『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第三九講 第三部「概念論」⑦

 

一、「C 理念」 「a 生命」

 二〇四節で、生命は内的目的性であることを学びました。いわば、「B 客観」の「c 目的的関係」では外的目的を論じているのに対し、「C 理念」の「a 生命」では概念(真にあるべき姿)を内的目的としてもつ生命体が論じられます。

二一六節 ── 生命は概念(魂)と客観(肉体)との直接的な統一

 「直接的な理念は生命である。ここでは概念は魂として肉体のうちに実現されている。魂は第一に肉体という外面的なものの、直接に自己へ関係している普遍性であるが、第二にはまた肉体の特殊化でもあって、そのために肉体は概念規定が肉体に即して表現する以外のいかなる区別をも表現していない。最後にそれは無限の否定性として個である。すなわちそれは、独立の存立という仮象から主観性へ復帰させられた肉体の諸部分の弁証法であり、したがってあらゆる部分は、相互に一時的な手段であると同時に、一時的な目的でもある」(二一六~二一七ページ)。
 生命は概念と客観とが直接的に一体となった即自的な理念です。そこでは概念としての魂と客観としての肉体とが一個の生命体のうちに閉じ込められているという意味で概念と客観との直接的な一体なのです。生命において「概念は魂として肉体のうちに実現」されており、魂は生命の内的目的性となっています。
 すなわち生命とは、具体的普遍としての魂、魂の特殊化としての肉体、魂と肉体の統一としての個(生命体)という、普 ── 特 ── 個の推理なのです。
 二一三節で、理念の「発展した真の姿」(二〇九ページ)は主体であることを学びましたが、生命体は一個の主体として「無限の否定性」により自己発展する個体です。主体としての生命体は魂という概念の普遍性が自らを特殊化して肉体とし、それによって肉体を「独立の存立」ではなく、主体にとっての「一時的な手段であると同時に、一時的な目的」としてしまうのです。
 「かくして生命は、最初の特殊化であるとともに、最後には否定的な向自有する統一となり、弁証法的なものとしての肉体性のうちでただ自分自身とのみ連結する」(二一七ページ)。
 こうして生命体は理念の最初の特殊化である一個の主体ですが、最後は個を否定して「向自有する統一」としての類となり、生命の理念となるのです。個々の生命体は有限な可死的存在ですが、類としての「肉体性」をもつことによって死んでも類という「自分自身」と「連結」し、類としての普遍的生命のうちに存続し続けるのです。
 「このように、生命は本質的に生命あるものであり、またその直接性にしたがって、生命ある個体である。有限性はここでは、理念が直接的であるために、魂と肉体とが分離しうるという規定を持っている。そしてこの分離の可能が、生命あるものの可死性をなしているのである。しかし魂と肉体という理念の二つの側面が異った構成要素であるのは、生命あるものが死んでいるかぎりにおいてのみである」(同)。
 生命は一個の主体として「生命ある個体」つまり生命体です。生命体はすべて有限なものですが、その有限性は概念である魂と客観である肉体とが直接的な結合にとどまっているために「分離しうるという規定を持っている」ところにあり、これが「生命あるものの可死性をなしている」のです。生命体は魂と肉体とが分離しうるものとして有限であり、死によってその「分離の可能」が現実となるのです。

二一六節補遺 ── 有限な生命は概念と実在との分離可能性

 悟性の立場からすると、「生命は常に神秘的なもの、およそ概念的に把握しがたいもの」(同)と考えられています。
 しかし生命はけっしてそのようなものではなく、「概念そのものなのであり、もっとはっきり言えば、概念として現存している直接的な理念」(同)なのです。つまり生命とは自己のうちに自己の真にあるべき姿という内的目的をもち、その目的の実現をめざして無限に発展していく存在なのです。
 生命は「直接的な理念」にすぎないというところに生命の欠陥も示されており、「ここではまだ概念と実在とが本当に合致していない」(同)ために、両者が分離可能であるという制限をもっています。
 「生命の概念は魂であるが、この概念はその実在性として肉体を持っている。魂は、言わば、その肉体性という型のうちへ注ぎこまれているのであって、したがってせいぜい感じるものにすぎず、まだ自由な向自有ではない」(二一七~二一八ページ)。
 というのも、生命において魂(概念)は「その肉体性という型のうち」に閉じ込められているのであって、「b 認識」と異なり「まだ自由な向自有」つまり、肉体から自立し自由に羽ばたく存在ではないのです。
 二一八節以下に述べる生命の三つの過程は、「生命がまだそのうちに捕えられているところの直接態を克服」(二一八ページ)し、概念が自由になる過程です。言いかえると理念の即自態としての生命が、「認識としての理念」(同)、つまり理念の対自態としての「b 認識」に移行する過程となっています。

