『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第三二講 第二部「本質論」⑧

 

一、「C 現実性」各論の主題と構成

 前講までで「C 現実性」の総論は終わりました。そこで確認されたことは、哲学の任務は「偶然の仮象のもとにかくされている必然を認識すること」(九二ページ)にあり、その必然性とは「展開された現実性」(九五ページ)であるということでした。
 すなわち現実性は、条件と事柄が結合するとき偶然的な「抽象的な可能性」(九三ページ)から、「実在的可能性」(九四ページ)へと移行し、この「実在的可能性」に活動が加わると「事柄は現実的にならざるをえない」(同)のであり、つまり必然性となるのです。
 しかしその諸条件の結合が外的結合にとどまるかぎり、それはまだ真の必然ではなく、「外的必然」(一〇二ページ)にとどまります。他のものの力を借りることのない自己媒介による自己産出こそ、真の必然としての内的必然であり、この内的必然の真理が概念論の「概念」にほかなりません。
 以上により、現実性は、展開して内的必然性、つまり必然的現実性としてとらえられることになりました。内的必然は、事柄が「自分自身と合一する」(同)運動であり、これが「絶対的な相関」(一〇三ページ)とよばれるものです。
 「現象」における「相関」が「現象の法則」としてとらえられるのに対し、「現実性」における「絶対的相関」は、「必然の法則」としてとらえられています。エンゲルスのいう「プロプテル・ホック(それのゆえに)」(全集⑳五三七ページ)です。
 ヘーゲルは、このように必然的に「自分自身と合一する」事柄をエネルゲイアとしての実体としてとらえ、実体の自己産出の関係を現実性の「各論」としての絶対的相関と位置づけたのです。実体は、絶対的相関をつうじて必然的現実性を生みだすのであり、その実体の展開が「a 実体性の相関」「b 因果性の相関」「c 交互作用」として論じられています。
 「a 実体性の相関」では、実体が自己産出して偶有となる必然性が論じられます。偶有は実体の一モメントとして単なる可能性にすぎず、実体と同一ではあっても区別されるという絶対的相関であるところから、相関の「直接的な形態」(一〇三ページ)とされています。
 「b 因果性の相関」では、実体は原因として結果を産出するという必然性が論じられます。原因と結果とは内容においては同一であっても、形式上は区別されるという有限な絶対的相関です。
 「c 交互作用」とは、実体は内容・形式ともに原因であると同時に結果でもあるという絶対的相関です。
 絶対的相関の完成態としての交互作用は、対立物の相互移行による同一性の定立という必然の法則です。しかし必然の法則には、対立物の相互移行の法則のみならず対立物の相互排斥(矛盾)による発展があります。これが交互作用の真理としての発展の法則であり、それが概念(真にあるべき姿)への発展なのです。こうして現実性は概念に、本質論は概念論に移行することになります。 

 

二、「a 実体性の相関」

一五〇節 ── 絶対的な相関の直接的形態は実体性の相関

 「必然的なものは自己のうちで絶対的な相関である。すなわち、(上の諸節に述べたように)相関が同時に自己を揚棄して絶対的な同一となる過程である」(一〇三ページ)。
 「本質的な相関」(六四ページ)とは、内容と形式の相互移行による同一性の定立にいたる相関です。それは対立物の相互媒介という「全く普遍的な現象の仕方」(同)を「現象の法則」(六〇ページ)としてとらえたものでした。
 これに対して必然的なものは、相関を自己のうちに定立されると同時にその相関を「揚棄して絶対的な同一となる過程」であり、それが自己のうちでの「絶対的な相関」とよばれるものです。すなわち絶対的な相関は、エネルゲイアとしての実体が自己媒介により自己産出するという内的必然性の活動をとらえたものです。
 内的必然性としての実体は他のものの力を借りることなく「自己のうち」から自己を否定して新たな規定を自己産出するのであり、この実体による必然的現実性の産出が「現象の法則」に対して「必然の法則」をなしているのです。
 「その直接的な形態は実体性と偶有性との相関である。この相関の絶対的自己同一は実体そのものである。実体は必然性であるから、こうした内面性の形式の否定であり、したがって自己を現実性として定立する」(一〇三ページ)。
 実体というカテゴリーは哲学の歴史において長い歴史をもっているカテゴリーであり、一般的にはすべての存在するもののなかにあって変わることなく常に同一性を保ち、存在するものを担い、支えているものを意味しています。エレア学派は「有」を、プラトンは「イデア」を実体とし、アリストテレスは主語となっても述語とならない具体的個物を「第一実体」としました。スピノザは神を唯一実体とし、世界を「実体 ── 属性 ── 様態」の展開としてとらえようとしました。
 ヘーゲルは、これらの例に学びながら、一四二節補遺でみたように、真の意味における現実性、つまり必然的現実性を、エネルゲイアとしてのイデア、つまり絶対的に自己産出する「現実性としてのイデア」(八四ページ)としてとらえました。
このエネルゲイアのもつ自己産出に注目して、ヘーゲルは必然的に現実性を生みだす普遍的なエネルゲイアを実体としてとらえました。
 実体がつくり出す「絶対的相関」の「直接的な形態」が「実体性と偶有性との相関」です。実体は「内面性の形式」を否定して、必然的に「自己を現実性として定立」します。実体により定立された現実性が偶有性であり、こうして「実体性と偶有性との相関」が定立されることになります。
 二四節補遺一で「客観的思想」を論じた際、ヘーゲルは「理性が世界の魂であり、世界に内在するものであり、世界の最も内面的な本性であり、普遍である」(㊤一一七ページ)としていますが、これは理性を世界の実体としてとらえたものにほかなりません。
 それに続けて、実体と偶有の一例として類と個の関係を紹介しています。
 「普遍的なものとしての類は、特定の動物に属し、その特定の本質をなしている。……すべての事物は、不変の内的本性と、そして外的な定有とを持っている。すべては、生きそして死に、発生しそして消滅する、しかしそれらの本質、普遍は類である」(同)。
これは類を「不変の内的本性」としての実体ととらえ、個々の動物を実体の「外的な定有」としての偶有としてとらえたものです。
 「しかしそれは同時にまたこうした外面性の否定であって、この面からすれば、直接的なものとしての現実は偶有的なものにすぎない。そして偶有的なものは、こうした単なる可能性であるために、他の現実へ移っていく。この推移が形式活動(一四八節および一四九節)としての実体的同一性である」(一〇三ページ)。
 実体は「内面性の形式を否定」して自己を「現実性として定立する」のですが、定立された現実性は実体と同一ではあるが同一ではないという意味で実体の「外面性の否定」ということができます。こういう現実性が「偶有的なもの」なのです。例えば、人類という実体には、白人も黒人も黄色人もいます。いずれも人類そのものではあっても異なる種に属する人類です。こういう人種が「偶有的なもの」なのです。
 こうして偶有的なものは実体の「単なる可能性」としての実体の外面性にすぎませんから、確固とした拠りどころを自己のうちにもつことなく、実体の力により「他の現実へ」、つまり一つの偶有から他の偶有へ「移っていく」のです。
 こういう偶有から偶有への「推移」を可能にするのが実体のもつ自己産出の「形式活動」としての「実体的同一性」であり、同一の実体からさまざまな偶有が生まれることになるのです。
 このように実体と偶有の相関は、偶有は実体の「単なる可能性」として実体と同一であると同時に区別されているため、「絶対的な同一となる過程」である絶対的相関の「直接的な形態」にすぎないのです。

