『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第二二講 第一部「有論」④

 

一、「A 質」 「b 定有」(二)

 前講で、定有とは何かの二つ目の観点として、定有は規定された有として有限であり、可変的であることを学びました。
 本講では「b 定有」の二つ目の観点の続きである有限と無限の弁証法を経て、第三の観点である有限なもののうちの無限である「c 向自有」へと進展していきます。

九三節 ── 或るものから他のものへの無限進行

 「或るものは他のものになる。しかし他のものは、それ自身一つの或るものである。したがってこれも同じく一つの他のものになる。かくして限りなく続いていく」(二八六ページ)。
 定有するものである「或るもの」は、変化をそれ自身のうちに含むものとして「他のもの」に移行します。それは或る質を持ったものから他の質を持ったものへの移行であり、他のものもまた一つの質という限界をもつものとして「それ自身一つの或るもの」です。いわば或るものから他のものへの移行は質的変化を意味するにすぎず、或るものの変化から生じた他のものも、一つの質をもつ有限なものという意味では或るものと何ら異なるところはないのです。
 したがって或るものから生まれた他のものも、また「一つの或るもの」として「同じく一つの他のもの」へと変化するのであり、こうして有限な定有は有限なものから有限なものへと限りなく質的変化を続けていくことになります。

九四節 ── 有限なものの無限進行は悪無限

 「この無限は悪しきあるいは否定的な無限である。というのは、それは有限なものの否定にほかならないのに、有限なものは相変らず再び生じ、したがって相変らず揚棄されていないからである。別な言葉で言えば、その無限は有限なものの揚棄さるべき(Sollen)ことを言いあらわしているにすぎない」(同)。
 こういう有限なものから有限なものへの無限進行を、ヘーゲルは悪しき無限、「悪無限」と呼んで「真無限」から区別しています。それは有限なものの否定であるにもかかわらず、そこから生じてくるものは相変らず有限なものであり、どこまで行っても有限なものを揚棄して無限なものに達することはできないから、悪無限とよばれているのです。
 悪無限は自己のもつ有限性の限界を乗り越えようとする「当為(Sollen)」としてありながら、単にゾレンにとどまって有限性を乗り越えることができず、無限なものになりえない無力なものなのです。
 こうして有限なものの無限進行は、有限なものを揚棄したものとしてではなく「揚棄さるべきこと」を表現しているにすぎないのです。
 「この果しない進行は、有限なものが含んでいる矛盾、すなわち有限なものは或るものであるとともに、またその他者であるという矛盾を言いあらわすにとどまる。それは、相互に誘致しあう二つの規定の果しない交替である」(同)。
 九二節で有限なものの可変性を学びました。有限なものがなぜ変化するのかといえば、それは自己のうちに「或るものであるとともに、またその他者である」という矛盾をもっているからです。
 有限なものの無限進行は、この矛盾によって有限なもののうちで或るものから他のものへ、またその他のものから別の或るものへという「相互に誘致しあう二つの規定の果しない交替」をいいあらわしているのです。

