『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第二五講 第二部「本質論」①

 

一、「本質論」の主題と構成

 今日からテキストの「下巻」、第二部「本質論」に入ります。
 八三節で有論は「直接性における思想」(㊤二五六ページ)であるのに対し、本質論は「反省と媒介とにおける思想」(同)であること、また一一一節補遺では「有においてはすべてが直接的であり、本質においてはすべてが相関的である」(同三三二ページ)ことを学びました。つまり有論は表面的な事物の真の姿を「直接性」においてとらえる感性的、直観的認識であるのに対し、本質論では一つの事物を内と外とに二重化してとらえ、事物の内に隠された真の姿を「媒介性」においてとらえる悟性的認識であり、より深い真理をとらえる認識ということができます。有論は「即自的概念にかんする理論」(同二五六ページ)として感性的認識であるのに対し、本質論は「概念の即自有と仮象にかんする理論」として悟性的認識なのです。
 この悟性的認識をつうじて、事物の本質的なもの、内面的なもの、真なるもの」(同一〇九ページ)という「対象の真の姿は知られる」(同)のです。
 「悟性は一般に教養の本質的なモメントである。教養ある人は漠然としたものや曖昧なものに満足せず、対象をその確固とした性格において把握する」(同二四三ページ)。
 悟性的認識は感性的認識と異なり、対象を「確固とした」固定的なものとしてとらえます。「漠然としたものや曖昧なもの」のうちに含まれているいくつもの要素を分析的に、区別して取り出すことによって、対象を「確固とした」ものとしてとらえるのです。したがって「悟性の原理は同一性」(同二四二ページ)であり、AはAであって、BやCではないというものです。しかし反面からすると、悟性的認識は「あれかこれか」(同一四四ページ)というように区別・対立を絶対化し、一面的な規定にとどまる有限な認識という限界をもっています。これに対し、理性的認識とは対立する二つのものを相互媒介における統一ととらえる無限の認識なのです。
 しかしヘーゲルの本質論は、形式論理学のように事物を二重化してとらえるという悟性的認識にとどまるのではなく、その相互媒介の関係をとらえ、本質論を理性的認識にまで高めようとしています。
 本質論では本質と現象のカテゴリーを中心とし、さまざまな「対立」する二つのカテゴリーの「関係」が論じられます。その意味で、有論では或るものから他のものへの「移行」の論理が展開されたのに対し、本質論の論理は、区別された二つのものの「関係」(相関性)の論理です。
 このように本質論においては、すべてを二重化したうえで二つのものの間の関係、相関性をとらえますが、ヘーゲルは二つのものの間の相互媒介の関係を「反省の立場」( 一〇ページ、以下単にページ数のみを記載)とか、反省関係とよんでいます。「対立」も反省関係の一形態です。
 本質論における相関性には二つの側面があります。一つは本質と現象のように一つの事物の内部における相関であり、もう一つは、原因と結果のように二つの事物の間における相関です。後者では物質相互の相関性をつうじて物質世界全体のありようが論じられてきます。それが一二三節の「現存在」以降の主題となり、物質世界における物質相互間の法則性が「本質的相関」「絶対的相関」として論じられていきます。
 この二つの意味で「本質においてはすべてが相関的」なのであり、この「反省と媒介」の全体をとらえる論理が弁証法の基本形式としての対立物の統一なのです。これに対し形式論理学の基本形式は「AはAである」という同一律にあり、「本質論」ではこの悟性的認識である形式論理学の止揚のうえに理性的認識としての弁証法的論理学が構築されることが明らかにされます。
 本質論はまず総論と各論に分かれます。総論は一一二節から一一四節までで、本質論をとおして取り扱われる主要なカテゴリーの説明がなされています。これに対し各論は、「A 本質」「B 現象」「C 現実性」となっており、即自 ── 対自 ── 即対自という弁証法的構成となっています。
 「A 本質」の正式な標題は「現存在の根拠としての本質」であり、本質は現に存在するものの根拠であることが主題となっています。
 本質は、外面的な有を「反省」することでとらえられる「内面的な」真の姿ですが、いつまでも内面にとどまるものではなくて、外面にあらわれでることによって「現存在」するもの(現に存在するもの)の根拠となるのです。
 例えば、いま財界はさかんに道州制を唱えています。これは、国家の役割を防衛と外交にとどめて、医療、教育、福祉などの仕事はすべて地方自治体に任せようというものです。この道州制という「現存在」は、階級支配の機関という国家の「本質」が根拠となって現れてきたものです。国家は軍隊と警察という階級支配の組織を持っているだけでいいとの考えです。このように、本質というものは現存在の根拠となるのです。