一五一節 ── 実体は偶有を生みだす絶対的な力

 「したがって実体は偶有の全体であり、偶有のうちで実体は、それが偶有の絶対的否定、すなわち絶対の力であること、しかも同時にあらゆる豊かな内容であることを顕示する。この内容はしかしこうした顕示そのものにすぎない。というのは、自己へ反省して内容となった規定性そのものは、実体の力のうちで移り変っていく、形式の一モメントにすぎないからである」(一〇四ページ)。
 ヘーゲルは、実体をまず「実体性の相関」における類としてとらえ、次いで「因果性の相関」における原因として把握し、最後に「交互作用」における原因としてとらえます。
 生物の分類は、界、門、綱、目、科、属、種を基準としておこなわれます。「類」とは綱や目のかわりに慣用される用語ですが、ヘーゲルは具体的普遍の意味で使用しており、具体的普遍である類は、自らを種に特殊化し、種がさらに進んで個として規定されるのです。こうして類が実体となり、種や個が偶有となります。
 偶有は実体によって定立される現実性ですから、偶有の全体が実体となります。人種という偶有の全体が人類という実体となるのです。
 このように実体はすべての偶有を生みだす「絶対の力」であると同時に、偶有に「あらゆる豊かな内容」を与える力であることを「顕示」するのです。実体の力のうちで、「自己へ反省して内容となった規定性」としての偶有性は「移り変っていく」のであり、偶有性は実体によって生みだされかつ滅亡するという実体の形式活動の「一モメントにすぎない」のです。
 ヘーゲルは、ダーウィンの進化論以前の人ですから、類を種や個を一方的に生みだす「絶対的な力」だととらえましたが、現在では類を「絶対的な力」をもつ実体とする考え方は言いすぎというべきでしょう。というのも個体の突然変異が一定の条件下で類を進化させるという反作用をもたらすからであり、種の進化とは、実体と偶有の交互作用にほかならないからです。しかしここではとりあえずヘーゲルの見解に従っておくことにしましょう。
 「実体性は絶対的な形式活動であり、必然性の力である。そしてあらゆる内容は、ひたすらこうした過程に属するモメントにすぎず、形式と内容との絶対的な交互転化である」(同)。
 実体性は、他のものに媒介されることなく偶有を自己産出する「絶対的な形式活動」であり、必然的現実性としての偶有性を生みだす「必然性の力」です。つまり実体の形式活動が偶有性という内容を生みだすのであり、それは同時に、実体のもつ内容が顕示されて偶有性という形式をもつことになります。したがって実体と偶有の相関は、形式から内容へ、内容から形式への「絶対的な交互転化」なのです。一三三節で形式と内容の「相互転化」(六〇ページ)は「きわめて重要な法則の一つ」(六一ページ)であり、「それは絶対的相関においてはじめて顕在するようになる」(同)ことを学びましたが、まず実体性の相関においてそれが顕在化してくるのです。

一五一節補遺 ── スピノザの実体論批判

 哲学の歴史において、実体のカテゴリーに出あうのはスピノザの哲学においてです。
 スピノザの哲学については「第二版への序文」でも学びましたが、彼は神を唯一「実体」としてとらえ、実体である神の「属性」が思惟と拡がり(つまり精神と物質)をもたらし、神の「様態」が個物であるとし、世界を実体、属性、様態の形式において統一的にとらえようとしました。彼にとって、個物としての様態は実体である神の変様であり、実体なしには存在しえない一時的な消滅するものでした。
 「スピノザの体系にたいして普通なされている主な非難は、無神論という非難、さらにまた汎神論という非難である。そしてその理由は、それが神を実体として、しかもただ実体としてのみ理解しているというのである」(一〇四ページ)。
 ヘーゲルはこういう批判を検討するにあたっては、まず「論理的理念の体系のうちで実体が占めている位置」(同)を理解しなければならないといっています。実体は理念の「一つの本質的な段階」(同)を占めているものの、「理念そのもの」(同)ではなく「必然性というまだ限られた形式のうちにある理念」(同)にすぎないのです。つまり実体は必然的に現実性を産出するという「形式」をもっているかぎりにおいての理念にほかならないのです。
 スピノザは神を唯一実体、つまり「必然性」(一〇五ページ)としてとらえてはいますが、「同時に絶対の人格でもある」(同)主体としてとらえていない点において、キリスト教の「真の神の概念より劣っている」(同)のです。
 すなわちキリスト教の神は、主体として有限な事物を産出するのに対し、スピノザの実体は単なる必然性にとどまり、有限な事物を偶有とすらとらえず神の一様態として「一時的なもの、消滅するもの」(同)ととらえているからです。
 スピノザの哲学は「神を唯一の真に存在するものと認めている」(同)のですから、無神論との批判はあたりませんが、彼が客観世界を単なる「消滅するもの」(同)としてのみとらえて「有限性の原理を正当に認め」(一〇六ページ)ず、「逆に無世界論と呼ぶべきもの」(同)となっていることこそが問題なのです。また汎神論との批判も、「汎神論とは有限な事物そのものおよび事物の複合体を神とみる説」(同)なのですが、スピノザは無世界論の立場にたって「有限な事物、あるいは世界一般は全く真理を持たない」(同)とするのですから、汎神論ということもできません。
 ヘーゲルは、スピノザ哲学が「有限性の原理を正当に認め」ないという「内容上の欠陥」(同)をもつに至ったのは、実体 ── 属性 ── 様態という展開の過程が「形式上の欠陥」(同)をもっているからだと指摘しています。
 「スピノザはまず実体をその体系のはじめにおいて、それを思惟と拡がりとの統一と定義し、しかもかれがどうしてこうした区別に到達し、またどうしてこの区別を実体的統一に還元するにいたったかを証明してはいない。それにひき続く内容の展開は、いわゆる数学的方法によって行われており、したがって最初に定義と公理とが掲げられ、それに定理が続いている。そして定理の証明は、定理を上の証明されていない諸前提へ悟性的な仕方で還元することによってのみ行われている」(同)。
 スピノザが実体をどうとらえているかというと、世界には「思惟と拡がり」(精神と物質)があることを何の証明もなく前提とし、かつその両者の統一を実体としてとらえているのですが、「どうしてこの区別を実体的統一に還元するにいたったかを証明」していないという「形式上の欠陥」をもっています。
 つまりスピノザ哲学では現実性の展開が必然性であり、必然的に現実を生みだす普遍性が実体であることが説明されていないという「形式上の欠陥」をもっています。さらに「それに引きつづく内容の展開」も「最初に定義と公理」とが無前提的に掲げられ、「それに定理が続く」という「数学的」な演繹の方法にもとづいており、前提となる「定義と公理」は「証明されていない諸前提」となっているところから「内容上の欠陥」を伴っているのです。すなわちスピノザ哲学では、神と個物との関係を実体と偶有の関係としてとらえなかったことから、神と個物とは「形式と内容との絶対的な交互転化」(一〇四ページ)であることを理解せず、形式と内容とを全く切りはなしてとらえたために形式、内容ともに欠陥をもつものとなったのです。
 「スピノザ主義の内容上の欠陥は、形式が内容に内在しているものとして意識されていず、したがって形式が単に外的で主観的な形式として内容へ歩みよっている点にある」(一〇六~一〇七ページ)。
 スピノザの欠陥は、神を実体としてとらえるのであれば、様態は、実体の「絶対的な形式活動」(一〇四ページ)から生まれた「あらゆる豊かな内容」(同)をもつ偶有という形式としてとらえるべきなのに、「形式が内容に内在しているもの」としてとらえられなかったために、偶有は実体の「単に外的で主観的な形式」にすぎず、内容のない「消滅するもの」という「内容上の欠陥」も生じたのだというのです。
 「スピノザのように、あらかじめ弁証法的な媒介をせずいきなり実体を把握すれば、実体は普遍的な否定力として、あらゆる規定された内容を本来空無なものとして自己のうちへ呑みこみ、自己のうちからはなんら積極的な存在をも生み出さない、暗黒で形のない奈落のようなものとなってしまう」(一〇七ページ)。
結局スピノザは実体をとらえるのにヘーゲルのように「絶対的な相関」という「弁証法的な媒介」においてとらえなかったために、実体を「あらゆる豊かな内容であることを顕示する」(一〇四ページ)絶対的な力としてとらえるのではなく、「あらゆる規定された内容を本来空無なものとして自己のうちへ呑みこ」む「普遍的な否定力」としてとらえ、「暗黒で形のない奈落」にかえてしまうのです。
 実体は偶有の自立性を否定して、偶有を「実体的同一性」のもとにおくと同時に、他方で偶有に「あらゆる豊かな内容」を与える積極的なものでもあります。この両面をみないとスピノザのように実体を単に「普遍的な否定力」という形式のみの消極的なものとしてとらえることになるのです。

