『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第二一講 第一部「有論」③

 

一、「A 質」 「b 定有」(一)

八九節 ── 定有は成の矛盾の揚棄された統一

 「成のうちにある、無と同一のものとしての有、および有と同一のものとしての無は、消滅するものにすぎない。成は自己内の矛盾によってくずれ、有と無が揚棄されている統一となる。かくしてその成果は定有(Dasein)である」(二七七~二七八ページ)。
 成は、有と無の統一としての運動、変化、発展であり、「自己のうちにおける動揺」(二七四ページ)としての統一です。運動としての消滅は「無と同一のものとしての有」であり、そのうちの有は消滅します。同様に運動としての発生は「有と同一のものとしての無」であり、そのうちの無は消滅します。このように成は有と無の統一であるといいながらも、対立の一方が成のなかで排除され、消滅してしまうという矛盾をもっています。
 成は有と無との統一としてはじめて成であるにもかかわらず、その運動のなかで対立する一方を失い、「自己内の矛盾によってくずれ」てしまいます。
 こうして成の矛盾は揚棄され、有と無とがいずれもそのモメントとして存在し続けるような統一に移行します。それが「自己のうちに動揺を持たぬ統一」(同)としての定有なのです。定有は有の一形式として静止している有をとらえたカテゴリーであり、定有のうちには有と無とが定有の二つのモメントをなしているのです。
 「私は先に第八二節および同節の註釈において、知識の進歩および発展を可能にする唯一のものは、真実の成果をしっかりと保持することであるということを述べておいたが、このことをこの最初の実例においてもう一度だけ注意しておかなければならない」(二七八ページ)。
 八二節で、弁証法は「対立した二つの規定の解消と移行とのうちに含まれている」(二五二ページ)「肯定的な成果を持つ」(同)ことを学びました。
 成のもつ矛盾が解消されることから生じた「肯定的な成果」が定有なのです。成においては有と無の統一は、有または無の消滅を伴う「動揺する統一」という矛盾をもっていたのですが、この矛盾が解消され、有と無の統一が「動揺をもたぬ統一」となっている「真実の成果」が定有なのです。
 その意味で定有は、成のもつ矛盾の解消から生まれた「肯定的な成果」の「最初の実例」なのです。
 「一般に、矛盾、すなわち対立する二つの規定が指摘されえないような、また指摘されずにすませるようなものは一つもないのであって、悟性の抽象的態度は、一つの規定だけを無理に固執し、その規定のうちに含まれているもう一つの規定の意識を曇らせ遠ざけようとする努力であるが、人々は普通、対象や概念のうちにこのような矛盾を発見し認識すると、そこから、『ゆえにこの対象は無である』という結論をくだす。かくして運動が矛盾であることを最初に指摘したゼノンは、『ゆえに運動は存在しない』と言っており、また、成の二種類である発生と消滅とが真実の規定でないことを認識した古代の人々は、そのことを、一者すなわち絶対者は発生もせず消滅もしないという言葉で言いあらわしている」(二七八ページ)。
 「矛盾、すなわち対立」としていることに注目してください。第一八講で矛盾とは対立物の相互排斥であることを学びましたが、ヘーゲルは、矛盾を対立の一形態と考えています。詳しくは一二〇節で学ぶことになります。矛盾と対立とは厳密に区別すべきだとの考えがありますが、対立物の相互浸透としての「対立」は対立物の相互排斥としての「矛盾」に移行するものであって、対立と矛盾とを動かしがたい対立においてとらえるのは形而上学でしかありません。
 この世の中に対立、矛盾をもたないものは何ひとつ存在しません。それなのに悟性は、「一つの規定だけを無理に固執」し、対立、矛盾の存在は「真実の規定でない」ことを証明するものであると考えました。
 ヘーゲルはカントのアンチノミー批判をつうじて、対立、矛盾は「あらゆる種類のあらゆる対象のうちに、あらゆる表象、概念、および理念のうちに見出される」(一八六ページ)ことを明らかにすることによって弁証法的論理学を確立する偉大な功績を残しました。それを可能にしたのは哲学史の徹底的な研究だったのです。「有のみがあり無は存在しない」(二六五~二六六ページ)との悟性の立場にたったエレア学派のゼノンは、「運動が矛盾である」ことに気づき、「ゆえに運動は存在しない」といったのです。運動を否定した「ゼノンの逆説」については一〇〇節でお話しすることになります。彼らは発生と消滅という「成の二種類」について、それらは無から有への移行、有から無への移行という矛盾であるがゆえに真実でないとして否定し、「一者すなわち絶対者は発生もせず消滅もしない」といったのです。
 「このようにこの弁証法は成果の否定的な側面にのみ立ちどまって、同時にその現存しているもの、特定の成果を見落すのである。ここで言えば、それは、無そのものではあるが、有を自己のうちに含んでいる無であり、同様に無を自己のうちに含んでいる有である」(二七八ページ)。
 エレア派の弁証法は、「成果の否定的な側面」に立ち止まり、矛盾の解消、揚棄から生まれる対立物の統一という「特定の成果」を見落としたのです。彼らは単に発生を無から有への移行とみて「無そのものではあるが、有を自己のうちに含んでいる無」とみようとせず、消滅を単に有から無への移行とみて「無を自己のうちに含んでいる有」としてとらえようとしないのです。
 「かくして ⑴ 定有はそのうちで有および無の直接性が消滅し、関係によって両者の矛盾が消滅しているような、有と無の統一、そのうちで両者がモメントであるにすぎないような統一である。⑵ この成果は揚棄された矛盾であるから、それは自己との単純な統一という形式のうちにあり、言いかえれば、それ自身一つの有、と言っても否定性あるいは限定性を持つ有である。それは、成のモメントの一つである有の形式のうちに定立されている成である」(二七八~二七九ページ)。
 成における有と無の矛盾を止揚する成果としての定有とは何を意味しているのでしょうか。
 一つには、定有とは「自己のうちに動揺を持たぬ統一」(二七四ページ)であり、そのうちに有と無を定有のモメントとしてもつような統一だということです。つまり成も定有もどちらも有と無の統一でありながら、成は運動であるのに対し、定有は静止なのです。定有のうちにあって、有および無は「直接」的でありかつ相互に排斥しあう「矛盾」としてではなく、定有のモメントとして相互補完的な調和的「関係」として定立されているのです。
 二つには、成の矛盾の揚棄は「自己との単純な統一という形式」をもつ「一つの有」、つまり定有となるのです。定有は一つの有とはいっても「否定性あるいは限定性」という無のモメントをもつ有です。したがって定有は、「有の形式のうちに定立されている」有と無の統一としての「成」ということができます。定有という有の形式には、有と無がそのモメントとして含まれているのです。 