 「A 本質」では、まず一つの事物における内面的なものと外面的なものという対立する二つのカテゴリーの相互媒介の関係が論じられます。「a 純粋な反省規定」では内面的なものと外面的なものとの相互媒介の関係が、「イ 同一性」と「ロ 区別」のカテゴリーとして論じられます。区別には差別(差異)と、対立、矛盾があります。
 この同一と区別、対立、矛盾のカテゴリーをつうじて、ヘーゲルは形式論理学を批判し、弁証法的論理学を対置しています。
 形式論理学では、概念をつかい、判断、推理をおこなって正しい結論をうる思惟形式が論理学であると考え、この思惟形式を使うさいの四つの基本法則として同一律、矛盾律、排中律、充足理由律をあげています。
 ヘーゲルは形式論理学は悟性的認識にすぎないとしてこれを批判し、同一と区別の統一、対立物の統一、矛盾の止揚などのカテゴリーによる理性的認識こそ真理であることを明らかにしていきます。
 同一と区別の統一が「ハ 根拠」です。本質は有と同一であると同時に有から区別されたものという同一と区別の統一であるかぎりにおいて、或るものの根拠となります。すべてのものは根拠をもっており、根拠はそのものを根拠づけます。根拠からあらわれ出たものが「b 現存在」であり、現存在とは現に存在するもの、つまり客観世界、物質世界における「c 物」(物質)を意味しています。こうして現存在以降の節では一つの事物の内部の関係ではなく、二つの事物相互の関係が論じられてきます。
 「B 現象」とは、本質が根拠となってあらわれ出た現存在です。現象では現存在するもの(物)を真理とはみないで、単なる現象にすぎないととらえます。つまり直接的に存在する物は単なる現象にすぎないのであり、その真の姿は現象のうちにある本質にあるととらえるのです。現象は本質のあらわれではあっても、本質がそのままあらわれた本質的現象もあれば、本質が歪曲され、転倒してあらわれた非本質的現象もあります。現象するものは、無限の媒介からなる「a 現象の世界」、つまり物質世界をつくりあげ、現象の世界では物質相互の媒介性から生まれる「現象の法則」が論じられます。そして現象の法則は対立物の相互移行の関係にあることが明らかにされます。
 物質世界を構成するのは物質(内容)であり、運動はその存在様式(形式)です。その意味で物質世界は「b 内容と形式」の世界です。物質の相互移行の運動という「現象の法則」が「c 相関」です。「相関」いう「現象の法則」では、「イ 全体と部分」「ロ 力とその発現」「ハ 内的なものと外的なもの」という対立物の相互移行が論じられ、最後の「内的なもの」は「外的なもの」に移行して対立物の同一が定立され、それが本質と現存在との統一である「C 現実性」であることが明らかにされます。
 現実性は、現象と異なり本質がそのままあらわれた真の意味の現実であり、現実性が展開されると必然性、必然的現実性となることが論じられます。六節で「一口に言えば哲学の内容は現実である」(㊤六八ページ)ことを学びましたが、その現実がここにいう「現実性」なのです。
 哲学の目的は「無関係を排して諸事物の必然性を認識すること」(三二ページ)にあります。現実は必然的現実性となることによって「哲学の内容」となるのです。一四二節から一四九節までが現実性の「総論」となり、そこで必然性とは必然的な現実性であることが、イデアとの関連で議論されます。
 必然的な現実性とは、対立物の相互移行による対立物の同一の定立としての必然的な相関であり、そこで現実性の各論として「必然の法則」が「a 実体性の相関」「b 因果性の相関」「c 交互作用」として論じられます。交互作用で「必然の法則」は完成態に達し、「必然の真理」(一一五ページ)としての「概念」に移行します。
 概念は客観世界の真理としての「真にあるべき姿」であると同時に、自らの力で真にあるべき姿を客観世界に実現するという二つの意味で「必然の真理」なのです。
 こうして「客観的論理学」は、「主観的論理学」としての「概念論」に移行することになります。

 

二、「本質論」総論

 一一二節から一一四節までは、本質論の「総論」に該当する箇所であり、本質論を貫く基本的カテゴリーである本質と仮象、相関性(反省関係)、同一と区別などのカテゴリーが論じられています。

一一二節 ── 本質論は事物を二重化してとらえる

 「本質は媒介的に定立された概念としての概念である。その諸規定は本質においては相関的であるにすぎず、まだ端的に自己のうちへ反省したものとして存在していない。したがって概念はまだ向自として存在していない」(九ページ)。
 「概念としての概念」とありますが、最初の概念は「真の姿」、次の概念は「カテゴリーとしての概念」と理解したらいいでしょう。
 つまり本質は事物の内にある真の姿をとらえた「概念」ですが、どのように真の姿をとらえるのかといえば、対象を内と外の関係として二重化し、その相互媒介的な関係をとらえた「媒介的に定立された概念」(真の姿)としての概念(カテゴリー)なのです。