二一七節 ── 生命体の三つの過程

 生命あるものは、具体的普遍としての魂が自らを特殊化して、肉体の諸部分をつくりあげ、その統体性としての生命ある個体となるという普 ── 特 ── 個の推理です。それだけではありません。生命体は、全体が有機的統体性をなしていますが、この推理は三重の推理によって「自分自身と連結され、自己を生産する」(一九二ページ)のであって、この三重の推理によってのみ「全体が有機的組織をなしていることが本当に理解され」(同)るのです。生命体にとって「推理の諸モメントもそれ自身体系であり、推理」(二一八ページ)となっています。
 二〇一節の化学的過程において具体的普遍である概念が特殊を通じて個と連結し、「そのうちでただ自分自身と連結する」(一九四ページ)こと、「この過程にはそのほかになお二つの推理が含まれている」(同)ことを学びました。生命体においても同様に、特殊である肉体のみならず、主体としての個も、具体的普遍である魂も、いずれも媒介者となる三重の推理が定立されるのです。
 「しかしこれらの推理は活動的な推理であり、過程であって、生命あるものの主体的統一のうちにあって単一の過程をなしている。かくして生命あるものは、三つの過程を経過するところの自己を自己と連結する過程である」(二一八ページ)。
 しかし化学的過程と異なり、生命においては三重の推理は「活動的な推理」であり、生命体のうちでの「単一の過程」をなしています。すなわち生命あるものは、この三重の推理をつうじて現在の自己を再生産して未来の「自己と連結する」のであり、この自己を再生産する過程は、二一八節以下の三つの過程として論じられることになります。

二一八節 ── 第一の過程は生命体の内部における再生産の過程

 第一の過程は、「生命あるものの内部で行われる」(同)再生産の過程です。
 「生命あるものは自分自身のうちで分裂し、その肉体性を客観、すなわち無機的自然とする。相対的に外的なものとしてのこの肉体性は、それ自身、区別や対立を持つ諸モメントにわかれ、それらは互に他のために自己を犠牲とし、自己のために他を同化し、自分自身を生産しながら自己を保持する」(同)。
 生命体は、自分自身のうちで統体としての個から肉体を分裂させます。つまり自分自身で魂(内的目的性)にそった肉体(組織)につくりあげていくのです。この肉体(組織)は「それ自身、区別や対立を持つ諸モメントにわかれ」、その肉体の諸モメントの相互媒介の作用のうちで、魂にそった肉体という「自分自身を生産しながら自己を保持する」のです。
 こうした肉体の諸モメントの活動をつうじて「生産されるものは、主体にほかならない」(二一九ページ)のであって、「主体はただ自己をのみ再生産する」(同)のです。

二一八節補遺 ── 自然的生命体における感受性、興奮性、再生産

 生命体内部の過程は、「自然においては、感受性、興奮性、および再生産という三つの形式」(同)をもっています。この「自然においては」というところに、生命体は自然的な生命体のみならず、社会的生命体をも含んでいることが示されています。
 感受性とは、肉体のうちにあまねく存在する魂が外界に反応することであり、興奮性とは、自分自身のうちにおける魂と肉体との分裂のあらわれであり、再生産とは、主体(生命体)の不断の自己更新です。
 これを社会的生命体としての企業にあてはめてみると、感受性とは情報収集・処理する企画部門、興奮性とは内的目的と組織との関係を調整する総務部門、再生産とは採用と退職を調節する人事部門ということになるでしょう。
 生命体は、この三つの形式をつうじて「不断に自己を更新する過程としてのみ存在する」(同)のです。
 
二一九節 ── 第二の過程は生命体が客観を支配することによる再生産の過程

 生命の第二の過程は、生命体が客観を支配することにより自己を再生産する過程です。
 「 ⑵ しかし概念の本源的自己分割は、自由なものとして、独立な統体としての客観的なものを自己のうちから解放するにいたる。そして生物の自己への否定的関係は、直接的な個体性として、生物に対立している無機的自然の前提をなしている」(同)。
 生命体が自己を再生産するためには、客観を自己のうちに同化し、自己のうちから異化するという客観との同一と区別の統一が必要となります。いわば生命体の再生産には「無機的自然」を自己に対立するものとして前提しなければならないのであり、この前提のうえに客観との間に同化と異化という「否定的関係」を定立するのです。
 「この生命あるものの否定は、同時に生命あるもの自身の概念の一モメントであるから、同時に具体的普遍でもあるところの生命あるものにおいては、それは欠陥として存在する」(二一九~二二〇ページ)。
生命あるものが存立していくためには、他のものの力を借りる必要のない自己関係としてではなく、自然の存在を前提とし自然との間に「否定的関係」を定立することが「生命あるもの自身の概念の一モメント」、つまり生命体を再生産するための不可欠の一モメントであるところに、生命あるものの「欠陥」が存在するのです。
 「客観が本来空無なものとして揚棄される弁証法は、自分自身を確信している生物の活動であって、この過程においてそれは無機的自然にたいして自分自身を保存し、発展し、自己を客観化するのである」(二二〇ページ)。
生命体が生あるものとして「自分自身を保存し、発展」するためには、自然を支配し、それを「空無なものとして揚棄」することによって「自己を客観化する」ことが必要なのであって、それが生命体の再生を保証する「確かな」(「確信している」は誤訳)「生物の活動」なのです。

二一九節補遺 ── 生命体は自然を支配し同化する

 生命体は「無機的自然に対立し、それを支配し、それを同化」(同)します。
 この過程は、化学的な中和とは異なり、「自然が生命あるものに従属する」(同)過程ですが、それがなぜ可能になるのかといえば、自然が潜在的概念であるにすぎないのに対し、生命体は顕在的概念だからです。したがって生命あるものは、客観を支配することで、自己を客観化させ、客観という「他者のうちで自分自身とのみ合一する」(同)のです。
 魂と肉体との関係も、同様に考えうるのであり、肉体という客観はたえず魂の支配を受けており、したがってその支配から逃れようとしているのであって、「肉体から魂が離れ去る」(同)と客観性への支配がなくなり、肉体における「客観性の自然力が活動しはじめる」(同)のです。生命体は、この意味でも客観との「不断の戦い」(同)のうちにおかれているのです。

