2010年7月24日 講義
第3講 日本における科学的社会主義の誕生
1.自由民権運動の継承発展としての社会主義運動
① 自由民権運動とは1874年以降立憲制の樹立と
自由・民主主義の実現をめざした政治運動として全国的に展開
● 没落士族を中心とする国会開設と憲法制定要求の運動として出発し、次第に中
貧層の運動に(福島事件、秩父事件など)
● 天皇制下の立憲君主制は、自由民権運動の弾圧と懐柔(自由党の抱き込み)の
なかで形成
② 「東洋のルソー」中江兆民(1847 ─1901)
● 自由民権運動の理論的指導者
・パリコミューン直後のフランスに留学、ルソーの研究
・1887「民約訳解」(ルソー『社会契約論』第1篇の部分訳)
・「自由民権論の盛んな時代には、皆が『民約論』を1冊ずつ、はだ身を離さ
なかったものだ」(堺利彦全集⑥ 227ページ)
● 中江兆民の一番弟子が社会主義者・幸徳秋水(1871〜1911)
・今年は「大逆事件」百年の年
―以後、日本共産党の成立まで社会主義運動は「冬の時代」に(石川啄木
は、この事件を契機に「社会主義思想の持ち主から、急激に革命家に」
転化) ―幸徳は冤罪
・レーニンの『帝国主義論』(1916)以前に『廿世紀の怪物 帝国主義』
(1901)を著し、「正義博愛」にもとづく「ブラザーフードの世界主義」
を主張
・1903『社会主義神髄』で明治社会主義の第一人者に
―当時のベストセラーに。中国語に訳されアジアの革命家たちに影響
・「日本に於けるルソーの思想的継承者は兆民先生である。兆民先生の思想的
継承者は幸徳秋水である。・・・彼は先生の思想を発展させて、社会主義に
まで到達させたのであった。しかしその発展は自然の道程であった」(同
229ページ)
―『空想から科学へ』の冒頭「理論上の形式から言えば、それは、はじめ
は、18世紀のフランスの偉大な啓蒙思想たちが立てた諸原則を受けつい
でさらに押しすすめ、見たところいっそう首尾一貫させたものとして現
われる」を引用
③ 「平民社」による社会主義運動の開始
●「日本の社会主義運動は平民社に始まると言うもあえて過言ではない」
(荒畑寒村、同181ページ)
・幸徳、堺によって誕生、「平民社」は社会主義の一大運動の中心に
・二人とも自由民権運動を通じて社会主義者へ
・「フランス革命の結果が、その真の目的にそわなんだ次第と、したがって社
会主義の起こりきたった理由とが、初めてよくのみ込めた。(だから)予の
社会主義は、その根底においてヤハリ自由民権説」(同192ページ)
●「平民社」設立(1903. 11)─「自由、平等、博愛」を宣言
・週刊「平民新聞」を創刊―8000部発行。当時としては破格の売れ行れゆき
・日露戦争(1904. 2)に反対し、ロシア社会党に共同闘争を呼びかける
・日本初の『共産党宣言』(幸徳、堺訳)を掲載
④ 講座派により日本の社会主義運動を自由民権運動の継承・発展として
位置づける
● 講座派―『日本資本主義発達史講座』全7冊(1932. 5~1933. 8)の執筆者を
中心とする理論集団
・党の指導の下に生まれた日本における自主的な日本資本主義の分析、労働運
動、民主運動の研究組織─野呂栄太郎(党の指導的幹部)をリーダーに、平
野義太郎、大塚金之介、山田盛太郎の4人の編集委員(羽仁五郎は匿名の編
集委員)
・野呂栄太郎―『日本資本主義発達史』(1930)により、日本資本主義の自
主的研究の出発点をつくる
・日本資本主義における絶対主義的天皇制と寄生地主制の地位と役割の解明
―治安維持法の弾圧体制下に完全予約制で1万部印刷。日本の社会主義運動
の理論的基礎をつくる
・天皇制、寄生地主とたたかう民主主義革命を強調し、社会主義革命をかかげ
る「労農派」と対決
・27年テーゼ、32年テーゼ(戦前の日本共産党綱領)を学問的に支持
● 平野義太郎「ブルジョア民主主義運動史」において、自由民権運動の先進部分
が社会主義に発展した道程を明らかに
・『日本資本主義社会の機構』に収録され、講座派の著作のベストセラーに
(山田盛太郎『日本資本主義分析』とともに)
・天皇制権力は、自由民権の史実そのものを抹殺しようとした(1932年頃ま
で植木枝盛の「日本国国憲案」も作者不明とされていた)
・平野は、その運動を発掘(特に大井憲太郎)し、自由民権運動と社会主義運
動との関係を明らかにした(大井は中江と協力して自由民権運動を勤労大衆
のものに)
