『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第二八講 第二部「本質論」④

 

一、「A 本質」 「b 現存在」

 第二七講をつうじて、本質は現存在の根拠となるものであることを学びました。
 現存在(Die Existenz)は、訳者によっては「現存性」とか「実在性」と訳されていますが、現に存在するもの、客観的に存在する物という意味ですから、「現存在」の訳が一番いいと思います。
 この「現存在」から、根拠というカテゴリーを媒介にして一つの事物の内部の関係ではなく、二つの事物の間の媒介された関係を論じることになり、客観世界全体の相互媒介にまで対象が拡大されていきます。
 
一二三節 ── 現存在は相関的であり無限の連関を形成する

 「現存在は、自己のうちへの反省と他者のうちへの反省との直接的な統一である。したがってそれは、自己のうちへ反省すると同時に他者のうちへ反照し、相関的であり、根拠と根拠づけられたものとの相互依存および無限の連関からなる世界を形成する、無数の現存在である。ここでは根拠はそれ自身現存在であり、現存在も同じく、多くの方面に向って、根拠でもあれば根拠づけられたものでもある」(四三ページ)。
 ここにいう「自己のうちへの反省」「他者のうちへの反省」は、これまでに学んだように「自己関係」「他者への関係」です。現存在は、自立していると同時に他者を根拠づけ、あるいは他者に根拠づけられるという媒介された関係にあり、さらにこれを普遍化して表現すれば、直接性と媒介性の統一なのです。「直接的な統一」というのは、直接性と媒介性の統一の最初の形態であることを意味しています。その発展した形態は「現象」や「現実性」であり、こうして「本質論の全体は、直接性と媒介性との本質的な相互定立的な統一を取扱う」(㊤二二二ページ)ものとなっているのです。
 「現存在」とは、現に存在するもの、つまり客観世界を構成する物、物質です。もろもろの物は他の物との間に根拠づけたり、根拠づけられたりする「相関的」関係をもつことにより、「根拠と根拠づけられたものとの相互依存および無限の連関からなる」客観世界を形成するのです。
 この相互媒介の関係がより進展して恒常的な法則の関係となったものが、「B 現象」「c 相関」における「現象の法則」や「C 現実性」の絶対的な相関(実体性の相関、因果性の相関、交互作用)という「必然の法則」なのです。
 こうして客観世界は、それを構成する「無数の現存在」の「根拠と根拠づけられたものとの相互依存および無限の連関からなる世界」となっているのです。
 一二一節でお話ししたように、現存在における「根拠と根拠づけられたものとの相互依存」は、本質と有という一つの事物の内部の関係を論じたものではなく、二つの事物の間の相関的な関係として論じられています。

