『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第二六講 第二部「本質論」②

 

一、「A 現存在の根拠としての本質」の主題と構成

 有論においては「絶対者は有である」、つまり「絶対的真理はあらゆる事物のうちにある有の原理である」ことを学びました。これに対し本質論においては「絶対者は本質である」、つまり「絶対的真理はあらゆる事物のうちにある本質の原理である」ことを学んでいきます。
 哲学の課題は「事物の本質を認識する」(一一ページ)ことにあります。では本質とは何かといえば有のうちにある有の「真の姿」(同)です。本質は有に媒介されつつ媒介を揚棄した直接性であり、また逆に有は本質に媒介されつつ媒介を揚棄した直接性です。したがって本質と有とは、直接的であると同時に媒介されているという直接性と媒介性の統一、あるいは同一であると同時に区別されているという同一と区別の統一という反省関係にあります。このことは本質は有と同一であると同時に区別されていることを意味するのみならず、逆に、有は本質と同一であると同時に区別されていることをも意味しています。つまり、有から本質への過程でも、本質から有への過程でも同一と区別の統一が貫かれているのです。
 以上が本質論の総論で学んだことでした。これを受けて各論に入りますが、各論の最初の「A 現存在の根拠としての本質」(以下「A 本質」と略称する)では、本質は同一と区別の統一としての根拠であることが明らかにされます。
 本質は根拠として現存在を根拠づけるものであり、本質と本質によって根拠づけられる現存在とは同一であると同時に区別されているという関係にあるのです。
 「A 本質」は「a 純粋な反省規定」「b 現存在」「c 物」の三分法として構成されています。
 さらに「a 純粋な反省規定」も、「イ 同一性」「ロ 区別」「ハ 根拠」の三分法として構成されています。純粋な反省規定では、本質と有とが「純粋な反省関係」にあることが論じられ、本質は有と同一であると同時に区別されたものであり、また有も同様に本質と同一であると同時に区別されたものであることが明らかにされ、本質は同一と区別の統一として根拠となることが論じられます。
 また区別には、差別(差異)と対立、矛盾があること、対立とは或るものとその固有の他者との関係をとらえたもっとも普遍的な必然性の形式であり、矛盾は対立の一形態であること、したがって「対立物の統一」は「諸事物の必然性を認識する」(三二ページ)真理認識の形式であることが明らかにされます。この対立物の統一との対比において形式論理学の四つの基本法則である同一律、矛盾律、排中律、充足理由律の批判が弁証法の見地から展開されています。
 ヘーゲル弁証法は、対立、矛盾に積極的意義を認めることにより、弁証法的論理学という画期的な功績を残すことになりました。彼は「一般に、世界を動かすものは矛盾である」(三三ページ)として、対立、矛盾を論じる弁証法を「現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理」(㊤二四六ページ)ととらえたのです。
 「b 現存在」とは、根拠があらわれ出たものとしての現に存在するものです。現存在もまた同一と区別の統一としての根拠となり、別の現存在を根拠づけます。こうして現存在の世界は、根拠と根拠づけられたものとの無限の連鎖、連関のうちにおかれることになります。有論においては、或るものの可変性をつうじて連関、連鎖の論理が示されましたが、本質論ではさらに発展した「無限の連関からなる世界」(四三ページ)の論理が示されているのです。
 「c 物」とは、根拠と現存在の統一としての具体的な物または物質を意味しています。客観世界は無限に連関する具体的なさまざまの物、物質から成り立っています。
 物は、物自体と諸性質から成り立っています。諸性質は質料に転化し、質料は形式をもちます。質料と形式は相互に浸透し合い、この矛盾のなかで物は揚棄され、本質が現存在するものとなった「B 現象」に移行することになるのです。

 

二、「A 本質」 「a 純粋な反省規定」 (一)