 したがって「本質論」における本質の「諸規定」は、対立する二つのカテゴリーの「相関」としてとらえられ、概念論と違ってまだ対立、矛盾を揚棄した統一、つまり「向自として存在してい」ません。いわば、有論が「即自的概念にかんする理論」(㊤二五六ページ)であるのに対し、本質論は「概念の対自有と仮象にかんする理論」(同)であり、概念論は「即自かつ対自的概念にかんする理論」(同二五六~二五七ページ)なのです。
 「本質は、自分自身の否定性を通じて自己を自己へ媒介する有であるから、他のものへ関係することによってのみ、自分自身へ関係するものである。もっとも、この他者そのものが有的なものとしてではなく、定立され媒介されたものとして存在している」(九ページ)。
 本質と有との相互媒介的な関係は、有を媒介して本質へという過程と、本質を媒介して有へという方向を逆にする二つの過程としてとらえることができます。
 すなわち第一に、有は自分自身を否定して「自己を自己へ媒介する」ことによって本質に到達します。いわば、有の外面的な姿に媒介されつつ、有を否定して、有の内面の真の姿へ認識が向かうことを「自己を自己へ媒介する」といっているのです。
 いうまでもなく、表面的な有から有の内面に向かうのは、第二四講でお話ししたように、認識の進展を示すものですが、ヘーゲルはそれを有自身の運動であるかのように表現していますので、誤解のないようにしてください。
 第二に、本質の側からみてみますと、本質は有という「他のものへ関係する」ことによって、有をこれまでの有のように直接的な存在としてではなく(「有的なものとしてではなく」)、本質によって「定立され媒介されたものとして」とらえることになります。
 いわば本質は有に媒介されて本質に到達し、逆に有は本質に媒介されて有として定立されるという意味で、有と本質とは「相関的」であり、相互媒介の関係にあるのです。
 「有は消失していない。本質はまず、単純な自己関係として有である。しかし他方では、有は、直接的なものであるという一面的な規定からすれば、単に否定的なもの、すなわち、仮象へ引きさげられている。 ── したがって本質は、自分自身のうちでの反照としての有である」(同)。
 有論では或るものが他のものに移行すれば、それにより或るものは「消失して」いました。これに対して本質と有との相互媒介の関係は或るものの内部における関係であり、有が本質に移行しても、有と本質との間に一定の関係(同一と区別の統一という関係)が生じるだけであり、「有は消失していない」のです。有と本質との関係は、有自身の内部の関係、「単純な自己関係」です。
 この「単純な自己関係」において、「本質はまず」有なのです。つまり本質とは、有の真の姿として有と同一なものなのです。
 しかし本質は有と同一だというだけではありません。有との関係において本質がとらえれるということは、「直接的なもの」(自立したもの)としての有は「単に否定的なもの」にすぎないのであって、真の姿ではなく仮の姿としての「仮象へひきさげられて」しまっているのです。
 有論においては有は直接的なままで真なるものとされてきたのですが、本質との関係においてとらえられるとき、直接的有は仮象にすぎないとされてしまうのです。
 本質論が「概念の対自有と仮象にかんする理論」(㊤二五六ページ)とされているのも、本質論では本質と有との関係を取り扱いますが、そこでの有は直接的なものとしてはもはや仮象にすぎないことを意味しているのです。
 「仮象」に似かよったカテゴリーとして「現象」があります。仮象においては、表面的な有は空疎な仮の姿にすぎないのであって、真の姿は別にあるとする認識にとどまるのに対し、現象は本質に媒介され本質があらわれ出た現存在として、より高い認識となっているのです。
 こうして本質と有との関係は、有が「反照」して本質となり、本質が「反照」して有となるという「自分自身のうちでの反照としての有」として論じられることになるのです。
 「絶対者は本質である。 ── この定義は、有も同じく単純な自己関係であるかぎり、絶対者は有であるという定義と同じである」(九ページ)。
 「絶対者は有である」(㊤二六三ページ)との定義は、「絶対的真理はあらゆる事物のうちにある有の原理である」ことを意味していました。同様に「絶対者は本質である」との定義は、「絶対的真理はあらゆる事物のうちにある本質の原理である」ことを意味しています。
 どちらも一つの事物のうちの問題として「単純な自己関係」を示す定義ですが、有の定義は感性的認識であるのに対し、本質の定義は媒介された事物の真の姿をとらえる悟性的認識としてより高い定義となっているのです。
 「しかしそれは同時により高い定義である。というのは、本質とは、自己のうちへはいっていった有であるからである。言いかえれば、本質の単純な自己関係は、否定的なものの否定、自己のうちでの自己媒介として定立された自己関係であるからである」(九~一〇ページ)。
