『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第三四講 第三部「概念論」②

 

一、「A 主観的概念」 「b 判断」総論(二)

 前回から第三部「概念論」に入りました。ヘーゲルのいう概念とは一般にいわれる「思惟の単なる形式」(一二一ページ)ではなく、事物の真にあるべき姿として「絶対に具体的なもの」(同)であり、また真にあるべき姿として自らを特殊化して個となる具体的普遍です。
 すなわち概念は客観的事物のうちの真にあるべき姿であると同時に客観的事物を真にあるべき姿につくりかえるという二重の意味で「あらゆる生命の原理」(同)なのです。具体的普遍としての概念には、普遍、特殊、個の三つのモメントがあり、その諸モメントは区別されていながらも概念と不可分という三位一体の関係にあります。
 この三位一体の概念を特殊化して、諸モメントを区別しながら概念の統一としてとらえたものが判断であり、判断も「単なる形式」ではなく真理をとらえる諸形式なのです。
 今回は以上を前提に、引き続き「A 主観的概念」の「b 判断」の総論部分から始まります。

一六八節 ── 判断は有限の立場

 「判断の立場は有限の立場である。この立場における事物の有限性は、事物が判断であること、すなわちその定有とその普遍的本性(その肉体と精神)が合一されてはいるが ── でなかったら事物は無であろうから ── これらのモメントはすでに異っており、また一般に分離しうる、ということにある」(一三九ページ)。
 「あらゆる事物は判断」(一三八ページ)であり、個と普遍の統一、言いかえると「定有とその普遍的本性」の「合一」です。この「判断の立場は有限の立場」です。なぜかというと、すべての事物は「個別化されている普遍的なもの」(同)であるにもかかわらず、判断においてはこの合一されている個と普遍が「分離しうる」ものという形式のうちにおかれているからです。これに対して概念は、個、特、普が三位一体となった「無限の形式」(一三七ページ)のうちにあるのです。
 「判断という形式は、具体的なもの ── 真実なものは具体的である ── および思弁的なものを表現するに適しないものであって、判断はその形式によって一面的であり、そのかぎり誤っているものである」(㊤一四二ページ)。
 具体的な事物はすべて個のうちに普遍があるという「無限の形式」をもっているにもかかわらず、「判断という形式」は両者を「分離しうるもの」とする「形式によって一面的」であり、したがって真理を認識しうる形式ではあってもなお「有限の立場」にあるのです。

一六九節 ── 判断における主語は述語をつうじて内容をもつ

 「個は普遍であるという抽象的判断においては、主語は、否定的に自己に関係するものとして、直接に具体的なものであり、これに反して述語は抽象的なもの、無規定なもの、普遍的なものである。しかし主語と述語とは、『である』によって連関しているのであるから、述語は普遍的でありながらもまた主語の規定性を含んでいなければならない。かくしてこの規定性は特殊性であり、そして特殊性は主語と述語との定立された同一性である。特殊は、かく主語と述語という形式的区別に無関係なものとしては、内容である」(一三九~一四〇ページ)。
 「個は普遍である」という判断において、主語である個は、一六三節で学んだように普遍と特殊の「否定的統一」(一二七ページ)として「直接に具体的なもの」であり、これに対して述語は、「抽象的なもの、無規定なもの」としての普遍となっています。
 しかし、主語と述語とは「である」という繋辞によって同一なものとして定立されているのですから、「述語は普遍的でありながらもまた主語の規定性を含んで」いなければなりません。
 主語の個と述語の普遍とをつなぐものは、「主語の規定性」としての「特殊性」であり、述語は特殊をうちに含む普遍として「主語の規定性を含んで」いるところから、両者に共通の特殊性という「特定の内容」(一四一ページ)を媒介にして主語と述語の同一性が定立されるのです。
 したがって「主語は述語においてはじめてその明確な規定性と内容を持つ」(一四〇ページ)のであり、主語はそれ自身としては、内容のない「空虚な名」(同)にすぎず、「主語が何であるかは、述語においてはじめて言いあらわされている」(同)のです。