「イ 同一性」

一一五節 ── 本質は有の反省した自己関係

 「本質は自己のうちで反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自己との同一性である」(一八ページ)。
 前節で有論における有と無に代わって、本質論では肯定的なものと否定的なものとの関係が論じられ、それは同一と区別として展開されることを学びましたが、本節でその同一性が論じられ、次節以下で区別が論じられることになります。
 本質は、「自己のうちへはいっていった有、あるいは自己のうちにある有」(一〇ページ)として、「自己のうちで反照」した有であり、自己の外にある他者を必要としない有の「純粋な反省」です。
 その意味で本質は他者との関係をもたない「単に自己関係にすぎない」のですが、単に自己同一性にとどまる「直接的な自己関係」ではなく、有の「反省した自己関係」であり、有の真の姿という「自己(有 ── 高村)との同一性」です。
 「この同一性は、人々がこれに固執して区別を捨象するかぎり、形式的あるいは悟性的同一性である。あるいはむしろ、抽象とはこうした形式的同一性の定立であり、自己内で具体的なものをこうした単純性の形式に変えることである。これは二つの仕方で行われうる。その一つは、具体的なものに見出される多様なものの一部を(いわゆる分析によって)捨象し、そのうちの一つだけを取り出す仕方であり、もう一つは、さまざまな規定性の差別を捨象して、それらを一つの規定性へ集約してしまう仕方である」(一八~一九ページ)。
 一一四節で学んだように、本質は有の反省として有と同一であると同時に区別されたものです。言いかえると本質と有との同一性は、区別を含んだ同一性です。これに対して、同一性が「区別を捨象」した同一性となるとき、それは「形式的あるいは悟性的同一性」となります。
 抽象とは「具体的なものをこうした単純性の形式」、つまり同一性の形式に変えることを意味していますが、それは「二つの仕方で行われうる」のです。
 一つは、ターレスが多様な万物の根源を水としてとらえたように多様なもののうちから「一つだけ」を本質的なもの、根源的なものとして取り出す仕方であり、もう一つは、パルメニデスのように具体的なもののもつ「さまざまな規定性の差別を捨象」して、万物の根源を「有」という「一つの規定性へ集約してしまう仕方」です。
 言うまでもなく、後者のみが正しい「具体的な同一性」(一九ページ)なのです。これに対して前者は具体的なものを抽象的な形式的同一性に変えてしまうのであり、「悟性はその対象にたいして分離的、抽象的に振舞」(㊤二四一ページ)い、対象を真実でないものに変えてしまいます。
 「同一性を、命題の主語としての絶対者と結合すると、絶対者は自己同一なものであるという命題がえられる。 ── この命題はきわめて真実ではあるが、しかしそれがその真理において言われているかどうかは疑問であり、したがってそれは、少くとも表現において不完全である。なぜなら、ここで意味されているのが抽象的な悟性的同一性、すなわち本質のその他の諸規定と対立しているような同一性であるか、それとも自己内で具体的な同一性であるか、はっきりしないからである」(一九ページ)。
 同一性を絶対者の定義とすると、「絶対者は自己同一なものである」との命題がえられます。つまり「絶対的真理はあらゆる事物のうちにおける自己同一なものである」とする命題です。しかしこの命題が真理であるかどうかは、「自己同一」の意味するところが「抽象的な悟性的同一性」、つまり区別を含まない同一性なのか、それとも「自己内で具体的な同一性」、つまり区別をうちに含んだ同一性なのかによって異なります。前者の同一性は悟性の原理、つまり形式論理学の原理となるものです。悟性の原理は「同一性、単なる自己関係」(㊤二四二ページ)なのであり、形式論理学は、抽象的な同一性の原理(同一律)を中心に成り立っています。これに対し後者の具体的な同一性は弁証法的論理学の原理であり、後者の意味で用いられる場合にのみ、真理を言いあらわしているのです。
 「後者の場合には、後でわかるように、それはまず根拠であり、より高い真理においては概念である。 ── 絶対的という言葉さえ、抽象的という意味しか持たないことが多い。絶対的空間、絶対的時間というような言葉は、抽象的な空間、抽象的な時間を意味するにすぎない」(一九ページ)。