 八六節補遺で、有は「直接的な無規定」(㊤二六四ページ)であるのに対し、本質は「すでに媒介をへ、規定を揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる無規定的なもの」(同)であることを学びました。
 有も本質も、無規定(無媒介)で直接的な「単純な自己関係」(九ページ)としては同じなのですが、有が無媒介の「単純な自己関係」であるのに対し、本質は「自己媒介として定立され」ながら媒介を揚棄した単純な自己関係として、「絶対者は本質である」との定義は「有の真理」(一〇ページ)であり、より高い有の真の姿をあらわす定義となっているのです。
 なお「本質の単純な自己関係は、否定的なものの否定」とあるのは、定有は有を規定することによる「有の否定」であるのに対し、本質は「有の否定」としての定有のもつ多様な規定性を揚棄した「定有の否定」として、否定の否定であるということです。
 本質の否定性は、有のもつ「あらゆる特定の述語の捨象」(同)ではなく、「有自身の弁証法」(同)、による有の多様性の揚棄であり、多様性を否定して「無規定的なもの」となった否定性なのです。
 「本質と直接的な有との相違をなすものは、先に述べた反省、すなわち、本質が自分自身のうちへ反照するということであって、これが本質そのものに特有の規定である」(同)。
 本質と有とは「単純な自己関係」としては共通なのですが、有の直接性に対し、本質は「反照」の立場にたった「単純な自己関係」であるところにその「特有の規定」があります。

一一二節補遺 ── 本質論は反省の立場

 「本質と言う場合、われわれはそれを直接的なものとしての有から区別し、有を本質との関係においては単なる仮象とみる。しかしこの仮象は全く無いもの、無ではなく、揚棄されたものとしての有である」(同)。
 有の直接性に対して、本質とは媒介性です。本質の媒介性とは、本質と有との関係を本質と仮象の関係としてとらえることです。つまり有論における有は、直接的存在において真の姿であるとされていましたが、本質論における有は、本質との関係において真の姿ではなく仮の姿(仮象)にすぎないものとしてとらえられ、「直接的なものとしての有」は揚棄されてしまうのです。
 したがって、「本質の立場は一般にReflexion(反省)の立場」(同)ということができます。Refle-
xionとは、光の「反射」と同じ言葉であり、相手にあたってはね返ってくることです。しかし、ヘーゲルは、この「反省」に独特の意味をもたせ、これを対立する二つのものの相互媒介の関係、相関性の意味で使用しており、本質論全体をつらぬく基本的カテゴリーとなっています。
 「Reflexionという言葉はまず、光が直進して鏡面にあたり、そしてそこから投げ返される場合、光にかんしては用いられる。したがってここには二つのものがある。すなわち、一つは直接なもの、有的なものであり、もう一つは媒介されたもの、あるいは定立されたものである。このことは、われわれが或る対象を reflektieren(反省)する、あるいは、普通言われているように nachdenken(反省)する場合でも同じである。というのは、その場合われわれは対象を直接態においてでなく、媒介されたものとして知ろうとするからである」(一〇~一一ページ)。
 光の反射を考えた場合、そこには「二つのもの」があります。一つに光そのものは「直接なもの、有的なもの」であると同時に、二つに反射された光は鏡に「媒介されたもの、あるいは定立されたもの」です。つまり反省とは「直接態」でありながら「媒介されたもの」、つまり直接性と媒介性の統一という相関性なのです。
 第一五講で学んだように、ヘーゲルは『大論理学』で「直接性とともに媒介を含まないようなものは何一つとして存在しない」(上巻の一、五八ページ)と述べ、ヤコービの直接知批判のなかで「論理学の第二部、本質論の全体は、直接性と媒介性との本質的な相互定立的な統一を取扱うもの」(㊤二二二ページ)と述べています。
 「本質の立場は一般に反省の立場」とは、直接性と媒介性の統一の立場にたって、直接的なものであるように見える対象を「媒介されたものとして知ろうとする」立場を意味しています。
 「反省の立場」という場合、本講の冒頭にお話ししたように、一つの事物の内における反省関係と、二つの事物の間における反省関係とを区別しなければなりません。
 本節で論じている本質と有とは一つの事物の内における反省関係ですが、反省関係の意味を理解するために、二つの事物の間の反省関係の例を紹介しておきましょう。
 マルクスは、『資本論』において、リンネルと上着とが物々交換される場合、リンネルの価値(相対的価値形態)は、あるがままの上着(等価形態としての上着)によって表現されるということを指摘したうえで、「確かに、このことが通用するのは、ただ、リンネル商品が等価物としての上着商品に関連させられている価値関係の内部でのことにすぎない」(『資本論』①九八ページ/七二ページ)として、「およそこのような反省規定というものは独自のものである」(同九九ページ/同)との註を加えています。
