『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第二三講 第一部「有論」⑤

 

一、「B 量」の主題と構成

 九八節補遺二で、普通の意識からすると、「質と量とは、相並んで独立に存立している二つの規定」(三〇〇ページ)のように思われていますが、哲学にとって重要なことは、この質と量のカテゴリーが「どこから由来し、また相互にどんな関係を持つか」(同)を明らかにすること、つまりすべてのカテゴリーを与えられたものとして前提とするのではなく、そのカテゴリーの必然性を萌芽からの発展として明らかにするところに哲学の課題があることを学びました。
 その回答として、まず有と「直接に同一な規定性」(二八〇ページ)としての質のカテゴリーが登場し、次いで「質の弁証法」(三〇〇ページ)に導かれつつ、質を揚棄した量のカテゴリーが登場することが明らかにされました。
 質が「有と同一の規定性」(二六〇ページ)であったのに対し、量は「有にとって外的な、無関係な規定性」(同)です。つまり量は、増減しても一定の範囲内にあるかぎり、有には何の影響も与えない「有にとって外的な」規定性なのです。
 「B 量」は「a 純量」「b 定量」「c 度」に区分されます。これは「A 質」の「a 有」「b 定有」「c 向自有」の区分に対応するものです。「A 質」の有は純有、定有は規定された有、向自有は規定性を揚棄した定有として一者であり、真無限の定有でした。これに対応して「B 量」も、純量、規定された量としての定量、規定性を揚棄した定量としての度は一者としての内包量であり、真無限の定量としてとらえられます。
 「純量」とは無規定の量です。量は一(牽引)と多(反発)の統一ですが、純量においてはそれが連続量と非連続量の統一として展開されることになります。
 「定量」とは規定された量です。定量における連続量(一)は単位、非連続量(多)は集合数としてあらわれます。定量は単位と集合数の統一として示され、その統一の諸形態が四則計算(加減乗除)を形づくることになります。
 「度」とは純量と定量の統一です。度は向自有に対応するものとして規定された定量ではありながらもその規定性を揚棄した定量として、純量と定量の統一ということができます。
 度は向自有と同様に「一者」の側面をもっています。一者としての度は、温度、湿度、密度などの「内包量」であり、「量のなかの質」ともいうべきものです。
 他方真無限としての度は、比です。比は比の両項の値が無限に変化しても比の値には変化がないところから、比を有限なものにおける無限性、つまり真無限としてとらえているのです。
 度において、内包量、比という「量のなかの質」が回復することにより、量は止揚され「限度」へと移行することになります。

 