 「自己内で具体的な同一性」、つまり区別をうちに含んだ同一性とは、後にみるようにまず「根拠としての本質」であり、「より高い真理においては概念」となりますが、概念については概念論で論じることにしましょう。
 同一性のみならず絶対的という言葉でさえ、「さまざまな規定性の差別を捨象」して「一つの規定性へ集約」するという意味で「抽象的という意味しか持たないことが多い」のです。ニュートンのいう「絶対的空間、絶対的時間」の絶対も、「抽象的な空間、抽象的な時間を意味する」にすぎません。
 ヘーゲルが、ニュートンの絶対空間、絶対時間を抽象的と批判しているのは、相対性理論からすると正当なものであり、ここにも哲学的真理は、自然科学的真理に先行する例をみることができます。
 「本質の諸規定を本質的な諸規定ととれば、それらは前提された主語の述語となる。そしてこの主語は、諸規定が本質的なのであるから、すべてのものである。このようにして生じる諸命題は、普遍的な思惟法則として言いあらわされている。かくして同一の法則は、すべてのものは自己と同一である、AはAである、と言われており、否定的には、AはAであると同時に非Aであることはできない、と言われている」(同)。
 「絶対者は自己同一なものである」との命題を「抽象的な悟性的同一性」としてとらえ、「普遍的な思惟法則」として表現したものが、形式論理学の四つの基本法則のうちにあって最も根本的な法則である同一律と矛盾律となります。同一律とは「すべてのものは自己と同一である。AはAである」というものであり、矛盾律とは、同一律を「否定的に」とらえた「AはAであると同時に非Aであることはできない」というものです。
 「この法則は真の思惟法則ではなく、抽象的悟性の法則にすぎない。すでにこの命題の形式そのものがこの命題を否定している。およそ命題というものは、主語と述語との間に、同一のみならず区別をも持たなければならないのに、この命題は命題の形式が要求するところを果していないからである。しかし特にこの法則を否定しているのは、この法則に続く他のいわゆる思惟法則であって、それらはこの法則と反対のものを法則としているのである」(一九~二〇ページ)。
 「絶対者は自己同一なものである」との命題は、「抽象的な悟性的同一性」の意味にも、「具体的同一性」の意味にもとれるところから、「表現において不完全である」ことを学びましたが、形式論理学の同一律、矛盾律は、この自己同一を「抽象的な悟性的同一性」をあらわすものと解しているので、真理をとらえた「真の思惟法則」ということはできません。
 「論理学のより立入った概念」において、悟性の原理である真理をとらえた同一性の原理は、「一般に教養の本質的なモメント」(㊤二四三ページ)であって、「理論の領域におけると同じように、実践の領域においても」(同二四二ページ)欠くことのできないものであることを学びました。しかし同時にこの悟性の原理は「有限で一面的」(同二四六ページ)なものであって、弁証法的に揚棄されないと真理に達しえないことも学びました。
 したがって、同一律、矛盾律という「抽象的悟性の法則」は、一面の正しさをもちながらも「真の思惟法則」ということはできないのです。
 「この命題の形式そのものがこの命題を否定している」との指摘には鋭いものがあります。すなわち、例えば「人間は動物である」との命題において、主語の人間と述語の動物とは区別されながらも、それを「である」という繋辞(けいじ)により同一と規定することによって命題としての意義をもつに至ります。つまり命題とは区別されたものを同一と規定することによって内容をもつに至る同一と区別の統一という形式なのです。しかし「AはAである」との同一律は、主語と述語とが同一ですから、同一なものを同一と規定することによって、「命題の形式が要求するところを果していない」のであり、この形式の面からしても「真の思惟法則」とはいえないのです。
 「この法則に続く他のいわゆる思惟法則」とは、後にみる差異法則および排中律のことです。形式論理学では、一方では同一律をいいながら他方で「この法則と反対の」差異法則や排中律を同様の思惟法則とする矛盾をおかしています。そのことによって、同一律は一面的なものでしかないことを自ら認めているのです。
 ヘーゲルは、この同一律、矛盾律について、経験上すべての人が「それに賛成」(二〇ページ)しているという人がいるが、「こんな法則を信じているのは、先生がただけ」(同)だと一蹴しています。