 つまり、リンネル商品の価値は、商品交換という関係のなかにおいてのみ上着そのものとして表現されるという「反省規定」のうちにあるのであって、商品交換という関係におかれないかぎり、リンネルの価値が別の一商品そのものとして現象することはないのです。
 マルクスはこれに続けて「たとえば、この人が王であるのは、他の人々が彼にたいして臣下としての態度をとるからにほかならない。ところが、彼らは、彼が王であるから、自分たちは臣下であると思うのである」(同/同)と反省規定を解説しています。
 「普通、人々は哲学の課題あるいは目的は、事物の本質を認識することにあると考えている。そして人々の理解するところによれば、このことはまさに、事物はその直接態のままに放置さるべきではなく、他のものによって媒介あるいは基礎づけられたものとして示されなければならないことを意味するにすぎない。ここでは事物の直接的存在は、言わばその背後に本質がかくされている外皮あるいは幕と考えられているのである」(一一ページ)。
 哲学の課題ないし目的は「事物の本質」の認識にあると考えられていますが、そのためには事物を有という「直接態のままに放置」するのではなく、他のもの(本質)によって「媒介あるいは基礎づけられたもの」としてとらえなければなりません。言いかえると、直接的存在としての有を「その背後に本質がかくされている外皮あるいは幕」、つまり仮象としてとらえなければいけないのです。
 二一節補遺でわれわれは「単なる感覚的現象では満足せず、その奥をさぐり、それが何であるかを知り、それを把握しようとする」(㊤一一〇ページ)ことを学びました。
 その奥をさぐるとは、多様のうちにある感覚的な個別のうちにある「不動なもの、恒久的なもの」(㊤一一一ページ)、言いかえると「特殊を支配している」(同)普遍的なものをとらえることであり、その普遍的なものの一つが本質なのです。
 「あらゆる事物は一つの本質を持つと言われるならば、それは、事物の真の姿は直接にあらわれているとおりのものではないことを意味する。単に一つの質から他の質への変転や、また単に質的なものから量的なものへの進展、およびその逆やですべてが終ったのではなく、事物のうちには不変なものがある。そしてこの不変なものがまず本質なのである」(一一ページ)。
 本質とは有の背後にかくされた有の「真の姿」であり、真の姿であるがゆえに移行し変化する多様な有という仮象のうちにあって「不変なもの」です。有論では「事物の真の姿は直接にあらわれているとおりのもの」としてとらえられ、有の表面的な運動、すなわち「単に一つの質から他の質への変転や、また単に質的なものから量的なものへの進展、およびその逆」などが真の姿とされました。それはそれで正しいのですが、真の姿の認識はそれで「終ったのではなく」、本質という真の姿の認識にまで前進しなければならないのです。
 ここに「不変なものがまず本質」とあるのに注目してください。うちにある不変なものとしては、まず最初に本質があるのですが、それにとどまらず後に概念論で取扱う事物の真にあるべき姿としての概念や理念もまたそうなのです。
 ヘーゲルは、この本質を「過ぎ去った有」(同)とよんでいます。すべての事物は誕生した直後には、そのものの本質と現象とは一致していますが、その後の時間的経過で次第に本質と現象とは分離し、多様な現象を身にまとうことによって、その本質がみえにくくなってきます。そこで出発点にまでさかのぼれば本質がみえてくるという意味で、「本質は過ぎ去った有」と規定されているのです。「過ぎ去ったものはそのために全く否定されているのではなく、揚棄されているにすぎず、したがって同時に保存されてもいる」(同)のです。
 本質を意味するドイツ語のヴェーゼン(Wesen)には「存在」という意味もあります。そのことに関連して、神を「最高のヴェーゼン」(一二ページ)という場合には「二つのことを注意」(同)しなければなりません。
 一つは、このヴェーゼンが「存在」を意味する場合、それは「有限なものを指示する言葉」(同)ですから「絶対に無限な」(同)神を表現するのに適切ではありません。
 二つは、このヴェーゼンが「本質」を意味する場合も、神を理解するのには不十分です。というのも「神は単に一つの本質でもなければ最高の本質でさえもなく、本質そのもの」(一三ページ)であって、世界は神によって「媒介あるいは基礎づけられ」(一一ページ)てはじめて存在しているからです。つまり、神を「本質そのもの」とみることは、神を彼岸にとどめるのではなくて現実世界に現象するものととらえると同時に、「有限なものを……それだけで固執」(一三ページ)するのではなく、神という本質に媒介されたものとしてとらえることを意味しているのです。
 フランス革命におけるジャコバン独裁の時代、ロベスピエールは「神は最高の本質であるから認識できないものである」(一四ページ)として「最高存在」という新しい宗教を持ち込もうとしました。この「現代の啓蒙思想の立場」(同)は、神を現実世界から切りはなされた「最高の彼岸的存在」(同)とみるものであって、ロベスピエールの考えは「この世界をそのままで確固とした積極的なものと考えている」(同)とヘーゲルは批判しています。