一五二節 ── 実体の相関から本来の相関である因果性の相関へ

 「実体は絶対的な力であるから、単なる内的可能性としての自己に関係することによって自己を偶有性へ規定する力であり、かくして措定された外面性はこの力から区別されている。この点からみるとき、実体は、必然性の最初の形式において実体であったように、本来の相関、すなわち因果性の相関である」(一〇七ページ)。
 実体は、「内的な可能性」を外的な「偶有性へ規定する力」であり、外的に「規定された」偶有性は、絶対的な「力から区別されて」います。こういう内と外とが区別されながら同一として定立される相関が、「本来の相関」としての「因果性の相関」なのです。
 先にもみたように絶対的な相関は必然性の相関を論じているのですが、一般にも原因と結果という因果法則は必然性の法則を代表するものの一つと考えられています。「悟性が表象と異るところは、それが普遍と特殊、原因と結果、等々のような関係を定立し、それによって表象の個別的な諸規定の間に必然的な関係を定立する点にあるにすぎない」(㊤一〇五ページ)。
 こうして実体と偶有は展開されて、原因と結果という絶対的相関となるのです。

 

三、「b 因果性の相関」

一五三節 ── 実体は原因、偶有は結果

 「実体は一方では、偶有性への移行とは反対に、自己へ反省し、かくして本源的な事柄であるが、しかし他方それは、自己内反省あるいは単なる可能態を揚棄して、自己を自己そのものの否定として定立し、かくして結果、すなわち、単に定立されたものではあるが、同時に作用の過程によって必然的なものでもあるところの、現実を産出する。このかぎりにおいて実体は原因である」(一〇七~一〇八ページ)。
 偶有性に移行する以前の内なるもの(「自己へ反省」)としての実体は、「本源的な事柄」として不変な自己同一性を貫くものです。この「本源的な事柄」というのは、一四八節で学んだ「条件、事柄、活動」のうちの事柄を指しています。この本源的事柄としての実体はいつまでも内なるものという「可能態」にとどまるものではなく、「自己を自己そのものの否定として定立」し、外的なものとして「現実(偶有 ── 高村)を産出」します。産出された現実は、実体の形式活動の「過程によって必然なもの」として定立された現実性です。
 このように内的な実体が必然的に外的な現実を産出する側面をとらえたとき、その「かぎりにおいて」実体は原因となり、必然的に産出された偶有は結果となるのです。
 「原因は、本源的な事柄として、絶対的な独立性と、結果にたいして自己を保持する存立性とを持っているが、その同一性は、原因の本源性そのものをなしている必然性のうちで、全く結果へ移行している。特定の内容がここでも問題となりうるかぎり、結果のうちには原因のうちにないようないかなる内容も存在しない。右に述べた同一性が絶対的な内容そのものである」(一〇八ページ)。
 実体の転化した「原因」は、実体としての同一性を内容にもつ「本源的な事柄」です。原因という事柄は、一四八節で学んだような形式活動という「必然性」のうちで、同一性を保ちつつ「全く結果へ移行」し、原因の内容は結果の内容となるのです。
 したがって「結果のうちには原因のうちにないようないかなる内容も存在しない」のであって、実体の同一性が、原因と結果を貫く「絶対的な内容」となっているのです。
 「しかしこの同一性はまた形式規定でもあって、原因の本源性は、そのうちでそれが自己を措定された存在とするところの結果のうちで揚棄される」(同)。
 原因という「本源的な事柄」は結果との間で内容上の同一性をもつのみならず、結果との間で形式上も同一となり、原因は「結果のうちで揚棄され」ます。
 「しかし原因はこれによって消失するのではなく、結果のみが現実的なものとして残るのではない。というのは、この措定された存在も同様に直接的に揚棄されており、それはむしろ原因の自己すなわちその本源性への反省だからである。原因は、結果のうちではじめて現実的であり、原因なのである。したがって原因は、即自かつ対自的には自己原因(causa sui)である」(同)。
 原因と結果とは内容上の同一のみならず形式上の同一性も実現されるのですが、これによって原因は消失して結果のみが残るのではなく、結果もまた揚棄されて原因という「本源性」へ反省するものとなっています。つまり、原因はうちに結果を含むことによってはじめて原因となり、結果はうちに原因を含むことによってはじめて結果であるという関係における形式上の同一性なのです。
 したがって原因の「絶対的真理」(同)は、自己原因による自己結果という内容・形式の同一性をもつ「自己原因」ということができます。
 「自己原因(causa sui)」とは、スコラ哲学やスピノザによって用いられた用語であり、それ自身はいかなる原因ももたず自己が自己の存在の原因だということ、自己の本質のうちには自己の存在を含んでいてそれを自己実現することを意味しています。
 ヤコービは、神を唯一の実体としての自己原因としてとらえたのですが、それを「単に形式主義」(同)、形式的同一性を実現するものとしてのみとらえて、内容の同一性を認めませんでした。
 しかし神ではない「有限な原因」(一〇九ページ)においても、結果との間に形式上の同一は存在しなくても内容上の同一は存在するのであって、ヤコービは内容上の同一性こそが形式の同一性を生みだすことを理解していないのです。例えば「原因である雨と結果である湿り」(同)とは、その内容においては「同一の現存する水」(同)なのですが、形式上の同一性は存在せず、「原因(雨)は結果(湿り)のうちで消失」(同)するとともに「また結果という規定も失われてしま」(同)い、ただ「無関係な湿りが残るにすぎない」(同)のです。
 「普通考えられているような因果関係の意味では、原因は有限である。というのは、その内容が有限であり(有限な実体におけるように)、また原因と結果が二つの別々の独立な存在と考えられている……からである」(同)。
 普通の因果関係では、「原因は有限」ですから、原因と結果の間に内容上の同一性は存在しても、形式上の同一性は存在せず、原因と結果は、形式上「二つの別々の独立な存在」となっています。
 したがって原因が結果に移行すると、その「結果と規定」(同)されたものは「また他の原因」(同)となることにより、「結果から原因への無限進行」(同)また逆に「下降的な無限進行」(同)も生じることになります。ここにも因果関係の実体的同一性が絶対的真理でないことが示されているのです。

