『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第二七講 第二部「本質論」③

 

一、「A 本質」 「a 純粋な反省規定」(二)

「ロ 区別」(二)

 前講では、「区別」のうちの第一の区別である差別(差異)について学びました。
 本講では、第二の区別である対立、矛盾という弁証法的論理学にとってきわめて重要なカテゴリーを学ぶことになります。

一一九節 ── 対立は本質的区別

 「 ⑵ 自己に即した区別は本質的な区別、肯定的なものと否定的なものである。肯定的なものは、否定的なものでないという仕方で自己との同一関係であり、否定的なものは、肯定的なものでないという仕方でそれ自身区別されたものである。両者の各々は、それが他者でない程度に応じて独立的なものであるから、各々は他者のうちに反照し、他者があるかぎりにおいてのみ存在する」(二八ページ)。
 第一の区別である「差別」とは、区別されたもの相互の間には何の関係もないという区別でした。
 これに対して、「対立」とは「肯定的なものと否定的なもの」というように、相互に排斥しあいながら、一方は他方なしには存立しえないとなっている「本質的な区別」であり、差別が鈍い区別であるのに対し対立は鋭い区別です。
 「思惟的理性は、……差異的なものにおける鈍い区別、表象の単なる多様性を、いわば本質的な区別、即ち対立にまで尖鋭化する。ここにはじめて、多様なものは矛盾の尖端にまで駆り立てられ、互に活発に作用しあうことになって、この矛盾の中で自己運動と躍動との内在的脈動であるところの否定性を獲得するのである」(『大論理学』中巻八一ページ)。
 つまり単なる区別をみるのではなく、区別のうちに対立を見出すところに慧眼があるのであり、それによってはじめて「自己運動」の根拠をとらえることができるのです。対立の発展した矛盾こそ自己運動の原動力となるものです。
 対立する二つのものは、一方で相互に排斥しあうという関係からすると「両者の各々は、それが他者でない程度に応じて独立的なもの」といえますが、他方で二つのものは一対のカテゴリーとしてはじめて意味をもち「各々は他者のうちに反照し、他者があるかぎりにおいてのみ存在する」という意味では非独立の存在です。
 「したがって本質の区別は対立であり、区別されたものは自己にたいして他者一般をではなく、自己に固有の他者を持っている。言いかえれば、一方は他方との関係のうちにのみ自己の規定を持ち、他方へ反省しているかぎりにおいてのみ自己へ反省しているのであって、他方もまたそうである。つまり、各々は他者に固有の他者である」(二八ページ)。
 本質的区別としての対立においては、区別された二つのものは、互いに相手を「他者一般」としてではなく、「固有の他者」としてもつという関係にあります。
 有論において或るものから他のものへの移行を論じた際、或るものにとっての他のものとは「それ自身に即して持っている」(㊤二八五ページ)他のものにすぎませんでした。
 では「固有の他者」とは何を意味するのでしょうか。それは、或るものは或るもののみでは自己の規定をもつことなく、「他方との関係のうちにのみ自己の規定を持ち」、また他方も同様であるような、或るものと他のものの関係を意味しています。例えば、上は下あっての上であり、上とは下でないものです。下もまた同様であり、上にとっての下、あるいは下にとっての上は、それぞれその「固有の他者」となるのです。
 こうして或るものと他のものが「対立」の関係にあるとき、或るものと他のものとはそうあってそれ以外ではありえないという必然的な関係におかれることになります。後にみるように、対立は必然性の最も普遍的な形態です。
 「本質的な区別は、『すべてのものは本質的に区別されたものである』、あるいは別な言い方によれば、『二つの対立した述語のうち、一方のみが或るものに属し、第三のものは存在しない』という命題を与える」(二八~二九ページ)。
 本質的な区別に関連して、形式論理学は対立を固定化し、絶対化して「あれでなければこれ」という二者択一を求めるところから、「すべてのものは本質的に区別されたものである」とか「二つの対立した述語のうち、一方のみが或るものに属し、第三のものは存在しない」という「排中律」の命題を定立しています。
 つまり排中律とは、対立する二つのものの相互媒介を否定して、対立を媒介のない対立として絶対化するのであり、「Aか非Aかのいずれかであり、その中間は存在しない」という命題です。
 「この対立の命題は、きわめて明白に同一の命題に矛盾している。というのは、後者によれば或るものは自己関係にすぎないのに、前者によればそれは対立したもの、自己に固有の他者へ関係するものと考えられているからである。このような矛盾した二つの命題を、くらべることさえしないで、法則として並べておくということは、抽象に固有な無思想である」(二九ページ)。