一二三節補遺 ── 客観世界は無数の現存在の無限の媒介の世界

 「Existenz〔現存在〕という言葉は、ラテン語のexistere〔出現する〕という動詞から作られたものであって、出現している有を示す。すなわち現存在とは、根拠から出現し、媒介を揚棄することによって回復された有である」(四四ページ)。
 直接性と媒介性の統一における「直接性」とは、媒介を揚棄した直接性であることを第一五講(『ヘーゲル「小論理学」を読む』②三七八ページ)で学びました。
 現存在とは、ラテン語の語源からしても根拠から「出現している有」であり、根拠に媒介されながらその媒介を揚棄し、あたかも自立した存在であるかのような直接性を「回復した有」、つまり現に存在するものなのです。
 「本質は揚棄された有であるから、まず自己のうちにおける反照であり、そしてこの反照の諸規定は同一、区別、および根拠であった。根拠は同一と区別との統一であり、したがって同時に自己を自分自身から区別するものである。ところで、根拠から区別されたものは、根拠そのものが単なる同一性でないように、単なる区別ではない。根拠は自己を揚棄するものである。そして根拠が自己を揚棄して移っていくもの、すなわち根拠の否定の結果が、現存在である。これは根拠から出現したものであるから、根拠をその内に含んでおり、そして根拠は現存在の背後にとどまっているものではなく、自己を揚棄して現存在へ移っていくものである」(四四ページ)。
 ここは、有から根拠へいたる過程と、根拠から現存在へいたる過程のカテゴリーの展開を論理的にまとめた箇所です。まず本質は「揚棄された有」として、有と同一な有の真の姿であると同時に、有のもつ多様性を自己のうちに区別としてもつ、同一と区別の統一としての根拠となります。
 他方で根拠は、根拠であるがゆえに、「自己を揚棄して、現存在へ移っていく」のです。現存在は根拠のあらわれであり、根拠は同一と区別の統一ですから、そのあらわれとしての現存在も根拠と同一であると同時に、根拠から区別されたものでもあるのです。こうして現存在は、同一と区別の統一としてそれ自身もまた根拠となって他の現存在を根拠づけることになります。
 このように根拠は「単に内面的なものではなく、それ自身再び一つの現存在」(同)となり、またそのあらわれとしての現存在は他の現存在の根拠となり、こうして「無限の連関からなる世界」(四三ページ)を形成しているのです。
 「これが一般に、現存在する世界が最初にわれわれの反省の前にあらわれる姿である。それは、自己へ反省すると同時に他者へ反省し、互に根拠および根拠づけられたものとして関係しあっている無数の現存在である」(同)。
 「現存在する世界」とは、物質世界、客観世界のことです。物質世界は無数の現存在するもの(物)から成っています。現存在するものは、個々に自立した(「自己へ反省」した)存在ですが、しかし自立しながらも他の現存在に媒介され、関係しあうことで(「他者へ反省」して)自己も存在することができるという関係にあるのです。
 エンゲルスは「弁証法というものは、事物とその概念上の模写とを、本質的にそれらの連関、連鎖、運動、生成と消滅においてとらえるものである」(全集⑳二二ページ)と述べていますが、ヘーゲルは、ここで根拠と根拠づけられたもののカテゴリーを使って、客観世界の「連関、連鎖」一般をとらえているのです。
 しかしこのような相互に媒介し合う無限の連関においては、すべてのものは「他のものに制約されるとともに、他のものを制約する相対的なものとしてのみあらわれている」(四四~四五ページ)のです。つまり現存在するものは、他のものによってはじめて存在すると同時に、「他のものを制約」して独り立ちさせないという、相互にもたれ合う「相対的なものとしてのみあらわれている」のであって、「どこにも確かな拠りどころが見出されない」(四四ページ)のです。
 「反省的悟性はこれらの全面的関係を探り追求することを仕事としているのであるが、それでは、究極目的は何かという問題は解決されないままに残る。したがって概念をとらえようとする理性は、論理的理念の一層の発展とともに、このような単なる相対性の立場を越えて進んで行くのである」(四五ページ)。
 直接性と媒介性の統一の立場にたつかぎり、「無限の連関」からなる相対的で悟性的な世界があらわれるのみであって世界の「究極目的は何か」という理性的な問題は解決されないままに残ります。「究極目的」とは、世界を動かす根本原因という意味であり、ヘーゲルは、「ヌースあるいは精神(これはヌースのより深い規定である)が世界の原因」(㊤七四ページ)であって、「世界のうちには理性がある」(同一一七ページ)といいたいのです。
 そこで認識は、この「相対性の立場」を乗り越え、概念、理念という絶対的なもの、理性的なものに向かって前進していくことになるのです。

一二四節 ── 現存在するものは「物」

 「しかし、現存在するものの他者への反省は、自己への反省と不可分である。なぜなら、根拠は両者の統一であって、現存在はこの統一からあらわれ出たものだからである。したがって、現存在するものは、相関性、すなわち諸他の現存在と自分とのさまざまな連関を、自分自身のうちに含み、根拠としての自己のうちへ反省している。かくして、現存在するものは物である」(四五ページ)。
 前節でみたように、「現存在する世界」とは物質世界のことであり、この「現存在する世界」は、現存在するもの、すなわち「物」から成り立っています。
 前節で現存在するものは「自己への反省」として自立していると同時に「他者への反省」として他の現存在に媒介されていることを学びましたが、本節では、現存在する一つの物のうちにおける自己への反省と他者への反省をみていくことになります。つまり、現存在するものは「相関性、すなわち諸他の現存在と自分とのさまざまな連関を、自分自身のうちに含み」つつ「自己のうちへ反省している」のです。物のうちにおける自己への反省とは物における自分自身、つまり物自体であり、他者への反省とは物がもつ諸性質にほかなりません。
 一二三節で現存在は「根拠でもあれば根拠づけられたものでもある」(四三ページ)として「無限の連関からなる世界を形成する」(同)ことを学びましたが、物と物との間に無限の連関を生みだすものこそ、「諸他の現存在と自分とのさまざまな連関」を示す物のもつ諸性質なのです。すなわち物は、諸性質をもつことにより、その諸性質を媒介にして他の物と連関することができるのです。
 「有においてはすべてが直接的であり、本質においてはすべてが相関的である」(㊤三三二ページ)ことを学びましたが、物質世界を構成するすべての物は、物相互の関係においても、個々の物のうちにおいても「相関性」をもつのであり、こうして一三五節以下の「本質的な相関」(六四ページ)や一五〇節以下の「絶対的な相関」(一〇三ページ)が論じられることになるのです。
 定有のところで、定有とは即自有と向他有の統一であることを学びましたが、現存在においてはそれがさらに展開し、物自体と諸性質の統一としての「物」としてとらえられることになります。
 「カント哲学においてあんなに有名になった物自体(ディング・アン・ジッヒ)は、ここでその発生において示される。すなわちそれは、他者への反省および一般に異った諸規定が排除されて、そうした諸規定の空虚な基礎である抽象的な自己内反省が固執されているものである」(四五ページ)。
 ここまでくると、カントの「物自体」とは何であったかが「その発生において示される」のです。つまり物とは、物自体と諸性質の統一であるのに、カントの「物自体」は他者との関係(諸性質)を排除しているために、抽象的な自己関係という空虚なものになっているのです。