二二〇節 ── 第三の過程は個体が類として再生産される過程

 第三の過程は、有限な可能性をもつ「生命ある個体」(二一七ページ)が、生命の理念としての類として再生産される過程です。
 「 ⑶ 第一の過程においては自己のうちで主体および概念として振舞う生きた個体は、第二の過程によってその外的な客観性を自己に同化し、かくして実在的な規定態を自己のうちへ定立する。かくして個体は今や即自的に類、すなわち実体的普遍である」(二二〇ページ)。
 第一の過程は自己のうちでのみ「概念として振舞う生きた個体」の再生産の過程であり、概念は「まだ自由な向自有」(二一八ページ)ではありません。これに対し第二の過程は「外的な客観性を自己に同化」し、実在的な概念の「規定態を自己のうちへ定立」する再生産の過程です。すなわち、概念は客観を「同化」し「支配する力」(二二一ページ)として、「即自的に類」、「実体的普遍」となってきているのです。
 有限な生命体としての個体において、その存在はまだその概念に完全には一致していないために有限であり亡びます。しかし生命体は第三の過程において「実体的普遍」としての類となることによって、概念と存在との完全な一致としての理念となります。これによって生きた個体の有限性を止揚し、個体はこの実体という普遍的生命のうちで滅亡すると同時に行き続けるのです。
 「類の特殊化は、主体と、同じ類に属する他の一つの主体との関係であり、ここに存在する本源的分割は、かく相互的に規定された個体への類の関係、性別である」(二二〇~二二一ページ)。
 ここにおける類の特殊化とは生きた個体を意味するものではありません。生きた個体は偶有として実体としての類から生みだされる個体であって、もはや類そのものではありません。
 類そのものとしての特殊化は、類の「本源的分割」により定立された相対立する二つの主体であり、この相対立する二つの主体の統一が類となって偶有を生みだすのです。すなわち類の特殊化とは「性別」です。人類は男女という対立する二つの主体が存在することで、はじめて人類となり類として生命ある個人を生みだすことができるのです。

二二一節 ── 類は個(有限者)の真理

 「類の過程は類を向自有へもたらす。この過程の産物は、生命がまだ直接的な理念であるから、二つの面にわかれる」(二二一ページ)。
 向自有とは、有限者の真理です(㊤二九二ページ)。類は、個体の真理として「類の過程は類を向自有へもたらす」のです。
 なぜ類が個体の真理かといえば、一方ではこれまで「直接的なものとして前提されていた生きた個体一般」(二二一ページ)は、いまや類という実体によって「媒介されたもの、生み出されたもの」(同)、つまり偶有としてあらわれ、他方では、普遍に対立してきた「個別者は、支配力としての普遍のうちで滅亡する」(同)ことにより、類こそが生命体の真理であることを明らかにするのです。

二二一節補遺 ── 類は生命の理念

 「生あるものは死ぬ。なぜなら、それは即自的には普遍者であり類でありながら、直接態においてはただ個としてのみ現存するという矛盾だからである」(同)。
 類は有限者の真理として生命の真にあるべき姿です。したがって類は普遍的生命として不死であるのに対し、「生あるものは死ぬ」のです。生命ある個体は「即自的には普遍者であり類」でありながら、直接的には「ただ個としてのみ現存する」という矛盾のあらわれとして可死的なのです。
 個の滅亡のなかで、類が個を「支配する力」(同)であることが示され、「類の過程がその生命の頂点」(同)にあることを証明します。
 こうして生命の過程をつうじて類があらわれてくることは、「概念から言えば、生命としての理念がまだそのうちにとらえられている直接態の揚棄であり克服である」(同)こと、つまり生命の理念の顕在化ということを示しているのです。

二二二節 ── 生命の理念は精神(人間)

 類によって「生命の理念」(二二二ページ)が示されたことは、生命という理念の「直接態一般から自己を解放」(同)したことを意味しています。
 これによって、「肉体性という型のうち」(二一八ページ)に閉じ込められていた魂(概念)はその制約から逃れて「その真実態へ、自分自身へ到達」(二二二ページ)し、自由に羽ばたく「自由な類として現存在するようになる」(同)のです。
 こうして、自由になった概念が、「精神の出現」(同)です。ヘーゲルは、精神を「自然の真実態」、「自然の向自有に達した理念」(樫山欽四郎訳『エンチクロペディー』三一一ページ、河出書房)としてとらえています。
 「精神の出現」とは人間そのものの出現にほかなりません。こうして自然の理念としての生命から精神の理念としての人間に移行し、「a 生命」は「b 認識」へと移行します。

 