一六九節補遺 ── 判断の発展はより深い真理をとらえる

 概念の最初の区別は、「個」(一三三ページ)であり、判断の最初の形式は、この個に関する判断としての「個は普遍である」、つまり「個 ── 普」というものでした。
 「しかし判断が発展するにつれて、主語は単に直接的な個別者にとどまらず、特殊的なものおよび普遍的なものという意味を持つようになり、述語は単に普遍的なものにとどまらず、特殊的なものおよび個別的なものという意味を持つようになる」(一四〇ページ)。
 本節で主語はそれ自身では「空虚な名」にすぎず、述語と結合して「はじめてその明確な規定性と内容を持つ」ことを学びました。
 したがって主語の個が個から「特殊的なものおよび普遍的なもの」となり、述語の普遍が普遍から「特殊的なものおよび個別的なもの」へと進展するなかで、判断の内容も異なったものとなり、主語と述語との組み合わせをつうじてより高度の内容、より深い真理をとらえる判断にもなってくるのです。
 一六二節で学んだように、判断は「概念の諸形式として、現実的なものの生きた精神」(一二六ページ)であって内容のない「容器」(同)ではなく、「或るものが真理であるかどうか」(同)を問題とする真理認識の形式なのです。

一七〇節 ── 述語の特定の内容のみが主語と述語の同一性を定立する

 「われわれはさらに主語および述語をもっと立ち入って考察してみよう。主語は否定的な自己関係であるから(一六三節、一六六節の註釈)確固とした根柢であって、そのうちに述語がその存立を持ち、観念的に存在している(すなわち述語は主語に内属している)。そして主語は一般にかつまた直接に具体的なものであるから、述語の特定の内容は主語の多くの規定性の一つにすぎず、主語は述語より豊かで広いものである」(一四一ページ)。
 前節でみたように、「個は普遍である」という判断において、主語の個は「現実的なものと同じもの」(一二七ページ)であり、普遍と特殊の統一という「否定的な自己関係」のうちにあります。したがって述語の普遍を「観念的に」自己のうちに含んでいるのです。
 つまり主語の個は「直接に具体的なもの」として多くの規定性(ばらは赤い、棘がある、いい香りがするなど)をもっているのに対し、述語のもつ普遍は「主語の多くの規定性の一つ」にすぎないから、「主語は述語より豊かで広い」のです。
 「逆に述語は普遍的なものであるから、独立に存立し、或る主語が存在するかどうかには無関係である。それは主語を越えて進み、主語を自分のもとに包摂し、主語よりも広いものである。述語の特定の内容(前節参照)のみが両者の同一をなすのである」(一四一ページ)。
 これに対して述語の普遍は、主語と「無関係」に「独立に存立」するうえ、普遍として主語である個を「自分のもとに包摂し、主語よりも広い」(赤い色をもつものはバラに限らない)といえます。
 したがって前節でみたように、述語の持つ「特定の内容」のみが主語と述語の同一を定立するのです。

