『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第二九講 第二部「本質論」⑤

 

一、「B 現象」の主題と構成

 今日から第二部「本質論」「B 現象」に入ります。「A 本質」の「b 現存在」とは、単なる根拠一般からあらわれ出た現に存在するものでした。これに対し「B 現象」とは、他ならぬ本質が根拠となり、本質のあらわれ出た現に存在するものです。
 現存在の根拠は「しかるべき理由」(四一ページ)となるものであれば何でもよかったのに対し、現象の根拠は本質に限られますので、現象は現実性よりも一歩進展したカテゴリーとなるのです。
 対象となる事物を現象としてとらえることは、直接態としての現象は事物の真の姿ではなく、その奥に隠されている本質こそその現象の真の姿であるととらえることになります。つまり対象を「単なる現象」(㊤一七九ページ)としてとらえることは、「それらはその根拠を自分自身のうちにではなく、他のもののうちに持っている」(同)として、「他のもの」としての本質をとらえることになるのです。
 「B 現象」の構成は、まず一三一節が総論、一三二節から一四一節までが各論となっています。各論は「a 現象の世界」「b 内容と形式」「c 相関」の三つに区分され、さらに「c 相関」は「全体と部分」「力とその発現」「内的なものと外的なもの」の三つに分かれています。
 まず総論においては、内にある本質は外にあらわれて現象となることが明らかにされます。本質は同一と区別の統一としての根拠ですから、本質のあらわれとしての現象には本質と同一の現象もあれば、そうでない現象もあります。その意味で世界は単なる現象にすぎないのです。例えば天動説も地球が太陽の惑星であるという本質と無関係なものではなく、本質のあらわれをとらえたものとして現象ということができます。しかし天動説は本質のあらわれではあっても、本質が転倒してあらわれている非本質的な本質的現象なのです。
 次に各論「a 現象の世界」では、現象的なもの(物、物質)は、質料と形式の統一であり、形式をつうじて現象から現象へと無限に媒介されて現象の世界(物質世界)という統体となっていること、つまりエンゲルスのいう「世界の現実の統一性はそれの物質性にある」(全集⑳四三ページ)ことが明らかにされます。
 「b 内容と形式」では、まず現象の世界は一つの統体をなし、統体性としての形式をもつことが論じられます。現象の世界の「内容」をなすのは個々の物(物質)であり、個々の物は運動という「形式」をもっています。個々の物はこの形式をつうじて他の物との相互媒介の関係におかれます。
 この諸物質間における相互媒介の恒常的形式が「現象の法則」とよばれるものであり、物質世界は物質(内容)間の運動(形式)の諸法則という形式の総和からなる「現象の法則」の世界なのです。
 一一九節補遺一で「極として知られた対立」(三二ページ)は、「全自然をつらぬいているもの、普遍的な自然法則」(同)であることを学びました。ヘーゲルは、現象の世界、物質世界のもっとも普遍的な対立を物質とその運動である「内容と形式」の対立と統一としてとらえたのです。
 「c 相関」は、「本質的な相関」(六四ページ)ともよばれ、「絶対的な相関」(一〇三ページ)から区別されていますが、「あらゆる現存在の真理」(六四ページ)として「全く普遍的な現象の仕方」(同)をとらえた「現象の法則」です。相関において、対立する二つのものは「内容」上の同一性をもちながら「形式」上対立しているために、対立する二つのものは相互に移行しあって同一となるのであり、この対立物の相互浸透(相互移行)による同一性の定立という普遍的法則が相関とよばれているのです。その対立物の相互移行による対立物の同一へと進展していく過程が「全体と部分」「力とその発現」「内的なものと外的なもの」という対立するカテゴリーの相互媒介としてとらえられます。
 「内的なものと外的なもの」という対立物の絶対的な同一性の定立により、「c 相関」は揚棄されて「C 現実性」となります。
 現象の相関が本質的な相関とよばれ、「現象の法則」として展開されるのに対して、現実性の相関は「絶対的な相関」(一〇三ページ)とよばれ、「必然の法則」となります。

 

二、「B 現象」総論

一三一節 ── 本質は現象しなければならない

 「本質は現象しなければならない。本質が自己のうちで反照するとは、自己を直接態へ揚棄することである。この直接態は自己への反省としては存立性(質料)であるが、同時にまたそれは形式、他者への反省、自己を揚棄する存立でもある。反照するということは、それによって本質が有でなく本質であるところの規定であり、そしてこの反照の発展した形態が現象である。したがって本質は現象の背後または彼方にあるものではなく、本質が現存在するものであることによって現存在は現象なのである」(五五~五六ページ)。
 本質は、有の自己自身への反省として、有のうちにある有の真の姿なのですが、この本質が逆に「自己のうちで反照」し、「直接態」となった現存在が「現象」です。本質はいつまでも内にとどまるのではなく、自己へ反省する現存在するものとして外にあらわれ出るのであって、本質のあらわれ出た本質的現存在が現象なのです。その意味で「本質は現象しなければならない」のです。
 直接態としての現象は、「自己への反省」としては「存立性(質料)」、つまり現存在しているものですが、「他者への反省」、つまり形式としては本質を「揚棄」した現存在なのです。
 したがって現象において、本質はもはや「現象の背後または彼方にあるものではなく」、現象という現存在のなかに含まれているものとしてとらえられるのです。