一二四節補遺 ── 「自体」とは未展開な無規定性

 「物自体は認識できないものであるという主張は、次のよう意味でのみ正しい。すなわち、認識するとは、対象を具体的な規定性においてとらえることを意味するのに、物自体は、全く抽象的で無規定の物一般にすぎないのである」(同)。
 認識するとは、「対象を具体的な規定性においてとらえること」というのは、なかなか鋭い見方であり、「真理は常に具体的である」との唯物論的命題にもつながるものです。
 カントは「物自体」を認識できないと主張しました。その「物自体」とは「全く抽象的で無規定の物一般」にすぎないのですから、こういう具体的規定性(諸性質)を排除した物自体を認識しえないのは当然のことなのです。
 一般に「自体」という言葉は「展開および内的規定性が捨象されている」(四六ページ)「単なる直接性」(同)という意味ですから、それを物だけに適用すべき理由はなく、「質自体とか量自体とか言うこともできる」(同)のであって、カントのように「物自体」だけに特別の意味をもたせるのは、「悟性の気まぐれの一つ」(同)にすぎません。
 人々は「人間自体とか国家自体とかいうような言葉を用い、自体という言葉によってこれらの対象の正しい本来の姿を意味させている。こうした言葉についても、物自体一般についてと全く同じことが言える。すなわち、われわれが対象の単なる自体にとどまっているならば、われわれはこれらの対象をその真の姿においてではなく、単なる抽象という一面的な姿においてとらえるのである」(同)。
 また「人間自体とか国家自体」ということによって、これらの対象の「正しい本来の姿を意味」するものと考える人がいますが、この場合も「物自体一般」と「全く同じこと」がいえます。
 すなわち、単なる自体という言葉は未展開で無規定なものを意味していますから、対象を完成された「その真の姿」においてとらえるものではなく「単なる抽象という一面的な姿においてとらえる」ものでしかありません。
 例えば「人間自体」というと、無規定で未発展な即自的な人間、つまり「子供」を指しますが、子供は「自由で理性的な」(同)対自的存在となって、はじめて真の人間といえるのです。
 同様に国家自体とは、生まれたばかりで「まだ発達しない族長的国家」(同)であって、そこではまだ「国家の概念のうちに含まれているさまざまな政治的機能が、概念に適合した構成にまで達していない」(同)のであって、けっして国家本来の姿ではないのです。
 「すべての事物は最初は即自的にある。しかしそれはそこにとどまっているものではなく、あたかも植物自体である胚が本質的に発展するものであるように、物一般もまた抽象的な自己内反省である単なる自体を越えて進み、更に他者への反省として自己を示すにいたる。かく考えられるとき、物は諸性質を持つのである」(四六~四七ページ)。
 すべての事物は、最初は無規定な「即自」態としての、そのもの「自体」としてあります。しかし「植物自体である胚が本質的に発展するものであるように」、物一般も無規定で抽象的な「単なる自体を越えて進み」、自己内反省から「他者への反省」として自己を展開して規定し、対自態となるのです。物も自己内反省としての物自体から、他者への反省としての「諸性質を持つ」ことにより、対自態としての「物」となるのです。

 

