『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第三〇講 第二部「本質論」⑥

 

一、「B 現象」 「c 相関」(二)

 前講までで「c 相関」のうち、「全体と部分」「力と発現」の相関を終わりましたので、引き続き「内的なものと外的なもの」の相関に入ります。

一三八節 ── 内的なものと外的なものの相関

 「 (ハ) 内的なものは、現象および相関の一側面という単なる形式としてあるような根拠であり、自己内反省という空虚な形式である。そしてそれには、他者への反省という空虚な規定を持ち、同じく相関のもう一つの側面という形式としての現存在が、外的なものとして対立している」(七三ページ)。
 一三五節で学んだように、相関とは他のものとの同一性の定立という形式のうちに内容をもつようになるに二つのものの関係です。
 内的なものと外的なものとはこの相関の真理態であり、したがって内的なものと外的なものとは、形式上相互に移行しあって同一となることによってはじめて完全な現存在としての内容をもつのであり、単に内的なものあるいは単に外的なものはいずれも「空虚な形式」にすぎません。
 すなわち単に内的なものは、外にあらわれた出て相関を実現しようとする根拠ではあっても自己のうちにとどまり続けている「空虚な形式」であり、他方単に外的なものもまた、内的なものと結びついて相関を実現しようとしながらもそれをなしえない「空虚な規定」にとどまっているのです。
 「内的なものと外的なものとの同一は、実現された同一であり、内容であり、自己への反省と他者への反省との統一が力の運動のうちで定立されたものである。両者は同じ一つの総体であり、この統一が両者を内容とするのである」(同)。
 単に内的なものも単に外的なものも、ともに「空虚な形式」にとどまるのであって、両者の同一が実現されることによって内容をもつ現存在となるのです。それは「力の運動」として実現され、定立された相関ということができます。
 「両者は同じ一つの総体」というのは、力とその発現における内容が「まだそれ自身顕在的には相関の具体的な同一でなく、まだ統体性でない」(六七ページ)こととの対比で述べられたものであり、内的なものと外的なものとの実現された同一は顕在的な「相関の具体的な同一」としての内容をもつことを意味しています。

一三九節 ── 内的なものと外的なものとの内容・形式上の同一性

 「したがってまず第一に、外的なものは内的なものと同じ内容である。内にあるものは外にもあり、外にあるものは内にもある。現象が示すものはすべて本質のうちにあり、本質のうちにあるものはすべて顕現されている」(七三ページ)。
 あまり説明を要しないと思いますが、一言説明しておきます。本質と現象との関係については、これまで本質は現象するけれども現象は「単なる現象」(五七ページ)にすぎず、本質と現象の内容的な同一性は定立されていませんでした。したがって現象には本質的な現象もあれば非本質的な現象もあったのです。しかし、内的なものと外的なものの相関になると、「外的なものは内的なものと同じ内容」となり、「内にあるものは外にもあり、外にあるものは内にもある」というように内的なものと外的なものとは内容、形式ともに一体となっているのです。言いかえると、内的なものと外的なものとはもはや「単なる現象」を越えているのであって、そこにあるのは本質の現れそのものとしての現存在なのです。その意味で「本質のうちにあるものはすべて顕現されている」のです。内的なものと外的なものは「現象の法則」(六〇ページ)の一形態なのですが、ここにいたってこの現象は、もはや現象であって現象でなく、次の「C 現実性」に移行しているのです。