一一五節補遺 ── 本当の同一性は区別を含む同一性

 「同一性はまず、われわれが先に有として持っていたものと同じものであるが、しかしそれは直接的な規定性の揚棄によって生成したものであるから、観念性としての有である」(同)。
 本質の同一性は、本節でみたように他者との関係をもたない単なる「自己関係」であり、その点で「有として持っていたものと同じ」です。しかし、有が「直接的な自己関係」であるのに対し、本質の同一性は「直接的な規定性」を揚棄することによって生成した有との同一性であり、有の真の姿なのです。「観念性としての有」の「観念性」とは、イデアリテートの訳であり、ここは「理念性」と訳されるべきでしょう。本質の同一性は、有の揚棄によって生成したものであり、有をその理念においてとらえた有の真の姿という意味です。
 「同一性の本当の意味を正しく理解することは、非常に重要である。そのためにはまず第一に、それを単に抽象的な同一性として、すなわち、区別を排除した同一性として解さないことが必要である。これが、あらゆるつまらない哲学と本当に哲学の名に値する哲学とが分れる点である。本当の意味における同一性は、直接的に存在するものの観念性(理念性 ── 高村)として、宗教的意識にたいしても、その他すべての思惟および意識にたいしても、高い意義を持つカテゴリーである」(二〇~二一ページ)。
 同一性の本当の意味は、「直接的に存在するものの理念性」にあります。つまり直接的に存在するものは事物の真の姿ではないとして、その直接性を否定し揚棄することによってえられた有の理念性、有の真の姿が本質という同一性なのです。その意味で「本当の意味における同一性」は、表面的な姿の奥に隠された真の姿として「高い意義を持つカテゴリー」なのです。
 「神にかんする真の知識は、神を同一性、絶対の同一性として知ることからはじまる、と言うことができる。そしてこのことは同時に、世界のあらゆる力と光栄とは神の前に崩れ去り、ただ神の力および光栄の映現としてのみ存在しうることを意味する」(二一ページ)。
 この箇所もヘーゲルの隠れ蓑というべきものでしょうが、同一性の真の意味は、事物の真の姿であることを理解するうえでは有益な記述となっています。
 神は「最高の本質でさえもなく、本質そのもの」(一三ページ)であり、「絶対の同一性」つまり、世界の絶対的な真の姿として、「世界のあらゆる力と光栄」を「ただ神の力および光栄の映現として」示すのです。
 「人間を自然一般および動物から区別するものも、自己意識という同一性である。動物は、自分が自我であること、すなわち自己のうちにおける純粋な統一であることを理解する点まで達していないのである」(二一ページ)。
 自己意識とは、自分自身を反省し自らを自我(主体)としてとらえる意識です。自我とは「自己のうちにおける純粋な統一であることを理解する」ものであり、自分自身の真の姿をとらえる同一性の意識なのです。この主体としての自我という同一性から、さまざまに区別された自我が生まれてくるのです。
 「思惟にたいして同一性が持っている意義について言えば、何よりも大切なことは、有およびその諸規定を揚棄されたものとして内に含んでいる本当の同一性と、抽象的な、単に形式的な同一性とを混同しないことである」(同)。
 形式論理学の同一律は「抽象的な、単に形式的な同一性」にすぎないのであって、「有およびその諸規定を揚棄されたものとして内に含」む「本当の同一性」と区別することが「何よりも大切」なのです。
 思惟が「一面的であるとか、融通がきかないとか、内容がない」(同)とかの批判を受けることがあります。「ダメなものはダメ」といった官僚的な答弁がそれです。これは思惟における抽象的な同一性を批判したものとして理解しなければなりません。
 「概念、より進んでは、理念は、確かに自己同一なものではある。しかしそれらは、同時に自己のうちに区別を含んでいるかぎりにおいてのみ、そうなのである」(二二ページ)。
 本節で具体的な同一性とは「まず根拠であり、より高い真理においては概念である」(一九ページ)ことを学びましたが、より正確にいえば、「まず根拠(本質)であり、より高い真理においては概念、さらには理念である」ということになるのです。本質、概念、理念は、いずれも事物の真の姿、または真にあるべき姿として、「自己のうちに区別を含」む具体的同一性であり、反省することによって区別を客観的事物のうちに定立するのです。