二、「B 量」 「a 純量」

九九節 ── 量は有に無関係な有の規定性

 「量は、規定性がもはや有そのものと同一なものとしてでなく、揚棄されたものあるいは無関心なものとして定立されている純有である」(三〇一ページ)。
 量も質と同じく有の規定されたもの、有の規定性です。同じ有の規定性ではあっても、質は「有そのものと同一な」規定性です。或るものの「有」と、或るものが質を持つという「有の規定性」とは同一であり、或るものは或るものとしての質をもつことにより或るものとしてあるという関係にあります。
 これに対して量の規定性は、「有そのものと同一なものとしてでなく」、有(質)を「揚棄」したもの、有(質)に対して「無関心なものとして定立」されているような「純有」です。つまり量とは質を揚棄することにより、質に無関係なものとなった有なのです。純量は、まだ規定されていない単なる量という意味で「純有」とよばれています。
 八五節補遺で学んだように、或るものがその質を失えば「現にそれがあるところのものでなくなる」(二六〇ページ)のに対し、量は「これに反して有にとって外的な、無関係な規定性」(同)であり、「家は大きくても小さくてもやはり家」(同)なのです。
 ヘーゲルは、一般におこなわれているこの量の定義と異なる三つの定義を挙げ、それを批判しています。
 「 ⑴ 大きさという言葉は、主として一定の量をさすから、量をあらわすには不適当である」(三〇二ページ)。
 「量とは大きさ」である、と定義することもできるかもしれません。しかし「大きさ」とは「主として一定の量」、つまり規定された量を意味していますから、純量という無規定の量の定義としては正確とはいえません。 
 「 ⑵ 数学は普通大きさを増減しうるものとして定義している。この定義は、定義さるべきもの自身を再び含んでいるから、きわめて不十分ではある。しかしこの定義のうちにも、量的規定とは、可変的でありかつ無差別的なものとして定立されているような規定であり、したがって量的規定の変化、すなわち外延量あるいは内包量の増大にもかかわらず、事物、例えば家はあくまで家であり、赤はあくまで赤であるという思想を含んではいる」(同)。
 数学では、量を定義するに当たって「大きさ」を持ちだし、「大きさとは増減しうるもの」であると定義しています。しかしこの定義によると、では「増減しうる」とは何が増減するのかが問い返されることになり、それは大きさであると回答することになりますから、この定義には「定義さるべきもの自身を再び含んでいる」のであって、「きわめて不十分」といわざるをえません。
 しかしこの定義は、量は質と同じく「可変的」ではあっても質と異なり「無差別的なものとして定立されている」、つまり可変的ではあっても質に関して「無差別」、無関係であるという点をとらえた正しい側面をもっています。一〇三節で学ぶように、定量には外延量と内包量とがありますが、どちらの場合についてもとりあえず量的変化は質に無関係なのです。
 「 ⑶ 絶対者は純粋な量であるとする立場は、大体において、絶対者に質料の規定を与え、質料には形式が見出されはするが、形式は質料に無関係な規定であると考えるのと同じである。また絶対者は絶対に無差別なものであって、あらゆる区別は量的にすぎないと考えられている場合にも、量が絶対者の根本規定をなしているのである」(同)。
 本質論で学ぶように物は、質料と形式の統一としてとらえることができます( 一二九節)。質料とは、原材料のような無規定なものであり、それに規定性を与えるものが形式となります。「絶対者は量である」との立場は、「絶対者である質料にとって形式は量である」とする考えと同様に理解することができます。というのも、質料にとって形式は「無関係な規定」だからです。
 しかしこの定義は、質料と形式というカテゴリーを前提に量を定義しようというものですから、前提をもたない哲学にとっては、とうてい認めることはできません。
 同様に「絶対者は絶対に無差別なものであって、あらゆる区別は量的にすぎない」ということもできます。絶対無差別の絶対者にとって、唯一の区別をもたらす量は「絶対者の根本規定をなしている」からです。しかし、この定義も同様に多くの前提をもちすぎています。
 したがってこの三つの定義は、量とはどんなものかを例示するものにはなりえても、量とは何か、量は何に由来するカテゴリーなのかを明らかにすることはできないのです。
 「その他純粋な空間、時間、等々も、それを充たしている実在的なものが空間および時間に無関係なものとされているかぎり、量の実例と考えることができる」(同)。
 以上みてきたように、量とは、それに対立する質、質料、絶対無差別などと無関係でかつ可変的なものです。
 したがってニュートンの絶対時間、絶対空間のように、「実在的なもの」に対して時間・空間が「無関係なもの」とされるのであれば、絶対時間、絶対空間を「量の実例と考える」ことができます。しかし相対性理論によって、物質の運動から切りはなされた絶対時間、絶対空間の存在は否定されているので、現代においてはもはやこれらは「量の実例」ということはできません。 