一七一節 ── 判断は繋辞の充実を通じて推理に進展

 「主語、述語、および特定の内容あるいは同一性はまず、関係のうちにありながらも、異ったもの、分離するものとして判断のうちに定立されている。しかしそれらは本来すなわち概念上同一なものである。というのは、主語の具体的な総体性は、けっして無規定の多様性を意味せず、それは個すなわち特殊と普遍とが同一になったものであり、そして述語はまさにこうした統一にほかならないからである(一七〇節)」(同)。
 判断において主語と述語とは同一なものとして定立されてはいるのですが、同時に主語と述語とは「異ったもの、分離するもの」としても定立されています。
 しかし主語である個と述語である普遍とは「本来すなわち概念上同一なもの」です。というのも主語の個とは「特殊と普遍とが同一になったもの」としての具体的なものであり、他方述語である普遍もまた一六九節でみたように主語の規定性を含む普遍として「特殊と普遍とが同一になったもの」にほかならないからです。
 「繋辞において主語と述語との同一が定立されてはいるが、しかしそれはさしあたり抽象的な『である』として定立されているにすぎない。しかしこの同一性にしたがえば、主語はまた述語の規定のうちにも定立されなければならないから、これによって述語もまた主語の規定を持つようになり、かくして繋辞は充実される。これが内容豊かな繋辞を通じての判断の推理への進展である」(一四一~一四二ページ)。
 このように本来主語と述語とは「概念上同一なもの」なのですが、しかし判断においては「さしあたり抽象的な『である』として」その同一性が定立されているにすぎません。しかし主語と述語との概念上の同一性からすると、こういう「である」という空虚な繋辞による同一性ではなく、「内容豊かな繋辞」による同一性が定立されなければなりません。こういう充実した繋辞をもつ判断が推理なのです。
 二四節補遺二において、「すべての事物は、普遍的なものとして自己を個別的なものと連結する特殊的なもの」(㊤一二二ページ)であり、「推理とは、特殊は普遍と個という二つの項を連結する中間項であるという規定」(同)であることを学びました。
 「である」という繋辞が「充実」すると、一六九節で学んだように特殊性となり、「個 ── 普」の判断は「個 ── 特 ── 普」の「推理」へ進展していくことになるのです。特殊とは「そのうちで普遍が曇りのなく自分自身に等しい姿を保っている規定態」(一二七ページ)であり、主語の個(普遍と特殊の統一)と述語の普遍に共通する特殊を中間項にもつことによって、判断は推理に進展するのです。
 「まず判断に即して行われる進展は、最初抽象的な、感覚的な普遍性が、すべてに属するものになり、次に類および種へ進み、最後に発展した概念的普遍性になることである」(一四二ページ)。
 判断から推理にまでいたる判断の進展は、「個は普遍である」における述語となる普遍性が、「最初抽象的な、感覚的な普遍性」である「質的判断」(一四四ページ)から、「すべてに属する」普遍性となる「反省の判断」(一四八ページ)、「類および種」の普遍性となる「必然性の判断」(一五二ページ)を経て、「発展した概念的普遍性」となる「概念の判断」(一五五ページ)という過程をたどります。
 「判断の進展の認識がはじめて、普通に判断の種類として挙げられているものに、連関と意味とを与える。……判断の諸種類は、次から次へと必然的に導き出されてくるものであり、概念の自己規定の進展とみられなければならない。というのは、判断とはそれ自身、規定された概念にほかならないからである」(一四二ページ)。
 判断が進展して推理にいたるという認識がはじめて判断の諸種類を「必然的に導き出」し、判断の諸種類に「連関と意味とを与える」のです。
 ではこの判断の進展をもたらすものは何か、といえば、それは「概念の自己規定の進展」です。というのも判断とは「それ自身、規定された概念にほかならないから」です。
 概念は、八三節で学んだように、有論における即自的概念、本質論における対自的概念、概念論における即対自的概念としてとらえられています。したがって「概念の自己規定」としての判断の諸種類も、述語としての普遍が有論、本質論、概念論にそって進展していくことによる判断の展開となるのです。

一七一節補遺 ── 概念の展開が判断の諸種類をもたらす

 以上により、判断の諸種類は、「単に経験的な多様」(同)とみるべきではなく、「思惟によって規定された統体性」(同)と考えなければなりません。
 この点を強調したのがカントでした。彼は「カテゴリー表の図式にしたがって、判断を質の判断、量の判断、関係の判断、および様相の判断に分類」(一四三ページ)しましたが、その根柢には、判断の諸種類を規定するものは「論理的理念そのものの普遍的形式」(同)という正しい考え方がありました。
 判断の諸種類を「論理的理念」、つまり「概念の自己規定の進展」ととらえると、「有、本質、および概念という三つの段階に対応する判断の三つの主要な種類」(同)をうることになります。本質の判断は、「差別の段階である本質の性格に対応」(同)してさらに二つに分かれることになります。こうして判断の種類は、質的判断(有の判断 ── 高村)、本質の判断としての反省の判断と必然性の判断、概念の判断の四つに区分されます。
 「判断がこのような体系をなしていることの内的根拠がどこにあるかと言えば、それは、概念は有と本質との観念的統一であるから、判断において行われる概念の展開は、まずこれら二つの段階を概念にふさわしく変形しながら再生産しなければならないということ、そして次に概念そのものもまた真の判断として自己を規定しなければならないということに求められなければならない」(同)。
 一六六節補遺で判断は「概念の特殊化」(一三七ページ)であることを学びました。概念は「有と本質との統一」(一二〇ページ)ですから、この概念が特殊化することは、有と本質という「二つの段階を概念にふさわしく変形しながら再生産し」、有の判断、本質の判断となるのです。また概念の特殊化は概念そのものでもありますから、概念の判断を「真の判断」として自己規定しなければならないのです。
 判断の諸種類は「同じ価値を持つもの」(一四三ページ)ではなく、「段階をなすもの」(同)であり、後に行くほどより深い真理をとらえたものとなります。最高の判断は、例えば「或る芸術作品が美しい」(同)というような、対象と概念との一致、不一致を判断する概念の判断となります。「この壁は緑である」(同)というような質的判断しかできない者は「非常に貧弱な判断力」(同)しかもたないというべきであり、「或る芸術作品が美しいかどうか、或る行為が善いかどうか」(同)などの概念の判断をくだす人が「本当に判断のできる人」(同)なのです。概念の判断では「対象がそのあるべきもの、すなわちその概念と比較される」(一四四ページ)のであり、こうした価値判断こそ本当の判断なのです。

