『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第四〇講 第三部「概念論」⑧

 

一、「C 理念」 「b 認識」各論(二)

「ロ 意志」

革命の哲学

 ここまで、ヘーゲル哲学の本質は革命の哲学であることを何度も語ってきました。それを最も明確に語っているのは『法の哲学』(藤野渉他訳『世界の名著ヘーゲル』中央公論社)であり、詳しくは拙著『ヘーゲル「法の哲学」を読む』(一粒の麦社)を参照ください。
 それはともかく「論理学」のなかで革命の哲学を正面から語っているのは、この「ロ 意志」の箇所となります。
 カントの実践理性批判の箇所で、「善」というカテゴリーが道徳の「真にあるべき姿」を意味することを学びました。
 本来の善は世界の「絶対的な究極目的」(㊤二〇四ページ)であり、世界の究極的理想となるものです。しかしカントはこの善を単に主観的なもの、「われわれの実践理性の道徳律にすぎない」(同二〇五ページ)としてとらえ、「善が世界のうちに存在し外的な客観性を持つこと」(同二〇〇ページ)を認めなかったところから、ヘーゲルの批判を受けることになりました。
 では「外的な客観性」としての善とは何か。それは真にあるべき国家を意味しています。ヘーゲルは『法の哲学』において「カントは(客観的)倫理の概念へ移行しないところの、たんに(主観的)道徳的な立場を固持する」(前掲書三三八ページ)と批判していますが、この「(客観的)倫理」は国家を意味しているのです。
 ヘーゲルにとって真にあるべき「国家は倫理的理念の現実性」(同四七八ページ)であり、客観的倫理そのものなのです。では客観的倫理としての真にあるべき国家とは何かといえば、「即自かつ対自的に理性的なものである」(同四七九ページ)とされています。
 六節で「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(㊤六九ページ)ことを学びました。ヘーゲルはルソーの人民主権論に学び、真にあるべき国家は絶対的な理性的国家であり、言いかえれば「国家と人民とが相互に浸透しあって一体化し、治者と被治者の同一性の実現された人民主権国家」(『ヘーゲル「法の哲学」を読む』三二八ページ)でなければならないと考えました。
 世界の「絶対的な究極目的」としての善は、こうした国家の善にほかならないのです。
 「自覚的な理性と存在する理性すなわち現実との調和を作り出すことが、哲学の最高の究極目的」(㊤六九ページ)とされてきました。つまり「哲学の最高の究極目的」とは、理想と現実の統一にあるのですが、その理想とは国家における理想であり、この国家における理想と現実の統一を論じているのが、この「ロ 意志」となります。
 理想と現実の統一としての革命の哲学を論じようとすれば、現実の世界を正しく認識し、そこから現実に根ざした理想を導き出す以外にはありません。この意味でヘーゲル哲学は唯物論でしかありえないのであり、「観念論的装いをもった唯物論」となっているのです。概念論の概念ではこういう唯物論的な理想が論じられているのです。
 以上を念頭におきながら、中身に入っていくことにしましょう。

二三三節 ── 善をかかげた意志は世界を変革する

 「即自かつ対自的に規定されたものであり、かつ自己同一で単純な内容である主観的理念は、善である。この主観的理念が自己を実現しようとする衝動は、真の理念とは反対に、見出された世界を自己の目的にしたがって規定することに向っている」(二三五ページ)。
 人間主体のうちにおける主観的理念が絶対的に規定され「自己同一で単純な内容」となったとき、それは「善」、さらに言えば国家の善となります。
 善とは世界の絶対的な究極目的としての真にあるべき姿ですから、この主観的理念は「自己を実現しようとする衝動」を持っています。「真の理念」である「イ 認識」とは反対に、「ロ 意志」における善は、自己の前に「見出された世界を自己の目的にしたがって規定することに向っている」のです。いわば「イ 認識」が客観から主観へと向う理念であるのに対し、「ロ 意志」では主観的理念が客観へ向かうのです。
 この善がエネルゲイアとしてのイデアなのです。善はデュナミスと異なり必然的に現実性に転化すると同時に、キーネーシスと異なりより善く生きる生き方を示すものです。つまり善をかかげ「世界を自己の目的にしたがって規定」しようとする運動は、必ず現実性に転化するのであり、言いかえれば「真理は必ず勝利する」のです。しかもそれだけにとどまらず善をかかげて生きること、とりわけ国家の善をかかげて生きることは、人間にとってもっとも生き甲斐のある価値ある生き方となるのです。
 「こうした意志は、一方では、前提された客観が空無であるという確信を持っているが、他方、それは有限なものであるから、それは主観的にすぎない理念としての善の目的および客観の独立性を前提している」(同)。
 こういう革命的意志は、「前提された」現に存在する国家が「空無なものであるという確信を持って」います。しかしこの意志は、まだ単なる主観的な「有限なもの」にとどまり、一方では「主観的にすぎない理念としての善の目的」、他方で独立した客観との対立を「前提」としながら、その対立を揚棄して前提された客観を「空無なもの」にしようとする確信をもつにとどまっているのです。

