2009年2月41日 講義

 

 

第14講 予備概念 ⑨
     「客観にたいする思想の第3の態度」
     ・ヤコービ批判

 

1.『判断力批判』の批判

59節 ── 神は最高善を実現する

● カントの「理念」の理論的帰結は何か

 ・絶対的理念(最高善)の実現

 ・その力は神にある

● 実際にはどうか ── 60節で検討


60節(1)── カントの最高善は道徳的善にすぎない

● もしカントが最高善を正面から議論していれば、国家・社会の善にまで到
 達せざるをえなかった

● しかしカントは、最高善を道徳的善に矮小化

 ・道徳的善も対立を呼び起こす――義務と義務との衝突

 ・時間の進行も矛盾の限りない進行を生みだすのみ

 

2.カント哲学の総括的批判


60節(2) ── カントの二元論批判

● カントの二元論の根本的欠陥

 ・「結合されえないと説いたものをすぐあとで結合」(206ページ)

 ・理論理性 ── 二元論 実践理性 ── 道徳の分野で二元論の結合を判断力
  ── 芸術、生命体で一元論的理念論をいいながらも結合をゾレンにとど
  める

● カントの動揺そのものは「二つの規定の各々の不十分であることを証明」
 (同)

 ・真理は、理想と現実の統一にある

● カントの認識論の不整合性

 ・一方で悟性の有限性を主張しながら、他方でこの認識の絶対性を主張

 ・事物が限界に直面したとき、限界は「制限」となり、制限突破の衝動「
  当為」が生まれる(制限と当為の弁証法)

 ・悟性の制限を認識することは、その限界突破の「当為」を主張するもので
  なければならない

 ・「われわれが或るものを制限として知る場合には、……われわれは同時に
  それを越えている」(207ページ)

 ・悟性の制限を認識するものは、無限なもの物自体を認識する理性でなくて
  はならない ── ヘーゲル哲学は、悟性から理性へ、有限から無限の認識
  への前進を認める

● カント哲学は「諸科学の方法になんらの影響をも与ええなかった」(208
 ページ)

 ・理性は、結局「空虚な悟性」(198ページ)にとどまる

 ・「諸カテゴリーおよび方法」(同)も形而上学のものをそのまま無批判的
  に使用


60節(3) ── 経験論との対比におけるカントの二元論批判

● 経験論は「素朴な経験論」(二元論)と一元論(唯物論)に分かれる

 ・カント哲学は唯物論に反対しつつ、二元論的観念論にたつ

 ・カントの現象の世界は、その「素朴な経験論」と全く同じの悟性の世界

 ・カントの物自体の世界は「素朴な経験論」と異なり、形而上学と共通の思
  惟、理性の世界だが「内容は全く空虚」(209ページ)

● カントの功績は、理性と悟性を区別し、理性の「絶対の自主性の原理」を
 指摘したことにとどまる

 ・これに対しヘーゲルは、理性にもとづく変革の哲学を確立


60節補遺1 ── カントの消極的功績

● 消極的功績は、悟性規定(カテゴリー)の有限性、非真理性の指摘

 ・カントは、カテゴリーの有限性の根拠を主観性に求め、カテゴリーの有限
  性を主張しつつ物自体を「絶対の彼岸」にした

 ・しかし、カテゴリーの有限性はその一面性にある

● カントは12のカテゴリーの必然性を示していない

 ・ヘーゲルは、カテゴリーの必然性を示そうとする

● カントは12のカテゴリーでは現象しか認識しえないという

 ・12のカテゴリーに限定したところに問題がある

 ・超感覚的世界をとらえる概念、理念などのカテゴリーが求められているが
  、カントはそこに到達しえない


60節補遺2 ── カテゴリーの必然性は証明されねばならない

● フィヒテはカテゴリーの必然性を演繹しようとした

 ・「自由の体系」 ── 自由な自我から出発し、「カテゴリーを自我の活動
  の成果として示そう」(211ページ)とする

● ヘーゲルのフィヒテ批判

 ・自我は「本当に自由な」(同)活動ではない
  ── 「外部からの衝撃」(同)に依存

 ・自我は有限なもののみを認識しうる
  ──「カント哲学の結論から一歩も出てはいない」(同)

 ・ヘーゲルは、「本当に自由な」思想としての「有」からはじめる

 

3.ヤコービの「直接知」批判(1)

ヤコービの直接知とは何か

● カントは神の認識を否定し、ヤコービは直接知を主張する

 ・カントは、カテゴリーの有限性から、無限な神は認識しえないとする

 ・ヤコービは、媒介知を否定する直接知によって神を認識しうるとする

● ヘーゲルは、直接性と媒介性の統一により、神を認識しうるとする


61節 ── ヤコービは思惟そのものを有限と考える

● カント哲学は理性を「自我の本源的同一性」に求め、無限の「具体的普遍
 としての真理」(212ページ)に対立させる

● ヤコービも「思惟は真理をとらえることはできない」(同)とするが、そ
 の根拠を思惟の有限性、特殊性に求める

 ・ヤコービは哲学的論証は「真実なものを真実でないものに変える」という


62節 ── ヤコービは哲学的論証は
     「真実なものを真実でないものに変える」という

● 思惟は特殊なものの活動

 ・思惟は「特殊なものの活動」としてカテゴリーをもつのみ

 ・思惟の産物としてのカテゴリーは「制限された規定」(212ページ)

 ・カテゴリーによる思惟は、無限なものをとらええない ── 神の存在は証
  明しえない

 ・哲学的論証とは概念的把握であり、それは「真実なものを真実でないもの
  に変える」(213ページ)という

 ・したがって「神や真実在は直接知によってのみ知られる」(同)

 ・「思惟は有限化のみをこととする活動」(同)

 ・認識とは「制約されたものから制約されたものへ」(214ページ)の進行
  にすぎない

● カントとヤコービの違い

 ・カントはカテゴリーの有限性の理由を主観性に求める

 ・ヤコービはカテゴリーの本性が有限な思惟の産物として有限だとする

 ・ヤコービが念頭においていたのは、自然科学の目覚ましい成果の到達点が
  「物質」という有限なものにすぎないことにとどまったことにあった