 

二、「b 判断」各論(一)

「イ 質的判断」

一七二節 ── 定有の判断は質の判断

 「直接的判断は定有の判断である。ここでは主語は、その述語である一つの普遍性のうちに定立されているが、この述語は一つの直接的な(したがって感性的な)質である」(同)。
 最初の判断(「直接的判断」)は、定有の判断です。定有の判断とは述語となる普遍が「一つの直接的な(したがって感性的な)質」であり、主語がどんな質をもつ定有であるかの判断がなされるところから、「定有の判断」とよばれています。
 「定有の判断は ⑴ 個は一つの特殊なものである、という肯定判断である。しかし個は特殊なものではない。もっとはっきり言えば、そうした単一の質は主語の具体的な性質に適応しない。⑵ これが否定判断である」(同)。
 定有の判断は、まず最初に「ばらは赤い」という「肯定判断」として示されます。この肯定判断は主語である「ばら」が「赤い」という一つの質をもっていることを示す判断であり、それは「ばら」という個が「赤い」という特殊な質をもっているとする判断、すなわち「個は一つの特殊なものである」との判断となっています。しかし個は「普遍および特殊の規定態」(一二七ページ)、つまり普遍と特殊の統一ですから、「個は特殊なものではない」のであって、「そうした単一の質は主語の具体的な性質」のほんの一面をとらえるにすぎません。したがって「主語の具体的な性質に適応しない」判断として否定されなければならないのであり、肯定判断はより正しい判断を求めて「否定判断」へと進展することになります。
 「『ばらは赤い』とか、『ばらは赤くない』というような質的判断が真理を含みうると考えるのは、普通の論理学の最も根本的な偏見の一つである。こうした判断も正しくはありうる。……しかし真理は形式にのみ、すなわち、定立された概念とそれに対応する実在とにのみ依存している。しかしこうした真理は質的判断のうちには存在しない」(一四四~一四五ページ)。
 こういう質的判断は正しいとはいえても、真理をあらわす判断ということはできません。というのも二四節補遺二で学んだように、真理とは概念と存在との一致を意味しているのですが、この質的判断には質は含まれてはいても概念は含まれていませんから、概念に一致する存在であるかどうかは論じようがないからです。
 判断は質的判断から本質の判断、概念の判断と進展するにつれ、単なる正しさから真理をとらえる判断となり、概念の判断において真の意味の真理がとらえられることになるのです。