一五三節補遺 ── 因果法則の有限性

 「或る内容を必然的なものとみようとする場合、悟性的な反省が努力するのは、主としてそれを因果関係に還元することである。もちろん、因果関係は、必然性に属してはいるが、しかしそれは必然性の過程における一側面にすぎず、必然性の過程は、因果性のうちに含まれている媒介を揚棄して、自分が全くの自己関係であることを示すものである」(一〇九~一一〇ページ)。
 一五二節で「本来の相関」(一〇七ページ)は因果性の相関であることを学びましたが、それは因果関係が必然性のもっとも一般的な形態だと考えられているためです。
 確かに因果関係はおなじみのカテゴリーではありますが、それは「必然性の過程における一側面」にすぎないのであって、真の必然性とは自己原因による自己結果という「全くの自己関係」のうちにあるのであって、因果関係のような原因という他のものによって媒介されて結果があるという関係を揚棄しているのです。
 「われわれが因果性そのものに立ちどまるならば、われわれは真の因果性ではなく、有限な因果性を持つにすぎない。この関係の有限性は、原因と結果とがあくまで区別されている点にある」(一一〇ページ)。
 したがって「因果性そのもの」は、「真の因果性」、真の必然性としての「自己原因」ではなく、「有限な因果性を持つにすぎない」のです。すなわち因果性そのものは「原因と結果とがあくまで区別されて」おり、自己原因の自己産出でないところにその有限性があるのです。
 「すなわち、原因は結果であり、結果は原因であるが、しかし原因はそれが原因であると同じ関係において結果ではなく、結果はそれが結果であると同じ関係において原因ではないのである」(同)。
 有限な因果性であっても、原因は結果となり結果は原因となるのですが、結果が原因となるのは別の関係において原因となるにすぎません。風が吹くと土砂が舞い、土砂が目に入って視力障害者が増える。そうなると視力障害者の商売用に三味線の需要が増える。三味線の皮に猫の皮が使われるために鼠が増える。鼠が増えると桶をかじる。よって「風が吹けば桶屋がもうかる」という、別の関係で原因が結果に、結果が原因になって、因果の無限進行が出現し、どこまでいっても究極的原因、究極的結果にたどりつくことはないのです。

一五四節 ── 因果性の相関から交互作用へ

 これに対して、原因が結果に、結果が原因にという関係が、別の関係としてではなく、同一の関係において定立されたものが交互作用です。交互作用においては、能動的な実体から受動的な実体への作用が同時に受動的な実体から能動的な実体への反作用となる関係が定立されるのです。
 エンゲルスは、交互作用の例としてエネルギー転化の法則(保存の法則)をあげ、「力学的運動、熱、光、電気、磁気、化学的な結合と分解……というような一連の運動形態を見ればわかるように、それらはすべて、……相互に移行しあい、相互に制約しあって、ここでは原因、かしこでは結果となり、しかもそのさい運動の総和は変転するあらゆる形態をつうじていつも同一にたもたれている」(全集⑳五三九ページ)と述べています。
 現代の量子論においては物質の本性は運動と相互作用にあり、物質の相互作用の階層性が物質の階層性の基礎をなしていると考えられています。
 「相互作用がなければ、物質の運動もなく、物質の存在も属性も認識できない。質料や電気など物質の属性はむしろ相互作用によって決まるといえるのである。したがって、宇宙の仕組みを規定するすべての根源は物質間の相互作用にあるといえる。その相互作用は階層をなしているのである」(菅野礼司「宇宙の仕組みと対称性の破れ」『唯物論と現代』四三―二)。
 物質の起原は真空にあります。真空は空虚な空間ではなく無限の粒子・反粒子により埋め尽くされた空間であり、そこに十分なエネルギーが与えられると粒子と反粒子が発生し、粒子と反粒子の対称性の破れから物質のみの私たちの宇宙が誕生しました。私たちの宇宙は粒子・反粒子の相互作用による物質とその運動の世界となっているのです。
 したがってヘーゲルが交互作用(相互作用)をもって客観的事物における究極的な必然の法則ととらえ、それを客観的論理学の最後に位置づけたのは、時代を越えた達見だったということが出来ます。
 もっとも量子力学における相互作用には、対立物の相互移行のみならず相互排斥まで含んでいますが、ヘーゲルの交互作用には前者のみとされているところにその歴史的制約性をみることができます。
 「交互作用において、因果関係はまだその真の規定において定立されてはいないけれども、原因から結果への、および結果から原因への直線的な運動が、自己のうちへ曲り戻らされていることによって、原因と結果との無限進行は真の仕方で揚棄されている」(一一一ページ)。
 原因から結果へ、結果から原因へが、「直線的な運動」としての無限進行(悪無限)としてではなく、「自己のうちへ曲り戻らされている」ことによって真無限となった運動が交互作用なのです。
 この意味で「原因と結果の無限進行」は、交互作用において「真の仕方で揚棄されている」のですが、しかし交互作用においてもなお自己原因による自己産出という因果関係の「真の規定」は「定立されてはいない」のです。
 交互作用においては、原因から結果へ、結果から原因への関係が、同じ関係における「二つのモメントの区別の交替」(一一二ページ)として定立されており、「原因は結果のうちで原因であり、結果は原因のうちで結果であるという同一性、不可分性にしたがって、同じくもう一つのモメントも定立される」(同)のです。
 つまり交互作用においては、二つのモメントは「原因の区別の交替」(同)ではなく、「因果関係を構成する二つのモメントの区別の交替」(同)なのです。つまり能動的なものが受動的なものに、受動的なものが能動的なものに交替するのです。

 

