『21世紀の科学的社会主義を考える』より

 

 

第二講 社会主義思想の誕生

 

一、科学的社会主義の誕生

科学的社会主義の中心思想は社会主義論

 出発点にあたり、そもそも科学的社会主義とは何か、についてもう少し考えてみましょう。
 「科学的社会主義」の語源は、エンゲルスの不朽の名著『空想から科学への社会主義の発展』(通称『空想から科学へ』)に求めることができます。
 「フランス語版(一八八〇年)へのまえがき」のなかで、マルクスはこの著作を「科学的社会主義の入門書とよぶべきもの」(全集⑲一八三ページ)として、「科学的社会主義」の用語を使用しています。
 一九世紀の前半、産業革命をつうじてその全貌を明らかにしてきた資本主義の矛盾を乗り越えようとして、様々な社会主義思想が誕生してきます。科学的社会主義の最初の綱領的文書というべき、マルクス、エンゲルスの『共産党宣言』(一八四八年、全集④四九六ページ以下)では、それらの社会主義思想の代表的なものを、「反動的社会主義」(封建的社会主義、小ブルジョア社会主義、ドイツ社会主義または「真正」社会主義)、「保守的社会主義またはブルジョア社会主義」「批判的=ユートピア的社会主義および共産主義」として紹介しています。
 マルクス、エンゲルスは、サン・シモン、フーリエ、オーエンという「三人の偉大なユートピア社会主義者」(全集⑲一八八ページ)との対比において、自分たちの社会主義を科学的社会主義とよんだのです。
 「これら二つの偉大な発見、すなわち唯物史観と、剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露とは、マルクスのおかげでわれわれにあたえられたものである。これらの発見によって社会主義は科学になった」(同二〇六ページ)。
 つまり科学的社会主義とは、唯物史観と剰余価値学説という「二つの偉大な発見」により資本主義の基本矛盾を解明し、その矛盾によって資本主義から社会主義への移行の必然性を科学的に明らかにした学説と、それにもとづく社会主義・共産主義の実現をめざす事業と運動ということができるでしょう。
 したがって科学的社会主義の中心思想は社会主義の思想であり、当時のさまざまな社会主義思想のなかから、歴史の審判をつうじて生き残ることのできた唯一の社会主義思想が科学的社会主義であったということができます。空想的社会主義をはじめ、『共産党宣言』に示されたいくつかの社会主義思想は、すべて歴史のに放りこまれて、いまではその跡形すらみることはできません。「真理は必ず勝利する」との格言がありますが、様々な社会主義思想のうちにあって、科学的社会主義はその真理性によって勝利し、現代においてもなお生命力を発揮し続けているのです。
 それでは一八世紀の前半に登場してきた社会主義思想とは何を求めた思想と運動だったのかを、その原点にさかのぼって検討してみることにしましょう。ヘーゲルは「本質は過ぎ去った有」(『小論理学』㊦一一ページ)であると述べています。すべての事物はその本質(事物の真の姿)をもっています。事物は生まれたばかりのときにはその本質をそのまま示していますが、その後発展するに伴い様々な現象を身につけその本質が見えにくくなってきます。したがってその事物の本質を知ろうと思えば、その事物の出発点にまでさかのぼって考察すべきであることを、ヘーゲルは「本質は過ぎ去った有」と述べたのです。
 この言葉にしたがって、社会主義思想の本質を知るために、その原点にさかのぼって考えてみることにしましょう。