八九節補遺 ── 定有は成の成果

 本節で成における有と無の矛盾は揚棄されて、定有という「成果」をもつことを学びました。
 なぜ成が「単なる成にとどまらず、成果を持つにいたるか」(二七九ページ)という論理の展開をもう少しみてみることにしましょう。
 「成は自己のうちに有と無とを含んでおり、しかもこの二つのものは成のうちで端的に転化しあい、相互に揚棄しあっている。したがって成は全く休止を知らぬものである。しかしそれはこのような抽象的な無休止のうちに自己を維持することはできない。なぜなら、有と無とは成のうちで消失し、そしてこのことがまさに成の概念なのであるから、成は、材料を焼きつくすことによってそれ自身も消える火のように、それ自身消失するものであるからである」(同)。
 成のうちにおける有と無とは、無から有に、有から無にと「端的に転化しあい」、成は「全く休止を知らぬもの」です。それでは成はいつまでも「抽象的な無休止のうちに自己を維持する」、つまりいつまでも運動し続けることができるのかといえばそうではありません。というのも無から有に移行すれば無は消滅し、有から無へ移行すれば有は消滅してしまいます。成は有と無があってこそ成なのであり、その対立する一方が消滅してしまえば「材料を焼きつくすことによってそれ自身も消える火のように」成という運動も消失してしまい、静止したものとしての定有に移行するのです。
 「しかしこの過程の結果は空虚な無ではなく、否定と同一の有である。このような有をわれわれは定有と呼ぶ。そしてそのまず明かにされた意味は、それが成ったものだということである」(同)。
 「否定と同一の有」とは、規定された有として「否定性をもっている有」という意味であり、本節にいう「否定性あるいは限定性を持つ有」と同じものです。成が「消失する」とは、成が揚棄されることであって「空虚な無」となることではありません。成という運動そのものが揚棄されて、定有という否定性をもった静止した有、「否定と同一の有」と成るのです。つまり成は、定有と「成った」のです。