九四節補遺 ── 悪無限と真無限

 本節でみたように、有限なものの無限進行は、有限なものは自己のうちに矛盾を含んでいることによって「揚棄さるべきこと」を表現しているにすぎません。
 「反省はここで非常に高いもの、否、最高のものに達したと思う。しかしこうした限りない進行は真の無限ではない。真の無限は、他者のうちにあって自分自身のもとにあることにあり、あるいは、これを過程として言いあらわせば、他者のうちで自分自身へくることにある」(二八七ページ)。
 ここの「反省」とは、悟性的認識という意味でしょう。「反省」は、有限なものの無限進行こそ無限なものであり、「最高のものに達した」と思うかもしれません。しかし無限進行は、有限性を揚棄しえない悪しき無限(悪無限)にすぎないのであって「最高のもの」としての「真の無限」(真無限)ではありません。
 では、真無限とは何か。それは有限なものが自己を否定することによって自己の他者となりながら「自分自身のもとにある」ということを意味しています。つまり有限なものが同じ一つの質としての自己同一性を保ちつつ、その質のなかで無限に自己否定をくり返し自己発展するという、自己の有限性を揚棄する無限の「過程」そのものが、真無限なのです。その自己発展の過程を「他者のうちで自分自身へくる」といっているのです。
 「真無限の概念を正しくとらえ、そして果しない進行というような悪無限に立ちどまらないということは、非常に重要なことである。空間および時間の無限について語る場合、人々が常に拠りどころとしているのは無限進行である」(同)。
 無限を論じるからには、悪無限に立ちどまらないで、真無限にまで到達することが「非常に重要」です。なぜなら、悪無限は有限なものから逃れようとして「絶えず同じことが繰返される」(同)退屈な仕事にすぎないからです。「空間および時間の無限」について、それらを悪無限としてとらえることは、空間、時間とは何かについて正面から向き合うのではなく、それから逃れようとする態度にほかなりません。
 「われわれは、一つの限界を立て、それを越え、次にまたしても限界を立てるという風に、何時までも同じことを続けていく。したがってここに見出されるものは、常に有限なもののうちに立ちどまっている表面的な交替にすぎない。このような無限のうちへ歩み出ることによって有限なものから解放されると思うのは、その実逃げることによって解放されると思うにすぎない。逃げる者はまだ自由でない。逃げる者は逃げながらなお、かれがそこから逃げるものによって制約されているからである」(二八七~二八八ページ)。
 有限なものから有限なものへの無限進行は「常に有限なもののうちに立ちどまっている表面的な交替にすぎない」のであり、無限進行は有限なものから解放されたいとして有限なものから逃げているのです。しかし「逃げる者はまだ自由」ではないのであって、悪無限は有限なものから逃げることによって有限なものに「制約されて」おり、有限なものから「自由」になれないのです。
 ヘーゲルは、必然性(法則性)との関係で自由をとらえることにより大きな功績を残しました。
 彼は『法の哲学』において、もっとも端初的な自由を「否定的な自由、ないしは悟性の自由」(前掲書五節)ととらえました。それは客観における必然性、法則性に背をむけ、それから逃避する自由です。確かにこれも自由の一形態ではあります。しかし「逃げるものは逃げながらなお、かれがそこから逃げるものによって制約されている」のであって、まだ本当に自由ではありません。こうしてヘーゲルは、必然性との関係における自由を否定的自由、形式的自由、必然的自由、概念的自由の四段階に分けて考察し、段階を経ることによって次第に真の自由である概念的自由に向かって発展していくことを明らかにしたのです(一四五節補遺参照)。
 「哲学はそのような空虚で単に彼岸的なものは問題としない。哲学が取扱うのは常に具体的なもの、絶対に現存的なものである」(二八八ページ)。
 六節で「一口にいえば哲学の内容は現実である」(六八ページ)ことを学びました。有限なものの無限進行とは、どこまでいっても有限なものから解放されず、無限にはけっして到達しえない「空虚で単に彼岸的なもの」にすぎません。哲学は、こんな到達しえない「彼岸」にある悪無限は問題とせず、「此岸」にある「絶対的に現存的なもの」としての真無限のみを問題にするのです。「哲学が取扱うのは常に具体的なもの、絶対に現存的なもの」というところにも、ヘーゲル哲学の本質が唯物論にあることが示されています。