二、「A 本質」 「c 物」

物と物質

 テキストに入る前に物と物質の異同について検討しておきましょう。
 ドイツ語で「物」はディング、「物質」はマテーリアです。一般には物とは客観的に存在する具体的な個物、物体であり、物質とは物体を構成する抽象的普遍的な実体ということができるでしょう。
 しかし当時の物理学では、物質の実体が粒子(アトム)かエーテルかの論争のもとにあり、ましてや量子力学は存在しませんから、物質を粒子と波動の統一としてとらえることはありませんでした。その後の物理学は、物質の実体は粒子であるとの考えから、分子、原子、陽子、中性子などの粒子が次々と発見され、現在の量子論へと発展していくことになります。
 二十世紀の初頭、それまで物質はすべて質量をもつものとして理解されていたところ、電子は質量をもたないとされた(現在では電子の質量は陽子の質量の千八百四十分の一であることが判明している)ところから、「物質は消滅した」との議論が生まれ、レーニンが『唯物論と経験批判論』において、こうした当時の物理学の見解を批判したのは一九〇九年でした。そのなかでレーニンは物質の階層の無限性を主張し、「物質とは、意識から独立して存在し、われわれの感覚の源泉であり、感覚をつうじて意識に反映される客観的実在」(レーニン全集⑭一五〇ページ)という哲学的定義を与えたのです。
 こうした経過にもみられるように、物質に関する当時の未成熟な議論も反映して、ヘーゲルは「物」と「物質」とをここでは同じ意味で使っています。一二八節補遺の物は質料と形式からなるとの考えは、アリストテレスの物質観であり、一三〇節の「多孔説」もドルトンの物質観に由来するものであり、いずれも、物と物質とを同義としたうえでの議論となっています。
 それにもかかわらず、ここで「物」のみを論じているのは、ヘーゲルの唯物論批判と関係があるように思われます。三八節補遺で「唯物論にとっては物質そのものが真に客観的なものである」(㊤一六二ページ)としたうえで、ヘーゲルは「現存する物質は常に規定されたもの、具体的なものであるかぎり」(同)、抽象物としての「物質というものは存在しない」(同)といっています。
 こうした論理の行きがかりからしても、正面から物質を論じえないためにひそかに「物」と物質を同義にとらえているのではないかと思われます。
 結局ヘーゲルのいう「c 物」とは物であると同時に物質をも意味するといえるでしょう。この後に続く「B 現象」の「a 現象の世界」とは物質世界のことであり、「b 内容と形式」も物質世界の内容である物質と、物質の存在形式としての運動の相互媒介の関係をみたものです。物を物質と同一視したうえで、物質を媒介に「A 本質」は「B 現象」に移行することになります。

一二五節 ── 物は物自体と諸性質の統一

 「物は根拠と現存在という二つの規定が発展して一つのもののうちで定立されているものとして、統体である。それは、そのモメントの一つである他者内反省からすれば、それに即してさまざまの区別を持ち、これによってそれは規定された、具体的な物である。(イ) これらの諸規定は相互に異っており、それら自身のうちにではなく、物のうちにその自己内反省を持っている。それらは物の諸性質であり、それらと物との関係は、持つという関係である」(四七ページ)。
 物は、根拠(他者内反省)と現存在(自己内反省、自己同一性)の統一として「統体」としてあります。その「自己内反省」としては物自体であり、その物自体は「他者内反省」としてさまざまの諸性質という区別を持ち、結局物は同一と区別の統一として「規定された、具体的な物」となります。
 物における区別とは、「物の諸性質」であり、物自体と結びついてはじめて存在する区別です。その意味で「これらの諸規定」は、「物のうちにその自己内反省」をもつ、つまり物自体と一体化することによってはじめて現存在しうるのです。
 つまり物と諸性質との関係は、物が諸性質を「持つという関係」にあります。或るものは、或るものとしての質を失うとき、或るものではなくなります。つまり「質としての規定性は、或るものと直接に一体」(同)なのです。しかし、物の諸性質はそのいくつかが失われたとしても、物は物としての同一性を失うわけではありません。つまり物のうちには、物の諸性質から区別される物自体という「自己内反省」が存在するのであり、それは「区別から、すなわち自己の諸規定から区別されてもいるところの」(四七~四八ページ)自己同一性なのです。
 ドイツ語の「Haben(持つ)」(四八ページ)という言葉は「過去をあらわす」言葉です。つまり過去とはかつて存在したが現在は存在しないという意味で「揚棄された有」、つまり現存在する有ではないのです。物にとって「諸性質」は「揚棄された有」として現存在するもの、物ではないから、それを「持つ」ことができるのです。もし諸性質が物ならば物が物をもつことになりますが、それは不可能といわざるをえません。
 「精神は過去の自己内反省であって、過去は精神のうちでのみなお存立を持っているが、しかし精神はまたこの自己のうちで揚棄された有を自己から区別してもいる」(同)。
 精神は不断に活動する統体として、これまでの精神活動をすべて揚棄したものとして自己のうちに含んでおり、その意味で「過去は精神のうちでのみなお存立を持って」います。しかし、過去の精神活動は、現在の精神活動と一体として精神の統体性を保ちながらも、また「揚棄された有」として現在の精神から区別されてもいるのです。