「ロ 区別」(一)

一一六節 ── 本質と有とは同一であると同時に区別

 「本質は、それが自己に関係する否定性、したがって自己から自己を反撥するものであるときのみ、純粋な同一性であり、自分自身のうちにおける反照である。したがって本質は、本質的に区別の規定を含んでいる」(二二ページ)。
 第二講で本質と有との相互媒介的な関係は、有から本質へと認識が深まる過程と、本質が有となって現象する過程という逆方向の関係にある二つの過程であることをお話ししました。
 そのどちらの過程においても、本質と有とは同一であると同時に区別であるという同一と区別の統一が貫かれています。
 前節までは有から本質への過程を論じていましたが、本節では本質から有への過程が論じられていますので注意してください。
 本質とは、揚棄した有として、有のもつ多様な区別を「非本質的なもの」(一七ページ)として自己のうちに含む同一性です。その意味で本質は同一と区別の統一ですが、本質は自己のうちにある区別を自己から反発します。それが本質における「自己に関係する否定性」であり、「自分自身のうちにおける反照」によって区別を定立するのです。
 したがって「本質は、本質的に区別の規定を含んでいる」のであって、その自己のうちの区別を自己のうちから反発して、有るものとして定立するのです。
 「ここでは他在はもはや質的なもの、規定性、限界ではない。今や否定は、自己へ関係するものである本質のうちにあるのであるから、同時に関係として存在する。すなわちそれは区別であり、定立されて有るものであり、媒介されて有るものである」(二二ページ)。
 本質における「非本質的なもの」、「他在」は、有論における「或るものと他のもの」における「他のもの」と異なり、「自己へ関係するものである本質のうちにある」区別ですから、それが区別として定立されても他のものとの関係として定立されるのではなく、自己のうちからその区別を「定立されて有るもの」、「媒介されて有るもの」という「関係」において定立するのです。

一一六節補遺 ── 同一性は自分自身から自己を区別する

 「同一はいかにして区別となるか」(同)と質問する人がいますが、これは同一は同一、区別は区別という前提に立っての質問であり、この前提に立つかぎり「呈出された質問にたいする答は不可能」(二三ページ)といわざるをえません。
 というのもこの質問は、同一から区別への「進展の径路を問う」(同)ものですが、質問者のいう同一性ははじめから抽象的同一性を意味しており、抽象的な同一性は自己同一性を貫くだけで区別を含んでいませんから「区別への進展」(同)を示そうにも示しようがないのであり、質問自体が「全く無意味」(同)といわなければなりません。その人にとって「同一性とは空虚な名称にすぎない」(同)のです。
 「すでに考察したように、同一性は否定的なものではあるが、しかし抽象的な、空虚な無ではなく、有およびその諸規定の否定である。したがって同一性は同時に関係であり、しかも否定的な自己関係、言いかえれば、自分自身から自己を区別するものである」(同)。
 本質としての同一性は多様な「有およびその諸規定」を揚棄したものとして自己のうちに含むのですから、「有およびその諸規定の否定」です。この自己のうちの否定的なものを「自己から反発する」ことによって「自分自身から自己を区別」し、本質とこの区別されたものとの間に「否定的な自己関係」、つまり「自分自身」のうちで自己を否定して「自己を区別する」関係をつくりだすのです。
 一一七節から一二〇節までは区別されたもの相互の間にみられる区分、すなわち差別(差異)と対立、矛盾とを論じています。
 ここまでは、一つの事物のなかにおける本質と有との区別をみてきたのですが、ここからは観点をかえて二つの事物の間の区別をみていくことになります。