 このような「抽象的な彼岸的な本質としての神」(同)、「区別や規定性を含まない神」(同)は「悟性の捨象のかす」(同)にすぎず、「神の真の認識は、事物が直接的存在においては真理を持たないことを知ることからはじまる」(同)のです。つまり直接的存在としての事物は仮象にすぎず、その真の姿は神という本質に媒介されたものとして知ることが、「神の真の認識」となるのです。
 「神についてだけでなく、その他の関係においてもそうだが、人々はしばしば本質というカテゴリーを抽象的に使用し、事物を考察する場合、事物の本質を事物の現象の特定の内容に無関係なもの、それだけで存立するものとして固定する」(同)。
 このように本質と現象とを「無関係なもの」として切りはなし、その区別を絶対化するのが悟性的認識なのです。
 神の例で学んだように、本質というカテゴリーは事物のうちにある事物の真の姿ですが、本質は「それだけで存立する」ものではなくて、つねに外にある「事物の現象の特定の内容」との相関性、相互媒介性においてのみ存在しているととらえなければなりません。
 「例えば、人々はよく、人間において大切なことはその本質であって、その行為や行状ではないと言う。これには確かに正しいところもあって、人間の行為はその直接態においてではなく、かれの内面によって媒介されたもの、かれの内面の顕示としてのみみなければならない」(同)。
 人間の外面的な行為や行状は、かれの内面の本質によって「媒介されたもの」、本質の「顕示としてのみみなければならない」のです。内面の本質と外面の行為とを区別してとらえることは「確かに正しい」という一面もあるのですが、同時に両者の同一性もみなければなりません。
 「ただこの場合看過してならないのは、本質および内的なものは、現象することによってのみ、そうしたものであるという実を示すということである。人々が、自分の行為の内容と相違する本質を引合いに出す場合には、普通その根柢に、自分の単なる主観性を主張し、主観的かつ客観的に妥当するものを回避しようとする意図があるのである」(一四~一五ページ)。
 つまり「内的なもの」としての本質は、「外的なもの」として現象することによってのみ本質であるという「実を示す」のです。
 内的なものとしての本質と、外的なものとしての現象とは、区別されると同時に同一としてとらえることが理性的認識であり、区別のうちに同一をみない悟性的認識は、「ドグマティズム(一面観)」(㊤一四三ページ)であって真理をとらえることはできません。本質と現象とは同一と区別の統一の関係にあり、区別されつつ同一であり、同一でありつつ区別されているのです。ですから人々が自分の不当な外的な行為を合理化するために、内面的な本質は異なるとして「本質を引合いに出す場合には」、内と外の同一性を否定することで「主観的かつ客観的に妥当するものを回避しよう」とする悪しき意図があるのです。

一一三節 ── 本質は反省された自己関係

 「本質における自己関係は、同一性、自己内反省という形式である。これは有の直接性に代ってあらわれたものであって、両者はいずれも自己関係という抽象である」(一六ページ)。
 一一二節でみたように本質と有とは反照、反省の関係、更にいえば同一と区別の統一の関係にあります。この関係を本節と一一四節でより詳しく学ぶことになります。
 本質は、有のうちにある有の真の姿として有との「同一性」ですが、「有の直接性に代わってあらわれた」有の「自己内反省」における「自己関係」なのです。
 「自己関係」とか「否定的な自己関係」という用語は、ヘーゲル独特のものであり、多用されているのでここで説明しておきます。
 「自己関係」とは他のものに関係することなく、自己のみで存在していること、あるいは自己のうちに区別を含まない自己同一性の保持を意味しています。これに対して「否定的な自己関係」には二つの意味があります。一つは自分自身のうちから区別を定立しつつ自己同一性を保持する関係であり、もう一つは自分自身のうちから区別を定立し、その区別されたものに移行することによって自己同一性を定立する関係を意味しています。
 有も本質も「いずれも自己関係という抽象」ですが、有が直接的な自己関係であるのに対し、本質は有に媒介された反省的な「自己関係」なのです。
 一一二節で、有も本質も「同じく単純な自己関係」(九ページ)でありながら、本質は「自己のうちでの自己媒介として定立された自己関係」(一〇ページ)として、「より高い定義」(九ページ)をもつことを学びました。それをもう一度本節で確認しているのです。
 「制限され有限なもののすべてを有るものとみる感性の無思想は、それを自己と同一なもの、自己のうちで自己と矛盾しないものと解する悟性の固執へ移っていくのである」(一六ページ)。