一三一節補遺 ── 単なる現象

 「現存在の矛盾が定立されたものが現象である。現象を単なる仮象と混同してはならない。仮象は有あるいは直接態の最初の真理である。直接的なものは、われわれが思っているような独立的なもの、自己に依存しているものではなく、仮象にすぎない。かかるものとしてそれは、内在的な本質の単純性へ総括されている。本質は最初は自己内での反照の全体であるが、しかしそれはそうした内面性にとどまっていないで、根拠として現存在のうちへあらわれ出る。こうした現存在は、その根拠を自己のうちにではなく、他のもの(本質 ── 高村)のうちに持つのであるから、まさに現象にほかならない」(五六ページ)。
 「現存在の矛盾」とは「自己への反省」と「他者への反省」の矛盾のことであり、その「矛盾が定立されたもの」が現象なのです。いわば現象とは本質によって媒介されると同時に、その媒介を揚棄した直接性であり、その意味で直接性と媒介性の統一です。 
 これに対して仮象とは直接的なものを「独立的なもの、自己に依存しているもの」ではないとしてとらえはするのですが、まだ本質に媒介されたものとしてはとらえないのです。したがって直接的なものを仮象としてとらえることは、直接的なものをそのまま真理とする見方からすると一歩前進であり、したがって「有あるいは直接態の最初の真理」ではあってもそれは現象にまで達しない認識であり、現象と「混同してはならない」のです。
 こうして現象においては、本質は「内面性にとどまっていないで、根拠として現存在のうちへあらわれ出る」ものとしてとらえられ、現存在はその存在根拠を自分自身のうちにではなく、本質のうちにもつものとされるのです。
 「現象と言うとき、われわれは、その存在が全く媒介されたものにすぎず、したがって自分自身に依存せず、モメントとしての妥当性しか持っていないような、多くの多様な現存在する物を思いうかべる。しかしこの表象のうちには同時に、本質は現象の背後または彼方にとどまるものではなく、自己の反照を直接態のうちへ解放して、それに定有の喜びを与える無限の仁慈であることが含まれている」(同)。
 現象というものを表象すると、それは「何物か」に媒介されて存在する「多様な現存在する物」というイメージがありますが、それにとどまらず、その「何物か」は本質であって、本質が媒介して現存在に定有の「喜びを与える無限の慈悲」というイメージまでが含まれているのです。つまり本質はいつまでも「現象の背後または彼方」にとどまるのではなくて、現存することによって現象となるのです。
 「このようにして定立された現象は、自分の足で立っているものではなく、その有を自分自身のうちでなく、他のもの(本質 ── 高村)のうちに持っている」(五六~五七ページ)。
 このように現象は自分自身で存立するものではなく、本質が自己のうちに存在することによってはじめて存立するのであり、本質によって「定有の喜び」を与えられているのです。
 「現象は論理的理念の非常に重要な一段階であって、哲学が常識と区別される点は、常識が独立に存在するものと考えているものを哲学は単なる現象とみなすことにある、と言うことができる」(五七ページ)。
 有論では、「有的なものあるいは直接的なもの」(同)を事物の真の姿としてとらえたのに対し、本質論では、「独立に存在するもの」を「単なる現象」にすぎないとみなすのであり、そのことにより直接的なものは現象にすぎないとして、「有の真理」(同)を有の内部の本質に求める「有よりも高次」(同)の認識なのです。この意味で「現象は論理的理念の非常に重要な一段階」をなしています。
 「というのは、現象は自己への反省および他者への反省という二つのモメントを自己のうちに合一して含んでいるが、有あるいは直接態はまだ関係を持たないものであり、(外見上)自己にのみ依存しているものだからである」(同)。
 なぜ現象が「単なる有よりも高次の」認識かといえば、有はまだ他のものに「関係」をもつことなく自立した存在としてとらえる直接的な認識であるのに対し、現象は自立しつつ(「自己への反省」)も、本質という他のものに媒介された(「他者への反省」)直接性と媒介性の統一としてとらえるからです。
 「常識が独立に存在するものと考えているもの」を「単なる現象とみなす」とは、「現象がまだ自己のうちで分裂しており、自分自身のうちに拠りどころを持たない」(同)ものとみなすことを意味しています。つまり現象は「自分自身のうちに拠りどころ」をもたず、他のものである本質のうちにその存在の根拠をもっているという意味で「自分のうちで分裂」しているのです。現象は本質のあらわれ出た現存在ですが、本質は同一と区別の統一としての根拠ですから、現象にも本質と同一の本質的現象もあれば、本質から区別された非本質的な現象もあるのです。したがって現象は本質と同一視することはできないという意味でも「単なる現象」であって、天動説のように現象には本質が転倒したり、歪曲したりしてあらわれ出ることもあるのです。
 これに対し「単なる現象より高次のものはまず現実性」(同)です。「C 現実性」において、本質は完全に現存在と同一なものとして定立されているのであり、また現実性よりもさらに高次の認識が第三部「概念論」の「概念」となるのです。
 これまで論じられてきた、根拠、現存在、現象、現実性、概念のカテゴリー相互の関係をここで整理しておきましょう。
 根拠は、或るものを根拠づけるものとして、「あらわれ出る」ものです。根拠に媒介されてあらわれ出たものとして現存在、現象、現実性があります。
 現存在とは、単なる根拠一般のあらわれ出たものです。根拠は「まだ絶対的に規定された内容を持たない」(三八ページ)のであって、理由になりさえすれば何でもいいものですから、現存在とは、単に理由づけられて現に存在するものにすぎません。これに対し現象は、本質が根拠となってあらわれ出たものです。本質は同一と区別の統一ですから、本質のあらわれとしての現象には本質的な現象もあれば、非本質的な現象もあることになります。このうちの本質的な現象が現実性にほかなりません。現実性が展開されると必然性となり、必然性の真理が概念です。
 概念は根拠と異なり、「絶対的に規定された内容」をもち、他のものに媒介されてあらわれ出るのではなく、自己媒介により「自ら活動し産出するもの」(三九ページ)なのです。
 「近代の哲学の歴史において、……普通の意識と哲学的意識との区別を最初に復活させたという功績を持つのは、カントである。カントはしかし、現象を単に主観的意味に解し、現象の外に抽象的な本質を、認識できない物自体として固定したから、中途半端であった」(五七~五八ページ)。
 四五節補遺で学んだように、カントは「経験認識の内容をなしている直接的意識の諸対象を単なる現象とみる」(㊤一七八ページ)という功績を残しました。しかし彼は直接的なものを「単なる現象」ととらえながらも、その現象の内に本質を見出そうとせず「現象の外に抽象的な本質」を「物自体として固定」しました。そして「われわれが知るところの事物は、ただわれわれに対する現象にすぎず、物自体は、われわれにとってあくまで到達することのできない彼岸」( 一七九ページ)としたために「中途半端」な悟性的認識にとどまったのです。
 カントの主観的理念論は、われわれが認識しうるのは現象のみであり、しかもそれは「本当の物でなく、現象にすぎない」(五八ページ)として「出口のない圏内に閉じこめ」(同)るのですから、「素朴な意識」(同)がこの「主張になかなか承服しない」(同)のも当然といわなければなりません。かといって主観的理念論に反発するあまり、「抽象的な直接態へ帰り、直ちにこれをあくまで真実で現実的なものと考え」(同)るのでは、感性的認識にまで戻ってしまうことになり、もっと大きな誤りということができます。
 「現象にすぎないということは、直接的に対象的な世界そのものの本性である。そしてわれわれは、世界がそうしたものだということを知ることによって、同時に本質を知るのであり、そして本質は現象の背後あるいは彼方にとどまっているものではなく、まさに世界を単なる現象にひきさげることによって、自分が本質であることを顕示するのである」(同)。
 われわれは、世界が「現象にすぎない」ことを知ることによって、「同時に本質を知る」のであり、本質は「世界を単なる現象にひきさげることによって、自分が本質であることを顕示する」という理性的認識の立場にたたなければなりません。したがって本質はけっしてカントが考えるような「到達することのできない彼岸」ではないのです。
 「現象しか認識できない」(同)というカントの主観的理念論には同意できませんが、「われわれの周囲にある事物が現象にすぎず、確固とした独立の存在でないことを喜ぶ理由が大いにある」(五八~五九ページ)のです。というのももし事物が「不変な独立的なもの」(五九ページ)だとしたら、本質を求める真理探究の努力は不要となり、退屈のあまり「肉体的にも精神的にも直ちに餓死してしまうだろうから」(同)です。