一四〇節 ── 単に内的なものは単に外的なもの、単に外的なものは単に内的なもの

 「第二に、内的なものと外的なものとは、形式規定としてはまた対立しあってもいる。しかも、一方は自己同一という抽象物であり、他方は単なる多様性あるいは実在性という抽象物であるから、全く正反対のものである」(七四ページ)。
 内的なものと外的なものとは、内容は同じであっても形式上は対立し、内的なものは「自己同一という抽象物」、外的なものは「多様性あるいは実在性という抽象物」という「正反対」の形式をもっています。どちらも「抽象物」だというのは、内的なものと外的なものとは形式上対立しているものが形式上も同一となることによって内容のある具体的な物となるのですから、それぞれが切りはなされてしまうと単に内的なものも単に外的なものも、ともに「抽象物」にすぎないからです。
 「しかし両者は、一つの形式のモメントとして、本質的に同一なものであるから、一方の抽象物のうちに定立されているにすぎないものは、直接にまた他方のうちに定立されているにすぎない。したがって内的なものにすぎないものは、また外的なものにすぎず、外的なものにすぎないものは、また内的なものにすぎない」(同)。
 内的なものと外的なものとは本質的現象という「一つの総体」(七三ページ)のなかにおける「形式のモメント」(本質と現象というモメント)であり、両者はその結合のうちに現存在しているのですから、単なる「内的なもの」は単なる「外的なものにすぎず」、また「外的なものにすぎないものは、また内的なものにすぎない」のです。両者は結合においてのみ現存在する「本質的に同一なもの」なのです。
 「反省は普通本質を単に内的なものと思い誤っている。本質を単にそうしたものとみる場合、その見方もまた全く外面的であって、その場合考えられている本質は、空虚な外面的抽象にすぎない」(七四ページ)。
 一三一節で「本質は現象しなければならない」(五五ページ)ことを学びました。本質は現象することによって本質なのであり、「単に内的なもの」とされる本質は「また外的なものにすぎず」、したがってそれは本質といっても「空虚な外面的抽象にすぎない」のであって、本質であって本質ではないのです。
 「有一般あるいはまた単に感覚的な知覚のうちでは、概念はまだ内的なものにすぎないから、それは有や感覚的知覚にたいして外的なものであり、主観的な、真理を持たない存在および思惟である」(七五ページ)。
 有一般をとらえる表面的、感覚的認識にあっては、有の真にあるべき姿としての概念はまだ認識されえない単に「内的なものにすぎ」ませんから、「有や感覚的知覚」にとっては概念などというものは自分には関係のない単に「外的なもの」にしかみえないのです。
 「精神におけると同じく、自然においても、概念、目的、法則がまだ内的な素質、全くの可能性にすぎないかぎり、それらはまだ外的な無機的自然、第三者の知識、外的な強力、等々にすぎない」(同)。
 自然における「概念、目的、法則」がまだ認識されず、単に内的なもの、単に「内的な素質、全くの可能性にすぎない」としてしか理解されないとき、自然は人間にとって単に外的なもの、単に「外的な無機的自然」であったり、外的な「第三者の知識」であったりするにすぎないのであって、それは人間に立ち向かってくる「外的な強力」にすぎないのです。自然の概念、目的、法則が人間にとって外的なものではなく内的なものになるとき、自然は人間に対して「外的な強力」ではなく、人間に支配される従順な存在となるのです。
 一一二節補遺で、人間の行為は「かれの内面によって媒介されたもの、かれの内面の顕示としてのみみなければならない」(一四ページ)ことを学びましたが、内的なものと外的なものの同一性を学ぶなかであらためて「人間は外的に、すなわち行為においてあるとおりに、……内的にある」(七五ページ)ことを知るのです。その人の内的な「意図や心情」(同)がそのままその人の外的な行為となってあらわれるのです。