 「制限され有限なもののすべてを有るものとみる感性の無思想」というのは有論を指しており、「それを自己と同一なもの、自己のうちで自己と矛盾しないものと解する悟性の固執」というのは事物を区別と対立においてとらえる本質論を指しています。
 第一九講で有論は感性的認識、本質論は悟性的認識、概念論は理性的認識であることをお話ししましたが、本質論を悟性的認識とする根拠の一つは本節にあります。
 われわれは感性的認識に満足せず、「その奥をさぐり、それが何であるかを知り、それを把握しよう」(㊤一一〇ページ)として、思惟による悟性的認識へ前進します。「感性的なものは個別的、一時的のものであって、そのうちにある永続的なものは思惟によって知られ」(同)るのです。
 感性的認識は事物の表面的な姿を漠然と認識するのに対して、悟性的認識は事物を内と外に二重化することによって確固としてとらえようとするのであり、これが本質論の課題となっています。
 有論では、感性的認識(「感性の無思想」)により、「制限され有限なもののすべてを有るものとみる」漠然とした認識であったのに対し、本質論では、事物を二重化してとらえ、事物の内には「自己と同一なもの、自己の内で自己と矛盾しない」本質という確固としたものが存在するという悟性的認識(「悟性の固執」)へ発展していくのです。
 ヘーゲルがこの本質論を「悟性の固執」とよんでいるのは、形而上学では二重化によって生まれた対立する本質と現象などの二つのカテゴリーの区別を絶対化しているからです。しかしヘーゲルは、形而上学が「反省的悟性の産物」(一七ページ)としてとらえる本質論の対立する諸カテゴリーを、単なる区別としてではなく同一と区別の統一としてとらえることにより、悟性的認識としての本質論を理性的認識に高め、「哲学を革新しようとする」(㊤二〇ページ)のです。

一一四節 ── 本質論では対立するカテゴリーの相互媒介を論じる

 「この同一性は、有から由来するものであるから、最初はただ有の特性にのみまとわれてあらわれ、外的なものと関係するように有と関係するにすぎない。有がこのように、本質から切りはなされて理解されるとき、有は非本質的なものと呼ばれる」(一六ページ)。
 本質の同一性は、「有から由来」しているところから、「最初はただ」有の「直接性」という「特性にのみまとわれてあらわれ」、同一性は同一性、区別は区別として切りはなされて理解されることになります。「外的なものと関係するように」とは、本質と有とが相互媒介の関係にないかのように本質が有と関係することを意味しています。
 このように、同一性としての本質から切りはなされてとらえられた有は「非本質的なもの」となります。
 つまり本質と有との関係は、「最初はただ」一方で本質は有との同一性であり、他方で有は非本質的なものであるというように、両者の相関性は定立されないで、悟性的に本質は本質、有は有と区別されたままにとらえられるのです。
 「しかし本質は内在性であって、それは自分自身のうちに自己の否定、他者への関係、媒介を持つかぎりにおいてのみ、本質的である。したがって本質は、非本質的なものを自分自身の反照として自己のうちに持っている」(一六~一七ページ)。
 しかし一一二節で学んだように、本質は「自己のうちへはいっていった有」(九ページ)として有の「内在性」ですから、有との間に「媒介を持つかぎりにおいてのみ、本質的」といえます。しかも有に媒介された本質は、有のもつ多様な「非本質的なもの」を「自己のうちに持っている」のです。その意味で本質は有との同一性であると同時に「自己の否定、他者(有 ── 高村)への関係、媒介」としての「非本質的なもの」という区別を自己のうちにもっているのです。
 「しかし反照あるいは媒介の作用には区別の作用が含まれており、区別されたものは、自分がそこから由来しながらそのうちに自分が存在しないところの、すなわち仮象として存在しているところの、同一性との区別のうちで、それ自身同一性の形式を持つようになるから、自己へ関係する直接性あるいは有として存在する」(一七ページ)。
 このように本質は有の真の姿として有と同一であると同時に区別されています。この本質は内にある存在として「内在性」なのですが、有との「反照あるいは媒介の作用」により、この内在的本質から自らを区別して「仮象として存在している」有と同一となり、「自己へ関係する直接性あるいは有」となるのです。つまり内にある本質は外にあらわれ出て有と一体化するのです。したがっていまや有もまた本質に媒介された本質のあらわれとして、本質と同一であると同時に区別されるという関係におかれることになります。
 言いかえると本質と有との相互媒介の関係は、有から本質へ、本質から有へと媒介されるなかで、本質と有とはどちらも相手と同一であると同時に区別されるという関係におかれるのです。
 「これによって本質の領域は、直接性と媒介性とのまだ完全でない結合となる。ここではすべてが、自己に関係しながら同時に自己から出ているというように定立されている。それは反省の有であり、自己のうちに他者が反照するとともに、他者のうちに反照する有である。 ── 本質の領域はしたがって、有の領域では即自的にのみ存在していた矛盾の定立された領域である」(同)。