一一七節 ── 区別はまず差別(差異)

 「 ⑴ 区別は、第一に、直接的な区別、すなわち差別である。差別のうちにあるとき、区別されたものは各々それ自身だけでそうしたものであり、それと他のものとの関係には無関心である。したがってその関係はそれにたいして外的な関係である」(同)。
 区別は、まず「差別(差異)」となります。差別とは、「区別されたもの」の各々が相互に「無関心」であり、関係がないという関係、「外的な関係」におかれているのです。
 「差別のうちにあるものは、区別にたいして無関心であるから、区別は差別されたもの以外の第三者、比較するもののうちにおかれることになる。こうした外的な区別は、関係させられるものの同一性としては、相等性であり、それらの不同一性としては、不等性である」(同)。
 差別のうちにあるものは、相互に無関心ですから、第三者の比較によってはじめてその関係づけがおこなわれることになり、比較による同一なものは相等性、異なるものは不等性となります。
 「比較というものは、相等性および不等性にたいして同一の基体を持ち、それらは同じ基体の異った側面および見地でなければならない。にもかかわらず悟性は、これら二つの規定を全く切りはなし、相等性はそれ自身ひたすら同一性であり、不等性はそれ自身ひたすら区別であると考えている」(二四ページ)。
 有と無との区別にかんして、両者の区別は区別であって区別ではない、なぜなら「すべての区別の場合には常に、区別されたものを自己の下に包括する一つの共通のもの」(㊤二六九ページ)が必要であるが、有と無には「共通のもの」が存在しないから、という論理を学びましたが、ここでその論理が再度確認されています。
 すなわち比較というものは、本来同一の基体(共通のもの)をもっているものについてのみ議論しうるのですから、それは同一性のうちの区別あるいは区別のうちの同一性として議論しなければならないのに、悟性のおこなう比較は差別のうちにある二つのものを比較するにあたって、相等性は「ひたすら同一性」、不等性は「ひたすら区別」として両者を「全く切りはなし」てとらえてしまい、同一と区別の統一の関係としてとらえないのです。
 「差別も同じく一つの命題に変えられている。『すべてのものは異っている』とか、『互に全く等しい二つのものは存在しない』という命題がそれである。ここではすべてという主語に、最初の命題において与えられていた同一性という述語とは反対の述語が与えられている。したがって、最初の命題に矛盾する法則が与えられているわけである」(二四ページ)。
 形式論理学の同一律は「すべてのものは自己と同一である」(一九ページ)というものでした。これに対し形式論理学の差異法則は「すべてのものは異っている」というものであり、「最初の命題に矛盾する法則」を平気でかかげているのです。
 この批判に対しては、「或るものは、それ自身としては、ひたすら自己と同一であり、この第二の命題は第一の命題と矛盾しない、という弁解も成立」(二四ページ)するといえます。
 つまり「AはAである。BはBである。よってAとBとは異なっている」と考えれば、同一律と差異法則の間に矛盾はないといえます。しかしそうすると差別はAとBとの間にのみ存在し、「すべてのものには属」(同)さないことになるので、「すべてのものは異なっている」とする「第二の命題は全く語ることのできないもの」(同)となってしまいます。
 この差異法則はライプニッツによって唱えられた命題ですが、ライプニッツがいいたかったのは「すべてのものは同一のうちにも区別を持っている」という「特定の区別」(同)だったのです。
 形式論理学は同一は同一、区別は区別としてとらえるところから、同一律と同時に差異法則を主張しています。差異法則は形式論理学の四つの基本法則のうちには挙げられていませんが、それはともかく同一律と差異法則という矛盾する法則を掲げざるをえないところに、どちらの命題も一面的で有限なものであり、真理は同一と区別の統一にあることが示されているのです。

