『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第三五講 第三部「概念論」③

 

一、「A 主観的概念」 「b 判断」各論(二)

「ニ 概念の判断」

一七八節 ── 概念の判断は真にあるべき姿(概念)に一致するかどうかの価値判断

 「概念の判断の内容をなしているものは概念、すなわち単純な形式における総体性、完全な規定性を具えた普遍者である」(一五五ページ)。
 「概念の判断」とは、事物の真の姿をとらえる判断ではなく、事物がその真にあるべき姿に一致するか否かにかんする判断であり、その意味で価値判断です。価値とは人間にとって善悪の対象になる性質であり、事物がその概念に一致するとき、正しい、善いという判断となり、一致しなければ、正しくない、悪いという価値判断となるのです。
 したがって「概念の判断の内容」をなしているものは「概念」であり、真にあるべき姿としての具体的普遍です。具体的普遍とは、普遍、特殊、個の三位一体の統体性ですから、それを「単純な形式における統体性、完全な規定性を具えた普遍者」とよんでいるのです。
 「その主語は ⑴ まず、特殊な定有のその普遍者への反省を述語として持っている個である。すなわち、この述語は、特殊な定有と普遍者との一致あるいは不一致をあらわすものであって、善い、真実である、正しい、等々がそれである。これが実然的判断(assertorisches Urteil)である」(同)。
 概念の判断における主語は個であり、述語は主語の「真にあるべき姿」(概念)への「一致あるいは不一致をあらわす」のです。その結果、主語がその概念に一致すれば「善い、真実である、正しい、等々」の判断がなされることになり、これが「実然的判断」とよばれるのです。
 「実然的(アサトーリッシュ)」は、「断定的」と訳すべきでしょう。主語がその概念に一致するか否かが、何ら根拠の示されることなく「断定的」に判断されるところから、断定的判断とよばれているのです。
 「日常生活においても、ある対象、行為、等々が善いか悪いか、真実であるかそうでないか、美しいかそうでないか、等々という判断がはじめて判断と呼ばれている。われわれは、或る人が『このばらは赤い』、『この絵は赤い、緑である、ほこりだらけである』等々のような肯定判断や否定判断をくだしうるからといって、その人に判断力があるとは言わないであろう」(一五五~一五六ページ)。
 「このばらは赤い」というような定有の判断をくだしても、客観的事実の表面的な姿をそのまま叙述したにすぎないのであり、誰もその「判断力」を評価しません。判断は、必然性の判断から「本当の判断となりはじめ」(一五三ページ)、概念の判断において「本当の判断」となるのであり、判断力のある判断となるのです。
 しかし、概念の判断のうちの実然的判断は、概念との一致、不一致を根拠を示すことなく「断言」するものですから、「相手はそれを不当と考える」(一五六ページ)ことも当然ありえます。それなのに「直接知や信仰の原理を主張する人々」(同)は、平気で「この判断を学説の唯一の根本形式」(同)としています。
 これらの人々は、単なる「断言」では説得力がないため、「一つことを何度も何度も繰返すことによって信用をえようとする」(同)のです。何度言っても信用されないのは、その「断言」が断言でしかないゆえに説得力がないことを証明しているのです。

科学的社会主義の価値論

 ヘーゲルは価値判断こそ「本当の判断」としているものの、価値とは何か、事実(存在)と価値(当為)の関係をどう考えるのかなどの、いわゆる「価値論」の問題を正面から論じてはいません。
 科学的社会主義の価値論をどう考えるべきかは議論のあるところです。かつて旧ソ連のトゥガリノフは、「価値とは、歴史的に特定な社会または階級に属する人々に、現実のものとして、または目的ないし理想として有用であり、必要であるところの、自然および社会の現象(または現象のさまざまな側面、性質)である」(『岩波講座哲学Ⅸ「価値」』二五三ページ)と規定しました。
 しかし、有用性、必要性というだけでは、価値を単に表象するのみであって、思想においてとらえたものということはできません。
 これに対して、ヘーゲルが「価値」という用語こそ使っていませんが、「真にあるべき姿」としての概念を価値としてとらえ、価値判断である概念の判断こそ「本当の判断」であり、判断のなかの最高の判断としてとらえたのは、科学的社会主義の立場からも評価しうるものです。さらにヘーゲルは世界がいかにあるかという「事実」を知ることによって、世界がいかにあるべきかという「価値」を知るところとなり、価値(概念)を認識することによって世界を真にあるべき姿に変革しうるという唯物論的一元論の立場にたちました。この立場は科学的社会主義に引き継がれています。
 マックス・ウェーバー(一八六四~一九二〇)は、社会科学における価値判断からの自由を主張して事実と価値を峻別する二元論の立場にたち、史的唯物論は一元論の立場にたっているから、一つの価値観にすぎないのであって科学ではないと批判しました。それ以来社会科学に価値観を持ち込んではならないとする二元論は、それ自体支配階級の立場にたつ世界観であるにかかわらずあたかもそれが唯一の科学的見解であるかのように流布宣伝され、資本主義体制を支えるイデオロギーとして今日でも大きな影響力をもっています。
 しかし人間は一元論にたってこそ人間にふさわしく自然や社会を変革し、発展させることができるのであって、「価値観の多様性」を背景に史的唯物論を批判する二元論は一見科学的装いをもちながらも、資本主義批判を封じ込めようとするイデオロギーにすぎないのです。
 ヘーゲルは一元論の正しい立場にたって、「この絵は赤い」というような定有の判断をくだすからといって「その人に判断力があるとは言わない」のであり、「この絵は美しい」というような価値判断としての概念の判断が「はじめて判断と呼ばれている」として、概念の判断こそ最高の判断であることを明らかにしたのです。
 これは「価値観の多様性」を理由に、価値判断に真理はないとする二元論への痛烈な批判となっています。