一四〇節補遺 ── 内的なものも外的なものもともに本質的

 「内的なものと外的なものとの相関は、それに先立つ二つの相関の統一として、同時に単なる相対性および現象一般の揚棄である。にもかかわらず悟性が内的なものと外的なものとをあくまで分離している場合には、両者はいずれも同じように無意味な一対の空虚な形式にすぎない」(七五~七六ページ)。
 内的なものと外的なものとの相関は、全体と部分、力とその発現という「二つの相関の統一」です。全体と部分の相関では内容と形式とが相互に移行しあい、移行すると一方が消滅するという相関にすぎませんでしたし、力とその発現では形式上の同一が内容をもたらすという点では相関の概念に一致してはいるものの、形式上は力と発現として区別されているという「有限な相関」(六七ページ)にすぎませんでした。
 これに対し、内的なものと外的なものとの相関は「それに先立つ二つの相関の統一」として、相関の概念に一致する相関です。この相関は「同時に単なる相対性および現象一般」を揚棄します。というのも、内的なものと外的なものの相関は内容と形式の相互移行という「単なる相対性」を揚棄して、内容と形式の同一を実現し、それにより本質から区別された「現象一般」を揚棄して本質と同一の現象、つまり「現実性」へと移行するからです。したがって両者が分離してとらえられる場合には、両者は「いずれも同じように無意味な一対の空虚な形式にすぎない」のです。
 このように内的なものと外的なものとは同一の関係にありますから、「内的なもののみが真に重要な本質的なものであり、外的なものはこれに反して非本質的」(七六ページ)という悟性的認識の「誤った考え」(同)におちいってはなりません。
こうした誤りの一つが、「自然と精神との区別を、外的なものと内的なものという抽象的な区別に還元する」(同)考えとなるのです。自然も精神もともに本質的なものであり、例えば「自然と精神の共通の内容をなしている理念」(同)を考えてみると、自然における理念が精神において認識されない場合、それは自然にとっては単に内的なものであり、精神にとっては単に外的なものにすぎません。逆にそれが認識される場合、理念は自然にとっても精神にとっても内的なものであると同時に外的なものとなるのです。自然の内的な理念をとりだして外的な意識のうちにとらえるのが「精神の明確な任務」(同)なのであり、プラトンやアリストテレスも「自然の本質を単に内的なもの、したがって認識できないもの」(七七ページ)とみる考え方に「はっきり反対して」(同)います。
 対象が単に内的なもの、したがって単に外的なものである場合、「その対象は欠陥を持つもの、すなわち不完全なもの」(同)といわなければなりません。
 例えば、子どもにとって、理性は単なる内的な「素質」(同)であるがゆえに、両親や教師から与えられる単に外的なものとして「不完全なもの」です。この単なる内的な理性が教育によって開花すると、これまで「外的な権威とのみみていた人倫や、宗教や、学問」(同)を「自分の内部として意識」(同)し、外的なものを内的なものに転化して内的なものは外的なものとなるのです。
 同様に犯罪者にとって、犯罪的意志が単に内的なものである場合には、刑罰も単に外的なものにとどまりますが、犯罪的意志が内的なものと外的なものとの同一として犯罪行為となるとき、刑罰という「外的な強力」(同)も犯罪者にとって内的なものとなるのです。
 このように「内と外とは本質的に同一」(七八ページ)であって、聖書のマタイ伝(七・二〇)にいうように「樹は果によりて知らるるなり」(同)なのです。したがって芸術家が、その「業績からでなく」(同)内心の「意図から評価されることを求める」(同)のは「僭越な要求」(同)というべきものです。逆に偉大なことをなしとげた人物を「内的には全く別なもの、虚栄心その他の賎しい感情」(七九ページ)からなしたのだと主張することも「嫉妬の心」(同)にほかならないのであり、どちらも内と外の本質的同一性をみようとしない誤りに陥っています。「人は、個々の点では自己の姿をいつわったり、多くのことをかくすこともできるが、……それは一生のうちには必ずあらわれる」(同)のであり、「人はその行為の系列にほかならない」(同)のです。
 ヘーゲルが「実用的な歴史記述」(同)を例に「内的なものと外的なものとの不当な分離」(同)を批判しているのは、当時の歴史観を示すものとして興味深いものがあります。彼らは「世界史的な英雄が遂行した偉大な諸行為」(同)という外的なものと、「虚栄心、支配欲、所有欲、等々」(八〇ページ)という内的なものとを対立させ、後者を支配的と考え英雄の「後光をはぎと」(七九ページ)って悦に入っているのです。
 これに対してヘーゲルの批判は、英雄の偉大な行為(外的なもの)は「祖国、正義、宗教的真理、等々」(八〇ページ)という内的なもののあらわれとしてみるべきだというものです。
 なるほど世界的な英雄の行為を内的なものと外的なものとの同一としてとらえるべきだ、というのはその通りだと思いますが、その内的なものとはヘーゲルのいう「祖国、正義、宗教的真理」ではなく、階級的利益という外的なものが反映して英雄の内的な動機となり、さらにその内的なものとしての階級的利益がその行為をつうじて外的なものとなってあらわれるとみるべきものでしょう。それが史的唯物論でいう階級的観点なのです。
 英雄または世界史的偉人とは、階級的観点にたって被搾取階級のために時代の精神を内的な動機とし、人間解放という外面的行為をする人物ということができるでしょう。
 「内的なものと外的なものとの統一という見地から、偉大な人々はかれがなしたことをなそうと欲したのであり、またかれらが欲したことをなしたのであることを承認しなければならない」(同)。
 これは個々人の個々の行為に関してのみ正しいといえるでしょう。