一一七節補遺 ── 比較は区別を同一へ還元する

 「われわれが同一の原理といういわゆる思惟法則にしたがって、海は海である、空気は空気である、月は月である」(二五ページ)等というとき、われわれは同一と同時に、海、空気、月の区別をみ、それらを相互に比較しているのです。
 つまり、われわれは「同一性を考察しはじめるとき」(二四ページ)、すでに「同一性を越え」(同)、「差別の姿のうちにある区別」(二五ページ)を考察しているのです。
 学問のうちには、「比較解剖学および比較言語学」(同)のように、「研究対象を相互に比較する」(同)学問もありますが、ヘーゲルは比較を「有限な学問の仕事」(同)といっています。
 というのも「単なる比較というものは、まだ学問の要求を究極的に満足させうるものではなく、真の概念的認識の(欠くことのできないものではあるが)準備にすぎない」(同)からです。つまり単なる比較によっては、その事物の「真の姿または真にあるべき姿」という「概念的認識」に達することはできないのです。
 比較というものは「区別を同一へ還元する」(同)ものです。数学は量を取り扱い、量の同一と区別を論じる学問ですから、数学は比較という「目的を最も完全に遂行する学問」(同)です。それだけに数学はまだ「学問の要求を究極的に満足させうるものではなく」、したがって「過大に評価」( 三〇四ページ)されてはならないのです。
 ライプニッツが「差別の原理」(二六ページ)を述べたとき、女官たちは「互に区別できないような二枚の木の葉をみつけ出し」(同)て反駁しようとしました。
 しかし注意すべきことは、「そこで言われている区別とは単に外的で無関心な差別ではなく、本質的な区別と解されねばならず、したがって区別されているということが本性的に事物に属する、ということである」(同)。
 ライプニッツのいう「すべてのものは異っている」との「差別の原理」は、「単に外的で無関心な差別」の意味ではなく、区別を自己のうちに含む同一性という意味の「本質的な区別」、「特定の区別」の意味で用いられているのです。つまり同一のうちの区別は、「本性的に事物に属する」ことをいわんとしたものなのです。

一一八節 ── 差別から対立へ

 「相等性とは、同じでないもの、互に同一でないものの同一性であり、不等性とは、等しくないものの関係である。したがってこの二つのものは、無関係で別々の側面あるいは見地ではなく、互に反照しあうものである。かくして差別は反省の区別、あるいは、それ自身に即した区別、特定の区別となる」(同)。
 このように相等性、不等性は単なる差別の関係にある二つのものを第三者が比較するうえでの区別にすぎないものですが、さらに一歩踏み込んで比較というものを考えてみますと、相等性とは区別されたものの同一性であり、不等性とは同一性のもとにおける区別ということができますから、両者は「無関係で別々の側面」ではなく、「互に反照しあう」関係、つまり肯定的なものと否定的なものという対立する関係にあるものとみることができます。
 こうして、外的な関係としての差別は、比較をつうじて相互媒介的な「反省の区別」、区別された二つのものの間に特定の関係がある「特定の区別」へと移行することになります。これが「対立」とよばれるものです。