二、「C 理念」 「b 認識」総論

「b 認識」は理想と現実の統一を論じる

 「b 認識」とは、広い意味で人間の精神活動を意味しており、狭義の認識つまり客観における潜在的概念(真にあるべき姿)を主観のうちに顕在的に反映した「認識」という意味のみならず、主観(認識)のうちにとらえられた概念を実践をつうじて客観のうちに実現する「意志」という意味を含む広義の「認識作用」(二二三ページ)です。狭義の「認識」と「意志」という二つの作用により、人間の精神活動は、主観と客観の統一を定立し、理想と現実の統一を実現することになるのです。
 こうして広義の「b 認識」は、総論(二二三~二二五節)と、各論としての「イ 認識」(狭義の認識)、「ロ 意志」として構成されることになります。
 総論では、広義の認識作用とは主観と客観との対立を前提とした統一の定立であり、そこには客観から主観へと向かう運動と主観から客観へ向かう運動という、方向の異なる「二つの運動」(二二四ページ)があることが明らかにされます。
 すなわち、主客の同一性を定立する運動には、主観が客観のなかに潜在する概念を顕在化してとらえる狭義の「認識」と、主観のうちにとらえられた概念がエネルゲイアとしてのイデアとして実践を媒介に客観として定立される「意志」という二つの運動があるのです。
 こうして「a 生命」における理念の直接性は、「b 認識」において主観と客観との分離・対立を経た同一性の定立という理念の媒介的同一性へと進展していき、理想と現実の統一という絶対的理念に到達することになるのです。この意味では「生命」における理念は概念と客観との直接的統一という即自的理念であるのに対し、「認識」における理念は概念と客観との分離・対立という対自的理念であり、「絶対的理念」における理念は概念と客観との対立を揚棄した統一という即かつ対自的理念ということができます。
 以上を前置きとして、「認識」の総論に入っていくことにしましょう。

二二三節 ── 人間(精神)は自由な理念

 「理念がその現存在のエレメントとして普遍性を持つかぎり、言いかえれば、客観性そのものが概念として存在し、理念が自分自身を対象として持つかぎり、理念は向自的に自由に存在している。かく普遍性へ規定されている理念の主観性は、それ自身の内部での純粋な区別であり、自己をこの同一な普遍性のうちに保っている観想である」(二二二ページ)。
 二二二節で、生命から認識への進展は「精神の出現」であることを学びました。ヘーゲルは、精神を自然に対立する自然の真実態としてとらえていますが、精神とは生命の最高峰に位置する無限の認識能力をもつ人間そのものにほかなりません。人間は、認識と実践をつうじて概念と存在との同一を実現する現存在として、理念そのものなのです。「理念がその現存在のエレメントとして普遍性を持つ」とは、理念が理念として普遍的な現存在をもつにいたるということであり、それがつまり人間(精神)という主体なのです。理念そのものとしての人間は「向自的に自由に存在」しており、概念を潜在的にうちにもつ客観から区別された存在となっています。
 こうして理念のうちからまず第一に、精神としての人間主体が「理念の主観性」として区別されることになります。この理念の「内部での純粋な区別」としての人間主体は、イデアという真実在をとらえうる「観想(テオーリア ── 高村)」なのです。テオーリアというギリシア語は、思惟のなかにおける存在を意味し、「真実在の観想」というようにイデアをとらえる用語として用いられています。
 「しかしそれは特定の区別としては、より進んだ自己分割であって、統体としての自己を自己から突きはなし、まず自己を外的な宇宙として前提する。すなわち、ここには二つの本源的分割があるのであって、それらは潜在的には同一であるが、まだ同一なものとして定立されてはいないのである」(二二二~二二三ページ)。
 二一三節で学んだように理念は「概念と客観性との絶対的な統一」(二〇八ページ)としての絶対的真理でした。生命は「直接的な理念」(二一六ページ)として、概念としての魂と客観としての肉体とは生命ある個体のうちに直接的な統一として存在していました。
 第二に広義の認識作用においては、人間主体の前にあって理念における概念と客観とはいったん分離され、「より進んだ自己分割」として主観と客観とは対立する関係におかれます。こうして理念は「統体としての自己を自己から突きはなし」、主観的理念と客観的理念(客観的世界)とに区別されるのです。
 このように広義の認識作用においては、まず第一に理念のうちから人間主体が「理念の主観性」として区別され、第二に人間主体の前に理念は主観的理念と客観的理念とに区別されるという「二つの本源的分割」がおこなわれることになります。
 主観的理念と客観的理念との対立は、「潜在的には同一であるが、まだ同一なものとして定立されてはいない」のです。この同一性を定立することが「b 認識」の課題となります。

二二四節 ── 人間は主観と客観との同一性を定立しようとする衝動をもつ

 「潜在的にあるいは生命としては同一であるところのこの二つの理念の関係は、したがって相対的な関係であって、このことがこの領域における有限性の規定をなしている。この関係は反省関係である」(二二三ページ)。
 生命においては魂という主観的理念と肉体(組織)という客観的理念とは「生命ある個体」(二一七ページ)において一体として定立されていましたが、人間主体にとっては主観的理念(主観)と客観的理念(客観)とは区別されていて相対的な「反省関係」におかれ、人間主体の精神活動は客観から主観へ、主観から客観へと相互移行する関係にあります。そこに人間の精神活動の有限性があるのです。
 「というのは、それ自身のうちでの理念の区別化は、第一の自己分割にすぎず、前提作用はまだ定立の作用として存在していないからであり、したがって主観的理念にとっては、客観的理念は目前に見出される直接的な世界であるからである」(二二三ページ)。
なぜ主観的理念と客観的理念とが「反省関係」であるのかといえば、この段階では理念は二つに区別された「第一の自己分割にすぎず」、主観的理念と客観的理念とはまだ同一性を実現しようという「定立の作用として存在していないから」です。
 「同時に、この自己分割が理念自身の内での純粋な区別であるかぎり(前節)、理念は顕在的に自己であるとともにその他者であり、したがって客観的世界と自己との潜在的な同一性の確実性でもある」(同)。
 本来「概念と客観性との絶対的な統一」(二〇八ページ)であった理念が「自己分割」して主観的理念と客観的理念となったのですから、人間主体にとって主観的理念は、「客観的世界」(客観的理念)との同一性を求める潜在的な「確実性」なのです。 
 「理性は、この同一性を顕現しその確実性を真理にまで高めうるという絶対的な信念をもって、また理性にとって潜在的に空無である対立を実際に空無なものとして定立しようとする衝動をもって、世界にあらわれてくる」(同)。
ここにいう「理性」とは、理性をもった人間主体という意味でしょう。
 理性をもった人間は、主観と客観との「同一性を顕現」し、概念と存在の一致という「真理にまで高めうるという絶対的な信念」をもち、主観と客観との対立を「空無なもの」にしようとする「衝動をもって、世界にあらわれてくる」のです。