 「人はまた哲学の任務を、無限なものがいかにして自分自身の外へ出る決心をするかという問題に答えることにあるとしている。この問は、無限と有限との動かしがたい対立という前提にもとづいているから、それに答えるには、このような対立は真実でなく、無限なものは実際永遠に自分の外に出ているとともに、また永遠に自分の外に出ていないのだ、と言えばたりる」(二八八ページ)。
 無限なものが「自分自身の外へ出る」とは、有限なものの外へ出るということでしょう。一般に「哲学の任務」は、一般に無限と有限とを「動かしがたい対立」においてとらえたうえで、有限なものはいかにして無限なものに移行しうるのかに答えることだとされています。
 これに対してヘーゲルは、有限と無限の真理は有限と無限という対立物の統一としての真無限にあり、真無限において無限なものは有限なものの「外に出て」いるとともに、有限なもののうちにあって「永遠に自分の外に出ていない」というのです。つまり真無限とは、有限なものが無限に自己否定を繰り返すという意味では有限なものの「外に出て」いると同時に、有限なもののうちにおける無限として「永遠に自分の外に出ていない」のです。
 「更に、われわれが無限とは有限でないものであると言う時、われわれはすでに実際において真理を言いあらわしているのである。というのは、有限なものはそれ自身第一の否定であるから、有限でないものは否定の否定、自己と同一な否定であり、したがって同時に真の肯定であるからである」(同)。
 真無限は、自己同一性を保ちつつ、自己否定を繰り返すことによって無限に発展するもの、例えば「自我」(二九三ページ)を意味しています。その意味で「自己と同一な否定」です。
 したがって真無限を「無限とは有限でないもの」としてとらえる表現も一面の「真理を言いあらわして」います。というのも、真無限は有限なものの自己否定ですから、「無限とは有限でないもの」といいうるからです。
 有限なものの自己否定による無限の発展は「否定の否定」による「真の肯定」です。有限なものは「他のものではない」という「第一の否定」であり、したがって有限なものの否定は「否定の否定」としての肯定ですが、単なる肯定ではなく、有限なものが無限の自己否定を繰り返してらせん型に発展し、その真にあるべき姿に到達する「真の肯定」なのです。
 「ここに述べられた反省の無限は、真の無限に到達しようとする単なる試み、不幸な中間物にすぎない。これは、一般的に言って、近代のドイツにおいて勢力を得た立場である。それは、有限なものは揚棄さるべきこと、無限なものは単に否定的なものにとどまらず、また肯定的なものであるべきことを説く。このべしのうちには常に、或るものが正しいと認められながらも自己を実現しえない無力がある」(二八八~二八九ページ)。
 「反省の無限」とは、悪無限を「非常に高いもの、否、最高のもの」(二八七ページ)ととらえる悟性的な立場です。ヘーゲルは、この立場を、「真の無限に到達しよう」と試みながら到達しえなかった「不幸な中間物」であると批判しています。というのもこの立場は、一つには「有限なものは揚棄さるべきこと」、二つには無限なものは最高のものとして「肯定的なものであるべき」という二点において正しい問題意識をもちながらも、有限なものを揚棄した肯定的なものとしての真無限には到達しえない「不幸な中間物」にとどまったからです。無限なものは「肯定的であるべし」との「べし」のうちには「正しいと認められながらも」肯定的なものに到達しえない「無力」さが込められているのです。
 「カントおよびフィヒテの哲学は倫理にかんしてこのようなべしの立場に立ちどまっていた。理性的法則への果しない接近が、このような方法で達せられる極限であった。そしてこうした要請の上に魂の不滅が基礎づけられたのである」(二八九ページ)。
 ヘーゲルは、理想(理性)と現実との統一、つまり主観と客観の統一にこそ真理があると考えました(六節)。これに対しカントやフィヒテの哲学は、道徳(倫理)にかんして単なる当為(べし)の立場、つまり悟性的立場にたって、理性と現実とを切りはなし、現実は「理性的法則」、つまり理性、理想には限りなく接近しながらもそこには到達しえないという立場にとどまりました。
 同様に「魂の不滅」の立場からイデア論を展開したプラトンも、イデア(理念)をかかげながらも、単なる「べし」の立場にたって、イデアを現実の彼岸としてとらえたのです。