 

三、「B 現象」 「a 現象の世界」

一三二節 ── 現象的なものの無限の媒介

 「現象的なものの現存在の仕方においては、現象的なものの存立性が直接的に揚棄されて、それは形式そのものの単なる一モメントとなっており、形式は存立性あるいは質料を、諸規定の一つとして自己のうちに含んでいる」(同)。
 現存在する「現象的なもの」とは、客観世界、物質世界を構成する個々の物を意味しています。「現象的なものの現存在の仕方」が「形式そのものの単なる一モメント」となっているというのは、次の一三三節で学ぶように現象的なものは物質世界のもつ統体性という「形式」の一モメント、つまり統体としての物質世界を構成する一モメントであるという意味です。
 個々の現象的なものの「存立性が直接的に揚棄され」ているとは、個々の物は物質世界の統体性のうちにのみ存立するものとして、物質世界のもつ形式に媒介され直接的な存立が否定されていることを意味しています。
 その意味で物質世界の統体性という形式は「存立性あるいは質料」、つまり個々の物を「諸規定の一つとして自己のうちに含んでいる」のです。
 「かくして現象的なものは、その本質としての、すなわち、その直接態に対立する自己内反省としての、質料のうちにその根拠を持ってはいるが、しかし現象的なものはこのことによって、他者内反省としての形式のうちにのみその根拠を持つ。形式という現象の根拠も同じく現象的なものであり、かくして現象は、存立性の形式による、したがってまた非存立性による、無限の媒介へ進んでいく」(同)。
 このように個々の物は物質世界の一モメントとして存在していますが、個々の物は自己の内に質料という本質をもち、それを根拠として存立しています。しかも個々の物は質料と同時に形式をもっており、質料が「自己内反省」であるのに対し、形式は「他者内反省」です。個々の物は他のものに媒介されてはじめて存立することからすれば、他者との関係である「形式のうちにのみ」存立の根拠をもつということもできます。
 つまり個々の物は、独立した存在ではあっても形式という他の物との関係をつうじてはじめて存在するのです。言いかえると現象する個々の物は、独立して存在するという「存立性の形式」をもつと同時に、他の物との関係なしには存立しえないという「非存立性」をもち、こうして「無限の媒介へ進んでいく」のです。
 つまり現象するものは、存立性と非存立性の統一として自己を揚棄し、別の現象するものへと媒介されることになります。
 論理学の第二部の全体は、直接性と媒介性との統一を取扱うものです(㊤二二二ページ)。直接性と媒介性の統一という連鎖と連関の一般法則は、まず「現存在」において「根拠と根拠づけられたものとの相互依存および無限の連関からなる世界を形成する」(四三ページ)ことを学びましたが、ここにきて、独立と非独立の統一という無限の媒介の世界、「現象の世界」へと発展させられているのです。
 この現象の世界とは、精神と対立する意味での物質の世界、客観世界ということができます。物からなる現象の世界は、物質の世界として現象の世界なのです。
 「この無限の媒介は、同時に自己への関係という統一であり、そして現存在は、現象すなわち反省された有限性の総体、つまり現象の世界へ発展させられている」(五九ページ)。
 現象の世界、客観の世界は、現象と現象との「無限の媒介」の世界ですが、同時に客観世界としての「統一」をもった世界であり、個々の現存在、現象するものは「反省された有限性の総体、つまり現象の世界」の一モメントに「発展させられている」のです。
 客観世界における物質の普遍的連関は、まず有論の「或るものと他のもの」の関係で原理的に明らかにされ、次いで本質論の「現象」で物質世界全体のより普遍的な連関の形態が論じられ、さらに「現実性」で物質世界における物質相互の必然的連関が解明されることになります。

 