二三四節 ── 善の目的の無限進行

 「この活動の有限性は、だから、善の目的が客観的世界のそれ自身矛盾している諸規定のうちで実現されると同時に実現されないという矛盾、善の目的が本質的であると同時に非本質的なもの、現実的であると同時に単に可能的なものとして定立されているという矛盾にある。この矛盾は善の実現の無限進行としてあらわれ、善はそのうちでゾレンとして固定されているにすぎない」(同)。
 「イ 認識」において、概念をとらえない認識は、「有限な真理にすぎず、概念の無限の真理はそれにとってはあくまで潜在的にのみ存在する目標、彼岸にすぎない」(二二五ページ)ことを学びました。
 「善の目的」となるものは、この「概念の無限の真理」をとらえようとするものです。しかし真にあるべき姿という無限の真理は一挙にとらえられるものではなく、有限な認識と実践を無限に積み重ねることによってはじめて絶対的真理に到達しうるのです。
 その意味において「善の目的」は「実現されると同時に実現されないという矛盾」のうちにあり、「善の実現の無限進行」をつうじて究極的に実現されることになるのです。この「概念の無限の真理」を追求する過程のなかで、善は常にその段階の客観を止揚すべき「ゾレンとして固定されて」います。
 「しかし形式の点から言えば、この矛盾の消滅は、活動が目的の主観性を揚棄すること、そしてそれとともに客観性をも揚棄して、二つのものを有限化している対立を揚棄することにある」(二三五ページ)。
 この「善の実現の無限進行」を形式の面からみると「この矛盾の消滅」であり、言いかえると「目的の主観性」と「客観性」という、いずれも一面的で有限なものの対立を揚棄して主観と客観の統一を実現する活動なのです。
 「しかも単にこの主観性の一面性のみならず、主観性一般が揚棄されなければならない。なぜなら、他の同じような主観性がまた生ずるとすれば、すなわち、対立がまた新しく生み出されるとすれば、それはすでに揚棄されたはずの以前の主観性となんら異るところがないからである」(同)。
 では絶対的真理とは何かといえば、この矛盾の完全な消滅であり、概念と存在とが完全に一致し、もはや再び新しい善の目的が生じることのない主観と客観の一致を意味しています。この絶対的真理は人類の無限の生命を通じてのみ達成しうるのです。
 この矛盾の消滅した絶対的真理とは、単に主観と客観の「対立を揚棄する」というのみならず「主観性一般」を揚棄し、「他の同じような主観性」、つまり新しい善の目的がもはや生じえないような主観と客観の一致を意味しています。
 「以上述べたような自己内復帰は同時に、善であり二つの側面の即自的な同一性である内容の自己内化である。そしてそれはまた、客観はそれ自身に即して実体的なものであり真実在であるという、理論的態度の前提(二二四節)の想起である」(二三五~二三六ページ)。
 ここにいう「自己内復帰」とは、善の実現の無限進行のうちで善が「ゾレンとして固定されていること」を意味しており、「内容の自己内化」とは善の内容が自己のうちで発展していくことを意味しています。
 二二四節で、理性は「潜在的に空無である」(二二三ページ)主観的理念と客観との対立を「実際に空無なものとして定立しようとする衝動をもって、世界にあらわれてくる」(同)ことを学びましたが、この「衝動」の実現が善の目的が絶対的に実現されることによる「矛盾の消滅」であり、主観的理念と客観という「二つの側面の即自的な同一性」の実現です。すなわち、この矛盾の消滅によって「客観はそれ自身に即して実体的なものであり真実在」となるのであり、言いかえると客観は絶対的な「真にあるべき姿」という「真実在」として完成することになります。
 これは二二四節で学んだように、「理論的態度の前提」が主観と客観の一致にあることを「想起」させるものとなっています。