九五節 ── 定有から向自有(真無限)へ

 「 (ハ) ここに実際見出されることは、或るものが他のものになり、そしてこの他のものが一般にまた他のものになるということである。或るものは、他のものとの関係のうちで、それ自身すでにこの他の物にたいして一つの他のものである。したがって両者は他のものであるという同一の規定を持つにすぎず、或るものが移っていくところのものは、移っていく或るものと全く同じものであるから、或るものは他のものへ移っていくことによって、ただ自分自身と合するのである」(同)。
 定有とは第一に質をもつ有であり、第二に質をもつことによって限界をもつ可変的な有であることを学んできましたが、第三に本節で定有の真無限は向自有であるとして、定有から向自有への移行の論理を学ぶことになります。
 或るものは他のものに移行し、さらに「この他のものが一般にまた他のもの」に移行します。しかし或るものにとって、他のものの他のものと言えば、或るものということもできます。こういう或るものが他のものとなり、その他のものが自己のうちに反省して(折れ返って)或るものと合する(「ただ自分自身と合する」)ものが、定有の真無限なのです。
 「このように移行および他者のうちで自分自身と関係することが真の無限である。あるいは、否定的にみれば、変化させられるものは他のものであり、それは他のものの他のものになる。このようにして有が否定の否定として復活させられる。この有が向自有である」(同)。
 定有する或るものは有限なものであり、可変的なものです。その可変性が他のものに移行するのではなく、自己のうちに折れ返る変化が「真の無限」なのです。言いかえると有限な或るものが、自己を否定して他のもの(別の自己)となり、更にその他ものを否定する否定の否定によって、有限な或るものという自己同一性を保ちつつ、自己をらせん型に無限に発展させていくのです。それが真無限としての「向自有」です。
 エンゲルスは「否定の否定の法則」(全集⑳三七九ページ)を弁証法の三法則の一つとしてとらえています。しかも「矛盾による発展または否定の否定」(同)として、矛盾による発展と否定の否定とを同一視しています。
 しかし、否定の否定とは、或るもののもとにおける自己同一性を貫く真無限の発展であるのに対し、矛盾による発展は或るものの内部の矛盾により、或るものからより高度の質をもつ他のものへの発展であって、同じ発展ではあっても両者は区別すべきものであると考えます。また、発展の一般的法則は矛盾による発展としてとらえられるべきものであり、「否定の否定の法則」を三つの基本法則の一つとして位置づけることにも疑問を感じます(拙著『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』一粒の麦社、参照)。
 「有限と無限との対立を克服しがたいものとする二元論は、次のような簡単なことをみのがしているのである。すなわち、このようにすれば、無限は二つのもののうちの一つにすぎなくなり、したがって無限なものは一つの特殊なものとされ、それに対して有限なものがもう一つの特殊をなしている、ということである」(二八九~二九〇ページ)。
 このように真無限とは、有限なもののうちにおける無限です。したがって「有限と無限との対立」を絶対化し、有限を此岸に、無限を彼岸におく二元論は正しくないのです。この二元論は、一方では無限なものは「有限なものにその制限、限界をもっている」(二九〇ページ)とすることにより無限なものを有限なものに変えてしまうと同時に、他方で有限なものを無限なものと「同等の存立」(同)ととらえることにより「絶対的な存在」(同)に変えてしまうのです。
 このように有限と無限とを同列におく二元論は、無限なものを有限なものにすると同時に、有限なものを無限なものとして絶対化してしまうという二重の誤りをおかすものであり、「最もありふれた悟性的な形而上学の立場を一歩も出てはいない」(同)のです。
 「真の無限は無限者と有限者との統一」
(二九一ページ)と一応は表現しうるのですが、それで本当によいのかといえば、それもまた「一面的であり誤っている」(同)のです。
 「というのは、このような表現においては、有限なものがそのままにしておかれるようにみえ、有限者は揚棄されたものであることが明白に表現されていないからである」(同)。
 真無限においては、有限者は有限者でありながらも自己を揚棄して無限者になるのであって、真無限とは有限と無限の統一と表現するしかないのですが、その内容はこのようにとらえなければなりません。
 また有限と無限の統一というと、酸とアルカリの中和のように、有限のみならず無限も変化するものと誤解されるおそれがありますが、揚棄されるのは有限者だけであり「無限者は肯定的なもの」(二九二ページ)として「自己を保持する」(同)のです。
 「向自有において観念性(Idealität)という規定がはいってくる。定有は、まずその有あるいは肯定の方面からのみとらえられた場合、実在性を持っているから(九一節)、したがって有限性もまた最初は実在性の規定のうちにある。しかし有限者の真理はむしろその観念性(理念性 ── 高村)にあるのである」(同)。
 このイデアリテートも、九一節補遺のイデアリテートと同様に「観念性」ではなく、「理念性」と訳されるべきでしょう。
 定有は九一節で学んだように、規定された有として「実在性」をもっています。したがって定有の「有限性」も最初は「実在性の規定のうちに」あります。しかし有限者は無限に自己否定をくり返す向自有となることによって、その真にあるべき姿(理念性)に到達するのであり、「有限者の真理はむしろその理念性にある」のです。
 向自有のカテゴリーでは、有限者が無限に自己否定をくり返し、真にあるべき姿に到達するという意味において「理念性という規定がはいってくる」のです。
 「有限者の観念性(理念性 ── 高村)は哲学の主要命題であり、したがってあらゆる真の哲学は観念論(理念論 ── 高村)である」(同)。
 有限者の真にあるべき姿、理念を探究することは「哲学の主要命題」であり、「真の哲学」はこの理念を求める理念の学でなければなりません。ヘーゲルが自己の哲学を「絶対的観念(理念 ── 高村)論」(一七九ページ)と称するゆえんです。