一七九節 ── 実然的判断、蓋然的判断、確然的判断

 このように実然的判断は、単なる断定的な判断であって、なぜそうなのかという主語と主語との特殊な「関係を含んでいない」(一五六ページ)ため、述語は特殊との関係をもたない普遍としてとらえられることになります。そのため「反対の断言が同等の権利」(同)をもって対立することになります。
 「したがってそれは ⑵ すぐに単なる蓋然的判断(problematisches Urteil)となる」(同)。
 そこで実然的判断は、疑わしい判断にすぎないというので「蓋然的判断」に進展することになります。
 蓋然的の「プロブレマーティッシュ」とは「疑わしい」という意味であり、「美しいか美しくないか」はっきりしない、というような判断です。実然的判断がなぜそうなのかという根拠を示さない以上、それは蓋然的判断に移行せざるをえないのです。
 「 ⑶ 客観的な特殊性が主語に即して定立され、主語の特殊性が主語の定有の性状として定立されるにいたれば、主語は客観的な特殊性と主語の性状すなわち類との関係を表現し、したがって述語の内容をなしているものを表現する(前節)。この(直接的な個体性)家(類)は、かくかくの性状(特殊)を持っているから、よい、あるいは悪い。これが確然的判断である」(同)。
 根拠を示さない単なる断言としての実然的判断には、「反対の断言が同等の権利をもって」対立するところから、蓋然的判断に進展せざるをえませんでした。しかし蓋然的判断では概念との一致または不一致は明確には示されませんから、概念の判断の真理を示すものではなく、こうして蓋然的判断は確然的判断へ進展せざるをえないことになります。
 確然的判断においては、実然的判断と異なり、主語(類)の「特殊性」が「主語の定有の性状として定立され」、これが根拠となって「類」との関係における概念との一致・不一致の判断がなされることになります。例えば、家の概念は、長期間風雨や地震に耐えぬいて住空間を確保することにあるといえます。そこで、この家は、「直接的な個体性」ではあるが、家という類との関係でみると、土台がしっかりしているという特殊な性状をもっているから、それが根拠となって家の概念に一致し、この家はよいという判断となるのです。
 「すべての事物は、特殊な性状を持つ個別的な現実性のうちにある類(事物の使命および目的)である。そしてそれらの有限性は、それらの特殊性が普遍にしたがっていることもあれば、そうでないこともある、という点にある」(一五七ページ)。
 すべての事物は、普遍と特殊の統一としての個です。言いかえると、「個別的な現実性」のうちにありながら、そのうちにその「事物の使命および目的」である普遍性(類)と、その個に特有な「特殊な性状」とをもっているのです。そしてすべての事物は、その事物の特殊性が、その事物の普遍性(概念)に一致しないかぎりにおいて有限なのです。つまりあらゆる有限な事物は、そのうちに「概念と存在(特殊性)」とをもっていますが、その存在(特殊性)が概念に一致しないかぎりにおいて有限なのです(二四節補遺二参照)。

一八〇節 ── 確然的判断は判断の根拠をもつことで推理となる

 「かくして主語および述語は、各々それ自身全き判断である。主語の直接的な性状はまず第一に、現実的なものの個別性と現実的なものの普遍性とを媒介する根拠、すなわち判断の根拠としてあらわれる」(同)。
 確然的判断において、主語である「この家」は「しっかりした土台を持っている」という「直接的な性状」を示す判断となっていると同時に、述語も「この家はしっかりした土台を持っているから、よい」という判断となっており、「主語および述語は、各々それ自身全き判断」となっています。
 この判断では「しっかりした土台を持っている」という主語の性状としての特殊は、主語である「現実的なものの個別性」と述語である「現実的なものの普遍性」とを媒介し、主語と述語を「媒介する根拠、すなわち判断の根拠」としてあらわれているのです。
 「実際そこに定立されているものは、概念そのものとしての主語と述語との統一である。概念は『である』という空虚な繋辞の充実であり、概念の諸モメントは主語および述語として区別されながらも、概念は両者の統一、両者を媒介する関係として定立されている。これがすなわち推理である」(同)。
 判断は「個は普遍である」(個 ── 普)という形式をもっていますが、確然的判断においてはこの繋辞の「である」が充実し、特殊となって個と普遍を媒介し、「個 ── 普」の形式が「個 ── 特 ── 普」の形式に発展しており、この発展した形式が「すなわち推理」なのです。
 二四節補遺二で「(真の意味における推理)を取ってみれば、推理とは、特殊は普遍と個という二つの項を連結する中間項であるという規定である。こうした推理の形式はあらゆる事物の普遍的形式である」(㊤一二二ページ)ことを学びました。すべての事物は、普遍と特殊の統一として個であり、そのかぎりであらゆる事物は推理であり、個、特、普の統一という統体性として定立された概念であるということができます。
 判断も推理もいずれも真理認識の思惟形式ということができます。しかし推理は、判断において「空虚な」ものにすぎなかった繋辞を「充実」させることによって、「判断の根拠」を与えたのであり、したがって推理とは、根拠を示した判断、根拠をもった判断として、判断より一歩進んだ真理認識の形式となっています。

