2009年4月15日 講義

 

 

第19講 第1部「有論」①

 

1.第1部「有論」序論

84節 ── 有の展開

●「有は即自的にすぎぬ概念」(259ページ)

 ・カテゴリーは、「客観的思想」をとらえたものとして「より正確に言えば
  概念」(65ページ)

 ・有は、事物の表面的な真の姿として「即自的にすぎぬ概念」

●「有の諸規定は有的」(同)

 ・有の規定態(質、量、限度など)は、「存在するもの」「あるところのも
  の」としてあらわれる

 ・あるところのものの区別は「或るもの」と「他のもの」

 ・或るものと他のものの区別の「本性のより進んだあらわれ」、弁証法的関
  係は、「或るもの」から「他のもの」への移行

● 有の諸規定の進展は、即自的な概念の「不断の展開」(同)

 ・事物の真の姿が次第に展開して深まっていく過程

 ・有が「自分自身のうちへ深まっていく」(同)過程

● 有の概念の展開は「有そのものの形式を揚棄」(同)

 ・有論は「質」「量」「度量」と展開して、「直接性における思想」(256
  ページ)を揚棄し、「反省と媒介とにおける思想」(同)としての本質論
  に


85節 ── 諸カテゴリーは絶対者の定義

●「論理的諸規定全般は、絶対者の諸定義」(同)

 ・絶対者とは、即自 ── 対自 ── 即対自という統体

 ・論理的諸規定(諸カテゴリー)は、対立物の統一として構成される「統体
  」として「絶対者の諸定義」

● 諸カテゴリーは「神の形而上学的諸定義」

 ・絶対者=神

 ・形而上学は真なるものを思想においてとらえようとした

 ・諸カテゴリーは真なるものを思想においてとらえたもの、という意味

● 絶対者=神の諸定義といえるのは、即自態と即かつ対自態のみ

 ・絶対者=神は、統体性だから

 ・第2の規定は差別(区別)のうちにある有限なものにすぎない

● 定義の形式は「全く余計なもの」(同)

 ・定義の形式をとると、主語となる絶対者も述語に示される「無規定な基体
  」としてとらえられることになる

 ・論理学の課題は、述語のうちに含まれる「思想」とは何かを明らかにする
  ことにある

 ・命題という形式は「余計なもの」


85節補遺 ──「有論」概説

● 論理的理念のどの領域も「絶対者の一表現」

 ・「絶対者の一表現」として「一つの体系的な統体」(即自 ── 対自 ──
  即対自の構成をもつ)

 ・有論も同様に質(即自)量(対自)限度(即対自)

● 質は「有と同一の規定性」(260ページ)

 ・質は有と一体となった有の規定性

 ・質とは「或るもの」を「或るもの」たらしめ、それを失うと「或るもの」
  でなくなるもの

● 量は「有にとって外的な規定性」(同)

 ・「家は大きくても小さくてもやはり家」

 ・量は質に無関係という意味で「外的な規定性」

● 限度は、質と量の統一

 ・「すべての物はそれに固有の限度」(261ページ)をもつ

 ・限度をこえると、量から質への転化が生じ、「物はそれがあったところの
  ものではなくなる」(同)

● 有論における「限度」の限度が越えられると、有論から「本質への進展が
 生じる」(同)

●「有の三つの形態」(同)は「最も貧しいすなわち最も抽象的な形態」(
 同)

 ・有論は「直接的、感覚的な意識」(同)のとらえた事物の「真の姿」

 

2.有論「A 質」

「A 質」の主題と構成

● 質は有(肯定)、定有(否定)、向自有(肯定と否定の統一)から構成

 ・「a 有」……有(肯定) ── 無(否定) ── 成(肯定と否定の統一)と
  いう構成で、成(運動一般)がとらえられる

 ・「b 定有」……規定された有。定有するもの(或るもの)は、有限なもの
  として可変的

 ・「c 向自有」……自己媒介による完成された質をもつ定有。有限にして無
  限な定有

● 向自有は、質の「限度」を越えるものとして、もはや量

 ・ 向自有により、「A 質」から「B 量」へ移行

「a 有」(1)


86節 ── 純粋な有がはじめをなす

● 純粋な有 ── 単に「ある」こと

 ・純粋な有は「純粋な思想」(262ページ)であると同時に「無規定で単純
  な直接態」(同)

 ・単に「ある」ことであり、「何ものかである」ことではない

 ・それは思想のうえにのみ存在する「抽象的で空虚な有」(同)

 ・無規定で、何ものにも媒介されない有

● 有以外のものは「はじめ」になしえない

 ・「自我=自我、絶対の無差別」(同)というのも「すでに媒介を含んでい
  る」

 ・もしこれらのものを「はじめ」にするのであれば、それは「有」にほかな
  らない

●「絶対者は有である」(同)

 ・「思想による絶対に最初の定義」(263ページ)

 ・「エレア学派の定義」(同)──「有のみがある」「一にして全(ヘン・
  カイ・パン)」

 ・「神はあらゆる実在の総括である」(同)との定義 ── 神は「あらゆる
  実在物」の制限を捨象した、無制約、無規定な有

 ・しかし、「実在」のカテゴリーはすでに「反省(媒介)」を含んでいるか
  ら、正確には「神はあらゆる定有のうちにある有の原理」というべき


86節補遺1 ──「はじめ」は「無規定の思想」

● 規定された思想は、規定する他のものを必要とするから、「はじめ」では
 ありえない

 ・「はじめ」は、「直接的な無規定」(264ページ)であって、本質のよう
  に媒介を揚棄した無規定ではない

● 有は「純粋な思想」(同)として、感覚することも、表象することもでき
 ない


86節補遺2 ── 論理的なものと歴史的なもの

● 哲学の歴史は、「論理的理念のより先の段階とより後の関係と同じもの」
 (同)

 ・ヘーゲル論理学も、この哲学の歴史を反映

 ・「論理的なものは歴史的なもの」に対応する

● 反駁の意味

 ・哲学史における先人への「反駁」は「抽象的に否定的な意味」ではない

 ・反駁とは「その哲学の制限を・ 踏み越えて、その哲学の特殊の原理を理念
  的な契機へひきさげること」(265ページ)

 ・より普遍的理念の立場にたって、対象となる哲学を「一つの特殊の契機」
  (モメント)にひき下げること

 ・哲学の歴史は、「過ちの陳列場ではなく、神々の姿のまつられてあるパン
  テオンに比すべきもの」(同)

 ・ヘーゲル哲学もカテゴリーの「制限を踏み越えて」発展

● 哲学史の「真のはじめ」(同)はエレア派のパルメニデス

 ・「有のみがあり無は存在しない」(265~266ページ)

 ・イオニア派、ピュタゴラス派は世界の根源的存在を思想のうちにとらえな
  かったのに対し、エレア派は「有」という純粋な思想をとらえた

 ・有以外に「も」真理があるとする「もまた」(266ページ)は無思想

 ・「有は不変で究極のものではなく」(同)対立物の無に移行するというの
  が正しいとらえ方