 

二、「A 質」 「c 向自有」

九六節 ── 向自有は自分自身に関係する一者

 向自有とは、無限に発展することによって定有の有限性を揚棄した定有であり、それは一と多の統一としてとらえられることが九六節から九八節で論じられています。
 「 (イ) 向自有は、自分自身への関係としては直接性であり、否定的なものの自分自身への関係としては向自有するもの、すなわち一者である。一者は自分自身のうちに区別を含まないもの、したがって他者を自己から排除するものである」(二九三ページ)。
 第一の論点は、向自有とは一者であるというものです。一と多のカテゴリーは古い歴史をもっています。ヘラクレイトスは、世界は多様にみえても根源は一つだという意味を込めて「一にして全(ヘン・カイ・パン)」といいました。プラトンは、この「一」をイデア(真にあるべき姿)としてとらえ、多様な個物をイデアの模写、似姿としての「多」としてとらえました。
 ヘーゲルはこのプラトンの一と多を念頭におきつつ、向自有のカテゴリーで一と多を論じ、向自有を質から量への移行を媒介するカテゴリーとしてとらえたのです。
 定有における無(「否定的なもの」)の側面は、「他のものではない」という向他有としてあらわれ、定有が他のものに媒介された存在であることを学びました。
 これに対して向自有も定有と同様に有と無の統一なのですが、向自有における「否定的なもの」は他のものに関係する否定性ではなく、「自分自身への関係」としての自己否定なのです。
 九一節補遺で、向自有において否定のモメントが「自由にあらわれ出て正当な権利に達する」(二八二ページ)ことを学びました。向自有とは他者に媒介されず、自己否定、自己媒介により自己関係を保持するものであり、定有と異なって否定のモメントが顕在化しており「自由にあらわれ出て」いるのです。
 向自有するものは、自己媒介による自己否定であって、他者による媒介を必要としないから「他者を自己から排除」し、ただ一人で自立して存在する「一者」なのです。

