません。
 「論理的理念」、つまり論理学のどの領域も「絶対者の一表現」として対立する二つの規定を統一した「体系的な統体」をなすことによって「絶対的なものの一表現」、つまり絶対的真理の一形態となっているのであり、有論もまたそうなのです。有論の質、量、限度は、それぞれ即自、対自、即かつ対自、または肯定、否定、肯定と否定の統一を意味しています。
 一四節で「絶対者の学は必然的に体系でなければならない。というのは、真なるものは具体的なものであって、それは、自己のうちで自己を展開しながらも、自己を統一へと集中し自己を統一のうちに保持するもの、一口に言えば統体としてのみ存在する」(八四ページ)ことを学びました。論理学は、肯定、否定、肯定と否定の統一という構成をとりながらカテゴリーを展開していく萌芽からの発展によって「必然的に体系」として完成されていくのです。その意味ではもっとも下位における「一つの体系的な統体」が次の段階の出発点となり、また肯定、否定、肯定と否定との統一というより上位の「体系的な統体」へという歩みをくり返しつつ、論理学全体が体系化されていくのです。
 「質とはまず有と同一の規定性であり、或るものがその質を失えば、或るものは現にそれがあるところのものでなくなる。量はこれに反して有にとって外的な、無関係な規定性である。例えば、家は大きくても小さくてもやはり家であり、赤は淡くても濃くてもやはり赤である」(二六〇ページ)。
 ここから以降は、有論全体を先回りしてその主題と構成を概観したものとなっています。
 まず「A 質」における「質」とは、有と一体となった有の規定性であり、すべての事物は質をもつことによって、「或るもの」としてあるのです。したがって「或るものがその質を失えば」、或るものは「現にそれがあるところのもの」ではなくなります。
 これに対して「B 量」は、「有にとって外的な、無関係な規定性」です。すべての事物は質とともに量をもっていますが、質がその事物と一体不可分の関係にあるのに対し、量はその事物にとって外側からつけ加えられた「外的な、無関係な規定性」にすぎないのです。例えば家という事物は、床、壁、屋根によって囲まれた人の居住する空間という「質」をもっており、この質を失えばもはや家とはいえなくなるのに対し、その量からすると「大きくても小さくてもやはり家」であり、その大きさ(量)は、家という事物にとって「外的な、無関係な規定性」なのです。同様に赤色という「質」にとって、淡いか、濃いかという赤の「量」は外的規定性にすぎず、「淡くても濃くてもやはり赤」なのです。
 「有の第三の段階である限度は、最初の二つの段階の統一、質的な量である。すべての物はそれに固有の限度を持っている」(二六〇~二六一ページ)。
 すべての事物は、量と質の統一としての限度をもっています。量とはある事物における質と無関係なものであり、したがって質の否定です。質を肯定とすると量はその否定であり、質と量とは肯定と否定という対立する二つの規定の関係にあります。「C 限度」とは質と量という対立物の統一、つまり肯定と否定の統一として「質的な量」なのです。
 すべての事物はその質にふさわしい一定の量をもっており、その量の上限と下限とがその事物の「固有の限度」をなしています。人間にとって仕事(労働)をすることは人間を形成していくうえで本質的要素となっていますが、少なすぎても困るし、多すぎても困ります。仕事にも限度があり、限度を越えると失業か過労死ということになるのです。
 「詳しく言えば、すべての物は量的に規定されており、それがどれだけの大きさを持つかは、それにとって無関係であるが、と同時にしかしこの無関係にも限界があって、それ以上の増減によってこの限界が踏み越えられると、物はそれがあったところのものでなくなる。限度から理念の第二の主要領域である本質への進展が生じる」(二六一ページ)。
 量は質と無関係であって無関係ではないのです。或る事物における量がその事物のもつ「固有の限度」を越えると量の変化は質の変化をもたらし、「物はそれがあったところのものでなくなる」のです。これが量から質への転化といわれるものです。
 こうして第一部「有論」の最後に位置する「限度」が越えられることになると、第一部「有論」はその限度を越えてしまうためもはや有論ではなくなり、第二部「本質論」への「進展が生じる」ことになります。
 「ここに述べた有の三つの形態は、まさにそれが最初の形態であるという理由から、同時に最も貧しい、すなわち最も抽象的な形態である」(同)。
 質、量、限度という有の三つの形態は、事物の表面的な真の姿をとらえる認識の「最初の形態」であり、感覚的にとらえられた思想として「最も貧しい」「最も抽象的な」真の姿なのです。
 「直接的な、感覚的な意識は、それが同時に思惟的な態度をとるかぎり、主として質および量という抽象的な規定にかぎられている。感覚的な意識は、普通最も具体的な、したがってまた最も豊かな意識と考えられているが、それは素材から言ってのみそうであるにすぎず、思想内容から言えば、実際最も貧しく抽象的な意識である」(同)。
 有論における事物の真の姿は、「感覚的な意識」のうちにとらえられる思想であるため「質および量という抽象的な規定にかぎられて」います。一般に「感覚的な意識」は、素材の多様さ、豊かさを反映した「最も具体的な」「最も豊かな意識」と考えられていますが、それは単に「素材から言ってのみそうである」にすぎず、それを純粋な「思想内容」としてみるときには「最も貧しく抽象的な意識」と言わざるをえないのです。