九〇節 ── 定有とは質をもつ有

 九〇節から九五節までは、三つの観点から定有とは何か、がさらに展開されて論じられます。
 「 (イ) 定有とは、直接的な、あるいは有的な規定性 ── すなわち質 ── としてあるような規定性を持つ有である。このような自己の規定性のうちで自己のうちへ反省したものとしての定有が、定有するもの、或るものである。 ── 定有に即して自己を展開する諸カテゴリーについては簡単にのみ述べておく」(二八〇ページ)。
 まず第一に定有とは、「規定性を持つ有」、規定された有です。純粋な有とは、単に「ある」という無規定の有であったのに対し、定有とは「何物かである」という規定された有なのです。
 「何物かである」ということは、或る質をもった有であることを意味しています。質については本節の補遺で論じられます。「直接的な、あるいは有的な規定性」とは、定有における「規定性」が有と直接結合している、有と一体となった規定性であることを意味しています。
 定有が「自己のうちへ反省」すると、「定有するもの、或るもの」となります。「何物かである」から、「或るものである」となるのです。「自己のうちへ反省する」とはヘーゲル独特の言い回しですが、ここでは定有が「自らを更に展開して規定する」と理解すればいいでしょう。
 訳者註(同)にあるように、反省(リフレクシオーン)とは反射であり、相手のところにいって「曲りもどる」(同)ことです。定有が自己の規定を自己のうちにとらえ返すという意味を込めて「自己のうちへ反省」するといっているのです。もちろんこれは認識がとらえ返すのであって、定有が自己のうちにとらえ返すのではありませんが、例えば八四節で即自的な概念の不断の開示は「有が自己のうちにはいって行くこと、すなわち有が自分自身のうちへ深まって行くこと」(二五九ページ)と述べているように、事物に対して外的な認識としてではなく、事物に即して認識が深まっていくことをこのように表現しているのです。
 以下にみるように、定有のカテゴリーは更に「自己を展開」していくことになります。

九〇節補遺 ── 質とは或るものを現にそれがあるところのものにするもの

 「質は有と同一な、直接的な規定性であって、この点で、質の次に考察される量とはちがう。量も同じく有の規定性であるが、しかしそれはもはや有と直接に同一な規定性ではなく、有にたいして無関心な、有に外的な規定性である」(二八〇ページ)。
 有の「直接的な規定性」には、質と量とがあります。質は「有と同一な」、有と直接結合していて有と一体不可分の規定性です。これに対して量は「有と直接に同一な規定性」ではなく、有から分離しうる、有と無関係な「有に外的な規定性」です。
 「或るものが現にあるところのものであるのは、その質によってであり、或るものがその質を失うとき、それは現にあるものでなくなる」(同)。
 質とは、或るものを現にそれが「あるところのもの」とするものであり、或るものがその質を失えば「それは現にあるものでなくなる」のです。その意味で質は「有と直接に同一な規定性」です。これに対して或るものにおける量は、それが一定の範囲内で増減しても或るものは「現にあるもの」にとどまるという意味で、「有に外的な規定性」なのです。
 「更に質は本質的にただ有限なもののカテゴリーであり、それゆえにまた精神の世界ではなくて自然のうちにのみ、その本来の場所を持っている。かくして例えば自然において、酸素、窒素、等々、いわゆる単純物質は現存する質と考えられる。これに反して精神の領域においては、質は単に従属的な仕方においてのみあらわれ、精神のどんな特定の形態でも、それが質によって尽くされるということはない」(二八〇~二八一ページ)。
 質は「有と直接に同一な規定性」であり、後に詳しく学びますが、規定されることによって限界をもつ「有限なもののカテゴリー」です。
 ヘーゲルは、精神は無限であるのに対し、自然は有限であると考えています(現在ではもちろん自然も精神と同様に無限なものと考えるべきものでしょう)。したがって有限な質は「自然のうちにのみ、その本来の場所を持っている」のに対し、精神の領域において質は「単に従属的な仕方においてのみあらわれ」るといっています。その例として、自然における「酸素、窒素、等々」の「単純物質は現存する質」と考えられるのに対し、「主観的精神」としての「性格」(二八一ページ)は、主観的精神(魂)を規定したものとして精神の質といえなくもないのですが、「魂に滲透し、魂と直接に同一の規定性」(同)とまでいうことはできず、魂に従属したものでしかありません。魂と性格とは一体不可分の関係にあるとまではいえないので、精神における「質は単に従属的な仕方においてのみあらわれ」ているのです。
 このように精神の領域では「精神のどんな特定の形態でも、それが質によって尽くされるということはない」のです。精神においてとりわけ質がはっきりあらわれるのは、「精神が不自由な、病的な状態にある場合にかぎられている」(同)と述べているのは面白いところです。本来無限な精神は「病的な状態にある場合」にのみ有限なものとなり、質をもつというわけです。