 

二、「A 主観的概念」 「c 推理」の主題と構成

 推理とは、大前提(このばらは赤い)、小前提(赤は色である)、結論(ゆえにこのばらは色を持つ)という三つの判断を結合する個(ばら) ── 特(赤い) ── 普(色)の形式によって、既知の判断から未知の判断を引き出す真理認識の思惟形式です。
 ここでもヘーゲルは伝統的形式論理学とは異なり、推理を空虚な思惟形式としてではなく判断において分裂した概念の諸モメント(個、特、普)が「概念の統一へ帰る」(一五九ページ)ことにより、客観的事物の真理を推理する形式として理解しています。
 ヘーゲルは「理性的なものは推理であり、しかもあらゆる理性的なものは推理である」(一五八ページ)といっています。
 ここにいう「理性的なもの」には、形式と内容の二つの意味があります。一つは「個 ── 特 ── 普」という推理の形式は、個は普遍と特殊の統一であることを意味していますが、この対立物の統一という形式そのものが真理をとらえる理性的なものなのです。もう一つは、推理は概念をそのうちに含むことによって、内容的にも理性的なものとなるのです。推理はそれによって、判断より一歩進んだ真理を認識しうる形式となり「あらゆる真実なものの本質的な根拠」(同)となるのです。
 ヘーゲルは、推理を悟性的推理と理性的推理に区分しています。悟性的推理とは、概念を含まない形式においてのみ理性的な推理であり、理性的推理とは概念を含むことによる形式・内容ともに理性的な推理を意味しています。
 「c 推理」は総論(一八一、一八二節)と各論に分かれています。総論では、推理には悟性的推理と理性的推理とがあり、理性的推理は無限の真理をとらえうる絶対的形式であることが明らかにされます。
 推理の各論は、判断と同様、有論、本質論に対応して「イ 質的推理」「ロ 反省の推理」「ハ 必然性の推理」に分かれます。「質的推理」は悟性的推理であり、「反省の推理」と「必然性の推理」とは理性的推理です。
 質的推理では、個、特、普の結合が偶然的であるところから悟性的推理とされていますが、その欠陥を克服するものとして「三つの格」(一六八ページ)が展開され、そこからうまれる三重の推理により理性的推理に転化することによって、次の反省の推理に移行します。
 反省の推理では、演繹推理、帰納推理、類推という本来の推理の形式が論じられます。演繹推理は普遍から個を推理するのに対し、帰納推理、類推はいずれも個から普遍を推理するものであり、論理の飛躍という欠陥をもっていますが、逆にいえばそれだけ新しい理論を発見しうる推理ともなっています。
 必然性の推理とは、類と種、個の関係における推理です。そこでは定言的推理、仮言的推理、選言的推理が論じられます。
 テキストでは概念の判断に相当する概念の推理が欠落していますが、それは当然補われるべきものです。
 三重の推理と選言的推理によって推理の形式そのものが揚棄されることにより、「A 主観的概念」そのものが揚棄され、「主観的概念」は「B 客観」へ移行することになります。

 