一七二節補遺 ── 正しさと真理の区別

 「正しさと真理は普通同じ意味にとられており、したがってある内容が正しいにすぎない場合に、それが真理であると言われることがよくある。正しさとは、一般にわれわれの表象とその内容との形式的な一致をさすにすぎず、その内容がどんなものであるかは問題でない。これに反して、真理(真実態)とは、対象の自分自身との、すなわちその概念との一致である」(一四五ページ)。
 二四節補遺二で、真理とは何かが論じられましたが、ここで再論されています。
 ヘーゲルは、存在する事物には、一時的、偶然的な存在もあり、こうしたものをそのまま表象し(イメージとしてとらえ)て「対象と表象との一致」(㊤一二四ページ)を実現しても、それは正しいとはいえてもまだ真理ではないというのです。ヘーゲルのいう真理とは、対象が真にあるべき姿として存在すること、つまり概念と存在との一致です。その例としてヘーゲルは、「或る人が病気である」(一四五ページ)との判断は正しくはあっても、病気であることは「肉体の概念に一致していない」(同)から真理ではない、といっています。
 「直接的な個物について一つの抽象的な質を言いあらわす直接的判断は、それがたとい正しくても、その主語と述語とが互に実在と概念との関係をなしていないのであるから、真理を含むことはできないことがわかる」(同)。
 定有の判断は述語において主語である「個物」の「一つの抽象的な質」をいいあらわすのみであって、主語の概念は全く問題とされていませんから、「真理を含むことはできない」のです。
 「さらにまた直接的判断の真理ではない点は、その形式と内容とが適応しあっていないことにある」(同)。
 例えば「ばらは赤くある」という場合、「ある」という繋辞によって形式上は主語と述語の同一が定立されています。しかし主語のばらにはいろんな色もあれば、「香いや一定の形」(同)もあり、他方述語の「赤」は、ばらだけではなくリンゴや椿の花など「一般に他の多くの物」(同)があり、主語と述語ではその内容が異なっています。つまり定有の判断において主語と述語は形式上は同一であっても内容上は異なっており、「その形式と内容とが適応しあっていない」ところにも定有の判断が真理でないことが示されているのです。
 いわば定有の判断において、主語と述語とは「一点で触れあう」(一四六ページ)にすぎないのです。これに対し例えば「この行為は善い」(同)という「概念の判断」(同)においては、「述語は言わば主語の魂であり、この魂の肉体である主語は魂によって全く規定され」(同)ており、形式上も内容上も同一となっています。こうして概念の判断は真理をとらえる判断となっているのです。

一七三節 ── 定有の判断の有限性は同一判断と無限判断に示される

 「最初の否定であるこの否定においては、主語と述語との関係が依然として存在している。このことによって述語は相対的な普遍として存在し、否定判断において否定されたのは、この普遍の規定性にすぎない(『ばらは赤くない』ということは、『しかしそれはなお色を持ってはいる』ということを含んでいる。言いかえれば、それはまず他の一つの色を持っている。しかしこう言うと、それは再び肯定判断になってしまう)」(同)。
 定有の判断における否定判断は、「ばらは赤くはない」というように「個は一つの特殊ではない」とする判断です。この否定判断において「否定された」のは、「色」という「普遍の規定性」としての「赤い」だけであって、すべての色が否定されたのではありません。したがって「ばらは赤くない」の否定判断は「ばらは赤以外の他の一つの色を持っている」という肯定判断として示すこともできるのであり、他の判断におきかえうるというところに否定判断の有限性が示されているのです。
 したがって定有の判断における「個は普遍である」との肯定判断も「個は普遍ではない」との否定判断も、いずれも真に正しいとはいえないのです。したがって定有の判断を正しいものとするには、「個は個である」(同)という空虚な「同一判断」(同)とするか、あるいは「精神は象でないものである」「ライオンは机でないものである」(一四七ページ)等々のような「主語と述語との完全な不一致」(一四六ページ)を示す「無限判断」(同)へと進展せざるをえなくなるのです。しかし、こういう同一判断や無限判断は、「正しくはあるが馬鹿らしいもの」(一四七ページ)であり、ここに質的判断のもつ限界がはっきりと示されているのです。
 結局定有の判断が真なるものに向けて進展していくと、同一判断と無限判断とに到達せざるをえないのですが、これらの判断は「いわゆる質的判断の真相を示すもの」(同)ではあっても、「およそ判断」(同)といえるものではないところに定有の判断の有限性が示されています。
 「客観的にみれば、この判断は、有的なものの、あるいは感性的な事物の本性を表現」(同)するものであって、感性のうちにとらえられた事物は同一判断と無限判断の間をゆれ動いてとどまることを知らないのです。同一判断は「空虚な同一」(同)であり、無限判断は無限というかぎりにおいてのみ「充実した関係」(同)であって、定有の判断が真理を求めて前進していけば、この二つに「分裂」(同)せざるをえないのです。