九一節 ── 定有は否定性をもつことによって実在性

 「質は、有るところの規定性としては ── これは、質のうちに含まれてはいるが質から区別されている否定性に対峙するものであるが ── 実在性(Realität)である。否定性はもはや抽象的な無ではなく、一つの定有および或るものとして、或るものの形式にすぎない。すなわち、それは他在としてある」(同)。
 定有は、「有るところの規定性」、つまり質をもつ有としては「実在性(レアリテート)」、実在するものです。つまり実在性をもつ具体的な事物は、すべて何らかの質をもっている有、定有なのです。
 これに対して定有のうちに含まれている「否定性」つまり無は、「もはや抽象的な無」ではなく、或るものは「他在」ではない、他のものではないという「或るものの形式」にすぎません。
 つまり定有するものとしての或るものは、実在性としての有と他のものではないという無との統一として有と無の統一なのです。
 「この他在は質そのものの規定であるけれども、最初は質から区別されているから、質は向他有であり、これが定有、或るものの幅をなしている。このような他者への関係に対して、質の有そのものは即自有である」(二八一~二八二ページ)。
 定有における「他在」は、実は「質そのものの規定」なのです。つまり或るものを或る質をもったものとして規定することは、他のもの(他の質をもったもの)ではないと規定することです。したがって他のものではないという「他在は質そのものの規定」なのです。
 しかしこの定有における他在は「最初は質から区別され」、「向他有」としてとらえられます。これに対して定有するものにおける実在性は、「質の有そのもの」として「即自有」とよばれます。つまり或るものの質そのものが即自有なのです。向他有は或るものの上限と下限をなすものであり、したがって「或るものの幅」をなしています。
 いわば即自有は定有するものの肯定的側面、有の側面であるのに対し、向他有はその否定的側面、無の側面となっているのです。
 例えば紐という定有は、物を束ねまたは結びつなぐ太い糸という「即自有」をもっています。他方で紐とは下限において糸ではなく、上限において綱でもないという「向他有」をもっており、紐はこの向他有において糸でもなければ綱でもないという「幅」をもっているのです。