一二五節補遺 ── 物は諸性質をもつ

 「物において、すべての反省規定が、現存在するものとして再びあらわれてくる。かくして物は、まず物自体としては、自己同一なものである。しかし、すでに述べたように、同一は区別なしには存在しない。そして物が持っている諸性質は、現存在している区別 ── 差別のかたちにおける ── である」(同)。
 物において、同一と区別の統一という「反省規定」が再びあらわれてきます。つまり物を「自己同一」なものとするのは「物自体」であり、自己同一な物自体のもつ「区別」が物の諸性質です。
 「今やわれわれは物において、さまざまの性質を相互に結合する紐帯を持っている。なお、われわれは性質と質とを混同してはならない。われわれは、或るものが質を持っているというような言い方をしないでもない。しかし、持つという言葉は、その質と直接に同一である或るものにはまだ属しないような独立性を示すから、こうした言い方は適当でないのである」(同)。
 物においては諸性質は相互に無関係ではなく、物自体という「紐帯」によって相互に結合されているのです。
 本節で学んだように性質と質は区別しなければなりません。質を「持つ」という言い方は正しくありません。というのも「持つ」という言葉は「或るもの」から区別されたものをもつことを意味しているからであり、その意味で「物が性質を持つ」とはいえても、「或るもの」と一体をなす質について「或るものが質を持つ」というのは「適当でない」のです。物はその諸性質を「失っても、その物でなくなるということはない」(同)のですが、或るものがその質を失えば、或るものではなくなってしまいます。

一二六節 ── 諸性質から質料へ

 「 (ロ) しかし根拠においてさえ、他者への反省はそれ自身直接に自己への反省である。したがって諸性質はまた自己同一であり、独立的でもあって、物に結びつけられていることから解放されてもいる。しかしそれらは、物の相互に区別された諸規定性が自己のうちへ反省したものであるから、それら自身具体的な物ではなく、抽象的な規定性として自己へ反省した現存在、質料である」(四九ページ)。
物というカテゴリーより低位に位置する根拠というカテゴリーにおいても、根拠は「自己へ反省すると同じ程度に他者へ反省し、他者へ反省すると同じ程度に自己へ反省」(三五ページ)する、自己への反省と他者への反省という対立物の相互浸透(相互移行)の関係にありましたので、ましてや物においても同様の関係が生じるのです。
 すなわち物における物自体(自己への反省)と諸性質(他者への反省)も対立物の相互移行の関係にあります。諸性質は他者への反省から自己への反省に移行し、「自己同一であり、独立的」となるのであって、それが質料なのです。つまり諸性質は質量に移行するのです。
 諸性質は物から区別されていますから、それが独立的となっても「具体的な物ではなく、抽象的な規定性として」の質料となるにすぎません。「抽象的な規定性」とは、全く無規定な現存在ではないが、かといって物という具体的な規定性でもないような現存在を表しています。
 そういう「抽象的な規定性」、つまり一定の規定性をもちながらも、どんな物にでも規定しうる無規定な現存在が「質料」なのです。
 質料とは、原材料を念頭におけばいいでしょう。質料もセメント、鉄、材木などのように、一定の「規定性」という「本来の意味における質」(四九ページ)を持ちながらも、「物」としての具体的な「諸規定性」をもっていないのです。
 すなわち、さまざまの質料は「本来の意味における質、すなわちそれらの有と一つのものであり、直接態に達した規定性」(同)です。つまり質料は一つの質をもつものとして「規定性」ではありますが、その規定性は、これから加工されることが予定されているところの「有としての直接態」(同)にある規定性なのです。

一二六節補遺 ── 質料は無機的自然を本来の場所とする

 「物が持つ諸性質が独立して、それらから物が成立する質料となるということは、物の概念にもとづいており、したがって経験のうちにも見出される」(同)。
 一二五節補遺で学んだように、物には「すべての反省規定」が含まれており、「物の概念」には自己への反省(独立性)と他者への反省(非独立性)という対立物の相互移行の関係が含まれています。
 この「物の概念」にもとづいて非独立の諸性質が、対立物の相互移行により独立した質料となるのです。例えば樹木には加工しやすくしかも耐久性があるという性質がありますが、この性質を生かして製材することにより、建築材料である材木という質料になるのです。
 しかし「物の本質をさぐるには物をその質料へ分解しさえすればよい」(同)かといえば、そうではありません。というのも、質料というカテゴリーは「無機的自然においてのみ本来の場所を持っている」(四九~五〇ページ)のであって、有機的統体性をもっている「有機的生命においてはこのカテゴリーは不十分」(五〇ページ)だからです。確かに動物も「骨、筋肉、神経、等々から成る」(同)のですが、花崗岩が石英、長石などから成るのとは「わけがちがう」(同)のであって、「有機的な肉体のさまざまの部分は、それらの結合のうちにのみ存立を持ち、はなればなれになると、そうしたものでなくなってしまう」(五〇~五一ページ)のです。つまり有機体における組織や器官は、有機体という統体性の「一モメント」であって「それらの結合のうちにのみ存立」をもち、「はなればなれ」になっても存立しうる「諸部分」ではないのです。
 このように質料というカテゴリーは一定の範囲のみにしか適用できないのであって、こういう「理念の特定の発展段階としてのみ妥当する個々のカテゴリーを勝手にとらえてきて、すなおな直感と経験とに反するにもかかわらず、説明のためと称して、あらゆる考察の対象をそれに還元してしまう」(五〇ページ)のは、「抽象的な悟性的反省のやり方」(同)にすぎません。 