一一八節補遺 ── 対立とは一対の規定という特定の区別

 「単に差別されたものは互に無関係であるが、相等性と不等性とは、これに反して、あくまで関係しあい、一方は他方なしには考えられないような一対の規定である。単なる差別から対立へのこうした進展は、すでに普通の意識のうちにも見出される。というのは、相等を見出すということは、区別の現存を前提してのみ意味を持ち、逆に、区別するということは、相等性の現存を前提してのみ意味を持つ、ということをわれわれは認めているからである」(二七ページ)。
 「反省の区別」「特定の区別」とは、「一方は他方なしには考えられないような一対の規定」の関係にある二つのものの区別、つまり「対立」のことです。
 例えば、左と右、上と下とは、両極にある二つのものであり、左がなければ右もなく、上がなければ下もないという「一方は他方なしには考えられないような一対の規定」であり、これが「対立」という区別なのです。
 「単に差別されたものは互に無関係」ですが、差別されたものは相互に比較されることによって「相等性および不等性という規定を持つ」(二五ページ)対立する関係になります。
 このような「単なる差別」(二七ページ)から対立への「進展」(同)は、普通の意識においても、より認識を深めようとしたとき生じるものであり、相等性の際には区別を、区別の際には相等性を念頭においているのです。
 「区別を指摘するという課題が与えられている場合、その区別が一見して明かなような対象(例えばペンと駱駝のように)しか区別しえないような人に、われわれは大した慧眼を認めないし、他方、よく似ているもの(例えば『ぶな』と『かし』、寺院と教会)にしか相等性を見出しえないような人を、われわれは相等性を見出す勝れた能力を持っている人とは言わない。つまりわれわれは、区別の際には同一性を、同一性の際には区別を要求するものである」(同)。
 ここには、同一と区別にかんする見事な弁証法があります。一見して、区別(ペンと駱駝)があるものに区別を見出し、あるいは逆に同一性(ぶなとかし)があるものについて同一性を見出したとしても、誰もそこに驚きは感じないし、「勝れた能力を持っている」ともいわないのであって、「区別の際には同一性を、同一性の際には区別を要求」してこそ「慧眼」といわれ、新たな真理に開眼することになるのです。自民党と民主党との間には、区別された政党でありながら金権腐敗体質という同一性があると同時に、財界から献金をもらう本質的同一性のなかにも、労働者派遣法の改正、後期高齢者医療の撤廃などをマニュフェストにかかげる現象面での区別があることをみるところに、政治の「慧眼」があるのです。これが「建設的野党」の哲学的意味です。逆にいえば、民主党が政権獲得後に、労働者派遣法改定案において「使い捨て」労働者を温存し、後期高齢者医療の廃止を四年後に先送りするばかりか、六五才からをその対象として差別医療を拡大するところに、区別のなかにおける自民党との本質的同一性をみることができるのです。
 「にもかかわらず、経験科学の領域では、人々はこれら二つの規定の一方のために他方を忘れることが非常に多く、或るときは学問的関心がひたすら現存する区別を同一性へ還元することに向けられ、また或るときは、同じく一面的に、ひたすら新しい区別の発見に向けられている」(同)。
 ヘーゲルの掲げる例はともかくとして、経験科学にも、同一と区別の統一の観点が貫かれなければならないとの指摘は、今日もなおその重要性を失っていません。
 物質の探究は、超銀河団 ── 銀河団 ── 銀河 ── 恒星系 ── 地球(惑星) ── マクロな物質(人間を含む) ── 分子・原子 ── 素粒子 ── クオークというように物質の階層性に関して「ひたすら新しい区別の発見に向けられている」と同時に、自然の構造を形づくる四つの力(強い力、弱い力、電磁力、重力)を「同一性」へ還元する「大統一理論」も探究されています。物質世界の多様性(区別)と根源的同一性の統一は、現在もなお科学者の課題となっているのです。
 「人々はしばしば現代の哲学を嘲笑的に同一哲学と呼んでいるが、哲学特に思弁的論理学こそまさに、もちろん単なる差別には満足せず、現存するすべてのものの内的同一性の認識を要求しはするけれども、区別を看過する単なる悟性的同一性の無価値を示すものなのである」(二八ページ)。
 ヘーゲル哲学を「嘲笑的に同一哲学」とよぶものがいますが、「思弁的論理学」は確かに「内的同一性の認識を要求」するものではあっても、「区別を看過する単なる悟性的同一性の無価値を示すもの」であって、けっして「同一哲学」などとよばれるべきものではないのです。
 つまりヘーゲル哲学は、経験哲学や形式論理学からは悟性的認識として位置づけられる本質論の諸カテゴリーを理性的認識にまで発展させるのです。