四、「B 現象」 「b 内容と形式」

一三三節 ── 現象の法則

 「現象の世界を作っている個々別々の現象は、全体として一つの統体をなしていて、現象の世界の自己関係のうちに全く包含されている。かくして現象の自己関係は完全に規定されており、それは自分自身のうちに形式を持っている。しかも、それは自己関係という同一性のうちにあるのであるから、それは形式を本質的な存立性として持っている」(六〇ページ)。
 現象の世界に入ってなぜ「内容と形式」というカテゴリーが突然でてくるのかと思われるかもしれませんが、ヘーゲルは現象の世界、つまり物質世界は、諸々の物質という「内容」と物質の運動(物質の存在様式)という「形式」から成っており、物質とその運動は内容と形式という対立物の統一(対立物の相互移行)としてとらえなければならないことを主張したいのです。
 現象の世界、物質世界は「一つの統体」という「形式」をもち、物質世界の多様な物質は物質世界の多様な「内容」をなしています。エンゲルスがいうように「世界の現実の統一性はそれの物質性にある」(全集⑳四三ページ)のです。私たちの宇宙は、ゆらぎをもった有と無の統一の宇宙から始まり、ビックバンによって生じた一個の発展する物質世界であることによって統体性の形式をもっています。
 その意味で「個々別々の現象」は、現象(物質)の世界の「自己関係の内に全く包含され」、物質世界は「全体として一つの統体」をなしています。この統体性のもとで、現象の世界は「完全に規定された」自己関係、つまり個々の物の相互媒介という形式の総和から成る完全な統一性の形式を「自分自身のうちに」もっています。それは現象の世界という自立した世界(「自己関係」)を存立させる形式ですから、「形式を本質的な存立性として持っている」ということができます。
 科学の役割は、個々の物の相互媒介の関係を現象の世界の法則として取り出すことにあります。アインシュタインは、「私たちの世界が内的調和を持っているという信念を欠いては、科学はまるであり得ないでしょう。この信念こそは、あらゆる科学的創造に対する根本的な動機なのでありますし、またいつになってもそうなのでありましょう」(石原純訳『物理学はいかに創られたか』下巻一九二ページ。岩波文庫)と語っており、この「内的調和」の諸法則を導き出すことが「あらゆる科学的創造に対する根本的な動機」ととらえられているのです。
 「かくして形式は内容であり、その発展した規定性は現象の法則である」(六〇ページ)。
では、無限の内容をもつ物質世界がなぜ統体性という形式を保つことができるのかといえば、個々の物質の運動から生まれる物質相互の「無限の媒介」(五九ページ)という「形式」をつうじてなのです。物質世界はこの無限の媒介から生まれる二つの現象間の恒常的な「同一性」という、「発展した規定性」をもつにいたります。
 この「発展した規定性」が「現象の法則」という形式にほかならないのであり、現象の法則は法則として一つの内容をもっており、したがって「形式は内容」なのです。
 ヘーゲルは「現象は非本質的な多様性の形態」(『大論理学』中巻一六九ページ)のうちにあるが、その「変転の底にある恒常なもの」(同)があり、この恒常的なもののが現象の法則であり、法則の国は「現象する世界の静止的な映像」(同一七二ページ)だといっています。
 例えば、ガリレオの落下の法則は、落下する物質の「通過した空間は経過した時間の二乗に比例する」というものです。ここでは時間と空間の同一性という形式が、落下の法則という内容をもっており、その意味で「形式は内容」となっているのです。
 「形式は内容」でありその「発展した規定性」が現象の法則だというのは、物質相互の媒介の形式が二つの現象の間の恒常的な同一性をもつまでに発展した形式となったとき、その形式が「現象の法則」とよばれるものであり、それは法則として一定の内容をもつことを意味しています。
 「自然はわれわれに無数の個別的な形態や現象を示すが、われわれはこの多様のうちへ統一をもたらそうとする要求を持っている。そこでわれわれは多様なものを比較し、すべての個に通じる普遍的なものを認識しようとつとめる」(㊤一一一ページ)。
 この多様な現象に統一をもたらす普遍的なものの一つが形式と内容という対立物の相互移行による同一の関係をとらえた「現象の法則」にほかなりません。
 この「現象の法則」をとらえたものが「c 相関」であり、相関には「全体と部分」「力とその発現」「内的なものと外的なもの」の三つがあります。この三つの相関における対立する二つのものの運動は、いずれも内容と形式の関係としてとらえられ、その相互移行による同一性の定立が論じられていきます。
 現象の法則は、二つの現象の同一性を外面的な形式においてとらえるものであって、まだその同一性を必然的な形式においてとらえるものではありません。
 ヘーゲルは『小論理学』では、現象の法則は論じながらも必然の法則については直接言及はしていません。しかし「C 現実性」では後にみるように「必然的現実性」としての「絶対的な相関」(一〇三ページ)を論じています。絶対的な相関には「a 実体性の相関」「b 因果性の相関「c 交互作用」の三つがありますが、この三つは対立する二つのものの相互移行の必然的関係を論じた必然の法則ということができるでしょう。なお必然の法則には、これら三つの対立物の相互移行だけではなくて、矛盾の揚棄としての発展の法則がありますが、それは第三部「概念論」で論じられることになります。
 ヘーゲルは『大論理学』では、必然の法則と思われるものに言及しています。
 すなわちガリレオの落下の法則に言及して、ここでは空間と時間との同一性が定立されているものの「法則の両側面相互の間の同一性もなお直接的な、従って内的な同一性にすぎず、言いかえると必然的でない同一性にすぎない」(前掲書、中、一七三ページ)と述べています。
 いわば落下の法則が時間と空間の間の現象的な同一性をとらえる法則にすぎないのに対し、必然の法則は、対立する二つのものの間における必然的な同一性をとらえる法則ということができるでしょう。
 ヘーゲルが「経験は、継起する諸変化あるいは並存する諸対象にかんする知覚を示しはするが、しかし必然の連関を示さない」(㊤一六三ページ)としている箇所をとらえ、エンゲルスは、経験的に見いだされる現象の法則を「ポスト・ホック(post hoc それのあとに)」(全集⑳五三七ページ)、必然の法則を「プロプテル・ホック(propter hoc それのゆえに)」(同)ととらえています。つまりポスト・ホックとは疫学的因果法則、つまり蓋然的因果法則を示すものであり、この井戸の水を飲んで「そのあとに」コレラになれば、その井戸水とコレラは現象的には同一であるとする「現象の法則」とされるのです。それに対して、コレラ菌の摂取「のゆえに」コレラになるという、コレラ菌とコレラとの間の必然的因果法則を示すことがプロプテル・ホックなのです。
 「これに反して、現象の否定的な方面、すなわち非独立的で変転的な方面は、自己へ反省しない形式である。それは無関係的な、外的な形式である」(六〇ページ)。
 現象には、本質と同一な肯定的側面と本質から区別される「否定的」側面があります。本質と同一な側面は「現象の法則」を形づくりますが、否定的側面は本質の転倒、歪曲した「自己へ反省しない形式」です。それは本質と無関係とはいえないけれども「無関係的な、外的な形式」なのです。つまり現象には、本質と同一な本質的現象もあれば、本質から区別される非本質的な現象もあるのです。
 「形式と内容という対立において、けっして忘れてならないことは、内容は無形式なものではなく、形式は内容にたいして外的なものであると同時に、内容は形式を自分自身のうちに持っている、ということである」(同)。
 物質(内容)そのものは物質の存在「形式」、つまり物質がどのようにあるのかという形式から区別されます。そこで、物質(内容)とその運動(形式)との連関をどのように考えるのかが問題となってきます。
 エンゲルスは、『反デューリング論』においてデューリングが運動を「力学的な力に還元」(全集⑳六一ページ)してしまうことで「自分から、物質と運動との現実の連関を理解できないようにしてしまう」(同)と批判し、次のように続けています。
 「もっとも、以前の唯物論者たちにしても、この連関をはっきり理解していた者はだれもいなかった。けれども、事柄はまことに簡単なのだ。運動は物質の存在の仕方である。運動のない物質は、かつて、どこにもなかったし、またありえない」(同)。
 ヘーゲルも同様に、内容としての物質は形式である運動と結びついており、その意味で「内容は無形式なものではなく」、また物質(内容)は運動(形式)を「自分自身のうちに持っている」としています。エンゲルスは「運動のない物質が考えられないのは、物質のない運動が考えられないのと同じである」(同)と述べていますが、物質と運動、内容と形式は対立物の統一という必然的な関係のうちにあり、両者を分離してとらえることはできないのです。
 「形式には二通りあって、それは一方自己へ反省したものとしては内容であり、他方自己へ反省しないものとしては内容に無関係な、外的な現存在である」(六〇ページ)。
 現象としての物質の運動(形式)には、物質のもつ本質のあらわれとしての本質的な運動もあれば、非本質的な一時的・偶然的な運動もあるのです。
 「ここには潜在的に内容と形式との絶対的相関、すなわち両者の相互転化があり、したがって内容とは、内容への形式の転化にほかならず、形式とは、形式への内容の転化にほかならない。この転化はきわめて重要な法則の一つである。しかしそれは絶対的相関においてはじめて顕在するようになる」(六〇~六一ページ)。
 「絶対的相関」とは、先にもみたように「C 現実性」における三つの相関(実体性の相関、因果性の相関、交互作用)を意味しています。
 内容と形式、つまり物質とその運動(存在形式、存在様式)とは、対立しながらも「相互転化」しあう、対立物の相互転化(相互移行)をつうじて必然的同一性を定立する対立物の同一へ進展していくのであり、それは後に学ぶ絶対的相関で「はじめて顕在」化するのです。
 素粒子の運動から原子・分子の運動に、化学的運動から生命体の運動にと、運動の質的飛躍が物質を異なった階層へと飛躍させ形式は内容に転化します。物質はまた階層ごとに独自の運動をすることになり、内容は形式に転化するのです。