四、「c 交互作用」

一五五節 ── 交互作用における二つの規定は即自的に同一

 「交互作用のうちであくまで区別されている二つの規定は 即自的には同じものである。すなわち、一方の側面は他の側面と同じように原因であり、本源的であり、能動的であり、受動的である、等々。同様に、他の側面を前提することとそれへ働きかけること、直接の本源性と交替によって措定されることとは、同一である」(同)。
 交互作用のうちで区別されている二つの規定、つまり作用と反作用とは「即自的には同じもの」であってどちらも本源的であり、能動的であると同時に受動的であって、力の働く方向が逆になっているだけなのです。
 「最初のものと考えられた原因は、その直接性によって受動的であり、措定されたものであり、結果である。したがって二つと言われた原因の区別は空虚であって、即自的にはただ一つの原因、すなわち、結果のうちで実体としての自己を揚棄するとともに、またこの働きのうちではじめて自己を独立化する原因が存在するにすぎない」(同)。
 交互作用にあっては、「或る原因ともう一つの原因および両者相互の関係がある」(一一一ページ)ようにみえるのですが、実際には「二つと言われた原因の区別は空虚であって、即自的にはただ一つの原因」が作用と反作用という二つの結果を生みだすにすぎないのです。その意味で「区別されている二つの規定」は「即自的には同じもの」なのです。

一五六節 ── 二つの規定は対自的にも同一

 「 (ロ) しかしこの同一性はまた対自的でもある。なぜなら、上に述べたような交替の全体は、原因自身の措定作用であり、原因のこうした措定作用のみが原因の有をなしているからである」(一一三ページ)。
 しかし交互作用における二つの規定の同一性は、即時的(潜在的)であると同時に「対自的」つまり顕在化されています。というのも、原因から結果へ、結果から原因へという「交替の全体」は、実際にも一つの「原因自身の措定作用」からはじまった原因と結果の同一性の定立となっているからです。
 「区別は即自的にのみ、あるいはわれわれの反省によってのみ空無であるのでなく(前節を見よ)、交互作用そのものが、措定された二つの規定の各々を再び揚棄して、反対の規定へ逆転させるものなのであり、したがって二つのモメントの即自的に存在する空無性を措定するものなのである」(同)。
 二つの規定の同一性は「われわれの反省」のうちにのみあるのではなく、「交互作用そのもの」が二つのモメントは二つのように見えても一つのものにすぎないという「二つのモメントの即自的に存在する空無性を措定する」のです。

 

五、本質論から概念論への移行

 一五六節補遺から一五九節補遺までは、有論、本質論という客観的論理学から、主観的論理学としての概念論に移行する論理が展開されています。
 革命の哲学であるヘーゲル論理学にとって「概念」は最も重要なカテゴリーの一つであると同時に最も難解なカテゴリーです。それだけに以下の諸節はヘーゲル哲学の革命性を覚られないよう説明を極端に省略した、「論理学」のなかでもっとも解読困難な箇所であることを、あらかじめ指摘しておきたいと思います。

一五六節補遺 ── 交互作用の相対性から絶対的な概念へ

 ヘーゲルは、「交互作用は完全に展開された因果関係」(同)だといっています。というのも因果関係においても「結果から原因への無限進行」(一〇九ページ)が生じますが、そこでは結果が原因となるといっても「はじめの原因とは別の原因として規定され」(同)ています。これに対して交互作用においては「原因はそれが原因であるのと同じ関係において同時に結果であり、結果はそれが結果であるのと同じ関係において同時に原因でもある」(一一三ページ)ような原因と結果の同一であり、それがすなわち交互作用にほかならないからです。
 しかし一五四節でみたように、交互作用もまだ自己原因の自己産出という因果関係の「真の規定」(一一一ページ)には達していません。
 「交互作用は原因と結果の関係の最も近接した真理であって、言わば概念の入口に立っているが、しかしまさにそれゆえに、概念的認識が必要である場合、われわれはこの関係の適用で満足してはならないのである」(一一四ページ)。
交互作用は自己原因による自己産出という「真の因果性」(一一〇ページ)である「概念の入口」にたっているものの、まだ概念ではありません。
 したがって交互作用の見地は「全く没概念的な態度」(一一四ページ)にすぎないのであって、われわれはまだ交互作用で「満足してはならない」のです。哲学は「最も広い意味での必然性」(㊤七五ページ)を取り扱うものですが、必然的な現実性の到達点としての交互作用はまだ与えられた客観世界という枠内での必然性にとどまり、「単なる事実を取扱うにすぎず」(一一四ページ)世界の「究極目的は何かという問題は解決されないままに残る」(四五ページ)からです。この問題の解決のためには、「単なる相対性の立場を越えて」(同)概念(真にあるべき姿)をとらえるところにまで進み、最後は概念と存在との一致、主観と客観との一致としての必然性にまで前進しなければならないのです。
 「交互作用という関係の適用がなぜ不十分であるかをよく考えてみると、それは、この関係が概念に等しいものでなく、まず概念的に把握されなければならないものである、という点にある。そしてこのことは、この相関の二つの側面を直接に与えられたものとして放置せず、前の二節で示したように、それらをより高い第三のもののモメントとして認識することによって行われる。そしてこの第三のものこそまさに概念なのである」(一一四ページ)。
 交互作用では、まだ「直接に与えられた」客観世界の必然性の枠内にとどまり、その与えられた世界を揚棄する「概念に等しいもので」ないという点で「不十分」なのです。
 一二四節補遺において「抽象的で未発展の自体」(四六ページ)から真の姿への発展が論じられ、「すべての事物は最初は即自的にある。しかしそれはそこにとどまっているものではなく」(同)、概念にまで発展しなければならないことを学びました。客観的事物は、現にある姿からその「真にあるべき姿」に向かって発展させられなければなりません。それが対立物の闘争による矛盾の止揚としての発展であり、発展とは「第三のもの」としての概念に向かって質的に高度化、複雑化していく過程にほかならないのです。
 最も広い意味での必然性の「最後的な満足」(一一四ページ)は、あらゆる客観的事実がイデアである「概念のうちに根拠を持つものとして認識されることによってのみ生じる」(同)のです。言いかえると究極的必然性は概念が根拠となってあらわれ出た現実性ということができるのです。
 