二二五節 ── 「認識」とは主観と客観の同一性定立への二つの運動

 この理念の自己分割から生じた主観と客観の対立を「空無なもの」にしようとする衝動が、広義の「認識作用」(同)といわれるものです。
 「そこでは主観性の一面性と客観性の一面性との対立が一つの活動のうちで即自的には揚棄されている。しかしこの揚棄は最初は即自的にのみ行われるから、この過程そのものが直接にこの領域の有限性をまとっており、異ったものとして定立されているところの理性の衝動の二つの運動に分裂する」(二二三~二二四ページ)。
 この広義の認識作用という人間主体の「一つの活動」のうちには、主客の同一を定立しようとする衝動がありますから、「主観性の一面性と客観性の一面性との対立」は「即自的には揚棄されて」います。しかしこの揚棄はまだ潜在的なものにすぎませんから、この過程そのものが主客の対立を前提とする「この領域の有限性」をまとっており、方向を異にする「理性の衝動の二つの運動に分裂する」のです。それが狭義の「認識」と「意志」にほかなりません。
 「イ 認識」、つまり狭義の認識とは、「存在する世界を自己のうちへ」(二二四ページ)取り入れ、それによって「理念の主観性の一面性を揚棄」(同)し、「自分自身の抽象的な確実性を、真理と考えられている客観性の内容をもってみたす」(同)のです。つまり狭義の認識とは客観世界の現にある姿をそのまま主観のうちに反映するにとどまらず、客観の真にあるべき姿(概念)をもとらえることによって主観的理念を「真理と考えられている客観性の内容をもってみたす」ことなのです。
 他方「ロ 意志」とは、それとは逆に「単なる仮象と思われている客観的世界」(同)を主観的な概念という「真に存在する客観的なもの」(同)によって規定し、「前者のうちへ後者を形成し入れ」(同)、客観世界を真にあるべき姿に変革するのです。この「二つ」の方向を異にする運動によって理想と現実の統一が実現され、客観的世界は真にあるべき姿に変革されることになり、ここにヘーゲルの革命性が疑問の余地なく示されることになります。
 「一方は真理を求める知識の衝動、認識そのもの、すなわち理念の理論的活動であり、他方は善を完成しようとする善の衝動、意志、すなわち理念の実践的活動である」(同)。
 こうして以下において、方向を異にする二つの衝動、つまり人間主体における「理念の理論的活動」としての狭義の認識と「理念の実践的活動」としての意志(実践)とが広義の「認識」の各論として論じられることになるのです。
善とは、世界の「絶対的な究極目的」(㊤二〇四ページ)であり、世界の究極的な理想を意味しています。

 

三、「C 理念」「b 認識」各論(一)

「イ 認識」

二二六節 ── 狭義の認識の到達する真理は有限な真理

 広義の認識は客観世界との「対立を前提」(二二四ページ)しているところにその「一般的な有限性」(同)があり、認識作用とは「この前提された対立への抗議を蔵し」(同)、客観との同一性の定立を求めています。
 「ところでこの有限性は、認識そのものの理念に即して、さらに自己を規定し、理念の二つのモメントは互に別々のものという形態を持つようになる。そしてこの二つのモメントが完全であっても、それらは反省の関係をとるにすぎず、概念の関係をとるにはいたらない」(二二四~二二五ページ)。
 しかし狭義の認識(「イ 認識」)の有限性は、客観との対立を前提しているという一般的有限性にとどまるものではなく、「さらに自己を規定し」理念の「二つのモメント」(概念と存在)の区別をもつという有限性をもっています。つまり認識もとりあえずは客観がどうあるのかという存在の認識にとどまり、客観の概念(真にあるべき姿)の認識にまで至らないのです。言いかえると客観の現にある姿を「反省の関係」で反映論的に認識するにとどまり、客観の真にあるべき姿という「概念の関係」を認識するまでには至らないのです。
 「したがって与えられたものとしての素材を同化することは、他方ではやはり素材にたいして外的である概念諸規定のうちへ素材を取り入れることとしてあらわれる。そして概念諸規定そのものも互に別々のものとしてあらわれる。これは悟性として活動している理性である」(二二五ページ)。
 この有限な認識において「与えられたものとしての素材」を自己のうちに同化することは直ちに概念として同化するのではなく、「概念諸規定」である普遍、特殊、個別として、しかもその諸規定を「互に別々のものとして」取り入れるにすぎないのです。つまりせいぜい対象となる素材を抽象化して本質、法則、類、実体などの普遍性を認識するにとどまるのであり、「悟性として活動している理性」、反映論的認識なのです。
 「したがってこうした認識が到達する真理も、やはり有限な真理にすぎず、概念の無限の真理はそれにとってはあくまで潜在的にのみ存在する目標、彼岸にすぎない。しかしそれはその外面的な活動のうちで概念に導かれているのであって、概念の諸規定がその進展の内的な導きの糸をなしているのである」(同)。
 こういう客観世界を反映する認識は、経験論が「不自由の学説」(㊤一六二ページ)であることを学んだように、まだ客観世界に拘束された「有限な真理」にすぎないのであり、概念をとらえる「無限の真理」はまだ「潜在的にのみ存在する目標、彼岸」にすぎません。
 しかし認識がとりあえず客観の普遍性をとらえることによって、この普遍性という「概念の諸規定」が「導きの糸」となって概念そのものに前進しうることになるのです。