九九節補遺 ── 数学における量の定義批判

 本節でみたように、数学では「大きさとは増減しうるものである」との定義がなされています。
 一見するとこの定義は、ヘーゲルの定義よりも「明白で尤もらしいようにみえ」(同)ます。
 しかし「よく考えてみると」(同)、この定義は質の弁証法により「論理的展開の道によって明かになった」(同)量とは質を揚棄した、質と無関係な有というヘーゲルの定義を「前提および表象の形で含んで」(同)いるのです。というのも数学的定義では、大きさ、「より正しく言えば量」(三〇三ページ)とは、「質とはちがって、その変化によって特定の事柄そのものに影響を与えないような規定」(同)であることを言いあらわしているからです。
 それをヘーゲル的な定義を抜きに「大きさとは増減しうるもの」と定義することは、単に「可変的なもの」とも理解しうるのであって、同じく可変的である「質」との区別を曖昧にするものといわざるをえません。
 もっとも数学的定義は、量の変化は質の変化と違って増減という方向における変化のみであり、したがって増減によっても「事柄そのものはもとのままであるということを含んで」(同)いる側面からすると、正しいともいえます。しかし哲学的な定義は、「単に正しい定義」(同)ではなく、その定義の必然性が「自由な思惟」(同)によって基礎づけられた「確証された定義」(同)でなければなりません。
 したがって数学的定義は、正しいとはいえても「量という特殊の思想が普遍的思惟のうちにどの程度基礎づけられており、また必然的であるか」(同)が明らかにされていないため、「確証された定義」ということはできないのです。
 「もし量が、思惟によって媒介されないで直接表象から取られるならば、量の妥当範囲は過大に評価され、量は絶対的なカテゴリーにまで高められるおそれが非常にある。こうしたことは、その対象を数学的に計算しうるような科学だけが精密科学として承認される場合、実際に行われている」(三〇三~三〇四ページ)。
 もし量の定義が自由な思惟による「論理的展開の道」(三〇二ページ)に媒介されたものとしてではなく、「直接表象」(三〇三ページ)から取られるとすると、量の定義の有限性が明かにされないところから「過大に評価され」、ピュタゴラス派にみられるように量が「絶対的なカテゴリーにまで高められるおそれ」があるのです。
 量はあくまで有論における質に対立するカテゴリーであり、「論理学」は、有論、本質論、概念論と、次第に具体的で内容のより豊かなカテゴリーへと進展していきます。したがって量を取り扱う数学だけを「精密科学として承認」し、量を「絶対的なカテゴリー」にまで高めるのは、一面的な「悪しき形而上学」(三〇四ページ)といわざるをえません。
 「われわれが自由とか、法とか、道徳とか、更に進んでは神そのものというような対象を取扱う」(同)場合、それらを数学的に表現できないことを理由にその真理性を否定し、「漠然とした一般的な表象で満足しなければならない」(同)としたら、「われわれの認識能力は実際情ないもの」(同)と言わなければなりません。これらのものの真理は、もはや有論のカテゴリーとりわけ量のカテゴリーの枠内では論じえないからです。
 しかしだからといって「数学の価値を軽く見る」(同)のも間違いであり、量は「理念の一段階」(三〇五ページ)として、「論理的カテゴリー」(同)としてもまた「自然および精神の世界」(同)においても「正当な位置が与えられなければならない」(同)のです。
 もっとも自然と精神とでは、「量的規定の重要さ」(同)が異なり、自然においては精神の世界よりも「量はより大きな重要さ」(同)をもっています。また同じ自然の世界にあっても無機的自然では有機的自然よりも、量が「より重要な役割を演じて」(同)います。
 要するに、すべての対象を数学的な立場からのみ論じることは、「精密で根本的な認識をこの上もなく妨げる偏見の一つ」(三〇六ページ)と言わなければなりません。