九一節補遺 ── あらゆる規定は否定である

 「あらゆる規定性の基礎は否定である(スピノザが言っているように、あらゆる規定は否定である)。無思想な観察者は、規定された事物を単に肯定的なものとのみ見、そしてそれを有の形式のもとに固持する。しかし単なる有で万事が終るのではない。というのは、有は、先に述べたように、全く空虚であると同時に不安定なものだからである」(二八二ページ)。
 スピノザは「あらゆる規定は否定である」として規定の本質を見事にとらえました。或るものを或るものとして規定することは、或るものを他のものではないとして他のものから区別することですから、「規定性の基礎は否定」なのです。「無思想な観察者」はそれをみようとせず、「規定された事物を単に肯定的なもの」としてのみ考え、それを単なる「有の形式のもとに固持」し、有と混同します。しかし「単なる有」、単にあるということは、規定されない有ですから実在性をもちません。したがって「全く空虚であると同時に不安定なもの」なのです。これに対して定有は規定されることによる否定性によって実在性をもち、現に存在する具体的なものとなるのです。
 三六節補遺で、古い形而上学の「神は最も実在的な存在」(一五三ページ)という定義は「否定性が排除されているために……最も貧しいもの、全く空虚なもの」(同)であることを学びました。その意義はここではじめて明らかにされるのです。
 「なお、右に述べたような、規定された有としての定有と抽象的な有との混同には正しい点もある。すなわち、定有のうちには否定のモメントが含まれているにはちがいないが、それは最初は言わばおおわれたものとして含まれているにすぎず、それが自由にあらわれ出て正当な権利に達するのは向自有においてである」(二八二ページ)。
 このような「無思想な観察者」による定有と純粋な有との混同には「正しい点も」あります。というのも、純粋な有と違って定有には「否定のモメントが含まれて」はいるのですが、それは「他のものではない」という形で「言わばおおわれたものとして含まれている」にすぎず、その否定のモメントは思想のみがはじめてとらえることができるからです。そのため定有も有もいずれも「単に肯定的なもの」にみえてしまうのです。定有における否定のモメントが有から区別され「自由にあらわれ出て正当な権利に達する」のは向自有のカテゴリーにおいてですが、向自有の否定性については、向自有のところで学ぶことにしましょう。
 「更に、定有を有るところの規定性と見れば、われわれは定有において、人々が実在性という言葉のもとに理解しているものを持つ。人々は例えば、或る計画や意図の実在性という言葉を用い、それによって、それらがもはや単に内的なもの、主観的なものではなく、定有のうちへあらわれ出ていることを意味させている」(同)。
 一般に人々が実在性とよんでいるものは、「有るところの規定性」、つまり質をもってあらわれ出たものという意味での定有にほかなりません。例えば「或る計画や意図の実在性」という言い方にみられるように、実在性とは、内的なものが外的なもの、主観的なものが客観的なものとしてあらわれ出た定有なのです。その意味で「肉体を魂の実在性、法律を自由の実在性」(同)、「世界を神的概念の実在性」(同)とよぶことができます。
 生命体にとって魂は内的目的性であり、その目的に沿って自己の肉体を環境に適合するようにつくり変え、「肉体を魂の実在性」とします。同様に、民法も刑法も「自由の実在性」ということができます。民法上の契約は自由な意志をもつ二つの人格が自由な意志にもとづき合意することから、権利と義務が発生します。また刑法では、法が禁止していることをあえて自由な意志で侵すところに処罰の根拠があるのです。このように民法でも刑法でも、法律は内的な自由意志が外的なものとしてあらわれでた「自由の実在性」なのです。
 また神は世界を創造するというかぎりで、世界は神の実在性といえます。
 「しかし実在性という言葉はよくまたもう一つの意味、すなわち、或るものがその本質的な規定すなわち概念にかなっているという意味に用いられている。……この場合問題になっているのは、直接的な、外的な定有ではなくて、むしろ定有するものとその概念との一致である。しかし、実在性という言葉がこのように解される場合には、それはもはや、その最初の姿が向自有においてみられるところの観念性(Idealität)と区別されない」(二八二~二八三ページ)。
 実在性という言葉には、現にあらわれ出た定有、「直接的な、外的な定有」という意味のほかに、定有するものがその概念(真にあるべき姿)に一致した存在であるというもう一つの意味があります。二四節補遺二で、哲学的意味の真理は概念と存在との一致であることを学びました。この概念と存在の一致は一般的には理念とよばれていますが、実在性には理念と同様の意味もあるのです。したがってこの場合の実在性は、向自有のもつイデアリテート(「観念性」ではなく理念性と訳されるべき)と同様の意味で使用されています。これも向自有のところで学ぶことにしましょう。

九二節 ── 或るものは規定されることにより有限で可変的

 「 (ロ) あくまで規定性とは異るものと考えられた有、すなわち即自有は、有の空虚な抽象にすぎない。定有においては規定性は有と一体をなしており、この規定性が同時に否定として定立される場合、それが限界、制限である。したがって他在は定有の外にあって定有と無関係なものではなく、定有そのもののモメントである」(二八三ページ)。
 第二に、定有は質をもつことによって「限界」をもつ有限で可変的な存在だということです。
 ここにいう「即自有」は九一節の「即自有」とは異なり、「規定性とは異なるものと考えられた有」、つまり無規定の純粋な有のことであり、それは或るものの「有の空虚な抽象」にすぎません。
 この純粋な有に対し定有とは規定された有であり、定有の規定性が否定性、つまり向他有として定立される場合、それは「限界、制限」となります。
 ヘーゲルは、ここでは「限界」と「制限」とを同じものとしてとらえていますが、『大論理学』では両者を区別し、制限を「制限と当為」という一対のカテゴリーとして使用しています。或るものがその限界を越えて他のものに移行しようとするとき、或るものの「限界」は或るものにとって「制限」となり、その「制限」を突破しようとする働きが「当為」(ゾレン、まさにかくあるべし)とよばれています。
 『資本論』では、資本が剰余価値の生産を規定的目的とし、より多くの剰余価値を「当為」として求め、資本の持つ様々の「制限」を打ち破って発展し、同時に資本としての矛盾を深めていく論理が貫かれています。その意味でも限界と制限のカテゴリーは区別したうえで、制限と当為のカテゴリーとして保存した方がよいでしょう。
 それはともかく、向他有という他在は、定有の外にあるのではなく、「定有そのもののモメント」として定有の限界をなしているのです。
 「或るものはその質によって第一に有限であり、第二に可変的であって、或るものの有には有限性と可変性とが属する」(同)。
 ここは大変重要なところです。或るものは、規定されることによって限界をもち、限界をもつことによって有限となり、有限であるがゆえに未来永劫そのままの姿にとどまることはできず可変的なのです。
 八一節で、否定的理性の側面は「有限なもの自身の本性」(二四五ページ)であり、同補遺で「有限なものは……自分自身の本性によって自己を揚棄し、自分自身によって反対のものへ移っていく」(二四六ページ)ことを学びました。本節と同補遺では、更に一歩論理をすすめて、有限なものの本性はなぜ可変的なのかを検討しようというのです。
 いずれにしても、定有において「運動一般」の一形態である「変化一般」が「可変性」としてとらえられていることに注目してください。