一四一節 ── 現象から現実性へ

 「同一の内容をなお相関のうちにひきとどめようとする二つの空虚な抽象物は、互のうちでの直接的な移行のうちで自己を揚棄する。内容はそれ自身両者の同一性にほかならず(一三八節)、両者は本質の仮象が仮象として定立されたものである」(八一ページ)。
 物質の運動としての現象には、相関という現象の法則があることを学んできましたが、相関は内的なものと外的なものとの同一性の定立においてその即かつ対自態に到達します。
内的なものと外的なものとの相関において、分離された内的なものと外的なものとは「二つの空虚な抽象物」ですが、対立物の同一となることによって相関そのもの、ひいては現象そのものを揚棄することになります。つまり相関とは対立物の相互移行という「相対性」(七六ページ)なのに対し、内的なものと外的なものとの相関は対立物の同一によりこの相対性の立場を揚棄しているのです。
 逆にいえば、分離された内的なものと外的なものとはいずれも「本質の仮象が仮象として定立されたもの」にすぎません。というのも単に内的なものとしての本質は現象することがないから単なる「本質の仮象」であり、他方単に外的なものとして現象も本質のあらわれではないから「本質の仮象」であり、したがって単に内的なものも単に外的なものも、いずれも「本質の仮象が仮象として定立されたもの」にすぎないのです。
 内的なものと外的なものとは、両者の結合により「空虚な抽象物」から脱けだし、単なる現象を揚棄して「現実性」へと移行するのです。
 「力の発現によって内的なものは現存在のうちへ定立される。しかしこの定立は空虚な抽象物による媒介であり、それはそれ自身のうちで消滅して直接態となる。そしてこの直接態においては内的なものと外的なものとは即自かつ対自的に同一であって、両者の区別は単に被措定有として規定されているにすぎない。このような同一性がすなわち現実性である」(八一ページ)。
 単に内的なものという「空虚な抽象物」は外的なものへと移行し、ここに「現存在」という「直接態」が定立されることになります。この直接態においては内的なものと外的なものとの同一性が定立され、単に内的なもの、あるいは単に外的なものとしての空虚さは「消滅して」います。もはや両者の区別は定立された「直接態」が「被措定有」、つまり内的なもの(本質)によって措定された有という点にわずかにみられるにすぎません。
 この本質によって措定された「直接態」が、現象を揚棄した「現実性」なのです。

 

二、「C 現実性」の主題と構成

 ヘーゲルにとって「現実性」というカテゴリーはきわめて重要なカテゴリーであり、またヘーゲル哲学の革命性を明白に示すものとなっています。現実性は本質論の最後に位置すると同時に、客観的論理学という客観的事物の真の姿をとらえる論理学の最後に位置しており、ページ数でも四十ページに及んでいます。
 六節で学んだように「一口に言えば哲学の内容は現実であるということ」(㊤六八ページ)になります。また「哲学の最高の究極目的」(同六九ページ)は「自覚的な理性と存在する理性すなわち現実との調和を作り出すこと」(同)にあり、それは言いかえると理想と現実の統一にあることもあわせて学びました。いわば主観的論理学の「概念」が理想を、客観的論理学の「現実性」が現実を論じ、最後に主観的論理学の「理念」において理想と現実の統一が論じられることになるのです。
 現実には「真の意味における現実」(同)とそうでない現実とがあり、後者は「偶然的な存在」(同)、「可能的なもの以上の価値を持たない存在」(同)にすぎません。そこで「C 現実性」においては、真の意味における現実性としての本質的現実性、必然的現実性と、そうでない非本質的現実性としての可能性、偶然性の区別と同一が論じられることになります。
 「現実性」というカテゴリーは、アリストテレスの新造語「エネルゲイア」に由来しています。彼は古くから「力、能力」の意味で用いられてきた「デュナミス」に対し、新しく「エネルゲイア」を対置しました。これによってデュナミスを可能性、エネルゲイアを現実性という一対のカテゴリーとして哲学史上はじめて導入したのです。
 「C 現実性」は、大きく総論(一四二節から一四九節)と各論(一五〇節から一五九節)に分かれています。総論では、まず現実性とは本質が現存在するにいたった本質的現実性であることが明らかにされ、これに対し真の現実性でない現実、仮象としての現実は可能性と偶然性であることが論じられます。しかし本質的現実性と可能性、偶然性とは固定された区別ではなく、両者の相互媒介により、一定の条件のもとで可能性、偶然性は、必然的現実性に転化するのです。すなわち「現実は、それが自己を展開するとき、必然性としてあらわれる」(八八ページ)のです。さらに必然性には、外的必然性と内的必然性の二つのあることが明らかにされ、現象で論じられた「本質的な相関」(六四ページ)と異なり、内的必然性としての現実性は「絶対的な相関」(一〇三ページ)という必然の法則であることが論じられます。
 「B 現象」においては現象的な同一性をとらえる「現象の法則」を学びましたが、「C 現実性」の「絶対的な相関」において、必然的同一性をとらえる内的必然性を「必然の法則」として学ぶことになるのです。
 こうして「現実性」の各論は「絶対的な相関」として論じられることになります。絶対的な相関とは、エネルゲイアとしての実体が自己を揚棄して絶対的な同一となる相関であり、具体的には「a 実体性の相関」「b 因果性の相関」「c 交互作用」として論じられます。
 「実体性の相関」とは、実体が偶有となる相関であり、偶有は実体と同一であると同時に区別されるという関係にあります。
 「因果性の相関」とは、実体としての原因が結果となるという相関です。原因と結果とは内容上の同一と同時に形式上の区別をもつ相関です。因果性は一般に「必然の法則」を代表するものとみなされています。
 しかしヘーゲルは、因果性ではなく「交互作用」を、「完全に展開された因果関係」(一一三ページ)として「必然の法則」を代表するものととらえています。交互作用において、原因と結果とは内容・形式ともに同一となるからです。現在の量子論では量子の交互作用(相互作用)が物質の本性をなし、相互作用がなければ物質の運動もなく、物質の存在も属性も認識できないと考えられていますので、ヘーゲルが客観的論理学の最後に交互作用を位置づけたのは達見というべきものでしょう。
 絶対的相関は「必然の法則」の一つではありますが、そのすべてではありません。それは対立物の相互移行の真理である対立物の同一という「必然の法則」を示すものではあっても、対立物の相互排斥(矛盾)による発展という「必然の法則」ではないからです。発展法則という必然の法則は主として「概念論」で論じられることになります。
 しかし量子論の相互作用には対立物の相互移行のみならず、相互排斥まで含まれていることを一言指摘しておきます。こうして絶対的相関の真理は、事物の内部における矛盾を止揚して、真にあるべき姿に発展する「概念」としてとらえられることになり、本質論は概念論に移行することになるのです。