三、「A 主観的概念」 「c 推理」総論

一八一節 ── 推理は「個 ── 特 ── 普」の形式において理性的

 「推理は概念と判断との統一である。それは、さまざまの判断形式が単純な同一性へ復帰したものとしては概念であり、概念が同時に実在性のうちへ、すなわち概念のさまざまな規定のうちへ定立されているかぎりでは判断である。理性的なものは推理であり、しかもあらゆる理性的なものは推理である」(一五七~一五八ページ)。
 一八一節、一八二節が推理総論であり、一八三節から一九三節までが各論となります。
 推理は、「概念と判断との統一」です。というのも、推理というものは概念の諸モメントである個、特、普が結合して概念の統体性へ「復帰したものとしては概念」であり、他方概念の諸モメントが大前提、小前提、結論と「さまざまな規定のうちへ定立されているかぎりでは判断」であり、したがって「概念と判断との統一」となるのです。
 ヘーゲルは『法の哲学』の序文において、「存在するところのものを概念において把握するのが哲学の課題である。というのは、存在するところのものは理性だからである」(『世界の名著』一七一ページ)と述べています。
 「すべて事物は、普遍的なものとして自己を個別的なものと連結する特殊的なもの」( 一二二ページ)です。この事物のあり方を「個 ── 特 ── 普」の形式においてとらえるのが推理であり、したがって「推理の形式はあらゆる事物の普遍的形式」(同)ということができます。この推理の形式をヘーゲルは理性的なものととらえ、「あらゆる理性的なものは推理である」といっているのです。
 第三三講で、有論は感性的認識、本質論は悟性的認識、概念論は理性的認識であることをお話ししましたが、「A 主観的概念」の最後を飾る推理において「あらゆる理性的なものは推理である」としてとらえることによって、「A 主観的概念」は理性的認識であることが明らかにされるのです。
 「一般に人々はよく理性について語ったり理性に訴えたりするが、理性の規定性が何であるか、すなわち、理性とは何であるかということは明かにせず、まして理性が推理と関係があるということに思いいたる者はない」(一五八ページ)。
 理性という言葉はよく使われますが、「理性が推理と関係ある」と考える者は少ないでしょう。なぜなら形式論理学のいう推理は、大前提、小前提、結論という「形式的な推理」(同)にとどまり、普遍、特殊、個の結合という「理性的な内容とは全く無関係な」(同)形式と考えられているからです。
 「しかし推理は、本節に示されたように、定立された(まず形式的に)、実在的な概念にほかならないから、推理はあらゆる真実なものの本質的な根拠である。そこで今や絶対者の定義は、それが推理であるということ、命題として言いあらわせば、『すべてのものは推理である』ということである」(同)。
 概念は事物の真の姿、真にあるべき姿としての具体的普遍、つまり普遍、特殊、個が一体不可分となった普遍です。したがって推理とは形式的に定立された「実在的な概念」ということができます。推理は定立された「実在的な概念」としての「真にあるべき姿」ですから、すべての客観を真にあるべき姿にしたがって「真実なもの」に作りかえる「本質的な根拠」となるのです。
 こうして推理は「A 主観的概念」から「B 客観」への移行を媒介するカテゴリーとなります。したがって「絶対者は推理である」と定義されるのであり、言いかえると「絶対的真理はあらゆる事物のうちにある推理の形式にある」と定義しうることになります。推理はあらゆる真理の「絶対的な根拠」(㊤一二三ページ)なのです。
 「すべてのものは概念であり、概念の定有は概念の諸モメントの区別である。すなわち、概念の普遍性は特殊性を通じて自己に外的実在を与え、これによって、また否定的な自己内反省として、自己を個とするのである。これを逆に言えば、現実的なものは特殊を通じて自己を普遍へ高め、そして自己を自己と同一とするところの個である」(一五八~一五九ページ)。
 一六七節で「あらゆる事物は判断である」(一三八ページ)ことを学びましたが、より正確に表現すれば「絶対者は推理である」「すべてのものは推理である」ということになります。
 「すべてのもの」は、普遍と特殊の統一としての個としての「概念」であり、この「概念の定有」は、「概念の諸モメントの区別」を生みだします。それは一方では、エネルゲイアとしてのイデアという「概念の普遍性」が、特殊性をつうじて「自己に外的実在を与え」て「個とする」のであり、「逆に言えば、現実的なもの」としての個は「特殊を通じて自己を普遍へ高め」、自己と同一となる過程なのです。この意味で、推理は概念の「諸モメントを媒介する円運動」(一五九ページ)であり、この運動により「現実的なものは一つのものとして定立される」(同)のです。

一八一節補遺 ── 確然的判断が判断を推理に移行させる

 形式論理学では、「推理は判断を基礎づけるもの」(同)だといわれています。しかしヘーゲルは、判断の根拠を求める「主観的行為」(同)が判断から推理への進展をもたらすのではなく、「判断自身が自己を推理として定立し、推理のうちで概念の統一へ帰る」(同)といっています。
 つまり統体としての概念が、その諸モメントに分離したものが判断であるのに対して、この分離した諸モメントが再び「概念の統一へ帰る」のが推理であって、推理を概念自身の運動ととらえたのです。
 「もっと正確に言えば、推理への進展をなすのは確然判断である。確然判断においてわれわれは、その性状を通じてその普遍、すなわちその概念に関係する個を持つ。ここでは特殊は個と普遍との間を媒介する中間項としてあらわれるが、このことこそ推理の根本形式なのである」(同)。
 確然判断において、「特殊は個と普遍との間を媒介する中間項としてあらわれ」ます。しかもこの中間項は一八〇節でみたように「判断の根拠」(一五七ページ)となるのであり、判断は判断の根拠をもつことによってはじめて推理となるのですから、この中間項の存在こそ「推理の根本形式」をなすものなのです。
 こうして推理は「個 ── 特 ── 普」の形式で示されることになり、推理が進展すると、この中間項は特殊から、個、普遍へと進展します。こうして最初の推理である質的推理は各論(一八七節補遺)でみるように三つの格による三重の推理となり、これが一因となって推理の形式は揚棄され、「客観性へ移っていく」(一五九ページ)ことになります。