 ヘーゲルは、排中律は同一律に矛盾するものだと指摘しています。同一律は「AはAである」というのに対し、排中律は「AはAか非Aかのいずれかである」というものです。同一律は、Aのみに関係する「自己関係」であるのに対し、排中律は「Aか非Aか」という「自己に固有の他者へ関係」するものですから、両者は矛盾するのです。
 このように矛盾する二つの命題を「並べておく」のは、「抽象に固有な無思想」にほかなりません。形式論理学が同一律と排中律という矛盾する二つの命題を「並べて」おかざるをえないこと自体、同一律と排中律とはいずれも一面的な命題であって真理ではないことを証明しており、真理は同一律と排中律という対立する二つのものの統一、つまり対立する二つのものは区別されていると同時に統一(同一)であるという対立物の統一にあることを示しているのです。
 「排中の原理は、矛盾を避けようとし、しかもそうすることによって矛盾を犯す、有限な悟性の命題である。Aは+Aか−Aでなければならない、とそれは言う。しかしこれによってすでに、+でも−でもなく、しかも+Aとしても−Aとしても定立されている第三のもの、Aそのものが言いあらわされている」(同)。
 形式論理学は矛盾を避けようとして対立する二つのものの二者択一を求めるものですが、逆にそれによって、一方で同一律を立てながら他方で排中律をたてるという「矛盾を犯す、有限な悟性の命題」となっています。というのも、具体的に存在するものはすべて自己のうちに対立を含む同一性、つまり対立物の統一として存在するのであり、例えば、生命体は日々同化と異化をくり返し「或るものであって或るものではない」、つまり「Aであって非Aである」「Aでないと同時に非Aでもない」という矛盾をかかえており、二者択一にはなりえないのです。
 同様に|A|(Aの絶対値)は、「+でも−でもなく、しかも+Aとしても−Aとしても定立されている第三のもの」であり、二者択一の排中律を否定するものとなっています。
 このように、対立というカテゴリーを考えるうえでこの対立を絶対化して「あれでなければこれ」という二者択一としてとらえるのか、それとも対立物を相互媒介の関係における統一としてとらえるのかが、形式論理学と弁証法的論理学とを区別する分水嶺となります。
 ヘーゲルは、排中律にみられる「あれでなければこれ」という考えを「矛盾概念」(同)とよんでいます。この考えは、否定的なものは「あくまで抽象的に否定的なもの」(同)であるとして、「それ自身のうちにおいてまた肯定的なものでもある」(二九~三〇ページ)ことをみようとしないのです。
 「いわゆる矛盾概念の対立の空虚は、あらゆる事物には、右に述べたような対立したすべての述語のうち一方のみが属して他方は属さない、したがって精神は白であるか白でないか、黄色であるか黄色でないかである、等々、というような、普遍的法則の言わば大げさな表現のうちにはっきりあらわれている」(三〇ページ)。
 結局排中律のいう「矛盾概念」とは、古い形而上学批判でみたように、「二つの対立した主張のうち、一つが真理で、他は誤謬でなければならない」( 一四三ページ)とする「ドグマティズム(一面観)」(同)の「空虚」なものにすぎません。
 「人々は同一と対立とがそれ自身対立したものだということを忘れ、そのために、対立の原理をも、矛盾の原理の形で言いあらわされた同一の原理と考えている。そして二つの互に矛盾した表徴のいずれも属さないような概念(前段を見よ)、あるいはいずれも属するような概念(例えば四角の円)は論理的に誤っていると言う」(三〇ページ)。
 先にみたように、同一の原理は「自己関係」であるのに対し対立の原理は「固有の他者への関係」であって、同一の原理と対立(区別)の原理は「それ自身対立したもの」としてそれを統一して(同一として)とらえる対立物の統一こそが真理なのです。しかし形式論理学はそれを忘れ、対立の原理を「矛盾の原理の形で言いあらわされた同一の原理」と考えています。つまり、「AはAである」という同一律と「非Aは非Aである」という同一律とは、矛盾し、相反するものであるから、対立する二つのもののどちらか一つに真理があると考えるのです。
 しかし考えてみれば分かるように、「Aであると同時に非Aである」ものもあれば「Aでないと同時に非Aでもない」というものもあるのですから、排中律の空虚さは明らかといわなければなりません。例えば先にみたよう|A|にはAと非Aの「いずれも属さないような概念」であり、幾何学者は円を円と同時に直線という「いずれも属するような概念」としてとらえているのです。
 当時物理学では磁石の「分極性」(同)が話題になっていたようです。ヘーゲルは、この分極性には「対立にかんするより正しい規定」(同)が含まれているとして、補遺でさらに詳しく紹介していますので、そこで論じることにしましょう。