 簡単にいえば、直接性と媒介性との矛盾は有論の領域では「即自的」、つまり潜在的にのみ存在していたのに対し、本質論の領域では「矛盾の定立された領域」であり、概念論の領域では矛盾が止揚され、解決した領域となるのです。
 すなわち、本質の領域では「すべてが、自己に関係しながら同時に自己から出ている」というように、相互媒介の関係として定立されているのであって、直接性として独立しながら、媒介されているという「直接性と媒介性とのまだ完全でない結合」にとどまっています。直接性と媒介性との完全な結合は、第七四節で学んだように「自己を自己へ媒介し、媒介であると同時に直接の自己関係」(㊤二三三ページ)であり、この自己媒介の自己関係は概念論の概念(真にあるべき姿)として完成されることになります。
 「一つの概念があらゆるものの根柢にあるのであるから、本質の発展のうちには、反省的形式においてではあるが、有の発展におけると同じ諸規定があらわれてくる。したがって、有と無との代りに今や肯定的なものと否定的なものとがあらわれ、前者はまず同一性として対立なき有に対応し、後者は区別として展開される(自己のうちで反照することによって)。さらに成は定有の根拠であり、定有は、根拠へ反省したものとしては、現存在である。等々」(一七ページ)。
 有論も本質論も、対象の概念(真の姿)を論じたものとして概念を「根柢」にしており、八二節で学んだように概念は真の姿、真理として対立物の統一という形式をもっています。
 この点において「本質の発展」、つまり本質の諸規定は、有の諸規定と同じ対立物の統一という「諸規定があらわれてくる」のです。
 しかし有論における対立するカテゴリーは有と無であり、それが有論全体を貫いていたのに対し、本質論を貫く対立するカテゴリーは、「今や肯定的なものと否定的なもの」というカテゴリーであり、肯定的なものは同一性、否定的なものは区別として展開されます。こうして本質論では肯定的なものと否定的なもの、同一と区別というカテゴリーが全体を貫くことになります。
 有と無も、肯定的なものと否定的なものも、いずれも相反するカテゴリーです。しかし有論における有と無とは「有はそれだけで存在し、同じく無もそれだけで存在している」(㊤三三一ページ)のに対し、肯定的なものと否定的なものとは一対となってはじめて意味をもつ「対立」するカテゴリーなのです。「すべてのものは対立している」(三三ページ)ととらえるところから弁証法的論理学は展開されていくことになります。
 また有論では、有と無の統一としての成は、それ自身のもつ矛盾によって揚棄され「定有の根拠」となりました。同様に本質論では、同一と区別との統一として本質は、それ自身の矛盾によって揚棄され「現存在」の根拠になるのです。ここで「A 現存在の根拠としての本質」が先取り的に紹介されていることに注意しておいてください。
 「論理学の(最も難解な)この部分は、主として形而上学および科学一般の諸カテゴリーを含んでいる。これらは反省的悟性の産物であって、この悟性は区別された二つのものを独立的なものとみると同時に、またその相関性を定立し、しかも、この独立性と相関性とを並列的あるいは継起的に『また』によって結合するにすぎず、これら二つの思想を綜合し、概念に統一することをしないのである」(一七~一八ページ)。
 ヘーゲルは、本質論を「最も難解」としていますが、実際にはヘーゲル哲学の革命性を論じた概念論こそ最も念入りな偽装工作が施され、「最も難解な」部分となっています。だからこそ、ヘーゲル没後百七十年近く、誰も概念論の概念が「真にあるべき姿」であることを読み解けなかったのではないでしょうか。
 それはともかく、この本質論において、内と外、本質と現象をはじめとし、内容と形式、原因と結果、偶然と必然、可能性と現実性など、お馴染みの対立する一対の「形而上学および科学一般の諸カテゴリー」が登場してきます。悟性的な形式論理学は、これらの対立する諸カテゴリーを、「反省的悟性の産物」としてとらえ、対立する二つのものの区別を絶対化すると同時に、区別されているがまた「相関」でもあるとして、「独立性と相関性とを並列的あるいは継起的に『また』によって結合」しています。
 しかし重要なことは、対立する二つのカテゴリーを「差別的あるいは継起的」にとらえるのではなく、相互媒介による統一としてとらえることであり、ヘーゲルはこの対立物の統一により形而上学のとりあげる本質論の対立する諸カテゴリーを、「反省的悟性の産物」から理性の産物にかえようというのです。
 したがって、この本質論では、形式論理学の悟性的法則 ── 同一律、矛盾律、排中律、差異法則(差別の原理)、充足理由律 ── を対立物の統一の見地から批判し、その止揚のうえにヘーゲル論理学が構築されていることを明らかにしています。いわばヘーゲルは、悟性的認識としての本質論を理性的認識にまで高めようとしているのです。