一〇〇節 ── 量は連続量(一)と非連続量(多)の統一

 「量は、まずその直接的な自己関係、あるいは牽引によって定立された自分自身との相等という点からみれば、連続量であり、そのうちに含まれている一というもう一つの規定からみれば、非連続量である」(同)。
 量は、向自有における反発と牽引のカテゴリーの進展としてとらえられました。量の牽引による一の側面は連続量となり、反発つまり多の側面、そのうちに含まれる多くの一という側面からみれば、非連続量となります。連続量はそのうちに区別をもたない一者であり、非連続量はそのうちに区別をもつ多者なのです。
 「しかし連続量は、多くのものの連続にすぎないから、また非連続的でもあり、非連続量は同時に連続的であって、その連続性は多くの一の同一としての一、単位である」(同)。
 しかし反面からすると連続量は、多くのものが連続することによる一者ですから、その一者が反発して多くのものになる非連続量ともなりうる可能性をもつのであり、他方非連続量は、牽引により連続量ともなりうる可能性をもつのです。単位とは、多くの一が連続量として一者となったものです。
 「 ⑴ このかぎりにおいて、連続量と非連続量とは、一方の規定が他方には属さないような、量の二種類とみるべきではなく、両者の相違はただ、同一の全体が或るときはその二つの規定の一方のもとに定立されており、他方の場合にはもう一つの規定のもとに定立されているという点にあるにすぎない」(同)。
 このように連続量は非連続量の可能性であり、非連続量は連続量の可能性でもあるのですが、これは一つの量という「同一の全体」を連続量としてとらえることもできれば非連続量としてとらえることもできるということを意味しているのであって、一つの量が連続量と非連続量という「量の二種類」からなっているということではなく、量における二つのモメントなのです。
 重要なことは、一つの量を連続量としてとらえるときも非連続量としてとらえるときも、それを貫かなければならないのであって、両者を混同すると間違いをおかします。
 エレア学派のゼノンは、有名な「ゼノンの逆説」により「運動が矛盾」(二七八ページ)であり、「ゆえに運動は存在しない」(同)ことを証明しようとしました。
 すなわち「或る目標に到達するには、まず目標の半分に到達し、次は残りの半分(全体の四分の一)に、更にその次は残りの半分(全体の八分の一)と、無限に進む。しかし空間は無限に分割しうるから、無限に目標に接近することはできても、目標に達することはできない。よって運動は存在しない」という逆説を提起したのです。
 もちろん運動が存在することはゼノンも百も承知なのですが、論理的にはこのような矛盾をかかえているのであって、これを論理的に反駁しえないかぎり運動は存在しえないことになるではないか、というものです。
 A点からB点の目標までの空間を連続性とみると、A・B間の非連続性、つまり現実の分割は、単なる可能性にとどまります。もしこれを中間点で現実に分割すれば、この空間は二つの非連続性となってしまいます。ゼノンは、連続性のなかにおける無限分割という非連続の単なる可能性を、現実の非連続性に転化してしまったのです。つまり、連続性を論じながらそれを非連続性に転化してしまい、連続性と非連続性とを混同したところに、ゼノンの誤りがあったのです。
 しかしゼノンが運動を矛盾(正確には対立物の相互排斥的統一としての矛盾ではなく、対立物の調和的統一)としてとらえたことは、その矛盾のとらえ方には問題があったにしろ、正しいものがありました。すなわちゼノンが運動には連続性と非連続性の矛盾があることに気付いたことは高く評価されるべきであり、ただ矛盾は矛盾を揚棄した統一という「肯定的な成果」(二五二ページ)をもたらすことにまで考え及ばなかっただけなのです。例えば位置の移動は、ある瞬間に「ここにある」(非連続性)と同時に「ここにない」(連続性)の統一なのです。
 レーニンは『哲学ノート』(レーニン全集㊳)のなかでゼノンの逆説に関し、「運動は連続性(時間と空間との)と非連続性(時間と空間との)との統一である。運動は矛盾であり、矛盾したものの統一である」(前掲書二二五ページ)と述べています。
 「 ⑵ 空間や時間や物質にかんするアンチノミーとは、一方ではそれらが無限に分割されうることを主張し、他方ではそれらが分割できないものから成っていることを主張するものであるが、それは量を一方では連続的なものとして、他方では非連続的なものとして主張することにほかならない。もし空間、時間、等々が単に連続量の規定をもって定立されるならば、それらは無限に分割しうるものである。しかし非連続量の規定をもって定立されるならば、それらはそれ自身分割されているものであって、分割されない諸々の一から成っている。どちらの見地も同じく一面的である」(三〇七ページ)。
 カントのアンチノミーは(一八七ページ)、空間、時間、物質について、一方で連続性であることを解明し、他方で非連続性であることを証明しようとするものでした。連続性とは一者であると同時に無限分割可能性であり、非連続性とは多者でありそれ自身すでに分割が完了しているものであって、それ以上「分割されない諸々の一から成っている」のです。どちらも「同じく一面的」であり、物質とその運動は連続性と非連続性の統一としてのみとらえうるのです。

一〇〇節補遺 ── 連続量は非連続量を含み非連続量は連続量を含む

 「量は、向自有の最初の結果として、その過程の二つの側面である反発と牽引とを観念的モメントとして自己のうちに含み、したがって連続的でもあれば非連続的でもある。この二つのモメントの各々はそれぞれ他のモメントをそのうちに含んでいるから、単なる連続量というものもなければ、また単なる非連続量というものもない」(三〇七ページ)。
 量における連続性は無限分割可能性という非連続性のモメントを自己のうちに含み、非連続性は合一可能性という連続性のモメントを自己のうちに含むことによって、相互に移行しあうことができるのです。いわば、連続性と非連続性とは量における対立する二つのモメントとして、対立物の相互移行の関係にあり、「単なる連続性」も「単なる非連続性」も存在しないのです。
 それにもかかわらず、連続量と非連続量とを「量の特殊な二種類」(同)ととらえるのは、「量の概念のうちに不可分の統一をなして含まれている二つのモメントのうち、或るときは一方を看過し、或るときは他方を看過する」(同)ものにほかなりません。
 例えば、この部屋の「空間は連続量」(同)であり、そこにいる「百人の人間は非連続量」(同)である、などといいます。
 しかし、連続量としての一部屋の空間もいくつにも間仕切りすることが可能ですが、それはこの空間が「即自的には非連続的でもある」(三〇八ページ)からです。また百人の人間も、非連続量ではあっても労学協の会員という「共通なもの」(同)があれば「同時に連続的でもある」(同)一つの集団なのです。

 