二三四節補遺 ── 意志は世界をあるべき姿に変革する

 「知性は単に世界をあるがままに受け取ろうとするにすぎないが、意志はこれに反して世界をそのあるべき姿に変えようとする。直接的なもの、目前にあるものは、意志にとっては不変の存在ではなく、即自的に空無なもの、仮象にすぎない」(二三六ページ)。
 知性、つまり有限な認識は「単に世界をあるがままに受け取ろうとする」受動的なものにすぎないのに対し、「意志はこれに反して世界をそのあるべき姿に変えようとする」能動的、創造的なものです。
 この変革の立場にたつ意志は、「目前にある」直接的な客観世界を「即自的に空無なもの、仮象にすぎない」変革の対象としてとらえるのです。
 「ここには道徳の立場に立つ人々が空しくその解決を求める矛盾があらわれる。これが実践にかんするカント哲学の立場であり、フィヒテの哲学の立場でさえなおそうである」(同)。
 六〇節で学んだようにカントの実践理性は「世界の状態および出来事とわれわれの道徳との一致」(㊤二〇五ページ)を求めましたが、現にある世界と真にあるべき道徳との矛盾は永遠に解決されないと考えました。
 これに対しヘーゲルはこうした「意志の有限性」(二三六ページ)に立ちどまることは許されないのであって、「善の実現の無限進行」(二三五ページ)という「意志の過程そのもの」が、現にある世界と真にあるべき世界との「矛盾を揚棄する」(二三六ページ)ととらえたのです。つまり人類の無限の歴史をつうじて「善の実現の無限進行」を積み重ねることにより世界は真にあるべき世界という絶対的真理に到達すると考えたのです。
 「矛盾の解決は、意志がその結果のうちで認識作用の前提へ帰り、かくして理論的理念と実践的理念とが統一されることにある」(同)。
 「認識作用の前提」とは主客の一致を意味しています。善のもつ矛盾の解決により真にあるべき姿という主観に一致する客観が実現され、「理論的理念と実践的理念とが統一」されることになるのです。
 「意志は、目的が自分自身のものであることを知り、知性は世界が現実的な概念であることを知る。これが理性的認識の真の態度である。空無なもの、消滅するものは、世界の表面にすぎず、真の本質ではない。この本質こそ即自かつ対自的に存在する概念であり、かくして世界はそれ自身理念である」(二三六~二三七ページ)。
 二一二節補遺で「客観は即自的に概念」(二〇七ページ)であり、「絶対の善は世界において永遠に自己を実現しつつある」(同)ことを学びました。
 これを受けて「知性は世界が現実的な概念であること」、つまり世界は自己内の矛盾により真にあるべき姿に向かって自己発展するものであることを知ると同時に、意志は「世界の表面」にある「空無なもの」を消滅させ、世界の内にある概念を実現させようとする目的をもって世界に働きかけるのです。
 こうした知性と意志の働きにより「世界はそれ自身理念」となります。
 「世界の究極目的が不断に実現されつつあるとともに、また実現されているのだということを認識するとき、満足を知らぬ努力というものはなくなってしまう。一般的に言ってこれが大人の立場である。若い者は、世界は全く害悪にみちていて、根こそぎ改革されねばならぬと思っている。宗教的意識はこれに反して、世界は神の摂理に支配されており、したがってそのあるべき姿に一致していると考える」(二三七ページ)。
 世界は「現実的な概念」としてその「究極目的」としての善を不断に自己実現しつつあり(合法則的に発展しつつあり)、人間の意志はその自己実現を促進しているものだと認識するとき、「満足を知らぬ努力というものはなくなってしまう」のです。いわば善をかかげた社会変革の努力は一見無駄なようにみえても長い目でみると必ず実現され満足することが出来るのであり、これが「大人の立場」なのです。
 また善をかかげて「世界をそのあるべき姿に変革しようとする」意志の活動は、キーネーシスではなくエネルゲイアであり、それ自体人間としてより善く生きる価値ある生き方であるという点からしても満足すべきものなのです。
 これに対して若い者は、世界は「全く害悪にみちていて、根こそぎ改革」されないかぎり変革の努力は無駄なものであると考え、逆に宗教的意識は「世界は神の摂理に支配」されていて「あるべき姿に一致」しており、変革の必要性は存在しないと考えているのです。
 「大人の立場」はその両極を否定し、善をかかげた変革の努力は理想を「不断に実現」しているものであると同時に、生き方の問題としても最も価値ある生き方であるとして満足するのであり、これこそが現実的な革命的立場なのです。
 「しかしこうしたあるとあるべしとの一致は、硬化した、過程のないものではない。なぜなら、世界の究極目的である善は、常に自己を産出することによってのみ存在するからであり、精神の世界と自然の世界とのあいだには、後者は不断に循環しているにすぎないが、前者はそれのみならずまた発展するという相違があるからである」(同)。
 自然は「不断に循環しているにすぎない」というのは、当時の自然観を反映したものです。それはともかく精神は不断に発展するものであり、精神がとらえる「真にあるべき姿」としての善も、けっして「硬化した、過程のないものではない」のであって、それ自身発展し「常に自己を産出する」ものなのです。
 善が無限に発展することにより、現にある世界もそれにつれて発展し、世界の究極目的は不断に実現されていくことになるのです。

二三五節 ── 意志から絶対的理念へ

 「善が即自かつ対自的に達成されているということ、したがって客観的世界は即自かつ対自的に理念であると同時に、たえず自己を目的として定立し、活動によって自己の現実を生み出すということ、このことによって善の真理は理論的理念と実践的理念との統一として定立されている」(同)。
 善は無限に発展することにより、善は善の真理に達します。それは二二五節で学んだ「理論的理念」と「実践的理念」との統一として定立されており、認識と実践の無限の反覆をつうじて不断に新しい「現実を生み出」し、客観的世界を「即自かつ対自的」理念に変革していく活動なのです。
 「このように、認識の差別と有限性とから自己へ復帰し、そして概念の活動によって概念と同一となった生命が、思弁的あるいは絶対的理念である」(同)。
 このような「善の真理」が絶対的理念であり、それは「a 生命」と「b 認識」の統一です。
 「C 理念」全体の構成との関連からみてみますと、「a 生命」は概念と存在とが未分離一体となっている即自的な理念であり、「b 認識」は人間主体を前提とする主観的理念と客観的理念の分離・対立した対自的理念です。これに対して絶対的理念は、即自的理念の「生命」と対自的理念の「認識」の統一としての即かつ対自的理念なのです。
 そのことをヘーゲルは「認識の差別と有限性とから自己へ復帰」とか、「概念の活動によって概念と同一となった生命」とよんでいるのです。

 