一三三節補遺 ── 物質(内容)と運動(形式)の統一

 「形式と内容という規定は、反省的悟性が非常にしばしば使用する一対の規定であるが、その際悟性は主として、内容を本質的で独立的のものとみ、これに反して形式を非本質的で独立的でないものと考えている。しかし、実際は両者ともに同様に本質的なものであって、形式を持たない質料が存在しないと同じように、形式を持たない内容も存在しないのである」(六一ページ)。
 物質も運動もともに本質的であり、運動のない物質がないのと同様に物質のない運動もありません。質料と形式の関係と同様に「形式を持たない内容も存在しない」のです。
 「内容と質料とがどうちがうかと言えば、質料は潜在的には無形式ではないけれども、その定有においては形式に無関心なものとしてあらわれているに反して、内容は、内容である以上、完全な形式を自己のうちに含んでいなければならない」(同)。
 質料も内容も、ともに自己のうちに形式を含んでいるという点では同一ですが、質料は質料としての「潜在的」な形式(物としては無形式)を含んでいるにすぎないのに対して、物質という内容は、物質の存在形式としての運動という「完全な形式を自己のうちに含んで」いるのです。
 「もっとも、内容に無関係で外的な現存在であるような形式もまた存在する。こうしたことは、現象が一般にまだ外面性を脱しないところから起るのである」(同)。
 物質の運動は現象である以上、その運動には物質にとって「外面」的な、一時的、偶然的形式もまた存在するのです。
 「正しい形式は、内容に無関係であるどころか、むしろ内容そのものである。したがって正しい形式を欠く芸術作品は、正しいすなわち真の芸術作品ではない」(六一~六二ページ)。
 ヘーゲルはホメロスの叙事詩『イリアス』を例にあげ、「『イリアス』を『イリアス』とするものは、こうした内容を作りあげている詩的形式」(六二ページ)であるとして、「真の芸術作品は、その内容と形式が全き同一を示しているようなもの」(同)だと述べています。イリアスという作品は精神の客観化された物質であり、叙情詩という形式は、その存在様式として運動とみることができるのです。
 また「学問の領域における形式と内容との関係について言えば、哲学とその他の科学との相違に注意しなければならない」(同)として、諸科学では「その内容を与えられたものとして外から受け取って」(同)いるため、「形式と内容とは完全に滲透しあってはいない」(同)ところにその有限性があるのに対し、「哲学にあっては、こうした分離はなくなっており、したがってそれは無限の認識と呼ぶことができる」(同)としています。論理学は単なる思惟形式の学であって「その無内容はわかりきったことだと考えられ」(同)ていますが、けっしてそうではなく、内容と形式の統一として真の学問なのです。
 というのも、内容という言葉は、「単に感覚的に知りうるもの」(六三ページ)という意味以上の意味をもっているのであって、「まさに思想を含んでいることを意味」(同)しているからです。例えば「無内容の本と言う場合」(同)、何も書いてない本ではなく、いかなる思想をも含んでいない本を意味しているのです。
 「思想は、内容に無関係な、それ自身空虚な形式ではないのであり、また、芸術においてそうであるように、他のあらゆる領域においても、内容が真実で価値あるものであるか否かは、それが形式と一体をなしているか否かにかかっているのである」(同)。
 その物質のもつ本来の運動のもとにおいてこそ、あるいは、内容が内容のもつ本来の形式のもとにあってこそ、それは「真実で価値あるもの」なのです。