なぜ一九世紀前半に社会主義思想が広まったのか

 「一つの妖怪がヨーロッパをさまよっている――共産主義の妖怪が。旧ヨーロッパのあらゆる権力が、この妖怪を退治するために神聖な同盟を結んでいる、教皇もツァーリも、メッテルニヒもギゾーも、フランスの急進派もドイツの警官も」(全集④四七五ページ)。
 有名な『共産党宣言』(一八四八年)の冒頭の文章ですが、この「宣言」は当初から「英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、フランドル語(ベルギー北部地方の言語――高村)、およびデンマーク語」(同)の六カ国語で発表されました。この事実はこれらヨーロッパの主要な諸国において、当時「共産主義は、すでにヨーロッパのあらゆる権力から一つの力と認められている」(同)ことを示しています。ここにいう「共産主義」とは、社会主義と同義に理解すればいいでしょう。
 問題はなぜ社会主義・共産主義が当時、ヨーロッパ中で「一つの力」として歴史の舞台に登場してきたのかにあります。その歴史的背景をぬきに社会主義思想を論じることはできないでしょう。
 その歴史的背景とは、いうまでもなくフランス大革命です。一七八九年のバスチーユ監獄の襲撃という「第一革命」にはじまり一八一五年の反動的ウィーン体制の確立に至るまで、フランス革命にはさまざまの政治的意義をもつ局面がありますが、「一方の交戦者だった貴族が滅ぼされて他方の交戦者だったブルジョアジーが完全に勝利するまで、ほんとうにたたかいぬかれたという点でも、最初のもの」(全集⑲五五七ページ)でした。
 フランス革命を思想的に準備したのは「啓蒙思想家」とよばれた人々であり、そのなかにあってもその影響力において突出していたのが、ジャン・ジャック・ルソーです。一九世紀前半のフランスは、ルソーの影響圏内にあったとまでいわれ、彼の遺体は「偉人の殿堂」パンテオンに埋葬されています。
 「人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている」で始まるルソーの『社会契約論』は、フランス革命のバイブルとなり、「自由・平等・友愛」というフランス革命のスローガンにつながっていきました。
 フランス革命は絶対主義と封建的土地所有を徹底的に廃止したブルジョア民主主義革命であり、その推進力となったのは、サン・キュロットとよばれるパリの無産階級の人々でした。
 しかしサン・キュロットの力を借りて権力を握ったブルジョアジーは、封建的身分制を廃止し、立憲君主制を実現したところで革命を裏切り、「自由・平等・友愛」を形だけのものにとどめようとします。怒ったサン・キュロットは一七九二年九月二二日「第二革命」を起こし、王制廃止、第一共和制を実現し、憲法史上もっとも民主的といわれる一七九三年憲法を制定します。それ以来、この第一共和制と九三年憲法は、ヨーロッパの社会変革の旗印となるのです。しかしブルジョアジーの「テルミドールの反動」とよばれるクーデターによって「第二革命」は挫折し、九三年憲法は実施されないまま、ナポレオン帝政、反動的ウィーン体制への復活と続いていくのです。

社会主義思想はフランス革命の「第二幕」としてヨーロッパ中に広がる

 フランス大革命はヨーロッパ全土にその影響を及ぼしたところから、挫折した「自由・平等・友愛」のスローガンは、引き続きヨーロッパの労働者・無産階級の理念として引き継がれることになります。
 一八四五年九月二二日、マルクス、エンゲルスのよびかけにより、「第二革命」から生まれたフランス第一共和制の創設を記念するヨーロッパ各国人民の祝祭がロンドンで開かれました。それは「フランス革命にはじまって、フランスの共産主義とイギリスのチャーティズムとに発展した近代民主主義の旗のもとにおこなわれ」(全集②六三七ページ)た諸国民の親睦のための集会でした。
 その集会を報告したエンゲルスの論文「ロンドンにおける諸国民の祝祭」において、フランス革命のかかげた「民主主義、それは今日では共産主義」(同六三九ページ)であり、「一八四六年には、ヨーロッパの民主主義者はみな、多少とも明確な共産主義者」(同)だと規定し、次のように述べています。
 「フランス共和国(第一共和制のこと――高村)を祝うこともまた、この共和国がどんなに『克服』されていようとも、万国の共産主義者にとって、まったく根拠のあることである。……今日のヨーロッパの社会運動全体は革命の第二幕にすぎず、一七八九年にパリにはじまっていまでは全ヨーロッパをその舞台にしている劇の大団円の準備にすぎない」(同)。
 すなわち、一九世紀前半のヨーロッパ全体に広がった社会主義運動は、挫折した「自由・平等・友愛」というフランス革命の理念の実現をめざすフランス革命の「第二幕」というべきものであり、社会主義革命という「大団円」(決着がつく最後の場面)の準備にすぎない、というのです。
 一八四八年の『共産党宣言』当時、ヨーロッパに「共産主義の妖怪」がさまよっていたのは、ヨーロッパ全体がフランス革命の影響のもとに、挫折した「自由・平等・友愛」の理念を引きつぎ実現しようとしたからにほかならなかったのです。

 