二、「C 理念」 「c 絶対的理念」

絶対的理念の主題と構成

 絶対的理念とは、理念のなかの理念、真理のなかの真理です。二三五節でみたように「a 生命」が即自的な理念、「b 認識」が対自的理念であったのに対して、絶対的理念は即かつ対自的な理念です。論理学は「即自かつ対自的な理念の学」(㊤九〇ページ)であり、この絶対的理念で論理学は完成することになります。
 『エンチクロペディー』は「理念そのものあるいは絶対者」(㊤八四ページ)の学として、「必然的に体系」(同)となっています。というのも理念そのものは「真なるもの」(同)であり、「それは、自己のうちで自己を展開しながらも、自己を統一へと集中し自己を統一のうちに保持するもの、一口に言えば統体としてのみ存在する」(同)からです。
 つまり理念そのものは、即自、対自、即かつ対自という「真理のモメント」(同二四〇ページ)をもつことによって真理なのであり、『エンチクロペディー』における論理学、自然哲学、精神哲学もこのモメントの展開として論じられていると同時に、論理学もまた、即自的概念としての有論、対自的概念としての本質論、即かつ対自的概念としての概念論という「論理的理念の三つの主要段階」(同二五七ページ)をもつ体系として「即自かつ対自的な理念の学」となるのです。
 また哲学は、経験諸科学のような前提をもちませんから、端初から出発し、端初に帰る円をなしています。したがって「哲学の唯一の目的」(同八九ページ)は、「哲学が自己の概念の概念に到達し、かくして自己へ帰り満足を見出す」(同)ことにあります。
 予備概念の最後(八三節)に述べられた論理学の三つの部門(有論、本質論、概念論)の位置づけは、いわば結論を先取りするものであり、「真に学問的な考察を後に予想するもの」(同二五七ページ)でした。いまや絶対的理念の立場から端初に帰り、あらためてこの三つの部門が「理念の諸モメント」(二三九ページ)としてとらえかえされることになります。
 こうして絶対的理念においては、絶対的真理をとらえる「理念の諸モメント」が即自、対自、即自かつ対自という弁証法の形式にあり、論理学の三つの部門もそれに沿った展開であることが解明され、哲学の円が完成されることになるのです。

二三六節 ── 絶対的理念は真理そのものを対象とする

 「主観的理念と客観的理念との統一としての理念は、理念の概念であって、それにとっては理念そのものが対象であり、客観は理念である。すなわち、それはあらゆる規定を包括している客観である。したがってこの統一は、絶対的な且あらゆる真理、自分自身を思惟する理念であって、しかも論理学のうちでは思惟的な、すなわち論理的理念としてそうである」(二三八ページ)。
 絶対的理念は、「理念の概念」、理念の真にあるべき姿であり、「理念そのもの」を対象としています。理念とは「即自かつ対自的な真理」(二〇八ページ)ですから、絶対的理念は、真理のなかの真理、「絶対的な且あらゆる真理」であり、そもそも真理とは何かを考察する「自分自身を思惟する理念」なのです。言いかえると、絶対的理念は「あらゆる規定を包括している客観」のうちに潜んでいる真理の論理的形式を「論理的理念」として取り出そうとするのです。
 これまで、有論、本質論、概念論をつうじて「客観的思想」、つまり客観のうちの真なるものを思想のうちにとらえてきました。そこではさまざまのカテゴリーを論じてきましたが、絶対的理念ではそのすべてのカテゴリーを包括する「客観的思想」の絶対的形式をとらえようとするのであり、それを一口で表現すると弁証法という思惟形式なのです。

二三六節補遺 ── 絶対的理念は理念の最高の形態

 「絶対的理念は、まず理論的理念と実践的理念との統一であり、したがって同時に生命の理念と認識の理念との統一である。認識においては、理念は差別の形態のうちにあった。そして認識の過程はこの差別の克服であり、その直接態においてはまず生命の理念として存在する統一の回復であった」(二三八ページ)。
 絶対的理念は、「理論的理念と実践的理念」との差別を「認識の過程」をつうじて克服した「統一の回復」であり、それは「生命の理念と認識の理念との統一」、つまり即自的理念と対自的理念の統一でもあるのです。即自的理念としての生命の「直接態」も、対自的理念としての認識の対自態もいずれも一面的であり、理念の真理は両者の統一としての絶対的理念という「即自対自的に存在する理念」(同)にあるのです。
 こうしていまや「理念の最高の形態」(同)として、アリストテレスのいう「思惟の思惟(ヌースのヌース)」(二三八~二三九ページ)、つまり「理念中の理念」に到達したのです。