二二六節補遺 ── 概念をとらえる認識は能動的

 「認識の有限性は与えられた世界を前提するところ」(二二五ページ)にあります。経験論者のロックは、生まれたばかりの人間の認識は「タブラ・ラサ(白紙)」(同)であり、経験によりそこに客観世界が写し出されるにすぎないと考えました。
 しかしこうした考えは「まだ自分が概念の活動であることを知らない認識」(同)であり、認識は、単に客観世界の現にある姿を「受動的」(同)に反映するにとどまらず、客観世界のうちに潜んでいる真にあるべき姿を取り出すという「能動的」(同)な精神活動であり、それが「概念の活動」(同)なのです。

二二七節 ── 分析的方法は個から普遍を取り出す有限な認識

 「有限な認識作用は、自分とは異るもの、与えられた、自分に対立している存在、すなわち外的自然や意識の多種多様な事実を前提するから、 その活動の形式は普遍性の形式的同一性あるいは抽象である」(二二五~二二六ページ)。
 狭義の認識は「与えられた、自分に対立している」外的な客観的事物を前提とし、客観的事物(個)から「抽象」によって抽象的普遍を取り出したり、あるいは客観的事物と「形式的同一性」をもつ具体的普遍を取り出すのです。これが分析的方法といわれる認識方法であり、与えられたものを前提とするところに、この認識方法の有限性があるのです。
 「したがってこの活動は与えられた具体的なものを分解し、その諸区別を孤立化し、そしてそれらに抽象的な普遍性の形態を与えるところにある。あるいはまた具体的なものを根柢としてそのままにしておき、本質的でないと思われる特殊なものを捨象することによって、具体的な普遍、類あるいは力および法則を取り出すところにある」(二二六ページ)。
 個から普遍を取り出す場合、一つは例えば生命体のなかから細胞を取り出すように、「具体的なものを分解」してそのなかの抽象的普遍を取り出すのと、もう一つは「具体的なもの」のもつ本質的でない「特殊なものを捨象する」ことによって、本質、類、力、法則などの具体的普遍を取り出すのがあり、そのどちらもが「分析的方法」(同)とよばれています。

二二七節補遺 ── 最初の認識作用は個から出発する分析的方法

 有限な真理、つまり客観世界の真の姿を認識する方法には、分析的方法と綜合的方法の二つがあります。前者は個から普遍へと進む認識方法であり、後者は普遍から個へ進む認識方法です。
 ヘーゲルは、「認識作用は最初は分析的である」(同)と述べています。というのも、すべての具体的な客観的事物は個として存在していますから、個から普遍を取り出す分析が最初の認識作用となるのです。
 「分析的認識の活動は、目前に見出される個別的なものを普遍へ還元する」(同)のですが、「ここでは思惟は抽象あるいは形式的同一性という意味しか持っていない」(同)のであり、認識のもつ創造作用は発揮されていません。「ロックをはじめあらゆる経験論者」(同)はこの立場にたっているところから「不自由の学説」(㊤一六二ページ)とよばれているのです。
 彼らは、この方法を「あるがままに事物を把握しようとする」(二二六ページ)方法だと主張していますが、実際には肉を分解して「窒素、炭素、水素」(同)などの要素に還元することによって「事物を変化」(同)させているのです。
 同じ事物を変化させるのであれば、こんな「形式的同一性」の立場にとどまることなく、概念にまで到達しなければなりません。

二二八節 ── 綜合的方法は普遍から個に進む有限な認識作用

 「この普遍性は ⑵ また規定された普遍性である。ここでは活動は概念の諸モメント ── 概念といっても、有限の認識作用のうちにあるのだから、無限の概念ではなく、悟性的な規定された概念であるが ── に沿うて進んで行く。こうした概念の諸形式へ対象を取り入れるのが綜合的方法である」(二二七ページ)。
 綜合的方法という認識作用は、分析的方法とは逆に普遍から個へと進展する方法です。
 問題は、出発点となる「規定された普遍性」が「無限の概念ではなく、悟性的な規定された概念」、つまり具体的普遍としての概念ではなく抽象的普遍としての概念にすぎないところから、綜合的方法もまた「有限の認識作用のうちにある」のです。
 この綜合的方法は「悟性的な規定された概念」として、「概念の諸モメント」を対象の認識のうちに「取り入れ」、普、特、個という概念の諸モメントに「沿うて」認識を進めていくのです。

二二八節補遺 ── 綜合的方法は対象に即した概念の諸モメントの展開

 「綜合的方法の運動は分析的方法の逆」(同)であり、個から普遍へではなく、普遍から個へと進んでいくのです。
 「分析的方法は、個から出発して普遍へ進むが、綜合的方法においては、普遍(定義としての)が出発点をなし、われわれは普遍から特殊化(分類における)を通じて個(定理)へ進んでいく。したがって綜合的方法は対象に即しての概念の諸モメントの発展である」(同)。
 こうして、分析的方法では、普遍としての定義から出発し、その特殊化としての分類、さらには個としての定理へと、普、特、個という「概念の諸モメントの発展」の形式をもっています。
 二二九節から二三一節まで、その「諸モメントの発展」としての綜合的方法が論じられます。