意識の諸形態からみた論理学の構成

 有論が「直接的な、感覚的な意識」であり、「最も貧しく抽象的な意識」であるとすれば、より発展した意識としての本質論、概念論をどういう意識形態としてとらえればよいのかという問題が生じます。
 第一講で論理学は全体として認識論(一部実践論)として理解すべきものであり、有論は事物の表面的な真の姿、本質論は事物の内面的な真の姿、概念論は事物の真にあるべき姿の認識とその実現を論じたものであることをお話ししました。
 真理を認識しようとする認識論からすればそれで十分であるといってもよいのですが、それを意識の諸形態との関連でどうとらえるかはまた別個の問題といっていいでしょう。というのも、哲学の内容となるのは、「生きた精神の領域そのもののうちで生み出され、また現在生み出されつつある内容」(六八ページ)であり、一言でいえば「意識の世界」(同)だからです。
 ヘーゲルは論理学の冒頭に大変長い「予備概念」を置いています。そこでの主題は論理学の課題は真理の認識であることを前提として真理としての「客観的思想」をめぐる諸学説の批判となっています。それと同時にそこでは、感性、悟性、理性という意識の諸形態がいわば副題のようにそれとなく論じられてきました。
 例えば、ヤコービの「直接知」批判のなかで、直接知とは「感性的意識以外の何ものでもなく、われわれがそのような意識を持つということは、最もつまらない認識にすぎない」(二三五ページ)とされました。
 これに対し「古い形而上学は単なる悟性的思惟を出なかった」(一三七ページ)としたうえで、「思惟と言うとき、われわれは有限な、単に悟性的な思惟と無限な、理性的な思惟とを区別しなければならない」(同)と述べています。
 他方カントは「はじめて悟性と理性」(同一七八ページ)を「はっきり区別」(同)したうえで、理念(イデー)が「理性に固有のものであることを明かにした」(同)功績を残しました。
 しかし反面でカントが二元論の立場に立って、「一方では悟性は現象しか認識しないこと」(同二〇六ページ)を認めながら、他方で「認識はそれ以上に進むことはできない」(同)として、理性が無限の真理を認識する能力であることを否定したことをヘーゲルは厳しく批判しました。
 こうした「客観的思想」の批判のうえに、「序論全体」のまとめとして「論理学のより立入った概念」(二四〇ページ)が論じられ、「あらゆる概念あるいは真理のモメント」(同)が、悟性的側面、否定的理性の側面、肯定的理性の側面にあることが明らかにされました。
 こうしてみてくると、ヘーゲルが予備概念にこれだけ多くの紙数を費やしたのも、それが意識の諸形態からみた論理学の構成に関わるものと考えたからということができます。
 要約すると、論理学を意識の諸形態からみた認識としてとらえると、有論は感性的に事物の表面的な真の姿を、本質論は悟性的に事物の内と外とを区別したうえで事物の内面的な真の姿を、概念論は理性的に事物の真にあるべき姿をとらえる認識ということができます。言いかえると、有論は感性的認識、本質論は悟性的認識、概念論は理性的認識としての認識論なのです。したがって「概念がはじめて真実なもの、もっとはっきり言えば、有および本質の真理」(二五七ページ)ということになるのです。
 有論が感性的認識であることは八五節補遺によって明らかですが、本質論が悟性的認識であり、概念論が理性的認識であることは追々に検証していくことにしましょう。

 