九六節補遺 ── 向自有は完成された質として実在性の真理

 「向自有は完成された質であり、そのようなものとして有および定有を観念的モメントとして自己のうちに含んでいる。向自有は、有としては単純な自己関係であるが、定有としては規定されている。しかしこの規定性はもはや、他のものから区別されている或るものにみられたような有限な規定性ではなく、区別を揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる無限な規定性である」(二九三ページ)。
 向自有は、有と定有の統一です。すなわち向自有は自分自身にのみ関係する「単純な自己関係」としては有のモメントをもつと同時に、「規定され」た有としては定有としてのモメントを「自己のうちに含んでいる」のです。しかもこの規定性は、「他のものから区別」されるという「有限な規定性」ではなく、「区別を揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる無限な規定性」なのです。
 つまり、向自有は、自己の「真にあるべき姿」に向かって無限に自己否定をくり返し、らせん型の発展をつうじて「真にあるべき姿」に到達する「完成された質」なのです。
 「向自有の最も手近な例は自我である。われわれは、定有するものとして、自分がまず他の定有するものから区別され、そしてそれに関係していることを知っている。しかしわれわれは更に、定有のこの拡がりが、言わば尖らされて向自有という単純な形式となることを知っている」(同)。
 「向自有の最も手近な例」は、自由な意志をもつ独立の人格としての自我です。自我は「他の定有する」人格から「区別され」、主体としての同一性を保ちつつ自由な意志により無限に自己否定をくり返し発展する人格として、「無限であると同時に否定的な自己関係の表現」(同)として、向自有の好例となっています。
 ヘーゲルは『法の哲学』において、自我は制限され規定された自我を「観念的なものであると知る」(前掲書第七節)ことにあり、規定されたあり方にしばられないところに意志の自由があるといっています。
 定有するものは、質をもつものとして「向他有」(二八一ページ)という「幅」(同)をもっています。これに対し向自有は、他のものによって規定されるのではなく、自己媒介により自己否定する定有ですから、定有の横への「拡がり」に対して縦に「尖らされて」いるのです。つまり自己否定をくり返す自己関係として無限に「完成された質」へと「尖らされて」いくのです。
 「更に、定有は実在性であるが、向自有は観念性と考えられなければならない。……観念性の概念は実在性の真理であることにあり、実在性が即自的にあるところのものとして定立されるとき、それは観念性として自己を示すのである」(二九四ページ)。
 言わば、定有の「観念性(理念性 ── 高村)」が向自有なのです。つまり定有という実在性をもつものが無限に自己を否定し、自己を揚棄して、その理念にまで高まっていくものが向自有なのです。したがって向自有は「実在性の外部に実在性と並んで存在する或るもの」(同)ではなく、定有の真理、「実在性の真理」(同)として定有の概念なのです。
 ヘーゲルは、真にあるべき姿を概念としてとらえており、概念はヘーゲル哲学の最重要のカテゴリーとなっています。しかしヘーゲルは、概念がどこからどのように発生するのかについて「本質論」の最後で分かりにくく論じてはいるものの、「概念論」では正面から論じてはいません。そのためヘーゲルは「イデオロギー的なさかだち」(全集㉑二九七ページ)をしており、「自然および歴史のなかに現われる弁証法的発展」(同)を「概念の自己運動のつまらぬ模写にすぎない」(同)ととらえたというエンゲルスの批判を受けてきました。
 実際にはこの向自有のカテゴリーをつうじて、概念が「実在性の真理」であること、つまり実在性のなかから実在性の真にあるべき姿という概念が「実在性の真理」として生じてくることがさりげなく述べられており、概念論の伏線となっていることに注目しておく必要があります。いわば革命の哲学を覚られないように、概念論では概念とは何かを故意に分かり難く論じているのですが、よく読めばこの「向自有」において、概念とは客観的事物のなかに潜在する客観的事物の真にあるべき姿であることが分かるように配慮されているのです。
 ヘーゲルは、自然と精神の関係について、自然は実在性であり、自然の真にあるべき姿をとらえた精神は「自然を揚棄されたものとして自己のうちに含むかぎりにおいてのみ」(二九四~二九五ページ)本当に精神なのだといっています。ですから『エンチクロペディー』では、自然哲学の後に精神哲学がくるという構成になっています。その意味で「自然は精神のうちではじめてその目標および真理に到達する」(二九四ページ)のです。
 ここで「揚棄」という言葉の解説がなされています。揚棄(止揚)とは矛盾の解決としての発展を意味しており、「論理学」全体をつうじて多用されているヘーゲルにとってもっとも重要な概念の一つです。原語はアウフヘーベン(aufheben)であり、アウフヘーベンは一方で「除去する」(二九五ページ)、「否定する」(同)という意味と同時に「保存する」(同)という意味があり、この言葉のうちに、「単に悟性的な『あれかこれか』を越えているドイツ語の思弁的精神を認識しなければならない」(同)と述べています。
 矛盾の解決としての発展とは消極的な部分を否定し、肯定的部分を保存するという二つの側面の統一としてより高い質となることを意味しているのです。
 これまでの形式論理学では、矛盾はあってはならないものとして矛盾に消極的な意義しか見出さなかったのに対し、ヘーゲルは矛盾こそあらゆる自己運動の原動力であり、矛盾は揚棄(止揚)されることによって事物に発展をもたらすと考え、弁証法的論理学を確立していったのです。