二二九節 ── 定義は対象の類および普遍を規定する

 「 (イ) 対象がまず規定された概念一般の形式のうちへもたらされ、これによって対象の類および普遍的規定性が定立されるとき、これが定義である」(二二八ページ)。
 綜合的方法の出発点となるのは、定義という規定された普遍です。それは「対象の類および普遍的規定性」をとらえたものですが、それは二二七節で学んだように対象の「分析的方法」によってえられます。例えば三角形の定義とは、一直線上にない三つの点を直線で結んでえられた図形ということになります。
 しかし、「普遍性の形式的同一性あるいは抽象」(二二六ページ)として得られた定義は、対象の魂をとらえる絶対的に規定されたものではありませんから、単なる「目じるしの役目」(二二八ページ)をするにとどまり、「主観的な認識に役立つ」(同)ものにすぎません。
 
二二九節補遺 ── 定義の必然性は証明されない

 「定義はそれ自身概念の三つのモメント、すなわち最も近い類としての普遍、類の限定としての特殊、および定義された対象そのものとしての個を含んでいる」(同)。
 定義は「悟性的に規定された概念」(二二七ページ)として「それ自身概念の三つのモメント」、つまり普遍、特殊、個を含んでいます。先の三角形の例をとれば、普遍としての三角形の定義には、「類の限定としての特殊」(正三角形、二等辺三角形、直角三角形など)、および定理としての個(直角三角形におけるピュタゴラスの定理など)という普、特、個の三つのモメントが含まれているのです。
 問題は、出発点の「定義はどうして作られるか」(二二八ページ)にあります。本節でみたように、それは分析的方法により生じますが、だからこそ「提出された定義の正しさについてあんなに論争がある」(同)のです。というのも三角形のような対象であればともかくとして、「定義さるべき対象が豊かであればあるほど」(同)、それだけ多くの側面をもち「定義もますますさまざまであるのが普通」(同)だからです。
 このように定義が「さまざま」でありうるのも、「一般に定義された対象の内容には必然性」(二二九ページ)がなく、有限な定義となっているからです。「哲学は何よりも先にその対象が必然性を持っていることを証明しなければならない」(同)のですから、こうした事情からして「綜合的方法は分析的方法におとらず哲学には適しない」(同)のです。
 というより、綜合的方法において、とらえられるべき定義は対象の概念(真にあるべき姿)でなければならないのです。

二三〇節、同補遺 ── 分類は定義(類)の特殊化

 「 (ロ) 概念の第二のモメントを、すなわち特殊化としての普遍の規定性を示すのが分類である。これもやはり外的な見地からなされる」(同)。
 綜合的方法の第二段階は、定義という普遍の特殊化としての分類ですが、一般的にはこの分類が概念と無関係に「外的な見地からなされる」ところに、分類という認識作用の有限性があるのです。
 分類は類を特殊なものに分けるのですから、「定義一般によって示された領域の全範囲を包括するように作られ」(二二九~二三〇ページ)ていなければなりません。つまり、分類の原理は「分類さるべき対象そのものから取り出されなければならない」(二三〇ページ)のであり、「一般に真の分類は概念に規定されている」(同)分類でなければなりません。例えば生物の場合はDNAにもとづく分類が概念によって規定された分類といえるでしょう。
 ヘーゲルは概念に規定された分類は、普遍が特殊化され個となるという「三部から成っている」(同)が、「特殊」(同)は、普遍の特殊化と類の特殊化(性別、二二一ページ)との「二重なものとしてあらわれる」(二三〇ページ)としています。