二、有論「A 質」の主題と構成

 有論の各論に入ります。八五節補遺で有論全体の主題と構成を学びましたので、ここでは「A 質」の主題と構成を論じておきます。
 「A 質」のうち「a 有」では、無規定の有、純粋な有(単にあるということ)が取り上げられ、純粋な有は純粋な無とともに「成」とよばれる運動一般をあらわすカテゴリーの二つのモメントであることが明らかにされます。つまり成は有と無の統一であり、運動一般をとらえる成は「あると同時にない」としてのみとらえられるのです。
 「b 定有」とは、無規定な有の否定としての、規定された有です。つまり定有とは、規定されることによって、質をもつに至った有です。「a 有」では成という運動一般が論じられるにとどまっており、「A 質」のうちで実際に「質」が論じられているのは、厳密にいうと「b 定有」「c 向自有」のみとなります。
 定有するものは「或るもの」であり、或るものはその質によって限界をもち、したがって有限で、可変的です。或るものがその限界を越えると「他のもの」に移行します。
 「c 向自有」とは、無規定な有(肯定)と定有(否定)との統一(肯定と否定の統一)です。つまり向自有は定有ではありながらも、定有のもつ規定性を揚棄したという意味で無規定の有なのです。言いかえると向自有とは或るものが自己否定を繰り返すことにより自己の限界を越えて無限に発展し、「完成された質」をもつに至った定有を意味しています。「向自有」において有限な定有は「否定の否定」により無限な定有へと揚棄されるのであり、これによって向自有は有限な「A 質」の限界を越え、「B 量」へと移行する架橋になるのです。

 

三、「A 質」 「a 有」(一)

