『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 
第二版へのあとがき

 ヘーゲル哲学は面白い、面白いから学び続けることになり、学ぶほどにさらに面白くなります。その根底にはヘーゲル哲学が人類の知識の総和として誕生した真理認識の哲学だということがあります。
 数十年のかぎられた人生のなかで、古今東西の哲学書をすべて読みこなすだけでも常人のなせる業ではないのに、そのすべてを自己の掌中におさめて生涯に哲学史を十回も講義し、それらを揚棄したうえで自己の哲学を完成させた哲学者は、ヘーゲルをおいて他に例をみません。
 それだけでもヘーゲルを学ぶべき十分な理由がありますが、それに加えてヘーゲル哲学は科学的社会主義の哲学である弁証法的唯物論の源泉となるものですから、社会変革を志す者にとっては不可欠の古典となっています。激動の二十一世紀を主体的に生き抜くうえで、ヘーゲル哲学は最良の導きの書となる革命の哲学です。

 ところがこれまでヘーゲル哲学は客観的観念論を代表するものとみなされてきたために、唯物論の陣営から読まずして敬遠されてきたり、ひたすら批判のための批判を受けたりするところとなりました。しかし、マルクス自身ヘーゲルの弟子であることを公然と認め、エンゲルスの『反デューリング論』『自然の弁証法』もヘーゲル弁証法に学び、それを駆使しているのであって、ヘーゲルを学ばずして弁証法的唯物論を語ることはでません。

 一九九九年に初版を出した意図も、これまで『小論理学』全体を通した解説書が存在しなかったところから、とにかくあれこれの予断を抜きに労働者・国民にヘーゲルを学んでもらおうと、逐条的にできるだけ分かりやすく解説しようとしたところにありました。全体を読んでもらえれば、レーニンが論理学全体のまとめとして「観念論がもっとも少なく、唯物論がもっとも多い」(『哲学ノート』)と指摘しているようにヘーゲルが観念論者ではないことを理解しうるし、ヘーゲル弁証法は逆立ちさせないでも、そのままで現実と切り結ぶもっとも鋭い武器となることを実感してもらえると考えたためでした。
 今回は、多少分かりやすさは犠牲になったかもしれませんが、逐条的解説をより徹底させ、ほとんど全文に近い解読を試みました。ヘーゲルそのものを自分の力で読み解きたいとの読者諸子の御要望に応えるために著者の見解は最低限にとどめ、ヘーゲルの真意を伝えることに全力を傾注したということができます。

 ヘーゲル哲学とは弁証法的論理学です。一般に、弁証法的論理学は形式論理学に対立するものとして理解されていますが、そうではありません。弁証法は形式論理学を前提とし、それを揚棄する真理認識の唯一の形式です。なぜそう言えるのかをヘーゲルは丁寧に説明しています。
 ヘーゲルほど形式論理学をつきつめて論じた哲学者はいません。本質論における現存在、現象、現実性、必然性のカテゴリーにその典型をみることができます。そのうえで形式論理学の有限性を批判し、その有限性を止揚した弁証法の真理性を主張するのです。
 『小論理学』は、有限な真理を止揚し、無限の真理へと発展する諸カテゴリーの「萌芽からの発展」という美しい形式をともない、そのすべてが対立物の統一という弁証法の形式によって貫かれています。マルクスもヘーゲル論理学を「弁証法の一般的な運動諸形態をはじめて包括的で意識的な仕方で叙述した」と述べています。こういう「包括的」な諸カテゴリーを学ぶことによって、弁証法はあらゆる現実と切り結ぶ生命力を発揮し、真理認識の唯一の形式であることを自ら証明するのです。

 科学的社会主義の哲学をより平明で豊かなものに発展させる課題は、二十一世紀に生きるわれわれに残されています。マルクス、エンゲルスはもとよりレーニンもこの課題を実現すべくヘーゲル弁証法を学び、論考の束やノートを残しながらも、結局実践的な課題に追われて科学的社会主義の弁証法を完成することはできませんでした。
 われわれは、ヘーゲル弁証法の土台のうえに弁証法的唯物論を分かりやすくより豊かなものとして構築しなければなりません。しかし「包括的」かつ体系的なヘーゲル弁証法を止揚する弁証法的唯物論を構築することはけっして容易なことではありませんし、本書の直接的課題でもありませんので、別の機会に譲りたいと思います。
 ともあれ本書が広く労働者・国民のなかに受け入れられ、この課題に挑戦しようする雄大な気運が少しでも広がることを期待してやみません。

 

二〇一〇年 五月 一二日
         著 者

 

 

