2009年11月14日 講義
第30講 第2部「本質論」⑥
1.「B 現象」「c 相関」(2)
138節 ── 内的なものと外的なものとの相関
● 内的なものと外的なものとの相関は、相関の真理態
・内的なものと外的なものとは、「同一な内容の形式上の対立を揚棄した
「実現された同一」(73ページ)
・単に内的なもの、単に外的なものは、いずれも「空虚な形式」(同)
・両者は「同じ一つの総体」(同)として内容をもつ
139節 ── 外的なものは内的なものと同じ内容
● 「外的なものは内的なものと同じ内容」(同)
・「内にあるものは外にもあり、外にあるものは内にもある」(同)
・現象は、本質のあらわれとしての現象として定立されている ── 「現象
」はここにいたって単なる現象から「現実性」へ移行
140節 ── 単なる内的なものと単なる外的なもの
●「内的なものと外的なものとは、形式規定としてはまた対立しあってもい
る」(74ページ)
・単に内的なものは「自己同一という抽象物」(同)、単なる外的なものは
「単なる多様性……という抽象物」(同)
・切り離された両者はいずれも空虚な抽象物
● 「内的なものにすぎないものは、また外的なものにすぎず、外的なものに
すぎないものは、また内的なものにすぎない」(同)
・内的なものと外的なものとは本質的現象という「1つの総体」における形
式のモメント
・本質を単に内的なものとみることは、本質を「空虚な外面的抽象」(同)
とみる外面的な見方
・有一般において「概念はまだ内的なものにすぎない」(75ページ)から
「感覚的知覚にたいして外的なもの」(同)
・自然における「概念、目的、法則」(同)が「内的な素質」(同)にとど
まり、認識されないときは「外的な強力」(同)にとどまる
・人間は、外的にあるとおりに内的にある
140節補遺 ── 内的なものと外的なものとの同一性
● 内的なものと外的なものとの相関は、「それに先立つ2つの相関の統一」
(同)として、「単なる相対性および現象一般の揚棄」(76ページ)
・全体と部分、力と発現の相関では対立物の相互移行という「単なる相対
性」(75〜76ページ)
・これに対して、内的なものと外的なものとの相関は、この相対性の立場を
のりこえた対立物の同一として、「現象一般を揚棄」し「現実性」のカテ
ゴリーに移行している
● 分離された内的なものと外的なものとは「いずれも同じように無意味な一
対の空虚な形式」(76ページ)
・内的なもののみが本質的であり、外的なものは非本質的なのではない
・自然を外的なもの、精神を内的なものととらえるのも正しくない ── 両
者に共通な理念は、自然において単に内的なものとして明確に認識されな
いとき単に外的な理念にすぎず、精神においても、単に内的な理念にとど
まるかぎり、自然に対して外的なものにとどまる
● 単に内的なもの、単に外的なものは「欠陥を持つもの、すなわち不完全な
もの」(77ページ)
・子どもにとって理性は単に内的なもの ── 両親や教師の単に外的な理性
としてあらわれる(教育の本質)
・教育をつうじて子どもにとって外的であった「人倫や宗教や学問」(同)
は内的なものとなり、子どもは「完全なもの」となる
・犯罪者にとって、内的な犯罪的意志が、単に内的なものにとどまるかぎ
り、刑罰は単に外的なものであるが、外的なものとなったとき、刑罰は内
的なものとなり、外的な強力としての刑罰を受ける
● 内と外とは本質的に同一(78ページ)
・「人が行うところのものがすなわちかれである」(同)
・「樹は果によりて知らるるなり」(同)
● 「実用的な歴史記述」(79ページ)批判
・「外的なものと内的なものとの不当な分離」(同)によって偉大な人物を
不法に取り扱う
・彼らは「虚栄心、支配欲、所有欲」(80ページ)などを「本当の動機」(
同)と考え、「祖国、正義、宗教的真理」(同)をその動機と考えない
→世界史的偉人を、内的なものと外的なものとの同一ととらえることは正
しいが、その内的なものとは、階級的利益ととらえるべき(史的唯物論)
141節 ── 現象から現実性への移行
● 内的なものと外的なものとは相関を揚棄する
・相関のうちにおける内的なものと外的なものとは、「2つの空虚な抽象物
」として「本質の仮象」
・この仮象は揚棄されて、内的なものと外的なものとは絶対的な同一性とし
て定立され、現実性となる
・外的なものとしての現実性は、内的なものによって措定された「被措定有
」として規定される=必然的現実性
2.「C 現実性」の主題と構成
● 現実性は重要なカテゴリー
・ヘーゲル哲学は理想と現実の統一の革命的哲学
・現実性のカテゴリーは、アリストテレスのエネルゲイアに由来
● 「C 現実性」の構成