三、「B 量」「b 定量」

一〇一節 ── 定量とは規定された量

 「量のうちには、他を排除する限定性が含まれているが、本質的にこのような限定性をもって定立されている量が定量、である。すなわち、定量とは限られた量である」(同)。
 数学では量を「大きさ」と規定しましたが、「大きさ」とは「主として一定の量」(三〇二ページ)をさす言葉です。この定義の正しくないことは九九節で論じたところですが、それでも、ここには、量のうちには本質的に「他を排除する限定性が含まれている」ことを表現する正しい側面をもっています。
 このように限定され、規定された量が「定量」であり、したがって定量とは「限られた量」、一定の「大きさ」を意味しています。

一〇一節補遺 ── 定量は数

 「定量は量の定有であり、これに反して純量は純有に、(次に述べる)度は向自有に対応する。 ── 純量から定量への進み行きをもっと詳しく述べれば、それは次のような事態にもとづいている。すなわち、純量においては、区別が連続性と非連続性との区別として、即自的に存在しているにすぎないが、定量においては、これに反して、区別が定立され、量は今や区別されたもの、限界を持つものとしてあらわれている」(三〇八~三〇九ページ)。
 定量は定有に、純量は純有に対応します。定量は一定の量として「限界を持ち」、他の定量から区別されます。純量における区別は連続性と非連続性という「即自的(潜在的 ── 高村)」な区別にすぎなかったのに対し、定量では他の定量との区別が顕在化しているのです。
 「しかしこれによって同時に定量もまた、多くの定量すなわち多くの限定された量に分れる。これらの定量の各々は、他の定量から区別されたものとしては、一つの統一をなしているが、他方それだけを考えてみれば、一つの多である。そしてこの場合定量は数として規定されているのである」(三〇九ページ)。
 定量は、他の定量から区別された一定の量ですから、定量はその限定された量のちがいにより「多くの定量」に分かれることになります。
 定量は一定の量としては一者ですが、そのうちに多を含むという意味では「一つの多」、つまり多者であり一と多の統一です。
 こういう一と多の統一としての定量は「数として規定」され、一定の大きさをもっているのです。