一七三節補遺 ── 否定的無限判断は定有の判断の弁証法的成果

 形式論理学では、この「否定的無限判断」(同)を「無意味な骨董的なもの」(同)として挙げています。しかし「それは先行する直接的判断(肯定判断と単なる否定判断)の最初の弁証法的成果」(同)、つまり肯定判断が真理を求めた結果として出てくるものであって、それにより「直接的判断が有限であり真理でない」(同)ことが証明されているのです。
 ヘーゲルは、「民法上の係争」(一四八ページ)は「単なる否定判断の例」(同)であるのに対し、刑法上の「犯罪は否定的無限判断の客観的な一例」(一四七ページ)としています。というのも、民法上の係争は、「この物は君のものではない」という「特定の物にたいする他人の特殊な権利を否定する」(同)だけであるのに対し、盗みをする者は「この物は、君のものでも、彼のものでも、誰のものでもない」として「他人の権利一般を否定する」(同)からです。民法上の係争では、「特殊の法」(一四八ページ)、つまり「この物が君のもの」という法が否定されるだけであって、「法一般は承認されている」(同)のに対し、刑法上の犯罪は、法一般を否定しているという否定的無限判断なのです。
 同様に死も否定的無限判断ということができます。というのも病気の場合は「あれこれの特殊な生活機能」(同)が否定される単なる否定判断であるにすぎないのに対し、死の場合はすべての生活機能が無限に否定され、生命一般が否定されているからです。

「ロ 反省の判断」

一七四節 ── 反省の判断は他のものとの関係における本質の判断

 「個として(すなわち自己へ反省したものとして)判断のうちへ定立された個は、一つの述語を持っているが、自分自身へ関係するものとしての主語は、この述語にたいして、同時に他のものとしてとどまっている。 ── 現存在においては、主語はもはや直接に質的ではなくて、他のものすなわち外界と関係し連関している。かくして普遍性は、このような相関性の意味を持つようになる(例えば、有用、危険。重力、酸。衝動、等々)」(一四八~一四九ページ)。
 こうして定有の判断は、その有限性により、本質の判断へと進展していきます。反省の判断は、本質の判断の一つです。本質とは「反省した自己関係」(一八ページ)ですから、主語である個が「自己へ反省したもの」として定立された判断は、反省の判断とよばれます。定有の判断が主語はどんな質をもつかの判断であったのに対し、反省の判断は主語がどんな本質をもち、その本質は他のものとどんな関係、連関があるかの判断です。例えば「この植物は薬になる」という反省の判断では、この植物の本質が病気治療という「他のもの」との関係でとらえられるのです。
 反省の判断における「個は普遍である」の「普遍性」は、例えば「有用、危険」等々他のものとの関係、連関、つまり「相関性の意味を持つ」本質となります。

一七四節補遺 ── 反省の判断は理由づけに用いられる

 反省の判断は質的判断と異なり、その述語が「抽象的な質」(一四九ページ)ではなく、「主語と他のものとの関係を示す」(同)本質となっています。例えば「ばらは赤い」という質的判断においては、主語のばらは「他のものと関係なしに、直接の個別性において考察」(同)されていますが、「この植物は薬になる」(同)という反省の判断では、「薬になる」という述語をつうじて主語の植物とある病気との本質的な関係が判断されているのです。
 反省の判断の述語になるのは、他のものとの関係を示す「反省規定」(同)であり、この判断は「普通の理由づけ」(同)に用いられます。つまり「この植物は薬になるので、病人に飲まそう」という「理由づけ」になるのです。
 「問題となる事物が具体的であるほど」(同)、例えば「この植物は薬になる」「この植物は食べられる」「この植物は健康にいい」など「ますます多くの見地を反省に提出」(同)します。その意味では、質的判断と違って主語の「直接的な個別性」(同)は越えられてはいるのですが、しかし「主語の概念はまだ示されていない」(同)ところに、反省の判断はその限界をもっているのです。