一五七節 ── 概念は世界の原因

 「 (ハ) したがってこのような純粋の自己交替は、顕現されたあるいは定立された必然性である。必然性そのものの紐帯は、まだ内的で隠れた同一性である。なぜなら、この同一性は、それらの自立性がまさに必然性たるべきものではあるが、諸々の現実的なものと考えられているものの同一性であるからである」(一一五ページ)。
 ヘーゲル哲学にとって「哲学の最高の究極目的」は理想と現実の統一にあります。この理想と現実の統一を論じるうえでもっとも重要なカテゴリーが、真にあるべき姿としての「概念」というカテゴリーなのです。
 交互作用における原因の「純粋の自己交替」によって、真の原因は交互作用よりも「より高い第三のモメント」にあるのではないかを推測させることになり、その第三のものである概念によって「定立された必然性」が交互作用であることを教えてくれるのです。
 この第三のものという「必然性そのものの紐帯」、すなわちイデアとしての概念は、交互作用では「まだ内的で隠れた同一性」にとどまっています。なぜならそれは「諸々の現実的なもの」を生みだす原因となる同一性であり、その同一性は諸々の現実的なものを「必然性たるべきもの」として「自立」させるにもかかわらず、まだその姿を顕在化させていないからです。
 「したがって実体が因果性と交互作用とを通過するということは、独立性が無限の否定的自己関係であるということの定立である」(同)。
「実体が因果性と交互作用とを通過する」という箇所に注目してください。絶対的相関である実体性の相関、因果性の相関、交互作用は、いずれも実体論の展開として論じられてきたことを示しているのです。
 絶対的相関は、実体の自己媒介による自己産出という内的必然性をとらえたものでした。それは、実体性の相関、因果性の相関、交互作用を「通過する」ことによって自己運動の真の原因を追及してきましたが、交互作用に至って真の原因は「独立性」をもつ諸現実を越えたところに求めねばならないことが明らかになりました。言いかえると、独立した現実性のようにみえる客観的事物は、その内部の矛盾によって「無限の否定的自己関係」として自己の真にあるべき姿(概念)に発展させられなければならない有限なものであることが明らかになったのです。それを概念の側からみると、概念が真の原因となり、概念の「無限の否定的自己関係」として「独立性」をもつ諸現実の必然性が定立されることになるのです。
 「なぜ否定的であるかと言えば、そこで区別および媒介が相互に独立的な諸現実の本源性となるからであり、またなぜ無限の自己関係であるかと言えば、諸現実の独立はそれらの同一性としてのみ存在するからである」(同)。
 「なぜ否定的であるか」というと、「諸現実の独立」はそれと「区別」される概念という「諸現実の本源性」によって否定され、概念によって「媒介」されて諸現実となるからであり、「またなぜ無限の自己関係」かといえば、諸現実は概念の否定による概念との「同一性としてのみ存在するから」です。
 ここに至って「ヌースあるいは精神(これはヌースのより深い規定である)が世界の原因である」(㊤七四ページ)ということは概念が「世界の原因」であることを意味していることがやっとはっきりしてくるのです。

一五八節 ── 客観世界の真理は自由な概念

 「したがって必然の真理は自由であり、実体の真理は概念」(一一五ページ)です。
 ここはヘーゲル哲学の真髄をあらわす革命性を示す命題であり、それだけに分かりにくいものとなっています。
 まず、「必然」「実体」は、いずれも客観世界、物質世界を意味するものです。客観世界は諸法則の支配する「必然」の世界であり、物質という「実体」が担う物質世界です。
 この客観世界、物質世界に対峙するのが、主観(主体)世界、精神の世界です。精神の本質は自由な意志にあり、自由な意志で客観世界の真理、「真にあるべき姿」である概念を認識のうちにとらえるところにあります。しかしこの段階では、主観、客観というカテゴリーはまだ論理学の本論には登場しませんので「客観世界」「主観世界」の用語は使用されていないことに注意してください。
 人間は精神の働きにより、客観世界、とりわけ国家、社会を「真にあるべき姿」という概念をかかげて自由につくり変える力をもっているのであり、この二つの意味で「必然の真理は自由」「実体の真理は概念」なのです。
 「すなわち、自己を自己から反発してさまざまな独立物となりながらも、この反発のうちで自己同一であり、交替運動をしながらも、あくまで自分自身のもとにとどまる、すなわちただ自己とのみ交替運動をする自立性 ── である」(同)。
 ここは概念の説明をしたものです。概念(真にあるべき姿)はまず客観(現にある姿)を否定的に反映した主観的なものとして定立されますが、この主観的概念は「自己を自己から反発」して客観となって、客観を真にあるべき姿につくり変え、客観のうちで「自分自身のもとにとどまる」のです。したがって主観的な真にあるべき姿は自己反発により「さまざまな独立物となりながら」、その客観のうちで真にあるべき姿という「自己同一」を貫きます。さらにその新しくつくり変えられた客観の否定的反映として再び新たな概念が定立されます。こうした主観と客観との「交替運動」をつうじて、真にあるべき姿としての概念は、「真にあるべき姿」を次々に更新し、発展させていくのです。これが「自己とのみ交替運動をする自立性」としての概念なのです。
 現実性は、概念と一致してこそ真理となるのであり、それが理想と現実の統一なのです。

一五八節補遺 ── 自由と必然の統一

 本補遺は、一四五節補遺と合わせて理解すべきものであり、自由を必然との統一において論じた極めて重要な箇所です。
 「必然は冷酷である」(同)と言われています。必然性のうちには、ある内容が「他のものによって襲われ、かくしてそれは滅亡させられるということが含まれている」(一一六ページ)からです。資本主義のもつ利潤第一主義の必然性は、容赦なく労働者・国民を打ち倒し、滅亡させてしまうのです。
 「かくしてまた自由も、この立場にあっては、ようやく抽象的な自由にすぎず、それはわれわれが直接的に有りかつ持っているものを諦めることによってのみ、救われるのである」(同)。
 自由な意志とは、自由に決定する意志を意味しています。ここにいう「抽象的な自由」とは、「その内容が即自かつ対自的に確実なものであることを意識している」(九一ページ)自由であり、つまり必然性を認識したうえで決定する自由です。それが必然的自由とよばれるものであり、それは必然性を認識したうえで、仕方がないと「諦める」(一一六ページ)ことによってのみ救われる自由にすぎません。
 真の自由は、この必然性の「硬い外面を克服」(同)して真にあるべき姿という「内面を啓示」(同)し、硬い外面を真にあるべき姿という「一つの全体の諸モメント」(同)に落とし込むことにあるのです。つまり真の自由は、必然性の支配する客観世界の「硬い外面を克服」し、それを真にあるべき姿に変革するところにあるのです。
 「これが必然性の自由への変容であって、この自由は単に抽象的否定の自由ではなく、具体的で肯定的な自由である。ここから、自由と必然とを相容れないものとみるのが、どんなに誤っているかがわかる。もちろん必然そのものはまだ自由ではない。しかし自由は必然を前提し、それを揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる」(同)。
 必然との関係における自由は、まず必然性から逃れて自由になろうとする「否定的自由」に始まり、必然性を無視して決定する「形式的な自由」(九〇ページ)を経て、必然性を認識して決定する「必然的自由」に至ります。しかし必然的自由はまだ必然性によって支配されるという不自由を含んだ自由にすぎません。
 したがって「必然そのものはまだ自由ではない」のであって、真の自由は必然性を認識したうえでこれを「揚棄」し、真にあるべき姿を認識したうえで意志決定する「概念的自由」にあるのです。その意味で、真の自由は「必然を前提し、それを揚棄したものとして自己のうちに含」んでいる「具体的で肯定的な」概念的自由なのです。
 一四七節補遺で「概念は必然性の真理であり、そのうちに必然を揚棄されたものとして含んで」(九七ページ)いることを学びましたが、必然性(客観世界)のうちに概念を認識したうえで決定する概念的自由こそ「必然の真理」(一一五ページ)としての真の自由なのです。
 「有徳な人は、その行為の内容が必然的でありかつ即自対自的に妥当するものであることを意識しているが、しかもこのことは、かれの自由を少しも傷つけるものではなく、むしろそれによってはじめてこの意識は、まだ無内容で単に可能的な自由としての恣意とはちがった、現実的で内容のある自由となるのである」(一一六~一一七ページ)。
 有徳な人とは真に自由な人なのです。彼は概念を認識することによって「現実的で内容のある自由」を手にし、その行為の内容が「必然的でありかつ即自対自的に妥当するもの」であることを知っているからです。
 真の自由は「自分が全く絶対的理念に規定されている」(一一七ページ)、つまり真にあるべき姿に規定されているのだと知ることにあり、それこそ「人間の最高の自立性」(同)なのです。スピノザは、この真の自由を「神への知的愛」(同)と呼んでいます。