二三一節 ── 定理は必然性を証明する

 「 (ハ) 具体的個別性においては、定義における単純な規定性が関係と考えられているから、対象は具体的個別性のうちにあるとき、異った諸規定の綜合的関係である。すなわちそれは定理である」(同)。
 定義という普遍から論理的に導き出される具体的個別性が定理といわれるものです。例えば直角三角形の「定義」とは二辺が直角をなす三角形であり、そこから直角三角形においては、斜辺の二乗は直角をなす二辺の二乗の和に等しいという有名なピュタゴラスの「定理」が生まれます。
 定理においては、斜辺と直角をなす二辺という「異った諸規定」の「媒介された同一」(同)が定立されます。
 その異なった諸規定の同一の「必然性を作り出す媒介」(同)の材料を持ち出してくるのが「構成」(同)であり、この構成が、定理の正しさを「証明」(同)することになります。「構成」とは幾何学の証明に用いられる補助線または作図のことであり、この構成という主体による活動が媒介となって、はじめて定理の必然性が証明されるのです。ピュタゴラスの定理の場合には、斜辺および直角をなす二辺という三辺について、各辺の外側に三つの正方形が作図され、その作図のうえに三本の補助線がひかれてその証明がなされます。
 ヘーゲルはこの証明の欠陥は、「証明で用いられる作図の必然性が見通されて」(『世界の名著ヘーゲル』「精神現象学序論」一二一ページ、中央公論社)おらず、「その作図は、定理自身の概念から出てくるのではなく、外から命令される」(同)ところにあると指摘しています。
 綜合的方法と分析的方法とは、相互に補足しあって真理を認識する科学的方法となります。しかしそのうち「どちらを用いるかは大体人々の勝手」(二三一ページ)のようにみえますが、それは「どちらの方法も外的に前提されたものから出発するから」(同)であり、もし概念から出発するのであれば「分析が最初」(同)にくることになります。まず分析的方法により「経験的に具体的な材料」(同)から概念がとらえられ、この概念が「綜合的方法のうちで定義として冒頭におかれうるから」(同)です。
 ヘーゲルは、この二つの方法は「本来用いられるべき」(同)経験諸科学の「領域では、本質的な意義をもち、また輝やかしい成果を収めて」(同)きたが、「哲学的認識に使用できない」(同)ことは明白だとしています。
 というのもこれらの方法が「前提を持っており」(同)、認識は対象の必然性をとらえるものではなく、前提との「形式的同一性」(同)を認める「悟性の態度」(同)にすぎないからです。
 しかしここは、これらの方法そのものを否定しているのではなくて、分析的方法において概念をとらえず、綜合的方法において概念から出発しないかぎり、必然性をとらえない有限な悟性的方法にとどまることを批判したものとみるべきでしょう。
 「かつては哲学および科学において、これらの方法がその形式主義をともなって濫用されたが、現代ではいわゆる構成の濫用がこれに代っている」(二三二ページ)。
 カントは「数学はその諸概念を構成するものである」(同)とする、「概念の構成」(同)の考えを流布しました。この意味するところは、「数学は概念を取扱うのではなく、感性的直観の抽象的な諸規定を取扱うにすぎない」(同)というものです。
 この背後には、「概念と客観性との統一としての理念にかんするおぼろげな表象」(同)のひそんでいることをうかがうことはできますが、「概念の構成」つまりもっぱら主体による概念の構成を論ずるのみであって概念そのものを論じていない点において、これまでの経験諸科学の二つの方法と選ぶところのない悟性的態度といえるでしょう。
 幾何学は空間という「単純な悟性的諸規定」(同)を対象にしていますから、「有限な認識の綜合的方法を完全な形」(同)でもっているといえますが、それでも先に進むと「悟性的原理を越え」(同)る非ユークリッド幾何学が必要となってきます。
 ましてや「数学以外の諸科学」(二三三ページ)、とりわけ社会科学、人文科学では、概念と「概念の諸規定の必然性」(同)に導かれる理性的方法が求められているにもかかわらず、「相変わらず無作法に悟性の諸規定を用い続け」(同)ているのです。

二三二節 ── 必然性を媒介して認識から意志へ

 「 ⑶ 有限な認識が証明のうちで作り出す必然性は、最初は単に主観的知識のために作り出される外的必然性である。しかし必然性そのもののうちで、有限な認識はその前提および出発点、すなわちその内容が目前に見出されまた与えられているという事態を越えてしまったのである」(二三三~二三四ページ)。
 前節でみたように、定理は必然性を証明するものですが、それは「構成」による媒介を必要とする「外的必然性」の証明でしかありません。しかし外的必然性ではあっても、その「必然性そのもののうちで、有限な認識はその前提および出発点」を越え、概念の必然性に接近してきているのです。
 「必然性そのものは即自的には自己関係的な概念である。主観的理念はかくして即自的に、絶対的に規定されたもの、与えられたものではないもの、したがって主体に内在するものに到達したのであり、これによって意志の理念へ移っていく」(二三四ページ)。
 一四七節補遺で学んだように「概念は必然性の真理であり、そのうちに必然を揚棄されたものとして含んで」(九七ページ)おり、「必然性は即自的には概念」(同)なのです。すなわち必然性は自己を揚棄して概念になるという意味で「即自的には概念」です。認識は定理の証明により必然性を作り出し、それによって自己を揚棄して「絶対的に規定された」主体の「意志」という概念に到達するのです。
 言いかえると、認識は与えられたものに対する単なる反映論的認識から、「主体に内在する」概念としての意志にまで到達したのです。
 こうして認識という主観的理念は、「意志の理念」という客観的理念に移行することになります。

二三二節補遺 ── 受動的主観性から能動的主体へ

 「認識が証明によって到達する必然性は、認識の出発点をなすものとは正反対である。その出発点では、認識は、与えられたそして偶然的な内容を持っていたのであるが、今やその運動の終においては、それは内容が必然的であることを知っている。そしてこの必然性は主観的活動によって媒介されたものである」(二三四ページ)。
 認識の出発点は「与えられたそして偶然的な内容」であったのに対し、その終点は必然的な内容としての概念となっています。
 この必然性としての概念(真にあるべき姿)は、主観的活動によって媒介されつつ、その媒介を揚棄した直接性として「主体に内在するもの」なのです。
 「同じく主観性も最初は全く抽象的で、単なる白紙にすぎなかったが、今やそれは自己が規定するものであることを証明している。ここに認識の理念から意志の理念への移行がある。この移行は、これを立入って考えてみると、普遍が真実には主体性として、すなわち運動し、活動し、諸規定を定立する概念として、理解されなければならないことを意味する」(同)。
 同様に主観性も最初は単に客観を反映するのみの受動的な「単なる白紙」だったのに対し、いまや「意志の理念」をもち、自ら自己を規定する能動的な主体となっているのです。人間主体は、真にあるべき姿をかかげて「運動し、活動し、諸規定を定立する概念」であり、こうして認識から意志へ移行するのです。