 

三、「C 現実性」総論

一四二節 ── 現実性は本質的な現存在

 「現実性とは、本質と現存在との統一、あるいは内的なものと外的なものとの統一が、直接的な統一となったものである。現実的なものの発現は、現実そのものである。したがって現実的なものは、発現のうちにあっても、依然として本質的なものであるのみならず、直接的な外的現存在のうちにあるかぎりにおいてのみ本質的なものである」(八一ページ)。
 ヘーゲルのいう「現実性」(ヴィルクリッヒカイト)とは、そのもとになるヴィルクリッヒに「現実の」と同時に「本物の、真の」という意味があるところから、この両方の意味を含めて「真の現実性」を意味しています。六節で「一時的な存在」( 六九ページ)、あるいは「偶然的な存在は真の意味における現実という名には値しない」(同)ことを学びましたが、この「真の意味における現実」がヘーゲルのいう「現実性」なのです。
 その現実性とは、「本質と現存在との統一」あるいは「内的なものと外的なものとの統一」という二つの統一が、さらに「直接的な統一」、つまり二つの統一がさらに統一して一個の物という現存在となったものであり、言いかえると現実性とは「内的なものであった本質が外的なものとして現存在するに至ったもの」なのです。本質は事物の真の姿ですから、その外的あらわれとしての現実性も一時的、偶然的なものではなく、「真の意味における現実」、つまり本質的現実性です。
したがって「現実的なもの」は、外にあらわれた「発現」ではあっても本質的なものの発現であり、「直接的な外的現存在のうちにあるかぎりにおいてのみ本質的な」現存在であり、「単なる現象」から区別されるのです。
 「前には直接的なものの形式として有および現存在があらわれた。有は一般に無反省の直接態であり、他者への移行である。現存在は有と反省との直接的な統一、したがって現象であって、根拠から出て根拠へ帰る。現実的なものは、この統一の定立されたものであり、自己と同一となった相関である。したがってそれはもはや移行することなく、その外面性はその顕在態である。それは外面性のうちで自分自身に反省しており、その定有は自分自身の顕現であって、他のもののそれではない」(八二ページ)。
 有は「無反省の直接態」であるのに対し、現象は「根拠から出て根拠へ帰る」反省、つまり対立物の相互媒介という「相対性」(七六ページ)の立場です。これに対し現実的なものは、この両者を統一したものであり、反省を揚棄した直接態です。すなわち、現実的なものは相対的な「相関」という反省を揚棄して「自己と同一となった相関」であり、「その外面性」は本質の「顕在態」です。現実そのものは、自己の「外面性」のうちに本質をあらわすという意味で「自分自身に反省」しており、現実そのものという「定有」は、本質の顕現として「自分自身の顕現」なのです。