一五九節 ── 概念は二つの意味で客観世界の真理

 「かくして概念が有および本質の真理である。というのは、概念においては自分自身への反省という反照が、それ自身同時に独立的な直接性であり、さまざまの現実のこうした有が直接に自分自身への反照にすぎないからである」(同)。
 ここにいう「有および本質」とは客観世界を意味していますが、まだ客観のカテゴリーを学んでいないので「客観世界」とはよんでいません。いわば真にあるべき姿という「概念」は客観世界の真理なのです。八三節補遺で、「概念がはじめて真実なもの、もっとはっきり言えば、有および本質の真理」(㊤二五七ページ)であること、概念は「自己自身によって自己を自己と媒介し、このことによって自己が真に直接的なものであることを示す」(同)ことによって「真理であることを確証」(同)することを学びましたが、この論理をここで詳しく学ぼうというのです。
 ここでは、二つの意味で概念が客観世界の真理であるとされていることに注意してください。
 一つには、真にあるべき姿としての主観的概念が「自分自身への反省」によって「独立的な直接性」となり、客観世界を真にあるべき姿に変革するという意味で、概念は客観世界の真理ということができます。これはいわば主観的概念の客観化です。
 もう一つは、逆に「さまざまの現実」は「自分自身への反照」により、自己の真にあるべき姿としての客観的概念に自己を発展させるという意味でも、概念は客観世界の真理なのです。これはいわば、客観それ自身が客観の概念へ発展することです。
 「概念は自己を有および本質の真理として示し、両者はその根拠たる概念へ帰ったのであるが、このことによって概念は、逆にまた、その根拠たる有から自己を展開したのである」(一一七ページ)。
 概念が客観世界の真理だということは、客観世界が「自分自身への反省」をつうじて客観世界の根拠である「概念へ帰った」ことを意味しています。根拠の「より高い真理」(一九ページ)が概念なのです。というのも「根拠というものはまだ絶対的に規定された内容を持たない」(三八ページ)のに対し、概念は「絶対的に規定された、したがって自己活動的な内容」(三九ページ)をもっているからです。
 有および本質は「根拠たる概念へ帰る」と同時に、それはまた有のなかに潜在的に含まれている概念が顕在化したという意味では「その根拠たる有から自己を展開した」ということもできるのです。
 「この進展の前の側面は、有が自分自身のうちへ深まり、有の内部がこの進展によって開示されたとみることができるし、後の側面は、より不完全なものからのより完全なものの出現とみることができる。人々はこのような発展を後の面からのみみることによって、哲学を非難したのである」(一一七ページ)。
 客観世界(「有」)から概念への進展は「有が自分自身のうちへ深まり」、有の根拠という「有の内部」の開示とみることもできますし、また概念の顕在化による「より不完全なものからのより完全なものの出現とみること」もできます。
 しかし当時の人々は、概念=神を「真に最初なもの」(一三〇ページ)として完全なものと考えていましたから、概念=神を不完全なものから出現したとみることは神を冒涜するものであるとしてヘーゲル哲学を批判したのです。逆にいえば、ヘーゲルは一六三節で概念と神を同一視しているような表現をしながらも概念論において何ら神を必要とはしていないのです。
 「概念はこのような自己内反省であり、媒介の揚棄であるから、それは直接的なものを前提する。しかしこの前提は自己内反省と同一なものであって、この同一性が自由および概念を構成している」(一一八ページ)。
最初の「自己内反省」は、「有の自己内反省」であり、後の「自己内反省」は「概念の自己内反省」です。つまり主観的概念は、直接的なものである有(客観世界)を前提とし、有に媒介されつつその媒介を揚棄した「有の自己内反省」として生じるものです。しかし他方で主観的概念の前提となる有は、主観的「概念の自己内反省」により概念との「同一性」が定立されて真にあるべき姿に作りかえられるのであり、この有を変革する主観的概念は「自由」な精神の産物にほかならないのです。
 「かくして概念は、有および本質との関係においては、単純な直接性としての有に復帰した本質として規定されており、その反照はこのことによって一方現実性を持つとともに、またその現実性は自分自身のうちでの自由な反照をなしている」(同)。
 このように主観的概念は、客観世界との関係のなかにあっては、客観世界の真にあるべき姿、客観世界のいわば「本質として規定」されるのであり、他方主観的概念は自己の「反照」によって「現実性を持つ」にいたり、真にあるべき姿に変革された現実性は、概念「自身のうちでの自由な反照」となっているのです。
 ヘーゲルは「必然から自由への、あるいは現実から概念への移りゆきは、最も困難なものである」(同)としています。というのも、客観世界はそれだけで完成された統体的な世界であり、「何ものをも自己のうちへ侵入させようとしない」(一一九ページ)自立した世界と考えられているからです。
 「必然を思惟するということは、これに反して、むしろこの困難の解決である。なぜなら思惟するということは、他のもののうちで自分自身と合致することだからである。この合致は自由になることを意味するが、しかもその自由は捨象による逃避ではなく、現実的なものが必然の力によって結びつけられている他の現実のうちで、自己を他のものとしてでなく、自分自身の有および定立として持つという自由である」(同)。
 二四節補遺二で、「哲学的な意味では、真理とは、……或る内容のそれ自身との一致を意味する」(㊤一二四ページ)ことを学びましたが、ここにきて、あらためてその意義が明確になります。
 すなわち思惟するということは、思惟の対象となる必然的現実性のうちから必然性の真理としての概念を引き出し、対象という「他のもののうちで」思惟を対象自身に「合致」させることにより、「現実から概念への移りゆき」を実現するのです。
 言いかえると概念を認識のうちにとらえることは、思惟が客観世界の必然性から解放されて「自由になることを意味」していますが、その自由は客観世界から「逃避」する自由ではなくて、思惟を現実的なもの「自身の有および定立として持つという自由」なのです。
 「この自由は、向自的に存在するものとしては自我と呼ばれ、統体性へ発展したものとしては自由な精神と呼ばれ、感情としては愛と呼ばれ、享受としては浄福とよばれる。 ── スピノザの偉大な実体観は、有限なものの独立からの解放を即自的に含んでいるにすぎないが、概念そのものは必然の力と真の自由を実現するものである」(一一九ページ)。
 「向自的(主体的 ── 高村)」に存在する思惟の自由をもつものが、自我です。自我は自由な思惟によって無限に絶対的真理に向かって発展していく存在として「向自有の最も手近な例」(㊤二九三ページ)となっています。
 自我および自由な精神の本質は概念的自由のうちにあらわれるのであって、人間は概念的自由の立場にたって自然はもとより、国家・社会をも変革しうるところに人間たるゆえんがあるのです。
 スピノザは神を唯一実体としてとらえることにより、「有限な」客観世界はけっして独立した存在ではないという考えを潜在的にしろ含んでいましたが、彼はまだ「概念」のカテゴリーを確立しえなかったために、この考えを顕在化させることができなかったのです。概念こそ、自然や社会に対して真の「必然の力」を示し、「真の自由を実現するもの」なのです。