九二節補遺 ── 限界の弁証法

 「定有においては否定性はまだ有と直接的に同一であり、そしてこのような否定性こそ、われわれが限界と呼ぶものである。或るものは、その限界内においてのみ、また限界によってのみ、現にそれがあるようなものである。したがって限界は、定有に単に外的なものと考えらるべきではなく、それは定有全体を貫いているのである」(二八三~二八四ページ)。
 定有における否定性は、向自有のそれとは異なって定有のうちにおおわれている「まだ有と直接的に同一」な否定性、質と直接的に結びついた否定性であり、この否定性が限界なのです。つまり定有のうちにあって、肯定的なもの(即自有、質)と否定的なもの(向他有、限界)は、区別されていると同時に同一の関係にあるのです。
 或るものは、「その限界内においてのみ」存在し、また「限界によって」他のものから区別され、「現にそれがあるようなもの」としてあることができます。その意味で限界は定有にとって「単に外的なもの」ではなく、定有と一体となって「定有全体を貫いている」ものなのです。
 「ここでわれわれが問題としているのはまず質的限界である。例えば三モルゲンの土地を考えれば、これは土地の量的限界である。しかしさらにこの土地は牧場であって森あるいは池ではない。これが土地の質的限界である」(二八四ページ)。
 定有の限界として問題にしているのは、定有のもつ質としての限界、質的限界であって、後に「定量」で学ぶ量的限界ではありません。限界を越えて或るものから他のものに移行することは、或る質をもったものから、他の質をもったものに「変化」することを意味しているのです。
 「人間は、現実的に存在しようとするかぎり、定有しなければならない。そしてこの目的のために自己を制限しなければならない。有限なものをあまりに嫌悪する人は、少しも現実に到達することなく、抽象的なもののうちにとどまって、自分自身のうちで消えてしまう」(同)。
 八〇節補遺で「理論の領域におけると同じように、実践の領域においても悟性は欠くことのできないもの」(二四二ページ)であり、何か偉大なことをしようとする者は「自己を限定することを知らなければならない」(同)ことを学びました。
 定有するものは限界をもつことによって「現実的に存在」し、実在性をもつのです。言いかえれば人間が「現実的に存在しよう」と思えば、「自己を制限」して「定有しなければならない」のです。何でもなしたがる者は「少しも現実に到達することなく」、また何もなしとげられず「自分自身のうちで消えてしま」います。
 「さらに限界というものを立ちいって考察してみると、限界はそのうちに矛盾を含み、したがって弁証法的であることがわかる。限界は一方では定有の実在性をなし、他方ではその否定性である。しかし更に、或るものの否定性としての限界は、抽象的な無一般ではなく、存在している無、言いかえれば、われわれが他のものと呼んでいるものである」(二八四ページ)。
 ここで、有限なものが可変的であることが、限界の弁証法として示されています。限界は「そのうちに矛盾を含」んでいます。どういう矛盾かというと、一方で限界は「定有の実在性」をなし、定有が実在する根拠を与えながら、他方で限界は定有の実在性を「否定」するのです。どのように否定するのかといえば、限界において定有はすでに潜在的に他のものであることによって定有の実在性が否定されるのです。
 いわば限界において定有は実在性をもつと同時に実在性を否定されるという矛盾をもち、この矛盾によって有限な定有は揚棄され、変化するのです。
 「或るものと言えば、われわれはすぐに他のものを思いつく。そしてわれわれは、或るものだけでなく、他のものもまた存在することを知っている。しかし他のものとは単にそうしたものではない。或るものは、他のものなしにも考えられるというようなものではなく、或るものは即自的にそれ自身の他者であり、或るものの限界は他のものにおいて客観的となるのである」(同)。