・「大井は自由民権から人民の民主主義あるいは社会主義への橋わたし、ない
しは、それの志向を示した人であり、さらにこれを引き継ぎ発掘させていく
のが片山潜である」(平野『自由民権運動とその発展』11ページ 新日本
出版社)
2.日本共産党創立当時の国際的社会主義運動
① ロシア革命(1917.11)のもたらしたもの
● 労働者・兵士・農民ソビエトが国家権力を握り、世界最初の社会主義を目指す
国家となる
・ソビエト ―工場のストライキ委員会が発展した労働者の大衆的政治組織
・生産単位(労働者ソビエト)や兵営(兵士ソビエト)ごとに選出された代議
員が市・村ソビエトを構成し、その代表がピラミッド型に地方ソビエト大
会、全ロシア・ソビエト大会を構成
● ブルジョア民主主義の枠を打破する自由と民主主義の発展を示し、本来の社会
主義の優位性を示す―真のヒューマニズムとしての社会主義
・「平和についての布告」で、無併合・無賠償の平和宣言(帝国主義戦争の違
法性を間接的に批判)
・「土地にかんする布告」で、すべての土地の社会化宣言
・「八時間労働日について」の布告で世界最初の8時間労働制
・「社会保険に関する通達」で世界最初の社会保障制度
・「ロシア諸民族の権利宣言」で世界最初の民族自決権
・「民族婚、子ならびに戸籍登録について」で結婚の自由と夫婦平等財産の実
現
● 1917. 7 「労働し搾取されている人民の権利の宣言」を含むソ連憲法採択
・世界最初の社会主義憲法
・「人間の人間によるあらゆる搾取の廃止。階級への社会の分裂の完全な廃
絶」
・ソ連共産党の指導的役割にかんする規定なし(1936 スターリン憲法で規
定)
● ロシア革命は世界中を震撼させ、それを機に民族の独立、各国での共産党の創
立などもあり、自由と民主主義を前進させる
・1919. 8 ワイマール憲法(1918.11 ドイツ革命の成果)
―個人の自由・平等の保障においても、「すべての者に人間たるに値する生
活を保障する」社会権の保障においても画期的な意義
―1933. 1 ヒトラーの権力獲得で失効
・1919. 10 ILO創立(政・労・使の三名構成)
―ロシア革命の影響を受けて労働者の生活と権利保障の国際的機関として誕
生
・国連憲章に国際紛争の平和的解決の原則が規定され、国際人権規約のA規約
に社会権が規定され、B規約に民族自決権が明記される
② コミンテルンの結成(1919. 3)
●コミンテルン(共産主義インターナショナル、第3インターナショナル)
・国際労働者協会(第1インターナショナル)(1864~1876)
―マルクス指導のもとに創設された世界最初の労働者の国際的革命組織
・第2インターナショナル
―1889 エンゲルスの指導のもとにフランス革命100年を記念して設立
・コミンテルン(1919~1943)
―第1次世界大戦(帝国主義戦争)に賛成した第2インターナショナルの社
民政党とわかれて、レーニンの指導のもとに科学的社会主義を指導理論と
し、民主集中制にもとづく世界の共産主義運動の統一的組織として結成さ
れる
・各国共産党はコミンテルン世界大会で選出された執行委員会のもとで、コミ
ンテルンの支部として活動
●「プロレタリアート執権」は科学的社会主義にとって最重要カテゴリー
・マルクス、エンゲルスは資本主義から社会主義へ移行するには、労働者階級
の政治支配が必要であるとして、それを「プロレタリアート執権」とよんだ
―「プロレタリアート独裁」と邦訳
・日本共産党はレーニン流「執権論」から脱却するため、1976年それまでの
綱領にあった「プロレタリアート執権」は「労働者階級の権力」と同義であ
るとして、それに置き換えた
・マルクスからヴァイデマイアーへの手紙(1852. 3. 5)
「僕が新たにおこなったことは、・・・(2)階級闘争は自然的にプロレ
タリアート執権に導くということ。(3)この執権そのものは、一切の階級
の廃止への、階級のない社会への過渡期をなすにすぎない、ということを解
明したこと」(全集㉘ 407ページ)
・別の機会に詳述する
● レーニンによる「プロレタリアート執権」の歪曲
・「プロレタリアート執権とはソビエト制度」であると一面的に固定化
・ブルジョア民主主義(集会の自由、出版の自由)や議会制度を欺瞞として否
定し、ソビエト制度を対置する
・コミンテルンは、第1回大会で「プロレタリアートの執権かブルジョア民主
主義か」の二者択一をよびかける