一三四節 ── 本質的な相関とは内容と形式の統一

 「しかし、直接的な現存在は、形式の規定性でもあれば、存立性そのものの規定性でもある。したがってそれは内容の規定性にたいして外的でもあるが、しかし他方内容がその存立性というモメントによって持つところのこの外面性は、内容にとって同じく本質的でもある」(同)。
 本節では「b 内容と形式」から「c 相関」への移行を論じています。
 もともと現存在は、「自己のうちへ反省すると同時に他者のうちへ反照」(四三ページ)するという直接性と媒介性の統一であり、自立していると同時に他者との関係のうちにおいてのみ存立するものです。言いかえれば、現存在する物は「内容の規定性」として自立していると同時に、「形式の規定性」によって他の物との関係のうちに存立するのです。現存在する物にとって「内容の規定性」がその物にとって本質的であると同時に、「形式の規定性」も「内容にとって同じく本質的でも」あり、どちらが欠けても現存在する物にはなりえないのです。
 「このようなものとして定立された現象が相関であって、ここでは同一のもの、すなわち内容が、発展した形式として、外的で対立した独立の現存在としてあると同時に、また同一的な関係としても存在し、異った二つのものは、こうした同一関係のうちでのみそれらがあるところのものである」(六三~六四ページ)。
 これから「相関(Verhaltnis)」への移行が論じられますが、相関とは何を意味するカテゴリーでしょうか。これまで「有においてはすべてが直接的であり、本質においてはすべてが相関的(relativ)」(㊤三三二ページ)であるといわれてきましたが、その相関とここにいう「相関」はどう異なるのかが問題となります。
 「本質においてはすべてが相関的」という場合の「相関」とは、対立する二つのものの相互媒介という反省関係を意味しています。
 これに対して「B 現象」の「c 相関」とは、二つの「独立の現存在」が「外的で対立した」形式のうちに「あると同時に、また同一的な関係としての存在」し、この形式的「同一関係のうちでのみ」内容をもち「それらがあるところのもの」となるような、内容と形式の統一という反省関係なのです。ヘーゲルはそれを「本質的な相関」(六四ページ)とよんでいます。

 

五、「B 現象」 「c 相関」㈠

一三五節 ── 全体と部分の相関

 「 (イ) 直接的な相関は、全体と部分とのそれである。内容は全体であり、自己の対立者である諸部分(形式)から成っている。諸部分は相互に異っていて、独立的なものである。しかしそれらは相互の同一関係においてのみ、すなわち、それらが総括されて全体を形成するかぎりにおいてのみ、諸部分である。しかし総括は部分の反対であり否定である」(六四ページ)。
 「直接的な相関」とは相関の最初の形態という意味であり、それが全体から部分へ、部分から全体へという対立物の相互移行の運動です。
 具体的な物は、全体という形式において物としての内容をもつのであり、諸部分は諸部分としての内容はもっていてもそれは全体のもつ内容とは区別されたものであり、その意味で諸部分は内容のない単なる形式ということができます。
 諸部分は相互に「独立的な」形式であり、それらが「総括されて全体を形成する」ことによって、全体という内容が実現されますが、部分が全体に総括されれば諸部分という形式は「否定」されて存在しなくなり、全体が諸部分に分解されれば形式は保存されても内容は否定されて全体は存在しなくなります。

一三五節補遺 ── 全体と部分は真実でない相関

 「本質的な相関ということは、規定された、全く普遍的な現象の仕方である。現存在するものは、すべて相関をなしており、この相関があらゆる現存在の真理である。したがって現存在するものは、単に独立的に存在するものではなく、他のもののうちにのみあるものである。しかしそれは他のもののうちで自己へ関係するから、相関は自己への関係と他者への関係との統一である」(六四~六五ページ)。
 ここは相関とは何かを述べた重要な箇所です。「相関」は「本質的な相関」です。なぜなら「現存在するものは、すべて相関をなしており、この相関があらゆる現存在の真理」だからです。相関は「全く普遍的な現象の仕方」なのです。というのも、現存在するものは「単に独立的に存在するものではなく」、他のものとの相互媒介による同一性の定立という形式のうちにあって現存するものとしての内容をもつからです。
 その意味で相関は、「自己への関係」(内容)と他者への関係(形式)との統一ということができます。
 「全体と諸部分という相関は、その概念と実在とが一致していないかぎりにおいて、真実でないものである。全体という概念は、諸部分を含むということである。しかし、全体がその概念上あるところのものとして定立されると、すなわち、それが分割されると、それは全体でなくなる」(六五ページ)。
 相関の概念(真の姿)は、他者に媒介されるという形式によって自己が自己としての内容をもつという内容と形式の統一にあります。しかし全体と部分の関係は、諸部分に分割され他者に媒介されているときは内容がなく、全体としての内容をもつときには他者に媒介されている形式を失うという関係、つまり内容があれば形式がなく、形式があれば内容がないという関係にあります。つまり全体と部分の関係は他者が存在しなくなることによって自己が存在するという関係なのです。
 真理は、概念と実在との一致にありますから( 一二四ページ)、全体と部分の相関は「相関の概念に一致しない」という意味で「真実でないもの」なのです。
 「全体と諸部分という相関は、直接的な相関であるから、反省的な悟性にはきわめてわかりやすい。そのために反省的悟性は、その実一層深い関係が問題である場合でも、この関係で満足していることが多い。例えば、生きた肉体の肢体や器官は、単に部分とのみみるべきものではない。なぜなら、それらは、それらの統一のうちにおいてのみ、肢体や器官であって、けっして統一に無関係なものではないからである」(六五ページ)。
 「反省的悟性」とは、事物を区別し、二重化してとらえようとしながらもその区別を固定的にとらえる思惟という意味でしょう。本質論が悟性的認識といわれるゆえんです。この反省的悟性は生命体のように「統体とモメント」としてとらえるべきカテゴリー(『ヘーゲル「小論理学」を読む』②四三二ページ)にも、全体と部分のカテゴリーを適用し、それで「満足していることが多い」のです。
 このように全体と部分のカテゴリーは真実でない相関ですから、直接的な客観である「外部的で機械的な関係」(六五ページ)を論じるには適しているのですが、より発展した客観である「有機的生命の真の姿を認識するには不十分なもの」(同)といえます。ましてや自然と対比される「精神」(六六ページ)そのものや「精神の世界の諸形態」(同)、つまり客観的精神としての法、道徳、社会、国家などに適用すれば、「その不十分ははるかに著しいものとなる」(同)のです。