八六節 ── 純粋な有がはじめをなす

 「純粋な有(あるということ)がはじめをなす。なぜなら、それは純粋な思想であるとともに、無規定で単純な直接態であるからであり、第一のはじめというものは媒介されたものでも、それ以上規定されたものでもありえないからである」(二六二ページ)。
 前提をもたない哲学は、何物かによって媒介されることもなく、規定されることもない「無規定で単純な直接態」から始めなければなりません。しかもそれは事物の真の姿をとらえる「純粋な思想」でなければなりません。
 この二つの条件を充たすものが、「純粋な有(あるということ)」なのです。有とは、ドイツ語のザイン、英語のビー動詞のビーであり、何ものかが「ある」、何ものかで「ある」の、「あるということ」です。
 すべての事物は「何ものかがある」または「何ものかである」のであり、単なる「ある」というものは存在しませんから、こういう「純粋な有」は思想のうちにしか存在しない抽象的でかつ空虚な有です。
 「抽象的で空虚な有から学問をはじめることにたいしてなされるかもしれない、あらゆる疑惑と非難は、はじめというものの本性が本来含んでいるものを単に意識することによって片づいてしまう。有は自我=自我、絶対の無差別あるいは同一、等々と規定されることができる。絶対に確実なもの、すなわちそれ自身の確実なものからはじめようとする場合、あるいは絶対に真なるものの定義や直観からはじめようとする場合には、右に述べたような形式やその他それに類する形式が最初のものでなければならないと考えることができる」(同)。
 「純粋な有」、単にあることから哲学をはじめることに対する「あらゆる疑惑と非難」は、それに代わって提起されるカテゴリーを検討してみると直ちに解消されることになります。
 例えば、フィヒテのように有に代えて「自我=自我」、シェリングのように主観と客観との「絶対の無差別あるいは同一」から哲学をはじめると考えてみましょう。これらは誰もが否定できない直観的に「絶対に確実なもの」あるいは「絶対に真なるものの定義」ということもできますので、哲学の出発点と「考えることも」できます。
 「しかしこれらの形態は、いずれもそのうちにすでに媒介を含んでいるから、それらは本当に最初のものではない。けだし、媒介とは第一のものから出て第二のものへ移っていることであり、区別されたものからの出現だからである」(二六二~二六三ページ)。
 しかしこうしたものをはじめとする場合、では自我とは何か、絶対の同一とは何かが明らかにされなければならず、そのためには自我や絶対の同一をこれらのものとは「区別された」他のものによって規定しなければなりません。言いかえるとこれらのものは、これらのものから「区別された」他のものによって媒介される「第二のもの」としてとらえられることにより、もはや「第一のもの」、「はじめ」ではないことになってしまうのです。
 「もし自我=自我や知的直観さえもが、真の意味においてただ最初のものとのみ解されるとすれば、こうした純粋な直接態のうちにある場合、それは有以外の何ものでもない。逆に言えば、もはやこうした抽象的な有ではなく、そのうちに媒介を含んでいる有としての純粋な有が純粋な思惟あるいは純粋な直観である」(二六三ページ)。
 もしこれらのものを真の意味における「最初のもの」、つまり直接的、無媒介的なものと解するとすれば、フィヒテの自我もヤコービのいう「知的直観」としての神も単に「存在するもの」ですから、それはつまり「有以外の何ものでもない」ことになってしまいます。逆にいえば、フィヒテのいう「純粋な思惟」としての自我も、ヤコービのいう「純粋な直観」としての神も、そのうちにすでに「媒介を含んでいる有」であって「純粋な有」とはいえないのです。
 「有が絶対者の述語として言いあらわされると、絶対者は有であるという絶対者の最初の定義が得られる。この定義は思想による絶対に最初の定義であり、最も抽象的で、最も貧しい定義である。それはエレア学派の定義であり、同時にまた、神はあらゆる実在の総括であるという周知の定義でもある。詳しく言えば、われわれはこれによってあらゆる実在物のうちにある制限を捨象し、神を単にすべての実在物のうちにある実在的なもの、すなわち最も実在的なものとするのである」(同)。
 八五節でみたように、諸カテゴリーは「絶対者の諸定義」と考えることができますから、それを有にあてはめると「絶対者は有である」と定義されます。「絶対的真理は、あらゆる事物のうちにある有の原理である」という意味です。