一〇二節 ── 数は単位(一)と集合数(多)の統一

 「定量は、数においてその発展と完全な規定性とに達する。数は、そのエレメントとして一を持ち、非連続性のモメントからすれば集合数を、連続性のモメントからすれば単位を、その質的モメントとして自己のうちに含んでいる」(同)。
 限定された量としての定量は、「数」において「完全な規定性」に達します。限定された量とは、数にほかならないからです。 
 定量のうちにおける一者(連続性)と多者(非連続性)のモメントは、数においては単位と集合数という二つのモメントとして展開されることになります。単位とは、一定の数を表示するときの基準となる数であり、集合数とは一つの単位のもとにおける多くの数です。
 算数における加・減・乗・除の四則は、「偶然的な仕方」(同)としてとらえるのではなく、「数の概念そのもののうちに含まれている諸規定」(同)の必然的な展開として示されなければなりません。
 「数の概念の規定は集合数と単位であり、数そのものは両者の統一である。しかしこの統一は、それが経験的な諸数に適用されるとき、これらの数の相等性にすぎない。したがって算法の原理は、諸数を単位と集合数との関係におき、二つの規定の相等性を作り出すことでなければならない」(同)。
 単位と集合数は、数の二つのモメントであり、「数そのものは両者の統一」です。数を使って計算するとき、この二つのモメントは対立するなかで「相等性」を作り出すという対立物の統一となります。すなわち加・減・乗・除の「算法の原理」は、「諸数を単位と集合数との関係」においてとらえ、さまざまな関係における「二つの規定の相等性を作り出す」ことから生じるのです。
 「諸々の一および諸々の数そのものは、互に無関係であるから、それらを統一のうちへおくことは外的な総括としてあらわれる。だから計算とは一般に数えあわすことであり、算法の相違は、数えあわされる諸数の質的性状のうちにのみある。そしてこの性状にたいしては、単位と集合数という規定が原理をなしている」(三一〇ページ)。
 数そのものは「互に無関係」ですから、「単位と集合数」とを「統一のうちへおく」のは、人間が外から両者を結合する「外的な総括」によっておこなわれます。したがって計算とは単位と集合数とを「数えあわす」、つまり結合することにより「二つの規定の相等性を作り出す」ことなのです。したがって算法の相違は「数えあわされる諸数の質的性状のうちにのみある」のです。後に「c 度」で詳しくみるように本来は質をもたない数そのものにも、質と似たような質的性格があらわれてきます。それとは異なるものの、単位と集合数とを「数えあわす」ことにより、加・減・乗・除という「諸数の質的性状」があらわれてくるのです。
 「数えることが最初である。これは一般に数を作ることであり、任意に多くの一を総括することである。 ── しかし、算法とは、単なる一を数えあわすことではなくて、すでに数であるものを数えあわすことである」(同)。
 計算することは「数えること」から始まりますが、「数えること」は「数を作ること」を意味しています。人間がゼロという数を作り出すまでには随分長い時間を必要としましたが、七世紀にインドにおけるゼロの発見によってあらゆる数を表現しうるようになり、計算は著しく発展することができました。
 算法とは、こうして作られた数を単位と集合数の関係で「数えあわす」ことによって行われるのです。
 「諸々の数は、直接的かつ最初には、全く無規定的に数一般であり、したがって一般に不等である。こうした数の総括あるいは計算が足し算である」(同)。
 「諸々の数」の「直接的かつ最初」の形態は、「不等」な「数一般」です。つまり区別されたいくつかの集合数が存在するのであり、この「不等」ないくつかの集合数を数えあわすのが足し算です。しかし集合数を数え合わすことはできても単位と単位を数えあわすことはできませんので、足し算は集合数についてのみ認められます。
 「第二の規定は、諸数が一般に相等しいということである。したがってそれらは一つの単位をなしており、こうした単位の集合数が存在している。こうした数を計算するのが掛け算である。 ── この場合、集合数および単位という規定が、二つの数、二つの因数にどう分配されようと、すなわちどちらが集合数ととられ、どちらが単位ととられようと、少しもかまわない」(同)。
 第二の規定において、はじめて諸数の相等性」があらわれてきます。諸数は「一つの単位」として相等性をなし、この相等しい単位がいくつか集まって「単位の集合数」が生まれます。こうした単位がいくつあるのか、その集合数を計算するのが掛け算です。
 例えば、三×五=一五という場合、三を単位とすれば五が集合数となり、三を集合数とすれば五が単位となります。三と五のどちらを単位とするかは、計算に何の影響も及ぼしません。
 「最後に第三の規定は、集合数と単位との相等である。このように規定された数を数えあわすのが冪乗(べきじょう)であり、その最初のものが平方である。それ以上の冪乗は、再び不定の集合数だけ数をそれ自身に掛けることの形式的な継続である。 ── この第三の規定において、集合数と単位という、存在する唯一の区別は完全な相等に達するから、算法はこの三つ以上にはありえない」(三一〇~三一一ページ)。
 第三の規定は「集合数と単位との相等」である冪乗です。例えば、五の二乗という場合五×五ですから、単位の五と集合数の五とは相等しいのです。五の三乗は五×五×五であり、単位に相等しい集合数がふえていくという「形式的な継続」となります。
 第一の規定では不等な集合数のみのためまだ相等性は問題にならず、第二の規定において単位という相等性があらわれ、第三の規定において「集合数と単位」の相等性があらわれました。
 数における唯一の区別は、集合数と単位の区別ですから、第三の規定において「存在する唯一の区別は完全な相等に達する」ので、算法はこれ以外にありえないのです。
 「算えあわせることには、同じ諸規定にしたがって、数の分解が対応している。したがって積極的と呼ぶことができる以上三つの算法と並んで、また三つの消極的算法がある」(三一一ページ)。
 「数えあわす」とは二つの諸数の相互媒介の関係を意味しますから、そこには、積極的なものも消極的なものもあります。
 こうして、足し算には引き算、掛け算には割り算、冪乗には冪乗根が対応することになります。

一〇二節補遺 ── 数は完全に規定された定量として連続量にも使用

 「数は一般に完全な規定性における定量であるから、われわれはそれをいわゆる非連続量の規定にだけでなく、いわゆる連続量の規定にも使用する。だから幾何学でも、空間の規定された諸形態やそれらの比を取扱うことが必要な場合には、数の助けを借りなければならない」(同)。
 幾何学は、線や面や立体など空間の連続性を対象とする学問です。線は一方向にのびる連続量であり、面は二方向に広がりをもつ連続量、立体は三方向に広がる空間という連続量です。しかしその場合でも、「空間の規定された諸形態やそれらの比」を取り扱う場合には、非連続量という「数の助けを借りなければならない」のです。
 つまり、「数は一般に完全な規定性における定量」ですから、幾何学のようなもっぱら空間という連続性を取り扱う学問においても、場合によっては非連続量を問題にしなければならない局面が生まれてくるのです。