二三七節 ── 絶対的理念は論理学の内容を総括した絶対的形式

 「絶対的理念のうちでは移行もなければ前提もなく、一般にあらゆる規定性が流動的で透明であるから、絶対的理念は対自的に、その内容を自己そのものとして直観するところの概念の純粋な形式である」(二三九ページ)。
 絶対的理念は、主観と客観とが一体となった究極的な絶対的真理です。そこでは「一般にあらゆる規定性」、つまり諸カテゴリーはその絶対的真理のうちに溶かしこまれて「流動的で透明」なものになっており、概念(真の姿、または真にあるべき姿)の「純粋な形式」のみが残されているのです。
 「この純粋な形式はそれ自身内容である。というのは、それは自分自身を自己から観念的に区別するものであり、区別されたものの一方は自己同一的なものではあるが、しかもこの自己同一のうちには、形式の統体性が内容諸規定の体系として含まれているからである」(同)。
 この「純粋な形式」は弁証法であり、弁証法はそれ自身論理学の内容となっています。絶対的理念は、自分自身のうちから弁証法という真理の形式を「観念的に区別する」のですが、この「自己同一的なもの」としての弁証法のうちには、論理学の「内容諸規定」、つまり諸カテゴリーが論理学の「体系として含まれている」のです。
 「この内容が論理の体系である。ここで形式として理念に残るものは、ただこの内容の方法、すなわち理念の諸モメントの価値にかんする明確な知識にすぎない」(同)。
 論理学の内容は、有論、本質論、概念論の諸カテゴリーとして構成されてきましたが、有論、本質論、概念論を「思想にかんする理論」(㊤二五六ページ)としてみると「即自的概念にかんする理論」「概念の対自有と仮象にかんする理論」「即自かつ対自的概念にかんする理論」(同二五六~二五七ページ)となるのであり、言いかえると概念の即自 ── 対自 ── 即かつ対自態という「論理の体系」でした。
 いまや「形式として理念に残る」のは、「理念の諸モメント」、つまり悟性的側面(即自)、否定的理性の側面(対自)、肯定的理性の側面(即かつ対自)という「あらゆる概念あるいは真理のモメント」(同二四〇ページ)の「価値にかんする明確な知識」なのです。
 「この内容の方法」が弁証法という真理認識の「方法」であることはいうまでもありません。

二三七節補遺 ── 絶対的理念の形式は弁証法

 本節でみたように絶対的理念とは絶対的真理であり、その「真の内容」(二三九ページ)は、「これまでその発展を考察してきた体系全体」(同)を貫く、即自 ── 対自 ── 即かつ対自の弁証法の形式にほかなりません。
 「したがってわれわれは、絶対的理念は普遍であると言うこともできる。しかし普遍と言っても、それは単に抽象的な形式としての普遍、すなわち特殊な内容が他者としてそれに対立している普遍ではなく、絶対的形式としての普遍であって、この絶対的形式によって定立された豊かな内容の全体がそれに帰入しているのである」(二三九~二四〇ページ)。
 したがって絶対的理念は、論理学の体系全体を貫く普遍ということができます。しかし普遍といっても特殊に対立する普遍という「抽象的な形式」としての普遍ではなく、弁証法という真理の「絶対的形式としての普遍」なのです。この弁証法という「絶対的形式」には、論理学の対象として「定立された豊かな内容の全体」が絶対的理念(絶対的真理)として還元されているのです。
 言いかえると、論理学全体を貫く「豊かな内容の全体」は、絶対的真理の形式である即自 ── 対自 ── 即かつ対自、つまり対立物の統一という弁証法の形式に還元されることになるのです。
 それはちょうど老人が口にする言葉は「非常にかぎられたもののようにみえ」(二四〇ページ)ても、「その到達点には全生涯が総括されている」(同)のと同様なのです。
 「絶対的理念の内容」(同)としての弁証法には、ここまで「われわれが考察してきた全領域」(同)が総括されているのであって、「それだけ取ればかぎられたものと思われるすべてのもの」(同)も、弁証法という「理念のモメントであることによってその価値を得る」(同)のです。
 「これまで考察してきた諸段階は、それぞれ絶対者の一つの姿であるが、しかしかぎられた仕方においてそうであるにすぎない。そこでそれは全体へまで自分を駆り立てるのである。そしてこの全体の展開こそわたしが(弁証法的または思弁的 ── 高村)方法と呼んだものにほかならない」(二四〇~二四一ページ)のです。
 これまで「絶対者は有である、本質である、概念である、理念である」などと定義してきましたが、こういう絶対者の定義は「かぎられた仕方」で正しいものにすぎません。したがっていまや絶対者の定義も「全体へまで自分を駆り立てる」ことになり、絶対者の究極的な定義は「絶対者は弁証法である」あるいは「絶対的真理はあらゆる事物のうちにある弁証法的方法にある」と規定されるのです。
 こうして次節以下において、論理学の全体(有論、本質論、概念論)が弁証法的方法の諸モメントとしてとらえ返されることになります。