二、フランス、イギリス、ドイツの社会主義・共産主義

イギリスは経済的に、フランスは政治的に、ドイツは哲学的に

 その事情をもう少し詳しく論評したものが、エンゲルスの「大陸における社会改革の進展」という論文です。この論文は空想的社会主義者の一人、ロバート・オーエン派の機関誌「ザ・ニュー・モラル・ワールド」(一八四三年一一月四日号)に掲載されたものです。
 まずエンゲルスは、当時「ヨーロッパの三大文明国すなわちイギリスとフランスとドイツはすべて、財産の共有制を基礎として社会的諸関係を徹底的に変革することが、いまや切迫したさけがたい必然性となったという結論に到達した」(全集①五二三ページ)と指摘しています。「財産の共有制」を基礎とした社会変革とは、社会主義・共産主義を意味していることはいうまでもありません。
 続いて、三国の共産主義は、ひとしくフランス革命の影響を受けながらも、異なる側面から社会主義・共産主義に接近したとして、次のように述べています。
 「イギリス人は、彼ら自身の国における悲惨と退廃と貧窮との急速な増大によって、実際的にこの結論にたっした。フランス人は、はじめに政治的な自由と平等をもとめ、そしてこれが不十分であることを知ると、彼らの政治的要求に社会的自由および社会的平等をつけくわえるというようにして政治的にこの結論にたっし、ドイツ人は、第一原理にもとづいて推理することによって哲学的に共産主義者になった」(同)。
 つまりイギリス人は経済的に、フランス人は政治的に、ドイツ人は哲学的に共産主義者になったというのです。
 ではこれらの諸国では、どのようにフランス革命の影響を受けとめ、社会主義・共産主義の運動として展開されたのかをもう少し詳しくみていくことにしましょう。

フランス革命のなかから生まれたバブーフ共産主義

 フランス革命におけるブルジョアジーのクーデター(「テルミドールの反動」)は、サン・キュロットの怒りを買い、彼らはルソーの平等思想と人民主権論を楯にとって政府を批判し、二回にわたり「パンと九三年憲法」をかかげて平和的蜂起を行いますが、いずれも失敗に終わります。
 こうした動きを背景に、一七九六年三月バブーフは、権力を人民の手に奪還して九三年憲法を復活させ「労働と享受の平等」を実現する共産主義革命を準備しますが、事前に察知され処刑されてしまいます。世にいう『バブーフの平等のための陰謀』(ブオナロッティ)です。
 バブーフは、フランス革命の本質を「特権者と平民、金持ちと貧乏人の間に宣せられた戦争」(ソブール『フランス革命』下一六一ページ、岩波新書)という階級的観点においてとらえ、その理念は共産主義にあったとしてそこに到達する「唯一の手段は共同の管理をうちたて、私有財産を廃止」(同)することによる「労働と享受の平等」にあると考えたのです。
 また九三年憲法の復活をかかげる彼の人民主権論は、「フランス革命における『人民主権』論の最高の到達点を示」(杉原泰雄著『国民主権と国民代表制』二二八ページ)すものであると同時に、マルクス、エンゲルスの「プロレタリアート執権論」を「先取り的に示している」(同二三四ページ)ものとなっています(拙著『科学的社会主義の源泉としてのルソー』参照)。
 エンゲルスは、ブルジョア的民主主義(政治的自由、政治的平等)は一つの自己矛盾をもつ偽善であり、その矛盾は「本来の奴隷制すなわちむきだしの専制をもつか、ほんとうの自由およびほんとうの平等、すなわち共産主義をもつかの、いずれかに」(全集①五二四ページ)なってあらわれざるをえないのであり、「ナポレオンは第一のものを、バブーフは第二のものを、うちたてたのである」(同)と結論づけています。いわばバブーフ共産主義は、挫折したフランス革命の理念である「ほんとうの自由およびほんとうの平等」の実現をめざすものだったのです。
 エンゲルスは「平等のためのバブーフの陰謀は九三年の民主主義(九三年憲法――高村)の最後の帰結――当時可能であったかぎりでの――を明るみに出したものであった」(全集②六三八ページ)とし、「この革命以後には、純政治的な民主主義はまったくナンセンスになっている」(同六三八~六三九ページ)とし、先に引用した「民主主義、それは今日では共産主義である」(同六三九ページ)につなげています。
 処刑をまぬかれたブオナロッティは『バブーフの平等のための陰謀』を著してバブーフ共産主義を四十年間にわたって宣伝し続け、一八三〇年のフランス七月革命はバブーフ共産主義の影響を強くうけたものとなりました。