一一九節補遺一 ── 対立は必然性の普遍的形態

 「肯定的なものは再び同一性であるが、しかしより高い真理における同一性であって、それは自分自身への同一関係であると同時に、否定的なものでないものである。否定的なものは、それ自身としては、区別そのものにほかならない」(三一ページ)。
 肯定的なものは「より高い真理における同一性」です。というのもこれまで論じてきた同一性は、「自己内反省」(一六ページ)として、他者との関係をもたない「自分自身への同一関係」であったのに対し、肯定的なものは「自分自身への同一関係」ではあっても「否定的なものでないもの」という他のものとの関係において定立された同一性だからです。
 「同一そのものは、まず無規定のものである。これに反して肯定的なものは、自己同一なものではあるが、他のものにたいするものとして規定されているものであり、否定的なものは、同一性でないという規定のうちにある区別そのものである。すなわち、否定的なものは自分自身のうちにおける区別の区別である」(三一ページ)。
 本質としての同一性は、有のもつ多様な区別を揚棄した「無規定のもの」でした。これに対して「肯定的なものは、自己同一なもの」ではあっても「他のものにたいするものとして規定されているもの」であり、他方で否定的なものは肯定的なものの「固有の他者」として「同一性でないという規定のうちにある区別そのもの」、つまり肯定的なものに「対立」するものなのです。
 「人々は肯定的なものと否定的なものとを絶対の区別と考えている。しかし両者は本来同じものであり、したがってわれわれは、肯定的なものをまた否定的なものと呼ぶこともできるし、逆に否定的なものを肯定的なものと呼ぶこともできる」(同)。
 哲学的に考えない一般の人々は、肯定的なものは肯定的なもの、否定的なものは否定的なものとして、それぞれ一方だけで意味をもつ「絶対の区別」と考えています。しかし両者は単に「対立」する二つのものの関係をあらわすものとしてのみ意味をもつのであって、肯定、否定そのものに意味があるわけではなく、「両者は本来同じもの」なのです。例えば、一定の金銭を貸し借りした場合、貸した方には財産であるものが、借りた方には負債となりますが、どちらも同じ「一定の金銭」なのです。したがって「肯定的なものを否定的なもの」とよぶこともできるし、「逆に否定的なものを肯定的なものと」よぶこともできるのです。
 「肯定的なものと否定的なものとは、したがって、本質的に制約しあっているもの、相互関係においてのみ存在するものである。磁石の北極は南極なしには存在しえず、南極は北極なしには存在しえない。……同様に電気においても、陽電気と陰電気とは独立に存立する別々の流動体ではない」(同)。
 肯定的なものと否定的なものとは、磁石の両極、または陽電気と陰電気のように「本質的に制約しあっているもの」であって、単独では存在しえず「相互関係においてのみ存在するもの」です。これが対立という区別なのです。しかも対立という区別にあっては、北と南があってはじめて磁石、プラスとマイナスがあってはじめて電気なのであり、これが対立物の統一ということなのです。 
 「普通の意識は、区別されたものは相互に無関係であると考えている。例えば、われわれは、私は人間であり、私の周囲には空気、水、動物、および他者一般がある、と言う。ここではすべてのものが別々になっている。哲学の目的は、これに反して、このような無関係を排して諸事物の必然性を認識することにあり、他者をそれに固有の他者に対立するものとみることにある」(三二ページ)。
 ここは非常に重要なところです。哲学の目的は真理の探究にあります。言いかえると、個々の事物を「相互に無関係」なものとみるのではなく、「無関係を排して諸事物の必然性を認識すること」により真理に接近しようとするのです。その意味で哲学は「最も広い意味での必然性」( 七五ページ)を認識しようとするのです。「最も広い意味での必然性」とは何かといえば、それが対立という必然性です。対立とは、自己と「他者一般」という偶然的関係ではなく、自己と自己の「固有の他者」という切っても切れない必然的な関係をとらえるカテゴリーであり、必然性の最も普遍的な形態なのです。この対立の展開した必然性の形態が、「本質的な相関」(六四ページ)「絶対的な相関」(一〇三ページ)となるのです。
 弁証法が真に真理を認識する唯一の形式だといわれるのは、弁証法が、すべての事物を普遍的な必然性の形式である対立においてとらえ、しかもその対立を媒介のない「絶対の区別」としてではなく、相互媒介による対立物の統一としてとらえるからにほかなりません。すなわち「学問および特に哲学の任務」(九二ページ)は、「偶然の仮象のもとにかくされている必然」(同)を真理として認識することにあります。またすべてのものは直接性と媒介性の統一としてありますから、対立する二つのものを、単に直接的なものとみるのではなく、媒介されたものとみるところに真理があります。こうして対立物の統一は、真理認識の唯一の形式となるのです。
 「弁証法的なものは学的進展を内から動かす魂であり、それによってのみ内在的な連関と必然性とが学問の内容にはいり、またそのうちにのみ有限なものからの外面的でない真の超出が含まれている原理である」(㊤二四六ページ)。
 対立物の統一という「弁証法的なもの」は、「学的進展」、つまり真理認識の進展を「内から動かす魂」であり、対立物の統一という形式をつうじてのみ、「内在的な連関と必然性」とがとらえられ、有限なものからの「真の超出」、つまり無限の真理を認識しうるのです。弁証法は「あらゆる真の学的認識の魂」(同)であり、真理認識の絶対的形式なのです。
 「物を考える場合、『なお別なことも可能だ』と言う段階を脱するのは、一般に重要な一歩前進である。こういう言い方をする場合、われわれはまだ偶然的なものから脱していないのであって、これに反して、先に述べたように、真の思惟は必然的なものの思惟である」(三二ページ)。
 あれも考えられる、これも考えられるというのは「まだ偶然的なものから脱していない」のであって、「真の思惟」、つまり真理は、これであってこれ以外ではありえないという「必然的なものの思惟」なのです。
 「現代の自然科学は、まず磁気において極として知られた対立を、全自然をつらぬいているもの、普遍的な自然法則と認めるにいたっているが、これは疑もなく学問上本質的な進歩である」(同)。
 ヘーゲルが思惟をつうじて対立こそが「最も広い意味での必然性」であるととらえ、その見地から磁石にあらわれた対立を「全自然をつらぬ」く普遍的な法則としてとらえたのは卓見といわなければなりません。しかし、二一世紀の自然科学はヘーゲルの予測をさらに越えるものとなっています。ミクロの物質は、すべて粒子と反粒子、物質と反物質という対立物の統一として存在し、これが「自然の対称性」とよばれるものです。DNAの二重らせん構造は、二本の塩基の鎖が向かい合った対立物の統一という関係において結合しています。この構造を発見したワトソンは、なぜこの二重構造を思いついたのかと質問されたのに対し「そんなことは誰にも分かるさ、なぜなら自然界で重要なものはみんな対になっているから」と答えたといわれています。
 しかし自然の対称性の考えからすると、なぜわれわれの宇宙は反物質を含まず物質のみから成り立っているのかが問われなければなりません。それは「対称性の破れ」、つまり物質と反物質の量のわずかな違いから物質のみの世界が生じたとされています。つまり自然界は対立物の統一と同時に対立物の区別から成り立っているのであり、この「対称性の破れ」の原因を解明したのが、小林・益川理論です。世界はどこまでいっても弁証法の世界なのです。
 われわれの宇宙は「対称性の破れ」として物質のみの世界ですが、それでも自然の対称性の名残としてわれわれの自然の全体にわたって対称性を残しているのです。
 