一四二節補遺 ── 理念は必然的に現実性となる

 人々は、よく「現実と思想(正確に言えば、理念)とを対立」(八二ページ)させてとらえていますが、それは「思想の本性をも現実の本性をも正しく把握していないことを証明している」(同)にすぎません。というのも、このような考えは、思想とは「主観的表象、計画、意図」(同)と解され、現実とは「外的な、感覚的な現存在」(同)の意味に解しているからです。
 しかし、現実と理念の区別を「動かすことのできない対立にまで高め、われわれはこの現実の世界においては理念を頭から作り出さねばならないなどと言う場合」(八三ページ)には、「このような考え方を学問および健全な理性の名において決定的にしりぞけなければ」(同)なりません。
 「なぜなら、一方において、理念はけっしてわれわれの頭脳のうちにのみあるものでもなく、またわれわれが勝手に実現したり、しなかったりできるような無力なものでもなく、絶対的に活動的なものであり、現実的なものであるからであり、他方、現実は、無思想な、あるいは、思惟をきらい、思惟の点では全く駄目になった実際家たちが考えるほど、悪くもなければ不合理でもないからである」(同)。
 ここには、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(㊤六九ページ)との命題の論理が説明されています。理念は、現実のなかから取り出されるものであるからこそ、現実を変革する力をもっているという意味で「現実的であり」、他方現実は単なる現象とちがって本質の直接的なあらわれとして「まったく理性的なもの」(一二〇ページ)であって、それほど「悪くもなければ不合理でもない」のです。
 理念または概念は、現実のなかに潜在的に存在しているものを取り出した「真にあるべき姿」だからこそ、「絶対的に活動的なものであり」、実現するかしないか分からない「無力なもの」ではありません。
 このような理想と現実とを対立させる「現実の卑俗な解釈」(八三ページ)のうちにプラトンのイデアとアリストテレスのイデアへの「偏見の根拠がある」(同)のです。
 「この偏見によれば、プラトンとアリストテレスとの相違は、前者がイデアを、しかもただイデアをのみ真実なものと考えるに反して、アリストテレスはイデアを排して現実的なものを固守し、したがって経験論の創始者および旗頭と考えられなければならないところにあるとされている」(同)。
 理念と現実の対立を絶対化する人々は、プラトンは「イデアのみを真実と考え」たのに対し、アリストテレスは「イデアを排して現実的なものを固守」したとする「偏見」をもたらしました。
 「ところが、現実がアリストテレスの哲学の原理をなしているにはちがいないが、しかしそれは直接的に現存しているものというような卑俗な現実ではなく、現実性としてのイデアなのである」(八三~八四ページ)。
 アリストテレスが「現実(エネルゲイア)」を「哲学の原理」となしているのはその通りなのですが、その現実とは、イデアが必然的に現実に転化したという意味での現実性、「現実性としてのイデア」なのです。
 「アリストテレスはプラトンのイデアを単なるデュナミスと呼び、これにたいしてイデアが ── これが唯一の真実なものであることは二人とも同じく認めているのである ── 本質的にエネルゲイアであること、言いかえれば、端的に外にあらわれている内的なものであること、したがって内的なものと外的なものとの統一、あるいは本節で私が強調したような意味での現実性であることを主張するのである」(八四ページ)。
 アリストテレスとプラトンの違いは現実か理念かの違いではなく、プラトンがイデアを現実性の彼岸としてのデュナミス(可能態)としてとらえたのに対し、アリストテレスはイデアを「端的に外にあらわれている内的なもの」、つまりヘーゲルのいう「現実性」の意味にとらえたのです。
 ヘーゲルが「第二版への序文」において、もし古いものが復活されねばならないとすれば、「例えばプラトンが、そしてはるかに深い形でアリストテレスが与えているような理念の形態」(㊤四九ページ)がそれであると述べているのは、プラトンのデュナミスとしてのイデアとアリストテレスのエネルゲイアとしてのイデアを念頭においたものにほかなりません。
 ヘーゲルは、「現実性」のカテゴリーをつうじてエネルゲイアとしてのイデア、つまり現実性に必然的に転化する理念(理想)という革命の哲学を論じたのです。これが一四二節本文には記載されず、口頭での講義である「補遺」としてのみ収録されているところにも、革命性を隠蔽しようとしたヘーゲルの意図が見え隠れしています。
 なお一言しておくと、アリストテレスのエネルゲイアは、キーネーシス(運動、動き)との対比でも用いられています。キーネーシスは単なる物体の運動であるのに対し、エネルゲイアは人間の生き方・行為としての活動を意味しています。ヘーゲルがアリストテレスに学んで「現実性(エネルゲイア)」のカテゴリーを取り込んだのには、理想と現実の統一のなかにより善く生きる生き方の問題への含みをもたせたかったとの思いがあるように思われます(二三三節参照)。