一三六節 ── 力とその発現の相関

 「 (ロ) したがってこの相関のうちにある同一なもの、すなわち自己関係は、直接に否定的な自己関係である。すなわち、それは媒介ではあるが、しかしこの媒介は、同一的なものが区別にたいして無関心でありながら、しかも否定的な自己関係であるというような媒介である。そしてこの否定的な自己関係は、自己への反省としての自分自身をつきはなして区別となり、他者への反省として現存在するようになるが、逆にまたこの他者への反省を自己への反省および無関心性へ復帰させる。こうした相関がすなわち力とその発現である」(同)。
 物質に関する学問である物理学では「力についての学問」、力学からはじまります。力とは一つには物体を変形させる作用であり、二つには物体の運動状態を変化させる作用を意味しています。力と運動の関係は、ニュートンによって運動の法則としてまとめられました。ヘーゲルは、力と運動の関係を力とその発現として哲学的にとらえたのです。
 「直接に否定的な自己関係」とは、形式と内容の相互移行による同一性の定立が、他者のうちで自己にとどまる自己同一の関係としてではなく、他者に移行して自己を否定する「否定的な自己関係」を意味しています。全体と部分という相関は、全体(内容)が存立すれば部分(形式)は消滅し、部分が存立すれば全体は消滅するという「直接に否定的な自己関係」にあります。この相関においては、形式と内容という対立物の相互移行の関係が定立されると、そのうちの一方が消滅する「否定的な自己関係」なのです。
 これに対して次の相関である「力とその発現」においては、力という内容(「自己への反省」)が自分自身のうちから「形式」としての区別を生みだし、「他者への反省として現存在する」力の発現となると同時に、逆に力の発現という形式が力という内容に「復帰させる」のです。つまり、力とその発現の関係は、一方で力は「自分自身をつきはなして」力の発現となり、「力の発現」という「他者への反省」のなかで力は「現存在する」のであり、他方でまた逆に「力の発現」という「他者への反省」は、その発現のなかで力の存在という「自己への反省」へ帰って行くことになるのです。
 すなわち力と発現とは、ともに自己を否定し他者に移行することによって自己にとどまるという関係にあり、自己は他者に移行して消滅するのではなく、他者のうちにあって存立し続けるのです。
 全体と部分の相関は、「物質の可分性」(六七ページ)、現代の言葉で表現すれば物質の階層性の「無限進行」(同)を示すものとなります。つまり物質は分子に、分子は原子に、原子は原子核に、原子核は素粒子にと、全体とみなされたものが、次々に部分へと解消されていく無限進行(悪無限)となるのです。これに対して力とその発現では、力からその発現へ、その発現から力へと折り返される真無限の進行となっているのです。
 エンゲルスが「なんらかの運動がある物体から他の物体に伝わってゆくとき、……能動的運動は力として現われ、受動的な運動は発現として現われることになる。運動不滅の法則により、このことからおのずと結論されることは力がその発現と厳密に同じ大きさだということである。なぜなら、それは一方においても他方においてもじつに同一の運動なのだから」(全集⑳五八四ページ)といっているのは、ヘーゲルに学んだものといえるでしょう。
 このような力とその発現は真無限の進行ではあっても、「また有限でもある」(六七ページ)のです。
 「なぜなら、内容すなわち力と発現とのうちにある同一なものは、潜在的にのみ同一であるにすぎず、相関の二つの側面の各々は、まだそれ自身顕在的には相関の具体的な同一でなく、まだ統体性でないからである」(同)。
 相関とは、形式上の区別のうちにある対立する二つのものが形式上も同一となることによって、内容と形式の同一による本来の姿を実現するというものですが、力と発現では、内容と形式の同一性は「潜在的」な同一性にとどまり、「顕在的」にも同一な「統体性」にまではいたっていないのです。すなわち力はその発現のうちに力をみることができ、逆に発現は力によってはじめて発現なのですが、形式上はあくまで力と発現は区別されているために、力と発現の同一性は潜在的なものにとどまっているのです。
 「したがって二つの側面は、相互にたいして異ったものであり、相関は有限な相関である。力はしたがって外からの誘発を必要とし、盲目的に作用する。そしてその形式がそうした欠陥を持っているために、内容もまた制限され偶然的である。その内容はまだ形式と真に同一でなく、絶対的に規定されている概念や目的ではない」(六七~六八ページ)。
 このように力とその発現の同一性は、潜在的同一性にとどまる「有限な相関」であるところから、力とその発現は「相互にたいして異ったもの」であって、力は自らの力で発現するのではなく「外からの誘発を必要とし」、しかも外からの力によって規定されて「盲目的に作用」して発現するのです。ボールがどこに、どんな形状をえがいて飛んでいくかは、バットによって加えられる外からの力によって規定されているのです。
 このように力とその発現は、内容と形式の真の同一ではないのであって、真の同一が「絶対的に規定されている」のは、概念論で学ぶ「概念や目的」です。これらのカテゴリーは、自らの力により自ら意図したものを実現する、内容と形式の真の同一なのです。
 また人々はよく「力の本性そのものは認識できないものであって、認識できるのはその発現だけ」(六八ページ)というのですが、力とその発現とは同じ内容が形式上区別されているだけですから、発現を認識することが力を認識することになるのであって、認識できないと考えているのは「その実自己への反省という空虚な形式」(同)にすぎないのです。
 「他方、力の本性は認識できないものでもある。なぜなら、力の内容が制限されたものであり、したがってその規定性を自己以外のものによって持っているものであるかぎり、力の内容にはまだその内容の必然性も、内容のそれ自身のうちにおける連関の必然性も欠けているからである」(同)。
 したがって「力の本性」はその発現のうちに認識しうるのですが、他方「力の本性は認識できないものである」ということもできます。というのも力は「外からの誘発を必要とし、盲目的に作用する」ことからすると、力は「その内容の必然性」も、内容の「連関の必然性」も自己自身のうちに含んでいないのであって、力は「その規定性を自己以外のものによって持って」おり、自己のうちに内容をもっていないからです。