一八二節 ── 悟性推理は概念を欠いた推理

 「直接的推理は、概念の諸規定が抽象的なものとして相互に単なる外的関係のうちに立っている推理であり、したがって二つの端項は個と普遍とであるが、両者を結合する中間項としての概念も同じく抽象的な特殊にすぎない。そのために二つの端項は相互的にも、またその中間項にたいしても無関係的にそれだけで存立しているものとして定立されている。この推理はしたがって、概念を欠いたものとしての理性的なもの、すなわち形式的な悟性推理である」(一五九~一六〇ページ)。
 直接的推理(質的推理)は、形式論理学にいう三段論法です。これも形式的には個 ── 特 ── 普という推理の形式をもってはいますが、個、特、普という「概念の諸規定」が「相互に単なる外的関係」のうちにおかれ、それぞれに「無関係的にそれだけで存立して」います。したがってこの推理は、統体性としての「概念を欠いた」、形式のみの「理性的なもの」であって、内容においては「理性的なもの」といえないところから、「形式的な悟性推理」とよばれています。
 「この推理においては、主語は自分とは別な一つの規定性と結合される。あるいは逆に言えば、普遍はこの媒介を通じて自己に外的な主語を包摂する。これに反して理性的な推理は、主語が媒介を通じて自己を自分自身と結合するということである」(一六〇ページ)。
 すなわち悟性推理における個 ── 特 ── 普において、主語である個は「自分とは別な一つの規定性」である普遍と結合し、逆にいえば述語の普遍は「自己に外的な主語を包摂する」のです。これに対して理性的推理は、統体性としての概念に貫かれた個 ── 特 ── 普であり、主語である概念としての個は、自己のうちの特殊を媒介して自分自身である普遍と結合するのです。
 悟性推理は、「事物の有限性をのみ表現」(同)しています。というのも有限な事物としての個は、特殊からも、普遍からも分離しうるものとして規定されているからです。これから悟性推理が進展していくにつれて、個 ── 特 ── 普のうちの普遍は「事物の単なる質」(同)であったり、「他の物との外面的な連関」(同)であったり、「事物の類および概念」(同)であったりしますが、主語の個が概念としてとらえられないかぎり、それは悟性推理といわざるをえないのです。

一八二節補遺 ── 推理は直ちに理性的なものではない

 人々は一般に「理性そのものは推理の能力であり、悟性はこれに反して概念を作る能力である、と定義」(一六一ページ)しています。しかし「概念を単に悟性規定とみるのも誤っているし、推理を直ちに理性的なものとみるのも誤っている」(同)といわなければなりません。
 というのも、一方で形式論理学の取り扱う推理は、本節にみた「単なる悟性推理」(同)であり、他方で「概念そのものはけっして単なる悟性の形式」(同)ではないからです。概念には「悟性概念」(同)としての抽象的普遍もあれば、「理性概念」(同)としての具体的普遍もあります。例えば、自由を必然との対立とみるのは、「単なる悟性概念」(同)ですが、自由を「必然を揚棄されたものとして内に含」(同)む自由ととらえれば「理性的な概念」(同)となります。また「理神論」(同) ── 超越神論 ── の掲げる神は悟性概念ですが、三位一体の神は「理性概念を含んで」(同)います。
 同様に推理にも悟性的推理と理性的推理があるのです。

 

四、「A 主観的概念」 「c 推理」各論(一)

「イ 質的推理」

一八三節 ── 定有の推理(質的推理)は質を推理する

 以上を前提として推理の各論に入っていきますが、最初の推理は「定有の推理あるいは質的推理」(一六二ページ)です。
 推理は、主語が中間項を媒介にして述語と結合し、述語が推理されるという形式をもっていますが、推理されるものが概念のモメントである普遍、特殊、個のいずれかにより、三つの格をもつことになります。
 「 ⑴ その第一格は個 ── 特 ── 普である。すなわち個としての主語が一つの質を通じて或る普遍的な規定性と連結されているのである」(同)。
 定有の推理の第一格は、「このばらは赤い、赤は色である、ゆえにこのばらは色を持つ」という「個 ── 特 ── 普」の推理であり、個から普遍が推理されます。
 すなわち、個は「ばら」、特殊は「赤」、普遍は「色」ですから、この推理では「個としての主語」(ばら)が、特殊である「一つの質」(赤)を媒介して「普遍的な規定性」(色)と連結されて、「個は普遍である」つまり「ばらは色をもつ」ことが推理されているのです。
 「ここでは主語(小概念)が個という以外になお諸規定を持ち、またもう一つの端項(結論の述語、大概念)も、単に普遍であるという以外になお規定されているということは考察の外におかれ、両者が推理を形成する諸形式だけが問題となるのである」(同)。
 この第一格において「このばらは赤い」は大前提、「赤は色である」は小前提、「このばらは色を持つ」は結論とよばれ、大前提、小前提、結論という三つの判断が結合して推理の形式をもつのです。また「ばら」は小概念、「赤い」は媒概念(中間項)、「色」は大概念とよばれます。
 この定有の推理においては、個 ── 特 ── 普という「推理を形成する諸形式だけが問題」とされているのであって、小概念が「個という以外」の諸規定をもち、大概念が「普遍であるという」以外の規定をもつことは全く「考察の外におかれ」ていて推理の抽象的な形式をもつのみなのです。