一二七節 ── 物は諸質料の外面的結合

 「かくして質料は抽象的な、すなわち無規定の他者内反省であり、あるいは、同時に規定されたものとしての自己内反省である。質料はしたがって定有的な物性であり、物を存立させるものである」(五一ページ)。
 質料は、一方でまだ規定されてはいないが、規定されれば他のものになるという意味では「無規定の他者内反省」であり、他方で、セメント、鉄、材木として規定されたものとしての自己同一性という意味では「規定されたものとしての自己内反省」です。
 したがって質料は「定有的な物性」です。質料として一定の質をもつものとしては「定有的」でありながら、まだそれらが未加工であって物としての「諸性質」をもつにまでいたっていないという意味では、まだ「物」ではなく単なる「物性」、つまり物的なものにすぎないのです。こうして質料は、原材料として「物を存立させるもの」なのです。
 「かくして物はその自己への反省を諸質料のうちに持ち(一二五節の反対)、自己に即して存立するものではなくて、諸質料からなるものであり、諸質料の表面的な連関、外面的な結合にすぎない」(同)。
 一二五節で諸規定(諸性質)は、「物のうちにその自己内反省を持っている」(四七ページ)ことを学びましたが、ここでは反対に物は「自己への反省」、つまり自己内反省を「諸質料のうちに持ち」、物は物自体として「自己に即して存立する」のではなく、「諸質料からなるもの」となるのです。したがって物は、それ自体として存立するのではなく、「諸質料の表面的な連関、外的な結合」として存立することになります。

一二八節 ── 物は質料と形式の統一

 「 (ハ) 質料は、現存在の自己との直接的統一であるから、規定性にたいして無関心でもある。したがって、さまざまの質料は合して一つの質料、すなわち、同一性という反省規定のうちにある現存在となる」(五一ページ)。
 さまざまの質料は、外面的な結合によって、自己同一性を保つ新たな「一つの質料」として物の材料となります。例えば、小麦粉、牛乳、バター、砂糖などの質料を混ぜ合わせてパンの「質料」ができあがります。
 質は有との直接的な統一でした。同様に質料も、現存在との「直接的統一」であり、したがって現存在と同様に「規定性にたいして無関心」なものです。
 「他方、これらさまざまの規定性、およびそれらが物のうちで相互に持っている外面的な関係は、形式である。これは区別という反省規定であるが、しかし現存在しかつ統体性であるところの区別である」(同)。
 この質料に「形式」が加わりさまざまの形態をもつ「物」がつくり出されることになります。それは、その質料に「区別という反省規定」をもたらす「外面的な関係」であり、それが「形式」なのです。
 つまり、物は質料と形式の統一として存立するのです。「現存在しかつ統体性であるところの区別」というのは、例えば、パンの原料(質料)から、食パン、フランスパン、菓子パンなど、さまざまの形式をもつ「区別」されたパンが作られますが、これらのパンは、形式を異にするパンとして「現存在しかつ統体性を持っている区別」なのです。
 「この無規定的な一つの質料もまた物自体と同じものである。ただ異るところは、物自体が全く抽象的な存在であるに反し、前者は即自的に他者との関係、まず第一に形式との関係を含んでいる点にある」(五一~五二ページ)。
 質料はカントのいう物自体と同様に、まだ無規定な存在です。しかし物自体は具体的な物から諸規定性を取り去った「全く抽象的な存在」であるのに対し、質料は本来的に「形式との関係を含んで」おり、その本来的に含んでいる形式を展開して具体的な物となることが予定されている存在なのです。