・民主共和制、普通選挙制、議会をつうじての多数者革命を否定
・「およそ『人民の総意』(ルソーの「 一般意志」―高村)という擬制は、プ
ロレタリアートにとって直接に有害である。議会的な権力分立は、プロレタ
リアートには不必要である。プロレタリア執権の形態はソビエト共和制であ
る」(「コミンテルン資料集」③ 224ページ)―人民主権の否定
・立花隆『日本共産党の研究』(1976)
―「暴力革命とプロレタリア独裁と民主集中制の組織とは三位一体」と反共
宣伝の材料に
・別の機会に詳述する
● コミンテルン第2回大会(1920. 7)で、レーニン流「プロレタリアート執権」
の承認がコミンテルンの加入条件に
3.日本共産党の創立
① コミンテルンの日本への働きかけ
● コミンテルンによる日本への働きかけ(犬丸義一『日本共産党の創立』、『日
本共産党の70年』より)
・コミンテルン第2回大会のあと、コミンテルンから日本の社会主義者への働
きかけ
・日本でもロシア革命とコミンテルンへの関心が高まる
・1921. 4 「日本共産党準備委員会」結成(委員長 堺)
● 1922. 1 コミンテルンのよびかけで「極東諸民族大会」(同142ページ)
・片山、徳田、高瀬が日本代表として参加
・日本分科会にブハーリンから日本革命の綱領的文書(22年テーゼ)が提出
され、日本共産党を結成しコミンテルンに加盟するように呼びかけられる
② 日本共産党の創立
● 1922. 7. 15 日本共産党創立
・委員長 堺。荒畑、山川らが執行部に
・コミンテルンの規約、21ヶ条の加入条件、プロレタリアート執権の指導原
理を承認。コミンテルンへの加盟と日本支部(日本共産党)の結成を決議
・コミンテルン第4回大会(1922.10)で正式に日本支部として承認
● 1923. 3 石神井での臨時党大会で「綱領草案」(22年テーゼ)の審議
・「当面の要求」として君主制の廃止をはじめ、18歳以上の男女普通選挙
権、団結の自由、出版・集会の自由などの民主主義的要求─特に「君主制
の廃止」は、これまでの明治社会主義運動の枠を超えるもの
・しかしコミンテルンにおけるレーニン流の「プロ執権論」が、色濃く反映
しており、ブルジョア民主主義を軽視
・「日本共産党は、ブルジョア民主主義の敵であるにもかかわらず、過渡的ス
ローガンとして、天皇の政府の転覆と君主制の廃止というスローガンを採用
し、また普通選挙権の実施を要求してたたかわなければならない。党がそう
しなければならないのは、・・・日本プロレタリアートのソビエト権力をめ
ざす将来の闘争への道をきりひらくため」(「日本共産党綱領問題文献集」
29ページ)
・「民主主義的スローガンは日本共産党にとっては、天皇の政府とたたかうた
めの一時的な手段にすぎないのであって、この闘争の過程で当面直接の任務
―現在の政治体制の廃止―が達成されるやいなや、無条件に放棄されるべき
ものである」(同30ページ)
→「当面の要求」のみ確認し(しかし弾圧をおそれて「君主制の廃止」は公
表されず)、「綱領草案」は継続審議に
● 1923. 6 第1次弾圧と解党主義
・党指導部と有力党員80人検挙、29人起訴(治安警察法)
・さらに関東大震災の混乱に乗じて大弾圧(1923. 9)
・赤松克麿、山川均らは党の結成は誤りだったと主張
・1924.2 ―党大会も開かず、一方的に解党決定
・コミンテルンと片山潜、解党に反対
● 1925 普選法と抱き合わせで治安維持法制定
―天皇制廃止目的を最も重く処罰(1928 改悪)
・天皇制廃止(「国体の変革」)を目的とするものは死刑または無期もしくは
7年以上の懲役
・社会主義(私有財産制度の否認)を目的とするものは10年以上の懲役又は
禁固
・戦前の党弾圧の武器として猛威をふるう
● 1926. 12 第3回党大会(山形県五色温泉)で再建(委員長 佐野文夫)
・1925. 1 党再建の方針決定。山川、堺賛成せず
・渡辺政之輔を中心に再建準備
● 1927. 5 「27年テーゼ」
・正式採択の最初の綱領的文書─渡辺政之輔らとコミンテルンの協議により作
成
・「君主制の廃止」をはじめて公然とかかげる
・天皇制と封建的地主制を打倒する民主主義革命から社会主義革命への二段階
革命を展望する基本的に正しいもの
・コミンテルンの社会民主主義批判の影響で「社会民主主義にたいする闘争」
を強調したり、日本の労働者階級や農民は「なんら革命的伝統や闘争の経験