一七五節、同補遺 ── 単称判断、特称判断、全称判断

 「この植物は薬になる」という反省の判断は、主語が「単一なものとしての個」(同)ですから、単称判断とよばれます。しかし主語は「薬」という「普遍的なものとして規定」(一五〇ページ)されていますから、「いくつかの植物がそうであるということを含んで」(同)います。
 こうして単称判断は、特殊を主語とする「いくつかの植物は薬になる」(同)という特称判断に進展することになります。
 特称判断は、反面からすると他のいくつかの植物は薬にならないことを意味していますから、「肯定的であるとともに否定的でもある」(同)ことになります。したがってこの制限を打ち破り、特称判断は「すべての植物は薬になる」という普遍を主語とする「全称判断」(同)に進展します。
 「すべて」ということは、「反省が普通最初に出くわす普遍性の形式」(同)です。というのも、ここでは普遍性が「われわれの主観的行為」(一五一ページ)による「個々のものを包括する、外的な紐にすぎないようにみえる」(同)からです。
 しかし「すべての事物は、不変の内的本性と、そして外的な定有とを持って」(㊤一一七ページ)おり、その内的本性が、普遍にほかならないのです。したがって実際には普遍とは、個々のものを束ねる「外的な紐」ではなくて、「個別的なものの土台であり根柢であり実体」(一五一ページ)なのです。もし普遍としての人類が存在しなければ、「個々の人間は全く存在しない」(同)でしょう。この類(実体)としての普遍は、特殊をうちに含む具体的普遍です。これに対して抽象的普遍とは「すべての個に共通なもの」(同)にすぎませんから、例えばすべての人間に共通な耳たぶをたまたま持たない人がいても、人間として存在しなくなるわけではありません。
 これに対し、具体的普遍としての実体は「あらゆる特殊なものを貫き、それらを自己のうちに含むもの」(同)であり、実体を含まない特殊は存在しないのです。

一七六節、同補遺 ── 反省の判断から必然性の判断へ

 「このように、主語も同じく普遍的なものとして規定されることによって、主語と述語との同一が定立され、同時にこのことによって判断規定そのものが無差別なものとして定立されている。内容が主語の否定的自己内反省と同一な普遍性であるという内容のこうした統一によって、判断の関係は必然的な関係となる」(一五二ページ)。
 全称判断において主語は「すべて」となり「普遍性の形式」(一五〇ページ)を獲得するに至りました。ここに至って「個は普遍である」との判断は「普遍は普遍である」として定立され、「主語と述語との同一が定立」されることになります。
 「すべての個は普遍である」との全称判断は、個の「否定的自己内反省」、つまり個を否定してそのうちに含まれる類(実体)という普遍性を内容とする「すべての人間は、人類である」との判断となります。こうして、主語と述語は形式上のみならず内容においても同一な「必然的な関係」となり、必然性の判断に移行することになります。一五一節補遺で実体は「必然性というまだ限られた形式のうちにある理念」(一〇四ページ)であることを学びましたが、この必然性の判断では、主語はどんな類(実体)に属するのかの判断がなされるところから必然性の判断とされるのです。
 必然性も本質論の一カテゴリーですから、必然性の判断は反省の判断と並んで本質の判断の一形式をなしているのです。
 「全称の反省判断から必然性の判断への進展は、われわれの普通の意識のうちにも見出される」(一五二ページ)。
 というのも「すべての植物、すべての人間」(同)とは「植物そのもの、人間そのもの」(同)というのと同じ意味であって、類としての植物、類としての人間をも意味します。先に実体と偶有のカテゴリーで学んだように、実体とは類であり、類は個を生みだす「絶対の力」(一〇四ページ)としての必然性なのです。したがって「すべてに属することは類に属し、したがって必然的」(一五二ページ)なのです。