一二八節補遺 ── 質料は形式を含み、形式は質料を含む

 「物を構成しているさまざまの質料は本来同じものである。これによってわれわれは、区別がそれにたいして外的なものとして、すなわち単なる形式として定立されているような一つの質料一般を持つことになる。物はすべて同一の質料をその基礎に持ち、それらの相違はただ外的にのみ、すなわち形式においてのみあるにすぎないという考え方は、反省的意識にはきわめてよく知られたものである。この場合質料は、それ自身は全く無規定的でありながら、しかもどんな規定でも受け入れることができるものであり、また絶対に永久不変で、あらゆる変転、変化のうちで自己同一にとどまるものである、と考えられている」(五二ページ)。
 ここはアリストテレスの質料と形式(形相)の考えを紹介したものです。アリストテレスは、自然物、人工物を問わず、世界のすべてのものを質料と形相の統一としてとらえました。彼のいう質料とはすべての物(物質)の「基礎」となり、「絶対に永久不変で、あらゆる変転、変化のうちで自己同一にとどまる」「全く無規定的」なものと考えられていました。これに対し形相とは質料を規定し、質料を現実のもの、現存在するものに変化させるものと考えました。つまり質料は単なる可能態(デュナミス)であるのに対し、形相は現実態(エネルゲイア)としてとらえられたのです。
 このアリストテレスの質料と形相というカテゴリーを継承しつつ、それを止揚するものとしてヘーゲルの質料と形式のカテゴリーが誕生したのです。ヘーゲルのアリストテレス批判は、質料を「全く無規定な」、すべての物の基礎となる「同一の質料」ととらえるのは正しくないし、質料と形相を絶対的区別としてとらえるのも正しくないというものです。
 というのも、質料は、まだ加工されて物にはなっていないという意味では「無規定」、無形式なものといえても、「一定の質料」としては規定されたものとして全くの無形式とはいえないからです。すなわち「大理石の一片のような質料でも、ただ相対的にのみ(彫刻家にたいしてのみ)形式に無関心なのであって、けっして、一般に無形式ではない、ということである」(同)。
 大理石という質料は、建築や彫刻という形式には適していても、自動車や書籍などの形式には適していません。つまり、アリストテレスのように「物はすべて同一の質料をその基礎に持ち」、形相がそれに特有の形態を与えるとの考えは、質料にさまざまの質料があることに目をふさぐだけでなく、それぞれの質料がその質料に固有の形式をもっていることを否定し、質料は質料、形相は形相として質料と形相とを絶対的区別のうちにおくものだから正しくない、と考えたのです。
 「事実はこれに反して、質料という概念は、あくまで形式の原理を自己のうちに含んでいるのであり、だからこそ経験においても、形式のない質料はどこにも現存しないのである」(五二~五三ページ)。
 つまり、質料と形式とは、対立するカテゴリーであって、質料は形式を自己のうちに含み、形式は質料を自己のうちに含んでいるのであって、質料と形式とは、質料は形式に、形式は質料にと移行する対立物の相互移行の関係にあるのです。
 ギリシア神話では、世界の本源的存在は、「カオス」、つまり無形式の質料であり、神は「世界の創造者ではなく、世界の単なる形成者、デミウルゴス」(五三ページ)と考えていました。つまり神は、すでに存在している質料に形式を付加したにすぎない存在だと考えられていました。
 「しかし一層深い見方は、神は世界を無から創造したという見方である。これは二つのことを含んでいる。一つには、質料そのものはけっして独立を持たないということであり、もう一つには、形式は外から質料に達するのではなく、統体性として質料の原理を自己のうちに持っているということである。このような自由で無限な形式は、後に示されるように、概念である」(同)。
 ギリシア神話の神よりも「一層深い見方」は「神は世界を無から創造した」というキリスト教の世界観にあるとしていますが、これも検閲を考慮しての表現でしょう。
 それはともかく、この考えは、一つには神が無から質料と形式を持つ世界を創造したとする点で、単に形式のみを与えたとするギリシア神話の考えよりも「深い見方」といえます。もう一つは、この考えは「形式は外から質料に」加えられる全く外面的なものではなく、その質料にはそれにふさわしい形式があるという意味で、形式は「質料の原理を自己のうちに持っている」という意味でも「深い見方」なのです。
 世界を創造する「自由で無限な形式」は、自由な意志を論じる「概念論」の概念において示されることになります。