 
編集後記

 二〇〇七年に一粒の麦社書籍の発送に携わるようになって以後、私は、広いネットワークの中で多くの方から感想やコメントを頂くようになりました。こうした中で、広島県労働者学習協議会の哲学ゼミを通じては、様々なものを教わり、またそれぞれの出版についても、とても大きな意義を持つものとして受け止めています。
そして、その度ごとに、その本を手に取られるあなたが、どのような気持ちで本を開き、何を読まれたいのか?・・・。私はそこに目が行くのです。
 私の県労学協への初参加は高校時代でした。部活を終えて急ぎゼミの教室へ向かいましたが、そこのドアを開けた時の風景・雰囲気・暖かさは独特でした。その憧れは、今も新鮮さとして残っています。また同時に、最初のゼミの内容は、私の理解を遥かに超えるものでした。それからは、毎回、母と一緒に帰りながら、語られた内容を反芻するのですが、私の中では相槌を打てる位のものでしかありませんでした。
 あれから、もう十年の月日がたったのです。今回、出版の運びとなった『ヘーゲル「小論理学」を読む』第二版において、ゼミの過程で、私の中に最も深く刻み込まれたものは、「萌芽からの発展」であり、そのまとまった全体です。その全体においては、一つ一つのカテゴリーが、必然性を持ってそれぞれの位置にあるのです。これは、私にとっては、従来の木を見て森を見ない視点から、森という全体の中に、一本一本の木をカテゴリーにおいて見るという、文字通りの大転換でした。
そして、事物が運動するという事や変化・発展という文句は、これまではただ通り過ぎていくだけのものだったのですが、ここまで来ると、以前とは画然と違う実感を持つ存在となって行きました。
 この全体を振り返れば、高校生の時には、私の知らない何かすごい認識というものが外にあって、それが理解できないのだ!と思っていました、まるで外付けされるもののように。しかし実際には、私自身の認識は変えられたのでした、また同時に、真実には私が私の中にあるものを変えたのです。
 さて、あなたは、この本を読まれて何を感じ、つかまれたのでしょうか?また何を疑問に思われたでしょうか?
 著者である高村さんは、「これからは一人一人が理念(概念:真の姿)を考え、語り合う時代だ!」と話します。そして、弁証法こそは、その内容を豊かにするものであり、ここがスタートだと思うのです。
 ぜひ、一緒に語り合いましょう。

平野 百合子

 

 

 

 一九九九年の県労学協による『ヘーゲル「小論理学」を読む』第一版(初級ー中級者用)に出会ったのは、大阪の書店でした。
 団塊世代のエンジニアである私(関西人)は、ずっと真の生き甲斐や生き方を追い求めてきました。もちろん、弁証法などもかじり続けてきたのですが、どれも超上級者用であり、我々のような働きながら学ぶ者に届くものは、一冊もなかったものでした。
 そして、実践の中にあった確かなものを見出したのは、もう40代の後半の事でした。弁証法でいう概念(真の姿)とは面白いもので、我々の日常の主対象の中には必ずあるもののようです。この確かなもの(概念的なもの)の意義は、凡々たるエンジニアとして、一般的にヘーゲルやマルクスを読みこなしても、ぜんぜん手の届かない所にあり、実践は理論とはかけ離れ続けたのです。
 ところが、この第一版の変革の立場から「概念論」を読み解いていくと、恐るべきことには、その対象の分野が、一つの発展するカテゴリー(概念という無限に発展するラセン階段)で構成されているではありませんか!この五十代の前半に到達した人生の感激は、忘れることなど到底できるものではありません。そしてその中には、従来いわれているような " 観念論 " は、" カ " の字もないのです。弁証法(論理学)は、まさに唯物論の上に、改良・変革論の花を咲かすものです。
 さて、それからは、労学協の諸著作を浴びるほどに読み解きました。そして、弁証法の中にある最大の核心は、我々自身(真の主体)であるという事であり、今ふうに言えば、国民が主人公!ということです。これは、スローガン(形式)だけ言っても心に響くものではありませんが、個々の実践の内容が、理論(弁証法:一本の大樹)と結合する時にのみ、絶大な現実的威力として顕在化するものです。そして、日本の小さい一つ一つの真面目な努力(実践)を結合するものは、弁証法であり、個々の主要な分野もまた、それぞれのリーダー群の元に結集した上で、一本の大樹に結実するものです。これこそが、我々にとっての不敗性そのものだと確信するものです。
 最後に、これまでは我々の遠い所にあった人生のもう一つの伴侶(小論理学→弁証法)が、広島から発信され、全国に伝播していく事を心から期待するものです。私は、いつか神戸で、弁証法の本格的な勉強の場ができるようにしたいと考えております。
 どうか、実践的に読まれた読者の一つ一つの木に、大きな花が咲くことを期待して止みません。
吉崎 明夫


● 編集委員
 奥田文子・権藤郁男・佐田雅美・竹森鈴子・中井勝治・平野光子・平野百合子・宮中翔・山根岩男・吉崎明夫