二三八節 ── 思弁的方法(弁証法)の第一のモメントは端初または有

 「思弁的な方法の諸モメントはまず、a、有あるいは直接的なものである端初である。これは端初であるという単純な理由によって自立的である。しかし思弁的理念からみれば、概念の絶対的否定性あるいは運動として自己分割し、そして自己を自分自身の否定的なものとして定立するものは、思弁的理念の自己規定である」(二四一ページ)。
 思弁的方法、つまり弁証法的方法の諸モメントは、まず「有あるいは直接的なもの」としての端初から始まります。
 有論は端初として「自立的」なものですが、いま「思弁的理念」、つまり理念そのものの立場から有論をふり返ってみると、それは思弁的理念の「自己規定」による「自己を自分自身の否定的なものとして定立」した直接的なものにほかならないのです。言いかえると、統体性としての概念がその統体性を否定する「自己分割」によって、即自的概念として直接的な有を定立したのであり、その意味で有論は「即自的概念にかんする理論」(㊤二五六ページ)としてとらえられることになります。
 「したがって、端初そのものにとっては抽象的な肯定とみえる有は、むしろ否定であり、措定されたものであり、媒介されたものであり、前提されたものである」(二四一ページ)。
 したがって端初として直接的、肯定的にみえる有は、「概念の絶対的否定性」、あるいは概念の「運動」であり、概念によって措定され媒介された直接性なのです。
 「しかし有は概念の否定であって、概念は、その他者のうちにありながらも、あくまで自己同一で自分自身を失わないものであるから、有はまだ概念として定立されていない概念、すなわち即自的な概念である。 ── だからこの有は、まだ規定されぬ、言いかえれば即自的あるいは直接的にのみ規定された概念として、普遍的なものでもある」(同)。
 概念は真にあるべき姿という具体的普遍として普遍、特殊、個という「他者のうちにありながらも、あくまで自己同一で自分自身を失わないもの」です。したがって概念が自己を否定し「自己分割」しても概念であることを失わないのであり、その意味で「有はまだ概念として定立されていない概念、すなわち即自的な概念」なのです。
 しかし、即自的ではあっても概念にかわりはないのですから、有は「普遍的なもの」でもあります。
 「端初は直接的な存在という意味では、直観および知覚から取られ、有限な認識の分析的方法の端初であるが、普遍という意味では、綜合的方法の端初である。しかし論理的なものは、直接的に普遍的であると同時に有であり、概念によって先行的に措定されたものであると同時に、直接的に有るものでもあるから、その端初は綜合的であるとともに分析的な端初である」(同)。
 端初としての有論は、「直観および知覚から取られ」た感性的認識として「直接的な存在」です。したがって有論は「単なる仮象」(一〇ページ)であり、それを分析して有の反省としての本質さらには概念をとらえるべき「分析的方法の端初」ということができます。しかし反面からすると、有論は即自的な概念として自らを展開すべき「普遍という意味では、総合的方法の端初」ということができます。
 しかし「論理的な」カテゴリーは七九節でみたように「形式上三つの側面」( 二四〇ページ)をもつ「あらゆる概念あるいは真理のモメント」ですから、三つの側面のいずれの側面においても分析的であるとともに概念のモメントとして展開されるべきものという意味では総合的であって、これは単に有論だけの問題ではないのです。

二三八節補遺 ── 哲学的方法は分析的であると同時に綜合的

 「哲学的方法は、分析的でもあればまた綜合的でもある。しかしそれは、有限な認識のこの二つの方法を単に並置するとか、交互に用いるとかいうような意味でそうなのではなく、両者を揚棄されたものとしてその内に含むのであり、したがって哲学的方法は、その運動のあらゆる点において、分析的であると同時に綜合的である」(二四二ページ)。
 ヘーゲルは二三一節で分析的方法も綜合的方法も「前提を持っており、ここで認識がとる態度は、悟性の態度、形式的同一性にそうて進む態度」(二三一ページ)だから、「哲学的認識に使用できない」(同)といっています。
 つまり「有限な認識」によると、分析的方法では個を前提として個から普遍へ、綜合的方法では普遍(定義)を前提として普遍から個へ進む認識となっています。そこでは個と普遍、あるいは普遍と個の「形式的同一性にそうて進む態度」がとられており、分析的方法と綜合的方法とはいずれも必然性をとらええない全く別個の「単に並置」される二つの認識方法にすぎないのであって、そのかぎりで「哲学的認識に使用できない」のです。
 これに対して哲学的方法においては前提を絶対化することなく、前提とされる直接的なものをそのまま受け入れつつその概念をとらえるという意味では分析的であると同時に、概念から出発し概念の展開として直接的なものをとらえるという意味で総合的なのです。その意味で哲学的方法としての「三つの側面」はいずれにおいても分析的方法と総合的方法を「揚棄されたものとしてその内に含む」のです。
 「哲学的思惟がその対象である理念を単に受け入れ、自由にその道を歩ませ、そしてその運動および発展を言わば単に眺めているというかぎりでは、それは分析的である。このかぎりにおいて哲学的思惟は全く受動的である。しかし哲学的思惟はまた綜合的でもあって、それは概念そのものの活動である。もっともそのためには、絶えず頭をもたげようとするわれわれ自身の思いつきや特殊な意見を遠ざける努力が必要である」(二四二ページ)。
 「理念そのもの」を対象とする「哲学的思惟」は、対象を自由に歩ませ、その運動を「単に眺めている」ことをつうじて概念、理念を把握するというかぎりでは「分析的」であり、「全く受動的」といえますが、同時に対象を「概念そのものの活動」に媒介されたものとしてとらえるという意味では「綜合的」であり、能動的といえます。もっとも対象を概念そのものの活動としてとらえるためには、まず対象の真にあるべき姿を正確にとらえることが必要であり、「われわれ自身の思いつきや特殊な意見を遠ざける努力が必要」となります。
 哲学的思惟からすると端初は「思弁的理念の自己規定」(二四一ページ)としては分析的であると同時に、弁証法の運動としては綜合的なのです。