九七節 ── 向自有(一者)は多を反発する

 「 (ロ) 否定的なものが自己へ関係するということは、否定的に関係するということであり、したがってこれは一者が自己を自己自らから区別すること、一者の反発、すなわち多くの一者の定立である。向自有するものが直接的であるという面からみれば、これら多くの一は有的なものであり、そして有的な多くの一の反発は、そのかぎりにおいて、存在するものとしてのそれらの相互的反発、あるいは相互的排除である」(二九五~二九六ページ)。
 第二の論点は、向自有は一と多の統一だというものです。
 向自有における自己否定とは、「一者が自己を自己自らから区別すること」です。いわば自我がこれまでの自我の有限性を制限と感じ、当為を求めてこれまでの自己をくり返し否定し、自己変革するのです。それを自我という「一者の反発、すなわち多くの一者の定立」としてとらえているのです。つまり自己否定、自己変革をくり返す過程をつうじて多くのタイプの自我(多者)を定立していくことになります。
 その意味で向自有は、一者と多者、一と多の統一です。一者の反発としての多者は、いずれも自我の否定として、「相互的反発、あるいは相互的排除」の関係におかれます。

九七節補遺 ── 反発(多)は牽引(一)である

 一に対立するカテゴリーは多です。では「多はどこから由来するか」(二九六ページ)といえば一に由来するのであり、「一という思想のうちには、自己を多として定立するということが含まれている」(同)のです。
 この意味で「向自有する一」(同)は、多との関係を含んでいるのであり、一と多の関係は或るものと他のものとの関係ではなく、「自分自身へ関係する」(同)のです。いわば、向自有する一者は「自己を自己から突きはなす」(同)のであり、こうして定立された自己が「多」なのです。
 したがって自立する一者としての向自有は、自己を否定し、自己に「反発」することによって多者としての自己を定立するのです。
 「しかし多の各々は、それ自身一である。各々がこのようなものとして振舞うことによって、この全面的な反発は、それと反対のもの、牽引に転化する」(二九六~二九七ページ)。
 自我から反発して定立された「多の各々」もまた自我にほかなりません。したがって反発により定立された多者も自我という一者に牽引されることになり、反発は牽引に転化するのです。