一二九節 ── 質料と形式は対立物の同一

 「かくして物は質料と形式とにわかれる。この両者はいずれも物性の全体であり、おのおの独立的に存立している」(同)。
 こうして、物は質料と形式とから成っています。物を物自体と諸性質としてみたときは、両者が合して物という統体になっていたのに対し、質料と形式は「いずれも物性の全体」、つまり物全体を覆っているものであり、しかも諸性質は物自体から独立していなかったのに対し、質料と形式は「おのおの独立的に存立」しているのです。
 「しかし肯定的で無規定の現存在たるべき質料も、それが現存在である以上、自己内有とともにまた他者への反省を含んでいる。こうした二つの規定の統一として、質料はそれ自身形式の全体である」(同)。
 一二八節補遺で学んだように、質料は「無規定の現存在」として、形式から区別はされるものの、絶対的に区別されるのではなくて、「あくまで形式の原理を自己のうちに含んでいる」(五二ページ)のです。つまり質料は形式とは独立した存在でありながらも、「自己内有とともにまた他者への反省」を含み、この「二つの規定の統一」として、「それ自身形式の全体」を含んでいるのです。
 「しかし形式は、諸規定の総括であるという点だけから言ってもすでに、自己への反省を含んでいる。言いかえれば、それは自分自身へ関係する形式として質料の規定をなすべきものを持っている」(五三ページ)。
 他方形式の方も、質料を前提として存在するものですから、質料から独立した存在ではあっても「自己への反省」としての質料を含んでいるものとして、質料との同一性をもっています。
 つまり大理石という質料は彫刻とか建材という形式をうちに含んでいるのと同様に、彫刻という形式は大理石や木材や青銅という質料をうちに含んでいるのです。
 「両者は即自的に同じものである。両者のこうした同一の定立されたものが、同時に異ったものでもあるところの質料と形式との関係である」(五三~五四ページ)。
 一二〇節で、対立という区別は、お互いに対立するカテゴリーを自己のうちに含むものとして「定立された矛盾であり、両者は潜在的に同じもの」(三四ページ)であるという対立物の同一(相互移行)の論理を学びました。
同様に、質料と形式も対立するカテゴリーであり、質料は形式を含み、形式は質料を含むものとして「即自的に同じもの」であり、相互に移行しあって同一となる対立物の同一の関係にあるのです。つまり質料と形式とは区別されつつ同一であるという同一と区別の統一なのです。
 
一三〇節 ── 現存在から現象へ

 「物はこのような統体性として矛盾である。すなわち、物は、否定的統一からすれば形式であり、質料はそのうちで規定されて諸性質にひきさげられているが(一二五節)、同時に物はもろもろの質料からなっており、これらは物の自己への反省のうちで、否定されたものであると同時に独立的なものでもある。かくして物は、自分自身のうちで自己を揚棄する現存在としての本質的な現存在、すなわち現象である」(五四ページ)。
 一二五節では物は物自体という「否定的統一」、つまり自己への反省をもつものとされながら、一二八節では「もろもろの質料」からなることを学びました。言いかえると、物は独立した「もろもろの質料」からなると同時に、その独立性が「否定されて」一つの質料としての物自体となっているのです。
 「物はこのような統体性として矛盾」のうちにあるところから、「自己を揚棄」し現存在から「本質的な現存在、すなわち現象」に移行することになるのです。
 「物においては、もろもろの質料の独立性と同時にそれらの否定が定立されているが、この否定は物理学では多孔性という姿をとってあらわれている」(同)。
 物理学における物質の「多孔性」という考え方は、現在は否定されていますが、質料の独立性のみに固執しながら、「色素、嗅素」などの多数の諸質料の併存を説明するために持ち出されたものです。
 当時物質が質料をもっていることは、その質料が一定の空間を占拠することを意味していましたから、そこには他の質料は侵入できないと考えられていました。それにもかかわらず、ばらの花にはいろんな色素やさまざまの臭い(嗅素)という複数の質料が並存するのをいかに説明するのかが問題となり、そこに多孔説が登場することになるのです。「多くの孔のうちに、他の多くの独立な質料が存在し、それらも同じく孔を持ち、かくして互に自分のうちに他のものを存在させるようになっている」(同)と考え、一つの物のうちにおける諸質料の併存を説明しようとしたのです。
 「悟性は、独立的な諸質料が持っている否定のモメントをこのような仕方で考え、そして矛盾のそれ以上の進展を、そのうちではすべてが独立的であるとともに、またすべてが互のうちで否定されているところの混沌を持っておおいかくすのである」(五四~五五ページ)。
 このように悟性は一つの物のうちにおける諸質料の併存を多孔説によって説明しようとしたのですが、それは「悟性の作りもの」(五四ページ)にすぎないのであって、ヘーゲルは質料の独立性と同時に非独立性を認めれば、多孔説は不要になると一蹴しています。
 このような多孔説のみならず、物は「質料そのもの」(五五ページ)であるとか「質料から切りはなされた形式」(同)などの考えも「また反省的な悟性の産物」(同)であり、「一種の形而上学を作り出」(同)すものにすぎません。