 この定義は、絶対者をはじめて思想のうちにとらえたものとして「思想による絶対に最初の定義」であり、古代ギリシア哲学の「エレア学派の定義」となっています。
 エレア学派の祖・パルメニデスは、「有のみがある」として有を生成もせず消滅もしないもの、全体であって一様なもの、変転せず限定もされぬもの、と理解したのです。有という一者は、一にしてすべてであるという意味で「」とよばれ、これはエレア学派の基本命題となっています。
 ヘーゲルは、エレア学派に学んで「有」というカテゴリーを思想のとらえた最初のカテゴリーとして哲学上に位置づけ、同時に絶対者は有であるという定義を「最も抽象的で、最も貧しい定義」としたのです。なぜなら「最も抽象的」であるために思想的には最も内容のない定義となっているからです。
 また「絶対者は有である」という定義は、絶対者である「神はあらゆる実在の総括である」という「周知の定義」をも意味しています。神はすべての実在物のうちにあって「最も実在的なもの」であり、したがって「あらゆる実在物のうちにある制限を捨象」した無制約、無規定な抽象的有だからです。
 「実在(Realität)はすでに反省を含んでいるから、右の思想はヤコービがスピノザの神について言っている言葉、すなわち、それはあらゆる定有のうちにある有の原理であるという言葉のうちに、一層直接に言いあらわされている」(同)。
 「実在(レアリテート)」という概念は、九一節で学ぶようにすでに媒介性(反省)を含んでいます。したがって「神はあらゆる実在の総括である」との定義を「実在」という媒介されたカテゴリーを含まない直接性としてより正確に表現するならば、神は「あらゆる定有のうちにある有の原理」というヤコービの言葉として言いあらわされることになるでしょう。それはつまり「絶対者は有である」「絶対的真理はあらゆる事物のうちにある有の原理である」というヘーゲルの定義にほかならないのです。

八六節補遺一 ── はじめは「無規定の思想」でなければならない

 「思惟しはじめるとき、われわれは全く無規定の思想しか持っていない。というのは、規定にはすでに一つのものと他のものとが必要であるが、はじめにおいてはわれわれはまだ他のものを持っていないからである」(同)。
 或るものを規定するには他のものをもってしなければならないのであって、「はじめ」においてわれわれはまだ「他のものを持っていない」のですから、「思惟しはじめるとき」は「全く無規定の思想」からはじめなければなりません。
 「はじめにおいてわれわれが持っている無規定的なものは、直接的なものであって、それは媒介をへた無規定、あらゆる規定の揚棄ではなく、直接的な無規定、あらゆる規定に先立つ無規定、最も最初のものとしての無規定である。これをわれわれは有と呼ぶ」(二六三~二六四ページ)。
 「揚棄」(アウフヘーベン)というのはヘーゲル哲学にとって最も重要な概念の一つであり、弁証法的な矛盾の揚棄としての発展を意味しています。詳しくは九六節補遺でお話しすることになります。
 「はじめ」における無規定とは、ゼロという出発点にたった「直接的な無規定」であって、いったん他のものに媒介されながらその媒介を揚棄した直接性としての無規定、つまり「媒介をへた無規定」ではなく、「最も最初のものとしての無規定」であり、それが「有」なのです。これに対して「媒介をへた無規定」の最初の例は、本質論の本質です。
 「われわれはそれを感覚することも、直観することも、表象することもできない。それは純粋な思想であり、かかるものとしてそれははじめをなすのである。本質もまた無規定的なものであるが、しかしそれはすでに媒介をへ、規定を揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる無規定的なものである」(二六四ページ)。
 有とは、「単にある」ということであって、「机がある」「人である」というような或るものと結合した「ある」ではありませんから「直観することも、表象することもできない」のであって、単に思想のうちにしか存在しない、思想でしかとらえられない「純粋な思想」なのです。
 本質も後に本質論でみるように無規定な思想なのですが、有のように「直接的な無規定」の思想ではなく、有によって媒介されながらその媒介を揚棄した「無規定的なもの」なのです。