二三九節 ── 弁証法の第二のモメントは進展または反省関係

 理念の第二のモメントは、「b、進展であって、これは理念の自己分割の定立されたもの」(二四二ページ)です。つまり直接的なものとしての端初を二つに「自己分割」するのです。
 「直接的な普遍は、即自的概念として、自分自身に即して自己の直接性と普遍性とを一モメントにひきさげる弁証法である。この弁証法によって、端初の否定あるいは規定された最初のものが定立される。それは相関的であり、区別されたものの関係であり、反省のモメントである」(同)。
 第二のモメントとしての「進展」とは、端初を否定し、その「直接性と普遍性」とを反省の一モメントに引き下げることによって、端初とその否定との間に「区別されたものの関係」、つまり反省関係を定立することを意味しています。
 いわば進展とは即自的概念から対自的概念への進展であり、有論から本質論への移行です。有の否定は肯定に対する単なる否定ではなく、有の否定によって肯定と否定との対立を定立し、「区別されたものの関係」、反省関係を定立するのです。
 この反省関係を主題とするのが本質論であり、したがって本質論は「概念の対自有」(㊤二五六ページ)としてとらえられることになります。つまり本質論とは、直接的なものとしての有論のうちに区別を定立することにより、感性的認識から悟性的認識へと前進していくのです。
 この直接性から媒介性への進展もまた、分析的であると同時に総合的でもあります。というのもそれは端初という「直接的な概念のうちに含まれている」(二四二ページ)否定的なものが顕在化し、肯定と否定とが「相関的」となったという意味では分析的ですが、直接的な概念が、自らを特殊化して区別を定立したという意味では総合的だからです。

二三九節補遺 ── 理念の進展のうちで端初は媒介されたものとなる

 「理念の進展のうちで、端初が即自的に持っていた規定、すなわち、端初は定立され媒介されたものであって、有的で直接的なものではないことが明かになってくる」(二四三ページ)。
 有論では、有は「単純な直接態」(㊤二六二ページ)としてとらえられましたが、ここまでくると、端初としての有も、理念(実現された概念)に「定立され媒介されたものであって、有的で直接的なものではないことが明らかになってくる」のです。それはちょうど一見すると「自然が端初的で直接的なものであって、精神が自然によって媒介されたもの」(二四三ページ)であるかのようにみえても、「実際はしかし自然こそ精神によって措定されたもの」(同)であるのと同様なのです。
 「哲学の目標は、この理念をその真の姿と普遍性において把握すること」(㊤一八ページ)にあり、端初としての有論も、相関的な本質論も、すべて理念によって措定されたものとしてとらえねばならないのです。

二四〇節 ── 進展は理念の自己分割

 第二のモメントとしての進展は、二三九節でみたように「理念の自己分割の定立されたもの」(二四二ページ)です。
 それを論理学の三つの部門について考えてみると、有論では或るものと他のものへの分割とその相互の移行であり、本質論では本質と現象、可能性と現実性など対立するものへの分割とその反省関係であり、概念論では、「個と普遍」(二四三ページ)への分割とその統一という「自己分割」となります。もっとも概念論における個と普遍とは、いずれも具体的普遍のモメントとして区別されていると同時に同一の関係にあります。
 このような理念の進展(自己分割)は、有論、本質論、概念論のすべてにおいてみることができますが、そのなかにあっても本質論は「反省の立場」(一〇ページ)にたつものとして、この理念の進展を代表するものとなっているのです。

二四一節 ── 端初から進展への移行は前進であると同時に後退

 「第二の領域においては、最初即自的に存在していた概念が反照にまで到達しており、したがってそれはすでに即自的に理念である。 ── この領域の発展は、最初の領域の発展が第二の領域への移行であるように、最初の領域への後退である」(二四三ページ)。
 有論における「即自的な概念」が「反照にまで到達」することは、理念の前進であると同時に後退ということができます。
 というのも、反省関係にあるということは、矛盾を解決して統一に到達しようとしているという意味では「すでに即自的に理念」に達する前進とみることができますが、他方ではもともと端初が概念の統体性であったことからすれば「最初の領域への後退」ということができます。
 「ただこうした二重の運動によってのみ、区別はその本当の姿をうるのである。というのは、区別された二つのものの各々は、それ自身に即して考察されながら自己を完成して統体となり、そしてこの統体のうちで自己を他者との統一とするからである。ただ二つのものの一面性が自分自身に即して自己を揚棄することによってのみ、統一は一面的でないのである」(二四三~二四四ページ)。
 対立物の統一は、前進と後退という「二重の運動によってのみ」とらえることができます。対立する二つのものはその一面性を揚棄して統一となるのですが、それは各々が「自己を完成して統体」となるという意味では各々にとって前進であると同時に、「自己を他者との統一とする」という意味では自己の自立性を否定する後退ということができるのです。
 この「二重の運動」によって対立する二つのものは、それぞれのもつ一面性を「自分自身に即して」揚棄し、「一面的でない」統体へと発展していくのです。