一八三節補遺 ── 定有の推理は悟性推理

 このように定有の推理は「個と特殊と普遍とが互に全く抽象的に対峙している」(同)のみであって、一体不可分のものとして結合していません。つまり定有の推理にあっては「概念がこの上なく自己の本来の姿を失ったもの」(同)として「悟性推理にすぎない」(同)のです。これが「普通の論理学が取扱」(同)う三段論法という推理です。
 しかしこんな悟性推理は、学問においては何か新しいものを推理によって発見するうえでは「少しも役に立たない机上の空論」(一六三ページ)にすぎません。とはいえ、われわれは日常的に「推理の諸形式」(同)を利用して新しい知見を獲得しているのであって、問題は、悟性的推理にとどまることなく理性的推理に前進すべきことにあるのです。アリストテレスは、この意味の理性的「推理の諸形式およびいわゆる格」(同)をはじめて「考察し記述した」(同)のです(一六四ページ一行目の「一八九節」は「一八七節」の間違い)。

一八四節 ── 定有の推理は要素の点から偶然的

 定有の推理は、「その要素から言って全く偶然的」(一六四ページ)です。というのも、中間項(媒概念)の赤は「抽象的な特殊」(同)であって、主語(ばら)の規定性の一つにすぎず、他方主語はいい香りをもつとかトゲをもつとか、他の「規定性をいくつも持っており」(同)、色という普遍以外の普遍と連結されうるのです。また特殊の赤にしても、赤いリンゴや赤いトマトなど「そのうちにさまざまな規定性を持っている」(同)から、主語は同じ赤という「媒概念を通じて多くの異った普遍に関係させられうる」(同)のです。
 したがって定有の推理において、個 ── 特 ── 普の連結は偶然的な連結にすぎません。今日では誰もこんな推理は用いないのであって、定有の推理は「真理にとって価値のないもの」(同)にすぎません。
 しかし反面からすると要素の偶然的結合を使って「ありとあらゆることを証明する」(同)ことも可能となり、そのためには「ただ、自分の欲する結論へ移っていくことのできる媒概念を見出しさえすればいい」(同)のです。

一八四節補遺 ── 弁護士や外交官は定有の推理の有限性を利用する

 この定有の推理のもつ非真理性を利用するのが、弁護士や外交官の仕事です。弁護士は民事訴訟において「自分の依頼人に好都合な権限を強調する」(一六五ページ)のがその仕事ですが、それは言いかえると自分に都合のいい媒概念を利用して都合のいい結論を推理するものにほかなりません。だから「三百代言」などという蔑称でよばれることもあるのです。外交官も「継承権、領土の地理的位置、住民の系統、言語」(同)などを媒概念として自国に都合のいい領土拡張の結論を推理するのです。

一八五節 ── 定有の推理は形式の点でも偶然的

 定有の推理は要素の点からして偶然的というのみならず、「そのうちにある関係の形式の点でも、同様に偶然的」(同)なものとなっています。
 判断が概念の「原始的分割」(一三五ページ)であるのに対し、推理は概念の統一です。したがって「推理の概念」(一六五ページ)からすると「区別されたものが、その統一である媒概念によって関係する」(同)のが、推理の「本当の姿」(同)です。
 「しかしこの推理においては、二つの端項(いわゆる両前提、すなわち大前提と小前提)と中間項との関係は、むしろ直接的な関係である」(同)。
 推理の本当の姿は、個と普遍とが特殊という媒概念(中間項)によって結合するところにありますが、定有の推理ではそうなっていないのです。すなわち定有の推理では、「このばらは赤い」という大前提と「赤は色である」という小前提を持っています。この大前提と小前提に共通な媒概念としての「赤」は、「ばら」との関係においても、「色」との関係においても「むしろ直接的な関係」にすぎないのであって、この二つの前提は何ら推理によって証明されたものではありません。
 つまり「個 ── 特 ── 普」という第一格において、「ゆえにこのばらは色を持つ」という「個 ── 普」の媒介関係は証明されますが、「個 ── 特」「特 ── 普」の媒介関係は証明されないままに前提とされているのです。
 この形式上の偶然性を解決しようとすると、大前提の「このばらは赤い」と小前提の「赤は色である」とが、推理の結論となるよう「また同じく推理によって証明される」(一六六ページ)ことが要求されることになり、この推理の矛盾は「またしても無限進行として自己を表現する」(一六五ページ)ことになります。つまり、一つの結論はこの「直接的な前提」(一六六ページ)の証明を要求し、さらに大前提、小前提の前提となるものの証明が求められるという「常に二重となっている要求は無限に繰返される」(同)のです。

一八六節 ── 定有の推理の欠陥の克服(推理第一格から第二格へ)