九八節 ── 質から量への移行

 「 (ハ) しかし多くのものは互に同じものである。各々は一であり、あるいはまた多のうちの一である。したがってそれらは一にして同じものである。あるいは、反発そのものをみれば、それは、多くの一が互に否定的な態度をとるのであるから、同時にそれらが本質的に関係することでもある。そして一がその反発において関係するものは、諸々の一であるから、一は、それらのうちで自分自身に関係するのである。したがって、反発は同時に本質的に牽引である」(二九七ページ)。
 第三の論点は、向自有というカテゴリーは、質から量への移行を媒介するカテゴリーだというものです。
 分かりにくい論理になっていますが、要するに自我の自己否定、つまり自己の反発から生まれた多くのものもまた自我にほかならないから、結局は反発されたものもすべて「自分自身に関係」し、自我に牽引されることになるので、反発は同時に牽引だというのです。
 「かくして排他的な一あるいは向自有は揚棄される。一のうちでその即自かつ対自的な規定態に達した質的規定性は、これによって揚棄された規定性としての規定性へ移ったのである。言いかえれば、量としての有へ移ったのである」(同)。
 向自有は「完成された質」(二九三ページ)です。それは規定された有、定有でありながら、自己媒介による自己関係により、もはや質のもつ有限性を止揚した定有です。こうして向自有において、質は揚棄されることにより「量としての有へ移った」のです。
 ヘーゲルは、この量から質への移行の論理を、一と多、牽引と反発のカテゴリーを使って展開しています。すなわち向自有は、「完成された質」、つまり「即自かつ対自的な規定態に達した質的規定性」です。しかしこの完成された質は、一と多(牽引と反発)であり、一と多はもはや質としての規定性を失った「揚棄された規定性としての規定性」として、質そのものを揚棄しているのです。かくして向自有のカテゴリーをつうじて、質から質の揚棄としての量に移行するのです。いうまでもなく、一と多のカテゴリーの主要な舞台は量にあり、量のなかで一は連続量に、多は非連続量に転化して量を支える中心的カテゴリーとなります。
 「アトム論は、絶対者を向自有、一、および多くの一とみる立場である。そしてそれらの根本力としては、やはり一という概念においてあらわれる反発が想定されている。しかしそれらを一緒にするものは牽引ではなくて偶然、すなわち無思想なものである」(二九七ページ)。
 アトム論も、一と多の弁証法ですべての物質をとらえようとする立場です。ヘーゲルはこのアトム論が一と多を反発と牽引の関係においてとらえず、多の結合を「偶然、すなわち無思想なもの」にしてしまっていると批判しています。
 ヘーゲルは、ルソーの人民主権論を念頭におきつつ、「アトム論的見地は、……政治学において一層重要になっている」(二九八ページ)としています。ルソーはアトムとしての「個人の意志そのものが国家の原理」(同)になっていると考え、個々人が各人の権利を守るために契約をして国家をつくったとする「社会契約説」にたちました。ヘーゲルは、国家は普遍的実体であり単なる一の結合としての多ではないとしてこの見解に批判的であり、ルソーの『社会契約論』について「普遍である国家そのものは、契約という外的な関係」(同)になっていると批判しています。

九八節補遺一 ── 物質は斥力と引力の統一

 アトム論は、「理念の歴史的発展の本質的な一段階」(同)をなしています。というのも、物質を一と多の統一という「思想」としてとらえようとしているからです。アトム論は自然を思想へ還元する形而上学の一種ですが、「諸アトムを集合するものは偶然である」(二九九ページ)と考えた点において「正しい形而上学でない」(同)と、ヘーゲルは批判しています。
 これに対して、カントは「物質を斥力と引力との統一」(同)とみることによって「完全な物質観」(同)を与える「功績」(同)を残しました。しかしカントは、牽引と反発を向自有のカテゴリーから論理的に導き出すのではなく、「斥力と引力とを無雑作に現存するものとして要請」(同)するという不十分さを残したのです。

九八節補遺二 ── 量は揚棄された質

 普通の意識は、質と量とを「相並んで独立に存立している二つの規定」(三〇〇ページ)としてとらえていますが、そうではなくて、「質の弁証法」(同)により、質は揚棄されることによって量に移行するものととらえなければなりません。
 「われわれは最初に有を持ち、その真理として成が生じた。成は定有への過渡をなし、定有の真理は変化であった。変化の成果としてあらわれたものは、他者への関係および移行を免れた向自有であった。最後に、この向自有は、その過程の二つの側面をなす反発および牽引のうちで、それがそれ自身の揚棄であること、したがって質一般、質の諸モメント全体の揚棄であることを示した」(三〇〇~三〇一ページ)。
 この補遺二は、「A 質」全体のまとめとなっており、「質の弁証法」によるカテゴリーの進展によって、有、成、定有、向自有を経て、質は揚棄され、量に移行する必然性が示されていると述べています。
 この「揚棄された質」が、量にほかなりません。s量は、質と異なり「規定性に無関心な有」(三〇一ページ)です。量が変化しても事物は「あくまでもとのまま」(同)であり、量は、事物の質にとって「無関心で外的な規定性」(同)にすぎないのです。