二四二節 ── 弁証法の第三のモメントは終結または対立物の統一

 第二の領域における区別された二つのものの関係は矛盾にまで発展し、矛盾の解決によって終結します。
 理念の第三のモメントは、この矛盾の解決であり、「この矛盾は、c、異ったものが概念のうちにあるものとして定立される終結のうちへ解消される」(二四四ページ)のです。
 こうして有論、本質論、概念論は、端初、進展による対立と矛盾、矛盾の解決による発展としてとらえられることになり、言いかえると、感性的認識から悟性的認識を経て理性的認識へと進展するのです。
 第二の領域における「最初のもの」(同)と「最初のものの否定」との対立は、概念の統体性に揚棄され、「概念のうちにある」二つの「異った」モメントとして定立されることにより、矛盾は「終結のうちへ解消される」のです。
 「したがって終りは、はじめの二つのものがそのうちで観念的なものおよびモメントとして、揚棄されたものとして、すなわち同時に保存されているものとして、存在しているところの統一」(同)です。
 対立物の相互排斥としての矛盾は、矛盾を揚棄した対立物の統一として矛盾を解消し、その揚棄してえられた統一のなかで、「はじめの二つのもの」は「観念的な」二つのモメントとして「保存されている」のです。これが矛盾の解決または矛盾の揚棄による発展であり、この対立物の統一を主題とするのが概念論です。
 一六一節補遺で「概念の運動は、……発展である。発展は、すでに潜在していたものを顕在させるにすぎない」(一二四ページ)と述べている箇所を批判し、それは矛盾を揚棄する発展の一側面にすぎないことを指摘しました。本節において、矛盾の解決または揚棄による発展という発展の本来の姿が弁証法の「絶対的形式」(二三九ページ)としてとらえられているのです。
 「このようにその即自有から出発して、区別と揚棄とを介して自己を自分自身と連結する概念が、実現された概念」(二四四ページ)であり、「すなわち理念」(同)なのです。
このように概念は、「その諸規定の被措定有をその向自有のうちに含んでいる」(同)のであり、自分自身のうちに区別を含み、その区別を揚棄する自分自身の弁証法によって自己を発展させ、自己を実現して理念となるのです。
 「理念は絶対に最初のもの(方法において)であるから、理念にとってはこの終結は同時に、端初が直接的なものであって理念は成果であるという仮象の消滅にほかならない。そしてそれは理念が一つの統体であるという認識である」(同)。
 こうして有論から出発しながら、絶対的理念において、端初としての有は理念に媒介されたものとなり、前提を持たない哲学は「それ自身のうちで完結した円」(㊤八五ページ)となったのです。

二四三節 ── 論理学は純粋な理念の学

 こうして、論理学全体を貫く対立物の統一をとらえた弁証法という真理認識の方法は、単に「外的な形式ではなく」(二四五ページ)、『エンチクロペディー』の「内容の魂であり概念である」(同)ことが明らかにされます。
 「方法が内容と区別される点は、ただ概念の諸モメントがそれら自身に即してもその規定性において概念の統体性としてあらわれるようになるという点にすぎない。この規定性あるいは内容は、形式とともに理念に復帰し、これによって理念は体系的な全体としてあらわれる」(同)。
 論理学の弁証法は『エンチクロペディー』の内容に「生命を与える魂」(㊤一二一ページ)です。つまり論理学は自然哲学および精神哲学を「純粋な思惟の諸形式の特殊な表現様式」(同)としてあらわすのです。言いかえれば、自然哲学、精神哲学は自然や精神を論理学と同様に「概念の統体性」および「概念の諸モメント」として示すのです。
 これによって「哲学の全体がはじめて理念を表現する」(㊤八九ページ)ことになり、「哲学の区分もまた理念からのみはじめて理解されうる」(同)ことになります。
 「そしてこの全体は一つの理念であり、その特殊の諸モメントは即自的に同一であるとともに、また概念の弁証法によって理念の単純な向自有をも生み出すのである」(二四五ページ)。
 『エンチクロペディー』の全体は一つの理念であり、「即自かつ対自的な理念の学」( 九〇ページ)としての論理学は、「概念の弁証法」によって「理念の単純な向自有」である「自然哲学」を生み出すのです。
 こうして論理学は、哲学とは絶対的真理である理念を対象とする「純粋な理念としての学」(二四五ページ)であるという哲学「自身の概念を把握することをもって完結する」(同)のです。
 ここにいたって、哲学は「自己の概念の概念に到達し、かくして自己へ帰り満足を見出す」( 八九ページ)という「哲学の唯一の目的」(同)を達成することになります。

二四四節 ── 論理学から自然哲学へ

 「向自的にある理念は、このような自己との統一からみるとき、直観であり、そして直観する理念が自然である」(二四五ページ)。
 ヘーゲルは自然を「本来の姿を失った姿における理念」(㊤九〇ページ)としてとらえています。つまり「即自かつ対自的な理念の学」(同)である論理学が、その本来の姿を失って「向自的にある理念」、直接的に存在する理念となったものが自然であり、こうして論理学は自然哲学に移行することになります。
 いわば、「絶対的自由」(二四五ページ)となった絶対的理念は「自己の反映である直接的理念を、自然として自己のうちから自由に解放しようと決心する」(二四五~二四六ページ)のです。

二四四節補遺 ── 絶対的理念から端初への復帰

 絶対的理念において真理認識の絶対的な形式であることが明らかにされ、弁証法の端初、進展、終結をつうじて、理念は「われわれの出発点をなしていた理念の概念」(二四六ページ)という「端初への復帰」(同)を実現しました。
 しかし「端初への復帰は同時に一つの進展」(同)であり、われわれは有から出発し、今や「有としての理念」(同)、「存在する理念」(同)をもっています。これが「自然」なのです。