一四三節 ── 可能性は単に内的な現実性

 「現実性はこのような具体的なものであるから、それは上に述べた諸規定およびそれらの区別を含んでいる。したがってまた現実はそれらの展開であり、それらは現実においては同時に仮象、すなわち単に措定されたものとして規定されている(一四一節)」(八四ページ)。
 「上に述べた諸規定およびそれらの区別」とは、「本質と現存在」(八一ページ)と「内的なものと外的なもの」(同)を指しています。
 現実性は、本質と現存在、内的なものと外的なものの区別をうちに含む「内的なものであった本質が外的なものとして現存在するに至ったもの」として「展開」されています。したがって単なる本質、あるいは単に内的なものは、一四一節でみたように現実性の「仮象、すなわち単に措定されたもの」としての現実性、つまり可能性にすぎないのです。
 こうして以下に可能性が論じられることになります。
 「 (イ) 同一性一般としては現実性はまず可能性、すなわち現実の具体的な統一に対峙するものとして、抽象的で非本質的な本質性として定立されている自己内反省である。可能性は現実性にとって本質的なものであるが、しかし同時に単に可能性であるような仕方でそうなのである」(同)。
 このように現実性とは、本質と現存在、内的なものと外的なものという二つの区別が同一となる展開です。これに対し可能性は現実性の一形態ではありますが、この区別されたものが同一となる「可能性をもつ」という意味で「同一性一般」、つまり抽象的に同一となる「可能性をもつ」にすぎない現実性なのです。
 この可能性は、本質と現存在、内的なものと外的なものとの「具体的な統一」としての「真の意味における現実」(㊤六九ページ)に「対峙」し、それと区別されるものとして、抽象的な「自己内反省」、単なる本質、単なる内的なものにすぎません。
 「非本質的な本質性として定立されている自己内反省」とは、そのことを意味しています。つまり可能性は本質ではあっても現象することのない「自己内反省」、内的なものであり、したがって「非本質的な本質性」なのです。
 この可能性は、現実性に転化しうるという意味では「現実性にとって本質的なもの」ではありますが、しかし現実性に転化することもありうるという「単に可能性であるような仕方で」本質的なものといえるにすぎません。
 カントは、判断を、量、質、関係、様態の四つに区分し、様態を「客観としての概念を少しも増すものではなく、ただ認識能力への関係を表現するにすぎない」(八四ページ)と規定しています。つまり様態とは客観をとらえる一つのカテゴリーではなくて、一つのカテゴリーの枠内での変化であり、「認識能力」の多少に関わる程度の変化にすぎないのです。カントの様態のうちには「可能性と現実性と必然」(同)とが含まれていますが、「客観としての概念を少しも増すものではな」いというのは、「おそらく可能性の規定」(同)を念頭においたものでしょう。
 「実際可能性は、自己反省という空虚な抽象であり、前に内的なものと呼ばれていたものであるが、ただそれがここでは、揚棄された、単に定立されているにすぎぬ、外在的な、内的なものとして規定されているのである」(八四~八五ページ)。
 可能性というカテゴリーは、カントがいうように可能性があるからといって「客観としての概念を少しも増すものではない」ような「空虚な抽象」であって「前に内的なものと呼ばれていたもの」と同じものですが、内的なものが「揚棄され」、現実性という外的なものとして定立されている内的なものなのです。したがって可能性は、現実性としては完成していない「不十分な抽象物」(八五ページ)であり、現実性というカテゴリーの一様態にすぎないのです。
 「現実性と必然性とはこれに反して、他のものにたいする様態であるどころか、まさにその正反対のものであり、単に他によって定立されているのではなく、自己のうちで完結した具体的なものとして定立されている」(同)。
 これに対して、カントによって同じ様態に属するとされている「現実性と必然性」とは、本質によって定立された本質的なものとして「自己のうちで完結した具体的なものとして定立」されており、「他のものにたいする様態」とすることは正しくありません。
 「可能性はまず、現実的なものとしての具体的なものにたいして、自己同一という単なる形式であるから、可能性の基準はただ、或るものが自己矛盾を含まないということにすぎない。かくしてすべてのものは可能である。というのは、われわれは、抽象によって、どんな内容にでもこうした同一性を与えることができるからである」(同)。
 可能性は、「現実的なものとしての具体的なもの」と同一となりうるという「単なる形式」ですから、可能性の基準となるのは、それと具体的なものとの間に「自己矛盾を含まないということにすぎない」のです。しかし、抽象的な内的なものには「どんな内容にでもこうした同一性をあたえることができる」ので「すべてのものは可能」となります。
 「しかしすべてのものは同様に不可能でもある。というのは、あらゆる内容は具体的なものであるから、われわれはどんな内容においても、その規定性を特定の対立、したがって矛盾と考えることができるからである。 ── だからこのような可能、不可能の議論ほど空虚なものはない」(同)。
 あらゆる具体的なものは、対立物の統一として規定されています。したがってどんな内容にもそれに対立する規定を考えることができますから、すべての内的なものは可能と考えることも不可能と考えることもできるのです。
 結局、「可能、不可能の議論ほど空虚なものはない」ことになります。