 一八四、一八五節に述べたような推理の第一格の欠陥、つまり内容上の偶然性と形式上の偶然性は、「推理の規定が進むにつれて、おのずから除去されなければ」(同)なりません。
 ではどのようにして欠陥が除去されるのかといえば、「われわれは今概念の領域にいる」(同)のですから、判断において概念のモメントの「対立的な規定性」(同)の同一性が定立されているのと同様に、推理第一格において証明された結論を対立物の媒介された統一ととらえることからはじめればいいのです。
 つまり「推理の規定を進める」(同)にあたっては「推理そのものがそのときどきに定立する」(同)結論を次の格の主語とし、その結論において媒介されたモメントを次の格の媒介項とすればいいのです。
 「個 ── 特殊 ── 普遍という直接的推理によって個は普遍と媒介され、結論のうちに普遍として定立されている。かくして個別的な主語は、このようにそれ自身普遍的なものであるから、二つの端項の統一であり媒介者である」(同)。
 個 ── 特 ── 普という第一格において証明されたのは「結論のうちに」定立された「普遍」です。この証明済みの「普遍」を主語とみなし、結論としての「個 ── 普」において普遍と媒介された「個」を「媒介者」とする「普 ── 個 ── 特」が推理の第二格として定立されるのです。
 「これが推理の第二格 ⑵ 普 ── 個 ── 特を与える。第二格は、媒介が個において行われ、したがって偶然であるという、第一格の真理をあらわしている」(同)。
 前節でみたように第一格の個 ── 特 ── 普では、「個 ── 普」は媒介されたものとして証明されましたが、「個 ── 特」「特 ── 普」の媒介関係は証明されていませんでした。
 しかし「普 ── 個 ── 特」の第二格では、第一格で証明されなかった、「特 ── 普」の媒介関係が「普遍は特殊である」という結論によって証明されることにより、第二格は「第一格の真理をあらわしている」のです。

一八七節 ── 推理第二格から第三格へ、第三格から再び第一格へ

 「第二格は普遍を特殊と連結する(普遍は第一格の結論から個によって規定されて第二格へ移るのであるから、第二格では直接的な主語の位置を占めるのである)。かくして普遍は第二格の結論によって特殊として定立される。したがってそれは二つの端項を媒介するものとして定立され、他の二つが今や端項の位置を占めるようになる。これが推理の第三格 ⑶ 特 ── 普 ── 個である」(一六六~一六七ページ)。
 「普 ── 個 ── 特」という第二格の結論は特殊であり、ここに「普 ── 特」が証明されます。そこでこの証明済みの「特殊」を主語とし、特殊に媒介された「普遍」を媒概念とする「特 ── 普 ── 個」という推理の第三格に進展することになります。この第三格で「特 ── 個」が証明されます。
 こうして、第一格で普遍が、第二格で特殊が、第三格で個がそれぞれ証明されたことにより、第一格の形式上の欠陥は克服されることになったのです。それと同時にこの第三格のさらなる進展は、第三格の結論である「個」を主語とし、「特殊」を媒介者とする「個 ── 特 ── 普」という第一格に復帰することになり、こうして推理には三つの格しか存在しないことが明らかになります。
 アリストテレスは推理の格として、この三つをあげました。後の人は「もし二つのものが第三のものに等しければ、二つのものは相等しい」(一六九ページ)を推理の第四格として追加しましたが、それは余計な、馬鹿らしいものにすぎません。というのも「推理の格は非常に根本的な意義を持っている」(一六七ページ)のであって、「その意義は、推理のモメントの各々が、概念の規定として、それ自身全体的なものおよび媒介する根拠となるという必然性にもとづいている」(同)からです。
 一六四節で学んだように、概念の三つのモメントである個、特、普は「区別されていながらも不可分」(一三一ページ)の関係にあります。推理のモメントとしての個、特、普は「概念の規定」態であり、推理の三つの格をつうじて推理のモメントの各々は概念の諸モメントのもつ「それ自身全体的なもの」であり、他の二つのモメントを「媒介する根拠となる」必然性を証明してみせたのです。
 アリストテレスは『分析論前書』(『アリストテレス全集』第一巻、岩波書店)において推理の諸形式を研究していますが、「悟性的推理の形式を基本」(一六八ページ)にするのではなく、「支配的なものは常に思弁的概念」(同)であって、理性的推理を基本にしているからこそ、概念の規定態として推理の格を正当に三つ挙げているのです。