イギリスのチャーティスト運動から生まれた共産主義

 イギリスでは一八世紀後半から一九世紀はじめにかけて産業革命が進行し、世界にさきがけ産業資本を中心とする本格的な資本主義の体制が確立していきます。それは同時にブルジョアジーとプロレタリアートの二大階級の台頭とその間の階級対立を示すものになりました。当時の労働者階級の悲惨な状態は、若きエンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』(全集②二二三~五三四ページ)に余すところなく描写されています。
 一七世紀のイギリス革命をつうじて、ブルジョアジーと地主層は立憲君主制を確立して権力を手に入れます。産業革命で台頭してきた労働者階級は一八三二年の選挙法改正に協力しますが、この改正で権力を握ったブルジョアジーは労働者階級に選挙権を与えませんでした。
 そこで労働者階級は、独自に六箇条の人民憲章=チャーター(男子普通選挙権、平等選挙区、毎年選挙など)をかかげて、一八三六年から四八年にかけ世界最初の労働者階級独自の大衆的政治闘争に立ちあがります。これがチャーティスト運動とよばれるものであり、人民権力の実現をめざす革命運動の性格をもつにいたりますが、政府の弾圧により四八年以降衰退していきます。チャーティスト運動のなかから、フランス革命の影響も受けながら、イギリス共産主義の運動も生まれてくるのです。
 一八四四年八月一〇日、ロンドンで三つの事件を祝って祝祭が開かれました。三つの事件とは、フランスにおける「一七九二年の(第二――高村)革命、一七九三年の憲法の発布、一八三八~三九年にイギリスで運動していた党のもっとも急進的な一派による『民主主義協会』の創立の記念日」(全集②六四〇ページ)を指しています。
 「民主主義協会」という「もっとも急進的な一派はチャーティストからなり、当然にプロレタリアからなって」(同)いました。
 協会の会員たちは、「まず第一に共和主義者であり、しかも、九三年の憲法を自分の信条としてかかげ」(同六四一ページ)ていました。彼らは「共和主義者であったばかりでなく、共産主義者、しかも無宗教的な共産主義者」(同)であり、チャーティスト運動崩壊後も、「この運動のなかにふくまれていた共産主義的要素を発展させるのに非常に貢献」(同)しました。この祝祭の時にも「共産主義的原理」(同)がはっきりと述べられ、「政治的平等とならんで社会的平等が要求され、すべての国民の民主主義にたいする祝詞が熱狂的に採択」(同)されました。フランスの第二革命と九三年憲法の影響を受けながら、チャーティストの先進部分は共産主義者となり、彼らは共産主義とは真の民主主義であると理解したのです。
 この一八四四年のロンドンにおける祝祭をふまえて、先にみたように、マルクス、エンゲルスのよびかけによって一八四五年年九月二二日、ロンドンでフランス第一共和制を祝う祝祭が開催されたのです。
 エンゲルスは、この四五年九月の集会の多数者は、「ロンドンのチャーティストであるプロレタリアの大衆をかなり正確に代表していたとみなしてもよいわけである。そしてこの集会は、共産主義的原理を、いな共産主義ということばすら、満場一致で熱烈に採択したのである。チャーティストの集会は共産主義的な祝祭であった」(同六五二ページ)と総括したうえで、「民主主義は今日では共産主義であるという私のことばは、正しくはあるまいか?」(同)と結んでいます。

ドイツ古典哲学から生まれた共産主義

 「フランスの政治革命に伴って、ドイツでは哲学革命がおこった。カントが、ライプニッツ形而上学の古い体系を打倒することによって、革命を開始した。……フィヒテとシェリングが、再建をはじめて、ヘーゲルが新しい体系を完成した」(全集①五三五~五三六ページ)。
 マルクスは、カント哲学を「フランス革命のドイツ的理論」(同九三ページ)とよんでいますが、この言葉はヘーゲルにこそふさわしいものであり、ヘーゲル哲学の本質は革命の哲学にあります。ヨハヒム・リッターが「ヘーゲルの哲学のように、ひたすら革命の哲学であり、フランス革命の問題を中心的な核としている哲学は、他には一つもない」(『ヘーゲルとフランス革命』出口純夫訳一九ページ、理想社)と述べているのは的確な評価といえます。
 ヘーゲルの死後、ヘーゲル学派は右派と左派(青年ヘーゲル派)に分かれ、マルクス、エンゲルスは青年ヘーゲル派に属しました。
 「はやくも一八四二年の秋に、この党派(青年ヘーゲル派――高村)のある人々は、政治的な変革では不十分であると主張し、彼らの意見によれば共有制にもとづく社会的革命が、彼らの抽象的な諸原理に一致する、人類の唯一の状態であると、宣言した」(全集①五三七ページ)。
 彼らの手によって発行された『ライン新聞』は「共産主義をとなえる論文をいくつか発表」(同五三八ページ)し、マルクスもはじめは寄稿家として、後には編集長として進歩勢力の結集に努力しました。
 いわば「共産主義は新ヘーゲル哲学のきわめて必然的な帰結」(同)であってマルクス、エンゲルスもまたそのひとりだったのです。エンゲルスは「ドイツ人は、彼らが国民の光栄としてその名前をかかげている彼らの偉大な哲学者たち」(同)を認めるのであれば「共産主義を採用せざるをえない」(同)と述べ、ドイツ人の抽象原理を愛好する性質は「この国における哲学的共産主義の成功を保証する」(同五三九ページ)といいきっています。