一四三節補遺 ── 可能性は空虚な形式にすぎない

人々は「可能性は豊かな広い規定であり、現実は、これに反して、貧しく狭い規定である」(八六ページ)かのように考えています。
 「しかし実際には、すなわち、思想から言えば、現実性の方がより包括的なものである。なぜなら、現実性は具体的な思想であるから、可能性を抽象的モメントとしてそのうちに含んでいるからである」(同)。
 なぜ「現実性の方がより包括的な」カテゴリーかといえば、空虚で抽象的であった可能性が具体的なものとしての現実性に転化するのですから、現実性は可能性をそのうちに含んでいるからです。しかしこれを逆にして可能性は現実性を含んでいるということはできません。
 「可能とは思惟しうることにある、と一般に言われている。しかしこの場合思惟とは、ある内容を抽象的同一性の形式のうちで把握することとのみ解されている。しかしあらゆる内容がこの形式へもたらされうるし、しかもそうするにはただ、ある内容をそれがそのうちに立っている諸関係から切りはなしさえすればいいのであるから、この上もなく馬鹿らしく不合理なことでも可能と考えることができる」(同)。
 思惟しうるものは可能である、といわれていますが、この場合「思惟しうるもの」とは内的な本質と外的な現存在との「抽象的同一性」を認めうることを意味しています。ある内容を具体的なものとしてではなく「諸関係から切りはなし」て抽象的なものにしさえすれば、すべてのものを「抽象的同一性の形式」のうちに把握することができます。
 例えば「空中に投げ上げられた石」は地上に落下するから、同じく空中にある月が今夜「地球へ落ちるということも可能」(同)であり、キリスト教の法王は人間であるから、イスラム教の「トルコの皇帝が法王になることも可能」(同)であるという「この上もなく馬鹿らしく不合理なことでも可能と考えることができる」ことになります。
 「可能性にかんするこのようなおしゃべりに際しては、特に理由の原理が先に述べたような仕方で使用されているのであって、これによれば、それにたいして理由を呈出しうるものは可能である、となる」(八六~八七ページ)。
 先に、根拠(理由)というものは「まだ絶対的に規定された内容を持たない」(三八ページ)から「同じ内容にたいしてさまざまな理由」(同)を挙げうることを学びました。単なる理由は「最も悪く最も不合理なものにたいしてさえ」(四一ページ)もちだしうるのであり、こういう「理由を呈出しうるもの」はすべて可能であるとされるのです。したがって「悪意や怠慢が、責任をのがれるために、可能性というカテゴリーの後に身をかくすことが稀でない」(八七ページ)のです。裁判所の判決には理由を記載しなければならないとされていますが、この場合の理由も同様であり、階級性の強い労働者・国民に不利益な判決ほど必然性を論証するのではなく、あれも考えられる、これも考えられるとして「可能性というカテゴリーの後」に階級的な「身をかくすことが稀でない」のです。 
 「さらに、あらゆるものが可能であるとみられるのと同じ権利をもって、あらゆるものが不可能とも考えられる。というのは、あらゆる内容は、内容である以上常に具体的なものであるから、単にさまざまな規定を含んでいるにとどまらず、対立的な規定をも自己のうちに含んでいるからである」(同)。
 あらゆる具体的なものは「対立的な規定を自己のうちに含んでいる」、つまり矛盾を含んでいるのですから、二つの規定の一方を選択すれば可能となると同時に、それと対立・矛盾する他方を選択すれば不可能となるのです。例えば、私(自我)は「単純な自己関係」(同)からすると自立したものとして存在することは可能だということになりますが、「他者への関係」(同)からすると、私は他者との関係のうちにのみあるのだから、私の存在は不可能だということになります。同様に「反発と牽引との統一」(八八ページ)としての物質についても、牽引の側面からすると物質の存在は可能となりますが、反発の側面からすると、物質はバラバラになるため存在は不可能になるということができます。こうして世界にある「すべての内容についても、同じことが言える」(八七ページ)のであって、こうした可能性、不可能性の議論ほど空虚なものはないのです。
 「一般にこのような空虚な形式のうちをうろついているのは、空虚な悟性であって、哲学の任務は、こうした形式の無価値と無内容を示すことにある。或る事柄が可能であるか、不可能であるかは、その内容、すなわち、現実の諸モメントの総体による。そして現実は、それが自己を展開するとき、必然性としてあらわれる」(八八ページ)。 
 可能、不可能という「空虚な形式」をうろつくのは「空虚な悟性」であり、これに対し「哲学の任務」は「こうした形式の無価値と無内容を示す」ことにあります。或る事柄が可能か、不可能かは、「現実の諸モメントの総体による」のであって、それが一四七節で論じられる、条件、事柄、活動という三つのモメントからなる「実在的可能性」(九四ページ)なのです。この実在的可能性においては、もはや単なる可能性が揚棄され、必然性に転化しています。こうして現実性は、条件、事柄、活動として「自己を展開するとき、必然性としてあらわれる」ことになるのです。