一一九節補遺二 ── すべてのものは対立している

 「われわれは、抽象的悟性の命題である排中の原理にしたがって語るかわりに、むしろ『すべてのものは対立している』と言うべきであろう。悟性が主張するような抽象的な『あれか、これか』は実際どこにも、天にも地にも、精神界にも自然界にも存在しない。あるものはすべて具体的なもの、したがって自分自身のうちに区別および対立を含むものである」(三三ページ)。
 世界に存在するすべてのものは、自分自身のうちに、本質的な区別である対立を含んでいるのであり、したがって「すべてものは対立している」のです。形式論理学の排中律がいうような、「あれか、これか」「あれでなければこれ」という「絶対の区別」(三一ページ)は世界のどこにも存在しません。すべての「具体的なもの」は「自分自身のうちに区別および対立を含」んでいるのです。
 カントがアンチノミーの指摘をしたことは「思惟の弁証法的運動に注意を向けさせた」(㊤一八六ページ)大きな功績でしたが、彼はそこから物自体は認識できないという消極的結論を引き出したにとどまりました。しかしアンチノミーの積極的な意味は、「あらゆる現実的なものは対立した規定を自分のうちに含んでおり、したがって、或る対象を認識、もっとはっきり言えば、概念的に把握するとは、対象を対立した規定の具体的統一として意識することを意味する」(同一八六~一八七ページ)ことにあるのです。
 「あらゆる現実的なものは対立した規定を自分のうちに含んで」いますから、或る対象についての真理を認識する、つまり対象の真の姿を把握する(「概念的に把握する」)とは、対象を対立物の統一として認識することを意味しているのです。
 あらゆるものは「対立した規定を自分のうちに含む」だけではありません。その対立した二つの規定は、絶対的な区別のうちにあるのではなく相互媒介の関係にあることにより、「対立した規定の具体的統一」として認識することが求められているのです。
 「もし思惟諸規定が、動かしがたい対立を担っているとすれば、言いかえれば、有限なものにすぎないとすれば、それらは、絶対的な真理に適合せず、真理は思惟のうちにはいることができない」(㊤一三二ページ)。
 もし対立する二つの規定が「動かしがたい対立」のうちにとどめおかれるとすれば、それは形而上学のドグマティズムにすぎないのであって「それらは絶対的な真理に適合せず、真理は思惟のうちにはいることができない」のです。対立物の統一とは、対立する二つのものを相互に媒介された統一としてとらえることを意味しており、その媒介の形態に対立物が相互に浸透し、移行しあう対立物の相互浸透(相互移行)と、対立物が相互に排除し合う対立物の相互排斥(矛盾)とがあります。どちらも対立する二つのものが相互媒介の関係におかれているので「絶対的真理に適合」しているのです。
 第七九節以下の「論理学のより立入った概念」(㊤二四〇ページ)において、「論理的なものは形式上三つの側面」(同)をもち、その二つめの側面が「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」(同)であることを学びました。
 この二つめの側面は「有限な諸規定の自己揚棄であり、反対の諸規定への移行」(同二四五ページ)としてとらえられ、有限なものは自分自身を揚棄して自己に対立するものを定立するとされています。したがってすべての「具体的なもの」は、有限なものとして単に「自分自身のうちに区別および対立を含む」というより、「自己のうちに対立を定立する」ことによって「自分自身のうちに区別および対立を含む」のであり、対立を含むことによって対立物の相互媒介により運動するというべきものでしょう。
 「事物の有限性は、その直接的定有が、それが即自的にあるところのものに適合していないことにある。例えば無機的自然において酸は即自的には同時に塩基である。すなわち、それに固有の他者に関係しているということのみが、その有をなしているのである。だから酸はまた対立のうちに静かにとどまっているものではなく、常に自己の即自を実現しようと努めているものである」(三三ページ)。
 予備概念で、「有限な事物が亡びなければならない」(㊤一二五ページ)のは「その存在は概念に適合していない」(同)からであることを学びました。
 「事物の有限性」は、その存在(「直接的定有」)がそれの「即自的に(本来的に ── 高村)あるところのもの」、真にあるべき姿に適合していないことにあります。つまり有限な事物(世界にあるすべての事物)は、自己のうちに自己を否定する「固有の他者」を定立してもっており、「常に自己の即自(本来の姿 ── 高村)を実現」しようとして、自己と自己の「固有の他者」との間の「静か」な対立から動的な矛盾へと移行していくのです。酸はガラス瓶の中に密閉しておかないと、アルカリと結合して「自己の即自」である塩基に移行します。