一三六節補遺一 ── 力とその発現の相関の有限性

 力とその発現との相関は、全体と部分との相関にくらべると「無限なものとみることができ」(六九ページ)ます。というのも後者の相関は、内容(全体)が形式(部分)と同一になれば内容は消滅し、形式が内容と同一になれば形式は消滅していたので、内容と形式の同一性は存在しなかったのに対し、力とその発現の相関では発現のうちに力があり、力は発現することで力であることを示すというように「二つの側面の同一性が、ここでは定立されている」(同)からです。
 しかし同時に、力とその発現の相関は外からの力を必要とするという「媒介性」(同)によって「やはり有限」(同)であるともいえます。全体と部分はその「直接性のために有限」(同)であったのに対し、力とその発現は、その媒介性のために有限な相関なのです。
 ヘーゲルは、力と発現という相関の有限性について、二つの点を指摘しています。一つは、例えば磁力は「鉄をその担い手」(同)として必要とするように、どの力も「その存立のために自己以外のものを必要とする」(同)ことです。もう一つは、力を「発現するために誘発を必要とする」(同)というものです。
 「力を誘発するものは、それ自身再び或る力の発現であって、それが発現するには同じく誘発されなければならない。このようにしてわれわれは再び、誘発と誘発されることの無限進行あるいは交互性をうるが、いずれにせよここにはまだ運動の絶対的なはじまりが欠けている。力はまだ、目的のように、自分自身のうちで自分を規定するものではない」(同)。
 ボールの力はバットの力に誘発され、バットの力はバッターの力に誘発されるなど、「ここにはまだ運動の絶対的なはじまりが欠けて」おり、この点が目的と異なり「自分自身のうちで自分を規定するものではない」のです。
 「力が発現する場合、よく言われているように、その作用は盲目である。そしてこの言葉は、抽象的な力の発現が目的活動と異っていることを意味するのである」(七〇ページ)。
 力がどのように発現して作用するかは、外から加えられる力によって規定されるのであって、力の発現そのものが自己のうちに目的をもって作用するわけではありませんから「その作用は盲目」的なのです。
 これに対して目的活動や概念の場合には、他者に媒介されて盲目的に運動するのではなく、「自己そのもののうちで自己を完結する媒介」(㊤二二六ページ)、つまり自己媒介による自己運動として力とその発現から区別されるのです。

一三六節補遺二 ── 力への還元主義批判

 われわれは「法則として把握された発現の総体のうちに、同時に力そのものを認識する」(七〇ページ)のですから、「力そのものは認識できない」(同)との主張は根拠のないものですが、しかしこの主張には「この相関が有限だという正しい予感が含まれている」(同)のです。
 というのも、われわれはこの「発現の総体」という多様なもののうちに「力と名づける内的な統一」(同)という「法則を認識することによって、一見偶然とみえるものを必然的なものとして意識」(同)します。
 しかし「個々の力そのものがまたさまざまのものであって、それらの単なる並存においては偶然的なものとしてあらわれ」(同)、力という言葉は物理学の「重力、磁力、電気力」(同)、心理学の「記憶力、想像力、意志力」(同)など様々に用いられてるところから、「再び、さまざまな力を一つの全体として意識しようとする要求が起って」(同)きます。
 しかし、その要求にもとづき、力を「それらに共通な一つの原力」(同)というようなものに還元することは、「物自体と同じように無内容な、空虚な抽象物にすぎない」(七一ページ)のです。
 「力とその発現は本質的に媒介された相関であるから、力を根源的なもの、すなわち自己にのみ依存するものとみるのは、力の概念に矛盾する」(同)。
 というのも力は目的や概念と異なり、自己運動するのではなく、外部の力によって「本質的に媒介された相関」にすぎませんから、力を「内的な統一に還元」(七〇ページ)し「根源的なもの」ととらえるのは「相関」である「力の概念に矛盾する」のです。このように「力はまだ従属的で有限な規定」(七一ページ)にすぎませんから、「神そのものを単なる力とみるのは正しくない」(同)ことになります。
 このように「力をもってする説明は、その論理的帰結として、……個々の力をそれだけで独立させ、そうした有限なものをあくまで究極的なものと考えるにいたるということを含んで」(同)います。この個々の力を独立したものとする考え方は、一方で「現存在する世界を神の諸力の発現」(同)であることを否定し、神を「認識できない最高の彼岸的存在」(同)と規定すると同時に、これこそ「有限なものをあくまで究極的なものと考える」(同)唯物論の立場だと、ヘーゲルは批判していますが、これも例の隠れ蓑というべきものでしょう。
 ヘーゲルは神を「彼岸的存在」とする考え方に対し、「教会がそうした企てをさして神を否定するものと宣告した」(同)のも「このかぎりにおいては正しい」(七二ページ)として教会を養護していますが、それに続く文章に、しっかりヘーゲルの本音が出ているのが面白いところです。
 「しかし他方まず第一に経験的諸科学にも、形式的には正しい点があることをみのがしてはならない」(同)。
 というのも、経験的諸科学は「神の世界創造および統治というような抽象的な信仰」(同)では満足しないからです。
 「神とはその全能の意志によって世界を創造し、星辰の軌道を定め、あらゆる被創造物に存立と繁栄とを与えるものである、とわれわれに教えるとしても、なおなぜという問題に答えることが残されている」(同)
 この問題に答えるのが「学問に共通の任務」(同)であり、これに答えないのは、「精神および真理のうちに認識せよというキリストの明白な掟に背く勝手な独断」(同)であると同時に「高慢な狂信にもとづくもの」(同)だからです。

一三七節 ── 力と発現の真理は内的なものと外的なもの

 「力は、自分自身に即して自己へ否定的に関係する全体であるから、自己を自己から反発し、そして発現するものである。しかしこのような他者への反省、すなわち諸部分の区別は、同様に自己への反省でもあるから、発現は、自己のうちへ帰る力が、それによって力として存在するところの媒介である。力の発現はそれ自身、この相関のうちにある二つの項の差別の揚棄であり、潜在的に内容をなしている同一性の定立である。力と発現との真理はしたがって、その二つの項が内的なものと外的なものとしてのみ区別されているような相関である」(七二~七三ページ)。
 力は発現することによって力であり、発現は発現することのなかで力に帰ります。いわば力とその発現は、力という同一の内容が形式のうえで力とその発現として区別されているにすぎません。
 したがって「力とその発現との真理」は、「この相関のうちにある二つの項の差別の揚棄」により、内容における同一性を形式上も同一として定立し、「潜在的に内容をなしている同一性」を形式上も定立するのです。
 このような内容上の同一性のうえに立つ形式上の区別を、内容・形式の同一性として定立するカテゴリーが「内的なものと外的なもの」という相関のカテゴリーなのです。こうして「本質的な相関」の真理である内的なものと外的なものとの相関に移行することになるのです。