「ハ 必然性の判断」

一七七節 ── 必然性の判断は類と種の関係における本質の判断

 「必然性の判断、すなわち、内容が区別されていながらも同一である判断は、 その述語のうちに一方主語の実体あるいは本性、すなわち具体的普遍である類を含んでいるが、しかしこの普遍は、自己のうちに、否定的な規定性としての規定性を含んでいるから、他方排他的な本質的規定性、すなわち種を含んでいる。これが定言判断である」(一五二~一五三ページ)。
 必然性の判断は本質の判断の一形態であり、主語がどんな実体(類)に属するのかという類と種の必然的な関係に関する本質の判断です。類は種の全体であり、種のうちには種の「実体あるいは本性」である類が必然的に含まれています。したがって類と種とは「内容が区別されていながらも同一」の関係にあります。
 すなわち、実体あるいは類は、具体的普遍として「否定的な規定性」、つまり「特殊」としての種を含んでいます。この種を主語とし述語を類とする必然性の判断、例えば「イルカは(海にすんでいるけれども)哺乳類である」との判断が、「定言判断」なのです。
 「 ⑵ 主語と述語という二つの項は、それらの実体性にしたがって、独立した現実性という姿をとり、両者の同一性は内的な同一性にすぎない。したがって前者の現実性は、同時にそれ自身の現実性でなく、後者の存在である。これが仮言判断である」(一五三ページ)。
 必然性の判断における主語の種と述語の類はいずれも普遍性として「独立した現実性という姿」をとっていて、両者の同一性は種が類に含まれるかぎりでの「内的な同一性」にすぎません。したがって、主語の現実性は「それ自身の現実性」ではなく、述語の現実性に含まれることを仮定しうる特殊性をもつ場合にはじめて現実性となるのであり、この特殊性を仮定的にもつ類と種の関係の判断が、仮言判断となるのです。
 つまり仮言判断とは、主語である種に類としての特殊性があると仮定すれば、種は類であるとする判断であり、例えば「哺乳類の腰の骨の化石がもし直立二足歩行を示すものであれば、それは人類の化石である」となるのです。
 「 ⑶ 概念のこうした外化において同時に内的な同一性が定立されるとき、普遍は、その排他的な個別性のうちで自己同一であるような類である。判断の二つの項にこうした普遍を持つ判断、すなわち、一方では普遍そのものであり、他方では普遍の相互に排除しあう特殊化の全体でもあるような判断、……これが選言判断である」(同)。
 類は、類の特殊化としての種の「全体」です。したがって、主語の類が「普遍の相互に排除しあう特殊化の全体」を述語とするものと同一として定立される判断が、選言判断となります。つまり最初に類が主語として「存在し、次には種の全体」(同)が述語として規定され、「類は、AかBかCのいずれか」という種の全体であると判断されるのです。

一七七節補遺 ── 必然性の判断から概念の判断へ

 「『金は金属である』、『ばらは植物である』というような定言判断は、直接的な必然判断であって、本質の領域では、実体性の関係に対応するものである。あらゆる事物は定言判断である。言いかえれば、あらゆる事物はその実体的な本性を持っていて、これがその不変不動の根柢をなしている」(同)。
 「金は金属である」というような定言判断は、本質論における「実体性の関係に対応する」必然性の判断です。
 あらゆる事物は類という「実体的な本性を持」ち、それがあらゆる事物の「不変不動の根柢をなして」います。したがって「あらゆる事物は定言判断である」ということができます。
 「われわれが事物を類の見地のもとに、そして類によって必然的に規定されているものとして考察することによって、はじめて判断は本当の判断となりはじめる」(同)。
 哲学は「最も広い意味での必然性」(㊤七五ページ)をとらえるものですから、必然性の判断において「はじめて判断は本当の判断となりはじめる」のであり、それは概念の判断において完成されることになります。
 「金は高価である」(一五三ページ)という反省の判断は、金とわれわれとの「外面的関係を示すにすぎず」(一五四ページ)、こうした外面的関係がなくなっても「あくまで金にかわりはない」(同)のです。これに対し、「金は金属である」(一五三ページ)との必然性の判断において「金属であることは、金の実体的本性をなす」(一五四ページ)ものであり、金はこの「実体的本性にかなっているかぎりにおいてのみ、価値と意味を持っている」(同)のですから、必然性の判断は反省の判断より、一段高い段階の判断となっています。
 しかし「直接的な必然判断」(一五三ページ)としての定言判断は、まだ「特殊性のモメントに正当な地位を与えていない」(一五四ページ)ところに不十分さをもっています。確かに「金は金属である」のですが、定言判断ではなぜそれが金なのかという金の「特殊性」がとらえられていないのです。そこで、「もしこの金色の金属が王水にしか融けなければ、この金属は、金である」という仮言判断へと進展することになります。「仮言判断においては、内容の規定性が媒介されたもの、他のものに依存するものとしてあらわれる」(同)のです。
 これに対し選言判断とは、「AはBであるか、Cであるか、Dであるかである」(一五五ページ)とする判断です。Aは類であり、B、C、Dは「種の全体」(同)です。この選言判断は「類はその種の全体であり、種の全体は類である」(同)とする判断です。
 このように、選言判断においては、普遍(類)と特殊(種)とは同一であることが定立されています。このような普遍と特殊の同一性の定立されたものが概念であり、こうして選言判断は概念の判断へと進展するのです。
 概念の判断では、主語である個が概念という普遍と一致するか否かに関する判断であり、「今や判断の内容をなしているものは概念」(同)なのです。