世界を動かすものは矛盾である

 「一般に、世界を動かすものは矛盾である。矛盾というものは考えられないと言うのは、わらうべきことである。このような主張において正しい点はただ、矛盾は最後のものではなく、自分自身によって自己を揚棄するということである」(三三ページ)。
 矛盾というカテゴリーに焦点をあてたのは、カントのアンチノミーでした。ヘーゲルは「矛盾が本質的であり必然的であるという思想は、近代の哲学の最も重要な、最も根本的な進歩の一つ」(㊤一八四ページ)ととらえ、そこから無限なもの、運動するものをとらえる論理を引き出してきたのです。
 「世界を動かすものは矛盾」であるとの命題は、科学的社会主義の哲学、弁証法的唯物論と史的唯物論を支える根本的命題となっています。すべてのものは自分自身のうちに対立をもち、その対立はいつまでも「対立のうちに静かにとどまっているものではなく」、対立物の相互浸透の状況から矛盾へと移行し、対立物の闘争となります。しかしこの矛盾もまた「最後のものではなく」、矛盾の解決によって「自分自身によって自己を揚棄」し、発展していくのです。ヘーゲルは対立と矛盾との区別を曖昧にしているとの批判もありますが、そうではないと思います。というのもヘーゲルは、『大論理学』においては、区別を、差別(差異)、対立、矛盾としてとらえながら『小論理学』では対立と矛盾を区別せず、対立のうちに矛盾を含めているからです。ここには、対立と矛盾をめぐるヘーゲルの思想の発展があり、次節にみるように対立と矛盾の区別を絶対化するのではなく、差別が対立へと進展したのと同様に、対立も矛盾へ進展するものとしてとらえるべきだとの考えから、『大論理学』のとらえ方から『小論理学』のとらえ方へと進展したものでしょう。
 社会発展の原動力は階級闘争です。階級社会においては階級間の利害は搾取するものとされるものとの間で対立するところから、階級間の対立が生まれます。この静止的な階級対立は、動的な階級間の矛盾へと進展し、この矛盾が階級闘争となってあらわれ、矛盾の解決として社会発展が実現することになるのです。
 矛盾の解決としての自己揚棄について、「論理学のより立入った概念」では次のように述べています。
 「思弁的なものあるいは肯定的理性的なものは、対立した二つの規定の統一を、すなわち、対立した二つの規定の解消と移行とのうちに含まれている肯定的なものを把握する」(㊤二五二ページ)。
 矛盾の解決または矛盾の揚棄とは、「対立した二つの規定の解消」をつうじて「肯定的なものを把握」することであり、これにより対立する二つの規定は、矛盾の揚棄により新しく生まれた肯定的なもののうちの二つのモメントとなるのです。
 「揚棄された矛盾は、しかし、抽象的な同一性ではない。同一性はそれ自身対立の一項にすぎないからである。矛盾として定立された対立の最初の結果は根拠(Grund)であって、それはそのうちに同一性ならびに区別を、揚棄され単なる観念的モメントへおとされたものとして、含んでいるものである」(三三ページ)。
 矛盾の揚棄として生じた対立物の統一とは、対立という区別が消滅した「抽象的な同一性」ではなく、対立する二つのものを自己のうちに「観念的モメント」として含む統一なのです。
 こうして区別は、差別から対立へ、対立から矛盾へと進展します。さらに矛盾は矛盾の揚棄へと発展し、矛盾の揚棄としての統一は、またあらたな自己内の対立、矛盾へと進展していくことになります。
 同一と区別という矛盾の「揚棄」された「最初の結果は根拠」であり、根拠は「そのうちに同一性ならびに区別」を「観念的モメント」として含んでいるのです。
 同一と区別という矛盾の揚棄による、より発展した結果は概念、理念となります。

一二〇節 ── 対立物の相互媒介による統一

 「肯定的なものとは、向自的であると同時に自己の他者へ無関係であってはならないような、差別されたものである。否定的なものも同様に独立的で、否定的とはいえ自己へ関係し、向自的でなければならない。しかしそれは同時に、否定的なものとして、こうした自己関係、すなわち自己の肯定的なものを、他のもののうちにのみ持たなければならない。両者はしたがって定立された矛盾であり、両者は潜在的に同じものである。また、両者はそれぞれ他方の否定であるとともに自分自身の否定であるから、両者は顕在的にも同じものである。両者はかくして根拠へ帰っていく」(三四ページ)。
 肯定的なものは、否定的なものと関係することによって「向自的(自立的 ── 高村)である」のであり、同様に否定的なものも肯定的なものと関係することによって「独立的なもの」となっています。したがって両者は、いずれも固有の他者に関係しつつ独立しているという「定立された矛盾」のうちにあり、どちらの側からみても固有の他者に媒介されつつ独立しているという意味で「潜在的に同じもの」です。
 また両者は他方を否定して独立しようとしながら、それによって逆に自分自身を「否定」することになり、「顕在的にも同じもの」となります。
 つまり肯定的なものと否定的なものという対立物は、潜在的にも顕在的にも同一であると同時に区別される同一と区別の統一として「根拠へ帰って行く」のです。
 一一九節補遺二で、対立物の相互媒介的統一には、対立物の相互浸透と対立物の相互排斥(矛盾)の二種類があることをお話ししました。前者は対立する二つのものの相対的に安定し固定した状態をあらわす調和的統一であるのに対し、後者は対立する二つのものが相互に排斥しあい、対立を揚棄した新しい質に発展する排斥的統一です。
 対立物の統一がなぜこの二種類となるのかを本節では説明しています。すなわち対立する二つのものは、独立と同時に非独立として矛盾のうちにあります。したがって一方が独立しようとしてその固有の他者の存在を否定しようとすること(対立物の相互排斥)は、固有の他者あっての非独立の自分自身ですから「他方の否定であるとともに自分自身の否定」(対立物の相互浸透)にならざるをえないのです。
 したがって対立物の相互媒介的統一にあっては対立物の相互排斥は同時に対立物の相互浸透であって、両者は同一であると同時に区別であるという関係のうちにあります。このため、調和的統一と排斥的統一とは相互移行の関係にあり、このうちの調和的統一から排斥的統一への移行が「対立から矛盾への移行」とよばれているのです。
 八九節で「一般に、矛盾、すなわち対立する二つの規定が指摘されえないような、また指摘されずにすませるようなものは一つもない」(㊤二七八ページ)として、矛盾と対立とを区別することなく使用しているのも、対立と矛盾が相互移行の関係にあることを前提とした表現になっているのです。
 ヘーゲルは、肯定的なものと否定的なものという対立の関係にある二つのものは「定立された矛盾」として自己を止揚し、対立する二つのものを自己のうちに含む統体性(三五ページ)となるといっています。これが「揚棄された矛盾」、言いかえれば矛盾の解決としての発展といわれるものです。これから学ぶように、ヘーゲルは根拠を肯定的なものと否定的なものとの「矛盾の揚棄」の一つの例としてとらえています。
 一一二節補遺で、「本質の立場は一般に反省の立場である」(一〇ページ)ことを学びましたが、ここに至って、本質の立場は単に対象を反省関係のうちにある「媒介されたものとして知ろうとする」(一一ページ)にとどまらず、対立物の相互媒介による統一として知ろうとするものです。
 「あるいは、直接的に言えば、本質的な区別は即自かつ対自的な区別であるから、それはただ自分自身から自己を区別するのであり、したがって同一的なものを含んでいる。したがって、区別の全体、即自かつ対自的(対立的は誤字 ── 高村)にある区別には、区別自身のみならず同一性も属するのである」(三四ページ)。
 結局、本質が自己のうちに定立する区別は、「即自かつ対自的な(絶対的な ── 高村)区別」(三一ページ参照)としての肯定的なものと否定的なものであり、この対立する二つのものは同一と区別の反省関係にありますから、この「区別には、区別自身のみならず同一性も属する」のです。
 「自分自身へ関係する区別と言えば、それはすでに、この区別が自己同一的なものであることを言いあらわしているのであり、対立したものは一般に、或るものとその他者、自己と自己に対立したものとを自己のうちに含んでいるものである。本質の内在性がこのように規定されるとき、それは根拠である」(同)。
 これまで学んできたように、本質とは、有の反省から生まれた有の「内在性」としての有の真の姿です。その意味では本質は有に内在する有との同一性であるということができます。
 しかし本質の同一性は、自己のうちに「自己に対立したもの」としての区別を含んでいる同一という「定立された矛盾」であり、この矛盾を揚棄して外在性に転化しようとする衝動をもっているのです。
 「本質の内在性」がこのような矛盾として外在性への衝動をもつものとして規定されるとき、「それは根拠」なのです。