を有しない」として自由民権運動を評価しないなどの欠陥を持つ
● 民主主義革命をめぐる「労農派」との論争
・堺、山川、荒畑らは1927. 12 雑誌「労農」を発刊して「労農派」を結成し
反党活動
・絶対主義的天皇制とのたたかいを避けて、ブルジョアジーとの闘争だけを問
題とする「社会主義革命論」をかかげて「27年テーゼ」を批判
・1928. 2 日本共産党、山川らを除名
・日本共産党を支持する「講座派」は、天皇制廃止、封建的土地制度の解体に
よる民主主義革命から社会主義革命への発展・転化をとなえて、「労農派」
と論争
● 1928. 3. 15(3. 15大弾圧)、1929. 4. 16(4. 16弾圧)で党の幹部ほとんど
逮捕
● 1931. 4「政治テーゼ」(「日本共産党の70年」より)
・コミンテルンの覇権主義的介入―これまでの二段階革命論をあらため社会主
義革命一本とし、天皇制廃止の民主主義革命を回避しようとして「政治テー
ゼ草案」を持ち込み、コミンテルンの承認した「事実上の決定として発表」
される
・天皇制と封建的土地所有をめぐって「労農派」と対決してきた党員の内に混
乱
・野呂「私はこれに賛成できない」「これはコミンテルンで正式に決定された
ものだとは思えない」(蔵原『文化評論』1964. 3)
・「労農派」との論争をつうじて民主主義革命への確信を深めてきた野呂が反
対し、獄中の市川も反対することで、「政治テーゼ」を押し返す
・コミンテルンの絶大な影響力のもとで自主独立の立場から、自由民権運動の
発展として自らの社会主義運動をとらえ、民主主義革命から社会主義革命へ
の展望に確信を持って「政治テーゼ」をはね返した事実は高く評価されてよ
い
・コミンテルンも、1932. 11 「日本共産党中央委員会ないしはまた党全体に
その責任を問うことはできない」と消極的自己批判して、「32年テーゼ」
へと向かう
● 1932. 5「32年テーゼ」
・1931~1932にかけコミンテルンでは片山、野坂、山本の党代表参加で日本
問題の深い検討
・「32年テーゼ」は、「政治テーゼ」の誤りをただし、「27年テーゼ」を発
展させた画期的なテーゼとなる
・「講座派」の研究は、32年テーゼの提起した問題をあとづけ、日本社会の
具体的、科学的分析にもとづく、自主独立の立場、唯物論の立場に立ち、
「真理の前にのみ頭を垂れる」礎をきずづく
・「32年テーゼ」は、日本の支配体制を絶対主義的天皇制、地主的土地所有、
独占資本主義の3つの要素の結合と特徴づけ、天皇制の打倒に日本革命の
「第一の任務」(『日本共産党の80年』)があるとして、当面の革命を民
主主義革命として位置づける
・「32年テーゼ」は日本の人民の手で獲得したもの
● 1934 コミンテルン第7回大会で、はじめてプロ執権=社会主義革命からの
部分的転換
・われわれは……プロレタリア執権ではなく、社会主義ではなく」(『コミン
テルンの歴史』㊦ 60ページ)、ファシズム的、一般民主主義的な闘争綱領
をもたねばならない
・32年テーゼの正当な評価につながるもの
・しかしレーニン流「執権論」と社会主義革命論は第二次大戦後も根本的には
変わらず
●まとめ
・コミンテルンが「22年テーゼ」で示した「天皇制の廃止」を「一時的な手
段」とするところから、「32年テーゼ」の「第一の任務」とするところま
での間には天地の開きがある
・それを可能にしたのがレーニン流「プロレタリア執権論」の立場から「ブル
ジョア民主主義」を軽視ないし否定するコミンテルンに対し、日本の「科学
的社会主義」の政党が、社会主義を自由と民主主義の完全な発展にあるとし
て位置づけたところにあり、それをもたらしたものが、自主独立と唯物論の
立場
・この日本共産党の「真理の前にのみ頭を垂れる」態度が、戦後の「日本共
産党憲法草案」(1946)や、民主主義革命をつうじて社会主義革命という
二段階革命論を持つ61年綱領制定時の自主独立の立場に継承発展させられ
ることになる─別の機会に
・これに対し、ヨーロッパの共産党は、コミンテルンやコミンフォルム
(1947~1956)、さらにはソ連共産党の見解に追随し、「ブルジョア民主
主義」を軽視すると同時に民主主義革命の意義を正当に評価せず、発達した
資本主義のもとでの革命は社会主義革命のみとする硬直な態度により、ソ連
の崩壊とともに実質的に瓦壞するところとなった
―別の機会に詳述
|