 「或るもの」に対立するカテゴリーは「他のもの」です。しかし或るものと他のものとは媒介のない対立におかれているわけではありません。或るものと、他のものとは限界を媒介に区別されているとともにまた同一となっているのです。したがって或るものは、他のものなしに考えることはできません。或るものはその可変性によって「即自的にそれ自身の他者」であり、即自的な(潜在的な)他者性は、或るものの限界において「客観的」となり顕在化するのです。
 カジノ資本主義の破綻により「資本主義限界論」が唱えられています。カジノ資本主義は、モノづくりにより富を生みだす本来の資本主義ではなく、マネーゲームで富を再分配しようとするギャンブル資本主義として、資本主義であって資本主義ではないのです。その意味でカジノ資本主義は資本主義の限界を示すものとなっています。
 「他の或るものと言う場合、われわれはまず、或るものは、それだけとれば、単に或るものにすぎず、それが他のものであるという規定は、単に外的な考察によってのみそれに属するようになるのだと考える。かくしてわれわれは、例えば、太陽とは別な或るものである月は、太陽がなくても有りうると考える。しかし実際(或るものとしての)月は、それの他者をそれ自身に即して持っているのであり、そしてこのことが月の有限性をなしているのである」(二八五ページ)。
 或るものと他のもの(他のあるもの)との関係は、或るものにとって他のものは単なる外的な関係だと考えられがちなのですが、そうではなく、或るものはその他者を「それ自身に即して持っている」のです。「それ自身に即して」というのは、或るものは、その限界を越えると他のものとなりますが、どんな他のものとなるかは、或るもの「自身に即して」きまってくることを意味しています。例えば、月と地球との引力のバランスが崩れると月は地球に落下して月でなくなるのであり、この場合月の「他のもの」は地球ということになり、逆に月が地球からはなれて太陽に吸収されれば、その場合の「他のもの」は太陽となるでしょう。これに対して本質論では、或るものと「それ自身に即し」た他者との関係ではなく、或るものとその「固有の他者」(㊦二八ページ)との関係が反省関係(対立)としてとらえられるようになってきます。
 「プラトンは言っている。神は世界を一者と他者の性質から作った。神は両者を結合して両者から一者と他者の性質を持つ第三者を作ったと。 ── この言葉は一般に有限なものの本性を言いあらわしている」(二八五ページ)。
 プラトンは、神は「一者と他者の性質を持つ第三者を作った」といいましたが、或るものは、そのうちに或るものと他のものとを含む「第三者」とみることができますから、プラトンの言葉は「一般に有限なもの」である定有するもの、或るものの本性を言いあらわしているのです。
 「有限なものは、或るものとして他のものに無関係に対峙しているのではなく、即自的に自分自身の他者であり、したがって変化するものである。変化において、即自的に定有に属し、そして定有を自己を超えて追いやるところの内的矛盾があらわれる」(同)。
 有限なものは、「即自的に自分自身の他者」を含み、自分自身と即自的な(潜在的な)自分の他者との「内的矛盾」のなかで変化するのです。
 「この定有の可変性は、表象には、その実現が定有そのものにもとづいていない単なる可能性と思われている。実際はしかし、変化するということは、定有の概念のうちに含まれているのであって、変化は定有が即自的にそうであるものの顕示にすぎない」(二八五~二八六ページ)。
 感性的にしか理解しない(「表象」する)人は定有の可変性を「単なる可能性」と考えていますが、そうではありません。規定された有という「定有の概念」は、その限界において他のものをもっているところから限界を越えて他のものに「変化する」ということが潜在的に含まれているのであって、変化はその顕在化にすぎないのです。
 「生あるもの」(二八六ページ)が死ぬのは、生あるものの概念のうちにそれ自身に即した他のものとしての「死の萌芽を担っている」(同)からにほかなりません。