「ハ 根拠」

一二一節 ── 本質は根拠になる

 「根拠(理由)は同一と区別との統一、区別および同一の成果の真理、自己へ反省すると同じ程度に他者へ反省し、他者へ反省すると同じ程度に自己へ反省するものである。それは統体性として定立された本質である」(三五ページ)。
 根拠(Der Grrund)は、理由とも訳されており、根拠と根拠づけられたものという一対をなすカテゴリーとして使われています。根拠は「自己へ反省」した同一性であるのと「同じ程度に他者へ反省」した区別であり、区別されると同じ程度に同一な、同一と区別の統一です。つまり根拠は根拠づけられたものとの関係において内容上同一であると同時に形式上区別されたものであり、根拠づけられたものは根拠との関係において形式上区別されていると同時に内容上同一なのです。
 本質はいまや「区別および同一の成果の真理」としての「根拠」という「統体性として定立された本質」となってあらわれており、他者(有)を根拠づけようとしているのです。
 本質は事物の内にある真の姿であるというにとどまらず、内から外にあらわれ出るものです。本質は内から外にあらわれ出るかぎりにおいて根拠であり、本質として外にあらわれ出るかぎりにおいて同一と区別の統一なのです。ここにきて、ようやく見出しとなっている「A 現存在の根拠としての本質」がとらえられることになります。
 一言注意しておきたいのは、根拠は本質にかぎらないということです。或るものが何でそのようにあるのかを根拠づけ、理由づけるものはすべて根拠であり、本質は内から外にあらわれ出て「現存在」(現に存在するもの)を根拠づけるかぎりにおいて根拠となるにすぎません。また本質としての根拠は一つの事物の内と外の関係における根拠でしたが、根拠はこのような場合だけではなく、二つの事物の間の関係においても成立するのです。
 一二三節で論じられる「現存在」は「根拠と根拠づけられたものとの相互依存および無限の連関からなる世界を形成する」(四三ページ)とされていますが、この場合の「根拠と根拠づけられたもの」とは二つの事物の関係を論じているのです。
 根拠と似かよったカテゴリーとして原因があります。根拠と根拠づけられたものは、単に媒介された相関をとらえたカテゴリーなのに対し、原因と結果とは単なる相関ではなく、必然的な相関、絶対的な相関をとらえたカテゴリーとして、後者の方がより高いカテゴリーとなっています。
 「すべてのものはその十分な根拠を持っているというのが、根拠の原理である」(三五ページ)。
 すべて存在するものには、そのようなものとして存在するだけの十分な根拠(理由)があるというのが「根拠の原理」といわれるものです。「十分な理由」は「充足根拠」ともよばれるところから、この「根拠の原理」は「充足理由律」といわれています。形式論理学の基本法則は、同一律、矛盾律、排中律の三法則とされてきましたが、ライプニッツは、それに「充足理由律」を加えて四つの基本法則にするという功績を残しました。
 或るものはそのものの本質を根拠とすることによって存在しているのであって、或るものの存在根拠となる「真の本質」(同)とは、或るものと同一であると同時に区別されたもの、肯定的であると同時に否定的なものと規定するしかないことを意味しています。
 すなわち「或るものは、他のもののうちに自己の存在」(同)根拠をもっており、「この他のもの」(同)が「或るものの本質」(同)なのです。そして本質という他のものは、根拠として「他者のうちへ反省」(同)し、或るものを根拠づけるのです。
 「根拠とは、自己のうちにある本質であり、そしてこのような本質は、本質的に根拠である。そして根拠は、それが或るものの根拠、すなわち或る他のものの根拠であるかぎりにおいてのみ、根拠である」(同)。
 本質は根拠であり、或るものを根拠づける「根拠であるかぎりにおいてのみ」根拠なのです。
 