八六節補遺二 ── 論理的なものと歴史的なもの

 「論理的理念の諸段階は、継起的にあらわれてくる諸哲学体系という形で哲学の歴史のうちに見出され、そしてこれらの体系はそれぞれ絶対者にかんする一つの特殊な定義をその根柢に持っている。ところで、論理的理念の展開が抽象的なものから具体的なものへの進展をなしているように、哲学の歴史においても、最も初期の体系が最も抽象的であり、したがってまた最も貧しい。そして一般に、より先の体系とより後の体系との関係は、論理的理念のより先の段階とより後の段階との関係と同じであって、より後のものがより先のものを揚棄されたものとして自己のうちに含むという関係をなしている」(同)。
 ヘーゲル論理学は思想的には「最も抽象的であり、したがってまた最も貧しい」有というカテゴリーから出発し、次第に具体的でありしたがって思想的内容の豊かなカテゴリーへと前進する萌芽からの発展という形式をもっています。
 ヘーゲルは、そういう「論理的理念」の発展を哲学の歴史をそのまま反映したものだととらえています。いわゆる「論理的なものと歴史的なもの」の弁証法といわれるものであり、論理的な発展の過程は歴史的な発展の過程に対応するということを意味しています。人間個体の受精卵から人間誕生に至るまでの過程は、魚類、両生類、ハ虫類、哺乳類、ヒトに至る歴史的進化の過程をくり返すというヘッケルの「個体発生は系統発生をくり返す」との命題に相当するものです。
 歴史上のもろもろの「哲学諸体系」は、いずれも歴史的・個人的制約のもとにあって「絶対者にかんする一つの特殊な定義」、つまり絶対的真理の特殊な一粒という性格をその根柢にもっています。その特殊歴史的な「論理的理念」には普遍的理念の一モメントが含まれており、「より後のものがより先のもの」のもつ普遍的理念を「揚棄されたものとして自己のうちに含む」ことによって「論理的理念」は抽象的なものから具体的なものへ、内容の貧しいものから豊かなものへと発展してきたのです。
 ヘーゲル論理学もその哲学の歴史を反映して、「より後の」カテゴリーが「より先のものを揚棄されたものとして自己のうちに含むという関係」として構築されています。
 「哲学の歴史を見ると、或る体系が他の体系によって、もっと厳密に言えば、より先の体系がより後の体系によって反駁されており、そしてこのことは非常にしばしば誤解されているが、こうした反駁の本当の意味は、右に述べたような関係にあるのである。或る哲学が反駁されたと言うと、人々は普通それを抽象的に否定的な意味にのみ理解し、反駁された哲学はもはや全く成立せず、それは片づけられてしまったと考える。もしそうであったら、哲学史の研究というものは全く憐むべき仕事と言わなければならないであろう」(二六四~二六五ページ)。
 ここでは反駁とは何かにかんする深い弁証法的考察が展開されており、私たちの日頃の活動に生かしうるものとなっています。すなわち反駁するとは単に相手の主張を頭から否定して片づけてしまうことではなくて、相手の主張の有限性を指摘して批判しつつ、そのなかに含まれている特殊な真理の粒をより普遍的真理の立場から「揚棄されたものとして自己のうちに含む」ことを意味しています。したがって反駁の歴史ともいうべき哲学の歴史は、論理的理念の発展の歴史となっているのです。
 「しかし、あらゆる哲学が反駁されたことを承認しなければならないと同じ程度に、一つの哲学も反駁されなかったし、また反駁されえないと主張しなければならない。このことは二つの意味においてそうであって、一つには、哲学の名に値するあらゆる哲学は、理念一般をその内容として持っているという意味でそうであり、もう一つには、どの哲学体系も理念の一つの特殊な契機あるいは段階の表現であるという意味でそうである」(二六五ページ)。
 哲学の歴史は、あらゆる哲学が反駁されたと同時に反駁されていない歴史です。というのもいやしくも「哲学の名に値する」哲学は、すべて「理念(真理 ── 高村)」の「一つの特殊な契機」をもつにすぎなかったという意味では反駁されると同時に、普遍的真理の一モメントを内容としているという意味では反駁しえない存在だからです。
 「だから或る哲学を反駁するとは、その哲学の制限を踏み越えて、その哲学の特殊の原理を観念的な(理念的な ── 高村)契機へひきさげることを意味するにすぎない」(同)。
 どの哲学も「理念の一つの特殊な契機」をもっています。その哲学を反駁するとは、より普遍的理念(真理)の立場にたって、その哲学が特殊の理念(真理)の段階にとどまっているという制限をもつことを明らかにし、普遍的理念の「一つの特殊な契機」(モメント)へひき下げることを意味しているのです。
 ヘーゲル哲学の諸カテゴリーも、もっとも抽象的で思想的に内容のないカテゴリーである「有」から出発しながら、その「制限を踏み越えて」弁証法的に発展し、次第により具体的な内容豊かなカテゴリーへと前進していきます。いわば、そのカテゴリーのもつ理念の「特殊の原理」をより普遍的な理念のひとつの「契機へひきさげること」を繰り返すことによって、カテゴリーを特殊なものからより普遍的なものへと発展させていくのです。
 したがって哲学の歴史は、「人間の精神が犯したさまざまの過ちの陳列場ではなく、神々の姿のまつられてあるパンテオンに比すべきもの」(同)なのです。
 ヘーゲルは「論理学のはじめが真の哲学史のはじめと同じ」(同)だとして、「真の哲学史」のはじめをエレア学派のパルメニデス(前六~五世紀)に求めています。
 哲学の実際の歴史は、イオニア学派に始まります。彼らは世界の根源的存在を思想のうちにではなく自然に存在するあれこれの物質に求め、例えばターレスは「万物の根源は水である」と考えました。このイオニア学派を一歩前進させたのがピュタゴラス学派であり、彼らは個々の物質ではなく「数」こそが根源的なものと考えました。
 しかし、「数」もまた質と量をもった個物における量という一側面をとらえたものであって純粋な思想をとらえたものではないところから、ヘーゲルはピュタゴラス学派もまだ「真の哲学史」のはじめではないと考えたのです。
 これに対し、パルメニデスは「有のみが有り無は存在しない」(二六五~二六六ページ)として純粋な思想としての「有」をとらえたところから「真の哲学史のはじめ」とされています。
 「かれは、有のみが有り無は存在しないと言うことによって、絶対者を有として把握している」(同)。
 この有というカテゴリーにみられるように「人間が思惟をその純粋性において、しかも真に客観的なものとして把握する」(二六六ページ)までには、実に数千年に及ぶ思惟の成熟を必要としたのです。
 エレア学派に対しては、「有にのみ真理を認め」(同)それ以外の真理を認めないのは、「あまりにいきすぎている」(同)との批判があります。確かに「有の外に存在する」(同)真理があるのは事実ですが、その真理は「有と並んで」(同)存在するのではなく、「本当の関係」(同)は「有は不変で究極のものではなく、弁証法的にその対立物に転化」(同)して「無」(同)となるというように、有から出発しその弁証法的な展開をつうじて他の真理となるカテゴリーをとらえなければならないのです。
 「有は最初の純粋な思想であり、他のどんなものからはじめられようと(例えば、自我=自我、絶対的無差別、あるいは神そのものからはじめられようと)有以外のこれらのものは、最初は単に表象されたものであって、思惟されたものではなく、その思想内容からみれば単に有にすぎないのである」(二六六~二六七ページ)。
 結局純粋な思想を問題とするかぎり、最初の思想は「有」にならざるをえないのです。というのも、それ以外のものは「単に表象されたもの」であって、思惟によってとらえられた思想ではないからです。「一般的に言って、哲学は表象を思想やカテゴリー」(六五ページ)に変えるものであり、最初の「思想」であり、最初の真理となる「カテゴリー」が「有」にほかならないのです。