一五九節補遺 ── なぜ概念からはじめないのか

 概念が、有、本質の真理だとすれば、「なぜ概念からはじめないのか」(一一九ページ)との質問があるかも知れませんが、「思惟的認識が問題となっているかぎり、真理からはじめることはできない」(同)のです。というのも、哲学は前提をもたないのであって、一歩ずつ論証をすすめながら前提を作り出していくのです。真理も、最初から真理と断定されるのではなく、「確証されたもの」(一二〇ページ)として定立されなければなりません。
 ヘーゲルは、「有および本質をその弁証法的発展において考察し、それらが自己を揚棄して概念の統一となるものであること」(同)を証明することによって、はじめて概念が、有、本質の真理であることを証明するに至ったのです。

 

六、弁証法は真理認識の形式として理想と現実の統一を論じる

 弁証法とは真理を認識するための思惟形式であり、その基本形式は対立物の統一(対立の統一という方が正確だが慣用に従っておく)にあります。なぜ対立物の統一が真理認識の方法なのかといえば、自然の対称性にみられるように「すべてのものは対立している」(三三ページ)からです。対立とは必然性の最も普遍的な形式であり、しかも対立する二つのものは量子論にいう相互作用、つまり直接性と媒介性の統一の関係にあるため、対立する二つのものをその直接性と同時に媒介性としてとらえる対立物の統一は、真理を認識する唯一の思惟形式(方法)なのです。
 「弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である。また弁証法はあらゆる真の学的認識の魂である」(㊤二四六ページ)。
 つまり、弁証法を認識論としてとらえるとき、それは「あらゆる真の学的認識の魂」であり、「現実の世界のあらゆる運動」の真理をもとらえる思惟形式だということでしょう。
 エンゲルスが弁証法を「自然、人間社会および思考の一般的な運動=発展法則にかんする科学」(全集⑳一四七ページ)としてとらえているのは、ヘーゲルのいう「現実の世界のあらゆる運動」の原理という側面をとらえたものということができます。しかし、弁証法は運動の真理をとらえるのみならず相対的静止の真理をもとらえ、表面的な真理のみならず内奥の真理をもとらえ、現にあるものの真理をとらえるのみならずあるべきものの真理(未来の真理)をもとらえるのですから、「一般的な運動=発展法則にかんする科学」というだけでは狭すぎるし、正確ではないのであって、やはり真理認識の思惟形式というべきであり、「あらゆる真の学的認識の魂」としてとらえるべきでしょう。
 それはともかく、弁証法が「現実の世界のあらゆる運動」の原理をとらえるところに、弁証法の最大の特徴があることはいうまでもありません。
 弁証法の基本形式としての対立物の統一には、調和的統一と排斥的統一があるように、運動にも調和的統一としての運動と排斥的統一としての運動があります。
 エンゲルスは、「運動そのものが一つの矛盾」(全集⑳一二五ページ)であるとして、「すでに単純な力学的な位置の移動でさえ、一つの物体が同一の瞬間に一つの場所にありながら同時に別の場所にあるということ」(同)をその例にあげています。これはヘーゲルのいう有と無の統一としての成を意味していますから、矛盾というより対立物の調和的統一というべきでしょう。生命体の同化と異化の統一という運動も同じ例ということができます。
 これに対して矛盾の解決(揚棄)としての運動は、より高い質に発展する運動です。ヘーゲルは「一般に、世界を動かすものは矛盾である」(三三ページ)といっていますので、矛盾の揚棄による発展こそ「世界を動かす」根本的な運動ということができるでしょう。社会発展の原動力は階級闘争にあるといわれているのもその一表現とみることができます。
 ヘーゲル論理学が、その構成において、即自(対立の未分化の状態)、対自(対立の発展した段階)、即かつ対自(対立の同一、統一によって対立が解決された状態)という三分法を貫いているのも、三分法による対立物の統一をつうじて、真理を認識しようとするものにほかなりません。
 第二七講で、対立物の統一には、対立物の相互浸透(対立物の相互移行、対立物の同一)と対立物の相互排斥(対立物の闘争、矛盾)のあることをお話ししました。前者が調和的統一であるのに対し、後者は排斥的統一です。
 有論、本質論では、主として対立物の相互浸透という調和的統一を論じてきましたが、概念論では主として対立物の相互排斥による事物の発展を論じています。
 そこでヘーゲルは客観的論理学における必然の法則の最後を「交互作用」のなかで発展法則としての概念で締めくくっているのです。言わば「最も広い意味での必然性」(㊤七五ページ)をとらえる論理学は、発展法則としての概念をとらえることにより、理想と現実の統一という究極的な必然の法則をとらえることになるのです。
 しかしヘーゲルは、客観世界の概念にもとづく発展は革命の哲学となるところから、発展法則を明確な形で示すことなくきわめて暗示的な表現にとどめ、それだけに分かりにくいものになっています。
 ヘーゲルは「絶対者の学は必然的に体系でなければならない」( 八四ページ)として、論理学を「萌芽からの発展」の体系として展開しています。一つのカテゴリーから次のカテゴリーへの移行は、すべて「揚棄された矛盾」(㊤二七八ページ)としてとらえられることにより、カテゴリーの必然的発展による体系となっています。
 この点をとらえてマルクスはヘーゲル論理学において「否定と保持、肯定を結合する意味をもつところの揚棄がある独特の役割を演じる」(全集㊵五〇四ページ)として、「この思惟的揚棄は、それの対象を現実においてはそのままにしておくにもかかわらず、それを現実的に克服したと信じる」(同五〇五ページ)と指摘しています。
 確かにそういう側面もあるのですが、ヘーゲルは概念を論じることにより矛盾の解決としての発展、つまり現実そのものの発展をも論じているのです。いわば客観的論理学そのものは、その最後において客観的事物のうちにおける対立物の闘争により、その事物が真にあるべき姿に向かって発展することを論じたうえで「概念論」に移行し、そこで主観と客観という対立物の闘争による発展を論じ、理想と現実の統一に結びつけているのです。
 八二節補遺でヘーゲルは「思弁的なもの」(㊤二五四ページ)つまり弁証法的なものは、「悟性がそこに立ちどまっているような諸対立を、したがってまた主観と客観との対立をも、揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる」(同)と述べています。つまり客観的事物のうちにある矛盾を主観としての人間の認識と実践を媒介に揚棄して、客観的事物を真にあるべき姿に発展させ、理想と現実の統一を実現しようというのです。
 概念論において理想と現実の統一を論じたヘーゲルの革命的立場とその功績はきわめて高く評価されるべきものといえます。それだけに「本質論」の最後で、概念とは客観的事物のうちの対立物の闘争から生まれる矛盾の揚棄としての客観の真にあるべき姿であることをも意味していることを、もう少し正面から語って欲しかったと思われます。
 しかし当時の厳しい検閲がそれを許さなかったというべきでしょう。