一二一節補遺 ── 根拠を問うことは反省の立場

 「根拠は同一と区別との統一であると言う場合、われわれはこの統一を抽象的な同一と考えてはならない。……だからわれわれは、こうした誤解を防ぐために、根拠は同一と区別との統一であるにとどまらず、また両者の区別でもある、と言うこともできる。これによって、まず矛盾の揚棄として生じた根拠は、一つの新しい矛盾としてあらわれる」(三五~三六ページ)。
 根拠を「同一と区別との統一」と規定するのは正しいのですが、しかし、それは調和的統一として静止しているような統一ではありません。一二〇節で学んだように、根拠は「定立された矛盾」であり、この矛盾を揚棄するものとして自己のうちにある区別を定立して外にあらわれ出るのです。
 しかしこの「矛盾の揚棄として生じた」根拠づけられたものも、根拠からあらわれ出たものとして根拠から区別されると同時に根拠のあらわれとして根拠と同一なものです。したがって根拠づけられたものもまた同一と区別の統一として新しい根拠であり、「一つの新しい矛盾としてあらわれ」ます。こうして根拠と根拠づけられたものとの無限の連鎖、連関が生じるのです。
 「根拠は、それが根拠づけるものであるかぎりにおいてのみ、根拠である。しかし根拠から出現したものは、根拠自身であり、ここに根拠の形式主義がある。根拠づけられたものと根拠とは同じ内容であり、両者の相違は、一方は単なる自己関係であり、他方は媒介あるいは定立されたものであるという、単なる形式上の相違にすぎない」(三六ページ)。
 根拠から出現したものは根拠のもつ同一と区別の統一のあらわれとして「根拠自身」であり、したがって根拠と根拠づけられたものとは「同じ内容」であって、両者は「単なる形式上の相違にすぎない」から、根拠は「形式主義」だというのです。つまり根拠と根拠づけられたものとは「同じ内容」でありながら、前者が「単なる自己関係」であり、後者が「媒介あるいは定立されたもの」という「単なる形式上の相違にすぎない」のです。
 「われわれが事物の根拠を問う場合、それは一般に、すでに述べたような(一一二節の補遺)反省の立場であって、われわれは言わば事柄を二重にみようとするのである。すなわち、一度は直接態において、次にはそれがもはや直接態のうちにないところの根拠において。これが、十分な根拠の原理と呼ばれている思惟法則の簡単な意味でもあって、この法則が言いあらわしているのは、事物は本質的に媒介されたものとみられなければならないということにすぎない」(同)。
 根拠を問うことは、一一二節補遺で学んだように「対象を直接態においてでなく、媒介されたものとして知ろう」(一一ページ)とする「反省の立場」であり、事物を「二重にみようとする」ものです。
 これが「すべての物には十分な根拠がある」という充足理由律の原理であり、「事物は本質的に媒介されたものとみられなければならない」ことを意味しています。
 形式論理学は、この「十分な根拠の原理」を主張しながら、なぜこの思惟法則が認められるのかについて「導出もせずその媒介を示しもしないで、揚げて」(三六~三七ページ)いるところに問題を残しています。というのも「論理学は少くとも根拠とは何かという問には答えなければならない」(三七ページ)からです。
 論理学の仕事は「把握も証明もされていない諸思想を、思惟の自己規定の諸段階」(同)、つまりカテゴリーの発展の諸段階に位置づけ、それを思惟の形式として把握し、その必然性を証明するものでなければなりません。ヘーゲルは、形式論理学と異なり、自分は本質のカテゴリーから出発し、その展開をつうじて「根拠とは何か」の必然性を証明したと自負しているのです。
 このように根拠は、事物を媒介されたものとしてとらえる重要な思惟法則の一つなのですが、「まだ絶対的に規定された内容を持たない」(三八ページ)から、「理論においても実践においても決して決定的な満足を与えることはできない」(三七~三八ページ)のです。
 その理由をみていくことにしましょう。
 「さらにまた根拠は、単に自己同一なものであるにとどまらず、区別されてもいるから、同じ内容にたいしてさまざまな理由を挙げることができる。そしてさまざまの理由というこの差別性は、区別の論理にしたがって、同じ内容を肯定する理由および否定する理由という形における、対立にまで進んでいく」(三八ページ)。
 根拠は、同一のみならず区別でもありますから、根拠づけられる「同じ内容」にたいして区別された「さまざまな理由」(根拠)を挙げることができます。この理由(根拠)の多様性は、相互に無関係な「差別性」として「同じ内容を肯定する理由」にもなれば、それを「否定する理由」にもなり、理由の対立にまで進んでいくのです。国会論戦や裁判闘争では「同じ内容」にかんする対立した理由があげられ、そのいずれが正当なのかをめぐって争われることになります。
 したがって「すべてのものはその十分な根拠を持っている」との命題における「十分なという形容詞は余計なものであるか、そうでないとしたら、理由というカテゴリーを越えたもの」(三九ページ)なのです。理由が理由であるかぎり「十分な」理由とはいえないのです。言いかえると理由は理由でありさえすれば何でもいいのであって、「理屈と膏薬は、何にでもくっつく」のです。
 「理由というものは、まだ絶対的に規定された内容を持たず、したがって自ら活動し産出するものでないからである。第三部で示されるように、このような絶対的に規定された、したがって自己活動的な内容は、概念である」(同)。
 「まだ絶対的に規定された内容を持た」ない理由というものは、そもそも「いかなる理由も十分ではない」(同)のです。「十分な理由」とよぶのにふさわしいのは、第三部「概念論」の概念です。概念は自己媒介により自己産出するものとして「絶対的に規定された、したがって自己活動的な内容」をもっているからです。ライプニッツが充足理由律を主張し、すべての事物は「十分な根拠」(同)の見地のもとにみるべきだとするときの根拠とは、実は、この「概念」にほかなりません。
 「ライプニッツはこの見地から作用因と目的因とを対置し、作用因に立ちどまらず、目的因にまでつき進むことを要求している」(四〇ページ)。
 ガリレイの落下の実験は、アリストテレス的自然観から目的因を一掃し、機械的自然観をうちたてる契機となりましたが、ついにはラ・メトリの「人間機械論」を生み出す極論にまで突き進みました。
 これに対して、ライプニッツは、生物において再び目的因を導入しようとしました。植物がその環境に適応して生きていくための独特の形態をもっているのは、目的因をもっているからだという正しい考え方に立ち、生物における目的因を生物の諸形態を規定する「十分な根拠」ととらえたのです。その意味では目的因は「植物そのものの概念にほかならない」(同)のです。
 紀元前五世紀、ギリシアに「ソフィスト」(同)と呼ばれる職業的啓蒙教師が存在しました。今日では彼らは「正しいものや真実なものをねじまげ」(同)る「詭弁家」とされています。しかしヘーゲルにいわせると、ソフィストの立場は「理由づけの立場」(同)であり、彼らは「法律および道徳の領域」(同)においてさまざまの理由を持ち出して、これまでの「権威や伝統」(同)をゆさぶったにすぎません。ソフィストたちは「どの理由が重要であるかを決定するものは、主観」(四一ページ)にすぎないとし、「どれをとるかは各人の個人的な心術および意図の問題」(同)だとして、「絶対に妥当するもの」(同)を否定したために「当然の悪評を招」(同)くことになったのでした。
 これに対しソクラテスはソフィストたちのように、単に理由づけの立場から「権威や伝統」に立ち向かうのではなく、「単なる理由というものの無定見を弁証法的に指摘し、それにたいして正義や善、一般に普遍的なものあるいは意志の概念を主張することによって、かれらと論争した」(同)のです。
 ヘーゲルは、今日のような「反省と理由づけにみちた時代」(同)には、「最も悪く最も不合理なものにたいしてさえ、何かしかるべき理由を持ち出すことのできないような者は成功はおぼつかない。すべて世の中の腐敗したものは、しかるべき理由があって腐敗したのである」(四一~四二ページ)として、時の権力者の持ち出す理由を厳しく批判しています。
 しかし理由のもつ限界が分かってくると、「人々はそんなものになかなか耳を傾けなくなり、またそんなものにもはや威圧されなくなる」(四二ページ)のです。今回の総選挙(二〇〇九年八月)は、自公政治ノーという明白な審判の下された選挙でした。国民はもはや自公政権のいう「国民のため」というお為ごかしの理由には欺されなくなったのです。国民の政治的自覚の前進は、民主党中心の新政権に対しても同様に「もはや威圧され」ることなく、国民の目線にたって批判的に検討していくことになるでしょう。