① 総論(142~149節) ── 現実性とは必然的現実性
・それを論じるために、可能性と現実性、偶然性と必然性のカテゴリーが検
討される
・必然性には、外的必然と内的必然とがある
・内的必然としての現実性は「絶対的な相関」(103ページ)
② 各論(150~159節)
・絶対的相関は「a 実体性の相関」「b 因果性の相関」「c 交互作用」の
3つに区分される
・絶対性の相関は「現実性の法則」を示すもの
・「交互作用」をつうじて「概念論」に移行
3.「C 現実性」総論(1)
142節 ── 現実性とは本質と現存在との統一
● 現実性(ヴィルクリヒカイト)とは、「真の現実性」
・一時的、偶然的な存在は「真の意味における現実という名には値しない」
(㊤ 69ページ)
●「現実性とは、本質と現存在との統一、あるいは内的なものと外的なもの
との統一が、直接的な統一となったもの」(81ページ)
・本質の必然的あらわれが現実性
・直接的な統一とは、統一した一個の現存在
・「直接的な外的現存性のうちにあるかぎりにおいてのみ本質的なもの」(
同)
● 有、現存在、現実性の区別
・有は「無反省の直接態」
・現存在は、現象(単なる相対性という反省の立場)
・現実性は有と現存在の統一として、反省を揚棄した本質の直接態 ── 本
質が「自己と同一となった相関」(82ページ)、本質の「自分自身の顕
現」(同)
142節補遺 ── 理念と現実
● 理念(理想)と現実を対立させてとらえるのは、「思想の本性をも現実の
本性をも正しく把握していない」(同)
・チェ・ゲバラは、理想と現実を区別し、無謀な武力闘争に
● 理念(イデー)は「絶対的に活動的なものであり、現実的なもの」(83ペ
ージ)
・他方で現実は「実際家たちが考えるほど、悪くもなければ不合理でもな
い」(同) ── 「現実的なものはまったく理性的なもの」(120ページ)
● プラトンのイデアとアリストテレスのイデア
・一般にはプラトンは「イデアをのみ真実なものと考える」(83ページ)観
念論者。アリストテレスは「イデアを排して現実的なものを固守」(同)
する唯物論者と考えられている
・しかし、両者ともイデアが「唯一の真実なもの」(84ページ)であること
を認めたうえで、プラトンがイデアを「単なるデュナミス」(同)ととら
えたのに対し、アリストテレスはイデアを「本質的にエネルゲイア」とし
てとらえた(ヘーゲルのいう現実性)
● ヘーゲルは現実性のカテゴリーをつうじて革命の哲学を論じた
・本節では述べず、口頭での補遺でのみ態度を鮮明に
143節 ── 可能性と現実性
● 現実性は、有、現存在の「区別を含んでいる」(同)
・有、現存在は、現実における「仮象」(同)、「単に否定的なもの」(9
ページ)として規定されている
● 可能性とは、単に可能であるような本質的なもの
・具体的な現実性に「対峙するもの」(同)は「抽象的で非本質的な本質性
として定立されている自己内反省」(同) ── 非本質的な内にあるもの、
これが可能性
・カントは可能性を「客観としての概念を少しも増すものではな」(同)い
とした
・可能性とは、内的なものが単に「外在的な、内的なもの」として定立され
ている空虚な抽象
・現実性と必然性とは、これに対し「単に他によって定立されているのでは
なく、自己のうちで完結した具体的なものとして定立されている」(85ペ
ージ)
● 可能性の基準は「ただ、或るものが自己矛盾を含まないということにすぎ
ない」(同)
・すべてのものは可能であると同時に、すべてのものは不可能である
・可能、不可能の議論ほど「空虚なものはない」(同)
143節補遺 ── 現実が展開すると必然性となる
●「可能性は豊かな広い規定で」(86ページ)あり、現実は「貧しく、狭い
規定」なのではない
・現実性は可能性をモメントとして内に含むから、「より包括的」(同)
・「理由を呈出しうるもの」(87ページ)は、すべて可能 ── 抽象的な可
能性は、正当に軽視すべき
● あらゆるものは可能であると同時に不可能
・あらゆる内容は「常に具体的なもの」(同)であるから、「対立的な規定
をも自己のうちに含んでいる」(同)
● 「哲学の任務は、こうした形式の無価値と無内容を示すことにある」(88
ページ)
● 或る事柄が可能か不可能かは、「現実の諸モメントの総体による」(同)
── 「現実は、それが自己を展開するとき、必然性としてあらわれる」
(同)
● 現実の諸モメントの総体が、条件、事柄、活動としてとらえられ、この総
体が存立するにいたったとき、必然性として展開される
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