 

三、科学的社会主義は人間解放の学説

科学的社会主義はフランス革命の精神の真の継承・発展者

 このように、一九世紀前半ヨーロッパ中に社会主義思想が広がったのは、フランス革命の影響であり、その内容をなすものは挫折した「自由・平等・友愛」というフランス革命の理念の実現でした。
 ソ連や東欧を例に、社会主義を自由と民主主義の対極においてとらえる見解がありますが、それがどんなに誤っているか、この一事をみても明白です。
 「近代の社会主義は、……その理論上の形式からいえば、それは、はじめは、一八世紀のフランスの偉大な啓蒙思想家たちが立てた諸原理を受けついでさらに押しすすめ、見たところいっそう首尾一貫させたものとして現われる」(『空想から科学へ』全集⑲一八六ページ)。
 すなわち近代の社会主義思想は、フランスの啓蒙思想、とりわけルソーのかかげた自由、平等、民主主義をブルジョア民主主義の枠内の形式的自由、形式的平等、形式的民主主義から、真の自由、真の平等、真の民主主義に前進させるための思想として歴史上登場するに至ったものです。社会主義は、フランス革命の精神の真の継承・発展者であり、だからこそ九三年憲法をその旗印として高くかかげたのです。 
 科学的社会主義はこの近代民主主義思想の精神を引き継ぎ、徹底させるものとして誕生しました。真の自由、平等、民主主義を実現するには、フランス革命にみられるような単なる政治的解放にとどまるのではなくて、土台となる経済からの解放をも伴う人間解放でなければならないと考えたのです。

科学的社会主義は人間解放の学説

 若きマルクスは「ユダヤ人問題によせて」(一八四三年)のなかで、フランスのように政治的解放をなしとげた政治的国家の二重性を次のように描きだしています。
 「政治的国家が真に発達をとげたところでは、人間は、ただ思考や意識においてばかりでなく、現実において、生活において、天上と地上との二重の生活を営む。すなわち、一つは政治的共同体における生活であり、そのなかで人間は自分で自分を共同的存在だとおもっている。もう一つは市民社会における生活であって、そのなかでは人間は私人として活動し、他人を手段とみなし、自分自身をも手段にまで下落させて、ほかの勢力の玩弄物となっている」(全集①三九二ページ)。
 この「天上と地上との二重の生活」を解消するために、生産手段を社会化することによって搾取と階級を廃止し、そのことによって真の自由、真の平等、真の民主主義を実現しようとしたのです。この論文のまとめともいうべき部分で、マルクスは「社会的な力をもはや政治的な力の形で自分から切りはなさないときにはじめて、そのときにはじめて、人間的解放は完成されたことになる」(同四〇七ページ)と述べ、「二重の生活」を解消した社会的かつ政治的解放こそが「人間的解放」としての社会主義・共産主義であるととらえています。
 こうした思想的土台のうえに、一八四八年『共産党宣言』が発表されました。そこには「共産主義の特徴は、所有一般を廃止することではなくて、ブルジョア的所有を廃止すること」(全集④四八八ページ)が明確に示されています。なぜならブルジョア的な私的所有、つまり生産手段の私的所有こそ「一部の人間による他の人間の搾取」(同)の「もっとも完全な表現」(同)にほかならないからです。
 こうして「階級と階級対立のうえに立つ旧ブルジョア社会に代わって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つの協同社会(アソシエーション――高村)が現われる」(同四九六ページ)のであり、この真の自由と民主主義のアソシエーションこそ、人間解放の社会主義・共産主義の社会なのです。
 アソシエーションについては第七講で詳しく紹介しますが、ルソーが治者と被治者の同一性を実現する人民主権国家の意味で用いたのを、マルクスは社会主義・共産主義の社会を表象する概念として使用しているのです。