一二二節 ── 現存在とは根拠からあらわれ出たもの

 「本質はまず自己のうちで反照し媒介されているものである。しかし媒介が完成されたからには、本質の自己統一は今や区別の揚棄、したがって媒介の揚棄として定立されている。したがってこれは直接態あるいは有の復活である。が、この有は媒介の揚棄によって媒介されている有、すなわち現存在である」(同)。
 本質とは、有が「自己のうちで反照」したものとして有に媒介されつつ、その媒介を揚棄したものです。しかし有の媒介性を揚棄した本質は、今度は逆に根拠として根拠づけられたものへと媒介され、この「媒介が完成」すると、本質は根拠づけられたものと一体となり、「媒介の揚棄として定立され」るのです。つまり、有の揚棄としての本質は、今一度自らを揚棄して有と一体となり「直接態あるいは有の復活」となります。このように本質は内から外にあらわれ出るかぎりにおいて現存在の根拠となります。
 前節でみたように、根拠には単なる根拠一般と、本質としての根拠があります。根拠は或るものを根拠づけあらわれ出ることによって根拠となりますが、単なる根拠一般からあらわれ出たものが「b 現存在」であるのに対し、本質としての根拠があらわれ出たものが「B 現象」「C 現実性」となります。
 「根拠は絶対的に規定された内容を持たず、また目的でもない。したがってそれは活動的でも産出的でもなく、現存在は根拠から単にあらわれ出るにすぎない」(同)。
 一二一節補遺で学んだように、根拠は概念でも目的因でもありませんから、それ自身として「活動的でも産出的でも」ありません。
 したがって根拠のあらわれとしての現存在は、たまたまある一つの根拠からあらわれ出た有というものにすぎません。
 「したがって特定の根拠と言ってもやはりそれは形式的なものである。言いかえれば、それはどんな規定性でもいいのであって、ただそれと連関している直接的な現存在との関係において、自己関係的なもの、肯定的なものとして定立されているものであればいいのである」(同)。
 現存在は、「特定の根拠」からあらわれ出るものですが、その特定の根拠とは「どんな規定性でもいい」のであり、その現存在が何らかの根拠をもって存在しているという「肯定的なものとして定立」されていれば、それで根拠としては十分なのです。
 「それは根拠でありさえすれば、同時にしかるべき根拠でもある。というのは、しかるべきという言葉は、全く抽象的には、肯定的ということを意味するにすぎず、われわれがなんらかの仕方で明白に肯定的なものとして言いあらわしうる規定性は、すべてしかるべきものであるからである」(四二~四三ページ)。
 「しかるべき」の原語は、「gūt」(英語のグッド)であり、この訳はなかなかの名訳といえます。グートとは抽象的な肯定的規定性を意味するにすぎませんから、根拠は根拠であるかぎりすべて「しかるべき根拠」であり、そうでない根拠など存在しないのです。
 「だから、われわれは、あらゆるものにたいして、なんらかの根拠を見出し挙げることができ、しかるべき根拠(例えば行動のしかるべき動機)なるものは、何事かをひきおこすかもしれないし、またひきおこさないかもしれない、結果を持つかもしれないし、また持たないかもしれない」(四三ページ)。
われわれは「あらゆるものにたいして、なんらかの根拠」を見出し、主張することができるのであって、それはすべて「しかるべき根拠」ではあっても、それは「何事かをひきおこすかもしれないし、またひきおこさないかもしれない」という程度のものにすぎないのです。
 「しかるべき理由は、意志のうちへ取り入れられてはじめて何事かをひきおこす動機となるのであり、意志がはじめてそれを活動的なもの、原因とするのである」(同)。
 しかるべき根拠は、概念や目的と違ってそれ自身「活動的なもの」ではありませんから、第三部概念論の二三三節以下の「意志」と結びついてはじめて「活動的な」原因となるのです。