一八七節補遺 ── あらゆる理性的なものは三重の推理

 「推理の三つの格の客観的な意味は、あらゆる理性的なものが三重の推理として示されるということ、すなわち、その各項はいずれも端項の位置を占めるとともに、また媒介する中間項の位置をも占めるということである」(同)。
 定有の推理のもつ形式上の欠陥は、「三つの格」を経て克服され、定有の推理は、悟性的推理から理性的推理に移行します。かくして、定有の推理における「三つの格の客観的な意味は、あらゆる理性的なものが三重の推理として示されること」にあるといえるのです。三重の推理とは、推理の大前提、小前提、結論という三つの項が「いずれも端項の位置を占めるとともに、また媒介する中間項の位置をも占める」ことを指しているのです。
 ヘーゲルはその例として、『エンチクロペディー』の構成をあげています。論理的理念(論理学)、自然(自然哲学)、精神(精神哲学)は、個 ── 特 ── 普の第一格の推理であり、「直接的な総体性としての自然が、論理的理念および精神という二つの端項」(同)を媒介する中間項となっています。つまり論理的理念の外化が自然であり、自然の最高の形態が人間(精神)としてとらえられるのです。しかしこの推理は、第三格の特(自然) ── 普(精神) ── 個(論理的理念)としてもとらえられます。なぜなら「自然のうちに論理的理念を認識し、かくして自然をその本質にまで高めるのは、精神」(同)ですから精神が中間項となるのです。
 さらにこの推理は、推理第二格の普(精神) ── 個(論理的理念) ── 特(自然)としてとらえることもできます。理念は「精神および自然の絶対的な実体であり、普遍的なもの、すべてを貫いているもの」(一六八~一六九ページ)として中間項となるのです。
 エンゲルスは「絶対的概念は、転化して自然になることによって、自己を『外化』する」(全集㉑二九七ページ)ところにヘーゲルの観念論を見出しています。しかしこれは『エンチクロペディー』の第一格を批判するものにはなりえても、三重の推理の前には説得力を失うものといえるでしょう。
 例えば沖縄の米軍普天間基地の返還が政局の焦点となりつつあります。普天間基地(個)は米軍占領下に銃剣とブルドーザーで強奪した基地(特)であり、安保条約(普)をその存在根拠とする推理第一格(個 ── 特 ── 普)です。しかしこの関係は、安保(普)が根源となって、米軍基地(個)が存在し、それが占領下の沖縄(特)に集中しているという推理第二格(普 ── 個 ── 特)としてもとらえられます。同時に沖縄(特)は安保(普)のもつ矛盾が集中し、その矛盾が普天間(個)に集中的に表現されているという意味では推理第三格(特 ── 普 ── 個)でもあり、こうして三重の推理として示されるのです。
 こういう矛盾の集中点としての普天間基地問題の解決は、その無条件返還以外にはありえないのです。
 このように『エンチクロペディー』の三部門は「三重の推理」としてとらえられるのであり、「これが絶対的な三段論法の諸項」(一六九ページ)なのです。

一八八節 ── 推理第四格(量的推理)

 以上三つのモメントは、いずれも「中間項および二つの端項の位置」(同)に立ちうることが明らかにされ、三つのモメントの「相互の特定の区別は揚棄され」(同)、それらの「相等性」(同)が定立されています。
 こうして「もし二つのものが第三のものに等しければ、二つのものは相等しいという量的推理あるいは数学的推理」(同)という推理の第四格が定立されることになるのです。

一八八節補遺 ── 量的推理は没概念的形式

 この量的推理は「数学においては公理」(同)であり、「証明を必要としない」(同)とされています。しかし数学の公理も、「その実、論理学上の命題」(同)にほかならないのであって、「普遍的な思惟から導き出すことのできるもの」(同)といえます。それは、A=C、B=C、ゆえにA=Bという質的推理の「最初の結果にすぎない」(同)のです。
 それだけではなく、量的推理は「全く没形式の推理」(同)です。すなわち悟性的推理に特有な「概念によって規定された区別」(一七〇ページ)を自己のうちに含まない没概念の形式にすぎません。

一八九節 ── 質的推理から反省の推理へ

 三重の推理をつうじて、概念の三つのモメントは区別されながらも統一されていることにより、「概念の諸規定が抽象的なものとして相互に単なる外的関係のうちに立っている推理」(一五九~一六〇ページ)という質的推理の性格が揚棄されています。言わば、三つのモメントが「抽象であるという一面性」(一七〇ページ)を「即自的には失っている」(同)のです。
 すなわち三重の推理によって個、特、普はいずれも証明済みとなり、定有の推理のもつ形式上の欠陥は克服されて三つのモメントの媒介は「即自的」(同)にではあっても完成され、「互に前提しあう媒介からなる円」(同)となっているのです。
 「第一格『個 ── 特 ── 普』においては、二つの前提『個 ── 特』および『特 ── 普』はまだ媒介されていず、前者は第三格において、後者は第二格において媒介される。しかしこれら二つの格の各々もまた、その二つの前提文を媒介するものとして他の格を前提している」(同)。
 一八三節でみたように、第一格では、「個は普遍である」という「個 ── 普」の媒介は証明されていますが、大前提の「個 ── 特」、小前提である「特 ── 普」は証明されていません。前者は、第三格の結論である「特殊は個である」によって媒介され、後者は第二格の「普遍は特殊である」によって媒介され、ここに個、特、普の媒介は「完成」されることになります。同様に、第二格、第三格も他の二つの格を「前提」しているのであって、三つの格は相互前提、相互媒介の関係にあることにより媒介は完成されているのです。
 「したがって概念の媒介的統一は、もはや単に抽象的な特殊としてではなく、個と普遍との発展した統一として定立されなければならない。それはまず両者の反省的統一、すなわち、同時に普遍として規定されている個である。こうした中間項が反省の推理を与える」(同)。
 こうして完成された媒介により「概念の媒介的統一」が定立され、定有の推理は概念の統体性をうちに含む理性的推理としての「反省の推理」に移行することになります。反省の推理においては、「個は普遍と特殊の統一である」という概念の統体性を含んでおり、そこでは「普遍として規定されている個」、普遍から個へ、個から普遍へという推理が展開されるのです。